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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

雷火と共にサヨナラ

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君は詩人を見た事があるか

     君は詩人を見た事があるか



生きる希望もなければ

死ぬ絶望もない

絶望と希望を剥奪された男は

一体、どんな言葉を綴るのか

気になるなら、君は窓の外を見たまえ

そこに歩いているごく平凡そうな暗い顔の男が 即ち僕だ

あらゆる人間に対して他人のような表情をしているが

魂は赤銅のように真っ赤に燃えて

何かを叫びたがっているのだ

他人からはただの暗い男としか見えないが

そいつの魂はおそらく天国へ行こうとしている

あらゆる地上の地獄を突き破って

それでも、そいつに語る言葉はないので

全ては詩として、ここに叩きつけられるだけなのだ

君は詩人の姿を一度でも

見た事があるのか?

前進


   前進



詩神よ 降りてこい

この世界の孤独を一人占めにするために

神よ 俺の為に歌を歌え

今、俺のしわがれた声の代わりに 神よ

お前の盛大な歌を私の耳に響かせよ



言葉を道具にすれば どこまでもいけるが

そこが天国とは決まっていない

酸素のない火星か、それとも地獄か

それは俺にも決められないのだが

衣食住にことかかず 酸素と人間がしこたまある

ここよりはずっといい所に違いない

地球は住むためにあるのではない

帰るためにあるんだ



俺の歌は宇宙に響く

お前達、地球の幼子を置き去りにして

君達は大きくなれば

私の歌の意味がわかるだろう

そしてそれは大海のように まだ見ぬ母のように

安らかで優しく 君達の耳元に

真の愛を呟く事だろう



今、この空を見よ

今、この海を見よ

全てが数値づけられ レッテルを貼られた

あらゆる鳥類達、全ての生物達をもう一度見よ

見よ!・・・彼らは今

あらゆるレッテルを剥がしながら

前進しようとしている

君が後退しようとしているとは正反対に

君が観念の虜になっているのとは反対に

彼らは生命として今を生き 前進しようとする



だとするならば、私達が前進できないはずはない

私は前進する

地球の子達に判別できる

足跡を一つも残さずに

顔と体

   顔と体


さよならを言う前には

言葉は消えて欲しい

誰かと愛撫する時には

言葉は消えて欲しい

その時には、音楽が鳴っていて欲しい

その時の情景にあった

巧みなやつを

・・・今更、何も言う事はない

僕は人生に疲れたんだ

「人生に希望を持て!」と

連呼する連中のお陰で

今、鏡を見て、そこに写っているのは

僕の顔ではない

誰か、別の他人の顔だ それは

そして僕の本当の顔は今も

どこか遠い暗闇をさまよって

僕の本当の体を捜しているのだ

五時限の夢

 
 私は夢の中で眠っていました。・・・私は、夢の中で、机に突っ伏して、眠っていました。そして、夢の、そのまた夢の中で、私は恐ろしい夢を見ていました。私はそこでは暗い中を、どんどんと落下していくのです。・・・そして、その底には、人間の骨ばかりが沢山詰まっている・・・。骨は見えないけれど、何故だか、そう「感じた」のです。私は。
 私はどんどんどんどん深く落下していきました。私は怖いような、不安なような、それでいてどこかそれを愉しんでいる私もどこかで、落ちていく私を見ているような・・・そんな不安定な気持ちでした。私は、ただひたすらに落ちて行きました。
 そして、落ちる程に、底が見えて来ました。・・・それは私が思ったとおり、やっぱり、人間の骨で埋まっていました。ああ、私はあそこに落ちて、激突して死ぬんだ・・・私はそう感じました。それは、もう、間違いのない事実でした。
 ですが、地面が近づくにつれ、私は、妙な事に気が付きました。その、骨だらけの地底の真ん中に、何やら、赤いものが見えるのです。・・・それは、私が落下すればするほどに、どんどんと大きくなっていきました。はじめ、私はそれが、置いてある袋か何かだと思いましたが、段々に、それが生き物だという事に気が付きました。・・・それは、どんどん大きくなりました。私が落下するたびに。・・・それは、なんだか、その体が膨らんでいくようでもありました。
 私は落下していきました。そして、丁度私は、その赤い生き物に吸い込まれるように落ちていったのです・・・。そして、その赤い生き物が何なのか、私にもはっきりとわかってきました。・・・それは鬼でした。顔は馬みたいに細長いのに、体は筋骨隆々とした人の体、そして手には棍棒を持っていました。どうして、私がそんなにはっきりとその姿が見えたのか、それはわかりません。・・・本来、上からは、その全身が見えないはずでしたのに。
 私は、その赤い馬の化け物に吸い込まれてゆきました。そいつは、私に気がつくと、口をあんぐりと大きく開きました。・・すると、その口はみるみる、その地底一杯に広がりました。・・・そして、その口の中は真っ暗で、そして、何故だか、その真っ暗の口の奥には何人かの泣き叫ぶ赤ん坊の姿が見えました。・・・そして、その何人かの赤ん坊の姿は、互いにどろどろにくっついていて、そして、みんな何故だかもう、必死に、私の方に向かって泣き叫んでいるのです。
 私は、恐ろしくなりました。心底、怖かったのです。こんな事になるのなら、もっと早いいつかの時期に、死んでおけばよかったと思いました。・・・私は落下して行きました。その黒い口の中に。赤ん坊達の群れの中に、私の体は突入していきました。・・・そして、私が、ああ、もう駄目だ、と、心底諦めて、目を瞑った瞬間、ふいにどこからか光が現れ、強烈に私の目を焼きました。・・・そして、次の瞬間、私は目が覚めていました。
 それは、授業中の事でした。・・・私はいつもはしない居眠りを、昼休み後の英語の授業に、机に突っ伏して、眠ってしまっていたのでした。・・・そして、私の顔の辺りには、ちょうど、カーテンの隙間から漏れた光が、厳しく突き刺さっていました。・・・私は、内心の動揺と、私が今までぐうすか寝ていた事を周りに気取られないように(もちろん、周りの人達はみんな気がついていたでしょうが)、教科書をこれみよがしに広げて、その中に自分の顔を隠しました。・・・でも、私の心臓はバクバクと鳴っていました。私は、怖くてしかたなかったのです。・・・でも、それと同時に、私は、自分がこの、現実に帰ってきた事に安堵していました。私は、もう二度と、あんな夢は見たくなかった。だから、もう二度と、学校では居眠りしまいと、その英語の時間に、こっそりと誓いました。


