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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

君という楽器は鳴っているだろうか?

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人生が一つのバイオリンだとしたら

その弦は確かに鳴っているだろうか

悲鳴や罵詈や愚痴によって

キイキイと汚い音を立ててはいないだろうか?

人生が一つのピアノだとしたら

それは精確なタッチによって弾かれているだろうか?

それはきちんと一つ一つの音色に意味が込められて

そうして美しい音楽として成立しているだろうか?

もし、君が一つのフルートだったら

それは天に向って吹かれているだろうか?

君はそれを地に向かって吹いていないだろうか?

その音色は自分の濁った感情で汚れていないだろうか?

もし、君が一つの楽器だったら

もし、君の人生が一つの音色だったら、それは他者と共に

一つのハーモニーを奏でる事ができるだろうか?

この雑音だらけの世界で

君は一つの音楽足りえるだろうか?



(・・・君だけが君を鳴らす事ができるのだ)

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音楽の天才




音楽理論に則っても

音楽教室に幼児から通いつめても

音楽の天才が生まれるとは決まっていない

何故なら、天才とは常に

理論を越えるものだからだ

優等生のその先に天才があるのではない

天才はむしろ、愚者に非常によく似ている

凡人と優等生がやすやすと認める事を

彼は頑固にも認めようとしない

だから、人はこの天才を嘲笑う

「どうして、こんな事もわからないのだ」と

だが、彼はそれがわからないのではない

彼は今、それを越えようとして

苦しんでいるのだ


手と詩人の関係

 


ピアニストは

彼の手に憑かれて、自分を見失う

彼らの感情は彼らの手に宿り、そして

「音」として世界に放出される

詩人もまた同じ事だ

詩人は自分の手が勝手に動くのを感じる

彼はもはや、感じようとする事を書くのではない

凡百の詩人はみな、感じなければならないと思う事を書くのだと

昔のとある天才詩人は言った

僕らの手が僕らを越えて

ペンが世界の奥へと進む時

その時、僕らの分析的な脳髄とは一体、何か

・・・手が全てを知っているなら

頭はそれに追いつくためにあるのだ

バットを振り続けた一人のバッターが

遂に自分の意識せぬホームランを生むように

D猫殿下さんについて

 鍵盤系の動画を探している内に、「D猫殿下」という人に辿り着いた。ニコニコでは有名らしい。演奏を聴くと、確かに素晴らしい。だが、素晴らしいのはただ演奏が上手いからではない。演奏が、技術が自分の感情表現になっている所が素晴らしい。現在、音楽や芸術が表現だという事を知っている人はごく少数に限られる。大抵の人間は趣味と理解するか、「やっぱプロはすげー」という安易な考え方、また巧拙を問うだけの問題になっている。

 上手いか下手か、という事ばかりが常に問題になるのは、頭脳や理性全盛の時代だからだろう。だが、その分析はここでは行わない。僕はまた別の事を言おう。

 音楽に関しては素人なので、当てずっぽう言ってみる。D猫殿下さんはピアノの強弱を思い切り付けている。あるいはリズムの遅速の幅も、他の人より広いのではないかと思う。これは技術として行っているのではなく、彼女(女性?)の感情表現が他の人よりも深いからだ。そして、それはこの演奏者の人間性とも関係がある。このD猫さんの演奏を聴いて、始めて僕はピアニストも詩人であるのだという事を思い知った。詩人が詩を書く時、彼は彼を見ていない。彼は、自分の感情を見つめる存在だ。D猫さんにとって、鍵盤は詩人における言葉に当たる。彼女が音符を並べる時に、彼女の感情がそこに現れる。ピアノの演奏動画とか、オリジナル曲動画やヒットしている初音ミクの動画などを最近、ちょこちょこ見てきたが、その中で、自分の中でピンと来るものはなかった。それぞれがそれぞれの枠にはまっているように感じたからだ。大体、ピアノ動画は、自分の技術を他人に見せつけようとする人がほとんどだ。それを視聴者が褒めるから、投稿者も良い気分になる。だが、そこにはそれほど大切な問題はない。現代というのはとにかくそういう時代で、脳髄皮質に色々な感覚を送ってやろうと「システム」の方で常に身構えているような時代だ。誰もが、一時的な気晴らしを求めている。D猫さんに関してはそれとは違う。彼女はアーティストとして優れていると、僕は思う。(どうして組曲ニコニコ動画を演奏しなければならないのかはよくわからないが。)だが、それゆえにおそらく彼女は孤独であろう、とも僕は思う。そしてこの場合、この孤独は優れた(本物の)アーティストに与えられる称号のようなものにあたっている。

私と他人




旋律が響き渡る時

時の鼓動が聞こえる

時間はいつも音もなく過ぎ去るが

それは「音」として現れざるを得ない

私には見えない無数の事が

私を取り巻いていつも私を

忘却の淵に立たせる

私がどんなに醜いか、私がどんなに美しいかを

ただ、私一人だけが知っているというのなら

他人とは一体、何なのか

それはもう一人の「私」なのだろうか

気付かなかった事

生きる事と死ぬ事の間に広がる世界

そんな世界で僕は今日も

言葉という肉体を抱いて生きている

現実においての僕は死ーーーそして、あの世の僕もやはり死ーーー

生という名の死と死という名の死と、

二つの死の間に挟まれて身動き取れず

ふだんの僕はいつも窒息死している

想像する事は常に体験より素晴らしいーーー

それはもちろんだ 結局、人間に備わった唯一の器官は

夢見る事しかないのだから

僕は君たちが造り上げたこの現実という

最低の出来の夢に手を振って別れを告げる

・・・フッ、シェイクスピアだってもう少し上手く夢を見たさ

あれから何百年も経って、僕達の見る夢はいまだに拙劣だ

映画館に行きたまえテレビをつけたまえネットの放送を見たまえ

そこにどんな拙劣な夢があるのか

そして、君のーーーいや、僕達の人生こそは

この世での最も愚鈍な夢だ

生きる事を礼賛するのをやめる時

僕達は静かに棺に横たわって夢を見る死者の群れのように

その時、始めて流星の美しさが分かる事なる

もうとうに世界は終わっていたのだ 問題はただ

僕達がそれに気付かなかっただけなのだ、という事を

神と暴虐者

神と人間との間に

かつて、どんな盟約があったのだろうか?

