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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

詩人の誓い

私は私の言葉に触れて

あなたはあなたの言葉に触れる

世界は世界の言葉を造る

それで、この現実は回っていく


     ※

ありきたりの言葉

傷ついた言葉

優しい言葉達を

詩人は独特の方法で

この泥沼から救い出し

泥を払い 水で洗い そうやって

一つずつをもう一度、美しい結晶へと変えてゆく

それが詩人の仕事

決して他人を傷つけたり

自分を守るための言葉を造らない事

それが詩人の誓い

私は一人の群小の詩人として

その事を今、ここに誓う

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時の中の表現

  


私達は過ぎ去っていく

時の流れと共に砂塵の一粒と同様に

全てはあの星の明滅のようにゆるやかに来ては流れ去る

もちろん、「今」という時だけを全てと考え

享楽と無為に過ごす事もできるが

それでも、時は流れ去っていく

私達がたとえ、不老不死になろうとも

流れ去るべきものはやがて流れ去る

時の流れをもう追うな

むしろ、時の流れに逆らって泳ぐべきだ

時間が何であるかを僕達の魂はよく知っている

なのに、肉体がついていかないとはどういうわけか

時間が「時」と共に過ぎ去っても

魂に刻印された痛みと悲しみは

次世代の人間を創造するだろう

その人間にしかできない表現が

外側に現れる事によって はじめて

はじめての詩

   はじめての詩



言葉によって救われない夢なら

それは一体、何のための夢か

言葉によって癒されない人生なら

それでも「詩人」と呼べるのか

笑いたければ笑え、努力しているといいつつ

その「努力」はどのノウハウ本に書いてある努力なのか

常に、他人の視線に怯えつつ、他人に評価される事を期待しつつ

そうやって、酔っぱらい運転を続けて君はどこへ行こうというのか

何故、君は自分の孤独を信じられないのか

何故、生の希望という偽りか それとも

他人への蔑視という自分への欺瞞にしか生きられないのか

生きる事は死への直通路だと気づく事ができれば

僕達は生と死を二重に越えざるを得ないのに

何故、君はそこで立ち止まるのか

自分の生の称揚か、他人の死の礼賛 そのどちらかの道で

何故、君はそんなに怯えているのか

君がいつまで怯えていたって、有名になったってならなくたって

君という個体は死に、全ては無にはじけ飛んでいく

さて、そこで、君ははじめて一本の筆を手に取り

君が発見したその無に一つの大きな字を書く事ができるようになる

つまり、それこそが君が生まれてはじめて書いた

「詩」というわけだ

思考の宇宙

例えば、「宇宙は存在するか」とか

「あなた」や「私」は一体、どんな存在かとか

私達はどこから来てどこへ行くのか、とか

私はそんな事を考えてしまう

私の頭の中には一つの宇宙があって

それは既存の宇宙より、ほんの少し大きい

私という小さな存在の中には一つの大きな世界があって

それはこの世界よりわずかに大きい

「考える」とはそういう事

400年前、パスカルがそうしたように

私もまた、考える事によってこの宇宙を

大きく凌駕する事ができる

要約

    


僕は要約されたさまざまものを

毎日のように読む

どこかの他人の人生のエピソードや

海外の生き別れた子供達のエピソード

政治家のインチキとかその正しさについての主張や

アニメとゲームに関連した論争

そして、僕達自身の生き方、そのノウハウ

それら全てが要約された情報として

今、僕の目の前にある



新聞の一枚

ネットの1ページや

本の一冊

それらに全ての出来事が詰まっていて

それで世界はおしまいとなっている



さて、僕はそんな世界を前にして

少し、疲れて、ため息をついた

さて、僕のくだらない人生は

どんな瑣末な一行によって要約されるのだろうと、

そんな事を考えていたもので

 炎上する君


   



