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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

   時を止めて

雨が降り
世界は濡れる
僕は何だか眠たい
・・・眠ってしまおう、五時半まで
皆は何だか働いている
それでこんな風に地球は回っているらしい
それでも今僕は眠ってしまおう
この一瞬の時を止めて
この永遠の時を止めて

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  ノリアキという名のリアル

もうみんな薄々気づいている事だと思うが、この世界は隅から隅までフェイクで出来ている。・・・そんな世界の中、たった一つのリアルが生まれた。それがノリアキ、お前だ。

「自らのメモ帳に書き記した事だけが真実なのだ」・・・こんな真実を、どの哲学者が、科学者が語っただろうか?・・・彼らは何一つ見えていなかったに違いない。ノリアキほどに物が見えていなかったのだ。この世界の真実はだからもはやはっきりとしている。全てがフェイクだという事。そしてノリアキだけが・・・そして自分を信じるもの、つまり俺達がメモ帳に書き記した物だけ真実なのだ、という事。だからこそ、ノリアキは俺や俺達のファンでいてくれるのだ。

何を言っているか分からないと思うが、俺もやはりわかってはいない。だが真実はそこにあり、フェイクは俺達の回りに溢れている。何がフェイクか、もはや言う必要はないだろう。気付かない人間はもはやどうでもいい。問題はお前にとってのリアルとは、真実とは何かという事だ。

リアルとは何だ。フェイクとは何だ。

さらけ出してみろよ。腹を割って。

そう生きるとは正にその事ーーーリアルを追い求め、フェイクを疎外する事だ。例え、ノリアキのファンである俺達が、周囲から何と言われたって、な。

   生きる

   生きる



生きた事のない者には

死ぬ事もできない

悲しみを避けた者達には

どんな喜びも訪れない

自分は嬉しいのだ 幸福なのだと呟きながら

そっと薄明の中に消えていくだけ

僕は今、生きたい

悲しみも喜びも満身で受けたい

登校五分前!/一条の小川

過去は今
現在の彼方
未来は今
現在の果て
明日があって今日がない
昨日があって今日がない
そんな今の時を 僕は
目覚まし時計を覚まさない事で
少しの間だけ止めて
猫とほんのわずかな安らぎの時を噛みしめながら
起こるはずのない奇跡の時を待っている
登校五分前!



時を止めて
世界は終わり
昼は下がり
夜は長く・・・
心は果てなく
肉体は遠く
それでも人は人を憎み
それでも人は人を愛し
何かが懐かしげに流れていっても
僕の瞳にはもうそれは映らない
僕はもう社会人だから
頭のイカれた大人の一人だから
それでも時々子供の眼に戻って
澄んだトンボの瞳を見つめる
その中には一条の小川があって
それは今でも 僕の心の中を流れ続けている

私のテキスト



お前は何を知っているのだ?

・・・と誰かが聞く

お前は何を持っているのだ?

・・・と誰かが聞く

私は答える

「私は何も持っていないし

何も知ってはいない」

私はこの世界で孤独 だが

孤独を嫌った人々の群に入れてもらうつもりはない

今日も雨は降り、陽は流れる

私は世界を起こすために 新たな

テキストを起こすのだろう まだ

この世界が降り止むその前に

灯り


私は幸福だと叫ぶ一団と
私は不幸だと叫ぶ一団が
共に厭わしい
彼らは次第に言葉となり
人としてもぬけの殻になる
人間はゆっくりと言葉を発し それを味方につけ
周囲を明るくしながら進んでゆく
自らの中に灯りを持っていないものが
いかに明るい他人に出会えようか

