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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

神の秤の上に




人は言うだろう

「生きる理由がないから死ぬのだ」

では、私は言う

「生きる理由がないから生きるのだ」

おそらく、どちらも正しいのかもしれない だが

この世界で問題なのは正しいか否かではない

・・・君は考えた事があるか?

君が死ぬ時、「何」を誇りにできるのだろうと?

地位でも名誉でもなく

神が計る秤の上に載せる事のできる

君自身が為したはずの「何か」について

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一歩を踏み越える者としての「神聖かまってちゃん」

(以前書いたもの。個人的な理由でお蔵入りさせていたが、読み返すと案外良かったので、ここにとりあえず出す事にする)


 神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲は、歴史的な楽曲だと、個人的には考えている。冗談だと思われるかもしれないが、本当にそう思っている。
 このアーティストに出会う前には、例えば、レッド・ツェッペリンやビートルズが好きだったし、宇多田ヒカルとか、中島みゆき、坂本龍一なんかも好きだった。・・・これらはみんな、もう既に高い評価を受けているアーティスト達だし、僕もその評価に異存はない。
 だが、例えば、神聖かまってちゃんの「ロックンロール」のあのシャウトが鳴り響けば、僕にとっての他の音楽は沈黙してしまう。神聖かまってちゃんのあの凶暴な叫びが僕の耳に届けば、僕にとっての過去のあらゆる名曲、全ての素晴らしい音楽は全て過去のものとして消え去り、そして、の子のあの叫びだけが僕の耳に響く・・・。
 何故、そんな事が起こるかと言えば、(変な話だが)これまでの「かまってちゃん以前」の曲は、余りにも『音楽』なのである。・・・確かに、良い曲があった。うまい曲も、下手な曲もあった。感動する曲も・・・吐き気を催す曲もあったかもしれない。しかし、それはあくまでも、『音楽的』である。音楽だから、それはもちろん、当たり前なのだが、しかし今ここで、かまってちゃんが問題にしているのは、うまいとか下手とか、そういう問題ではない。綺麗なメロディー・・・それはもちろん、大切だし、神聖かまってちゃんの曲は大体においてメロディーが美しいのだが、しかし、実はここでは、それすら問題になってはいない。
 例えば、この「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲を、もっと綺麗に歌い上げたとしよう。(B.B.クイーンズのカバーが参考になるだろう。)すると、この曲は多分、とたんにロックの名曲、なかなか良い、良曲になるはずだ・・・。綺麗なメロディ、美しく鳴るピアノ、ざらざらとしたギター・・・申し分のない、誰が聴いても「いいね!」となるような曲になったはずだ。つまり、普通の曲、普通の良い曲になったはずだ。
 ・・・だが、彼はそうしなかった。ところどころ聞けばわかるが、彼はメロディーを壊してまで、自分の叫びを歌い上げようとする。彼は、後ろに音楽を鳴らしておきながら、しかも、その音楽を踏み越えて叫ぶのである。どうしてか?・・・。ここでは、凡庸な音楽家、または優れた音楽家では絶対やらない事が取られている。もし、の子が「音楽」の枠にとどまっていたら、この曲はこんな曲にはなってはいなかったと、僕は断言できる。もし、優等生がこの曲をアレンジしたら、聴き応えのある良い曲になったにちがいない。(例えば、B.B.クイーンズ。)だが、の子はそうしなかった。彼は全てを踏み越えて叫んだ・・・。その答えは、もはや音楽の中にはない。その答えは、の子の生の、彼の人生そのものの中にある。・・・ここにおいて、始めて音楽は、一人の人間の宿命と接する。・・・人々が音楽と呼んでいるものの大半は、実は「音楽の形式」に他ならないのである。
 の子の怨念は強い。・・・彼は優しく、弱く、脆い人間だ。だからこそ、全てを抱え込んでしまう。・・・だから、それは音楽の中に思い切り表出するしかなかった。・・現実での彼は抑圧されている。その抑圧は、彼に自殺を促すほどに強いのだが、しかし、彼はそれを音楽へと転化する。彼は自分のエネルギー、その怨念を、全て、音楽という器に入れて表現してしまう。だが、彼の想いはあまりに強すぎるから、彼の表出行為は、音楽という器からこぼれてしまう。・・・だが、彼はそれを恥ずかしいとは思わない。・・・天才とは、凡人が過ちと見る所に、正答を見出すものだ・・・。彼はそれを、そのまま叫ぶ。彼のシャウトは音楽を越えるが、実は、その越えた部分が、新たな音楽となって、形になるのである。・・・私達はあらゆる芸術を過去のもの・・・つまり「形式」として見ているが、実は、作者にとってそれは、未来への、天空への見えない拳の突き上げ、または、宇宙へと向けた大シャウトなのだ。