 ・・・でも、事はそれで終わりじゃなかったのです。私はその日の帰り、いつも通り、友達のゆうちゃんと一緒に帰っていました。ゆうちゃんはおとなしくて、引っ込み思案な子でした。・・・だから、私とはいつも気が合うのでした。
 ・・・でも、その日の帰り、ゆうちゃんは私と一緒に帰りながら、少しだけ様子が変だったのを、私は覚えています。・・・ゆうちゃんは、一緒に帰りながら、私がいつものようなちょっとした世間話や、面白そうな話をしても、いつものように明るく優しく相槌を打ったりはしてくれませんでした。ゆうちゃんは珍しくーーーというか、私が一度も聞いた事がないくらいに、低い声で、私の話に「うん」「そうだね」と、答えるくらいなものでした。
 それを、私は最初は気が付きませんでしたけど、帰り道を十分ほど進んだ所で、その異変に気が付きました。・・・私は、彼女の事を思って、声をかけました。
 「ゆうちゃん、大丈夫?風邪でも引いているの?」
 ・・・すると、ゆうちゃんは、私の方とは逆の側を見て、ちょっとうつむきました。・・・そして、それっきり、何も答えようともしません。私が心配になって、もう一度、ゆうちゃんに声をかけようとすると、ゆうちゃんはまるで、私の言葉に覆いかぶさるように、次の言葉を言いました。
 「ねえ」
 それは、とても低い、男の人のような声だった事を覚えています。
 「私達はみんな、見てみぬフリをして、生きているのかしらねえ」
 ・・・それは、私にとっては意味不明な言葉でした。それに、普段のゆうちゃんからは考えられない口調と、言葉だったので、私はその時、呆然とそこに立ち尽くしました。ゆうちゃんは、また言葉を発しました。
 「あの赤ん坊達だって、きっと、とても苦しんでたのよ・・・。あなた、その事に気づいた・・・?」
 そう言って、ゆうちゃんは、ヌッと、私の方を見ました。私の方に、さっきまで見えなかった顔を向けました。・・・、私はその顔に驚きました。それは、まるで人間の顔ではありませんでした。でも、確かにゆうちゃんと分かる顔形も残っていたのです。つまり、それはゆうちゃんの顔から、もっと、別の薄気味悪い化け物の顔へと、ブクブクと音を立てながら、変わっていく途中だったのです。
 私は絶句しました。何も言えませんでした。逃げる事も、叫ぶ事もできませんでした。・・・その時、私は気が付かず、後で気がついた事でしたが、周りの光景がさっきまでと違っていました。確かに、そこは私達のいつもの帰路の途中だったのですが、その周囲には私達以外の人の姿は見当たらず、そして、ゆうちゃんの後ろの夕陽は、今まで見た事がないくらいに真っ赤になっていて、しかも、とても大きかったのです。それは、ゆうちゃんの顔よりずっと、大きく見えました。
 何も言えない私に、化け物になりつつあるゆうちゃんは、言葉を続けました。
 「私達は、何も見ずに生きている・・・。何も見ずに感じている・・・。でも、あなた、わかった・・・・・・・・?。落下の瞬間、とても怖かったでしょう?(そう言って、ゆうちゃんはニンマリと、赤黒く笑いました。)ここに戻ってこれた時、さぞ、ほっとしたでしょう?・・・。でもね、私達、忘れている。私達みんなが、落下し続けているという事に。」
 そう言い終えた時は、ゆうちゃんは、もう背丈二メートルくらいの、完全な化け物になっていました。・・・そして、その姿は、私が丁度、あの夢の中で見た、あの馬の顔をした化け物と全く同じだったのです!
 「あなた・・・わかっている?・・・私達は忘れているの。私達は、あの子どもたちの叫びを、忘れている。あの、底に埋まった沢山の骨も忘れて生きているの。私達が落下し続けて、生きている事も。そして、あの子供を、あの骨を作り上げたのが、私達自身だということも、私達は忘れているの。忘れたの。私達は全部。そう、忘れたのよ・・・だから、こうして」
 そう言って、ゆうちゃんーーーいいえ、もう、その鬼のような化け物は、どこから取り出してきたのか、あの長い棍棒を両手に持って、高く掲げていました。それで、私は今にも、打ちのめされ、死に絶えようとしているところでした。私の体は、ピクリとも動きませんでした。
 「全てを思い出させる為に、何もかも全て、私達がした事を、私達に全て、思い出させる為に、私はこうやって、みんなの所をまわって活動しているのよ。私達は、死に飢えているわ。自分達が、沢山の人を、いじめて、いためつけて、殺してきたのに、その事を忘れようとしているから、私はこうして、あなた達に、死というものを思い出させてあげるの。その為に、私のような化け物は存在しているの。・・・だから、まず、あなた。可愛いあなたから、殺してあげる。それで、たっぷりと、自分のした事を思い出して♥」
 ・・・その馬の化け物の最後の声は、変な事ですが、本当にチャーミングな声でした。可愛らしい口調でした。・・・もちろん、その時の、私は伽藍堂で、この世界も私自身も全てが空っぽになっていて、目の前の怪物が一体、何なのか、なぜ、私を殺そうとしているのか、全然わかりませんでしたが。
 ・・・私はまた、目をつむりました。今から死ぬのだ、とも、もう何とも思いませんでした。・・・ただ、反射的に目を閉じていました。ただ、私の魂の奥深い所では、死というものをはっきりと実感していました。言葉にならなくても、私はもうほとんど「死」に触れていました。
 そして、棍棒が振り下ろされてきました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