アカデミックなものの影に隠れていれば

全ての暴虐は正当性を持つと

人神達はこぞって結論した

昔、神に拝跪した人間達は

本物の謙譲を知っていたのだろうか?

神の似像を作り上げ、そして自身はその祭祀者となり

あらゆる暴虐を振るった専制者達を除いては

華やかな世界の中での、手作業としての芸術

 例えば、芸術家が政治家になるという事は、稀に見られる現象だが、政治家が芸術家になったという例はあまり聞かない。
 芸術家が芸術を捨てるーーー例えば、若い頃にヒット作を持った人間が後年、急に人類への説教者になり、講演回りをしたり、「日本人を叱咤」する本を出したり、また参議院議員になったり、という事もよくある。
 例えば声優ーーー今、盛り上がっいる声優なども、イベントに出たりラジオに出たり、CDを出したりする中で、声優業としての本業が背後に隠れてしまう声優も最近は結構いる。それはもちろん、決して悪い事ではないが、しかし、むしろ、そうした事を最初からメインに考えてスタートを切る人なんかも、結構多いような気がする。
 芸術というのは、多分、本当は実に馬鹿馬鹿しい事だと、僕などは思う。そういう意味では、浅はかな芸術批判者は正しいーーー。だが、その浅はかな芸術批判者が忘れていることが一つある。それは、人生というものが芸術以上に馬鹿馬鹿しいものだという事だ。快楽の内にも、勤勉の内にも時は過ぎ、いつの間にか自分は老い、死が近づく。遊び呆けていても、会社で真面目に働いても、一体、自分の人生は何だったんだろう?という感慨からはおそらく誰も逃れられないだろう。そしてその時に、はじめて、芸術なるものが意味を持つ。芸術は高尚なものではない。それは低俗なものかもしれないが、しかし少なくとも、人生よりはマシであるーーーと言えるようになった時、始めて芸術の価値が見えてくる。ひいては、人間の創造する様々な分野の意味が見えてくる。例えば、スポーツ選手がボールを蹴ったり投げたりする事は心底馬鹿馬鹿しいことではないか・・・。実際、それは馬鹿馬鹿しい事である。が、人間というものはそのようなものである。ボールを蹴ったり、投げたりする事の内に、次第に人間以上のものが見えてくる。そうでなければ、スポーツに意味はないのではないか。
 人生というのは、元々、ごくつまらない、味気ないものであるように僕には見える。そうであるからこそ、古代人は「神」を発明した。神は我々のつまらぬ人生を美しく輝かせる一筋の光だったのかもしれない。良い意味では。しかし、現代、それは消えた。人は代わりに「生」を捏造した。ニーチェ以来、人間の人生は最も賛美されるもののとなった。そこで生は聖化された。祝聖されたのだ。そして、それにより、生からの失墜による絶望は過去よりも更に増した。人はメディアを通じて生に様々な価値と意味を付与する事に馴れたため、かえってそれからの失墜を心深くまで味わうことになった。こうして今、世界には怒りと憎しみが溢れるようになった。
 人生というものに意味も価値もないーーーでは、何に価値があるのか。あるいはそんなものはないのか。かつての天才パスカルは一人で絶望の果てまで行った。彼は最後にキリストを掴んだが、彼は自殺しなかった。そしてそれに非常によく似たニーチェは、自身の狂気を得るに至った。彼は最初からキリストと対立していたので、今更、彼に助けを求める事はできなかったのだろう。人は、絶望の故に自殺したなどと、自殺の原因をあげてみせるが、真に深い絶望は自殺を越えてしまう。彼はもはや現世で生きてはいないが、あの世すらも拒否しているために、彼らの脳髄のみが一つの小宇宙だ。だとしたら、彼らの脳内の小宇宙が今や、卑小な我々の星座を照らす事はあるのか。現実にもがく我々に、現実を廃棄する事によって、精神の飛翔を得た彼らの天空が、我々の目に快く映る日がいつか来るのか。
 ・・・問題は厄介である。こうした頭脳の天才共というのは、彼らの勝利も敗北も同時に存在し、また同時に価値を持つため、我々には非常にわかりにくいものとなっている。例えば、マキアヴェリは政治的に失敗する事を契機に、後世に残る「君主論」を書いた。では、このマキアヴェリは失敗したのか、成功したのか。・・・自分が、挫折した故に、何かをできなかったと考える人間の言い訳はもちろん、いつも嘘である。天才は失敗から始める。彼らの挫折は誰よりも大きいからこそ、その返す刀の成功もまた大きい。では、この人間は失敗した人間か、それとも成功した人間なのか。
