FC2ブログ

物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

  僕の死の時

佐藤ひろ美二十六歳が

電車の中でたまたま隣に居合わせた後藤洋造56歳の服装を見て

心の中でせせら笑っている時に

僕は死んだ

山田達久四十三歳が

家賃の振り込みを忘れて焦って

管理会社に電話をかけている時に

僕は死んだ

加藤久雄三十六歳が

自分のミスを隠すために

代わりに部下の些細なミスを怒鳴りあげている時に

僕は死んだ

吉田時子三十五歳が

メイクのノリが悪くなってきたと

自分の老いを実感し始めた時に

僕は死んだ

カルト団が都内でガスを散布して回って

二人ほどが先んじて呼吸困難に陥っている時に

僕は死んだ

右翼がプラカードを掲げて

愛国の必要と政治家の醜さについて語っている時

僕は死んだ

死刑囚達が指折り

自分の死までの日数を勘定している時

僕は死んだ

吉本康隆三十九歳が

自分の部下の女と寝たいと思って

バー「サトー」で熱心に口説いている時

僕は死んだ

安元金子二十九歳が

早く処女を失わないとマズイと

SNSサイトを漁っている時

僕は死んだ

高橋竜二二十九歳が

人を殺した後焦って

証拠品を残したまま窓から逃げ出した時

僕は死んだ


そういう時に

僕は死んだ

      

スポンサーサイト



   次の駅

この街では

何百万人もの人がいて

それぞれ違う考えと顔を持って

蠢いている

それなのに 皆

一緒に見えるのはどういうわけだろう?

・・・電車の中でふと

向かいの女の子と目が合った

あの子も僕を見て、おそらく

ああ、同じだ、と思った事だろう

僕は本を閉じて静かに立ち上がって

次の駅で降りた

長生き

           

 長生きが流行った。人類の間で流行った。それは大流行だった。
 科学技術の発達のおかげで、それは可能になった。人類はあらゆる病気や身体的欠損を克服しつつあった。
 人類は脳を高性能コンピュータに、そして内蔵を新エネルギーによる内燃機関に、肌を鋼鉄のなめらかな可変金属体へ、神経をマグネタイトの細い糸に変えた。そして随分と長生きするようになった。
 それは当初金属の強度のために一万年か二万年程度だったが、やがて「金属生命の常時更新化」という画期的化学作用をブラジル出身のドクトル・マグワリーナが発見し、人類に適用することにより、人類の寿命はさらにさらに伸びた。
 それからも「永世精神更正」や「魂のアポトーシス回避作用」だとか、長い年月の間で沢山の発見がされて、更に更に更に更に人類の寿命は伸びた。
 それはもう先が見えないほどで、みんなもう「死」なんて言葉は忘れていた。「死」というのはやがて廃語となった。一番古い文献(この文献も長持ちする)にもすらそれはもう載っていない。
 人類はすさまじく長生きした。途方もなく。
 そしてその間、なに一つやらなかった。何せ時は無限にあるのだ。なにも今やる必要はないではないか。
 そして気の遠くなるような年月がすぎて、とうとう宇宙の終わりの日がやってきた。
 人類は宇宙の終わりの日を知らなかった。それで神様がやってきて知らせることになった。
 「おーい、お前ら」
 とよぼよぼの爺さんの格好を借りた神は言った。
 「宇宙は今日一杯で終わりだ。しまいだ、しまい」
 「えーーー」
 と人類は絶句した。
 「私達は死ぬのですか?」
 と人類は聞いた。(もちろん、死という言葉はなかったので大変遠回りな言い方を用いて、同じ意味の事を聞いたのだった)
 「いいや」
 と神様は人類に答えた。
 「お前達は死なん。・・・何もしなかったからな」
 と神は冷酷にも言った。
 「もう一回じゃ。もう一回この時を繰り返す。お前らだけな。・・・他のものらはもう全部済んどるからの」
 「えーーーーーーー」
 と人類は神様にブーイングした。ブーブー。
 人類は生きることにいささかウンザリとしていたのだった。

