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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

    肉体の使命

言葉が沈黙を奏でる時

お前の歌は止む

人々の叫声は慣れたものだ

・・・今や、お前の心をかすりもしない

この世の全てが矢となってお前に襲いかかっても

やがては暁が貴様を導く

天国のその先にある大地へと

そこでお前は再び歌い始め

天上の台座となって倒れるのだ

・・・それが僅か一かけらお前に残された

肉体の使命とでもあるというように

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   ランボーへ

お前が純粋な魂を持って

この世を渡った事は誰もが知っている

だが余人達はそう受け取らぬ

彼らはその汚れを正当化するために

魂の純粋無垢を信じぬのだ

・・・お前が純粋な魂を持って

この世を渡った事は誰もが知っている

お前の詩業が一つの光彩として

それを語っている

・・・人々は信じぬのだ

今、俺はお前の前にひれ伏そう

俺自身の魂の純粋無垢を愛するために

    成果

神々が静かに倦怠を歌っている時

私達の愛は輝いた

光は走る一線だった

今、許された構造を思う時・・・

俺の荒くれた脳中が叫びを上げる

天才共の供宴もまた

人々の目と耳を楽しませるための

一座の余興にすぎない

だが、そうした事を思う時、俺の脳中は沸騰して

この世の限界を突き破るのだ

・・・人々がどう笑おうと構わない

神々が照覧するこの朝が

俺にとっての全てであり、人生であり

こうして全てがゆっくりと離反して

俺を新たな朝へと導き入れる

・・・神々は俺の努力を知らない

だが、その『成果』だけは認めて下さる

    この世と別れて

光は弾けて

また、斧となった

お前は涙を伏せて

明日の天候を思っている

俺は憂愁を解き放つために

野原を歩いた

光は弾けて弾けて・・・

矢となって砕けて散った

今、夜の瞑目の中「基本の基本」

「初歩の初歩」を教わる少年が一人・・・

それは俺達の魂とは

関係のない響きだ

俺達はキスをして

この世を見限ってやった

    音楽

   顔

荒野を〈アレチ〉と呼ぶ男に

お前は一度だけ出会ったことがある

お前はその時、黄色い帽子を被って

神々を照覧していた

怒りが静かな倦怠に変わる時

俺達の旅が始まる

左手が奇妙に疼き出すと

俺達の地球が吼え出すのだ

許された通俗性?ーーーそんなものは忘れた

今はただ神々に会いたい

俺達が殺したその顔(ツラ)を

もう一度この顔で拝みたいのだ

     蕎麦湯

校舎の君を言葉の僕が捉えて

夜が更けてゆく

光は透明な線の中を走り

君の名はいつか呼ばれたもののように

輝いた

僕は亡霊のガラスに隔てられて

君の名を呼ぶことができない

光は繊細な抒情を湛えて

「お前ら」の心を歌う

怒りは夜の中、槌のように輝いて

人々の眉間をつんざくだろう

心からの声は心に洗われて・・・

ああ、もう遠くからの声が

僕の耳に聴こえなくてもいい

今、僕には天使のリズムが必要だ

君が蕎麦湯を飲むように




   竜の鳴き声

紅蓮の海に

一匹の竜が住んでいる

夜毎、私達の世を呪って

鳴き声を上げている

その声を聴き取れるのは私一人

と、するとその竜は存在しないということになるのだろうか?

いいや、人々のあの悲しそうな表情は

竜の鳴き声が聞こえているからなのだ

   色々

金をいくら持っていても、労働する者が誰もいなければ、意味が無い。この事からも、守銭奴が観念論者だという事が分かる。

金を得ることが望みの人間がいるとする。この人間が自分の努力と関係なく法外な金を得たら、この金を失うことが怖くて夜も眠れなくなるだろう。


人間にとって喜びとは、自分より高いものを認め、それを乗り越えようとすること。・・・人は尊敬心を持つこととライバル心を持つことが全く同時に可能な生き物なのだ。

世の中の人々は大抵、貧しい生活を送り、それを補充するように幻想に頼る。だからといって我々が豊かになっていけない訳があるだろうか?・・・自分の言っているのは内面的豊かさのことだが。

