FC2ブログ

物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

ポール・ヴァレリーの未完結性について

 
 ヴァレリーの文学論に次のような箇所がある。

 「一篇のポエームは、いつになってもできあがりはしないーーそれを終わらせるのは、すなわち、それを読者に与えるに至るのは、常にある事故の結果なのだ。」

 「自分一個の場合を言うならば、自分はこう思っている、すなわち、同一の主題とこれもほとんど同一の言葉を果てしなく繰り返すことによって一生を満たしてもよろしいと。
 『完成』
 それは推敲だ」

 実際、ヴァレリーは生涯、同じ主題を繰り返したのだろうと思う。僕はヴァレリーがどうしてそういう事を言うのか、うっすら分かる気がする。
 
 ヴァレリーがこういう事を言うのは、簡単に言うとヴァレリーが批評家、少なくとも批評家気質だからだ。批評家というのは一つの自意識であり、自意識は生の内部では絶えず未完結である。

 人間は常に人生の内部にいるから、それはずっと未完結なままである。死だけが、その人の人生に終わりをもたらすが、その人は自分の死を見る事ができない。だから、全ての人間は、ある未完結の状態にいる。

 人がポエジーを生み出すのはその為であろう、と思う。例えば、構成的な文学作品というのは、何年にもわたって書かれなければいけない大作だったりする。しかし、その何年かの間に、「私」の自意識は絶えず変化しているはずである。大作を狙う人間は、この自意識、自分の変化を無視して、不動の大作を作り上げなければならない。この「不動の大作」を忌避するような感覚で、ヴァレリーはポエジーという言語を使っているように見える。

 詩は、延々と書き続けられなければならない。人の自意識は再現なく流れていく。プルーストの「失われし時を求めて」は際限なく続く。そこには終わりはない。だから、ヴァレリーの視点からは、作品を完結させるのにはある種の強引さが必要である。「完成、それは推敲」という言葉の意味はそういう事だと思っている。

 僕の意見を言ってみる。僕の意見では、ヴァレリーは正しい。しかし、まだその先がある。何故なら、人間にとって限界を持たない、と悟る事はそれ自体一つの限界だからである。だから、一つのポエジーはそれを生み出す一つの主体として、小説作品の中に構成化される可能性が考えられる。つまり、ポール・ヴァレリーは、ポール・ヴァレリー自身の自意識を結晶化することにより、ある限界を持つ事ができるようになる。それは丁度、1、2、3……と続いてく無限というものを「∞」と定義するようなものだ。ヴァレリーはその事には言及していないように思う。

 人間は生の内部にいる時、ある未完結性の中にいる。未完結な人間が何故完結した作品を持つのか。これは、作品というものを最初から完結した構成あるものと捉えている人にはやってこない問題だ。ヴァレリーは生の内部にいて、知的な自意識を保持している。その時、自意識に限界はない。しかしこれに限界をもたらす事は可能であるーーと僕は考える(「推敲」のような方法ではなく)。それは、死の予感である。人間が自分の死を感じると、途端に自分自身がある種の完結性を持ったものとして「感じられる」。人が、己を捨てて、構成ある作品を作ろうとするのは、この為だと僕は考える。つまり、芸術上の限界設定は作者のペシミズムと関連性がある。

 自己の自意識が連綿となく続くから、ポエジーも連綿と続くというのは紛れも無く正しい。しかしその正しさにいたたまれなくなった時、人は完結した作品を作らざるを得ない。人は死を体感できず、生しか体験できないから、死の事は考えなくて良い、というのは論理的には正しい。しかしその論理的な正しさに我慢できなくなった時、人は自分を失わう代わりに、もう一人の自分を手に入れる。つまりそのもう一人の自分こそが、かつての自分の限界線である。これはドストエフスキーにおいては、ラスコーリニコフという人物に結晶化させられた。「罪と罰」という作品を書いていた時のドストエフスキーは、どちらかと言うと、ポルフィーリィの立場に近かったかもしれないが、それ故に、彼らはラスコーリニコフを創造できたのである。ラスコーリニコフの内部にいる人間には、ラスコーリニコフ自身を描き出す事はできない。