 いろいろと余計な事を言ったが、言いたかったのはそういう事ではない。・・・問題は、芸術などより、現実のほうが価値が有るのかどうか、という事だ。例えば、僕が小説を書くなりなんなりして、金持ちになり、また有名人になったとしよう。すると僕には当然、様々の誘惑・・・金とか女とかいろいろな遊びとかが、振りかかる事になる。僕は別に禁欲主義者でないので、そういうのを全部拒否すべきだとは思わないし、それに自分の努力の成果でそういうものがやってきたのだから、そういうものと少しぐらい戯れ遊んでも間違っているとは全く思わない。しかし、問題はそれと、自分の芸術というものと、「取り替えるのか否か」という事である。
 ここで、芸術などが所詮くだらないものだという考えがまた頭に昇ってくる。小説などというものは所詮紙の上の産物で、自分は今、いろいろな遊びの機会やらに恵まれ、自由に遊びほうけられるではないか・・・。フィクションより、現実が大切だ・・・。そう考えて僕が芸術作品を捨て去るという事は常に十分に考えられる。しかし、芸術と取り替えられそうなものは、こうした遊びの誘惑だけではない。例えば、それは政治的な論議や、「国民の啓蒙」やら、なんらかの政治的活動などの生真面目なものも含んでいる。年老いた作家が、苦労して自分の小説を書くのは難儀である。しかも、常にゲーテのように、あるいは晩年の漱石のように、いつも新たなものを目指して自分の道を進むとは何という苦労だろうか。彼らが自分に強いた困難と疲労はなんという巨大なものだろうか。だが、それに比べれば、過去の自分の遺産を頼りに、イデオロギー的な活動をする事がはるかに楽である。またそれは楽であるし、自分が何か大きな事をしているという錯覚を起こさせる。市民運動的なものは大抵そうだ。地味な手作業、コツコツとした道を軽視して、人は華やかな世界に飛び込む。しかし、真の勝利者は、一種の愚か者達である。夏目漱石という一人の男が、大学教授の道を放棄して新聞社に入ったという事は、当時の目から見れば、何と愚かな事だっただろうか。今そういう事があれば、ネット民達はこぞって彼を馬鹿にしただろう。「あいつはバカだ、もったない事をしやがって。」では、夏目漱石は真正のバカだったのか。
 しかし、これ以上この問題について言う事はやめておこう。どの時代においても、フィクションと現実との闘争は起こる。そして、その議論は常に起こる。そして、作品そのものの価値より、その作品の解釈の方が満足気にしているという事も、実によくにある。例え、シェイクスピアが僕らに気さくに話しかけてくれたとしても、シェイクスピア研究者はそれをよしと思わず、彼らはシェイクスピアを聖堂に安置しようとするだろう。・・・例え、シェイクスピアを殺してでも。時代というのは常にそのように巡ってきたし、これから先も巡り続けるだろう。解釈者達はいつも自分達が何一つせず、そして、「門の入り口にいて誰をも門の中に入れないように」しようとするだろう。だが、本物の芸術家ーーー手作業の地味な努力家達がスタートを切るのはここからである。この門に入る事を、我々はもう諦めようではないか。門から締め出され、そして路傍をうろつく事・・・。それこそ何もない事、虚無と挫折を有する事が全ての創造の始まりである。神はおそらく原初に手ぶらであったのだろう。おそらく、神は原初には、退屈してうんざりして自殺したいぐらいに心底自分に絶望しきっていたのだろう。だからこそ、彼は世界を創造したのだろう。芸術家が常に忘れてはならないのは自分達のしている事のバカバカしさとくだらなさである。だがしかし、それと共に忘れてはならないのはそれと同じぐらいかそれ以下の現実のバカバカしさである。才能とはなにか。それは、絶望の深度か。だとすれば、天才とは誰よりも辛い経験をしてきた人間なのかーーー。いくら、世界が華やかに回ろうとも、何かを変えるのは常に手作業の人間である。地味な道の積み重ねの果てに、ようやく神が見える。多くの人は近道を通ろうとして道を誤るだろう。そして、彼らの言い訳は彼ら自身にはいつも正しい論理であり続けるだろう。だが、それだけの事だ。物を作るとは根本的に農作業のようなものだ。どんな華やかに見える職業でも「本当の意味で」一流の人間には必ず、地味な手作業としての一面があるものだ。