                               ※
 私は目が覚めました。・・・今度こそ、本当に目が覚めたのです。・・・そこには、棍棒を持った馬の化け物の代わりに、教科書を持った、英語の先生が立って、私の顔をのぞきこんでいました。・・・先生は、その英語の教科書で、今にも私を小突こうとしているところでした。その刹那に、私は、はっと目を覚ましたというわけでした。
 「起きたか」
 と、先生は少し厳しめな声で言いました。
 「はい」
 と、私は放心状態で言いました。ここがどこだかさえ、ほとんどよくわからなかったぐらいでした。
 「珍しいな。お前が居眠りなんて。・・・これからは気をつけるように」
 ・・・そう言って、先生は教壇の方へ戻って行きました。周りのクラスメイトはみんな、くすくすと笑っていました。


 その日以来、私は、学校で居眠りした事はありません。




   術


もう何も言う事はない

ただ「僕」という宿命がそこにあるだけだ

努力と才能を対立させ

その中間に常識を入れ

そしてその下支えに言い訳とお慰みを入れ

それで、万事、事は終われり・・・と

さて、これで全てはめでたく終わり

全員が幸福面したサラリーマンとなった

そこで僕は努力も才能も放棄して

自分の中に逃げ込んで ただ

自分と語り合う事で夜を過ごす

もし、次の瞬間に核爆弾で世界が滅ぶにせよ

それは僕の魂にひとかけらの傷すらもたらす事はできないだろう

あの晩、もう既に僕の魂は人の世に別れを告げて

死んでいたのだから

今、僕の視界には

死んだ者だけに見える

明るい道が見えている

それが何なのかを人が問うことはできないはずだが

ゾンビとなって生きている僕にはそれを

探求する術が与えられているはずだ

夢の中で

 夢の中で


 時間は過去から未来へと流れていく。私は、その中の、一つの石に過ぎない。私はただ、この川の流れに押し流されていくだけだ。

 私は、もはや、何も言わない。文句も喚かない。・・・私は、もう、どんな理不尽すら耐えしのげるだろう。なぜなら、生きている事そのもの、そして、それが死ぬという決定的な理不尽を越える理不尽はどこにもないからだ。

 私達が好んで、恐れているもの。・・・それは何か?・・・。しかし、そんな問いはいらない。私達は、大きなものを恐れるあまり、それに目を向けないようにするために、いつも、自分よりも小さなものに怒号をあげ、気を紛らわせようとしてきたのだ。

 人生とは旅である。いかにも。・・・だが、私達は旅しているのか、ただ流されているのか、誰も知ってはいない。流される事が人生なのかもしれない・・・・。確かに、そうかもしれないが、しかし、自ら能動的に一歩も踏み出さない事を旅といえるだろうか?。私達は、地球にのっているだけで、随分激しい運動をしているのだ。