    日課

 集団狂気の中で生きるという事は大変なものである。・・・おそらく、僕が狂人なのだが。

 世界には一つの価値観が支配していた。
 それは「セックスの回数が人生の幸福度を決める」というごく単純なものだった。
 人々はあちこちでセックスしまくった。街頭で。市場で。家の中で。マンションの屋上で。総理大臣官邸の中で。クジラのように。アヒルのように。
 人々は絶対的な幸福を手に入れるため、ところかまわずセックスしまくった。それは物凄い光景だった。動物園で穏やかにつがっていた雄ライオンが驚いて顔をあんぐりとさせ、間違って雌ライオンの首に噛み付いてしまったくらいに衝撃的な映像だった。
 人々はとにかくセックスしまくった。世の中はセックス礼賛の情報と書物が大量に、それこそ埋め尽くすほどに出回った。。どうしたらより数多くのセックスが出来るのか、というノウハウ本が常にテンミリオンくらいのセールスを記録した。
 そしてその無限のセックス地獄の中、まんまと大量のセックス(数えきれない)をしおえた者達は実に幸福そうに、平均二十五歳くらいの若さで皆死んだのだった。医者は言った。「死因はセックスのしすぎですね」

 そして生き残った童貞野郎ども(セックスの回数が少ない連中はそう呼ばれたーーー決して童貞ではなかったーーー)は、二十五歳を過ぎると、突然別の価値観に目覚めた。
 それは権力と金、というシンプルなものだった。
 そしてそれには「どれだけ高いマンションの高層階に住めるのか?」というシンプルな価値基準が当てられた。権力と金=マンションの高層階だったのである。
 マンションの建築ラッシュが始まり、世界は天を目指して、そして天を突き破って宇宙を目指し、無限の塔を作り始めた。
 だが、その半分は欠陥工事の為、瓦解し、塔は崩壊し、マンションは崩れ落ち、みんなは瓦礫の下になって死んだ。
 それは「高貴な死」と呼ばれ、尊重された。高層マンションの瓦礫の下で死ぬのは一種の名誉だった。
 そしてある日、二千二十二階建ての二千二十階に住む、世界最高の男、バーナード・カラヤンスタイン氏がふと、新しい危険な(危険なというより死を伴う)遊びを思いついた。
 彼は二千二十階から飛び降りたのである。
 彼はその時の喜びを生前にICレコーダーに記録しておいた。そしてそれよりもっと大切な事は、彼はネットを使ってそれを全世界に中継した事である。・・・それはせいぜい一分足らずの映像だったが。
 全世界が彼の飛び込みに湧きいた。そして、カラヤンスタイン氏がその落ちていく刹那に記録し、配信した映像は、結局ぶれてしまって何が何やらわからなかったものの、全世界がその映像に興奮し、熱狂した。
 彼の死は当然、世界葬となり、もうみんなが大熱狂、ワクワクとしていた。
 そして翌日から、マンションの最上階から飛び降りるという遊びが大流行した。みんな死んだ。

 だが、それでも・・・しぶとい奴はいるものである。童貞で、しかも高いマンションにも住めず、おちおちと生き残った豚野郎共は新しい価値観を模索し始めた。
 しかし彼らは、性と権力と金の他に、どんな価値観も見いだせなかった。(酒とタバコは何故かその頃にはもう廃絶していたのである。)
 だが、彼らは最終的にこれぞ素晴らしい!という本物の快楽を、真実の価値を見出した。
 それが「死」である。
 これまで人類は無目的に死ぬ事を怖れていた。そしてマンション最上階から飛び降りた面々も、よく考えれば「死」に余計な意味を賦与していたのである。
 だから彼らは無目的に死んだ。中には死を味わうために、一年かけてちょっとずつ毒を回らせて死んだ強者や、癌の摘出施術をするどころか、わざわざ他人の癌細胞を移植して死ぬ強者もいた。
 こうしてみんな死んだ。
 残ったのは僕一人である。
 だから僕はこれを書いている。他に書く人はいないからーーー。

