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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

 見えない声  ~ハイデガーから神聖かまってちゃんまで~





 ハイデガーの「存在と時間」をわからないながらに読んでいて、ふと感じた事がある。それは、ハイデガーにおいて、はじめてといっていいほどに(実際、はじめてかどうかは知らないが)、世界と個人としての人間との相互作用、互いの影響しあう作用が発見されたというのであれば、現代人というのは、もはや「存在」どころではなく、世界と個人との間の互いの反響があまりに進みすぎて、もはや同一化して、一つのものになったのではないか、という事だ。
 油と水は、互いに反発しあい、一つにはなろうとはしないが、人間と世界との関係においては、もはや、それは一つに同一化されたような感がある。我々の意思や感情も巧妙に統御されていて、それが自分のものだと思えば思うほどに、丁度、それは「世界」の意思と全く同一化しているという現象に立ち入ってしまう。・・・だから、現代人に「存在」もなければ、「現存在」もない。・・・だが、元々、ハイデガーの提出した人間の像そのものが、非常に苦しい、なんとか自己に立脚しようとしている半端な像であったとすれば、それから何十年かを経て、もはや、それは全然立脚できないものとして、人が、世界に融和し、融解したのだ、と言えるのかもしれない。
 この融解を促したものは、非常にはっきりしている。各種メディアを通じ、情報という単位に乗って、各人の意思、感情、目的、性格、そんなものに対する強制づけ、それらの統御が可能になったという点にある。我々は人生を統御されている。そこではすでにある種の価値観が猛威を振るっていて、それにのっとって幸福になる事は、いわば、人類全体の目標なのかもしれないが、この価値観から出る事を、世界は(そして、世界と一体化した人々は)決して許しはしない。
 ・・・だが、人間というものに対する定義は刻々と変化するだろう。芸術家や哲学者というのは、「実践家」から見れば、不要の人物に思えるかもしれないが、彼らが自己や個人を定義しなければ、人間というのは何であるのか?・・・という問いをくぐらなければ、要不要の議論は全く無意味だ。それほどまでに、エコが、あるいは効率が好きなのであれば、宇宙が存在するという事が浪費である。稼がなければ、支出もしなくて済むだろう。稼いだ果てにある本能的快楽が人生の目的だというのなら、君の死の意味は何か。君の享楽は、君の馬鹿騒ぎは、死という刀によって、鋭く、切り取られる。それは多大な苦痛を、いや、絶海の孤独を生む。それから目を背ける事は誰にも許されてはいない。
 個人や、自己というものの定義を、僕達はハイデガーやデカルトのように、再び考え無くてはならない時期に来ているのだろう。おそらくは。シオランのような人も、ネガティブな形で、それに参加している。彼が参加したくなくても、彼が人類を嫌悪していたといえ、やはり彼は人類の味方であるといわねばならない。世間の紋切り型の幸福像が、一体、僕達をどのような場所に運んでいくのか、それはこれからフィクションの世界に突入しようとする人物にとっては、非常に興味のある事ではあるのだが。
 神聖かまってちゃんというバンドの偉大さは、もちろんそこにあって、彼らは自己をごまかさずに告白したという事に、その凄みがある。彼は、偽らずに告白した。何を?・・・自分を。空っぽの自分を。空っぽの何もない、本当に何もない一人の少年である自分自身の姿を。・・・世界は虚偽の情報で満ちている。サムネイルの画像と、テレビCM。あらゆるものが空想によってまつりあげられ、誰もが背伸びをして、背伸びした自分が本物の自分だと思い込んだその地点で、の子という一人の野蛮児は叫んだ。「これが本当の自分だ。これが空っぽの自分だ!。俺には何もないんだ!」と。
 世界の変化とは、世界に同調する人間によって、生まれるのではない。それは、ビジネス書をたらふく読んだ人間の妄想に過ぎない。本物のビジネスは、ビジネスをはみ出す、という所に世界の面白さがある。人間においても同じだが、人が機械になる事を望んでいるこの世紀において、彼らが盛り上がっているは当然なのかもしれない。
 自己の再定義ーーーそれはこれからの各個人の仕事になるだろう。世界中から、無名の何もない人間が、今も、必死の自己主張をしているかもしれない。の子のように。僕はその言葉の全てを聞く事は、到底できない。しかし、自分もまたその一人であるという事から、それら見えない声をはっきりと甘受する事は可能である。