 今更、時間や流れについて述べても仕方ないだろう。私は、時の中で、静止した時間を思う。全てが停止した時間。そこは、始まりでもあり、終わりでもある。私がこうした駄文を書いているのは、そうした場所だ。

 人々の過ちは正されるだろう・・・他民族によって。人類の過ちは正されるだろう・・・宇宙によって。宇宙の誤りは、宇宙ではない、そして宇宙より遥かに巨大な、そして、おそらく決して私達が拝める事ができないなにものかによって、是正されるだろう。

 世界がマトリョーシカのようにできていると、言いたいのではない。そんな事はどうでもいい。・・・問題は、間違えた時は、必ず、何かがそれを覆さなければならないという事だ。

 近代人は自然という事を言ったのかもしれない。それは、私達が十分、人工化された後だった。・・・私は、今、何を言おうか。このSF的に、道化じみた世界で。

 私に友達はいない。恋人はいない。家族はいない。私より、孤独な人間があるだろうか?・・・いや、ある。それは、馴れ合っている人々だ。彼らほどの孤独を、私は知らない。彼らより、バクテリアの方がまだ、必死に生きているのではないか。

 全てが終われば、また、全てが始まるだろう。私が死ねば、それは無に違いない。だが、私が感覚した事は、私の中に残っている。だから、人を傷つけたり、傷つけたりするという事は、やはり「何か」なのだろう。

 私は、ゆくゆく、寂しがりの人物に違いない。自分についてばかり、こんなに語っているのだから。だが、これは、自己愛の成果でもなければ、自己嫌悪の成果でもない。私は世界を拒否した。そして、それと共に、私自身を拒否した。なのに、私の中にたった一つ残ったものがあったーーーそれが「言葉」だ。そこで、私は私について語る事を始めた。私の語る私とは、ただの抜け殻にすぎない。ただ、誰よりもよく知っているサンプルとして、私という対象を選んだにすぎない。

