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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

   少女の歩み

僕の心が休む丘に

一人の少女が立っている

少女は髪を結わえながら

丘の先の町を見つめる

「世界はもう滅亡してしまったんだ・・・」

そんな事を思った矢先に

本当に隕石が降ってきて町はぼろぼろに

少女は結わえていた髪をほどいて

精悍に町に向かって歩き出した

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      分析

光は色彩の中で音楽を奏で

肩を曲げながら右へと曲がった

空は自分流の音楽を雷によって

人は踊る事によって表していた・・・

全ては音楽であり詩である朝

人だけが分析を止めなかった

生きることは根本的に虚偽であり、インチキである。子供はこの事を糾弾する。大人はこの事を知っているが、黙っている。大人は表面上は正しいように見せかけているからだ。

表面上の見せかけを真実だと思い込む人間が時に歴史の中で勝利者になり英雄になったりする。

「不正よりも不正を正す不正の方が尚悪い」ーーーこの言葉は一般には愛好されてはいない。なぜなら人はいつも不正を正す立場にいるから。

一般に「優しさ」とは死と破壊に対する寛容の事を言う。・・・自分が怠惰だから人の怠惰は大目に見てやれ、という訳だ。

今の言論というのは周到に腫れ物に触れないように、常識を迂回して発言することしか許されていない。常識に対して言及し、それを批判したりするとたちまち炎上するから。

ところで常識はすぐに変わる。すぐに変わるものが常に正しいとされている。


人類というのは抽象名詞である。個々の人間しかいない。人類のために、人間のために、という人間が道端で倒れている人間を無視しようが、僕は驚かない。

劣った人間は自分が劣っている事を肯定するために優れた人間を軽蔑し、破壊しようとするーーーとすると、つまり劣った人間などいない、という事になる。彼にもまたプライドがあり、自分を正当化しているのであるから、優れた者とは見事にバランスが取れている。

本当に劣った者は自分より優れている者を何とも思わない。認識できないので。

蟻は人間に嫉妬しない。

この世界の複雑さの多くは、単に色んなものを大壮に見せかけるためだけにできているような気がしてならない。実際の中身はからっぽかもしれない。・・・社会で働いた事のある人にはわかるだろう。

それでも現実はあるのであり、それは認めなければならない、と現実主義者は言うだろう。だが僕は言う。それなら現実を変えられるという可能性も認めざるを得ないだろう。これまで人間はさんざん変えてきたのだ。ーーーこの現実主義者は僕の言葉に対して不機嫌な姿勢を見せ、その後で僕を暗殺しようとするだろう。

世界が自分達についている嘘と真実は破壊と破滅という結論によって一致されることを要求されるだろう。やがては。

ルールというのが表面的である以上は、表面さえ覆えば何をしてもいい、というのがこの世の根本思想である。

自分自身がうまい思いをできなかったので、ズルをしてうまい思いをした(と思われる)人間を人は激しく糾弾する。彼が同じ立場になれば同じ事をするのは明白だ。

実際、欲望というのは満足させる類のものではない。満足したと思い込ませる類のものだ。人はみんな思い込むことで自分の人生を補完している。



戦中は日本礼賛が正しい姿勢であり、戦後は日本非難が正しい姿勢であり、おそらくまた変わるだろう(もう変わっているだろう)。人はこの手のひら返しをして、全く何の痛痒も感じずに常に正しい存在として君臨している。

  出生

僕は存在しないのだ

その事は昔から知っていた

今、それが露わになっただけだ

僕は存在しないのだ

今、誰もいない夜の中

ひとり自慰に耽る僕は敗者の中の敗者・・・

そんな事はとっくに先刻承知だ

僕は不在の人間だ

それが今こうしてここで生まれようとしている

    存在しなかった者達へ

存在しなかった者達よ

今更嘆いても仕方あるまい

世界はとうに終ってしまったのだ

君達が出てきたところで

どうにもならなかったことは必至の受け合いだ

存在しなかった者達よ

今更どうにもなるでもない

世界は神に

ガン切開手術を受けることを宣告されたのだ

今ほらこうしてカップラーメンをすすっている男が一人・・・

手始めにあの男から始めようか?