 そういうわけで、ヴァレリーの言う未完結は、線を引っ張っていくと、ある完結性に辿り着くと思う。ただその完結性は、自身の未完結性から逃げ出さなかった人に与えられる報酬だから、最初から小器用に完結した作品を生み出す人には縁のない話ではある。ドストエフスキーが己を発見したのは、「地下室の手記」「罪と罰」あたりだろう。その時、ドストエフスキーはもう四十を越えていた。一つの巨大な自意識は己を対象化し、結晶化するのに、この世の中を随分遠回りしたのである。そしてその遠回りは彼にとってどうしても必要なものだったのだ。

スポンサーサイト



結果から原因を探るという事は

 


 結果から原因を辿る、という事は世の中では毎日のようにやられている。そういう事は至る所で見かける。

 例えば、イチローが今期復活できたのは何故か、とか、成功者はどうやって成功したのか、など。そのような話は毎日のようにうんざりするほどでてきている。そういう論が展開する根底には、結果に対しては原因が探れる、という見えない前提がある。この見えない前提を是認しなければ、こういう論自体は出てこれない。

 おそらくこういう前提は、物理科学がこういう方法でうまくいったという事に由来しているのだろう。しかし、現実というのは複雑だから、物理科学でうまくいった事が、もっと広い人間的領域にうまく通用するとは限らない。僕は科学的方法論が物理的な次元でうまく行くのは、物理的な次元が人間精神に対して極度に物事を単純化しているからだろう、と見ている。例えば、私(筆者)の質量は六十キログラムであるという事は、私の過去、精神内容、経歴、その他沢山の事と関係がない。何がどうなっても、私は極度に抽象化された体系として扱われる。


 それに比べて、例えば、イチローが今期復活したという事実はどうだろうか。物質の運動過程であれば、例えば月の運行を予測できるように、前提条件がわかれば結果もかなり正確に推測できる。しかし、イチローが今期復活するかどうかという事は例えば、シーズン前のイチローのトレーニングを見て判断できるだろうか。僕は、無理だと思う。イチローが野球において復活するという事はかなり複雑な現象であり、ここから単一のわかりやすい原因を辿るという事はとても無理な計算に見える。


 成功者は語る、というような事も似たような事だと思う。成功者は語る。成功者は成功した「原因」「因果」について語る。人は原因から結果が現れると信じ込もうとするが、その原因を辿っても同じ結果は現れない。現実はあまりに多様で、複雑だから。

 もっと考えれば、現実の多様性や複雑性を織りなしているのは僕らの精神や行為そのものではないかと思う。結果から原因を取り出すという事が難しいように、現在から未来を予測する事はとてもむずかしい。しかし、もっと難しいのはこの難しさを認識する事にある。人は、色々な事を知れば、色々な事を理解できると考えたがるが、難しいのは、色々な事を知っても色々な事を理解できるとは限らないと理解する事にある。


 もう少し飛躍して言うと、僕は、人間が自由であるという事は未来がわからないという事と同じ事なのだと考えている。ヘーゲルという哲学者は歴史哲学というものを構築した。彼は歴史の頂点に立って、過去を振り返り、そこから一つの統一的体系を生み出した。ヘーゲルの歴史哲学は生半可なものではないし、意味のあるものだ。しかし、そこから未来を正確に予測する事は困難だ。何故なら、小林秀雄の言うように、ヘーゲルもまた歴史の中の一人物に過ぎないから。ヘーゲルは歴史全体を通覧し、ある体系を樹立したが、ヘーゲル自身が歴史の中の一人の人間に過ぎない、という場所から現実の歴史は運動していく。そして今言った「現実の歴史」というものを見るもう一つの視点は、僕らは持ち得ない。僕らは世界全体を見る一つの視野を得たと信じた瞬間、その視野自体が世界の中の一つの視野でしかない事を思わされる。未来はわからない、しかし、それを作ろうとする事には意義がある。未来がわからないという事に現在の自由はある。