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駆ける

時間は存在しない

空間は存在しない

物があって

人がある

コンピューターは一秒に

四億三千万手先を見通し

人の遥かな直感は

古代人の心性を想起するに足る

今、私に残された想いーーー

大洋の中を駆けて行くあの星屑

かつてイルカだった少年のように

私もまた 私の空を

駆けたい

ダンスの終わりに

 ダンスの終わりに



自分という透明な海の中に

僕が一人、ぽっかりと浮かんでいて

そいつは僕自身をじっと眺めてくる

喋りかけても、何も話さないし

ただ、上目遣いに怖い目線で

じっと、僕自身をにらんでくるだけ

どれだけ僕が脅してもあやしたりしても

びくともせずに、僕をずっと眺めている

それで仕方なく僕が沈黙すると

「何かやれよ。おもしろくないだろ」と

そいつはぼそっと一言

で、僕がまた「何か」やり始めると

そいつはただ僕をじっと眺めているだけ

で、僕が疲れて全部やめてしまうと

「もっと、やれよ」とそいつはまたぼそっと一言だけ

今度は僕が怒って

「ふざけるな」とそいつに言うと

「君の人生での演技は僕の見物なんだ

僕を退屈させないために続けてくれたまえ

君は人に嫌われたくなかったり

人より愛されたかったり、金が欲しかったりするために

そんな風に一生懸命に演技するんだろう?

