物と精神
詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です列車の外
仕事帰りの列車の中は
僕の魂の抜け殻が落ちている
その人々の黒服の中で
僕の魂の抜け殻は叫ぶ
「ここはどこだ!ここはどこだ!」と
しかし人々の沈黙の耳には聞こえない
だから僕もイヤホンで耳を閉じて
列車の外を眺めている
どうでもいいこと
一人の人間がある動機から自殺したいというのはのっぴきならないことに違いない。自殺するのは良くない、というのは正しいだろうが、正しいからといって自殺したい気持ちが消えるわけでもないだろう。
自分の子どもはいじめられたから自殺した、そのことの責任が学校にある、と言うのなら、子どもの自殺の決意、意思、判断はどうなるだろうか。僕なら、その子が自殺した決意、判断、そしてその行動を受け止めて悲しむだろう。そうすることが子供の自主性を認めることになるからだ。
そしてその後で復讐するかもしれないが、それは悲しみの後のことだ。
の子
新しいものは何でも批判するという人がいる。3Dはいらない、2Dで十分だ、とか、やっぱテープレコーダーだとかCDがいい、Itunesはだめとか、色々ある。そうした人達には、古いものもかつては新しかったということだけを言いたい。
他人が先に一歩進むのを捕まえてひきずりおろそうという集団心性があって、そうなると全体はその思想に従ってただ沈んで行くこととなる。それはもちろんそれでいい。自分だけが死ぬのが嫌で、他人をひきずり降ろして殺すのも結構だ。しかし「死骸から」生が立ち上がってくることは否定出来ない。そうした思想の元に全てが滅っしても、その滅っした後から新しい生が再び生まれ出ることを否定することはできない。しかし新しい生が生まれるとまた、それを元に返そう、という足引きずり連中は再び立ち上がってくるだろうが。
そういう訳で、神聖かまってちゃん(の子)は、全てが沈もうとしている時に新しく生まれた生だ。