 僕はサルやリスと毎晩遊んでから寝る事を日課としている。









        君の死

雨の中を木の葉が散って

君の夏は終わった

君はもう死んでしまったのだ

いちか、あの日に、どこかで

君の死骸は墓地に埋葬され

もうこの世には残っていない

しかし

君の魂はそれによって取り戻される

なぜなら

君は生きている時は魂を持っていなかったから

自然は慈悲深い 君は

死んで「生」を得る

          君の罰

誰かが失った物を

君は嬉しそうに眺める

それが君の悦びの全てだ

たしかに君は何も失っちゃいない

君は失うことすら禁じられているのだ

つまり君は所有せざる者

君は失う事を怖れて

初めから全てを捨ててしまったのだ

そうして永遠に虚空の宇宙を彷徨う・・・

それが君が君自身に与えた

最後の「罰」だ

 
          私とあなた

あなたのお名前を

お聞かせ下さい

あなたの御心を

私に見せて下さい

あなたの素顔を

私に晒して下さい

あなた自身を

私に預けて下さい

私があなたを救ってあげましょう

あなたと同化する事で

あなたがあなたになる事で

私が私になる事で

      詩人へ        月の恋人

     詩人へ

静かな言葉のように

沈黙のように君が降り立つ時

一つの花が開く

世界は灰色だ

それを色付けるのは君

いつでも世界は言葉を待って

君を美しく輝かせてくれる


        月の恋人

白く薄い光の中に

現代人の生活が・・・ある

みな、仮装をしてきらびやかだが

その胸には寒い思いを抱えて

そうして何か言われるたびに怒り出し

隣人の靴を踏みつけることを癖とする

・・・何とかバレないように犯罪を犯したいと

考える者達が正義を叫び

街頭はスローガンで一杯となる

今、夜は無色透明で

世界は明日、終わりそうだと

預言者たちが言う中 僕はふと

昔の恋人の面影を

あの月の相貌の中に見た


叛逆としての科学―本を語り、文化を読む22章叛逆としての科学―本を語り、文化を読む22章
(2008/06/21)
フリーマン・ダイソン

商品詳細を見る


 哲学の書物でも科学の書物でもいい、大抵の哲学書や科学書、そして文学書など・・・つまり様々な専門的な本というのは大抵、読んでいてうんざりした感覚を持たざるを得ないものを感じる。確かにその専門の中では大いに価値があるかもしれないが、何かそれは狭い圏内に閉じこもっているように感じられるのだ。
 こうした専門というものの、自己への閉じこもりは武器であると共に、いささかうんざりするという弱点も持っている。だが、この書物ーーーダイソンの書物にはそうした科学者特有のうんざり感も、自らの学説に酔っている科学者の姿もない。彼は科学の他に広範な知識と教養を持ち、それを結びつけて考える想像力を持ち合わせ、そしてその事がこの書物では十全に展開されている。
 とくに圧巻はーーーまだ最後まで読んでいないのだがーーー地球の生物圏にまつわる二酸化炭素の増量の影響である。そこでは植物が自らの生死を持って空気中の炭素と二酸化炭素の量を調節するであろう、という事が彼独特の想像力を持って描かれている。・・・この描写から正に、地球、自然が生きた全体として現れていて、彼の持つ広範な科学的知識が手足のように使われ、自然というものの雄大さと生き生きした様子、そしてその見事さが現れている。
 ここには一人の独善的な、自らの学説に閉じこもるのではなく、科学的知識を武器に世界へとその目を向ける一人の冒険者があらわれでている。自分としてはこの雄大な冒険者を褒め称えたい。なぜなら現代は総合の時代、それぞれが個々の殻を破る転回点に来ているからだ。





