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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

夕陽と君

 荘厳な死体達を前に

 「君」が高笑いをしている

 君の笑い声は青空の中

 どこまでも透き通って透明だ

 君は全てを一笑に付して 振り返ると

 夕陽が君を笑っている

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「地下室の手記」について

自意識過剰の青年(そう言える年でもないのだが)は全てを遠ざけて「地下室」に籠もっている。彼はこの世界を軽蔑している。それでいてこの世界に極度に怯えている。彼はこの世界を全て手に入れたかのように頭の中では考えているが、現実では何一つしない。女性一人を自分の身で受け持ってやることさえできない・・・。
 ここにはリーザという一人の娼婦の女性が現れる。彼女は、重要な存在だ。なぜなら彼女は彼の自意識過剰をやぶるために現れたのだから。
 この作品で彼は、一度は彼の自意識過剰を破った彼女を再び遠ざけてしまう。そして彼はまた「地下室」に戻ってしまう。だがそれは作品の体裁上のことだ。おそらくドストエフスキーはこの作品を書き始めた頃、この自意識過剰の青年が殻を破ってどこへ行くのか知らなかったのだ。だからあんな長い前口上が長々と述べられたのだった。だからシェストフの「これまで全生涯仕えてきた他ならぬその「理想」に唾を吐きかけ、その理想を泥に埋めるため、唯そのためにリーザという人物は必要だったのだ。」というのは間違っている。無論、彼は自分の思想を語っているのだ。リーザは思想宣命のために用意された道具ではなく、この思想を打ち破るために現れた人間だった。だがおそらくドストエフスキーはその用意を果たしていなかった。ためにこの問題の解決は次作の「罪と罰」に持ち越されたのだ。
 この作品の最後の場面でリーザは主人公の不幸を読みとる。ここの描写はこうなっている。
「だがこのとき奇妙な状況が突発した。
 僕は何でも本を通して考え、想像し、世の中のすべてをかって自分が夢の中で描き上げたそのままに空想することに慣れていたので、まったくその時すぐにはその奇妙な状況を理解しなかった。さてどうなったかというと、僕に傷つけられ、踏みにじられたリーザが僕の思っていたよりもはるかによく理解していたのである。彼女はこの一切の中から、女が、心から愛する時、いつでも何より先に理解することを理解した、すなわち、僕自身が不幸であることを。」
 この時、奇妙な状況が突発した。実際、奇妙な状況が突発したのだ!作者はこの時、はじめてこのラスコーリニコフ風の男の脳髄から逃れ出たのだ!この忌まわしい男は何もかも自分の頭に封印してしまう。そこで全てを解釈してそこで終わらせてしまう。だが!この女性は、この無知で賢明で卑しく高貴な女性はー彼の不幸を読み取ったのだ!僕自身が不幸であるーこれは主人公の言葉ではない。作者の言葉だ、リーザの言葉だ。彼は自分自身を呪われた不幸な人間と考えるかもしれない。だがその時この男はそうした呪われた不幸を喜んでいるのだ!彼が自分自身の恥辱を楽しむように!そしてこの作者は、リーザは、そうした彼が不幸だと言っているのだ!
 さて、ここから先はもう決まっている。彼は自分の世界をー自分の脳髄から出ていくか、彼を破ったリーザを拒否して地下室に戻るのか?・・・彼は後者を取った。この作品の中にはーその始まりから一本引かれる作品の主調低音にはまだーその力はなかった。だから彼は後戻りをした。しかし彼は再びラスコーリニコフとして戻ってきてこのしきいを乗り越えていった。

