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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

月の明かり

  


風の音に猫が振り向く

その時、街路は止まった

人々の冷たい歩みに街路樹達は

そっと託宣を垂れ・・・

犯罪者共への肩には

「社会」が最も軽い罪を載せる・・・

人間ではない俺には

今日、月の明かりがよく見える

このビルの群体の光を透かして

スポンサーサイト



  キスのタイミング


誰かが誰かを求めて

世界は狂っていく

拒絶する手こそ美しい

言葉を発語しない唇こそ美しい

沈黙している君こそ美しい

もし君が黙っていないなら

僕はキスできないではないか

 何故、理解しない者共はこれほどまでに目が見えないのか、と俺は考える。だが、そこに答えは用意されていない。ただ一つ、はっきりとしている事は、根底的な近眼者は、近くの一ミリ四方くらいのものを世界全体だと拡大解釈して、うぬぼれているという点にある。結局、彼の目に見えないものが、彼を押しつぶす事は自明の事だろう。そしてその彼はやはり、自分がつぶれていくそのさなかにも、相変わらず、大きなものは見えず、小さなものに固執し続けるのだ。
 我々は人間関係において、よく、こういう近眼者になっている。相手が自分を好きである、自分を愛している、あるいは仲がよい、などと自惚れている相手に限って、急に音信不通になる。・・・ここで、相手に対して憤怒の情を発するだけの輩には、永遠に人間関係というのは作れないだろう。こういう人間には、自分にだけ都合のいい事を言ってくれるロボットでもあてがう他はない。他人というのが、また自分もそうであるように、自立してなにものかを考え、そこに存立しているという単純な事実に気づこうとはしていないのだから。・・・こうした人間は迷惑千万である。こうした人間が、自分より力の弱い人間を見つけて、支配し、いじめ、犯罪沙汰になる事も非常によくある事だと思う。こうした人間に出会ったら、我々は思い切って、ノーを相手に突きつけなければならない。他人にしなだれかかる者に対しては、自分の足で立てと、断固言わなければならない。場合によっては逃げ出しても良い。だが、いわゆるノーを突きつけられないお人好しが、こうした他人にしなだれかかる者の犠牲者となる傾向にあるのは間違いないだろう。
 だが、いわゆるお人好しに問題がないという訳でもない。彼は、あらゆる人間に自分をさらけ出して、自分を譲歩してしまう。だからこそ、いつの間にか、自分を失ってしまう。そして自分を失うという事は、その人間にとっての損失であり、また、それは同時に社会にとっての損失であろう。ある種族がそのお人好しの為に、みんながこぞって自分を譲歩したなら、そこに、他人にしなだれかかってくる別の集団がやってきて、これを制圧してしまう。我々は、自分と闘うように、他人と闘わなければならないのだ。
 俺は未だに、ネット上での、様々な無数の人間関係に対する煩悶や苦痛、疑問の声を見かける事ができる。・・・そしてその内で、己に起因した問題であるにも関わらず、他人のせいにしている人達もいる。こうした人々というのは、大した問題ではない。彼らは、ただ現実に裁いてもらう必要がある。裁くの我々である。彼らが他人のした行為を、真に常識的な人々は、こうした事をした人達に返してやらねばならない。・・・そしてそれは断固としてやるべき事である。そして、結局は、それが最終的には、その相手の為になるからである。
 だが、俺にとって問題は、本当に自分のせいでもないにも関わらず、苦しんでいる人である。こうした人達に対して、俺が思う事は、すぐそこに答えがある、あるいはもう既に答えは知っている、にも関わらず、それを断行できない優しい魂の場合である。・・・自己欺瞞でない場合は、こうした魂はいたわる必要性があるだろう。・・・だが、この答えを「知る」という事と、それを為す、という事には苦痛が、正しく大きな苦痛が横たわっている。人から嫌われるのではないか?・・・人を傷つけるのではないか?・・・だが、考えても見てほしい。あなたはもう十分に傷ついてきたではないか?・・・・そしてあなたが、傷つける事を恐れている相手というのは、一度も傷ついた事もなく、あるいは、傷ついたと考えたがりもしないし、すぐに自分の傷口から目を背け、それを全部、他者のせいにする、いわば人生の未経験者達なのである。・・・彼らはこの人生の、社会性という半分の事実は通り過ぎたかもしれないが、もう一つの重要な、心理的要因に関しては、一切、通り過ぎてきた事はないのである。彼らはこれまでずっと逃げてきた。彼らは一度として傷つかなかった。だからこそ、彼らは弱いのである。彼らは自分が傷つきたくない為にありとあらゆる手を弄する。それが、一種の強さとなって現れ、一部の盲目の人間方には、男らしい力強さと錯覚されるのである。だが、それはまやかしの強さであり、ただ単に、自分からの逃避が社会へと、世界へと向かっているに過ぎない。・・・もし、自己を傷つけ、他人を傷つける事を恐れている心優しい人物がいれば、こうした事を是非とも考えるべきである。一度は、彼らに人生を経験させてやる機会を与えてやるべきではないか?と。おそらく、いや、間違いなく、彼らはそれらをまたも経験せず、その経験から逃げ出す事は確かだろうが、しかし、その余りは我々の心優しい者達の責任ではない。それは、彼らの責任なのである。彼らは、自分自身から逃避したのだ。だから、彼らは逃避したまま死ぬ。彼らの行く先は暗口である。彼らは逃げれば逃げるほど、苦痛が増大する事を知らない。だから、我々のように、もし、はじめに苦痛を甘受する事ができれば、それは後に、安らぎへと、そしてまた同時に我々が生きていくべきに必要である力へと、まやかしではない真の力へと、変貌していくのだ。