 今は、結果から原因を探るという事が沢山やられている。「成功者には才能がある」という世の中の簡単な原則を逆さにすると、「では才能のある人物は必ず成功するのか?」という疑問になる。「成功者は何故成功したのか?」という問いに勝手な答えを無数に生み出す事は簡単だ。それは、沢山の人がやっている。しかし「才能のある人物は必ず成功するか?」「そもそも、その場合、才能というものは何か?」と考えると、問いは途端に困難になる。この現実を生きていく上で重要なのは、後者の方の困難ではないかと思っている。結果から原因をたどり、原因となる行為に突進していく事によって人は自分が正しい道を歩いているのだと考えたがる。しかし、大切なのは歩くから道ができるという不思議さの実感なのだろう。そこに人間の行為、人生があると見ている。では、これを一つの統一的視野として、ヘーゲルのように考える事はどういう意味なのだろうか? …それは僕には、僕達が生きていく上で「参考」になるのであって、「指南書」になるものではないと考えている。
 

 人との関係について考える



 人間と人間の距離というのは、時間が進むにつれ増大しているのではないかと思う。でも別にそれが悪い事だとも自分は思っていない。

 最近、VRという仮想空間の技術が現れてきたが、こういう技術が浸透すれば、人間はますます、現実化した自らの幻想の中に閉じこもる事になるのだろう。再三言うが、こういう事を別にネガティブに言っているのではない。人間の意識というのは元々、仮想空間的なものだから、それが長い日々をかけて現実化したという事なのだろう。

 人間というのはつくづく幻想的なものだと思う。こう言うと、大抵「お前は現実を忘れている」という批判が来るのだが、自分の言っている幻想というのは、そんな風に現実と幻想が区分けできないという話である。現実主義者は自らが現実だと思い込んだものに現実という名を当てはめる。仮に現実主義者が目の前に幽霊を見たら、彼はそれを現実と認めるだろうか。彼が本当に現実主義者なら、自分の見たもの、聞いたものを現実と認めなくてははならないだろう。仮にありえないはずの現象が起こったとしても、この世に現実でない事はないのだから、現実主義者はそれを認めなくてはならないだろう。現実とそうでないものを分ける現実主義者というのは、現実主義者でもなんでもないという事になるだろう。現実ではない事柄とはそもそも一体、何だろうか。映像作品だってもちろん「現実」の一つだ。

 ここまで考えてくると、幻想と現実というのはどっちの用語を使っても同じという事になる。カント哲学では主体と客体の対立は存在しない。それは僕の理解では、現実は幻想的と言ってもいいし、幻想が現実的と言っても、どっちでもいいという事になる。認識と世界とは一つになっている。

 ここまで考えて、さて、人と人の間の距離が離れているとはどんな事か。人は互いに、自分の幻想を相手に当てはめて理解している。その中で、自分の幻想が破れると、他人は消えてなくなる。感覚器官を失ってしまえば、他人は存在しなくなる。

 現代では、人々は色々な観念を持って生活している。色々な知識や情報が入り乱れて、自分の幻想が大きく膨らんでいる。他人は、自分とはぜんぜん違う幻想を持っている。だから、アパートの隣の住人よりも、外国の同じ趣味の持ち主の方がより共感できるという事も起こってくる。共同体というものが幻想の種類によって規定されるようなものになってくる。こういう時、他人というのはどういう意味を持つのだろうか。

 自分の考えでは、他人との関係が成り立つのは、それぞれが相手の事を信頼するからだと思う。非常に平凡な考え方だが、重要な事ではないかと思う。他人の存在は、論理では語れない。どうやったら人に好かれるか、という心理学的ノウハウが世の中に出回っているが、他人の心理は論理では捉えられない。他人の心理と交歓できるのは、ある種の信頼を基盤としている。この信頼はノウハウではない。ノウハウはいずれ、自分の為、という見かけを装っているからだ。

 そういうわけで、他人との関係が成り立つのは信頼が基礎ではないかと思う。色々しちめんどうな事を言ったが、結論としてはそういう平凡なものである。これでこの論は終わりにしたい。

現実世界をオンラインゲームに例える

 


 この世界のあり方は例えば、ネットゲーム、オンライゲームのようなものとして捉える事ができる。もちろん、比喩としての話しだが。

 
 まず、我々はそれぞれにネットゲームに参加していると想像して欲しい。それぞれの人間がコントローラーを握っていて、それぞれの人間はプレイヤーである。プレイヤーはそれぞれ自分の分身を主人公として持っている。プレイヤーは、主人公の行動を通じてゲームに参加する。