だったら、僕がその一部始終をここでじっと見ていてあげるから

必死に踊ってごらんよ」

と、そいつは生意気にも言う

僕はもう怒る気もなくなって

そいつの事なんか気にせず、やっぱり元通りの

昔からの僕のダンスを始めた

そのダンスは終局もなく始まりもなく

終わる事のない輪舞

足がもつれてこけたとしても

それも演出の一部であるかのように見せかけて

僕はすぐに立ち直り、ステップを元に戻す

そうやって、僕は踊り続ける

そうして死の間際まで僕は

「僕」という芝居を続ける

でも、僕の見物人は

その僕の分身というもう独りだけ

そして、そいつはいつもとても退屈そうに

僕のステップを眺めているんだ

これほどやりきれないダンスはないが

それでもそれが生きる事だと信じているから

僕は輪舞を続ける

そして、僕が疲れて踊るのをやめると、

そいつはまた言うのだ

「さっさと、続けろ」と

そうやって、終わる事のない輪舞はどこまでも続いた

不思議な事に

僕が死んだ後も 未だに

僕のステップは失われていなかったのだった

むしろ、死後の僕の方が

生前の僕よりもずっと華麗に

美しく同じステップを踏み続けていたのだった

冥王星から

遠い海の平原で

誰かが眠っていようと

俺の心は目覚めている

世界の起床に合わせて

クジラが潮を吹く時

俺の魂は凪いでいる

この大海の前に全てを供出した

その見返りを受けたのだ・・・

さて、俺が後ろを振り返ると

そこには影の女人が一人

「お前を孕んだ時から

お前を呪い殺す宿命だった」と言って

女は俺に覆いかぶさってきて

俺を殺害した

だが、魂が「死」をくぐり抜けた後

俺のその魂は影の女人もあずかり知らぬ

平静をこの身に感じた

そこで俺は魂を吐き出すため

「存在(イグジステンス!)」と叫ぶ

すると、来るはずのなかった未明のコヨーテ達が

俺の魂に集ってきて

俺は来世の誓いを果たした

・・・さて、今、現実の俺は

アルバイトの途中で皿洗いをしていたのだが

今や俺の魂は凪いで

再び現実に還れそうにない

人々と歩調を合わせた俺の死骸の肉体が

どこまで「時」に腐食されようと

やっぱり俺のこの魂は

あの冥王星の辺りをさ迷っているのだ

あらゆる宇宙の香気を嗅いで

人間共の生活をわくわくと眺めつつ


  時


お前の魂に

誰が問いかけるか

一人ぼっちの孤独に

いかに馴致してきたか

その道程は

誰も知るまい

お前の魂に

誰が問いかけるか

誰も彼もがわめいているが

それは空想病のなせる技だと気づいて

お前は一層、自らの空想にのめり込むようになった

今、お前に言葉はない

人々の寝言の内に

お前は自らの真言を深く沈める方法を

確かに知ったに過ぎない

この二十何年の道程で

たとえ、人々が死後のゴッホに高い値段を付けたとて

それは生前の病んだ精神病の一人の絵描きとは何の関係もない事

今、その絵描きを自称するお前にとって

真実とは何か

言葉の果てにある

もう一つの言葉とは何か

人々の饒舌に埋もれさせる事を嫌った

その底に光る沈黙の言語とは何か

お前の口から漏れる

世界とは違った色合いの光彩とは何か

・・・今、お前は沈黙する事を強いられているが

やがて、お前が口を開く時ももうすぐこよう

その時、人々の饒舌はやみ

帳のように昼の光が訪れ

自ずと貴様の口は開き、言葉が流れだす

そう、それは河のように

この世界のあらゆる穴という穴を塞いでしまうだろう

その時、お前が一体、何者であろうと

少なくとも、一つの言葉を発したという事実は変わらない

この暗雲の上にも太陽がまばゆく輝いているという事実は変わらないように

そうしてお前はお前の沈黙の光の中で

人々の饒舌を消し去るその瞬間を待っているのだ

ただ、一本の木のように

ただ、一輪の美しい花のように

そして、その時が訪れば

おそらく、神が枯れ木を持って

お前の心の扉を静かに叩くのだろう・・・

「さあ、時は来たれり」と

ノリアキのように

 バイト帰りにノリアキの楽曲を聴いていて、ふと、ああ、リアルだなあ、と思ってしまった。僕はその時、とても疲れていたのだろう。夜勤帰りの体に朝日がよく沁みた。
 世の中のリアルぶったフェイク共を切り裂くように、本物のリアルは忽然と現れた。それがノリアキであり、その事は彼の楽曲を聴けば、すぐに得心できる事だろう。
 ・・・最近、「世界一即戦力の男」という、面白い人物を発見し、笑い転げた事があったが、彼はノリアキと全く同種の存在である。・・・つまる所、このフェイクばっかりの世の中に、自ら、「自分はフェイクだ」だと堂々と宣言した、リアルである。世のリアルぶったフェイクとは、彼もまた、一線を画す。
 人間というのはおそらく心底うんざりする存在で、六十億もいると聞いて、本当にぞっとする思いがする。・・・どいつもこいつも不平顔で、自分の小さな世界をいつも、偉大で大きな世界と取り換えようと待ち構えていると考えると、吐き気がするほどだ。・・・だが、彼らの顔に泥を塗るのはおそらく素敵な事だろう。その為の方法は既に明確だ。本物である事。本当に美しくある事。造花ではない事。・・・いや、造花でもいいが、「真に」美しい事。・・・条件はそれだけだ。
 このうんざりする世界を破壊したところで、やっぱりその破壊した自分の心性にうんざりする事だろう。やるべき事はただ一つ、自らが高く飛翔する事だ。人々は踏み台にすぎない。そう、あのノリアキのように。

「生きる悲しみ」について

 「生きてく理由は見つからないが、何故死なないでいるのかが解らない、そういう時に生きる悲しみがラスコオリニコフの胸を締め付けるのである。」という一節が、小林秀雄の「罪と罰Ⅱ」にある。
 僕は自分のくだらない労働中に、多分、疲れていたのだろうが、その一節が頭をよぎってしかたなかった。自分にとって不本意な事をさも得意そうにするのは、現代に生きる者の普遍的な悲しみだから、僕の脳裏にそんな言葉がよぎったのかもしれない。
 こういう言葉が僕の脳中をよぎるという事はおそらく、僕にとっては不幸な事に違いない。僕という人間は不幸に違いない、とよくよく自分で考える。他人からはそう見えていないから、余計不幸なのだ。
 自分の話になってしまったが、労働のさなかに周囲の人間を見ていて、それぞれどんな人間なのだろう?・・・と、よく観察する。おそらくは無意識に観察しているのだが、僕にとって見えるのは彼らの背後の像である。死というフィルターを越えた何か、そこに残る人間の影をおそらく、僕は見ようとしている。・・・すると、たまに、ロボットよりもロボットらしい人間や、単なる動物へと還ろうとする人間も散見される。そして、病理は病理を呼ぶから、異常者達が声高に別の異常を作り出している状態も、時代の流れの一つとしてはやはり存在している。
 「生きる悲しみ」に思いを果たした事のない人が果たして本当に生きているかどうか、疑わしいと、僕などは思う。・・・そう言えば、我々のほとんどはそんな事に思いを馳せた事はない、そんな事はどうでもいい、と言われても、そうした思いを僕は断ち切る事はできない。我々にとって、死という明らかな一事が先に控えている以上、それに逆照射する形で生もまた浮かび上がるからである。私達は自分達で考えているほどには「生きて」はいない。生という一つのオーラ、その波動を体感した人間はほとんどいない。誰もが、なんとなくその場をやりすごして、だらだらとその日を過ごしているにすぎない。・・我々は本物の歓喜も悲しみも体験した事がないから、小さな喜びと悲しみを人生の内の全感情として取り違えて、いい気になっているにすぎない。
 こんな愚痴みたいな事を言ったのは、おそらく僕が疲れているだが、しかし、ラスコーリニコフ的に、「生きる悲しみ」が胸を締め付けたからでもある。・・・生きる悲しみを体感できるという事は、僕は、よほど幸福な人間なのかもしれない。生きる悲しみを体感できるのはもちろん、真に生きようとする者だけであろうから。
 死は、我々から可能性を取り除くが、生もまた同様に、我々を一つの機械にする。我々は、別種の、無機質の生と死とよばれる、なにものでもない、我々を無に誘う何かに取り囲まれて生きているが、本当の死と生を見た試しはない。生のエネルギーの横溢は存在せず、死は常に他人のもの。ぼんやりした不安でしかない。
 我々はおそらく、この二つを止揚する為に生きているのだろうが、その道のりは果てしなく遠い。私にはただ、かつての偉大な先人達が、綺羅びやかな影として、目の前を過ぎ去っていくのを認めるだけだ。
 さて、私は翌日に備えてもう眠らなければならない。