水のおいしさ

   

僕はこうして夢見ている

自分自身が草原を走っている姿を

人々が何を言おうが、人々が僕を殺そうが

僕の夢はいつもそこにある

僕の夢だけは僕を裏切らない

だから、それはきっと現実よりも強いのだろうと僕は考える

でも、僕はふと現実に戻って

水のおいしさを嗜むのだ

 一体、何があるのか、とこの世に問う事は愚かな事だ。この世界に何もない事がはっきりして、はじめてそこから創造の道が開ける。
 現代というのは、どういう時代だろう?・・・私は繰り返し、考える。多分、シェイクスピアがその鋭敏な知性で、繰り返し、偽善としての悪、美徳の印を額につけた悪の出現を描いた、そうした姿と現在の形姿と基本的には変わっていないのだろう。そしてそれはドストエフスキーによっては、社会主義的革命という、「システム」と「真理」の形態とに取って変わったのだが、以前その中身は変わっていないように思える。だが、私達の平凡な感性にとって、百年前というのはもうすでに、嘲笑してもよい遙か昔に過ぎないのである。こうして、私達は百年前の賢者が指摘した愚行を繰り返し、安心して犯す事ができるのである。
 人は何故、過ちを犯すのだろうか?・・・それに対する答えは簡単である。結局の所、それは人が自己肯定をするからに他ならない。よく考えれば、どんな劣悪な犯罪者ですらも、自分自身を肯定する。自分を否定しつつ、その事をする、という業は、ほとんど人間には不可能な事ではないか、と思う。人間は過ちを犯した後、その事を魂のどこかでは反省しようとしていつつも、口先だけでは、自分自身のした事に調子を合わせて、自分を肯定しようとする。こうした事が続けば、人はどんな犯罪を犯しても、自分が正しいという嘘を、いつでも容易に自分自身に信じ込ませる事ができるのだ。
 だが、自己肯定というのは、正しく正義の行動として発露する事もある。時に、この世の天才というのは、人々の否に反して、自分の行動に真実を、真理を発見し、それを肯定する時がある。・・・そしてそれは結局、人々の為になる真理なのだが、人々は無知か、それとも目先の利益の為に、この天才に向かって、「やめておけ」と言うのである。だが、この人間はそれを断行する。・・・そうやって、道は開けてきた。
 しかし、このラスコーリニコフ的討論にも、もちろん欠点がある。それは、自分を天才だと勘違いした、凡人が出てくるという怖れがある。・・・だが、このポルフィーリィ的結論は、個人だけでなく、集団にも適用可能であると私は思う。つまり、自分達を天才だと、正しいと信じた、間違った集団が現れはしないだろうか?・・・そしてそうした集団は、過去に既にはっきりと存在してきた、という事を、今の私達が振り返って確認する事も可能である。
 こうして、全ては両義的なものとして、あまり面白くもない結論にたどり着くようである。力は、良い方向にも、悪い方向にも向かう。だが、常に、劣った者達は、山の裾野に広がるように存在するのに対して、優れた少数の個人は山の頂上に向かおうとする性質を持つだろう。そして、誰も彼もが自分を天才だと称して暴れ回ったにせよ、時間というふるいは、それらの中から、本物の宝石だけを生み落とすのだろう。

嘲りを受けて

      
 