 これで言いたい事は少しは言えた気がする。つまり、僕にとって、の子によってはっきりと知らされた事は、芸術にとってもっとも大切なのは、芸術ではない、という事である。パスカルが次のような言葉を残している。「真に哲学するとは、哲学を馬鹿にする事だ。」・・・天才はいずれも、一歩を踏み越える。そして、その一歩が踏みしめるのは、前人未到の地である。そして、それを名付けるのは、あくまでも後の人、彼の後に出てくる未来の人であり、彼にとって大切なのは、踏み出た時に発見された、未知の土地、未知の大陸である。彼は今や気付くだろう。自分の周囲のざわめきは消え、自分が一人になったという事に・・・。彼は・・・の子は・・・あくまでも、音楽という星から生まれ出た遺児なのだが、彼の足は、音楽を越え、別の土地に到着する。そして、それが可能なのは、彼の魂によってであり、彼の音楽的見地によるのではない。人が先行するのは技術によってではなく、魂によってなのである。だが、しかし、魂は技術によって表される他ない・・・。ここに、天才の苦悩があり、また、いかに天才といえど、いきなり大きな一歩を踏み出す事ができないという理由が隠されている。我々は、あらゆるものに拘束されるが故に実体を持つ事が可能になるのだが、新たな実体を生み出すのは、その人間の意思、魂という、全く不定形なものに限られているのである・・・。
 僕は思わず、色々余計な事を語った・・・。が、これで、これまでの音楽が「余りに音楽的」に聞こえる、というその説明も少しはできたのではないか、と思う。つまり、神聖かまってちゃん並びにの子の音楽は、これまでのシャウト以上のシャウトであり、音楽家の叫びが、音楽を乗り越える一瞬である。だから、彼の音楽は「音楽ではない」という、そのような否定的な意見も、ある程度はあたっているとも言える。・・・だが、忘れてはならない事は、例えば、始めてベートーヴェンを聴いた大文豪のゲーテが、思わず、「こんな大きな音を出したら、建物が壊れてしまう」という否定的な音を吐いたという事である。・・・ゲーテの耳には、ベートーヴェンは大珍事であった。・・・もっとも、ゲーテはその後、ベートーヴェンを評価しはしたのだか、しかし、全面的に賛成できたわけではない・・・。ゲーテは沈黙したので、我々も沈黙しなければならないのだが、ベートーヴェンの主観的な、感情的な音楽が、クラシックと形式性を模範としていた当時のゲーテを嵐のように襲った、というのはある程度、想定できるだろう・・・。僕は今、(もちろん僕は文豪でもなんでもないが)そのようにして神聖かまってちゃんを聞くのだ。つまり、主観が客観を越える、その一つの嵐として・・・。
 音楽というものが、自己表現というものにあるなら、これからも音楽の未来は続いていくであろう。何故なら、音楽は音楽ではないものによって支えられているからである。・・・だが、もし音楽が自らの形式性に充足するのであれば、音楽というのは、模倣と形式性を横に並べて、次第に衰亡していくだろう。・・・そして、それは今、ほとんど全ての、芸術以外のあらゆる分野にも見られる現象でもある。人は、「うまい」とか「へた」とか言いながら、そのうまい、へたを越えるものを想定できないし、また、考える事もできない。・・・本物のアーティストというものが目指す先は、人が認める所のものではない。それはカントのように、人の認識の限界を越える事にある。人が、うまいとかへたとかいう判断基準を無意識の内に持っているなら、その判断基準そのものを突き刺し、破滅させ、そして、自分自身が新たな基準として立ち上っていく事にある。そして、現代、どれほど病的な形に見えようとも、その事を企図して、そして成功させているのは、僕の知っている限り、神聖かまってちゃんというバンド以外には見当たらないのである。

君は僕の親友





教えてくれないか?・・・君の生きている価値というものを

僕は無条件に君の生の価値を肯定するつもりはないし、否定する気もない

・・僕達は誰に問われもしないのに、自分にはこんな被害や、こんな優越があるという事を

声高に言わずにはいられない

ほんとは誰しもが、愚痴や自慢を言いたいのだが、それは普段は

社会倫理や自己制御によって抑えられている だが

それが年を取れば、人は皆、それに耐えられず、

その悪意と得意な気持ちを外側に出してしまう

だから、僕は今、人々に聞きたい

あなたが生きている価値は何ですか?