 
 ゲームの内容自体はどうでもよい。この現実というゲームで我々は、「自分」というアバターを使って人とやり取りする。他人と関係したり、仕事をしたり、遊んだりする。色々な事をする。とにかく、そういうゲームがあるとする。この時、我々の現実はちょうどネットゲームに似ていると言える。


 さて、自分がこういう比喩で問題としたい事は、プレイヤーと主人公との関係である。厳密に考えれば、プレイヤーはゲームの中に、キャラクター(主人公の事)を通じて参加する。しかし、プレイヤー自身の姿はゲーム内に現れない。あなたがコントローラーを握っている手、あなたが考えている事、感じている事はゲーム内には直接現れない。それはあくまでも、ゲーム内のキャラクターを通じて間接的に表されるに留まる。


 さて、この時、この世界は一つのゲームだ。人はキャラクターを通じてゲームに参加する。この時、プレイヤーは自分の心を知っている。例えば主人公が何かのミスをした時、プレイヤーは舌打ちするかもしれない。しかしこの舌打ちは、自分にしか聞こえないもので、他のプレイヤーには聞こえない。もっと考えれば、そもそも自分のしているゲームに、他のプレイヤーがいるかどうかもわからない。我々はあくまでもこのゲームにキャラクターの一人として参加していて、見る事ができるのは他のキャラクターだけである。そのキャラクターの背後に、本当に(自分と同様の)他人がいるかどうかはわからない。


 このプレイヤーの比喩で自分が言わんとしている事は、人の心、意識、の本質はこのように「語りえず示される」類のものだという事だ。もしかしたら、このゲームにプレイヤーはすでに自分一人で、他は全部プログラムかもしれない。これは現実において、他人は全て実はロボットかもしれない、と考える事に相当する。自分が知る事のできるのは、世界(ゲーム)と、自分の心(プレイヤーとしての自分)だけだ。他人の心は、他人のプレイヤーをゲーム内では見られないと同様に見る事ができない。ゲーム内で見えるのあくまでも他のキャラクターだけだ。


 この世界をこういうゲームだと想定した時、我々がほとんど常にしている誤解は、主人公をプレイヤーと同一視するという問題だ。前にもあげたが、スマップの「世界に一つだけの花」という歌がある。この曲では「人それぞれ違っていいじゃないか」というような内容が歌われている。この時、この曲の中では人は、皆このゲームのキャラクターになぞらえられている。つまり、キャラクターが「私、自分」の全てであり、それが他人と比較可能だという前提に立っている。実はスマップの曲が想起している、「ナンバーワン」と「オンリーワン」の対決という構図は全て、このゲームのキャラクターこそが「私だ」という前提に立ったものだ。そこでは二つのものが対立しているが、実際は同じ構図に収まっている。これまで見てきたように、「私」の本体がキャラクターではなく、プレイヤーの側にあるとすればそれはゲーム内に示されない。そしてゲーム内では他のプレイヤーは見る事ができないから、もともと、「私」とは他人と比較不可能なものとして存在している事になる。


 もちろん、ネットゲームの場合には、人は他のプレイヤーを見る事が可能だ。しかし、この現実というゲームではどういうわけか、自分以外のプレイヤーを見る事はできない。我々の目は画面に釘付けとなっていて、我々の手はコントローラーにぴったりと接着されている。我々はこのゲームを辞めることができない。我々がいかに恵まれていない初期プレイヤーでこのゲームを始める事を強制されたとしても、我々はこのゲームを辞めて別のゲームを遊ぶ事ができない。そういう点はオンラインゲームとは似ていない。ただ、我々が見る事のできる事、語る事のできるのはゲーム内部においてだけだ、という点ではこのように現実をゲームになぞらえる事ができる。そしてこの現実を構成し、その本質を動かすのはゲームの外側のプレイヤーの存在である。しかしそれは他者として、我々には捉えられないものとしてある。しかし、この他者を信じる事でゲームは成り立つのだろう。ここにあるのはおそらく、何が正しいかという論理を越えるもう一つのゲームなのだ。 

 天才について

  
 

 他人から見れば、賢い人間と愚かな人間は同じに見えるのだろう。最近、そういう事を考えた。

 賢い人間と愚かな人間はある意味でよく似ている。両者は人々の一般基準を理解できないという点では同じだ。賢者は一般基準を踏み越えるが、愚者はそれに到達できない。しかし人々から見ればそれは同じ事なのだ。