常識と個人

  常識と個人


 私達の生涯がこんなにも惨めなのは、私達が生きる事に過重な重荷を強いている事に由来する、と私は思っている。
 例えば、考えてみよう。私がーーーそう、妊婦だとする。そうすると、この新参の妊婦には、夫、家族、その他無数の人間から、子供を大事にしなければならない、子供をいたわらなければならない、という無限とも言えるマニュアルが押しつけられる。結果、妊婦ーーーあるいはこの子供を生み、育てるようになった私は、様々な場所から押しつけられたこのマニュアル、・・・ねばならぬという事項と、現在の現実の自分との乖離に対して決定的に悩み、そこから沢山の悲劇的事項が生まれてくる、という事は十分に考えられる。そしてまた、そうした事はこの二十一世紀の現在の日本では、沢山多発しているのだろう。
 私はもちろん、マニュアルというより、真理を迫撃し、攻撃したい訳ではない。だが、私は、私達の世界では余りに個別性、人間の独自性というものを糾弾されていると感じている者だ。私達は多数の決定した真理の中にいると安堵する為に、みんなでそうした場所にすりよってゆく。そしてそこで一つのモデルとなるような場所が、既存の様々なメディアが活躍している場所なのだろう。
 私達は、今、メディアの異常な発達ーーーそれはもちろんインターネットの事であるーーーによって、全体が一つに和合するチャンスとなっている。私は、現在の各国のナショナリスティックな主義主張の勃発にも関わらず、テクノロジーが人間の思想や感情、行動や果ては容姿まで平均化していくのだ、という風に考えている。それは例えば、次のような事だ。私はパリの友人と話したいと考える。この距離は直接的な距離は非常に遠いが、インターネット回線を通じれば、一瞬である、というような非常に単純かつ強力な事に基づいている。そして、インターネットにとって文化の差の障害としてもっとも強固そうなものは言語の差ではないかと思う。だが、この言語の差というものもやがてはならされて、平均化してゆくだろう。
 だが、それにも関わらず、私は全く逆の事実も同じように予想している。つまり、各国の文化の差異は馴らされて一つの点に収束していくだろうが、それとは全く反対に、思想の違い、というより、個人のほんのちょっとした好みの違い、好悪の差というのはますます激しくなっていくのではないかと思う。それは今、ネット上で現れているちょっとした事による、おそらく未来の人間からすれば一体なぜこんな事で争っているのだかさっぱり分からないような事での血を見るような討論などに現れている。つまり、ほんのちょっとした思想の違いにより対立は激化するが、これまでの対立の主な原因であった、文化の違いや言語、服装、考え方の違いの差異はなくなっていくと私は予測している。
 これは何故かと言えば、やはりテクノロジーの問題である。テレビに比べて、インターネットは遙かに便利な媒体である。それぞれの個人は、自分の好きな時間に飛んでいって、自分の好きな情報を取ってくる事ができる。かつて、ドストエフスキーが、このペテルブルグという都市はそれぞれが穴を掘って蟻塚のように暮らしている・・・というような記述をしていたのではないかと思うが、現代の都市は、電脳上にその住処を移し、遙かに複雑に、そしてこの蟻塚の一つ一つの穴はかつてより遙かに深くなっているのだ。
 こうして、私達の世界は、それぞれの思想・・・というより、好悪の違いはますます激しくなり、個人と個人の違いはますます深くなり、その対立は激しくなっていくのだが、それの外形の違いは単一化していくのである。
 だが、私はまたこの文章のはじめの点に戻って、考えてみよう。私は少々大きな事に言及しすぎたきらいがある。
 私達の今の世界は間違いなく単一化に向かっている。私達の世界というのは、中央にメディアというものが君臨して、そこから様々な無数の目に見えない指令が出されているかのような状況である。そして大衆的な、大衆が王となったこの世界では全ては平凡化され、凡庸化され、個性というのは尊重されないどころか、他人が私達全体と違う考えを持っていると知るやいなや、私達はその人間を全力で排撃する、という始末だ。結局、イデオロギーというのは、どういう思想の持ち主であろうと、他人の異なった考えを認められないという点に端を発しているのだろう。もちろん、思想は議論されるべきである。だが、思想を思想として尊重しない者達にとっては、相手の脳髄を破壊すれば、その思想も壊せる、と考える。自分自身の思想がそのようなデキだからである。だが、真理というのは、我々の肉体を上回っているから真理なのだ・・・という点に彼らは気付いていない。彼らは湧いては消える虫のように消えていく。だが真理はすぐれた人の手を伝って、あらゆる時代と空間を越えて渡っていく。
  ・・・私達の世界が単一化に向かっているというのは、もちろん価値観の統一化である。大抵の親は自分の子供に、凡庸でもある程度良い生活を送ってもらいたい、と考えるものであろう。そこでは凡庸という事は善である。だが、純粋に凡庸な人間などいない。私達は個性を持ち、それぞれに天才性を持って生まれはするのだが、大抵の場合、それを行使しないか、自分達でその天才性を否定して、この人生を終えるのである。
 私は常々考えるのだが、完全な天才などはいないし、また完全な凡庸な人間などはいない。・・・だが、天才の残した作品、業績などは、真に天才的であり、そこに一片の凡庸性も見受けられない場合は多々ある。そうした場合、人は、作品や業績から推して、その作者並びにその功績者も百パーセント、純粋な天才ではないかと夢想するのだが、実際はそうではない、と私は思っている。彼らは絶えず、自分の中の凡庸さを押し殺し、自分の中の天才性が外側に滲み出てくるのをじっと耐えて待っていた、そうした存在なのだ。・・・そう考える事は、何も私の夢想ではないと思う。「ゲーテとの対話」というエッカーマンの本には老ゲーテの「ファウスト」製作に関するゲーテの、ちょっとした愚痴についても書き記されている。ゲーテは朝の、睡眠をたっぷり取った、体力旺盛な時にこのファウストを手がけるのだが、どれほど調子が良くても一日に書くことができるのはせいぜい手のひら一杯分くらいの原稿である、というような事を語っている。私達がその見事な出来映えに驚嘆する、その作品というのは、作者が苦労の末、自らの凡庸性を押し殺して、奥に僅かに残った天才性を振り絞って作り上げたものだと考える事は、例え多少誤った考えだとしても、私達にとって不利益となるような事はないように私には思える。なぜならば、やはり私が始めに主張した通りの百パーセントの凡庸な人間も、百パーセントの純粋な天才もいない、という考えは当を得ているように思うからである。逆に考えれば、私達のような凡庸な存在というのは、日々、私達の内の天才性を殺している存在なのだ。私達の内、誰にもちょっとした思いつきや独創性が芽生える事は多々あり、そんな何気ないものが実は天才性の萌芽なのだが(だから子供というのはおそらく常に小さな天才なのだろう。)、私達は日々の生活の中で押し殺し、常識というものにそうしたものを意図的に自ら屈従させているのである。・・・そしてそうした事が続けば、我々は立派な社会人、大人となって、判を押したような個別性のない人々の群れとなっているのだろう。
 だが、もちろん集団性、というものは必要であるし、我々が凡人である事によって、この世界という機械は運動する事ができるのだが、だが同時に別にそれは我々の独自性を屈従させ、抹殺させる理由とはならない。元々、この世界という機械のアイデアそのものの殆ど全てが、何かしらの独創性が開花した姿に他ならないからである。
 私は、妊婦や子育てする母親という例から、とんでもない場所に出てきてしまったようである。だが、こうした卑近な日常生活と、天才と凡人の差などといった大きな話は無関係ではないどころが、ごく近しいものだと考えていいくらいのものだと思っている。もう一度、話を戻すと、私達は余りに一般性という規範というものに溶け込んでいる為に、私達自身の独自性や、個別性がほんの少しでも芽生え出すと、他人のでも自分のでも、すぐにそれを抹殺させないといけないような気になるが、決してそんな事はない、という事を私は言いたかったに過ぎない。
 