天才というのはいつの時代でも同じ事を繰り返し喋っているに過ぎない存在だ。・・・それは時代が繰り返し同じ誤謬を繰り返すからだ。

有用なだけが取り柄の人間は、次生まれ変わる時には歯車にでもなれば良い。

誤ちには二種類あって、一つは基準を下回るもの、もう一つは基準を上回るもの。

私の言葉を誰一人聞いていないからといって、私がそう言ったという事実は変わらぬ。

沢山本を読んだからといって、賢い訳ではない。それを消化しなければならない。

本なんか全然読まなくても、とても賢い人がいる。・・・そういう人は人生自体を一つの本としてそこから学んでいるのだ。


自分を失わずに誰かから愛されようなどとは見当違いも甚だしい。

他人のために自分を失うことが喜びのような愛もある。

現代人は自分を失わず、他人から貰う事を欲する。恋人から、家族から一円でも多くのものを自分に対して引き出そうとする。自分という人間は結局、死によって失われるのに。

他人から貰う事を欲し続けていては、何一つ得られない。何故なら、そうした人間は他人から何かを受け取ったとしてもそうしたことを当たり前だと感じ、そしていつも、「もっともっと」と渇きの中であがき続けているからである。


奴隷は自分自身が奴隷であることを誇りに思っている。そう思わない人間は自ずから、そうした隷従状態から抜け出すだろう。

常に束縛を感じるような人が初めて自由を生み出す。

世の中の言うことを聞いて一生を失うことほどバカらしいことはない。・・・みんな慰みにしか見ていないのに、本人は「評価されている」などと本気で思い込むのだ。

奴隷以上の奴隷というのもいて、こういう人間は世の中の規範をやたら主張することによって、貧しい自分の自己主張を成し遂げようとする。

規範を守らせる人間はそうした事で自分自身の権力が増大したと錯覚しようとする。

我々は規範を守らなければならない。だが、より良い規範について絶えず問議し、それを実行して良いはずだ。

現実は尊重しなければならないが、そんなことに我々の思考が従っている余地はないのだ。そうでないなら、どうやって新しい未来が訪れよう?

セックスの回数が幸せの定義なら、そうした行為のもっと多い犬とか猿とかになれば良かろう。



自分の言っている事は現実に対する批判に聞こえるかもしれない。だが自分の言いたいことはそうではない。みんなが現実だと思っているものが全て幻想である、だからそれを破る必要があるということだけなのだ。

そしてその後は知らない。各人が歩いて行く道があるだけである。

・・・だから現代人の多くは、死の直前になって自分が何一つせず、何一つ保有していなかったことに気付き、泣き叫ぶだろうか?・・・然り。・・・だが実はそう気付けただけでも幸せで、事実はそうならず、そうした魂は永遠に浮遊して何一つせず、何一つ得られない永遠の地獄を彷徨うように思われる。


役者が対象を掘り下げるためには、自分の中に深いものを持っていなければならない。

よく考えれば、SMAPや明石家さんまという空虚な存在は悲劇的だ。彼らは喜劇的な仮面を被っているものの、内心ではその悲劇性を感じているに違いない。

大衆の欲望に合わせてマスコミという拙劣な劇が転回される。

今インテリと呼ばれている人の多くは自分の頭で考える力を持っていないので、やたら過去の偉人や権力者を持ちだしてくる。

研究することが哲学ではない。彼は自分の頭で考え、判断し、結論を下さなければならない。

もはや現代ではーーー全ての結論は間違っていると言っても良いだろう。いずれにしろ、後から誰かが出てきて、自分の欠点を修正し、新たな理論を打ち立てるのだ。そして馬鹿者どもがその先駆者の後について、以前の理論とそれを作り上げたものを笑うのだ。だが科学者はーーー真の科学者はこうした事に怖れをなさず、いや、敢然と「誤りである」結論を下さなければならない。