機械の笑い

 君は僕に「死ね」と言う

 僕が死ぬと君はけたたましく笑う

 壊れた機械のように

 僕が君に「死ね」と言うと

 君は僕に「お前が死ね」と言う

 それで僕が死ぬと君は笑う・・・
 
 壊れた機械のように

「ぺんてる」について

斉藤茂吉に「赤茄子の腐れていたる所より 幾程もなき歩みなりけり」という歌がある。折口信夫はこれを吉原に行った後の屈辱感を示した歌で弟子達が考えるような気楽な散歩の歌ではない、と解説していた。歌とはそうしたものだ。歌とは自分の姿を歌うもので結局どんな外在的なメロディーも歌詞も最後にはみんな自分に戻ってくる。すなわち生活に帰ってくる。
 ここ一世紀ぐらいで芸術は糸の切れた凧のように空にあがっていった。そして見えなくなってしまった。の子はこれを自らの手に、生活に取り戻すが、その生活は生活の不在というようなものだった。これはひとりの子の問題だけではない。彼がニートだから生活が不在なのではない。僕らみんなに生活が欠けているのだ。
 
 「ぺんてる」の主人公は暗い顔つきで道を歩いている。そして最終的には「ぺんてる」に行く。彼は汚辱感に浸っている。彼は疲れている。生活に。生活がないという生活に。彼の頭には様々な言葉が聞こえる。彼の鋭い頭は人々の声を聞いてしまう。「殺してやるとつぶやいて 頭を下げて謝った」こうした経験のない人には決して分からない歌詞だ。僕らは頭を下げなければ生きていけない。下げたことのない頭は叩かれる。人に褒められる頭は真っ先に下げた頭だ。彼はそのどちらも拒否する。彼は人々に頭を下げたくはないが、下げざるをえないことを、そうしなければ生きていけないことを痛烈に知っている。彼は「僕は大人になりました」という。僕が大人になったとはどういうことか。彼はこの世に敬礼しなければならない。頭をさげなければならない。そうしなければならないことを知ったということなのだ。彼はそれに+を付け加える。「僕はどうしようもない大人になりました」。彼は下げたくない頭を仕方なく下げている、そのことを痛烈に意識している。世の立派な大人はお辞儀の仕方を心得ている。彼らは素直にこの世界に頭を下げる。どうしようもないとはつまりこの世界に頭を下げたくないということだがそれはこの世界から見れば不具者のように見える。彼はそのことを言っているのだ。
 彼は自分が不具であることを認めながらもどもりながら語り出す。「考えて生きていくような価値なんてどこにあるんだと僕は思うのです」僕らの世界に価値があるかどうかなんて誰にもわかりやしない。それは人が勝手に決めることだ。だがこの世界の人々がみんな考えすぎて生きていることは事実らしい。この詞が響く人は普段余りにも物を考えているために空虚を負っている人だ。それを意識している人だ。
 「風に吹かれてしまおう 落ち葉のようになれはてよう」思考が厳命した迷路の中を僕らはさまよっている。思考の厳命に疲れた者は自然に帰る。自然はその美しさで身に迫っているのではない。自然はその無秩序さで彼を魅きつけているのだ。彼はこの世界に疲れ果ててしまった。彼は「負け組」だ。だが誰がこれを率直に認めただろうか?いや、彼自身言葉の正確な意味で「負け組」ではない。「負け組」とか「勝ち組」とかーーそういう「考える人生」というものを嫌っているのだ。拒否しているのだ。
 「僕はぺんてるに行きました」
 僕はどこかへ行かなければならない。汚辱感を抱いたまま。「赤茄子の腐れていたる所より幾程もなき歩みなりけり」詩人は今吉原から出てきたところだ。「ぺんてる」が風俗店であってもおかしくはない。(僕はニコニコでそういう情報を見た。)