 私達の現代人の人生行路に際して、私達が私達の背中に重く載せられた荷を軽くする方法は、おそらく次のようなものであろう。つまり、生というものをもう少し軽く考える事、そして死というものをもう少し重く、大切に考える事である。
 この事は周到に説明しなければ、必ずや誤解を招くだろうから注意を要する。(そして自分の正義の為に他人の意見を緩用しようとする輩は、いくら周到に説明した所で、必ず意図的に曲解、誤読を行うものだが・・・。私は、正読を好む見えない読者に対しているのだ。)現在のように、私達が生、つまり生きる事に対して過剰な意味と重みを加えているという事は余り良い事ではない、と私は考えている。何故ならば、結局の所、人間は老いて死ぬものであり、その当たり前の摂理に対して真っ向から刃向かおうという現代の風潮はつまり、最初から不可能と分かっている事につかみかかる事によって様々な不幸を、この限定された生を生きている私達に及ぼす事になるからである。
 こう考えてみよう。もし、私達が不老不死であったら、と。おそらく私達は退屈の余り、死ぬ事を欲するだろう。その方法を発見しようとするだろう。・・・・先日、私は書店で「五十代だが三十代に見える方法」・・・というような(正確ではない)本を発見して、奇妙な感じがした。五十代の人間が三十代に見られる事を望むとはつまり、自分自身の五十代を否定しているようなものではないか。もし私達が七十代にも関わらず、二十代に見える技術を発見したとして、それは幸福な事だろうか。ならば、その人は二十代においては一体、何をしてきたのか。永遠に二十代でありたいというのか。
 生きる事そのものは素晴らしい事である、と人は言う。だが私は言う。生きる事とは何ものかを消費して、浪費して生きる事であると。私達が生きるには、この現代社会では様々なものを支払って生きる事になる。それはもちろん、金や物資などもあるが、もっと世界全体に関わるもの・・・・私達は、私達が身につけたり、食べたりしている全てのものが一体、世界のどこからやってきて、どのように消費されているのか、全て把握しているだろうか?・・・もちろん、そんな事は分からない。だが現在の産業を考えるならば、私達が生きる為には、人間や動植物、無機物を問わず、実に様々なものが私達が存在する為に消費されているという事はもはや疑いようのない事だろう。
 こんな事を言って、あえて人に、自身の罪の意識を起こさせようなどという気は私は毛頭ない。私は環境保護主義者ではないし、そのような団体に入った事もない。だが、問題は実際に私達が存在する為には無数の物が浪費され、破壊され、失われ、そして再構成されているという事実である。そしてそれに抗する事のできる理というのはゲーテのファウストに示されたような、結局、我々がより高いものに導き、到達する為には、それより低いものが犠牲にされる事もあえて甘受されなければならないだろう、という原理に基づく。(だが、もちろんその事を言い訳に破壊する事が許された訳ではない。世にしばしば現れる「正論」というものの内のいくつかは、こうして目的の為なら手段を選ばない、そして目的よりその手段が重要視される事により、最悪の結果を生むからだ。)
 私達は私達が存在するために、多くのものを失う事によって存在せざるを得ない。だからこそ、私達はこの生涯において、失う事を怖れるより(それはもう決まっているのだ。私達がこの世に生まれ落ちた瞬間から。)何ものかを創造するように努力すべきである、というのが単純な私の脳髄の結論だ。そして、こうした結論が、常になにものも失うまいと努力している人々、つまり私が丁度現実主義者と考えている人達にあざ笑われる事を、私はよく知っている。彼らは必ず、次のように言う。「お前の言っているは確かにそうかもしれないが、誰しもがそんな風に創造する才能に恵まれている訳でもないし、とにかく現実というものはそんな風にうまい事はいかないものだ。世の中には、守らなければならない規範が沢山あり、それをしっかりと守るのが大人の判断である。子供らしい、未来だの、創造だの、ああ馬鹿らしい。(ここであの走れメロスのメロス風の嘆きが入る。)現実というのは卑小な、小さなもので、それを守って、世の中の理に従順に生きるのが正しい生き方で、お前の言っているのは子供の夢想に過ぎない・・・」というような事だ、つまり。だが私の考えるのは次のような事である。つまり、失うまいと、この世界の規範を守った果てに一体、何があるのか。自分という存在はやがて年老いて、死んでしまうのである。そしてそうした事は現在では避けられないし、もし我々が不老不死だとしても、一体それが何だというのか。結局、何もしない人生はゼロではないか。ゼロにゼロをどれほど積み重ねても、ゼロではないか。