 さて、私はこれから眠るだろう。そして、おそらく、その時に見る夢は、今ここに書いた文章とは、きっと、何の関わりもないだろう。

 さよなら。また、明日。夢の中で。

シェイクスピアに寄せて

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 シェイクスピアに寄せて


テレビのスイッチを切り

パソコンもシャットダウンして

僕は一人

四百年前の賢人と語り合う

その精神の自由さに比類するものはないし

その豪胆さに叶う勇気はもはやどこにもない

彼の手によって世界は軽々と持ち上げられ そして

それはわかりやすいように一般の者にも

見えるような手つきで徹底的に解剖された

そこではこの現実のように曖昧でぼやけて

うんざりするものはひとかけらも見当たらない

悪人は自ら悪人たろうとし、善人は最後の最後まで死力を尽くして悪と闘う

私達の卑俗な人生とは違って

そこでは全てが偉大だ

私達がこの精神の翼に乗って

この大地を遠く離れた空を横切る時

何事をも中途でやめてしまう情けない私達の姿を忘れて

私達は始めてこの世界の全貌を見る

それは朝焼けのように美しく輝くと共に また

夜更けのように陰鬱で恐ろしくもある

そしてそこで得たものを現実の世界へと持って帰れば

不思議と人々と大地の姿が変貌している事に気づく

つまる所、この世界は

シェイクスピアという太陽に照らされて ようやく輝く

そうした一つの惑星に過ぎなかったのだという事を

「自分」への問い

 「自分」への問い



未来は今、影を落としている

光の中で、誰かが囁いている

私は孤独の中に安住している

人々は埋没する事に慣れている

銅鑼が一つ鳴れば、俺の魂は

駆け出すだろう まるで虎のように

人々の哄笑は今や、俺には

中学時代の思い出のよう

・・・そう、あの頃、初恋の人がいて

僕は「僕」だった・・・

光が影を落として

未来が歩き出す

後ろ向きに前進する事も可能なのだ、と

太陽と月が交互に昇るように

俺達の過去の亡霊たちが

俺達の中の魂に囁き続ける

何かが終わる時、何かが始まって

見まいとしたものもやっぱり、そこに存在し

だからこそ、宇宙も美も精神も

おそらく人間の意志を乗り越えるなにものかとして

そこに厳然と立っている事となるのだろう・・・

人々の尺度に合わせて

自分を切り取る人生はもういらない

俺は世界から大きくはみだすつもりだから

世界の方で俺を勝手に

矮小化してくれるはずだ

今宵もこうして月が昇り

どこかで絶滅したはずのコヨーテが

最後の遠吠えをし

俺の魂は天上近く

ゼウスの目の前で破裂した

何かが終わる時、何かが始まるのだ、と

知っている誰かが僕に忠告したとしても

もう既に走り出している人間には

何も聞こえないはずだ

一陣の風になりながら 僕は考える

「自分とは何なのか?」と

夢に還る

  夢に還る


お前は

少しずつ消え失せていく

この宇宙で

誰にも存在されなかった事として

お前は少しずつ死んでいく

お前に比べれば

まだあの無残なヤモリや

あの無機質な隕石の方が

遥かに自らを全うしたに違いない



今、お前はそこで

少しずつ朽ち果てていく

誰に愛される事もなく

誰をも愛した事もなく

お前はそこでそうやって

少しずつ消えていく

まず、足から そして手

次に下半身 そして胴の部分

そして、目だけが最後に残る

最後の最後までこの世界を見続ける為に



今、お前はそうやって

少しずつ消失していく

誰からも顧みられる事のなかった人生

誰をも見送りはしなかった

自分を愛する事も他人を憎む事も

そして、その逆も一切なかった人生

・・・ただ、小銭を稼いで そして

適当な範囲を越えた生理的快楽と「夢」と名付けられた無数の妄想で彩られた人生

それらは、ただもう存在すらしない無駄物だった

今、それらが、この地に帰ろうとしている



さあ、ここだ 僕はここで

大地に立って何を想うか?

無から無へと消えていく無常の者として

お前は一体、何を思うのか?



すると、地面の底からニョッと手が伸びて僕の足首を掴み

そうして僕のゾンビが土から出てきた

僕は慌てて、そいつの顔面を踏みつけ

泣き叫びながら逃げ帰った



・・・目が覚めると朝だった

「夢オチ」とは最もやってはいけない物語の締めくくりらしいが

僕のそれは違う

夢がオチではなく

現実というのが一つの「夢オチ」だった

だから、僕は今、現実に帰ってきた

真実に一番近い夢から遠く離れて



そして小鳥の歌いだしに合わせて歯を磨くと

僕の中から何かが消失していく音が聞こえた

それはシュウウという音で

何かの効果音のようだった



その日、僕は会社に遅刻した

それでも、僕は平気だった



そうして、僕は今でも夢を見る

現実という妄想の中で 一人

夢を見続けている自分の夢を

未来について


  未来について



 考えても見たまえ。僕達の生が、八十歳まで生きて死ぬのが平均だとすると、僕達の人生の内、およそ、四分の三は、ただただ死に傾斜していく、その余韻にすぎない。若さ、美しさ、が、二十歳を境に衰えていく事は誰にとっても明白だろう。だから、人生とは死との闘いだ。・・・そう思えないのなら、既に、死に一歩リードされているという事になる。

 人生という、この明白な、雑然としたゲームで人は、夢を見る。様々なものに、思い入れる。イデオロジスト達は、自分のイデーに思い入れる。私達平凡な人間は、自分のみすぼらしさに、自分の正しさに対して、夢を見る。あるいは、親は、子供に夢を見る。だが、夢は、時の変化と共に、消えて、流れていく。それでも、人は、夢にしがみつく。自分は悪くない、自分は正しい・・・・・こんな心の中の言葉を読み取れない人々が、その漠然たる衝動につかれて、他人を排撃しはじめる。彼らは、自らの夢を防衛するために、必死に戦っているのだが、だが、しかし、彼らは知らないのだ。夢を壊すものは、他人の中にではなく、自分の中にあるという事を。

 古代人が見た夢は、多少の彩りを加えて、現在へと続く。夢は、続いていく。現実というのは束縛であり、思考が何ものかを目指す限り。だが、誰が知るだろう。一部の天才達を除いて、この世のあらゆる思考は、玻璃となって砕け散ったという事を。それらは、美しい残骸となったか?・・・否。それは、歴史の闇に同化して、そんなものが存在したかどうかも、私達には知る事はできない。私はただ勝手に、その存在を感じているだけにすぎない。

 あらゆる権威を、あらゆる歴史的遺物を、政治的機構を、他民族を、企業を、自分自身と他人を、あざ笑い、軽蔑し、なんなら殺害する事が可能だ。・・・そして、それが許されようとする時代に、私は生きている。しかし、現に生きている私を、誰かが殺したとしても、私の存在は、私の殺害者にとって、見えない血の滴りとなって、残る。・・・どんな犯罪者も、自分という良心の置所を裏切るという事はできない。・・・なぜなら、誰もが、「正しさ」を目指しているからである。誰もが、自分を正当化する。だが、正当化というのは、大抵、一時の気休めにすぎない。スターリンの孤独・・・・・そんなものは、想像を絶する。今、孤独の極みにいると感じている私の魂は、彼のような絶海の、無私の、自分自身から隔離された存在に比べれば、まさしく、天国の極みにいる事になるだろう。

 だが、現に私は生きている。そして、人々もまた同様に生きている。だが、私達は今や、自分達で自分の生を否定しようとさえしている。自分の生とは、自分の感覚であり、肉体であり、魂でもあるが、それら全ては、この世界のどこかにある、この世界のすべてを記述した、一冊の古びた本ーーーつまる所、一つのデータベースに比べれば、みすぼらしく、価値のないものであるらしい。
 自分の感覚は信用ならない。自分の尺度には自信がおけない。そうした空孔に入り込むのが、様々な結果主義や、科学的といわれる言説の数々だ。・・・これらの有効性については、私も現代人だから、もちろん、認めざるを得ないのだが、また同時に、一人の人間として次の事だけは指摘しておきたい。「未来とは決して定まったものではない」。