ノイズは透明に

アルコールを喉に流し込み

今日、俺の夜という名の朝が始まる

俺の目にあらゆる惑星系は寒く

俺の耳にあらゆる有名人の謹言は疎い

全ては下らぬし、また全ては尊くもある

全ては見る目次第で変わりもしようが

「科学」の一点から見る事を強いられた現代人には

この世の全てが鉛色なのもわけのない事だ

俺がリアリズムを捨てた頃から、人々はリアルに拘泥し

かつての偉大な時代が去った時から「現実」が王座の地位を占めた

さあ、俺は今もまどろんで夢見ていよう

こうして冬の日も俺の夢の中は一人、暖かいままだ

全てが消え去った時、人は知る事となるだろう

人々が嘲ったものだけがたった一つ、本当の真実だったのだと

魂の血文字

  魂の血文字  


白い空の果て

誰かが言葉を俺の身に降らせる

俺は閃光の光をもって、それに答え

詩神に忠実な僕(しもべ)たる事を示す

誰かが誰かの言葉を盗み

俺の言葉はお前の言葉だと主張するこんな世では

天使の戯れ言も悪魔の謹言も

どちらもテレビとネットのノイズに隠れて

詩人は自己の内部に沈黙する他ない

そんな中に、昔現れたきりの神がやってきて

また昔通りの霊験あらたかな金言をのたまうが

俺達、人間に耳は存せず 代わりに

隣の蛙と蝉が一鳴き鳴いて

俺達の魂の不在を歌った

今、俺の心は天上の父上の元にある

俺の親でも子でもない架空の父上

その架空の手の平の上で

俺が身ごもった覚えのない俺の赤子が遊び

まだ架空の身である俺に唯一、実在の希望を吹き込んだ

この世界がどんな一陣の風だとしても

頑として動かぬ一つの岩もあるのだと

そうして天使の福音もキリストの美声も去り

俺達にはたった一人アーティストが残された

それは自分を歌う自分という存在

もう神なしでもやっていけるさと、天国で髭面のニーチェが囁き

俺は手みやげに天使の羽毛を持ち帰って

悪魔の寄越した羽ペンを使って

この血文字を書いたのだった

幾千の月日にも錆びれないようにと

一切れ、一切れ、俺の魂を削ぎ落としていって

   仕事

   仕事

俺には仕事があり
全人類の事を考えている
人々は俺の面相を笑い
収入の無さを軽蔑する
俺には仕事があり
この瞬間も、常に
全宇宙より大きな世界が
俺の脳髄に宿っている
人々が俺を笑っている
その瞬間も

   神聖かまってちゃん「楽しいね」


楽しいね楽しいね
(2012/11/14)
神聖かまってちゃん

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音楽空間とでもいったものがあれば、それはこういうものだろう。特に、コンクリートからベルセウスへの流れは、の子の最も作りたかったであろう、「音でできた神聖空間」とでもいったものを見事に作り上げる事に成功している。

人は誤解しているし、またの子自身も意図的に誤解させているのだが、の子は純粋なアーティストである。それは例えば太宰治やルソーのようなタイプーーーつまり、典型的いじめられっ子としての、芸術家タイプだと思う。そして無垢な、純粋な形式の魂が、この錯雑した世界に向かう時、ああした反転した姿を取らざるを得ないという事を、人は決して見ようとはしない。

このアルバムが出てきた、という事は一つの奇蹟といっていいだろう。僕はそう信じて疑わない。現代のアーティストの中で、これだけの表現をした人間は他にはいない。・・・元々、の子の音楽世界はYOUTUBEのPVである程度解決していたし、視聴者もその映像に一番感動したに違いないだろうが、このアルバムによって、音源としてはPVを越えたと思う。それはまた同時に元々、「素人で何もない徒手空拳だが、この世界に立ち向かっているのだ」という初期のスタンスから逸脱、進化し、純粋な優れた音楽プロデューサーとしてのの子の姿を僕達に垣間見せる事となった。元々、芸術家というのは、自分だけの世界を、この世界に抗して持とうとする傾向がある。・・・例えば、シェイクスピアの広大な世界は我々の卑小な世界より、何十倍も広いのである。の子はそうした空間を、このアルバムによって、成し遂げたといっていいだろう。・・・まあ、君がもし興味があるならば、少しよい目のヘッドフォンを耳につけて、大音量でこのCDを聞いてみたまえ。君はこの世界とは違う世界が、この世界にも存在していた事を始めて、知る事になるだろう。・・・そういう事だ。

世の中は相変わらず、様々なことで沸騰している。大したことじゃない事、あるいはまあまあ大した事など・・・とにかく色々ある。そして結局の所、この平凡バンザイの世界では、自身の卑小な物差しをあらゆるものに当てはめ、偉大なものもそうでないものも、とにかく貶め、自分達と同じ卑小な段階に落とし込もうという宗教が猛威を振るっている。・・・彼らは、他人を破壊すれば、自分達の生のはかなさから目を一時的にせよ、逸らすことができる、と信じきっている者達だ。この世界のそうしたくだらない住人達が、この世界から去ったとしても、このアルバムの、この世界観は確実にその後にも残るだろう。人は時代を作るかもしれないが、また同時に、時代によって流されもする。・・・そして真に、時代に抗して、自らの表現を成し遂げたものは、洪水の後に残った巨木のように、その後も、巨大な記念碑として、残り続けるのだろう。