芸術家とアンチについて


 


 あるものを好きとか嫌いとか、彼は上手いとか下手とか、誰も彼も色々な事は言う。「○○は上手い。上手いが、うますぎるのが欠点だ。××は下手だ。だが、そこがいい。」しかし、この人間にただ下手くそなだけのアーティストの作品を見せても、おそらく落胆するに違いない。
 ヘタウマという言葉もあるし、下手とか上手いという事は元々、曖昧な事だ。それに、好きや嫌いというのももちろん、曖昧である。好きな人間が嫌いになり、嫌いな人間を好きになる。こうした変化は日常的に起こっているが、では、その経験は自身に、自分の判断の曖昧さを教えないのか。ーーーもちろん、そうだ。人は、自分の今の感情を勝手に永遠と取り違えるという錯覚を抱いて生きている。だから何も学ばない人間はいつも、自分が王のように振る舞いながらも、自分の中の偶然性と世界の偶然性とにたぶらかされて生きているにすぎない。
 ある作品が好き、嫌い、上手い、下手ーーーでは、僕が夏目漱石を「嫌い」と言えば、漱石は否定できるのか。もし、万人が、あるいはこの国の人間が皆公然と「漱石嫌い」「漱石アンチ」を発動させれば、漱石というのはただのなんともない、暗い男にもどるのだろうか。
 こういう問題は簡単なように見えて、根深いように思える。かつての(そして今の)共産主義などにおける党派性においては、党派性の外側のものは否定されてきた。それがどんなに優れている、とされてきたとしても。例えば、ドストエフスキーの「悪霊」である。あれは社会主義批判として、当時のソ連では発禁になっていたらしい。では、ドストエフスキーの「悪霊」には、その当時のソ連の人々にとって、何の価値もないものだったのか。それは、どうだろうか。
 はっきり言える事は一つある。この問題においてーーー例えば、もしこの国全体が「漱石アンチ」を発動させたとしたら、それまで漱石が好きだった人の内のかなりの割合の人間が、漱石批判を始めるという事だ。人間の好悪や判断というのは、普通以上に周りに流されて動いている。これは厄介な問題だが、仕方ない。ではそうなったとしても、漱石やドストエフスキーに価値はあるのか。彼らも結局は、よく考えれば、一時の流行りにすぎないのではないかーーー。
 こういう問題についての答えは容易ではないが、僕が考える答えは次のようなものだ。ドストエフスキーの「悪霊」は社会主義を批判した。それらの、理性に全能を置く世界の欠点を、その醜さを暴露した。しかし、世界はまさにそのような方向に進んだ。その結果、世界は「悪霊」を廃した。これは所詮、個人が描いた小さな文学作品にすぎない。だから、否定するのは簡単だ。大切なのは、人民、そして同志諸君ーーー。そして世界はどうなったか。転覆したのは、「悪霊」ではなく、世界の方ではなかったのか。世界の、ソ連という国が辿った経緯、そしてそこに現れた無数の屍と、スターリンという怪物・・・・それらは皆、「悪霊」という小説の道筋を忠実に辿ったのではなかったのか。否定したのはどちらか、否定されたのはどちらなのか。作家はあの世で、真理を身にまとい、高笑いしているのかもしれない。現世での幸福を忠実に追った人々と世界は、現世そのものに苛烈な復讐を受けた。そして、この世界の生を捨て、作品の世界に生きた人間は、「あちら」の世界で勝利の凱歌を上げたのではないか。では、勝利とは何か。敗北とは何か。
 こういう考えは、形而上的、あるいはキリスト教的なものかもしれない。しかし、もしこういうふうに考えないとすると、どうなるか。現代のような「パンとサーカス」の時代。それは一体、何か。毎日、うまいものをたらふく食う事が、真の幸福だと信じている人間がいるとする。しかしこの人間はやがて糖尿病にかかるだろう。だとしても、彼は笑っていられるのか。
 しかし、このような考えは余りにも精神的すぎるかもしれない。それは僕が反省しなければならない点だろう。現実というのは大切だ、何より。だが、その「何より」に裏切られる体験を、人は必ずする。それに裏切られた経験のないものは、ただそれに気付いてないだけの事で、これが一番惨めな事だろう。惨めさとはパスカルの言うように、自身の惨めに気付いてない事だ。今更、動物に帰りたいと僕達は思うだろうか。幸福な動物にーーー。しかし、人がこの世界で神を目指すと、なんという悲劇が訪れるだろうか。人間とは一体、何かーーー。
 しかし、僕は余りにも形而上的な問題に首を突っ込みすぎたようだ。だが、結局の所ーーー芸術家は世界を描かなくてはならない。そしてその世界とは、狭い視野の、美学的範疇ではなく、生きた世界のそれである。自分のアンチ、自分の否定者に反論する事も時には必要だろう。火の粉は振り払われ無くてはならない。だが、自分の否定者に対する最大の否定は何か。それは、この人間そのものを完璧に描く事にある。この人間の精神を、出自を、その表情を、そしてその喜びの絶頂と、その破滅を全て描かなければならない。これ以上の美しい復讐があるだろうか。ーーー先日、2ch利用者の一部のメールアドレスと名前が流出したという事件があった。そしてその過程で、ある作家が匿名で、自作品の擁護と、同業者の批判をしている事がばれてしまった。こうした事をして、否定しているのは実は自分の作品そのものである。フィクションの世界を、現実の世界から押し支えようとするのは、脆く壊れやすいもので塔を作ろうとするかのようだ。フィクションの世界とは、それほどに甘いものではない。人々が支持しなければ存在できぬ態のものではない。だからこの作家は元から、作品というものに対する考えが誤っていたように思われる。重要なのは、人々に認められる作品を書く事ではない。人々がいずれ、認めざるを得ないような作品を作る事だ。すれば、人は誤ちの道から始まって、そして次第に自然に導かれ真理に近づく内、この作品を認めざるを得なくなるだろう。この時、この作品に対するかつてのアンチは完全に消え去る。しかし、時代の必然に従って、新たなアンチが生まれる。ーーーしかし、それと同時に、肯定的なもの、新たなものを生み出す為の活力も同時に生まれる。自然というのは常に、そのように否定と肯定を同時に生み出すことによって世界を創造する。しかし、それは芸術家もまたそうなのだ。彼はまた新たに、否定者達を自分の「イエス」の内に組み込まなくてはならないだろう。