あなたと私

私が誰かなら私は誰でもない

誰かが私なら私は誰でもない

誰かが私であって

私は誰でもない

だから、私は私じゃない

なのに、こうして呟いている私はここにいる

それはデカルトが見つけた「私」と同じ事

六十億人いるこの世界の星の数ほどの人の群れに紛れて消えても

その中に見えない私がいて

その私は、今ここで叫んでいる私の姿

それが私

でも、私は誰にも出会う事ができない

もし、あなたが自分の存在を一度も見失ったことがなくて

心からの叫びを一度も発した事がないのなら

即ち、あなたはどこにもいないのだから




      ※講談社文芸文庫「さようなら、ギャングたち」にのっている谷川俊太郎の詩を多少参考にしました

ドストエフスキーの放った矢

 小説を書くという事はおそらく、想像されるよりもずっと、怖ろしい事なのだろうと僕は思う。何故なら、僕らがたとえ、あらゆる、小説を含む芸術を軽蔑し、それらを地面に叩き付け、ゴミ箱に投げ捨たところで、僕達のその稚拙な動作の全てが、大芸術家の芸術の中において既に描かれているからだ。・・・しかも、それは主役ではない、せいぜい端役として、あるいは悪役として載っているのだ。


 ・・・例えば、ドストエフスキーは当時のロシアにおいて、左翼思想がどういう経路を辿り、終末へと至るかを描いた「悪霊」という小説を書いた。そこで、彼は当時の若い、頭脳の勝った知識人達の宿命を徹底して描いた。・・・彼らは地面と足が離れているが故に、地面に激突して死ぬのだろう。・・・もう一度、戻るためには、ラスコーリニコフのように大地に接吻しなくてはならない。


 ところで、その後のロシアの現実は一体、どうなったか。レーニンが、トロツキーが現れ、最後にスターリンが現れた。スターリン政権下では、悪霊は発禁処分になったのかもしれないが、彼らはその書物の中味までは焼き払う事はできなかった。彼らは本そのものは廃棄する事に成功したのかもしれないが、その真実からは逃れられなかった。・・・だから、僕が言いたい事は、スタヴローギンとは正にスターリンではないのか、という事だ。


 スタヴローギンが実際にスターリンに似ている、似ていないという些細な事を僕は言っているのではない。ドストエフスキーが、徹底的に洗練された形で、現代の最奥の病巣を一人の人物に結実して描いた以上、病理そのもののスターリンという人物は、勝手にドストエフスキーの作品の中の一登場人物に酷似するに至ったのではないか、という事だ。僕の言いたい事は。


 スターリン政権下では多くの人が死んだ。・・・あるいは、それは、スターリン政権下にしか成し遂げ得なかった進展もあったのかもしれないし、今でも、ロシア人の内、スターリンを応援する人は多いと聞く。・・・しかし、僕にとっての真実は、残念ながら、多くの人がその政権下で亡くなったという事ではなく、スターリン的なものはドストエフスキーの手の平を決して超える事はなかったという事にある。彼は大勢の人を殺したのかもしれないが、しかし、彼は必然的に死よりも深いものを負って死ぬ事になったのではないか・・・。それはつまり、あの、恐るべき殺人を犯したラスコーリニコフが体験した、絶対的、存在的な孤独である。


 正義を楯に人を殺す事はできる。人は、笑いながら犯す事ができるものである。何も考えないものが、社会からの命令だから仕方ないという事で、人を殺める。・・・彼に罪の意識は一切ない。・・・何故なら、彼は社会の命令に従っただけなだから。自分が悪いはずがあろうか。