「出口のない場所」 ーーー「ライ麦畑でつかまえて」を読んでーーー


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 結局の所、青春というものは誰にも忘れ去られるものらしい。誰しもが、若かった頃を思いだし、思いだしはするものの、そこにあった全てのものを、大人の苦笑で片づけてしまう。「あの頃は若かった」と。
 あるいは、僕はーーーそうだ。僕は、それよりもっと怖ろしい気がする。この社会には根本的に「青春」が存在しないのではないか?・・・と。誰もが知った風な顔をする。子供は大人の顔を真似て、大人は偽善者の仮面を身につけ、そうして誰もが自分とは違う誰かになろうとする。こんな世界では、自分であろうとする事は、この世界を見下すか、見下されるかして、孤立する他ない。・・・だが、一度も孤立を経験した事のない人間が、この世界では随分と多いのだ。
 この世界は袋のようなものだ、と、特に日本人のような人種は考えていると思う。生まれては家族に属し、少し立つと、学校に、そしてまた少し立つと、会社に属し、そしてそうした袋の中の安定した価値観の中で安らかに死んでゆく。そして、この袋の世界の外側で生きてゆく事、その場所で思考する事を希求するのであれば、孤高の哲学者ニーチェや、罪と罰のラスコーリニコフのような、絶対的孤独、そして死か殺人か、それとも狂気かーーーとにかくそんな運命を選ばなくてはならないのだ。
 ホールデンはニューヨークの街をうろつく。そして、彼はあらゆる事を軽蔑し、反吐を吐き、挙げ句の果てには可愛いガールフレンドに「頭がスカスカな野郎」と罵って、ガールフレンドを立腹させてしまう。だがもちろん、ホールデンはよく知っているはずだ。あのエレベーター係のように、頭が「スカスカ」の方が生きていく事は楽である、と。彼は一時の気まぐれで、つい自分の内にずっと抱き続けてきた感情を、偶然その場に居合わせたガールフレンドにぶつけてしまったに過ぎないのだ。だから、彼は謝る。関係を修復しようとすら、試みる。だが、結局、「頭がスカスカ」だと彼が思っている事、そして、実際にそのガールフレンドの頭が「スカスカ」であるという事実は変わらないのだ。・・・そして、ある視点からすれば、もちろん、この現在を生きている全ての人間は(ホールデンも、もちろん)みんな、頭が「スカスカ」に違いない。なぜなら、それが「生きていく」という事なのだから。
 僕は夏目漱石「それから」の主人公代助を思い出す。彼もまた、自分の思考力の深さが人より透徹している為に、他人を、周囲の人間を馬鹿にしている。彼は自分がそこから金をもらっているにも関わらず、金をくれる父親や親類を芯から軽蔑しきっているのだ。彼にもやはり、ホールデンと同じく、この世界のどこにも出口はない。生きる事の馬鹿らしさを知った人間は、ロミオとジュリエットのように死という新たな出口を叩くか、それとも、代助のように社会と家族から追い出される事を決意して、新たな一歩を踏み出す他ないのだ。
 ホールデンにももちろん、出口はない。彼は都市の中をうろついて、自分の家に帰るだけだ。・・・もちろん、彼が夢想したように、突然、西部に出かけて小屋を作って、そこで暮らすなどという事はありえない。どうしたって、彼はこの世界にうんざりせざるを得ない運命にあるから。西部には西部でまた、うんざりする奴らと物事が現れるだろう。
 だが、この作品にもまた、クライマックスはある。それを担当するハメになったのが、妹のフィービーと、そして物わかりの良い先生ミスタ・アントリーニだ。この二人には、作者によってある程度は主人公に近い自意識と知性を与えられているのだが、それは結局は主人公ホールデン少年と同格なものとしては描かれないようになっている。もし、この内のうち二人のどちらかが、ホールデンクラスの精神性と自意識を持っていたなら、これはホールデン少年がこの世界にうんざりする冒険ではなくて、ドストエフスキーやシェイクスピアのような、人と人とのぶつかり合いの物語になっただろう。そして、この物語の核である、主人公ホールデンの流れるような告白体の、世の中にうんざりするが、その上を滑り落ちるように歩いていくこの小説の骨格そのものが成立できなかっただろう。
 先生のミスタ・アントリーニの言う事は真っ当だ。それはそれまでの登場人物に見られなかった知性を持った言葉を放っているが、結局はミスタ・アントリーニは夜中にホールデンの額に触れるという行為によって、互いに離ればなれになる。だが、もしこんな行為がなくても、ミスタ・アントリーニは真っ当な事を言い、ホールデンはそれにほとんど納得しながらも、そこから離脱し、逃げ出すという事は確実だ。ホールデンはまだ社会に融和する素質ーーーそんな運命も、そんな覚悟も存在していない。
 だが、もっと重大な変化は妹フィービーによって起こされる。これがこの物語の最後で、最大の変化なのだが、それは結局、主人公の自意識を揺らがす所まで行かない。
 ここでは、おもしろい転倒が起こる。フィービーはホールデンを真似て、自分も西部だかどこだかに一緒についていきたい、と半ば子供の出来心で、半ばは真剣にそう言い出すのだが、ホールデン少年はこのフィービーを止める側に回るのだ。それと共に、ホールデンは自分がどこかこことは全く違う田舎の場所でひっそりと暮らすという自分の考えも、自分がついた一つの冗談である事を悟り(あるいは既に悟っており)、その考えも一緒に撤回する。そしてホールデンは無事、フィービーを家に帰す。
 ここではもちろん、これまでの主人公の役どころが反対側に回る唯一の瞬間なのだ。これまでは、無鉄砲で全てを馬鹿にしていたホールデンを、周囲の常識的な人々が押しとどめ、自分達の約束事を守らせようとしたのだが、結局それはできなかった。だが、ここでは、ホールデンは常識的な立場に立って、フィービーを押しとどめる役割を演じる。・・・ここで、いわば決定的になる事は(あるいは最初から決定されていた事は)、どこかここではない場所で静謐として暮らすというのは、最初からホールデンにとっても冗談でしかなく、いわば、全てがホールデンにとっては冗談にすぎなかった、という点にある。そして、彼が出会う全ての人々は、ほんの小さな煌めきを見せるごく一部の人を覗いては、みな偽物に過ぎないのだ。(そして、主人公がふと思い出す、絶対に自分を曲げようとしなかった為に、階上から落ちて死んでしまった学生は、彼が思い出す、この世界の小さな煌めきに該当する。)
 だが、そうかといって、この偽物だらけの都会の他に、ホールデンが行くところはどこにもないのである。例えこの世界が偽物だらけ、インチキでできあがってしまっているとしても、今更、ホールデン少年にとって行く場所は「どこにもないのだ」という点にーーーフィービーを通じてーーー悟る所で、この物語は終わる。
 この物語に続きはあるのだろうか?・・・ホールデン少年には、「先」があるのだろうか?・・・僕には、ホールデンは、絶えず振り子状に、この世界にうんざりしてその外に出ようとするも、その虚しさをすぐに悟って、またこの偽物だらけの世界に戻ってくる・・・そんな往復運動をしている一人の人間の映像を直知する。・・・だが、僕達もまた、ホールデン少年といかに違うだろうか?・・・この少年を軽蔑するのは、社会にいわば改造された大人にはたやすい事だ。だが、この世界が偽物とインチキでできているという真実に我々が出くわす度、私達はその都度にあのニューヨークの街をふらついているホールデン少年の事を思い描くのだ。 