「正常であるのをやめろ」と、昔

トーキング・ヘッズというバンドが歌った

正常な奴らの正常な倫理

1足す1は3の理屈・・・・・何故なら、その方が自分達にとって都合がいいから

そんな理屈の中で 僕は

君を見た

君は笑って寂しそうに少しずつ、「死」に近づいていった

僕達の生は死に染色されている

僕達の死は既に墓場に埋没済み

気取った言葉は嫌われるが、リアルな言辞はすぐに

ダサい、キモいというレッテルが貼られる

何を言えばいいのかーーーーー何も言う事はない だから

「否定」と「批判」が世界の天下となる

・・・・・で、僕は何を言えばいいか

炎上する世界の上で 僕は

一体、どんな言葉を吐けばいいのか

僕はこの炎の中に一本の

君というバラを投げ入れてみたい

炎上するその姿は咲いている姿に負けず劣らず

美しいはずだ

死に絶えていくものの美しさが 今、僕の心に忍びいる

もうとうに、僕は死んでいた存在

だから、今、君という生の光をはっきりと掴んで見せよう

僕の闇の手だけが君という光を

包み込む事ができるのだから

「死」を越えて

   


僕らは過ぎ去っていく

僕らはやがて、死に至る

なのに、「安心」と「安定」が

まるでそこにあるかのように僕達は振る舞う

やがては死が取り去っていく僕達の衣裳を

僕達は必死に重ね着しようとする

生きる事にありとあらゆる希望と興奮を見出し

僕達はそこに籠城しようとするが

その間も、そうやってはしゃいでいる僕達を

月の上から死神が見ている

僕達が偽りの希望を愛するのは

自分達のだらしなさを肯定して欲しいから

「死」という一事を忘れたいからにすぎない

だから、この死を僕達に思い出させる人は嫌われる

だが、やってくるものはついにはやってくるのだ

健康マニアにも大金持ちにも貧乏人にもニートにも

死は平等にやってくる

だが、その向こう側というものも

確かに存在する

それは精神と精神が手を取り合い

何か大切なものを受け渡していく そんな場

そこで僕達は時空を越えて、同時に

個人に与えられた「死」の宿命も越えて

他人と出会うことになる

例えば、今、僕がこうやって

二千年前の書物にこんなにも感動できるのは

二千年前のその人がその人の死を越えて

僕に精神の架け橋という「死」を越えるものを

残していってくれたからなのだ

だから、僕もきっと、自分もそうする事ができるのだと、

そんな風にも思うんだ

仮設された生の希望を蹴りあげ

真の死の正体を直視しながら

パスカル、思考の宇宙   (パンセについて)

 この書物は余りにも深すぎるので、とても僕の手には負えないが、自分の分かる範囲だけで書いてみる事にする。

 まず、パスカルの孤独と絶望という問題がある。この絶望と孤独はあまりにも深く、宇宙的なものだ。彼が十七世紀の人物にも関わらず、二十一世紀の僕達にその言葉がダイレクトに突き刺さるのは、彼の世界全体への否認と、人間に対する抽象的洞察が余りにも深いからだ。・・・たとえば、社会主義者や、各種イデオロギーを信奉する人々には、自分達の思想に未来の幸福を読み、そこに酔う事ができるが、パスカルの独断的で直接的で透明な思索は彼に、何一つ信じる事を許さなかった。だが、だからこそ、彼の思考は無限の世界を突っ切って進み、宇宙と虚無の間を反復する。その結果、彼の思考と脳髄はこの宇宙全体を包み込むほどに大きなものとなる。

 にも関わらず、パスカルは最後に神を信じた。信じようとした。この問題は、日本人には非常にわかりにくい問題だ。しかし、僕はパスカルが素直に神を信じたのだ、という感じもやはりしていない。彼の知性と心情は、神の存在を信じた。・・・いや、信じようとした。信じようともがいた。だが、その一方では、彼の科学的精神も目を光らせてこちらを見ている。だから、彼は自分の余りにも鋭すぎる批評精神に対して、絶えず、神がいる事の弁護を計らなければならなかった。彼の孤独は限界をはるかに超えているので、彼の敵はいつも、キリストを信じない別の人々ではなく、自分自身の鋭い科学的批評精神だったと僕は信じて疑わない。