 僕の死体

 夜、君は高速で彼氏と共に

 昔の友達の事を話している

 その時僕は墓地で眠っている

 夜、君は彼氏の腕に抱かれて

 安らかに眠っている

 その時僕は墓地で眠っている

 夜、君は僕の死体を掘り返しに

 彼氏と共に墓地へやって来るが

 そこに僕はいない

奇跡の後

 街灯が夜の中を通り

 人間共の苦しみは獣の臭いのようだ

 僕はそれを嗅ぐ深々と

 初めてタバコを吸った時のように・・・


 その甘美な味わいが鼻を突く

 僕はうっとりしながら道へ出て

 トラックに轢かれるが一命を取り留めている

 僕はそれを奇跡とも何とも思わずにまた夜の町に出て行く・・・

「自分らしく」について

の子の叫ぶ「自分らしく」は通常言う「自分らしく」とはわけが違っている。むしろ、この世界で流通している「自分らしく」を拒否したものだ。この世界では「他人らしく」のことを自分らしくと呼んでいる。この世界は様々な「自分らしく」を用意してくれる。だがそれは服のように着せかえ可能なものらしい。の子の言う「自分らしく」とは自分の裸のことだ。それがどんなに惨めで弱々しくても。ださくてどうしようもなくても、人からけなされつづけようと、何の価値もなかろうと、それ一着しかないものだ。他にはないものだ。唯一無二のものだ。
 僕はこの作品のPVの、雨の校庭で突っ立っているの子の姿が忘れられない。あの姿には何かグッとくるものがある。あの姿が何を語っているかはもう明瞭だ。耐えている姿、この世界に裸で突っ立っている姿、人々がどう言おうと、どう笑おうと。
 秋葉原のヨドバシの前でスカート履いて真剣な目をしてギターを弾く姿も同じことだ。ギターを弾いているの子の前を人々がいっせいに渡っていく。人々は雨のようだ。そうだ、彼らは雨なのだ。そしてその雨の中で彼は一人で突っ立って歌っているのだ。
 オリジナリティへの希求が現在に残されたたった一つのオリジナリティだと彼は発見した。僕らはオリジナリティなるものを求めて余計にメロディをひねくり回したり言葉をいじくり回したりしたがムダだった。そんなところにオリジナリティはないのだ。そんな誰かにつかまされた、概念として漂っているオリジナリティなど存在しない。
 の子のオリジナリティはオリジナリティという美名で徘徊している全てのものを拒否したものだ。彼の「自分らしく」とは彼の裸のように弱々しく傷つきやすく、そして強いものだ。僕らの裸のように。

「drugs.ねー子」

 の子にとっては自分に才能があるかどうかは問題ではなかった。彼は彼に才能があろうがなかろうが音楽をすることが問題だった。彼は天才だ。僕はそう思う。彼の天才とは自分に才能があるかどうかという問題を一気に吹き飛ばして自分が作りたい曲を作るということにあった。
 「drugs.ねー子」という曲がある。この曲の最後には「やる気ねー子の 曲を聴いても」というフレーズが繰り返し出てくる。の子はこのフレーズでこの曲自体のことを言っている。つまりこの曲自体が「やる気ねー子」の曲だから、この曲を聴いても仕方ないと今この曲を聴いているリスナーに迫っているのだ。彼はリスナーに審判を要求する。彼は自分の曲を褒めてもらおうなどとは思っていない。そんなことは問題ではない。問題はリスナーの側にある。ここでも彼は「ロックンロール」のように「最近の曲なんかみんな糞みたいな曲だらけさ!」というリスナーを仮定しているのである。彼はこうした人々に呼びかける。自分の曲なんか聴いてもしかたないと。それを大声で呼びかける。「自分の曲なんか聴いてもしかたがない!」と。
 彼は壊れた自分を人々にたたきつけているのだ。彼に自己防衛手段はない。彼は全ての防衛手段を破った。彼は壊れた自分を叩きつける。彼にはどんな打算もない。このなにもかもが作為であり、やらせであり、自演であり、功利であり、合理でありといったものに彼は挑みかかる。自分の曲なんか聴いてもしかたがないと。ただそれを大声で叫ぶということによって。
 「drugs.ねー子」という曲は悪意に満ちた曲だ。それは自分の傷口を弄ぶ子供に似ている。だが同時に子供のように無垢な曲だ。汚れを嫌った彼は誰よりも清浄であることを嫌った。