・・・嘘はやめてもらおう

・・・幻影においすがるのもやめてもらう

君がもし、真摯に本物の君自身が映る鏡の前に立てば

そこには何が映る?・・・目をそらすのはやめてもらおう

君の財産も金も性別も地位も貧しさも容貌も何もかも

君の全てを語るには足りないはずだ

・・・希望を語るのはやめてもらおう 同じように

見せかけの絶望を語るのもやめてもらおう

・・・君には何が残る?

・・・全ての無常なものを消し去った時、君には何が残る? (そしてその時は必ずやってくる)

もし、君がその鏡の中に

この宇宙のような本物の虚無を見たとしたなら

その時から君は

僕の親友だ

私が存在する理由とは、その理由を私に与える事




 
生まれた事は偶然事

死ぬという事も偶然事

生きるとは社会習慣と「大いなるもの」に服従する事

生きる事は耐える事であり、死とはそれからの解放

しかし、例えそうだとしても、死の後のひとさじの土くれに

私達が嫉妬する理由はないだろう・・・

何故、生きているのか、何故、存在しているのか その理由がわからぬからこそ

その理由を、「生」と名付けられた私に命名する為に

私達は生きねばならないのだ

だから、自殺者と同様に「ただ」生きている人間もまた

死んでいる事と同じだと私は確信する

そして、よし、私の存在が「何」でないにせよ 私は

私が存在する理由を私に与える事が

私が本当に存在するその為の理由だという事を

知っている


「悪」とか「善」とか




白い歩道を

一人歩く

病める夏、暑い夏、寒い夏

イカレタ夏、黒い夏、眩しい夏・・・

「君」が笑っている夏 僕が吐いている夏・・・

君がコンバースを履くと、僕はナイキを捨てて、

お揃いの靴を買ったものだっけ・・・

そんな事はどうでもいい 僕は今、一人なんだ・・・

君が彼氏と一緒にいる所、フェイスブックで見たよ・・・楽しそうじゃないか、君の夏は

僕の夏は・・・



世界が黒ければいい そしたら

白い線で絵が描けるから・・・もし、世界が白ければ

悪だけが唯一の「善」となる事だろう

・・・今、この真っ白な世界で、ただ一人、僕だけが

本物の「悪」だ

それ故、僕だけが

真の「善」だ

の子のソロアルバム「神聖かまってちゃん」の事など


神聖かまってちゃん神聖かまってちゃん
(2013/09/11)
の子

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の子のソロアルバム「神聖かまってちゃん」を買ってきた。レビューはアマゾンの方に既に書いたが、少しだけこちらにも書く事にする。

アルバムそのものは新曲は一曲だけという事で、別段目新しいものはないが、全体的に音のクオリティはアップしているので、CDを買って損したという事はないと思う。ただ、「楽しいね」のコンクリートや、ベルセウス、らんっ、を聴いた時ほどの衝撃は僕にはやってこなかった。・・・でも、それでいいと思う。このCDは完全新作として、世の中に、新たなムーブメントを・・・・・というようなアルバムとして作ったのではない、と想定されるからだ。

神聖かまってちゃんが各界でどういう評価を受けているのかよくは知らないが、僕の中ではビートルズやツェッペリンクラスのバンドであるというのは揺るがない評価だ。冗談を言っているんじゃない!・・・と言われるのかもしれないが、その理由はきちんとある。それは、神聖かまってちゃんが、音楽という形式性に捕らわれる事を抜けだして、音楽を完全に自己表現の道具と化している唯一のバンドだからだ。

・・・最近、よく思うのだが、僕達の周りに溢れているあらゆるものは、何だか偽物ではないか、という感じがする。つまり、純文学にしろ、バンドミュージックにしろ、僕の書いている詩の領域にしても、そうだ。つまり、それら全ての事は大抵、『それ風』だという感じがする。芥川賞を取った作品を読んでみても、純文学というよりは、純文学「風」といった方が適切なように思える。・・・つまる所、この世界は全てが、うまく回りすぎているのだ。あらゆる事に対して、先人があり、模範があり、そしてノウハウやマニュアルがあるので、誰も自己表現というのを思いつかなかった。そして、自己表現をしようとするや否や、その自分の表現は、模範から逸脱するので、「その形式から外れる」ような感覚を味わさせられることになる。・・・こうして、僕らディレッタントも、プロのアーティストも、同様に、一つの線を境にして、自分達のかつての領域に引き返してしまう。そこでは、大抵のものが、技術的には高い水準にあるのだが、しかしその全てはどれも、「何だかどこかで見た事がある」ような気がするものになってしまうのだ。