技術の高い人間と天才の違いについて


 芸術というものが本当の意味で、後世に残るようなものになる為には、その人間の技術と、その人間の無意識とが、直につながらなくてはならない。それは例えば、ジミーペイジのギターが、ジミーペイジの無意識と、あるいはその肉体と完全に融合するという事だ。ジミーのギターは、ジミーの肉声である。そして、普通のボーカリストの歌声は、大体の場合、その人の無意識や混沌とはつながってはいない。うまかろうと、下手だろうと、それは同じ事だ。
 例えば、水樹奈々やTMレボリューションみたいな、非常に歌のうまい人達がいる。彼らは普通では考えられないほどのトレーニングをして、それぞれの歌声を磨きあげた人達だと思うし、その歌声を聞いていると、非常に心地よい。しかし、その歌声に感動する部分は言ってみれば、首から上の部分に限られる。頭で聴き、耳で聴き、気持ちいいと感じる。しかし腹にこたえるーーーこんな言い方は変かもしれないがーーーものではない。僕は、神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」をはじめて聞いた時、腹の辺りを思い切りぶん殴られたような感覚を味わった。・・・頭の方では、「こいつは下手くそだな」と否定しているにもかかわらず。
 こういう違いが出てくるのは何故か。ここにはおそらく、人間にまつわる、非常に根深いものが隠されているように思う。つまり、芸術に、自分の人生を左右する一大事を求めるか否か、という問題である。これを求める人は知らず知らず求めているものだが、しかし、これを求めない人は重たいものが出てくると、すぐにそれを拒否する。これは人間性の違いであり、また、単なる好き嫌いの問題ではなく、いわば、その人間がどういう人生を歩むかという指標になるので、非常に大切な問題である。
 少し、問題を変える。
 現代では、沢山の人が芸術作品を作り出し、輩出している。ネットを見れば、それがわかるし、僕もその中の無数の点の一つにすぎない。では、その中で本当の意味で優れているものとそうでないものは、どうやって見分ければよいだろうか。
 今、僕が感じるのは、とにかく全員が「うまい」という事である。下手な奴が一人もいないといっていいくらい、みんな技術がある。うまい。しかし、どことなく何か足りないような気がする。それは何故か。どうして、そう感じるのか。
 これは芸術に関する、全般的な問題だろう。どうしてそうなったかといえば、あらゆるものが類型化したという事に問題がある。あらゆる作品には、範疇が決まっていて、人はそれを学べば、それなりのものができる事になっている。そして、そのノウハウは無限に溢れている。それで勤勉な人達は、手早く、利口でさっぱりとした、それなりの作品を作ってしまうのだ。
 そうした上手い作品の特徴として考えられるのは、いつもその作品が範疇的である事、つまりテンプレート的である事、そして無意識と、それに付随する即興性が欠けている事にある。例えば、僕がライトノベルを書いて一発当てようとする。すると、僕はその募集要項を見て、過去の受賞作、その受賞傾向を見て、そして次に「ラノベの書き方」という本を買ってきて、そして自分のノベルを書き始める。そしてまた、そういう人間がこの世界には、何千、何万といるのである。だから、それには判を押したような同一性があるとしても、少しも驚くべき事ではない。
 しかし、そうはいっても、テンプレートというのは重要である。形式なき作品は、我々には理解できないし、テンプレート的なものは、いつもある一定の割合で受けるものだ。アニメなどでも、繰り返し繰り返し、同じような萌え要素のあるアニメをやっている。それらはテンプレの形を少しずつ変えながら、同じ事をやっている。これは人間の保守性に訴える事であり、見ていて安心できるという要素も多くあるように思える。
 問題はーーーとにかく、大きな問題は、ごく優れた少数の天才である。どうして、これほどまでに、技術の優れた我々、ディレッタント達は、皆が皆、天才になれないのか。どうして、ここまで様々な経験と、知識を脳にインストールして出発した我々は天才ではなく、凡人なのか、という問題である。この問題はとにかく厄介である。
 問題が厄介だというのは、とにかく天才というのが厄介な連中だという事である。これほどまでに、厄介な連中はいない。まず、彼らは全ての論理を退ける。全てのテンプレートを嫌い、独自性を見つけようとする。それも、人々が独自性と吹聴するような、「人と違う服を来て独自性をアピール」のようなものとは違う、魂の独自性とでもいうべきである。そして、その彷徨の末に、彼らは自身の魂の独自性、その肉体の人との違いを発見する。そして、それは音楽では調べの変遷として、文学では特異な文体となって現れる事になる。一流の詩人の書く詩は、彼の肉体の一部である。あるいは、肉体そのものである。しかしそうではない詩人の書くものは、彼の肉体を離れている。この人間は詩を書こうと欲する。そして、自分が望む、社会主義的正義や右翼的言説やヒューマニズム的なイデーを挟んだ詩を書こうとする。だが、それは、彼の肉体ではない。芸術家というのはまず何よりも、肉体でなければならない。あるいは魂ではなければならない。そして、その魂を発現させる役割として機能するなら、右でも左でも、好きなイデーを持ってくればいいだろう。だが、その時、絶対に忘れてはならない事は、その芸術作品の中においては、イデーは魂の下に従属している事にある。もし、イデーや、何らかの、自分の外のものを自分の魂の為に活用できないなら、そしてその奴隷に屈しているなら、それは芸術作品として一流とはいえないだろう。それらは互いに矛盾するものである。一方が上に来れば、一方は下に来る。だから、芸術作品は徹頭徹尾、「自分的」であらねばならない。どんなに他人の事を歌っていようと、それは他人を思う自分の魂を歌ったものでなければならない。
 今は、何らかの主義や思想というものを扱ったが、技術というものものまた同じ事である。例えば、僕が曲を作ろうとしていて、あらドラムパターンを使って、曲を作ろうとする。この時、僕が二流であるなら、僕はこのドラムパターンに引きずられて曲を作ってしまう。だが僕が本物の芸術家ならば、僕はこのドラムパターンを、自分の心情の発現の為の道具とする事ができる。僕はこのドラムパターンという道具を好きなようにひきずりまわし、こねくりまわす事ができる。そして、僕の魂の配下においてしまう。そうしないと、芸術作品は一流のものとはならない。