永遠に自分が正しいと思っている人間には永遠に進歩が訪れない。彼は同じ所に留まり続け、自分は正しい!と喚き続けるだろう。

馴れ合うより一人でいる方がマシ。

「一人だと寂しいだろう?」と人は言う。「君達といるよりマシだ」と私は答える。

世の中は辛く厳しいので、これと戦わずに逃避しよう、ごまかそうという試みがますます世の中を必要以上に厳しくする。

表面的な人間とは表面的に付き合うのが良い。つまらない人間にまで自分の内奥を見せる必要はない。

自分の内奥は、それを真に必要とする人が現れるまで取っておけ。

空虚なものがいくら重なりあっても、空虚だ。だが世の中には自分の全てを語るに足る人がきっといる、と信じて良いと思う。

希望とは未来が明るいことではない。自分自身の中に未来を感じていることだ。

芸術家は自分に忠実に表現されることを要求される。だが自分を促進していくこともやめるべきではない。

世の中は自分達にひれ伏す相手を愛する。結局、彼らは自分達がいつも自分達より大きな何かに対してひれ伏しているのを無意識に感じているで、その代償を求めているのだ。

精緻な理論を使いながら、自分の簡単な感情にすら気づいていない人が沢山いる。

その人が憎む対象がその人が乗り越えるべき相手だ。破壊するべき相手ではない。

人と人とが本当に出会う時は自分が完成した時だ。

自分が完成すれば、完成した相手と出会えるだろう。


人は物事についてよくわからぬので、規範に従おうとする。そして規範に従っていれば問題が起きないと固く信じようとする。そして実際に問題が起こったら、諦めた表情をする。もう少し良い規範があったら、とか、もう少し良い判断をしたら、という風には決して考えない。おかげで世の中は閉塞的に、がんじがらめの様相を呈してくる。