 だから、パスカルがモンテーニュやデカルトを攻撃しているのは、パスカルが彼らと反対の位置にいるからではない。むしろ、パスカルはこの二人がおそらく、自分自身と非常に近い場所にいる事を感じていたので、自分のように神の存在を信じていない彼らを憎く思ったのだと思う。パスカルにとって、敵は常に自分自身だとすると、彼のそのまた近くの敵は、いわば、その親戚的なデカルトやモンテーニュだった。

 これらは全く勝手な理解と読み解きにすぎない。だが、パスカルの孤独で偉大な精神は、人間の歴史の中でぽっかりと浮かんでいるように僕には見える。彼の姿はキェルケゴールやドストエフスキーの「地下室の手記」の主人公の姿によく似ている。彼は宇宙の中で、一人、思索している。彼はどんな革命家よりもはるかにラジカルなので、革命とか戦争とかすらが楽天的に見えたのかもしれない。彼の思索は、宇宙全体を包み込んだ。そして、今も僕達はその宇宙の中にいて、そこから一歩も出ていないといえるかもしれない。パスカルという人間には、ドストエフスキーの「罪と罰」からの次の台詞が非常によく似合うように、僕には思える。



 (宿屋の女中がラスコーリニコフが日がな家でごろごろしていて、何もしていない事を責めている際の台詞)


 「(前略)だけど、あんたはどうなの?だん袋みたいに寝そべってさ。何をしてるとこも見たことがない。それでもお利口さんかい?以前は子供を教えに行くって出かけたけどさ、このごろじゃ、どうして何もしないんだい?」
 「おれはしてるよ・・・」ラスコーリニコフは気がすすまぬふうに、そっけなく言った。
 「何をしてるのさ?」
 「仕事だ・・・」
 「どんな仕事?」
 「考えてるんだ」

寝る前の夢

                          

 