             固持

窓の外には

「世界」が控えている

お前は孤独を楽しんでいる

この世はがらんどうのようだ

いつか世界がお前に微笑みかける時があったら

お前は満面の笑みを返してやれ・・・

それまでは冷笑と侮蔑の中で忍従し

お前自身を固持し続けよ



          一艘の船

世界が美しい花のように開く時

人々は皆沈黙している

言葉がそれを讃え 音楽がそれを表す時

人の耳と目は沈黙している

君は

空が降ってきたかのように

目と耳を塞ぎ

「ああ、明日がない!」と叫び出す

僕は

世界を救出するために

一艘の船を繰り出す

正しさは過去へと、過ちは未来へと向かう。

他者とはもう一人の自分である。それは必要とされねばならない自分である。

作品は人を、人は作品を必要とする。

作者とは一人目の読者である。だから読者ゼロの作品はこの世には存在しない。

自分自身を満足させるものを作れれば、それで充分である。だが、他人はそれを必要とするだろう。

細部が原理を生むーーー松下幸之助は最後には哲学者になったと言って良いだろう。


   猫の瞳

ストーブの前で暖まる猫と一緒に

冷えた体を暖めて

「ああ、学校行きたくないな・・・」と思ったことがある

世の中にはサラリーマン・学生と

どうして「通勤者」で一杯なのだろう?と

思ったことがある

そんな僕も「やれやれ」と腰を上げて

今日もお定まりの学校に行く

全ては遠い昔のようだ

猫の瞳だけが青く輝いている

 現代人というのは生きることに疲れて、死に追いやられている。そしてその大部分は、生に対するあらゆる細かな配慮や、それのための神経疲労によって逆に死に近寄っていく、というパラドックスを抱えている。
 生きるための配慮ーーー健康、幸福、平和、貯金、・・・いくらでもある。家庭、彼女、彼氏、親友の存在等・・・生きることへの賛美があまりに凄いために、その道から一歩でもはずれると、まるで自分は価値のない人間のように思えてくるのだ。健康のために、精神の健康を害する。わずかな健康上の欠点が、精神の上に巨大な欠陥としてのしかかり、結果、精神の寿命を縮めることとなる。・・・今になってまたこの台詞を誰かが吐くべきだろう。「人間はパンのみに生きるにあらず」と。
 パンの心配ばかりして、精神を害し、死に至るとは滑稽である。だが、そうした全体性が現代をむしばんでいる。あらゆる生に対する肯定は不可避的に死に対する傾斜を生んだ。
 現代人はこういう問題に取り囲まれて、毎日を疲労と焦燥の中に生きている。・・・そして倒錯した精神は、荒れた舌は、「もっとパンが足りないから、自分は不幸なのだ」と考え、そしてパンを多量に食べて死ぬに至る。およそ、現代の文明というのはそういう方向に進んでいる。
 我々にとって死が不可避である事、また、認識の限界を確定する事や、全ての幸福など望むべくない・・・そしてまた、我々の内部に他者の評価と違った幸福があるという事を知るという事は我々にとって一つの解放であり、我々は制限があるからこそ自由に生きられるというパラドックスを生む。・・・だが、自分にとってはどこか見えない所で、そんな風に自分と同じように見知らぬ人が暗中模索して生きているという事を考える事だけが唯一の慰めである。人々の視野が錯綜し、集中している点にはあまり宝は落ちていないであろう。