 今、氾濫している多くの作品ーーーそして、そのアーティストが「天才」と呼べないのは、大体、このような理由があるように思われる。(もちろん皆が天才である必要はないが。)問題は技術にあるのではない。芸術において、重要なのは「魂の技術」とでもいうべき、技術である。その人間がどんなに未熟だとしても、世界に向かって叫びかけたい自分を持っているなら、その人間は才能がある、と言えるかもしれない。その人間がやがて、何らかの具体的技術を彼の魂の征服下におけば、彼は一流のアーティストになれるからである。しかし、最初から、発現したい自分を持っていない場合では、そうではない。彼がいかに、技術的に卓越した所で、彼は最後まで、芸術家になる事はできないだろう。・・・しかし、その彼は最初から、自分自身を外側に出したいと、そう魂の奥底から望んでいるわけではなかったので、キリストの、「求めよ、さらば与えられん」の論理もここにあてはまると言って良いだろう。彼は、元から天才になる事を望んではいなかった。・・・もちろん、天才の外面的な所だけ見て、他人からちやほやされ、金と地位を得たいと考えている人間は論外である。そんな人間に関しては知った事ではない。
 しかし、天才に関しては、その天邪鬼的な論理について、どうしても言わなければならないだろう。天才が天才たるゆえんは、過去の模倣を嫌うという所にあると思う。例えば、今、クラシックの大御所が何故現れないか、と言えば、それは時代が違うからであるーーーといえば、単純だが、結局、現代の人間を構成している人間の自意識と、十九世紀の人間を構成している自意識の形は全然違う。例えば、よくある質問だが、「マラドーナは現代サッカーでも通用しますか?」とか、「ドストエフスキーは現代でも有名になれますか?」という質問がある。こういう質問は質問自体が間違っていて、はっきりと言える事は、マラドーナはあの時代だからあのようなプレイスタイルの持ち主になったという事であり、ドストエフスキーはあの時代のあの国に生まれたから、あのようになったという事だ。そもそも、ドストエフスキーの作品を構成している多様な要素を少しでも噛み砕いて考えようとすれば、上記の問いそのものが不可能だという事にすぐ気付くだろう。彼は、彼こそは何よりも、その当時の現代的で、そしてロシア的な人間だった。少なくとも、その問題を徹底的に考えぬき、その問題と頭から衝突した唯一の人間だった。その彼が今生きていたらどうかーーー。彼は全く、「ドストエフスキー的」ではなかったろう。そして、彼が今、どんな作品を書くかという事を予想するのは、不可能といっていいほどに困難な事なのだ。
 技術ーーーこの問題について立ち戻れば、全ての技術というのには、全て、過去的なものがある。こう言うとわかりにくいが、たとえば、モーツァルトがいなければ、ベートヴェンはああなっただろうか。あるいは、バッハがいなければ、モーツァルトはああなっただろうか。答えは分からないが、もし、モーツァルトが凡才であったらなら、バッハの曲を聴き、感動したとしても、彼はモーツァルトになろうとはしなかったろう。今、それは沢山の人がしているように、彼はモーツァルトであるにもかかわらず、バッハ的であろうとするだろう。何々流、何々風、というのは、すぐにその恩恵を得られる。オリジナル曲をつくるより、既存の流行りの曲をアレンジしたり、それに自分の声をのせる方が、他人は遥かに評価してくれるだろう。・・・だが、その労苦の量はオリジナルの方が多い。しかし、天才への一歩は、この道を逆に引き返さなければならない。そして、全てのテンプレートを廃止つつ、自分の肉体と魂のみをただ一つの武器として、あらゆる現実条件を自分の道具に化さなければならない。真に、千里の道は一歩から、とでもいうべきものだ。天才の歩みというのは、とにかく途方もなく長い。彼らが心理的に歩んだ距離の長さは我々の尺度では測れないのかもしれない。
 こうして考えると、天才というのは真に厄介な連中だと思える。・・・例えば、カール・マルクスのような天才について考えれば、彼の資本論の精緻な理論が世界全体を覆い、彼が世界に対して「然り」と肯定の言葉を放った時、彼にノーをつきつけていたのは、実は彼そのものだった。彼は確かに、世界を覆う、完璧な理論を造り上げたのかもしれない。世界はこの理論のどこからもはみでる事はできない。だかしかし、その理論そのものを創造するしている人間だけは、その理論の外側に立っていなければならない。彼は、論理外の人間である。人はその中にいて同時に、その中を外から見る事はできない。街全体を見下ろすには、街を見下ろす一番高い塔に昇らなければならないが、この塔はこの街からはみでている。そしてこの塔に昇って、全てを観察する人間は、この観察の外にいる。マルクスの理論の一番の反逆者は誰よりも彼自身であった。これは、天才には避ける事のできない悲劇だ。
 以上で、大体、天才と技術との関連については触れる事ができたように思う。本当はもっと違う事を言おうとしていたのだが、それはできなかった。それはまた別の機会に言おうと思う。しかし、僕が魂などという言葉を乱発したのは、結局そういう言葉でしか言い表せないものが、人間の中にあるからだ。今は、芸術について、様々な精緻な理論的な言葉が出ているが、結局、本質は変わらない。あるいは盛田昭夫風に言うなら「本質とは変えてはならないもの」であり、本質を忘れた所に、様々な派生的、偶発的言辞が現れるのはいつの時代でも同じ事だ。結局、人はいつも何かを聴き、見ているようで、何も感じてはいないのかもしれない。ーーーピカソの凄さについて語る時、美術史の一節やググった情報を並べ立てる人間がいるが、それだけでは手落ちだ。自分の感情や感覚について語らなければ、何かを語った事にはならない。しかし、今という時代はこれほどまでにも、個人の感覚や感情を軽視し、(笑)という時代なので、自分の事を言うのはどこか気恥ずかしいのだろうとも思う。しかし、芸術などというものに携わる人間にはどこか腹をくくった、人から馬鹿にされる事を当然だと思う、くそ度胸のようなものも必要なのだろう。
 