 だが、こんな理想と現実の対立は古代から現在まで続いてきたし、間違いなくこれからも続く事であろうから、その結果は読者の想像に委ねよう。私はただ、現在のこうした現実主義的風潮が現実、そして人生というものを不当に重苦しくしている、という事だけを言おう。我々はパイを失う事に汲々としている。だが、それは結局は失われるものだ。私達がしている事は、天上からサラサラと落ちてくる砂を全て両手の手のひらで掬い上げようという努力に似ている。それは結局どれほどがんばろうと、必ず両の手のひらからこぼれ落ちて地面に落ちてしまうし、この落ちてくる砂はいつまで立っても止まないのである。
 私達は自分達の生に執着する。私達はこの人生で得られるはずの非常に多くのものを社会に、そして他人に要求するが、そうしたものはもちろん得られずに、私達は憤慨と失望の中で死んでいくのである。そしておそらく、こうしたものに拍車をかけているのは商業主義的な思想ーーーつまり、人は人に対して幻想を見させ、それに金をかけさせるという方法を非常によく熟知しており、そうした産業が俄然発達しているので、そうした幻想はやまず、そして結局、幻想は破れるものであるから、私達が夢を見ている内はいいとしても、結局それら夢は破れ、あの失望と倦怠に再び戻ってくる事になる。
 初めの妊婦や子育てする母親の例に戻ろう。ここでは、様々な情報や知識が、この善良であると仮定されたこの新人の母親にとって参考となる限りは役に立つものとして機能するのだが、こうしたものが次第に重荷になり、もはやそれが人々の手を介して要求ともなれば、この若い母親にとっては途方にくれるか、一切全てをなげうちたい、という非常な重荷を感じるのである。そしてまた、こうした事は、正義や真理という見かけを保っているために、個人としての私達には非常に反駁しがたい、面倒な事として現れるのだ。
 そしてこうした、過度な真理や正義というのが、社会の至る所に充満しているために、私達の生は過度に重苦しくなっている。そしてその過度の正義や真理というのは、先ほど私が言ったように(人々は往々にしてそう思いたがるが)、どこか別の預かり知らない他人が作り出したものではなく、私達が自分達の生に対して余りに大きな意味と過大な価値と沢山の要求を課している為に起こっている現象なのである。
 ここで私がこの文章の中途で挟んだ提案が、ようやく再び戻ってくる。つまり、我々は我々自身の生をもう少し軽く考え、私達の死をもう少し重く見るべきである、という提案だ。そしてこの二つ、生についての考えと死についての思想は密接につながっている、というよりほぼ同一のものである。何故なら結局は、死に対する逃避自体が、生に対する逃げ口上、生の意味を過度に重くする事につながるからである。そして人はまたその逆の事態に陥ると、社会の為に個人は死ぬべきである、という今度は死に重みを傾け、生を非常に軽く考える、という傾いた傾向性に陥る癖があるが、それについて取り上げるのはまた別の機会にしたい。今は、生に対する重みが問題である。・・・そしてこの生の重みを取り除くのは、私達があらゆる物事を他人に押しつけようとする性行を矯め、自身の背後ーーーつまり、自分自身の死、という最高とも最低とも言える宿命を見つめる、という点に重要な要点があるのだ。そして優れた個人としての生涯は、常にこうした自身の宿命を見つめる、という点から起こる、と私は考える。それが無名であろうと、有名な人物であろうと、それが個人として全うかつ正直であり、世界に流される事なく自己の道を進んだ、それも善良な方向に進んだ、と言えるのは、この社会にいかに貢献したか?という尺度より、自身の死という宿命を見つめる事が結局、我々に我々の存在を越えた何ものかを認識させると共に創造させる事を可能にするのだ、と私は思うのだ。
 さて、私にとって非常に長たらしくなってしまったこの論考もここで終わりにしたい。私達は皆個別の存在である。私達が社会的存在としての私達を余りに強く主張したり、そうした事を他者にも自分にも要求するのであれば、個人個人としての私達のエネルギーは弱まりそして、結局はその社会そのもの(その社会の成員は個人に他ならないから)も弱まってしまうのだ、という事を我々みんなは記憶しておいても良いのだ、と私は思うのだ。