狂気

 壊れた頭には雨の音が良く聞こえる

 人々の目に計算表がしっかりと見えるように

 僕は壊れた頭を叩いて空を振り返る

 星がいつもより多く光っている

の子の「死ね」「死にたい」について

 僕らはみんな「死ね」と思っている。毎日、毎日。電車の中で足を踏まれた時、エスカレーター待ちで割り込まれた時。それどころかなにもないところでさえ僕らは「死ね」と思う。電車が一分遅れた時、誰かが通り過ぎる時ほんのわずかに肩に触れただけでも、僕らは「死ね」という言葉を呟く。
 だがこの世界の芸術はそれとは全然無関係な顔をして希望を歌う。綺麗ごとを。だが人は綺麗ごとなくしては生きていられない。職場で死にそうな顔をしては仕事は勤まらない。彼(彼女)は無理にでも笑わなければない。だがこの綺麗ごとの強制が僕らの心に無言の圧迫を呼ぶ。朗らかな顔はその裏に死にそうな、いらだった顔を隠している。強制された希望はそこからの離脱を、押さえきれない死への欲導を生む。の子の曲はその死への欲導をストレートに歌う。「死ね」。「死にたい」。それはこの世界の裏側に集積した破滅への意志だ。「考えて生きてくような価値なんてどにあるんだと僕は思うのです。」彼は表側の世界に向かって問いを投げつける。「諦めてると僕らはなぜか少し生きやすくなる」。彼は希望を捨てよと歌っている。希望が絶望を生む。決められた生がそこから離反することへの恐怖を生む。現代の人々はあまりにもたやすく自殺するように思える。それは生への期待が過剰だからだ。この期待された生から少しでも外れるともう自分は終わりだと彼(彼女)は考えてしまう。だから彼はささいなことで首を吊って死んでしまう。あまりにも期待が高いために。自分への希望が強い人ほど死にやすい。だから諦めてると生きやすくなる。
 の子の「死ね」「死にたい」が人々の心に突き刺さるのはそのためだ。僕らはみんな死にたがっている。生きることを強制されているために。
 彼が死ね、死にたいと叫ぶのは希望に希望することに疲れ果てたためだ。彼にとっての希望は「死ね」「死にたい」と叫び続けることだ。それを人々と共有することだ。

の子について 2

 ラスコーリニコフは殺人を遂げた後、まるでこの世界からぷっつりと途切れた感覚を味わった。彼は一人地獄の底にいた。
 中原中也ですらこんな疎外感を味わわなかった。彼は社会の裏側にいたが芸術という領域が残っていた。おそらくこの社会の拡大がそんな空隙を生んだのだと思う。
 神聖かまってちゃんの「ちりとり」を聞くと僕は泣いてしまう。そこにある男女はあまりにも追いつめられた存在のようだ。男の子の恋愛感情はあまりにも繊細すぎる。それはか細く途切れて消えていく声のようだ。
 この弱々しい恋愛は恐ろしく傷ついている。この曲の切なさはそんなところからくる。ひとりの人間が恋愛をするために、そうしたことのためにいかにひねこびて小さくならなければならないか。
 ラスコーリニコフがこの世界からぷっつりと切り離された時、彼は知っていたのだった。自分はこの世界の住人ではないことを。そしての子はー彼は登場人物ではないのだがー彼はこの世界から切り離される以前にこの世界に参加していないのだった。僕は彼がそういう感覚を持っていたと思う。もちろん彼はそれをポジティブな概念と化した。そうしなければ彼の曲は聞けない。そうでなければ、彼はただのニートか鬱病患者になっていたはずだ。
 とにかく彼はこの世界に参加していなかった。彼は全然参加していなかった。「ぺんてる」「ちりとり」のような彼が内を向いた時の曲の切なさはこんなところから来ていると思う。
 彼はこの世界の端っこにぽつんと置き去りにされている。遠くの方では人々はがやがやと楽しそうだ。彼はそれらの人に人間として認められていない。ゆーれいのように彼らを遠くから見ているたけだ。彼はこの体験をいじめから得たのかもしれない。それはわからない。彼だけの秘密だ。
 彼がこの世界から切り離された場所からカムバックしてきたということは僕らもそうした可能性を持つという事を示唆する。そして彼の曲に泣いてしまう人は多かれ少なかれこの社会から切り離された体験があることを意味する。