自分のことを正しいと思えば、そこで進歩は止まる。ゲーテは終生、自分の進歩を暫定的なものとみなしていた。











  真実の魂

誰もが自分の人生を持っていると思い込んでいる

私もそうだった

だが、戦わないものに個性がないように

この人生で傷つかず安穏と暮らしている者には

何一つやってこないのだ

良き魂は いつも

間違いを好みそれを修正する術を心得ている

運命の試金石が彼を傷付けようと

また、彼を殺そうと

永遠に良き魂は良き魂として

この世の遥か上を渡っていく

・・・これが私の信仰だ

人々の信仰は知らない

いずれにしろ、私は

人々の宗教から抜けることからスタートを切った

今更、人が何を言おうが怖くない

彼らが私の頭を壊そうと

私の魂までは破壊できないのだから

それが私の信仰だから

だからそれが真実だという訳だ


詩と宿命

 かつての詩人は宿命的であった。中原中也や萩原朔太郎、そして吉本隆明や田村隆一といった詩人もまた、部分的には宿命的であった。彼らの詩が良い詩であるということと、彼らの詩が一つの宿命の主調音を奏でているということは別事ではない。・・・ただ、現代において、人間不在の思想が流行り、テクストという言葉が研究家達に一般に用いられるようになってから、人間の宿命ーーーいわゆる一人の作者の宿命は軽んじられるようになった。そして日本の数多の研究者(と称する)連中もまた、そうした時流にのって、作者不在の哲学や詩論、詩をものした。・・・だが彼ら(日本の研究者達)が誤解していたのは、そうした西洋ーーーフランスの構造主義連中は個人として、作者不在の、「無」としての宿命を背負っていたということだ。彼らは徹頭徹尾、論理的で思推的な人々ではない。それはあくまで「無」という宿命を背負わされた個人なのだ。
 こうした事を人々は無視することによって、あの現代に独特な、華やかで論理的であり、知性的でもあるが全体としては何か空疎な、何かが欠けているような知の地盤ができた。・・・彼らがその根拠をどれほど過去の賢人に求めようと、空しいのだ。彼らのそれには内的な根拠が欠けている。「無」の哲学ですら、無という悲劇を個人が背負っているのだ。(フーコーを見よ。)彼らには内的根拠が欠け、また知的なものへの憧れはあるが、現在を越えるための手段としての知性はない。・・・そして過去の知性とは現在の現実を越える為に人間が表した一つの内的手段だった。彼らは現実を越えるために書いたのだ。・・・知的なものに信奉するためではない。知性とは宗教ではない。そうしたものに入れば、ただちに価値を認められるようなものではない。・・・人はカントの哲学を見る時、その知性を食い破って、その奥にあるものまで見なければ真に「見た」とは言えないのだ。
 偉そうな事を書いたが、現在の詩もまたそうだと思う。詩に、一つの宿命が感じられない。従ってその詩には内的根拠が乏しく、(華美だが)どうしてもその詩に入り込めない。それは詩人そのものが一つの宿命を、「人生」をーー持っていないからだ。・・・これは現代の詩人が生んだ問題ではない。だが手をこまねいていては何もやってこない。我々というのは生まれた時から「人生」をーーー従って「宿命」を剥奪されているのである。生まれた時から人々は一つの「価値観」というレールに載っている。そして世の中は「こんなものだ」と皆が思う。すると世の中は本当に「こんなもの」になる。・・・我々の詩が凡庸なもの、見せかけだけの奇異さや知的な装飾に頼る所以がここにはある。
 だから我が詩人に向かって、私達はこう宣言し、号令をかけなければならない。
 「詩人よ!一人の人間であれ!実人生を持て!」と。
 実際の所、一人の人間でなれば一つの詩も生まれないのだ。社会と葛藤し、自己自身を生み出さなければ、簡単とも思える詩一つをひねり出すことも凡庸な人間にはーーー(いや、天才でさもーーー天才というのは正にこの社会と葛藤し、自己を生み出すものだからーーー)できない。詩というのは宿命が奏でる一種の音楽である。だが我々現代人にはそれが欠けている。それが欠けている状態で生まれる。・・・だからこそ、詩人になるには、まず、それをどうにかして生み出さなければならないのだ。・・・そしてその生み出す方法はどこにも明記されていない。ただ各人が、人生と、また己自身と葛藤し、自分を、そして詩となるものを生み出し、発見していく他はないのだ。その結果、彼が詩人になろうと、あるいは詩を放棄し、別の人間になろうと(あるいは詩を全然書くまいと)、そこには一人の人間があり、始めて一つの人生が流れる。我々はそのことに初めて大いに満足して「次のステージ」に進めるようなるだろう。ある者は詩を伴って。ある者は詩を伴わずに。




   幽霊と朝日

君らはまるで幽霊だ

口だけ喚いて

実体は影も形もない

他人を殺して自分の存在を

その自存を図ろうとするが

君等は所詮影の中の影

風がぷうっと一吹きすれば

影形もなく消える幽霊に過ぎない

君らがどれだけ自存を図ろうと

所詮は無駄なこと

影はお互いを押し潰し合い

互いに沈み込むように消えて行くだろう

君らが薄く透明に消えた後

ようやく朝日が上がるだろう

     魂の造成

お前がお前自身であるならば

人はお前に触れえぬだろう

人はお前の肌を焼き尽くすが

お前の魂には指一本触れえぬだろう

・・・声がする

「・・・古い唯心論だ・・・」

「・・・古い唯物論だ・・・」

私はお前達に今言う

私の魂とは私が造り出したもの

それは元は私にはなかったものだ、と

年越詩祭

年越詩祭 http://toshikoshi.blog8.fc2.com/ というものに参加させて頂くことになりました。

   旅

我々が過去を振り返り

未来に向かって足踏みするのは

何故だろう?

人はリスクを恐れる、という

だがそもそも生きている事自体が

一つのリスクではないだろうか?

我々は滅びゆく肉体の上で

輝く精神を抱いている

それを物質に適用すると

始めて「物」ができる

そしてその物の内にまた新たな人が

精神を読み取ることで

「物」の旅は始まるのだ

我々もまた

旅に向かわなければいけないだろう

不断の精神を神と呼ぼうと呼ぶまいと

我々の旅は続くのだ

人々の声は聞くな 彼らは郷愁に駆られて

過去と死へと向かう一群の人々

我々は未来に向かって行こう

そこに何が待っているかは知らないが

今より良いものが待ち受けているはずだ

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