詩集3

詩集「私の世界の中の私」作りました。RIMG1461.jpg


http://p.booklog.jp/book/55372

涼宮ハルヒの消失について(Amazonのレビューと同一)


涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)
(2004/07)
谷川 流

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 こういう作品が現れると、ライトノベルとか純文学とかいったジャンル分けが馬鹿らしくなる。この作品は素晴らしい。それは言ってみれば、村上春樹の「羊をめぐる冒険」のような素晴らしさだ。
 
 この作品の良さを自分なりに解説してみよう。この作の主人公キョンは普通の高校生である。そしてこの普通の高校生はひょんなことから、ハルヒ、そしてSOS団といった非日常的な連中に取り囲まれ、ヘンテコな学園生活を送り出す。ハルヒは日常を嫌い妙な事に手を出し、ハルヒの結成したSOS団のメンバーは実は超能力者や未来人といった、非日常的存在である。そしてこの主人公はやはり村上春樹の主人公ばりに「やれやれ」と言いつつ、彼らとの生活を半ばは楽しみ、また半ばは元の平穏な日常生活に戻りたいと望みながら、そうした学園生活を送っている。だがある日突然、何の拍子かわからないが、このヘンテコな連中ーーーハルヒやSOS団が消えてしまう。そして彼は元の、半ば望んでいた平凡な学園生活に復帰するのだが、そこで彼は自問する。「これが本当に俺の望んていた生活だろうか?」と。


 私は過大評価しているかもしれないが、それでもいい。この重要な場面ーーー日常と非日常の分かれ道の選択の場面において私が思い起こすのは夏目漱石の「それから」だ。「それから」では、主人公は、不倫という間違った道を選びつつも、「何故もっと早くその道を選ばなかったのだろう?」と自分に問いかける。こんな事を取り上げて、私が言いたい事は次のような事だ。結局、人は社会的に良しとされた、常識的で道徳的で温和で、小市民的な人生よりも、もしかしたらそれから外れるかもしれないが、自分にとって納得できる道を選ぶ、選ぶべきではないか?・・・と言うことである。そして、言うまでもなく、この作品の主人公キョンにとっては、その選択は、ハルヒーーSOS団を選ぶか、それとも今、何の理由か分からないが戻ってきた平穏な学園生活を選ぶか?・・・という二つの選択にかかっている。そしてキョンは前者を選んだ。

 つまり、私が言いたいのは、この作品で展開されているテーマは、作者が無意識的にしろ、村上春樹と似たような本質的な文学的課題ーーーというより、人としてどういう風に生きるべきか?という問題に踏み込んでいるという事だ。私達はこの作品をエンターテインメントとして読むのが当然だし、またそう読んでいる人も沢山いる事は知っている。それはそれでいい。だが、この作品は、私達の選択ーーー私達にとって、それが社会の常識から外れようとも、自分自身に納得できる道を選ぶべきか?・・・それとも、この作の主人公が自問するように平穏無事な、それこそ「リア充」的な生活を望むかどうか?・・・という重要な問題を扱っているのだ。そしてキョンは、ハルヒとSOS団という非日常的生活を選択した。つまり、本作でこの主人公は初めて常識から一歩歩み出て、自分の道を進んだのだ。