   グローバリズムとナショナリズム

 言うまでもなく、この世界はグローバル的に広がってきている。それは当然、船舶の運行、飛行機の往来から始まり、そしてインターネットによって最終的に補完しようとしているように思う。私が、例えば好きな日本のアーティスト、あるいは海外の好きなアーティストの動画をYOUTUBEで見るとする。すると、そこにはもう既に、様々な国からのコメントが、それぞれの言語を使って寄せられている。これはもはや、小さな共同空間とでも呼ぶべき場所であろう。これは、好きなアーティストを目当てに、世界中から、あらゆる空間を超越して、同種のものを愛好する人々が一カ所に集っている、おそらく歴史的に見ても最も新しい空間なのだ。(こういう考えは、ベネディクト・アンダーソンから得た。興味のある人は一度読んでみる事をお勧めする。)
 さて、我々の社会はこうしたグローバル的に広がってきているにも関わらず、それに反して、ナショナリズムもまた、過去から再び持ち上がってきて勃興してきている。しかもそれはインターネットという最も新しいメディアを通じて、持ち上がってきている。・・・これはどうした事だろうか?・・・どう考えても、インターネットは広がりを持った最も新しい開放的な空間のはずなのに、丁度、それに反する極端に閉鎖的なコミュニティーが次々と生まれつつある。私はこの事を次のように考えている。
 おそらくナショナリズムというのは、個人にとってのアイデンティティのようなものだ。そしてこれはグローバリズムによって、一種の危機にさらされる。
 おそらく、幕末から明治維新に至る日本の歴史などは正にそうした歴史だったように思う。尊皇攘夷、というのは、概念としては古くさいかもしれないが、彼らのした事は非常に新しかった。そして、この二つは何も矛盾した事ではない。・・・彼らはおそらく、外国が本格的に脅威なるにつれ、初めて日本人としての自分達のアイデンティティを自覚せざるを得ない羽目になった。
 ナショナリストというのは、人種や民族というものを恒久的に考えがちだが、実際、外側の脅威や、自分達とは異質な人々の存在なしには、自分達の民族に対して自覚的に考える機会は来ない。水の中の水は自らを自覚しない。自身が水である事を自覚するのは、その外側に出る一瞬をはじめて持つ時なのである。
 逆に考えると、ナショナリズムというのはおそらく、他国、異質な人々との文化的交流における一種の拒否反応として考える事ができるだろう。そしておそらくグローバリズムとは、異質な人々との同化、均質化作用として考える事ができる。

 ナショナリズムというものは、積極的にとらえるなら、その集団における異質なものと出会った時にもたらされる一種の自己認識である。この著しい例を上げれば、特に、柳田国男や折口信夫に見られる。彼らは西欧の本格的知性をくぐってきたが故に、自分達の内部に存在する「日本人」というものへの深い問題意識を持ち、それらを探っていったのである。彼らがただ日本人的、日本的であったと考えるのは間違っている。
 集団の自己認識としてのナショナリズムは悪ではない。異質な他者は、また自分達の事を深く考えさせる契機となるからである。だが、その反発から、他者を排除するのであれば、それは間違いだろう。他者も、また我々と違った集団的アイデンティティを持っているからである。
 またグローバリズムというのも、単なる同化作用として考えるのであれば、それは間違っている。我々は均質な人間に溶けていく必要性はない。我々は、このグローバルの世界にあって、各自、よりそれぞれの文化的アイデンティティを探り直し、自己に対する問いを発する事によってはじめて、異質な他者と対等に向き合う事が可能になるからである。

 おそらく、現代のインターネット世界の広がりは過去の黒船到来のようなインパクトが、我々にとっては存在するだろう。我々は、自室にいながらにして、瞬時に世界と繋がる事が可能になった。テクノロジーによる環境の変化は、我々に様々な可能性を促進させる。だが、それを「どう考えるか?」というのは個人の問題として残されたままである。過剰な進歩主義者が考えるように、我々の内、貧困や老いや、そして死すらもが例え克服されたとしても、それで問題は終わりではない。開かれた社会になればなるほど、我々は次の問いを掲げざるを得ないのである。「私とは何か?」「私達とは一体、誰か?」