    学級委員長

朝がやって来て

僕を夜へと誘う

「止めろよ。僕はもっと眠っていたいんだ」

「この世に起きたくはないんだ」

・・・朝は強引に僕の布団を引剥がして

それをどこかへと持って行ってしまう

僕は寝ぼけ眼のまま

神に祈り、朝を呪った

・・・朝、いつもの学校に登校すると

学級委員長の髪が

おさげになっているのに気がついた

 現代というのは一つの分水嶺ーーー一つの悪夢からまた新しい悪夢へと移る時代であると思われる。
 前代においては、日本はーー成功より来る繁栄から、怠惰をシステム化しようとした。バブルや、国が借金をし、国民にばらまくという制度がその良い例に当たると思う。ここで人は自分達の怠惰をシステム化し、一つの錬金術を作ろうとした。バブルというのは錬金術に他ならない。ならば、その代償もまた明らかであろう。
 人間というのは自分が何をしているのか、知らない動物であり、またそこから沢山の痛手を負ったとしても、それをすぐに忘れてしまう種族らしい。・・・古代にはとにかく叡智があったが、それは彼らが我々より格段優れていたというより、彼らがいかに多くの失敗を重ねてきたかを証するものに思える。
 人間はまた学ばない、という事も一つの大きな特徴に思える。人は多く学ばない。大抵は鵜呑みに知識を詰め込むだけである。だから、自ら考え、消化し、学んだのではない事、ただ飲み込んだだけの事をやがて人がひっぺ返しにしてそれをあざ笑うのは時間の問題であろう。・・・そしてそれは既に来ている。元々、表面的な道徳や論理だっただけに、それを嘲笑い、捨て去る時間も早い、という訳だ。
 また人間は努力せずに、人の作り上げたものを盗もうとする。これに対する最も良い仮装は「平等」であり、また「幸福」でもある。ここに一人の人間が努力して富を手に入れたとする。この人間は徹頭徹尾、自らが努力して富を手に入れたのだ。だが、ここに努力せざる者がやってきて、「人間は平等なのに、こんなのはおかしい。不平等だ!・・・分配すべきだ!」と叫ぶ。そしてその声はやがて大きくなって、合唱となる。こうして富は確かに分配され、人間は「平等」となりまた、努力した者は報われない社会であるから、生産は著しく落ち、社会は沈没する事となる。
 とはいえ、もう一つの怠惰も言わなければならないだろう。それは支配者や、金持ち、権威者の方の怠惰であり、彼らは自らの権力や、システム、自分達にしか分からない事を秘密めかして語り、民衆を搾取する。・・・ここにもまた一つの怠惰が見られる。
 人間というのはおよそ、こうしたもので、その根本には、我々が様々な物事に大して通暁していない・・・というより、無知だという事、そして無知に安住する、という事に原因がありそうだ。我々に明知がなければ、当然、ついていかべかざるものについていったりもするだろう。だが、そこで痛い目に合った後、人はその事には触れずに努めて忘れようとする。思えばオウムサリン事件や秋葉原連続殺人事件は、我々の社会が生んだ子供のようなものである。それは正しく我々自体が生み出した特異な現象であり、これほど現代的かつ特異な事件はない。彼らはある意味で真剣であり、真面目であったからこそ、ああした事件を起こしたのだった。・・・だがそうした事にたいする自己反省はあまり顧みられる事なく、彼らを我々の社会から切り離して、事は終わった。・・・我々の相貌が彼らに似てきていないとも限らない。ラスコーリニコフは巨大な集団犯罪を予告していのではなかったか。
 今の自分にとって、人間とは大抵そのようなものに思える。そして社会が「幸福」や「善」や「平和」や「平等」、「正義」「真理」を叫びだす度に、ダンテの見た地獄に深く足入りしているような気がする。こうした事を考えているのは自分だけではないだろうが、自分はそう感じているという事をとにかく記しておく。この事に意味がない、とは思われない。やがて、人間と全く違う種族がこの地球にやってきて、僕の残したこの言葉を古びた石版を発見する遺跡発掘者のように見つけないとも限らないから。

   

・・・およそ人間として生きている限り、自己の内に生命というものがあり、また身体、精神といったものが感じられるのは当然のことであり、また自分自身が生きている事を不思議だ、と人が自分を眺める時、そこに神性という言葉を使ったとしても、何ら不思議ではない。

問題は生き生きとして生きている自分自身であり、この自分自身の存在の活き活きとした肯定感をそのまま活写するのは、芸術において他はない。・・・例え、哲学といえど、それは本質という名を取って映しだす限りそれは、一つの固まった状態、不活性の、活き活きとしていない状態におかれる、という意味で、元それーーー魂とでも呼ぶべきものーーーがそうであったところのものから外れる事となる。こうした対象化は、科学、そして数学へと進む毎に一段と強くなり、数学においてはもはや「1」という単一体に集約され、それ以上顧みられる事はない。