 「未来はわからない」。・・・どうして、こんな当たり前の言葉を繰り返さなければならないのか?。・・・こんな言葉は、誰しもが当然の事だというような顔をしている。・・・だが、そし一方で、どうなるかわからないはずの未来を「老後の不安」などという漠然とした言葉で形にする事もある。その時、その人にとって、未来というのは、確かに存在するものであるかのように扱われている。だが、私が不安に感じるのは、結局、不安を感じるのは未来の自分に対してではなく、今の自分に対してではないのか?という点だ。

 未来はもちろん、不定である。だが、それにある程度の定性を決めてやらないと、我々の生は分解し、細切れになってしまう。・・・全ての労働は無意味でさえあるだろう。だが、それが行き過ぎすると、今のように、非常な閉塞感を感じる。人は、視界の外側を見る事はできない、とある哲学者は語ったように思う。だが、視界の外側から受ける圧迫については、感じる事ができる。・・・これが現代の閉塞感の正体だろう。私達が作った閉塞感というのは、自分達が閉じこもり、無敵だと考えた、私達自身の創作物ーーーこの世界という名の要塞に由来するにちがいない。

 さて、私は、これで軽く、問題を適当な形で扱ったようだ。・・・ちなみに、この文章は誰の為にも書かれてはいない。私が、私の問いかけに答える為に、書いたものだ。私はこれから、この世界の中へと入ってゆく。その中で、私がどんな表情をするのかは定かではないが、私は、未来を掴んだと考えている人々の中では、過去のような暗い表情をし、そして、人々が過去の不可能の壁に取り囲まれ、絶望している時には、私は、未来のような明るい表情でそれによじ登る事に、おそらくはなるのだろう。

my job

何も言う事がない夜は

何も言わずに過ごそうか

騒がしければ「うるさい」と怒鳴られ

沈黙していれば「つまらない」と言われる

そんな時間の中で、僕は

自分の孤独と沈静に一人、

敬意を払おう

人々が踏みにじっていったものに

奇跡の価値を見つけるのが

僕の仕事だから

「夢」について

 幸福というのは、義務の容認の元にある。・・・例えば、ある種の暴君が、自分以外の人間を全て、自分の奴隷にしたと、仮定しよう。・・・自分以外の人間を奴隷にしたいというのは、どうやら、人間に備わった根本的な獣性の一つに思える。
 
 だが、この暴君というのは、その奴隷が、一挙手一投足全て、自分の言葉の命令に従い、たとえば、自分が首を吊れといえば、すぐに首を吊るようなそうした下僕ばかりたとえ集めたとしても、やはり苛立ちと殺意は募るだろう。元々、この人間は、他人の自由を認可できない性質の人間だったので、他人を全て奴隷と化したのだが、結局、そんな事をしても、自分の内部の苛立ちと、自分自身への憎悪からは逃れられない。・・・他人が憎いと考えている人間は、全ての人間を抹殺した所で、自分の中にまだ憎悪がわだかまっている事をはっきりと感じるはずだ。

 何故、こんなことを言い出したかと言うと、ふと思った事があるからだ。・・・それは、簡単な事象だ。・・・結局、現代に生きる我々というのは、壮大な夢を、希望を見る事を許されたーーーというより、強制された人種だが、それに伴う、義務と苦痛の事についてはほとんど知らずにここまで来た、という事だ。
 この世界は無知の人間で溢れている。この世界で何事かを知っている人間というのは、結局の所、もし、人が、自由を謳歌したければ、黙々と、自分自身と向き合い、その存在に耐えなければならないという事を知っているタイプの人間だと思える。
 こんな事を言っても仕方ないが、まずは、自分の心に語りかけてみる。
 
 僕達は幼い頃から、様々な夢を見せられて生きていたような気がする。・・・教育ママ、のような存在を見ると、僕は今も、そうした事を思い出す。まだ、悪夢は続いているのか、と。
 夢を実現するという事は不可能ではない。それが、才能のある一部の人間に許された事であり、凡人には不可能ーーーーーまあ、そんな事は、どうだっていい。地上にいたまま、天国をいくら想像したって仕方ないではないか。
 問題は、何かを実現する時に、我々が失う犠牲に由来する。太宰治は、「自分は人としては死に、芸術家として生きる」という旨の事を言った。・・・この言葉について、勝手に、分析するのであれば、三流の芸術家でも、「自分は芸術家として生きている」、と言う事は可能である。だが、「自分は人として死ぬ」という前半の部分は言う事ができない。・・・できない、というより、言う必要はない。三流であっても、それなりのものは間違いなく作れる。だが、その存在を賭けた作品というものは決して、つくり上げる事はできない。何故ならば、この生の世界の存在を一度捨て去らなければ、フィクションの世界において、その作者の存在全体を表現する作品は作れないからである。彼は、ここで全てを犠牲にする。文字通り、全てを犠牲にする。だが、人は、この犠牲については見まいとする。あるいは忘れる。あるいは、最初から、見ることができない。
 