   可能性としての不安

  可能性としての不安

                    *
 本の読み方には二つのやり方がある。一つは、最初に結論を自分の中で出しておいて、その為の根拠付けとして本を読むということ。そしてもう一つは、様々な書物の海の中から、一つの統一的真実を発見するために、本を読むという方法である。前者と後者はよく似ているように思われるだろうが、これらは全く違う読み方である。
 本を読むという事は一般的には役に立つ事だと言われているが、本を読むという事は最悪の害悪をもたらす事もあるし、良い事をもたらす事もある。それは、インターネットの「読み方」においても同様である。人は、自分の望んだ結果を根拠づけ、活気付けるためだけに、ただそれだけの情報を得る事もできるし、逆に、ネットに広がる広大な情報を自己の為に役立て、そこから一つの統一的真実ーーー自分の人生に役立つようなーーーを、見つける事ももちろん可能である。
 本を読む、という行為が何故こんなに礼賛されるかというのは意味不明だが、おそらくは、テレビゲームや漫画といった新しいメディアが現れてきた事に対する、一種の保守反動かもしれない。だが、もちろん、私はテレビゲームもアニメも漫画もインターネットも、正邪共に含んだものである、と考えている。そしてどういうメディアでも、良い作品は良いのであり、そうした作品は社会に結果的には良い影響を与えるのである。
 シェイクスピアがこんな事を言っている。「悪魔もまた自分勝手な目的の為に聖書を引用する。」(「ヴェニスの商人」より) このたった一行に、悪しき本の読み方の本質は完璧に現れている。ヒットラーは、読書家だった。だが、彼に知性があったとはいえまい。彼は自分の妄念と妄疾に決定的な形を与える為に、他者の書物を利用したに過ぎないのだ。
 シオランは「書物とは他人を利用する一番、優雅な方法である」、といった意味の事を言っていたと思うが、ニュートンもまた同じ事を言っていなかっただろうか?・・・ニュートンは「巨人の肩」に載る必要を説いたのだった。巨人の肩・・・・これを、本ーーーあるいは知識と考えて、相違ないだろう。私達は別に一から考える必要はないのである。全ての書物とは、平積みされた過去である。過去を知れば、自分が何をせざるを得ないかもまた見えてくるだろう。

                      * 
 本を読む事で精神が豊かになる、と本気で思っている人がいれば、それは一度も真面目に本を読んだ事のない人だろう。無知な大衆であれば、大学ではさぞ高等な教育が行われていると思うかもしれないが、誰しも、自分の中に身につけていないものを改めて身につける事は絶対的に不可能なのである。そして我々が最初に身につける事ができる最も本質的な教養とは、意欲なのである。
 我々が知ろうと学ぶ時、初めて、様々な過去の先人の築いた知識が、有意義なものとして見えてくる。そうして、学ぶ事が始まる。○○大学に行った、○○という資格を取った、そうした事が先天的命題として浮かんでいる間は、人は教養の門口に立ってもいないのである。教養とは本質的に孤独なものであろう。そして、教養と知性の最も偉大な点は、あの屋根裏部屋のラスコーリニコフのように、まるで浮浪者のようななりであろうと、またそんな境遇であろうと、自分の脳髄にこの全世界を上回る宇宙を所有できるという点にある。

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 マルクスは様々な資料を得て、そこから帰納的に自らの結論を導き出した。これは全く正しいやり方だった。だが、マルクスは自分が得た結論から推論し、さらに未来まで確定できると考えた。未来のユートピアを現実にする為に、マルクスの弟子達はこの地上を地獄に変えた。天国の看板を掲げて。
  スターリンにせよ、ヒットラーにせよ、彼らはひとつの哲学を、まるで宗教における神のように高々と掲げた。ここで、一番知識があり、賢いと目されている人々があっさりと、彼らの新手の宗教に頭を垂れた。何故か?・・・この問いはまだ終わっていない。絶対的理性のもたらす悲劇について、その本質について、ごく少数の人々を除いて、人々は目をそらした。・・・だから、この問題は今もまだ終わっていないのである。
 私達、日本の社会では「頭が良い」という言葉は褒め言葉として通用する。「君、頭が良いね?」と会社の上司が言えば、言われた方は褒め言葉として受け取り、「ありがとうございます」と返すだろう。だが、しかし、頭が良いとはどういう事か?・・・そしてまた、現代日本社会で頻繁に使われる言葉、「仕事ができる」「できる男(女)」もまた、殆ど絶対的な褒め言葉としてまかり通っている。これを言われて、悪い気のする人間はそうそういない。
 だが、考えても見て欲しい。ーーー私は人々にとって嫌な事を言うがーーーナチスにとって、仕事のできる人間とは、「効率的にユダヤ人を殺す存在」だったのだ。・・・もちろん、私がナチスの内実をこの目で見てきた訳ではないし、書物やネットから得た知識しかないので、そこから推測して言っているには違いないのだが、しかし、そういう事はありうる、しかも「十分」ありうるのだ。
 