生きる事は沈黙して歩む事

   
 

 我々は絶えず、現実を強いられている。この狭い世界で、私達は自分自身達によって、様々なものを押しつけられる。
 あるものが貧しければ、まるでそれは私達全体が貧しくならなければならない事実であるかのように感じさせる報道や人々というものが沢山存在する。そして「貧しくても」という誇りはもう誰も持っていないし、忘れられる。
 私が何か言えば、例えば上記のように、貧しいという事について意見を言えば、「お前は貧しい人間の気持ちが分かっているのか?」という質問が、人々から矢のように、飛んでくる。確かに、私に貧しい者の気持ちは分からないかもしれない。だが、はっきりしている事が一つだけある。例え私が貧しくとも、(そして例え金持ちだったとしても)私は私である、という事だ。
 私達は自分達の利便性の為に、他人や自分自身に様々なレッテルを貼り付けるが、それを相互に認識すれば、それ自体が実在となる。こうして「私は私だ。何があっても」と、言える人間はごく少数、というより、まずいないと考えて良い。
 関係ない事のように思えるかもしれないが、私にこの「何があっても、僕は僕だ」という単純な事象を教えてくれたのは「神聖かまってちゃん」というバンドであった。彼らーーーというより、「の子」の作る曲が、私にはっきりと、初めてその事を教えてくれたのだ。私はまるで頭をかち割られたような衝撃を受けた。その日以来、世界は変質した。私が変わる事によって、世界は変わったのだ。
 この世界は私達に様々なものを強いる。私達には生まれる以前からそれぞれにぴったり合うレッテルを配られて、いつもそれを着て歩いているようなものだ。馬鹿者共は、衣服をその本体と見間違うし、見間違う事によって彼らは利益を得ようとする。こうした人々が沢山いる。私達現代人というのは本質的に抜け殻的存在である。私達が会社を止めたり、働くのを止めたりすると、とたんに私達は自分の存在が抜け落ちてしまったような気がするのはそのためだ。聞いた話だが、就職活動に失敗して、自殺する若者がいると言う。彼らは自分達に対してこう言えなかったのだ。「何があっても、私は私だ」と。
 私はこうした事を、苦い経験を踏まえて書いている。結局の所、私達は与えられたものから始めて、自分自身に到達しなければならないからだ。全ての道というのは遠回りであると共に、回り道である。だからこそ、物語には起伏がある。我々の物語はーーー例えば「自殺」という死によって途切れたりする。だが、それも神の視点からすればーーーそんなものがいないのは知っているがーーー一つの物語の途上の、一瞬の中断線に過ぎない。歴史は個人を殺してでも、前進していく。それは人間にとって悲劇であるか?それは個体としての私達にとっては嫌なものであるか?・・・・そうではない。もし歴史が個体を乗り越えて前進してゆく存在でなかったら、私達は死の間際に、私達の死の後にも続いていく何ものかを予感して、大いに安らぎと慰めを自らの中に見出す事ができないだろうからである。
 簡単な事だが、人間という存在は、自分という個体にしがみつけば全てを失うような性質にできているような気がしてならない。そして死に対するリスクや怖れを捨て去れば、私達は何ものにもなれるのである。不思議な事だが、私達がもっとも尊敬する偉大な人物というのは皆、自分という個体より、更に大きなものを見ながら死んでいったように見えてならない。そしてその例はゲーテ一人を上げれば十分ではないか?彼の思想の根元はあらゆるものは過程的であり、暫定的であるといったような事である。彼は常に神に対して謙虚で、自らの死後にも続いていく精神の光芒をはっきりと見つめていた。自分より大きな存在を触知するから、あれほど個人としての尊敬を集め、我々をより高い所へと導いて行くのである。個人が、自己に尊敬を集めたいという野望によって為された事は、一世紀くらいはもつかもしれないが、結局全てそうしたものは人間の劣性に負ったもので、砂塵のように乾いてさらさらと風に消えていくものである。それらが継続的なものである事は決してない。
 私はこれからも生きていくだろう。時折、というよりしょっちゅう生きる事にうんざりしつつ。「生きろ」という人々は、「死ね」という人々と同様、言葉の中でしか生きていない。いや、彼らは全く言葉の中ですら生きていない。私達が生きていくとは、つまりこの私が生きると言い、そして一歩前進するとはどういう事であろうか?・・・・・それはつまり、私が沈黙の生を生きると言う事であり、あらゆる、死にたい願望の言葉を斥け、他人に寄りかかる言語を排しつつ、そして自分自身の足で自分自身を支え、運動する事、つまり私が私自身に期待しつつ、何事かを成し遂げる事に他ならない。そして、私は自分のできなかった、他人の成し遂げた事を満足と、驚嘆の念と、多少の羨望を交えながら眺める。・・・そういった事もまた生きる事である。
 私はこれまでで半ば以上無意識的にこの駄文を作り上げてきた。この文章の前後がちぐはぐなのは、私がこの文の構成というものについて全く度外視してきた事にある。だが、作り手としての私にはそれで結構だ。何故なら、これは私が私の為に書いた文章だからである。そして私は、私が自ら私の為に為した事が「結果的に」他人のためになっている事も併せて願う、そうした存在である。