  テレビを見ていたら、ニュースキャスターがあまりにトンチンカンな発言をするので、僕は思わず、ぷっと吹き出して軽く笑ってしまった。だが、僕の両親はそれを見ながら、真剣そうにうなずいている。
 あほらしくなったので、僕は、親に「僕はもう寝るよ。明日、朝テストがあるから。」と言い残して、自分の部屋に戻った。実際は、そんなテストなんかないのだが。
 僕は自分の部屋に戻って、少し、頭を痛めて考えた。この世の事。宇宙の事。そしてーーーーーいや、何もない。何も起こらない。もしも、ああーーーーと、僕は考えた。六十年代とかのビートニクなら、ドラッグと酒と女の子で盛り上がったのかもしれないが、だが、今や多分、東京大学辺りでも、「六十年代ビートニクの初期衝動について」とか、なんとか、そんなインチキでアカデミックで天才的な講義とやらをやっていて、そこではメガネと黒髪の、真面目そうな連中がそのインチキ講義を聴いて、うんうんとうなずいているのかもしれない。ーーーーー「なるほど、ビートニクって、そういう連中か」なんてね。
 僕は窓を開けて、夜風が入ってくるままにした。ここから抜けだしてーーーーーああ、どっかのオペラでありそうだな。「ここから抜けだして、あなたの元へ行くのよーーー。夜風を切ってーーー。」ああ、馬鹿な妄想はやめよう。宿題をしよう。宿題を。
 宿題は次の歴史の授業で、僕が与えられた答えを答えるやつだ。何故、織田信長はあの時、ああしたのか、その理由を〇〇文字以内に答えよーーーーなんてやつだ。知らないよ。織田信長当人に聞いてくれ。・・・でも、多分、信長だって、答えられないだろうよ。「理由?ふん?。知るか。俺はただやるだけだ。そこをどけ」なんてね。
 また、くだらない妄想に走ってしまっているな。僕は。妄想ーーーーー妄想以外に何があるってんだ。僕らの青春は。全く・・・・うんざりするよ。ほんとうに、ほんとうにさ。ほんとうにうんざりする。
 ふと、今、思い出したけど、東京大学とか、そういうインテリ連中にとっては、世界はこんな風にわかれているらしく思われる。それは、動物園の檻の中の動物と、それを外で見ている観客との二種類に。で、インテリぶった連中はいつでも、観客気分で、死体解剖でもするみたいに、古今東西の名作を切り裂いて、理解したとかしないとかほざいている。・・・・全く。なんだってんだ。僕の腸をかっさばいて、その内臓のシステムを理解したところで、僕という人間を理解したという事になるのかね。全くの所。
 最近では、それはネットの連中もそうなんだがーーーーー奴らはいつでも、丘のような高い所から矢をぴゅんぴゅんと打って、それで当たれば大喜び。そうして、丘の下の僕ら駄目クズ共は永遠に、彼らの近場までよれないって事に相場が決まっているらしい。・・・・うんざりするよ。全く。
 ま、テレビとかもおんなじだけどね。褒めようが、涙を流そうが、どこまで行こうが、奴らーーー連中にとっては、全部、他人事なんだ。所詮は、隣の村の誰と誰ができたとか、できなかったとか、そんな噂話のものにすぎない。そうして、その噂話に狙いをつけてーーーーーいや、もう、やめよう。せいぜい、騒いでくれ。僕はうんざりしたんだ。全く。
 ・・・僕は、明かりを消した。宿題はもうとうに終わっていた。その宿題はーーー適当にでっちあげたもの。僕の無惨な解答。でも、一応は努力したんですよ、先生、ほうら、ここのこういう単語は、調べないとわからないじゃないですか?ほうら?・・・・的な解答だ。それは。・・・・まあ、それでいい。僕というのは、そういう存在なんだから。
 僕はベッドに寝転がった。僕は十年後、一体、どうなっているだろう?・・・あるいは、二十年後。僕は、ああ、この間、ウィキペディアで調べたニール・キャサディみたいに、メキシコの鉄道でひっくり返って死んでいる所を発見されるのだろうか?。それとも、ソクラテスのように死刑になるか、それともトルストイのように・・・・・おいおい、なんだって、そんな有名人の名前ばっかりだすんだ?・・・お前は平凡な、何者でもない人間じゃないか?・・・遠くで、そんな声がする。うるせえ。と、僕はそいつに答える。僕は僕だ。僕は、僕の中で有名なんだよ。僕一人の中ではな。
 ふと、起き上がって、窓を閉め、カーテンも締める。暗闇。静寂。・・・・あるいは、階下での小さな物音が聞こえる。母親が一人でテレビを見ているのかもしれない。父はもう明日に備えて寝ているはずだ。
 僕は目を瞑る。闇ーーーーーー闇から覚めても。・・・・全く寝ても、覚めても夢を見ているような気がするぜ。明日は、気になるあの子にアタックしてみようか?・・・・・・・ウソ、ウソだね。そんな子はいない。もう、うんざりなんだ。僕は学校では、ずっとひとりぼっちなんだから。心の中では。そりゃあ、友人はいる。ガールフレンドもいた事があるが・・・・・ああ、こんな話はやめよう。もう、うんざりなんだ。あんな仮面連中の話なんか、したくない。・・・・実は、僕は、結構いいとこのぼっちゃん的なところがあるんだぜ。で、学校の連中はみんな上品っちゃあ、上品なのかもしれないけど、それは、ただたんに仮面の被り方がちょっといかしているにすぎない。ニートであろうと、金持ちであろうと、王様であろうと、どこの誰であろうと、この世界で生きている限りは、仮面を被らなきゃいけない。あの不細工な仮面をさ。「おはようございまーーす。」「いってらっしゃいませーーー」。
 さよなら、僕はもう寝るよ。明日は学校に行かなくちゃならないんだ。そして、僕は新しい仮面を身に付ける。・・・・?君、見てな。僕はね、この仮面を年が経るにつれて、二重に三重にも膨れ上がらせていって、そして、最後には人々をだますほどの盛大な仮面を身につけて、そうやってどこぞのにお偉いさんになって、愛人を一杯連れて、いいクルマに乗って、大衆を馬鹿にしつつ、私腹をこやしてみせるから。そうなったら、面白いぜ。僕はーーーーーーーーそうなれるかもしれないな。全くの所。恥ずかしい話だけど。
 もう、寝なきゃ。明日は早いから。