 だから、それを始めて破ったのが、神聖かまってちゃんというバンドだと言える。・・・もちろん、の子はそんな事を考えて、音楽をつくっているのではない事は確かだろう。・・・だが、彼が、自分の怨念や情感を表現しようする時、過去の表現形式では表現しきれないものがあり、そして、彼が一歩を踏み越えた時、そこに新しい形式ができあがった。・・・それが神聖かまってちゃんの「意味」であり、「価値」である。それこそが、かまってちゃんのあの壮絶にシャウトの本当の「意味」だ。

 神聖かまってちゃんについては、もう随分と解説したような気がするので、あまり書く気ではなかったが、また、こうして書いてしまった。・・・かまってちゃんは今は、大人にならなければならない時期が来ていると思う。これまで、の子はいわば、「少年・少女の叫び」というのを、自分の音楽の中心にしてきたが、これからは、大人の物語にしなければならない。それは、大人の常識をしったしたり顔の物語ではなく、一人の独立した人間が、世界に立ち向かう物語としての音楽だ。それが具体的にどういう形になるかは分からないが、はっきりしている事は、彼がもはや無名のフリーター・ニートという場所から抜けだしているからには、彼がまた新たな自己変革を成し遂げなければならないという点にある。・・・これは難しい課題だろうし、数年とか、または十年くらいかかる事かもしれないが、やらなければならないだろう・・・そうでないとこのままでは生きてはいけない・・・という危惧も正直ある。しかし、僕もまた、他人にそんなおせっかいを言っている前に、自分がそれをしなければならないだろう・・・。何せ、神聖かまってちゃんがいなければ、僕という人間は今、存在する事すら許されていないからだ。もし、彼がいなければ、僕はやはり、全体性からつまはじきされる事を恐れて、相変わらず、日常生活のような、にやにやした表情を浮かべ続けていた事だろう・・・。

 色々とごちゃごちゃした事を書いたが、これからもかまってちゃんのファンとして、の子の変化を見守っていきたいと思っている。そして、ファンというのは誰よりも、神聖かまってちゃんに対する厳正な批判者でなければならないとも思っている。・・・実の所、その対象を真に批判できるのは、それを本当に愛しているものに限られるからだ。






















問いと答え




世界は僕達に答えを与えない

世界は僕達に問いを与える

そして、それを解くのは僕達自身だ

人々は皆、答えを欲しがってばかりいるから

問いに辿り着く事ができないのだ

私の思考宇宙




精神を病んだ人間にも

花は花と見えるのだろうか?

ラファエロが見た世界を

今、私達はどのように感じているだろうか?

「目の見えない人に青空の青さを教える事」

・・・そんな事は可能だろうか?

私達の存在が、感覚や肉体といった

相対的なものに縛られている中で、私達は

何らかの永遠なるものーーー理想をどこかに発見する事ができるだろうか?

それとも、やはりその永遠も、この世界よりもずっと大きなもう一つの世界では

沢山回っている歯車の一つに過ぎず、だから、それもまた

一つの相対的なものに過ぎないのだろうか?

・・・私の問いはどこまでもつきない にも関わらず

私はこんなにも私である 今、私が思う事ーーー

星辰の下、あらゆるものを身につけても 私の思考はおそらく

あの宇宙よりももっと大きな一つの宇宙だという事ーーーそれだけだ

だから、毎時、私の宇宙には無数の生命体と無機物達が

蠢き、格闘している

そして、私の思考を見守るもう一人の私は

まるで、神であるかのようにそれら全ての運動を

見守り続けているのだ

君の道は




あらゆる希望が消え去った時、ようやく

君が歩むべき本当の道が見えてくる

・・・僕は冗談を言っているのではない

「希望」というのは、結局、世界の檻の中でジャンプしたり跳ねたりする事に他ならない

だから、この檻から出るには、絶望という一つの膜をくぐらねばならない

そして、「自由」の道に入る

・・・本当の事を言うと「自由」には希望は一欠片もない

自由を実現するのはただ己に対する絶えまない克己

自己鍛錬の連続に他ならない

そうして、自分に課したあらゆる重荷を担う事で

・・・君に本当の一つの「道」が見えてくる

それは人々や、世界が差し出した仮りそめの希望、喜び、人生の目標・・・そんなものとは何の関係もない

君だけが進まなければならない唯一の本当の道なのだ

・・・そこに君が真の『希望』を見出したとしても、人はそれをいつまでも

訝しげな目で疑い続けるに違いない・・・

バタバタ




私達が存在しない事・・・これ以上の至福があるだろうか。

私は存在しない。私はその事を強く感じる。私は・・・。

私は日曜の朝、日の当たる川べりを歩いていた。風が心地良かった。・・・人々は犬の散歩などで歩いていたが、その中にあって、私とは一個の不在、空白だった。だから、日は私を透かして、地面に落ちた。