   信じている道を行け 


君が信じている道を行きたまえ
君自身ではない自分に出会えるから
君が信じている道を行きたまえ
君が出会った事のない他人に出会えるから
君が信じている道を行きたまえ
君が見た事のない場所に行けるから
君が信じている道を行きたまえ
君が振り返れば そこに
君以外の他人が通れる一本の道ができているから

知恵と愛


集団
「多数決で勝てばそれが正義
何をしたって許される」
賢者
「彼らから離れよう
少数故孤独に
正の道を模索することができる」

「ここまでおいで さすれば
全てを与えてやれるのに
人間にはいつも過分な
知恵と愛を」

  記念のキス

太陽が昇ると
心が静かになる
夜が来ると
世界は新たになる
暗い中にも
生まれる何ものかがある
世界がざわついている今も
息づいている雛達がいる
人類が消滅した後も
やはり太陽は回っている
私はその記念に
君にキスをした

   まだ聞こえる


目を閉じても
まだ音楽が聞こえている
私の臨終の時、私の耳には
まだあの頃の小川のせせらぎが
聞こえている
目を閉じても
まだ音楽が聞こえている
あの時の君の囁きも
あの時の君の笑顔も
全部聞こえている
目を閉じても
まだ音楽が聞こえている
私の死んだ後の葬式の時の
モーツァルトだって聞こえている

  絶望という名の希望

   絶望という名の希望

 我々にとって我々自身は未知である。我々は未知の中にさまようが、常に知を求め、それを手にしたように錯覚する。

 私が常に感じ、また思う事は、私達は私達の生自体に無関係、というより他人に対する態度で当たっているという事である。そしてこれは現在に近づけば近づくほどその程度は激しい。そして私を含めた誰かがそのような事をどれほど指摘しようと、この傾向は増大していくに違いない。そして良識を求める良き人は常に過ちと錯誤を繰り返しながらも、ついに自らがこの生涯で何をすべきかを導きだし、その答えを自己自身の可能性の内に求め、それを実現するに違いない。そしてこの私の小文は、結局は大勢多数の人に受け入れられるように書かれたものではなく、そうした遠い未来の優れた若者に向けて書かれた置き手紙のようなものとなるであろう。

 「死を自らの宿命と考えないことが、普通の人間の属性である」とシオランは言った。死は我々を自分自身に引き戻してくれる唯一の方法である。私達はどういう訳か、一度心理的に死ぬ事によって、始めて自分自身の生に回帰する事が可能になる。私達は自分を求めて遠くさまよい、そしてそのまま遠くに行って帰らぬ人も多くあるだろうが、自分自身を常に求める誠実な人はやがて自分の家に帰ってきて、自分のすぐ近くにすでにあった、自らの青い鳥を発見するのであろう。

 私がこんな妙な事を言っているからといって、すぐにページをクリックして前のネットページに戻る必要はないと私は思う。私はありきたりの事しか言っていない。私達は今、私達を概観して感じる当たり前の事を言っているに過ぎないのだ。私達は多くを求め、全てを失う。だがその場合、私達は何を求めているのかをほとんど自分で知らないのみか、私達は自分の欲求すら、誰か違う他人に定義された状態でスタートを切らされているのである。

 例えば、昔話をしよう。私が小学校高学年の頃、読書感想文というのがあった。(今でもあるのだろう。)そしてその時の私は人一倍ませていたガキんちょであったために、妙に着飾った知的そうな文章を書いたのだった。そしてそうやって書いた内の一つの文章を、私は何かのきっかけで教室で読み上げる事になった。そしてその時、私以外はほとんど誰も使わなかったであろう「念頭において」という言葉が、その文章の感想文に入っていたために、私のその文章はクラスにちょっとしたざわつきーーー小学生にも関わらず、過度に知的な文章を書いて発表したために起こるざわつきーーーをクラスにもたらした。私はその一件で別に得意になった訳ではないが、その文章自体は間違いなく、私は得意になって書いていたと断言できる。