MP3プレイヤー

 


青春や希望という美名は

僕のMP3プレイヤーの中にしかなかった

現実はみんな真っ暗で

みんなが楽しそうに話している間にも

僕の耳にはローリング・ストーンズや

忌野清志郎や坂本龍一なんかが歌っていた

僕達の未来はいつだって真っ暗で

過去もいつだって真っ暗だった

そんな時にも、メロディはまるで後光のように流れてきて

その中にはまだうら若い

ビートルズやレッド・ツェッペリンだっていたのだ

僕はそれを一人ぼっちで聴いていた

そして、今もそれらの曲を同じ気持で

ひとりぼっちで聴く

時は二十年近く経っているのに

まるで何も変っていないような気が僕はする

暗闇の中にあの時のメロディが

あのままに流れてきて

「私」は一体、何に対して過ぎ去るのか

 「あの経験が私に対して過ぎ去って還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろう」(小林秀雄 「感想」)

 人文系の秀才ならば、個人という経験は類という経験の一部に吸収される、と断言するのかもしれない。だが、個人というもの、自分というものは、たとえ、その通りだとしても、一つの実在であり、一つの意思である。ここには、学問の進歩が見過ごしているものが沢山ある。個人の苦痛を考慮した進歩史などはありえないのかもしれない。
 人は、自分というものに生まれつく。これは唯一無二のものだが、社会にとってはそうは見ない。彼は、ある無数の群れの一つにすぎない。ある一人のバイト君ーーー例えば、私ーーーは、いくらでも代わりが効くものだ。
 そして、その状況は、おそらく近年、更に加速化して、個人の領域まで膨らんできた。彼氏、彼女、友人、全てが取り替え可能である。自分の子供を数値で計り、自分の恋人の年収を数値で計る。全てが交換可能な世界にあって、私達は、もっとも高い価値になろうとしている。そして、その先には、万人に愛される人間という、いわばメディアが作り上げた虚像ができあがるわけだが、この人間の空虚は大きい。この人間は、あらゆる交換可能なものの最後に現れる人間ーーーそれは偶像であり、端的に言って、もはや人間ではない。彼は彼でない、一片のかけらも彼でないからこそ、それほどの途方もない価値が得られる。
 この、全てが交換可能な世界において、私は何を考えるか。また、一体、何を考えれば良いか。私はーーーーバイト帰りに鼻歌など口ずさみつつ、考えてみる。インターネットの世界では、高所から、他人を斬る仕草が流行っている。悲報。またか。クズが。死ねーーーーそれら言葉の奥には深い仔細はない。しかし、はっきり言える事は、彼らもまた、もはや人間という実像を失っているという事である。彼らはネットに書き込んでいる時、もはや一つの言葉の世界に溶け込む一滴である。憎悪と嫉妬の海の中の一滴にすぎない。こうした所でもやはり、人間の個体性の喪失という深い問題はしっかりと根を張っている。
 私という存在ーーー存在ともいえない私の存在は、一体、何に対して過ぎ去るのかーーーーー私もまた、小林秀雄を模倣して考えてみる。私という人間には一片の価値もない。何の値打ちもなければ、何ら誇る事もない。・・・そして、あるいは、私がもし誇る所があるとして、それが一体、何なのか。それが、私という人間と一体、何の関係があるか。・・・私達が、幸福だ、価値があると見ている、家族、地位、といったものは、大抵の場合、その見かけを保つために、その内部の人々が踏ん張っている姿を映しだしたものに過ぎない。私が今、その事を痛感している時、私が何故、そんな見かけを保つために、今更、ふんばろうとするのか。