クズ詩人の詩論



神が自然を造る時のように

詩人は芸術作品を造るべきである

彼の目にはもはや覆われているものは何一つなく

彼自身の力によって、悪も善も全て

作品を形作る為の一つの形象としなければならない

詩人が沈黙する時、彼は世界を見ている

画家がキャンバスに向うその時、彼の脳髄の中では

世界は全くこれまでと違う異次元の形に作り替えられている

そこでは全てが存在するが、現実は全く存在しない

彼ら芸術家にとって、現実や自然というのは

彼らの織物を造る為の素材に過ぎないのだ

そして、新たな世界は開かれる

そして、その新たな世界がどんな義務と道徳を負っているかは

次世代の人間が判断すべき事あり

我々、本物の芸術家が判断すべき事ではない

今、目の前に世界は繰り広げられている

その時、君の手が新たな世界を紡ぎだすとして

それを君の目ははっきり視認するとして

その時になってようやく、私達は古い世界から新しい世界へと移行する

これまでとは全く違う別の世界へと

その時、現実という木にぶら下がった

人間達に対する褒美などが一体何か

そんな事は全くどうでもいいのだ

私達が違う世界を開眼する事によって

人々が褒め称えたとしてたら、我々はそれを謙虚に受けて良いだろう

しかし、詩人の本質は常にあの海岸線の向こうになければならない

そうやって、古代の人はこれまでずっと

船を使って新たな世界に漕ぎだしてきたのだから

今、世界の喧騒から離れて、僕が一人でいる時

僕は自分の無限の孤独と、新たな世界への旅を

とても誇りに思っている

現実での僕がどんな人間からも嘲笑われるような

しょうもないクズだったとしても

あの日の光景




時間は縦に進んでいくが

僕はいつも平面を歩いている

世界はいつも前に進んでいくが

僕はいつも古代の賢人達と語らってばかり・・・

そして、それを用立てる方法も

僕は全然知らない

いつからか、知識とは学歴の事であり

教養とは胸についたバッジの数になった

なので、僕という存在はただの無名のフリーター

どんな意味もどんな価値もない

もし、世界が壊れれば、僕はせいせいするだろう

多分、その時、僕は始めてこの世界を愛する事ができるだろう

全てがガラクタになってしまえば

存在していたものはみな、懐かしい

とはいえ、あの日、あの子が泣いていたその光景は

今も僕の眼の奥に焼き付いているわけだが

芸術は何の為にあるのか



 こんな古いお題を出したのは他でもない、現代はこんなシンプルな事がとてもわかりにくい状況になっているからだ。この題に対する答えはもうとっくに、過去の賢人が明瞭な答えを出していて、今更、僕が言うべき事でもないのだろう。だが、僕はポストモダンだの何だのといった、よくわからない新手の新用語で芸術を弄んでいる人々にはいささかうんざりとしている。彼らは真剣なのだろうが、何だか的外れというより、どうでもいいという気分にさせられる。こう言うと、もちろん、僕の無知がばれてしまうわけだが、しかし、様々な用語を活用している人達は元々、自分達がそれらを知っているというその事を、自分の防御壁にしているように見える。・・・実際の所、芸術がポストモダンだろうが、『震災以降』だろうが、知った事ではない。芸術には、いつも一人の芸術家の魂が照応している。そしてこの芸術家は時代と激突する。そしてその様が美しい花火となって散る。この時、この芸術家は肉体的には死ぬかもしれない。だが、それでも構わない。とにかく、この花火は美しい。現実よりも、遥かに。
 こんな詩的な書き出しをしていても、仕方ないのかもしれない。とにかく、現代は何でもかんでも(笑)を付けられてしまう時代だ。詩(笑)、文学(笑)。だが、彼らの笑いはどこか凍りついている。彼らのその笑いの背中には、一つの焦りのようなものが見られる。彼らは何をそうまで否定したがっているのだろう・・・?。僕は、時々、不思議に思う。彼らが否定したがっているのはおそらく自分の不在なのだが、その事だけは何としても、否定できない事なのだ。おそらく。・・・例えば、どんなに出る杭を打った所で、その杭の価値が高まるわけではない。全ての自分以外の他人をひきずり下ろした所で、自分は少しも上がらないのである。微塵も。しかし、人はーーーまあいい。
 芸術は何のためにあるか。こんな問いは、本物の芸術鑑賞者からすれば、実に馬鹿馬鹿しい問いにしか見えないであろう。そして、その馬鹿馬鹿しいと感じる心は正しく、正しい。そう感じる人間の心は極めて正しいものだ。だから、こういう問いを提出するのは、大抵、芸術を理解する能力がない人間に限られる。彼らは結論するかもしれない。芸術は何の役に立たぬ、それは、害悪である、と。
 まあ、それなら、別にそれでいいと僕は思う。否定はしない。しかし、そういう結論を立てるなら、中途半端な所で論理を止めずに、最後まで歩き通して欲しいと思う。未だに、いるではないか。「哲学など、何の役にも立たない」。だとすれば・・・と、僕は考える。人間とは何の役に立つのか。あるいは僕が傑作を書き、ノーベル賞を取り、日に三度キャビアを食べて(拙い妄想だが)、それが一体なんだというのか。・・・別に、日に三度キャビアを食べるのが駄目とか悪いとか、そういう事ではない。食べたければ食べればいいし、金があっても、毎日カップラーメンでも、全然いい。構わない。しかし、それは一体、何なのか。問題は、それが『何の役に立つのか』。
 結局の所、人はセックスしたいだけなのか、あるいは金が欲しいのか、それとも他人からちやほやされたいのかーーーーーそれは、本当の事であろう。それは否定出来ない。だが、全ての、あらゆるものがそれらの為の道具だとすると、世界は何とみすぼらしく、悲しいものなのだろう。だとすれば、この世界に人間が繁茂する理由などないに相違ない。動物で十分だ。遂に、人間の『役に立つ』のその理想は、『脳内に快楽物質をひたすら流し続ける』というような、マトリックス的理想にすぎないのだろうか。