   世界の終わりの後の朝

世界はゆっくりと終わっていく

それは俺の眼には

新しい朝のように美しい

それを認識する者は誰一人としていない

何故だか俺の眼にだけは見えている

どうしてそうなったのかは分からない

だがクッキリとハッキリと俺の眼にはそれは映る

世界はゆっくりと終わっていく

新しい朝焼けや最後の夕陽の光芒のように

それは醜い者達を全て焼き尽くして

こうして美しいものとして終わってゆく・・・

と、突然俺は目が覚めて

今日の宿題をし忘れたことを思い出した

   スカートの翻り

自殺を尊重し

光を怖れ

一体、お前は何を思うのか・・・

風景はいつだって真昼だ

それも死者や亡霊達が飽いた墓場の上

その上を燦々と太陽が降り注ぐ・・・

そういった風景だ

今更、俺のスカートが翻ったといえ

誰も俺の顔を見るまい

   迷い

雪は四散し

俺達は帰途に着いた

・・・河は流れた

光はまだ帯のようだ・・・

それでも俺達は「酒」を止めなかったし

「女」はどこにも一人もいなかったので

河の魚を慰みに遊んでいた・・・

そんな辛い過去もとうの昔

今、俺は絞首台の前に立って昔の事を思い出しながら

ぼんやりと考えあぐねている所だ

   子供の遊び

死体を弄んでいる子・・・

あの子にも「死」の意味がわかるのだろうか?

・・・おそらくそうに違いない

彼女は死体の目をつまんで

ボールのように転がして遊んでいた

俺はただそれをじっと見ていた・・・

やがては親がやってきて

衛生的な人の殺し方を教えるに違いない・・・などと考えながら

希望は外側にあり、絶望は内側にある。この二つを結ぶのは行為である。

人が現実を動かす際はまず自らという現実を変化させることから始まる。

制作者はまず虚無を発明することーーーありとあらゆる有を無化することーーーから始める。この点において制作者は破壊者である。

作家は外部的な現実に影響を受けて、内部に虚無を作り、そこから創造行為をフィクションのーーー「紙」に叩きつける。この変化された紙が作家の唯一の創造である。

我々は数学のように歩いていくべきだ。即ち個別化と一般化を通じて。

大衆と天才は時代のペダルの両輪。

他人を軽蔑する者は自分を恥じている。彼はそこから抜け出したいのだ。

人間というのは中庸を心得ている人間が想像しているより百倍も深く広いものだ。そこにはどんな劣悪も崇高も許される。

そうでなければ小説家などという輩の活躍する場がないではないか?

知識とは一過性のものである。自然とは到達しえぬものである。この二つを胸に刻んでいる人だけが永遠に進歩できるであろう。


    出勤風景

古い絶望の上に

俺達の廃墟が立っている

「今更どうなるものか・・・全てはもう遅いのだ・・・」と誰かの嘆きが

古い牧歌のように流れて行く・・・

と、俺は急に夢から覚めて

現実という奴に帰ってくる

朝、俺が人並みに出勤するためにヒゲを剃ると

アゴに二本の血筋が現れて

俺はそいつらを撫でながら優しく笑った

    6

人生の悲しみは人生の醍醐味である。悲しみがない人生は一層悲しい。

偽りの賢さはやがてあからさまな愚かさとして現れる。

誰一人聞いていなくても、発言する意味はある。君一人が聞いているではないか。

理屈ばかりが幅を聞かせている。例え君が正しくったって僕はここを梃子でも動かない。

僕の首を刎ねた所で君の正当性は明証されない。そのことを忘れるな。

おそらくは死と生の間には薄い紙切れが一枚横たわっている。この一枚の強度の為に強い精神は自殺を免れるのだ。

絶望は死の原因ではない。人はいじめられたから自殺するか?・・・いじめによって確定するのは絶望すること、精神の死だけである。そこから肉体の死ーーーつまり自殺するまでは長いようなそれでいてごく短い、一瞬でありまた永遠の距離がある。