 人々というのは、自分の視界で切り取って相手を判断する。自分の視野が世界の全てであり、それ以上の姿は見えない。仮に天才が、巨大な存在だと仮定しても、人々には彼の「足元」しか見えない。それで、人々には、その人間が天才だという事はよくわからない。彼は愚者と同じカテゴリーに分類される。

 歴史の中に埋もれて、本当に消えてしまった天才というのは沢山いる事だろう。迫害、排除、というのはそれなりに有効なのだ。ただ、天才の語った真理はいずれ、我々の時間を通じて繰り返し発見される事だろう。何故なら天才は時間の終端にいるのであり、我々普通人は時間の始点にいるからだ。

目的を消失する事


 
 何を目的とするかによって、方法論というのは変わってくる。山頂をゴールとする時と、七合目をゴールとする時では、登山ルートが変わってくる。


 例えば、「モテたい」というゴールがある人にはその為の方法論が必要とされるだろうし、そういうノウハウ本が価値あるものとなる。しかし、別にモテたくない人には、そのために拵えられた方法論は必要がない。


 世の中には様々な方法論が溢れているし、「こうした方がいい」「こうすべき」だという人が沢山いる。しかし、「別にそんな事しなくてもいいや」と思った人に無理矢理「そうすべき」と言う事はできない。「そうすべき」というのは確固たる目的があるから発動される倫理であり、目的が消失した人にはその為のルート自体が無意味となる。


 社会の中で議論され、論争される事というのは、目的が共通しているという前提がされていて始めた成り立つゲームみたいなものだ。このゲームの中では、ゴールはとりあえず設定されている。登山の比喩で言えば、『山頂に登るためにはどのルートがいいか』と議論するようなものだ。しかし、山登りに興味を感じない人はそういうゲームから外れている。ゲームをしている人は、こういう人の存在が厄介に感じるだろうし、『汝、なすべし』という形で彼をゲームに駆り立てようとする。しかし、その人物はゲームの外側にいる。そしてゲームの外側にいる人間はゲームの内部のルールで計る事はできない。


 だから、人が幸福になる為の手段をいくら喧伝しようと、自分は幸福だと決めてしまった人間は文句なく幸福な人間だ。他人が「いや、あの人はそう言っているけど、実は幸福じゃない」と決める事はできない。それはそう言う人の幸不幸の基準で決められたゲーム内の話であり、自分は幸福だと決めた人間は、そのルールの外側で文句なく幸福なのだ。しかし、目的ない終着点だけでは人は段々寂しくなってくるだろう。その時、自分は幸福だと決めたこの人物はまた世界のゲームに復帰するかもしれない。しかし、その場合、彼には世界というゲームはそれまでとは違うものに見えている。そしてこの「違うものに見えている」という事柄も、世界のゲームのルールの外側にある。

 どこかの誰かを主人公とした作品は「私」の作品ではない



 ウィトゲンシュタインという難解で、意味不明な哲学者にとりかかって一年以上が過ぎたがようやく、その効果が出てきた。その結果、おおよその所、自分の哲学のパターンに関しては決定したように思う。


 また、自分のような人間の考えている事、感じている事、主張している事が世界に対して孤立している事、その事が「何であるのか」という事がはっきりと分かった。これによって色々恐れる必要もなくなった。


 簡単に説明すると、世界には二つの領域がある。一つは「私」の世界であり、これは語りえない。もう一つは「ヤマダヒフミ(のような三人称が問題となる)」世界であり、これは語りうる。三人称の、一般的世界を普通は我々の世界の全てと、私達は考えている。例えばスマップの「世界に一つだけの花」という曲。この曲ではそれぞれの独自性、違いは「色々な形、色の花がありますよ」という程度のものとして認識されている。しかし、自分の考える独自性というのは、正に他人に語りえないものであり、大切なのはこの語りえないものの方だ。スマップの曲の場合、「オンリーワン」と「ナンバーワン」が対立的に用いられており、普通の人はこの物の見方を受け入れるかもしれないが、実はどちらも三人称の世界に依存した見方に過ぎない。私の独自性とはナンバーワンでもオンリーワンでもなく、比べられるものでもなく、語りうるものでもない。そしてその事が私の、(そして私の世界の)本質を決定するのだ。