 人々の幸福という概念は、死というものに対する弱い抵抗を示している。親は子供に期待を抱くが、子供はそれに答えられず、また、その子供に期待をつなぐかもしれない。この死とのレースはずっと、続くのかもしれないが、しかし、個体としての死の空虚は、やはり確実なものとしてそこにある。私達が長生きとか、家族仲良しとか、いくら言ったところで、明日死ぬ人間と、八十五年生きて死ぬ人間との間には、時間的な隔たりしかない。結局、死ぬものは死ぬのだ。
 私が死ぬとしてーーーそして、私という人間が、社会にかすり傷一つ与えられない、無のような存在としてあるとする。そして、私が愛した人間もいなければ、私を愛した人間もいないーーーーー何故なら、個人的感情も全て社会化されているからーーーーーとすると、私の一生という私の経験の総和は一体、何に対して過ぎ去るのか?・・・。だが、そんな問もむなしいほど、答えは明確だ。答えは無だ。私は取り替え可能な存在であり、そして、私という人間は、誰からも観察されたことのない存在だ。観察されていない物は存在しない。現代物理学の常識だろう。
 人々の価値観に、私が迎合できないものがあるとして、それが一体、何か。人は様々な事を言うが、そのほとんどは、自分の内に明確な尺度を持っていないがために、社会の尺度へと迎合する。そして、現今の社会の尺度とはおおむね、形骸化し、退廃化したものに見える。・・・別にそこまでいかなくても、私にはごく「普通」の観念に適する資格のようなものすら持っていないのだ。だから、私は無ーーーーーだが、私は無にとどまる。
 私が無にとどまるのは何故か??・・・そして、ここで、問いは止まる。何故なら、おそらく、私という存在の本性は、この無にとどまるという性質にあるからだ。私には、カフカや、たとえば、ランボーのような、いわば、人々の世界から背を向けた存在に共感する事が許されるだろう。彼らは自己を守る為に、まず、世界を捨てたのだ。例えば、ランボーの背中に、世界は追っかけてきたが、彼はそれを蹴り飛ばした。だが、個人と社会では、その勝敗は見えている。・・・だからこそ、彼は敗北したが、彼の敗北は自身の宿命の必然だった。勝ったもの、負けたもの。だが、巨人と戦おうとした人間が皆無だったように、戦おうとした者自体が全くといっていいほどいなかった。最初から勝敗がない者に対して言う言葉はない。彼らは永遠に、無以前でとどまるだろう。
 私は消えていく。私は過ぎ去っていく。私は、人々が作り上げた虚像に、その信念に背を向けた事で、こうして罰せられるのかもしれない。私の中の空無と充実は全て、おそらくは、私が生み出したものに違いない。私がたとえ、大馬鹿者にせよ、私は私が大馬鹿である事を選択した大馬鹿者だったという事は言える。人々において、私はもはやかける言葉はない。私は断罪されるが、それ対するうめき声も、誰にも聞こえないのだから。
 だとしたら、私という存在は何か。世界に一瞬、灯火した、私自身にしか見えない、瞬間の流星だったというのか。私はもうすぐ燃え尽きるのか。そして、それを見るのは私だけなのか。
 この問いに答えはない。私は走る。すると、残像が残るかもしれない。私は存在しないにせよーーーー少なくとも、自分自身に対してだけは、激しく存在した、という点を明らかにしたい、そういう生き物なのだ、私は。

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