だが数学ーー物理科学などは、問題を極限する事、つまり生命、魂ーーーといった問題を捨象する事によって芸術や哲学には得られない複雑さと工学性を得たのであって、それは芸術の現実に対する無力さとは対等に位置するように見えるだろう。・・・だが、二十世紀の大衆にとって、そして多くの人々にとって、この問題の極限、対象を捨象してシンプルにすること・・・は問題の極限ではなく、問題の解決だと見られたのだった。・・・そしてロシアでのあの怖ろしい実験が始まった。それによると人間というのは初めから捨象された存在であり、「我々の真実」に見合うものであり、それ以上ではない、と決定されたのだ。

二十世紀は人間の極限化・・・いや、生命やあらゆるものに対する問題を軽視し、操れると信じて頑強に進んだのだった。そしてそれは現在の我々が抱えている内心の空虚さと問題を親しくする。・・・表面は戦争から平和べと流れたが、根底は変わっていないのである。

科学と宗教

科学は「いかにして」を問う学問であって、「何故?」を問う学問ではない。

例えば宇宙はビッグバンから始まったとする。するとビッグバンは何故始まったのか?・・・そしてその前は何故?・・・と永遠に問うていっても、どこまでいっても答えはでない。科学はメカニズムを問うものであって、何故?というその理由を説明するものではない。

例えば、ここに一匹の鹿がいて、この鹿に角があるのは、身を守るためだと科学が説明したとする。すると何故、鹿は身を守るの?と子供が質問する。すると、科学者はそれは自己の生命を守るためだ、と説明する。するとまた子供は、じゃあ、何故、鹿は自分の生命を守ろうとするの?と子供は問う。科学者はつまりながらも、「そうなっているから。そういうものだから」と答えるしかない。そしてそれは全く答えになっていない。また、子供は聞くだろう。「何故、そうなっているの?」と。科学者は窮する。

実際、これに答えはない。これに答えがあるとすれば、それはその一匹の鹿に宿っている生命感ーーー生命という不可思議な現象でしかない。これをどこまでも分解していっても、生命なるものはどこにもあらわれず、「メカニズム」しか表れない。だがメカニズム=生命ではない。メカニズムに生命が宿っているかもしれないが、科学者は、「このメカニズムには生命が宿っている」とは決して書けないのである。

もう少し考えてみよう。目の前に一人の科学者がいる。この人は人体の構造に完全に通暁し、ありとあらゆるものを説明できるーーー。僕はこの目の前の人を急に殴る。すると科学者は怒って殴り返すか、侮蔑の言葉を返す、としよう。すると僕は聞く。「あなたの科学書には、私の殴打をどのように知覚するかまでは載っていますが、あなたが「怒る」という現象には一言も書かれていないが、これはどういうことか?」と。

あるいはーーー当然、怒る、というメカニズムそのものは発見されているであろう。だがこのメカニズムそのものはそのまま=怒るではないのだ。この怒るというメカニズムと、怒るという感情を同一視する時、実は科学者は、自分の実体験としての「怒る」を巧妙にメカニズムの「怒る」に流し込んでいるのだ。・・・つまりは科学は最後には自らの主観性という最後の影をーーー自らの影を投じる。・・・そうしなければ、科学は完成しない。・・・これは当たり前のことである。科学者も癇癪を立てたり、嘆いたりするではないか?・・・。


また、ある科学者が宗教者にこう言うとしよう。「あなたの言う神は、我々の知り得た科学の中では、一つも見当たりませんでしたよ」・・・それに宗教者はこう返す。「あら、あなたの言う科学がいないといったからと言って、神様がいないと決まった訳ではないでしょう?・・・なら、私は以前、神様の存在を信じても良いではないではないですか?」と。科学者は苦い顔をして立ち去るだろう。・・・彼が科学が全てと信じるように、宗教者もまた神を全てと信じているのだ。

該当の記事は見つかりませんでした。