                     *
 「我々の社会はナチスのそれとは違う。だからお前の言っている事は間違っている。」・・・そう言う人々の声が聞こえてくる。確かに。・・・だが、私が一番、問題としたい点は、そうした事ではない。私にとって一番、問題としたい事は、この世間一般で指標となっている言葉ーーー「頭が良い」とか「仕事ができる」とかいった言葉に、指向性が全く見あたらないという点にある。
 指向性とは何か。それはおそらく、ナチスが最も怖れていた点であろう。人が考えるのとは違って、全く残忍な犯罪や、恐ろしい人殺しやレイプといったものを、「社会的に」行うのに必要なものは、冷徹な精神ではない。そうではなく、我々の中での服従心なのである。
 おそらく、戦争のさなかにあって、沢山人を殺した人間には次のような言い訳が許されるかもしれない。「もし、私が殺さねば、私が殺されたのです。・・・どうして他の選択肢が選べたでしょう?」。あるいは、これはまだ良心的な回答だろう。最も、透徹していると思われる答えは次のようになるだろう。
 「私は殺せと命じられたから、殺しただけです。私は社会に命令されたから、そうしただけです。私は誰よりも働き者でした。だから、誰よりも殺したという訳です。」
 そして、我々の社会が一体何を厳命するのか?という点に対して、知性が監視するという重要な点はおそらくもうとっくに(あるいは最初の段階から)忘れられ、問題は社会の厳命をいかに的確に遂行するか?というだけになったのだ。

                      *
 妙な事を一つ言おう。それはエリートと天才の大きな相違である。・・・この二つは、はじめは些細な差、あるいは天才の方が愚か者に見えるかもしれないが、時間というクロマトグラフィーがこの両者を綺麗に分離する。つまり、エリート(優等生)というのは社会の作った枠組みを決して超える事はなく、あくまでもその枠内で結果を出すのだが、天才というのはその枠組みそのものを破壊し、次の扉を開くのである。
 私が考えているのはマルクス主義である。あるいは、社会主義、共産主義、である。この極めて頭脳的な枠組みを持った「完璧な」思考性というのはまさしく、エリートや優等生、頭脳そのものは極めて優れているものの、決して独創性も、良き破壊性も、それに次がなければならない創造性も持ち合わせていない人々が持ち出したものではないのか、という事だ。
 私が何故これほど、過去の遺物とも目されているマルクス主義から共産主義に至る道程を気にしているかについて、何となく気になるという人も、現代人を読者に想定するなら、当然いるだろう。だが、私にとって、これはビビッドな問題であり、それは先に言った「頭が良い」とか「仕事ができる」といった言葉だけが一人歩きしている社会においては妥当な問題意識であるとさえ、私は思っている。
 さて、社会主義的国家においては、必然的な真理、絶対的に動かせない哲学的命題、その答えというものがあり、全ての人民はこの答えの回りを、まるで太陽の周囲を回る惑星のように運動してゆくのだが、実際の所、ここで最も権力を持つのは、「太陽の光を伝えると言われているある人間」である。彼は人間なのだが、神の言葉を聞き、その託宣を下々に教えるにあたっては、神同様である。
 不思議な事だが、我々が全会一致で出した答えが正しいとは限らない。我々にとって、我々自身の可能性は未知なのだが、また同時に我々の不可能性もまた未知である。だが、人々は、容易にその事を忘れてしまう。人は、まるで痴呆症にかかったかのように、「その内部にいた時の実在感」を忘れてしまうのである。・・・そして、あの時は病気であった、と軽々しく結論し、そして何ら反省する事も学ぶ事もなく、次へと進み、同じ過ちを繰り返すのである。
 現代社会に戻ろう。指向性について。

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 現在ーーー二千十二年末の事を差すのだがーーーでは、我々は安定と安寧を求めているように見受けられる。それは近い将来に必ず変革するだろうが、とりあえず今の段階ではそのように思える。
 こうした安定と安心を求める心というのは、もちろん枠組みを求める。人は、自分達の生に対する確固とした保険を、保証を必要とする。だが、もちろん、この流浪の生において、確固たる担保などないーーーという事を人は容易に忘れる。だから、人は様々な形式を固定化し、そしてその形式に沿って運動する。そしてここに、おそらくは戦時などには見られない、平和の内においてのみ育つ様々な腐敗が現れてくる。なぜなら、誰もが定式化と、枠組みを求めているから、その枠組みさえしっかり見せかけさえすれば、何をしようが勝手だからである。・・・たとえば、国家公認という枠組み、レッテルが非常に重要だと誰もが考え、そしてそれに対する否定生を喪失されている社会においては当然、この国家の方で好き勝手暴虐を加える、というのは
、ごく自然とも考えられるからである。
 こうして、人が安定を求めるという現代の心象が、全体の枠組みへの依拠と、それに伴った、それ自体の不安定性という事態を招くのである。