 もし、夢を実現させたければ、このように、全てを犠牲にしなければならない。・・・この全てというのは、時間とか、肉体とかいうより、それらをも含んだ、もっと抽象的なものだ。・・・言うなれば、それは「希望」だ。この世界に希望をつないでいる内は、決して、偉大な創造者とはなれないだろう。なぜなら、希望というものが現実につながっている限り、全ての作品は紐付きのものとなってしまうからである。印税を夢見て、書かれた作品というのは、いわば紐付いている。・・・別に印税を目指すのが悪いなんて事では全くない。印税の為に書くのも、大いに結構な事だが、少なくとも、書いている瞬間は、この世の全てが消失して、その作品のその世界観だけしか存在していないーーーそういうものを書くという体験がなければ、おそらく、何かを書くという行為自体が無意味だという、そうした事が言いたいのだ。
 
 「役に立つ」とか「利益」とかいう便利な言葉がある。これらの言葉は便利だが、使っている内に、人には見えなくなってくる事実が一つ、あるだろう。・・・結局、何の為に役だっているのか?・・・という問題がそれだ。金は必要だ。住居は、必要だ。食料は必要だ。だが、高価な時計は必要か否か?・・・これがもし不要だというのなら、人間は、アメーバにまで退行した方がむしろ、すっきりするのではないか?・・・アメーバにとって、何が役立つか、という問題の方が我々よりはシンプルだからである。 
 ・・・というより、人間というものがそもそも、何を目指し、何を役立たせるのか?・・・という問題には興味がある。・・・人が、今のように、生理的快楽を究極的な目標と置くのなら、一体、何の為に、僕達は存在しているのだ?・・・と、問う事もできる。「役に立つ」という言葉は、はじめは非常に明瞭に見えるが、段々とあやふやになっていくものだ。一体、何が役に立ち、何が立たないか・・・と。
 
 「夢」という抽象的な言葉を使ったのが悪かったのかもしれないが、とりあえず、最後まで書く事とする。夢を実現させるとは、夢という植物に、自らを肥料として差し出すという事である。人は、自分の子供や、自分の成功を夢に描いて、それにバラ色の未来を想像するのかもしれない。・・・だが、そこに、バラ色の未来というものは存在しない。・・・それは、正に最初に言った事だ。・・・たとえば、僕が、スターになって、ちやほやされることを目指し、発進するとしよう。そして、それに成功したとしよう。・・・だが、僕が、次の瞬間に思う事は、「みんなはどうしてスターの俺をもっとちやほやしないのだ?」という事だ。
 
 夢を実現するという事は、自らを夢という怪物に喰われるという事である。それが、他人からどんな栄光に見えようと、また、どれほどの悲惨に見えようと、それこそが彼の人生である。彼の人生というのは、おそらく、他人の人生とは違う。他人のーーー普通の人生というのは、事物が我々に大して、どれほど「役に立つか?」という問いから始める。だが、彼の人生は、自分という存在がどれほど、夢の実現に役立てるのか?という問いから始める。彼は、自分を捨てる事で未来をつかむ。だが、未来というのは自分ではない。自分ではないが、彼は自分を捨てるので、自分を捨てた時だけ、彼は未来と合一する。そこで彼は、一種の栄光を掴む事になる。そして、我々はおそらく、ずっと、バラ色の未来を待ち続けて、そうして永遠に、泥濘の過去を這いずりまわる事になるのだ。

3月3日

         

 僕が現実から学んだたった一つの事は、現実に期待する事というのは、何一つないという事だ。・・・それ以外にはない。

 今、何を語る必要があるだろう・・・?。小説とかアニメとか、お笑い芸人とかモデルとか、そうした、色々な夢が転がっているね。僕達の周りに。僕達の学ぶ事は、まずそれら幻影の一つ一つを潰していくという事だ。それらに、一つずつ、幻滅していくという事だ。すると、後には、生活という、もはや、幻滅する必要のないくらい嫌なものが残る。・・・では、最後に、これに唾を吐きかけようか。・・・すると、僕は、人間ではなくなる、という事になる。

 人間ではないとはどんな気分だ?・・・と、人に尋ねられても、僕は、不思議な気持ちがするね。全くの所。僕は知っているんだよ・・・自分は人間だと固く信じきっている動物以下の存在、獣以下の獣というやつを、僕はずっと見てきたから。

 人間が神と動物の間の生き物という定義は今も廃れてはいない。廃れてはいないが、廃れたような気がしているもんで、みんなが様々な事を、人間らしく言う。人間であるという事も辛い事だ。それはちょうど、人間を装う事だからだ。

 そんなんで、どうして自殺をしない?・・・と尋ねられても・・・僕は質問に窮するね。たまたま、生き残ったとしか、言えない。でも、もう体は屍だ。・・・それで、答えになっているだろうか?