精神が絶望をこらえ続けていればおそらく救いは訪れるのであろう。「捨てる神あれば拾う神あり」。世の中はそんな風にできている。

人は必然性によって救われるのではなく、偶然によって救われる。だからやはりこの世の中は「何か」である。

    5

絶望するな、希望を持て、というのは間違っている。絶望せよ、そして希望を失うな、の方が正しい。

自由と平等の両立というのは不可能である。不可能だからやるのだ。

服従した精神は他人を巻き込みたがる。

シオランの絶望はあらゆるものを拒否している。にも関わらず、彼は人類にとって有益である。いつも絶望し、小言ばかり言っている人間が何故有益か?・・・彼は勝手に一人で全人類の苦悩に悶えているからだ。

シオランのような人間の絶望を実存主義的だの出生に問題があっただの、とにかく外的な事で説明しようとする風潮は好きにはなれない。目の前の人間が真摯に自らに対して絶望しているではないか?何故それを感じようとしないのか。

マルクスやフロイトやハイデッガーやら科学のおかげで、すべてのものには真理という影がついた。人はこの影を見て、決して実物を見ようとはしないのだ。

ゲーテは現象そのものが理念である事の喜びについて語った。芸術家は現象そのものを素のまま眺めなくてはならない。現在に芸術家が少ない所以である。

真理というものを転倒させねばならない。

今日という日があればそれで十分だ。明日を探し求めるな。

   4

本当にそれを理解するとは、それによって自分がねじ曲って変形してしまうことだ。この切断面を「理解」と言う。

芸術が美術館の中にあったり、雑誌の中にあったりするなら、そんなものはただの慰みでしかない。人生に打撃を与え、自分の自殺を救うような力がなかったら一体何のための芸術か。

自分より絶望している人間に出会うと人は救われる。

自分の心に気付いたら何をなすべきかは明瞭だ。

人は単独で成功するより集団で破滅することを好む。

世界が終わったとしても誰の気にもとまらないだろう。気に留める者が一人もいないのだから。大切なのは今この一瞬それだけだ。

自己肯定が他者肯定に繋がらないのなら、それは彼の鼻の曲がり具合を他人に自慢しているようなものだ。

世の中の大半はバカバカしいことで、何故そうかと言えば、皆自分を賢いと思っているからである。

ネクラというのは明るくなれる素質を持った人のことだ。

小さく間違えて大きく成長するーーー成長のコツ。

ポジティブなことを言っている人間が必ずしもポジティブとは限らない。人間、喜び勇んで破滅に向かうことはあるものだ。

ヒットラーは読書家だった。彼はそれによって自分の愚かさに徹底的に磨きをかけた。

本を沢山読むことを推奨している人間は、要するに「自分には自分の頭で考える能力がない」と独白しているようなものだ。

世の言う「ポジティブ」は最後には「ポジティブだ」という幻想に帰する。

絶望は希望に変えて、希望には絶望させてやらねばならない。

政治は有限なものへ配慮しなければならない。芸術は無限なものへ配慮しなければならない。

それゆえ芸術は社会に咲いた花である。(内藤湖南が言っていたか?)

言葉は花のように咲き誇らなければならない。それ以外は嘘っぱちだ。

分け与えるものだけが受け取ることができる。吸い取られるもののことではない。

自分自身を製造せよ。そして売却せよ。高値で売れるだろう。

愛する人間を持つには孤立しなければならないーーー。

社会に傷付くことによって人は社会に現れ出る。だから社会人というのは顔に傷が一つ以上は入っている。

政治は破壊でもなければ、福祉でもない。それは植物に対する水やりでなければならない。前進し、成長するのは国民である。それ以外にはない。

強いリーダーを欲するのは怠惰の表れ。

自立するとは花にあることだ。

花を見たまえ。一人で立っている。

集団の臆病が集まれば正義になる。




   架空の雪

雪は天使の足跡のように

僕らの魂に響いた

光は不可思議な透明な色をなぞって

俺達の魂を導いてくれる・・・

今、ふいに「あのエロゲやり忘れたなあ」とか

「あのアニメ見忘れたなあ」とか思い出す僕は

一体、どういう存在だろう?

・・・今宵も雪が降る

おそらく僕の目にしか見えない架空の雪が

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