 自分達は正義の体現者である。・・・だが、無意識は反抗する。我々が頭脳を強度に駆使して、自分自身を征服しえたと思った瞬間、別の角度から現れた自分によって、自分はバラバラに切り裂かれる。スターリンは晩年、極度の人間恐怖に怯えていたという話を聞いた事がある。彼は自分の正義を信ずる事は最後までできたが、自分の恐怖がそれに背離する事はどうにもならなかった。彼は端的に言って、正義の神であり、執行者であったのかもしれないが、人間としての彼が彼自身に反抗したのだった。


 ドストエフスキーが描いた現実は今の僕達にも通じる。僕達は自分を失っている。誰もがラスコーリニコフ的である。誰もが性格を紛失している。誰もが様々な衣装を着たり、着せたりする。イケメン、オタク、アラサー、ゆとり世代、ニコ厨、団塊の世代・・・実に様々なレッテルがあり、どれを身にまとおうが、どれを人に勝手にかぶせようが、全部、僕達の勝手だ。だが、忘れてはならない。ラスコーリニコフは信じる事を全てやめた事から始めた。そこに物語が生まれた。何かを信じている人間に物語が到来する事は決してないだろう。疑問を持たない者に答えがおとずれる事が決してないように。


 現代という時代は、根本的にラスコーリニコフ的だと、僕は感じている。誰もが、地面に足をついていない。仮面をかぶれば、試験を突破し、良い会社に就職し、かわいい彼女(かっこいい彼氏)をゲットできるかもしれない。だが、もはや、地面に足をついていないのはこうした個人ばかりではない。社会全体が地面に足をついていない。嘘をつく事、綺麗そうな仮面をかぶること、仮面が破れればまた新しい仮面をかぶることーーーそれが全てだ。そんな時代と社会に僕達は生きている。


 僕達は罰を食らうだろう。おそらくは。僕達の罪と何か。それは罪に気付かなかったという罪だ。あらゆる感受性が剥奪されている。モニターを通した全ては美化されているが、現実の目は腐って、淀んでいる。幸福はいつもモニターの中、いつまで、芝居を演じているつもりか、僕たちは。芝居を現実だと誤認したまま。


 さて、僕はーーーーーいや、これ以上、僕は言う事はないだろう。僕はこれからーーー自分の仕事を粛々と進めていくだけだ。粛々と。


 ドストエフスキーが放った矢は、今の僕達にも突き刺さっている。それを見ようとしないものにも、それはしっかりと突き刺さっている。そして、容易には抜けないのだ。僕らがこれを一つの遺産とするか、それともそれを老いた者の単なるお節介とするかーーーそれは、僕達のこれからの歩みが決めるだろう。おそらくは。





 

死ぬまでの一瞬

   


貧しく、誰にも理解されないまま

芸術家はこの世を去る

彼らは一筋の流星のように

その作品だけを一つの軌跡として

消え去ってしまう

そして、後の僕らは

おほんと咳払いしたら誰もが静まり返るような

そんな先生の御教授の下

その芸術をありがたく受け取る

だから、芸術家は今も天国の上では

相変わらず孤独なままだ

それでも良き魂同士は

この地上の煉獄をくぐり抜けて

互いに相触れ合い、出会う事になるだろう

それは地上の僕らには見えない天上の奇跡

そこではきっと、天使も神様も一緒にいて

みんなで次の作品の構想を練っているのかもしれない・・・

僕が今、こうしてこんな文をひねり出しているのは

そんな天上の奇跡に思いを馳せているからなのかもしれない

だが、今の僕がいるのは地上

死ぬまでにはおそらくまだ間がある

トカゲの目標

 


みんなが難しい事を言っている

時々、僕はそう思うんだ

そんな時でも お星様は回っているし

太陽も月もせっせと動いている

足を止めて、口ばかり動かしているのは

きっと、人間ばかり

そんな事をお父さんとお母さんに言ったら

ぽかりと叩かれて怒られました

でも、ほら、僕の足元のトカゲは

こんなに頑張って僕の股下を駆けていく

きっと、見えないどこかの目標を探して


  言葉の道


あらゆる賞賛と非難を越えて

言葉は続いていく

あらゆる声援と罵声を後ろにしながら

言葉は自らのレールを進む

非難と批判の時代

誰もがしたり顔で嘆いてみせる時代

「もうすべき事は全部終わったし、自分達にやる事は少しも残っていない」と

通が2chに書き残していく時代

そんな時代でも不思議に

言葉は自らのレールを進んでいく

それを止めるのはただ人間

僕は身をよじらせて 言葉にその道を譲る

たとえ、僕が消えるにせよ 言葉だけは

自分自身の道を歩めるように、と

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