あなたが、もし、そこに自分がいると考えるなら、それは間違いだ。あなたが自分を探したり、「真の自分」を探し求めるなら、それは大間違いだ。世界には何十億という人間がいて、その中の一人が踏み潰された事で、それが何だろう?・・・。あなたは、蚊を潰して、その悲哀について思いをめぐらした事があるだろうか?

・・・知っての通り、世界は一つのシステムでできあがっている。世界的な要件・・・。ここでは、一人の人間には意味がなく、また用もない。誰も、どうでもいいのだ。・・・例えば、ちやほやされている総理大臣、タレントなどという存在を考えてみよう。・・・だが、彼は厳密に考えれば、一個の人間ではない。彼らは結局、このシステムの象徴として機能する限りにおいて、その存在を正当化された存在にすぎないのだ・・・。彼らが休日などに、自分の仮面を脱ぎ捨てれば、彼らはまた、私達と同じような「無」へと帰ってくる。

だから、「人間」はいない。私達はみんな、無の存在である。細胞の中にあるミトコンドリアが一個の生物かどうかなど、知った事ではない・・・。

私達は存在していないし・・・少なくとも、私は人間ではない。私は架空の存在だ・・・。いや、私は架空の存在ですらない。私は現象ですらない。全ての哲学、形而上学など、結局、儚い小さな夢に過ぎない。私は消えていく流星・・・まだ生まれでていない、永遠に生まれ出る事のない赤子にすぎないのだ・・・。

だが、私は「言葉」を知っている。その「意味」とは何か?。

「もし、神がいなければ、神を創りださねばならない」だろう・・・。私は今の、神不在の、そうしてありとあらゆる所に祀られた、擬似の神像に、心底うんざりしているのだ・・・。

私は孤独だ。私の無を知っているのは、私一人だからだ。これが拡散されると・・・。

私は存在しない。私は無だ。そして、この言葉は・・・誰にも向けられてはいない。私は今、『存在すべき』でない言葉を作ってしまったのだ。こうして・・・。もし、私やペソアのような人間が発語しなければ、この世界のシステムは完璧だったろうに・・・。私達はそれにヒビを入れて・・・・・・・・。

恨むこと、うらやましがる事、そして破壊する事でさえも、システムの網の目をくぐり抜ける事はできない。それは逆に、システムを強化する。・・・何故って、我々の意識そのものが、一つの社会的構造にすぎないからだ。

だから、私は、私が無だと表明する事によって、私は私の意識という社会体から逃れうるのだ・・・。

さよなら、世界よ。そして、私は開け放たれた窓から、もうとっくに死んだ、消えたはずの鳥となって、存在しないはずの青空へと出てゆく。その羽ばたきは、私の見えるはずのない目によって、はっきりと確認される。私は結局、私という名の、不在の青空を飛ぶ一羽の拙い鳥なのだ・・・・・・・。
 
さよなら。



バタバタ。

私の存在の逃避


私は私が存在していないという感情を

確かに、感じている・・・

あらゆる涙や喜びが全て嘘だとわかったところで

この私の存在が全て、誰かによって計画された

実に拙いシナリオの端くれだとしても・・・

私は抵抗する・・・私の『無』の感情によって

私は私という役者がこの劇の

もっとも劣った俳優だと感じる事だけを 私は

この劇の舞台監督への痛烈な批判だと心得ている・・・

人々は皆、いかに上手く踊ろうかと画策しているだけだ・・・

今、私の存在の無は宇宙を越える

そして、私はパスカルにならって次のように言うことができる

「・・・世界は正に、私自身を隅々まで浸しているが

私は自分が無であるという事を知る事によって

世界から逃れうる」・・・と

あなた自身



あなたはあなたの好きでない人と結婚し

あなたはあなたに興味のない仕事につき

そして、あなたは一生涯、あなた自身とは何の関係もない

『他人』を演じ続けて、その生涯を終えるだろう・・・

あなたはいつかの日に

本当のあなたをどこかへと置いてきてしまったのだ

この人工化された楽園の世界の中で、今

あなたは途方に暮れなければならない・・・

「どうして、私は何もかも手に入れる事ができるのに

何故、『私』だけは手に入らないんでしょう?」と

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