死後の世界

 僕らは「ゆーれい未満」だ。彼の定義は全く正しい。僕らは存在ですらない。存在の不在だ。ただの残滓に過ぎない。
 ずっと以前に実存主義というものがあったが、今や何もない。何一つ存在しない。何一つありえない。構造主義というのは不在の哲学だ。人間などは何もない。そういう哲学だ。
 哲学はその存在を実在する人間から奪い取って肥大していった。へーゲル哲学の頃、人と哲学はちょうど釣りあうかのように思われた。哲学はちょうど人間の背丈と同じ大きさを持つ。人間はその正しさを哲学から、哲学はその正しさを人間から借りてきた。
 だがそれから哲学は肥大し人間は萎んでゆきついに消滅してしまった。僕はそう思う。
 消滅した人間はゆーれいとしてこの世をさまよう。だがの子がみつけたのはそれ以上ーあるいはそれ以下の存在だった。
 この世界にはゆーれいがさまよっている。それは人々の言説だ。人々の言説はゆーれいのようにこの世界に満ち満ちている。いたるところで言葉が聞かれる。いたるところに言葉が溢れている。だが人間はどこにもいない。それはこの言説の陰に隠れて「ゆーれい未満」として存在している。この言説に圧迫されてどんな存在としても許されなくなった彼はゆーれい以下のゆーれい未満として存在している。
 哲学がその存在を人間から借りてくる時、既に人間の死は始まっていた。ニーチェの神の死はおそらくこのことを意味する。今人間は死後の世界にいる。天国の足下には必ず地獄への穴がつうじている。僕はこの二つの世界からの脱出法をまだ知らない。

 僕は電車のなかで人々の悲しい顔を、あるいは何かに怒っているような顔を見る。彼らは何に悲しみ、何に怒っているのだろう?彼らは自分の場所を、自分の存在の圏域を守ろうと努めているように思える。
 職場では朗らかに挨拶をするが、その同じ人とプライベートで出くわすとさっと目を伏せて通り過ぎてしまう。この人もまた何かを恐れている。
 その中で僕も同じ顔をして通り過ぎる。僕もまた悲しい顔、あるいは怒ったような顔をしている。こういう人々はラスコーリニコフのように頭に課題な妄想を抱えている。そして現実の事物には蛙一匹驚くのに、空想の世界ではこの世界の王のような態度を取る。
 僕らはみんななにかを恐れている。僕にはそんな風に思える。そしてこの恐怖を隠すために人々は様々な装いをこらす。嘲笑的な態度、紳士的な態度、何もかも知っているような態度、自分はバカだという態度、・・・etc.だれもが装いをこらすのはそのうちに何もないからだ。現代は様々な仮面が横行している。仮面は素顔を隠すのに便利だ。だがみんなもはや素顔が存在しないために慌てて仮面を被っている。
 僕は痛みを恐れることより痛んだ方がマシだと思っている。だが痛みを経験したことのない魂が僕に「それは甘い」と言う。「あれは何よりも痛いんだよ」と。こうして僕らは自分達で自分達をしばり、一歩も動けなくなった。
 電車の中の表情達は痛むことを恐れているように思える。そして僕らは家に帰って各々自分が価値あると思えることをする。そしてその価値あるということは僕らが造った巨大な夢のほんの一部だ。ここで僕らは夢を見る。そして朝起きると学校か会社へ向かい、またこの夢を守るための戦いが始まる。