 今、そういう人がたくさんいるが、芸術が売れるか売れないか、という事を問題にする人がいる。それはそれで、大切な事だろうし、そういう事に対して尽力してくれる人がいるとしたら、実に素晴らしい事だと僕は思う。しかし、それははっきり言うと、芸術そのものとは根本的には違う領域なのである。作品を見よ、作品の世界を堪能せよーーーーーこれは誰でもしている。皆が趣味的に、あるいはプロでも同じように、作品を鑑賞している。だが、現実と作品の世界を転倒させて理解している人間は、どれくらいいるか。小林秀雄が、「芸術家にとって現実とは架空の生活に過ぎぬ」というような事を言っていた。芸術家にとって真実は芸術である。現実とは仮の世界である。では、彼はふざけているのだろうか?。フィクションの、つまらぬ世界に血道を上げて、そこにのめりこみ、現実をないがしろにするーーー。彼は、狂っているのだろうか?。・・・おそらく、そうだろう。だが、彼の転倒した目からは、現実に膠着している僕達は一体どう見えるだろうか。狂っているのは、僕達ではないだろうか。転倒して、逆さに歩いているのは僕達の方ではないか。
 僕は、シェイクスピアに言及したかったのだ。シェイクスピアのアマゾンのレビューか何かに、『自分はシェイクスピアを読んだ後は、不思議に人生がそれ以前より輝いて見える』という言葉があった。この言葉は僕のうろ覚えなので、信ぴょう性はあんまりないが、しかしそういう感想を抱いた人がいたとすると、その人は実に正しくシェイクスピアを読んだのだと僕は感じる。・・・一口で言ってしまうと、シェイクスピアは人生以上の代物である。シェイクスピアの世界はこの世界より大きい代物である。だからこそ、ゲーテはシェイクスピアに対して「彼にとってはこの世界すら小さすぎたのだ!」と絶叫した。ゲーテの言う事は間違いないだろう。シェイクスピアの作品の世界は、この世界の悲喜こもごもよりも、ずっと偉大で大きい。そこでは全てのものは偉大であり、あるいは邪悪や正義なども現実より遥かに大きい。人は、シェイクスピアを、「彼は誇張しすぎだ」と言うかもしれない。それはそのとおりである。しかし、自然というより糸を使って、大きな編み物を造るのが芸術家の仕事であるなら、彼は何という編み物を作った事か。彼は作品世界の前では、神のように立っている。彼は完璧な世界を創造した神として君臨している。それはあたかも、この自然の世界を作り終えた時の、神の姿によく似ている。まあ、神が実際にいるかどうかは知らないが。
 こんな事は普通の事ーーー、芸術に深く入り込んだ人間には当然の事のように思える。ハイデッガーが、「哲学は余りに偉大で、現実は余りに卑小だ」と言っていたと思う。この言葉で、ハイデッガーが哲学に余りに深く入り込んだ事がよくわかる。もしも、これが普通の哲学者であるなら、おそらく次のように言っていた事だろう。「哲学は偉大だ。これは素晴らしい代物だ」と。彼のこの言葉には、ハイデッガーの後半部が欠けている。何故かといえば、普通の哲学者はハイデッガーほどは哲学にのめりこんでいないので、哲学に入り込んだその手を返して、現実を切り裂くという芸当ができないからである。彼は、哲学の授業で金をもらい、それにより、良き妻、良き子供を持ち、あるいは愛人すら養っているかもしれない。・・・だとすれば、現実もそれほど悪くないではないか・・・。・・・哲学が素晴らしいとは誰もが言える。しかし、それが「現実以上」とはなかなか言えない。(口真似で言う人間をのぞき。)それを言うには、一種の覚悟が、一つの運命が必要になる。一つの狂気が、あるいは信仰のようなものが必要になる。そこでは、どんな高名な学者も一つの宿命たる事を免れない。この点においてこの者は、彼自身にしか理解できない本物の悲劇の領域に入っていく事になる。
 芸術は何の役に立つのか、という題を皮切りに、問題は意外な所まで来てしまった。しかし、ここまで書けば、もうその問いにまともに答える必要はないように僕には思われる。正しい芸術鑑賞者、あるいは正しい芸術創作者からすれば、上記の疑問は愚問である。・・・実際は、次のように問うべきだったのだ。芸術者の立場からすれば。即ち、「現実は何の役に立つのか。それは我々の芸術の為に役に立つだろうか?」。・・・人はいつまでたっても、芸術からある褒章を、現実に対するATM的な見返りを要求し続ける事だろう。それは、確かに大切なことであるし、芸術家もまた生きねばならない以上、現実的な見返りを必要とする。しかし、実際の所、傍観者達がどう言おうと、本物の詩人はいつも、傍観者には見えない仙境を飛んでいるものだ。そして、彼のその精神の飛翔が何より、彼の芸術そのものに対する重大な褒賞である。この時、一体、現実などが何かーーー。今、僕に透けて見えるのは、まだうら若い、アルチュール・ランボーの透徹とした、そしてあらゆる事を軽蔑した青年の目線だ。彼はもう全ての上を飛び去っていた。現実よりも遥かに高い高度を、彼の魂は詩という羽に乗って飛んでいた。この時、現実とは何かーーー。だが、いつまで立っても、この世界は、この詩人を低所へとひきずりおろそうと試み続けるに違いない。故に、『天才などいない』と。だが、詩人はいつも仙境を飛び、世界の上を飛びーーーそして、この時、「芸術が何の役に立つか」という問いが、一体、何か。そんな問いなどに意味はない。彼は芸術によって、世界に勝利した。しかし、その勝利は現実的には敗北の姿となって現れる。漂浪するランボーの姿を見よ。決闘するレールモントフの姿を見よ。だが、彼らは一度勝ったのだ・・・世界に。そして、彼らの高く飛翔した魂には、世界の功利的な問いや、その欲望故の声高な叫びなどは全て、どこか別の世界のこだまとして響いたに過ぎない。彼らはそれを既に卒業していた。彼らはもう既に、世界と別れを告げていた。この時、「芸術が何の役に立つのか」という問いが一体、何か。それは低地しか知らない人々の、一種の地獄のうめき声にすぎないのである。世界の上空を遥かに飛んだ魂の群からすれば。

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