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 この社会というのは指向性を欠いている社会と言えるだろう。指向性というのはーーー咄嗟に思いついた言葉だがーーーこの社会全体が依拠している枠組みに対する疑いの眼差しを向け、そして正しい方向性を「考えようとする」とでもいったようなものである。
 先に言ったように、この世界に氾濫している「頭が良い」「仕事ができる」「勉強ができる」「ノウハウ」「スキル」、あるいは資格や成績といったものでも良いーーーあるいは、例えば、「彼女」がいる、友人が多い事に価値がある、といった価値観ーーーそうした全てに、私は何となく不安を覚える。それらは、最初から、檻に繋がれている印象を受ける。そして檻につながれ、その中を上下して、「勝ち組」だの「負け組」だの、ニートだのフリーターだの正社員だの年収がいくらだの・・・・そうした罵り合いはするものの、結局、その内の誰一人として、この檻の外を構想する事はできないし、禁じられている。我々は井戸の中にいるが、誰も井戸の外に出ようとはしない。可能性とは不安の別名である。我々が外に出る時、不安を覚えるのはその為である。
 さて、この小論もーーー論とも言えないがーーーもようやく終わりに近づいてきたようだ。・・・我々の世界は一つの絶対点に達しようとしている。(あるいは、もう達したのかもしれないが。)我々はこの世界から宗教を排した。だが、絶対性というのは、また別種の形で我々の手に舞い戻ってきた。我々が日々に感じる不安とは一体、何だろうか?・・・自分が存在する事を止めてしまえば、それで全てが終わりである、という冷厳な事実は、我々を不安に駆り立てる。親はしばしば子供の中に、自らの叶えられなかった夢を見ようとする。だが、その子もまた、親と同じ願いを持ちつつ、結局自らの不安から逃れられず(そして夢も「叶えられず」)死ぬのかもしれない。・・・我々は我々が生きているという不安に取り囲まれたままである。
 現代社会は一つの答えを見つけようとしている。それはポジティブなものではないかもしれないが、結局、人間は自らの不安を振り返って見つめるより、それから逃れる方法を選ぶものだ。・・・資本主義が我々に用意した様々な答えでは、おそらくもう答えとしての機能は失われてしまっている。それらでは手に負えないくらい、我々の不安は根源的で、背後に迫っている。(そして、ここにまた全体主義が復活する余地が見いだされるのだろう・・・。)
 これに対する解決方法はおそらくないのだが、次のようには言えるかもしれない。すなわち、もし人が、今のように、(そしてこれからそうなる気がするがーーー)安易な解決を求めるなら、問題はこれからもっと増大するだろう事。ラスコーリニコフは、「今」の問題を解決する為に、一つの殺人事件を起こし、それによってさらなる最悪の境地に追い込まれたのだった。そしてその逆にーーー逆と言って良いだろうーーー賢人であるゲーテや、ソクラテスにとっては絶えず、自己に謙虚である事が常に自分自身によって求められていた。・・・彼らは、私達の考えるように、最初から安定した、確固不抜の知性だったのではない。彼らの中には絶えず不満と不安がつきまとっていたに違いない。彼らの内側に安寧はなかったと言ってよい。そしてそれだからこそ、後生の我々からは、あれほど確固として揺らがない知性の姿となったのだ。この事は、全く矛盾した事柄ではない。ゲーテは言う。「人は努めている間、迷うものだ」と。

    ベネディクトアンダーソン「想像の共同体」について


定本想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)定本想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)
(2007/07/31)
ベネディクト・アンダーソン

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 例えば、「日本人」とあなたが言う時、どうした人達を想像するだろうか?

 あるいはいま流行りの、「国産」は良い、中国産はパクリ、と言った単純化された論調の言葉を聞いて、あなたは何を「想像」するだろうか?

 このグローバルの世界では、中国から来て日本人として日本に溶け込んで生活している者、そしてその逆・・・あるいは、確かに「国産」ではあるが、それは組立だけの事で、原材料は世界各地から取り入れている・・・という事は無数にあるだろう。・・・あるだろう、というより、むしろそれが基本であり、純粋に日本的なもの、とか、中国的なもの、とかエジプト的なもの、とか、そんなものは本当にあるのだろうか?・・・元々、人類は一つだったのが分化して世界に分岐したとは、私も耳で聞きかじっている。もし、そうだとしたら、「純粋な」日本人、とか、ドイツ人、とかいったものは、みんなの言うように本当に考えられるのだろうか・・・?

 ベネディクト・アンダーソンのこの書物は、そんなグローバルの世界に現れた重要な書物である。何故なら、私達が先天的命題として考えている「国民」というものが、「想像されたもの」であると喝破したからである。これはコペルニクス的転回と言って良いだろう。私達はまず、定義から始める。日本、日本人、国産・・・・・だが、どうだろうか?それらは、想像ではないだろうか?

 だが、にも関わらず、私は「日本的なもの」というものは相変わらず、存在すると考えている。それは永続的な、固定的なものではなく、地域固有の、「想像」ではなく、「創造」されたが故に消滅する可能性のあるものとして考えている。

 だが、まあそれはいいが、この書物は我々のそのような固定観念に杭を打ち付ける。日本人だって?・・・じゃあ、日本人とは何だ?日本語を話す人か?日本に住んでいる人の事か?・・・「日本」とは、想像ではないのか?・・・と。

 しかし、私の考えでは、ナショナリズムというのは、おそらく個人としてのアイデンティティに関わる。誰もが不安な時代、自分に怯える時代では、誰もが自分に自信を持つ必要性、救われる可能性に目覚め、そして明かりに吸い寄せられるように、自分達を包含している(と考えられている)集団に絶対性を賦与しようと試みるのだ。

 ただ私が勉強不足なだけかもしれないが、このようにグルーバルな世界を前提して考えられた学術的提案というものは始めてお目にかかった。この書物は、これだけに終わらず、これからのインターネット時代に先駆けて(そしてますますナショナリズムが流行り始めている世界に向けて)様々な問いを定期している。(例えば、もし国民が想像にすぎないのなら、本当に「日本人」は存在しないのか?・・・それは別の方法で定義づけられないか?・・・あるいは、それは創られる必要があるのか?ないのか?・・など。)そしてその問いに答えなければならないのは、インターネットが常用と化した、「新しいアイデンティティ」を模索するまだ私達若い者達なのだろう。

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