「恥部」

 書く事などは一つもない

 町はとうに壊れてしまった

 僕は存在をかけて雨を降らす

 夜はすぐにやって来る


 獣の自死は人には

 糧食の獲得の機会と見えた

 人間共は屠った どこまでも

 毒は僕に回ってきた


 僕は死んだ 風を受けて

 夜の火に死体は焼けて

 人々は祝った 僕の「死」を

 神は夜の中で喜んだ


 灰となり風に散り 僕の死体は

 どこまでも飛んでゆき海を越えた

 それは異国の少女の手に渡り

 彼女は唾を吐いた それは丁度僕の「恥部」だった

の子について

 僕は僕の感動を率直に語る。すると彼らは笑い出す。彼らは決して感動しない。もうとうに古びた古典か、その模倣物しか認めない。そして彼らはその認めている作品にも実は心を動かされていない。彼らにはそれが必要だから評価しているにすぎない。こうして芸術は形骸化していく。
 の子の芸術はこうした死骸の上に築かれた。というより、彼の天才がこれら全てを死体と化したのだ。これらが死体であることを明かしたのだ。
 僕は迷っていた。僕は文学をやろうと思っていた。見渡すとそこには既成のものしか置いてなかった。僕はそれが文学なのだと思いこもうとした。だがうまくいかなかったのだ。僕の中にあるものがそれらの形式では出ていかなかった。僕は捕らわれていた。その時初めての子の音楽に出会って解放された。
 彼が僕を解放した理由ははっきりしている。それは自分がどんな存在であれそれが自分であって、このことを大声で叫んでよいということだ。鬱病の治療法は鬱をなくすことではなく「鬱でもいい」と鬱病患者が自分で認識することだ。彼の解放も同じ原理によっている。彼は言う。「諦めてるとなぜか僕ら生きやすくなる」と。
 彼が僕らを解放したのはまず何より自分で自分を解放したという理由によっている。彼はその初期から自分だけの動機で音楽を始めた。彼は僕らが長い間浸っていたくびきを一気に飛び越えて創作活動を始めた。初期の「SMAP」や「下校」(長い方)を聞くと、そこには全く彼自身の動機だけで点火した音楽が聞かれる。ふつう、僕らが音楽を始めると既成の物まねから始める。つまり形式から入る。の子はこの形式を壊すことを全く恐れなかった。
 彼の音楽の動機は僕たちが一人の人間であるということだ。僕らは通常一人の人間であることを剥奪された存在だ。僕らは人間ではない。僕は事あるごとに人目をはばかるよような人の表情に出会う。彼らはなにをはばかっているのだろう?彼らは何をおそれているのだろう?の子はこうした人々のおそれを全く独自の方法で打ち破った。僕らが解放された、と先に言ったのはその意味においてだ。彼には自分自身が問題だった。他人のことなどどうでもよかった。いや、彼自身余りにも他人のことを気にしていたために(23歳の夏休みにそんな詞がある)彼は他人のことを気にする自分に対する不満を自分にぶつけ、他人のことを気にする自分を破壊し、そこでようやく自分自身を発見したのだ。あの人をはばかる目をやぶったのだ。そこでやっと彼は一人の人間となった。たとえそれが「糞ゲロ野郎」であれ、それは人間なのだ。
 素晴らしい人間、という考えが僕らを閉じこめていた。理想は余りにも遠かった。僕らはあまりにもそれらから遠ざかっていた。僕らは自分を人間ではないと思っていた。そして他人に対してもそのように見ていた。つまり君はこんなにも「理想」から遠いではないか、と。そこにの子があらわれた。彼は宣言した。人間とは「糞ゲロ野郎」なのだと。「君はどうしようもないだろうね」(黒い卵)と宣告してくれた。僕らは救われたのだ。
 

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