 そしてそうした読書感想文なるものはその当時のませた人間にふさわしく、内容は空っぽであり、そしてその最期の結論というのは、「やっぱり環境は大事にしないといけないと思いました」とか、「やっぱり何があっても生きていくことは大切だと思いました」などといったテンプレート的結論で埋め尽くされていた。そしてまた、世の中の雰囲気の常で、教師や親などもそうした結論ーーーとってつけた結論というものを推奨し、また彼ら自身も自ら好んで、そうした結論をあたかも自分で発見した結論であるかのように口に出して、子供達に吹聴していたのだった。そしてそうした雰囲気の中で、感覚的に鋭敏であった少年の私は大人達の「空気」を読んで、そうした内容空疎な読書感想文を書き、得意になっていのだった。そしてこうした得意の気分は、それから少したって中学生くらいになり、高校生になり、自意識ができあがり、世の中に反発する事を覚えるようになってくると、直ちに黒歴史となり、自分の中でもう二度と思い出したくない忌まわしい記憶のような体裁を取った。

 そしてまたついでに言うと、こういうことは残念ながら、大人の世界でも同様に行われているのである。それは種々の作文コンクールやエッセイコンテストのようなもの・・・・あるいは、そうした考え方は、大きな文学賞などにもいくらか跡を留めているように思える。つまり、結局の所、人は自分のサイズ、自分達が望むサイズで物を見ようとするのであり、本当に良いもの、美しいものを求めているとは言えないという事である。
 だが、これはおそらく、今も影を留めている私の子供らしい判断がいくらか、誤った判断を作り上げているのだろう。・・・例えば、企業体が自分達の企業理念に合致するなにものかを募集し、それをほめたたえる事は当然の事であり、また、それが真に芸術的に価値があるかどうか?などといった点について考えたりしないのは、当然の事である。だがしかし、こうした事が積み重なり、また世界全体がそうした、無意識の内の党派性というものの錯合でできあがり、そうした複雑な光と闇の陰影で埋まってしまうというのはおそらく、いつの時代にも存在しなければならない本当の芸術を窒息し、その息の根を止めかねないものである。・・・・そしてここに、正にこの点にこそ、全く空手空拳、何一つ手に持たない若者が、それ故にこそ、本物の作品を作り上げ、芸術を開花させる素地が眠っているのである。

 私は小学校の読書感想文から始めて、意外な所にたどり着いてしまった。私が言いたかったのはこうした事ではない。(言いたかった事など、どうでもいいが。) 私が言いたかった事は、私の小学校の読書感想文の結論があらかじめ誰かの手によって用意されていたように、現在では非常に多くの事がこうした状況に晒されている、という点にある。つまり、あらゆるものは既に誰かに先回りされて、解答を用意されているのである。・・・あらゆる所に教師がいて、問いを発するが、自由な答えなどはない。そしてその答えは既にほくそ笑んだ教師の持っているノートに記されているのである。
 こうした自由の欠如や、反発的な心には退屈と感じる現在のあらゆる状況は、ただちに否定されるべきものではない。社会の運営に対してそれは必ず必須の事項だからである。だが、現在の日本の状況はそんな必須事項ばかり突き詰めすぎている為に、どんどんと降下していっているように感じる。私は、この船と一緒に沈んでゆく。だが、私の心は少数の人と一緒にあの空の上を飛んでいる。

 私はーーー自分を語っても仕方ないのだが、とにかくうんざりしてきたように思う。私の二十七年くらいの人生の間において、私という袋には無数の「うんざり」と「失望」がたんまりと溜まったという他に、私の存在は見あたらない。

 だが、それでも私は生きている。その理由を聞かれても、私には答えられない。私には種々の、若い時に持つべく養成されている幻想は全て打ち砕かれたし、後に残っているのは、私にとって退屈なこの生だけなのである。私は自殺すべきかーーー?・・・おそらく、そうであろう。もし、理論整然とした紳士がやってきて、私の前後の状況を鑑みて、私に一つの決断を下すならば、私には「自殺」が好ましいだろう。だが、私は未だ自殺しない。何故だろうかーーー?それは私には、きっと理論外の物を信じる癖のようなものがあるからなのだろう、と私は私を洞察してみる。私は死にたくなっても、私の魂はいつも未来に触手を伸ばしている。それは、この文のはじまりに書いたように、多くの人々のためでなく、ごく少数の人々のため、あるいは未来の私自身の為に他ならないのである。私はーーーこの世界の無数の資本主義的に強制されたうんざりする希望の波を全て斥け、そして自分の絶望を探さなければならない。そして絶望する事もおそらくはまた一つのーーーそれもおそらくはたった一つの真の希望なのである。

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