 「死体である自分を殺す事は誰にもできないだろう」・・・こんなランボーの語句が趣味的でなく、染み入るようにわかり始めるなら、僕らはもうすでに、この世界の外に出ているという事だ。・・・僕は昔、学校の教室の窓から、休み時間に外に出て、学校というものから逃げ帰った事がある。・・・その時は愉快な気分だったけど、後で、こっぴどく怒られてね。・・・僕もまた、あんな風に、外に出てみたいな。この世の外に。もう一度。

 ああ、もう疲れた。うんざりだよ。はっきりいって。自分に、自分というものに、うんざりなんだ。僕も、みんなみたいに、明るくできればいいんだけどね。よく、求人広告なんかであるだろう?「明るくて、はきはきした人を募集!」って。明るくハキハキして、朗らかで・・・それで、一体、どうなるんだ。・・・でもまあ、それしか、他人に対する態度というのはないんだろうね。無知というものを前に、自分の深淵をさらけ出しても仕方ないだろう?

 誰もが、真面目にこの世界を、それぞれの道を歩いている、というのは、真面目な魂が早い内に出会う、正しい誤謬だと思う。この世が間違っているという事を速やかに、真面目な魂は発見するのかもしれないが、しかし、それにしても、他人の権利というものは、絶対に認めなければならない。これを抜かせば、すなわち、政治的抗争になる。

 こんな政治家みたいな事を言うのはもうやめよう。・・・僕は政治家を好かないが、本当に良い政治家が出てきた時、それを見極める目も持ってやしない。でも、今あるのは・・・なんだろうね。誰も彼もが、知りもせず、感じもしていない事を、まるで自分の体が傷つけられたかのように、大声で喚いているという事だ。メディアの発達によって、一人の人間の自意識は、この世界全体と同じ大きさになってしまった。僕は、僕の弱小の、滅び行くこの肉体を愛そう。自分の卑小さ、くだらなさと一緒に、心中しよう。

 そんな事言ってても、仕方ない?・・・・・全くだ。・・・実際の所、僕は、自分が好んで孤独になっているのか、それとも、周囲に強いられて孤独になっているのか、見分けがつかないのだよ。

 おそらくは前者なんだろうけどさ。でも・・・・・・・・・・・いや、やめよう。それでは、また。

高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」

 よく分からないというレビューが意外にも多かったので、キーボードを打つ事にした。
 例えば、 

『 小学校三年生の時、わたしの同級生は両親に内緒で自分に名前をつけた。
 「止した方がいいよ」とわたしは言った。
 「へいちゃらさ」とそいつは言った。
 「ぼくの名前はすごくいいやつだよ」とそいつは言っていた。
 そいつはそいつの「すごくいいやつに」殺されてしまった。
 それはもう滅茶苦茶に残酷な殺され方だった。
 その死体がかつて人間だったとは誰にも信じられないくらいだった。』

 これは本文の序盤に出てくる文章だが、こういう文章に魅力を感じられるかどうかが分かれ目になる。
 魅力を感じない人というのは、おそらくは普通の小説に慣れすぎているのだと思う。詩的な文章、というより、これはほとんど詩なので、詩というものの言葉の使い方は小説とは少し違う。日常的ではない。だから、その分、わかりにくく見えるが、実際、わかってしまえば、小説より詩の方がずっと簡単に感じられるはずだ。何故なら、言っている事そのものはシンプルであり、ただそれが様々な言葉の形として、変形しているにすぎないから。ある意味では、小説をずっと目で追って読んでいく方が大変だ。
 
 例えば、上記の文では、最後の二行「それはもう滅茶苦茶に~」以下は、明らかに蛇足だ。普通なら、『そいつはそいつの「すごくいいやつに」滅茶苦茶に残酷な方法で殺された』と書けば良いし、散文的にはそちらの方がすっきりとするはずだ。小説教室などでは、このような文は蛇足に過ぎないだろう。
 だが、ここに高橋源一郎の独創性がある。高橋源一郎はこの点を強調したかった。滅茶苦茶に残酷な殺され方で、その死体が人間だと、誰にも信じられないのだ、という事を。・・・しかし、実際の所、高橋源一郎は、この事実ーーーこうした事を強調したいわけではない。彼には手応えが欲しい。彼には、なにものか言わなければならない、と考えている自分がいる。そして、その自分がここでは、規制の文体からはみ出した。そして、そのはみ出した文は蛇足であると同時に、作者の独創ーーー栄光でもある。
 
 これ以上詳しく書けないが、この作品はシニカルな目線と作者特有の優しさで包まれた作品だ。この目線はもちろん村上春樹や荒井千裕とも、共通する。これは八十年代の雰囲気に対する、一種の抵抗なのかもしれない。僕の世代にはわかりにくくなっていることだが、抵抗という事は生真面目という事を、決して意味しはしない。誰もが、目を血走らせて、真剣に怒鳴っている時はふざけた「フリ」をする事が真に真剣になる事ではないのか。ここで、本物の真面目さというのは二重の意味を持つ事になる。この書物も、読む人が読めば、作者の淡い哀しさと、それ故の真剣さを甘受できるはずだ。

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