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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

狂人の笑顔をもってこの世を過ぐ

時に優しくしたることもあれば


我もまた人に冷たく振舞えば

人から冷たく振舞われる日もあり


朗らかに挨拶をしたその後は

死なむと思い便所にぞ行く



啄木を読んでいます。啄木はいいですね。

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革命

 かまってちゃんがミュージックステーションに出る夢を見た。本当にでればいいと思う。そうしたら面白い。石原慎太郎がアニメファンに負けるのも、一種の革命だけど、かまってちゃんがミュージックステーションやヘイヘイヘイに出るのも一種の革命だ。

 テレビを最近見ていないので、ステーションやヘイヘイヘイが今もやっているか知らないけれど。

中二俳句

黒服の中に混じって音楽聴けり

塔の上未だ月が残っている

運命の外の我を占えり

スイッチを押して何かが起こればいいのに

学校に行きたくなくて猫と戯る

ビルよりも僅かに低く月は昇れり

夢のなか殺すといへど良心あり

か細き声君は幾度も問い直しつ

ことごとく目的持ちて飽きたるかな

空明けて我の名前を記したり

死にたくて「死ぬな」という声と戦えり

監視カメラ覗きて人の様子かな

彼氏多き人の涙を拭けるなり 

 ここが物語の涯だ。無数の者がここで死ぬだろう。文字通り、ここで死ぬだろう。自らの中に死を受け入れたものだけが生きてゆくだろう。
 
 「ロックンロールは鳴り止まないっ」のような死をくぐり抜けた物語だけが新たな賛歌として鳴るだろう。全ての虚飾は剥がされ、残る者だけが残る。どれほど社会的に巨大な隠蔽を企てようと、紙の城は打ち倒されるだろう。

 文学ーーーというものは存在しない。あるのはただ現実と、紙とペンだけである。そして現実に挑む戦いがペンと紙で成されようと、音楽で成されようと、絵画で成されようと、同じことなのだ。芸術の普遍性は現実の普遍性に依拠している。そしてそれを超えるやり方が我々を救うのだ。

 現代の芸術がみんな軽薄なのは、芸術というものに焦点を合わせるとそれがぼやけてみえる原理と同断だ。芸術が相手にするのは現実であって、芸術ではない。(そんなものはない)

 画家か見るのは現実であって、それがどんな醜いものであってもそれを見なければならない。しかしそれから目を逸らす口実ーー「芸術的」というーーーは無数に用意されている。だから現代の真の芸術家は全然、芸術家的でないところから現れる。

安らぎ

 家の中で僕は時々狂っている

 家の外では迷惑になるから

 家の中で狂うことにしている

 ところで全然狂わない人達は

 本当に誰にも迷惑をかけていないのだろうか?

             *

 己の恐怖と戦わない者には

 どんな安らぎも訪れない

死者の眼差し

 僕の遺骨は誰からも拾われない

 家族も 親友も 恋人も

 皆僕にとって他人だから

 誰も遺骨を拾わない


 僕が病床で眠っている時

 「さっさと死ねばいいのに」と恋人は言った

 僕の二十年来の親友は

 「もう迷惑をかけるなよ」と言った


 ところで僕は不覚にも生き残ってしまい

 不治の病が治ってしまった

 だから誰も僕の所に来ない

 これでようやく僕は天涯孤独になれた


 人々が迷惑そうな顔つきでこっちを見ている

 「何で生き残ったんだ」と悲しそうな顔をして

 僕はその中を悠然と歩いて行く

 死者の眼差しをもって

  

 気が狂わなかったら

 何もすることができない

 正常という名の精神病院

 僕はそこを抜け出したい

素直

素直に生きようとすると

「それはやめろ」って人が言ってくれるから

 僕はますます素直になって

 そいつに反抗する

 ロックはやがて無音階の叫びへと至る。音楽性を破壊しても、言いたいことは言わなれければならない。芸術でなくても良い。言わなくてはいけないことは言わないといけない。そのためには形式など顧慮してられない、というところにまた新たな一つの形式が生まれる。
 
 形式というものを目当てに跳びかかる人には黙って行動する他ない。彼らは形に目を定める。だが形とは「パワーを振り返った姿」なのだ。だからパワーを持つものは全力で走って行けば良い。最初出遅れたとしても最後に抜き返せば良いのだ。

 頭を破壊しなければならない。観念で物を見てはならない。直に物を見なければ。そのためには頭を破壊しなければならない。例え人からは狂ったようにみえても。

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神聖かまってちゃんが出てきて、色々なものが古びた。レッド・ツェッペリン、ビートルズ、高橋源一郎、村上春樹、村上龍。ニュージェネレーション。僕らがそうなるためには自分の頭を破壊しなければいけない。

 猫も杓子も小説を書くので、誰もじっくりと落ち着いて筆を取ることが出来ない。みんな誰かのため、他人に見られることを期待した文章を書くが、その実、その他人というのも自分の欲望を満足させる対象を探して漁っている漁色家に過ぎない。
 他人に好かれることをどこまでも外延していくと、どこまでも自分というものが希薄になってくる。しかも「他人のため」というのは子供の頃から口酸っぱく言われているので、このスパイラルから抜けるのは難しい。
 

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 自殺したい気持ちを堪えて

 町を一人でうろついていると 風俗の入り口が見えて

 僕はそこへ入ってゆく そこで

 僕は女を一人殺して 自分を回復させ

 また町へ戻ってゆく

死ねない

 自殺した少女は言いました

「あたしはもう生きてられなかったの

 それで首を切って死んだのよ

 あんたらにどうこう言われる筋合いはない

 あたしは死にたくて死んだの

 あんたらにどうこう言われる筋合いはない」

 それでも人は「救う」ことをやめず

 彼女はいつまでたっても死にきれませんでした

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