 
 僕がもう色々な事に恐怖する必要がないと言ったのこの哲学と関係している。つまり、人々が常に念頭に置いているのは三人称の世界の誰々であり、一人称の世界の「私」ではない。またさらに言えば、完全に孤立した系(本当は孤立の比較になるものすらないのだが)である一人称の「私」の世界はそれによってより高度な普遍性の世界に旅立っていく事ができる。そこでは人はあらゆる場所から隔離され、完璧に孤独であるが故に、より高度な意味で大きな普遍性、共同性に属するという事ができる。この哲学の発案者のウィトゲンシュタインはこの共同性についてはほとんど拒否していたかもしれないが、彼が結局、哲学という形で、ある「作品」を世に残したという事が、彼がこの共同性を間接的に肯定したという事の証明となるだろう。しかしもちろん、この共同性も本来は語りえないものだ。語りえない故に具現化する、もう一つの語りうるもの…と言っても良いかもしれない。絶対に他人に何も語る事ができない二つの存在があるとすれば、その二人はまさにその事によって深い内部で共鳴する。自分の言う共同性とは、この共鳴の可能性である。


 大体、自分がウィトゲンシュタイン(+永井均)から得た哲学はそんな所だ。ウィトゲンシュタインは難解なので誤解している可能性もあるが、誤解も含めて自分の感じている事、考えている事に一つの形が与えられた事をありがたく感じている。また自分が一般の小説作品などに全然共感できない理由もこれではっきりした。一般の小説作品で語られているのは「私」の問題ではなく、第三者の、どこかよその人物の話なのだ。それは全然、「私」の話ではない。それはそうだろう、小説とは他人の話だろう、と言う人間がいるかもしれないが、それは間違っている。ドストエフスキーが「地下室の手記」から「罪と罰」に変化していく様子……そこに現れている主人公像というのは、十九世紀のロシアの誰々さんではない。それは「私」なのだ。それがドストエフスキーの一番肝要なポイントなのだ。他人ではなく「私」が決定的に大事だと悟った人間が、他人に対する反感をむきだしにするその様を描く事(サリンジャーも同様)が、今自分が言った「共鳴の可能性」「新たな共同性」を具現化するものとなっているのだ。そしてこの立体的な構造に比べれば現代の作家らの書いている作品は二次元的なものだと言う事ができる。彼らの作品はどこかの誰か、三人称や固有名詞で呼ぶことのできる誰かのお話なのだ。それはつまり、「私」の作品ではないのだ。

私とは何か

 

 
 私とは何か? この問いに関してはもう色々な人がはっきり答えを出しているのだが、自分なりに感覚的に分かったのでそれを以下に箇条書きにしておく。ちなみにこれから言う事はすでにウィトゲンシュタインとか永井均が言っている事だ。

 
 私とは何か? その問いに対する答えは次のようになる。「私とは他人に伝わらない何かである」 これが自分の答えだ。ではこの事を以下に検証していこう。


 例えば、この私ーーヤマダヒフミという固有名詞のついた人物を想像していただきたい。このヤマダヒフミは家族と一緒に住んでいるという事にする。このヤマダヒフミという人物は仕事に行ったり、学校に行ったりして、そこにも普通の人間関係を持っている。他人から見ると、そこにヤマダヒフミという一人の人物が確かに存在する。しかし、ある時、このヤマダヒフミーー僕ーーは誰かによって監禁されてしまう。そしてその代わりに偽ヤマダヒフミという人物が現れ、偽物は本物の僕の代わりに生活を送る。偽物は外見とか、言動とか、記憶とかあらゆる点で本物である僕そっくりである。というより、それは完全なる僕のコピーである。この時、他人から見て、この人物を偽と見破る術はない。DNAなんかも同じである。


 さて、こうして偽物の僕は僕の代わりに僕の生活に完全に溶けこんだ。偽ヤマダヒフミは、本物の僕のいたポジションに居座り、そこで毎日、僕と同じ生活を送っている。この人物を偽物だと見破る人は一人もいない(というより、見破る術自体が存在しない)。しかし、この人物が偽物だと知っている人は二人だけ存在する(できる)。それは本物の僕と、偽物のヤマダヒフミだ。この二人だけが、ヤマダヒフミが入れ替わった事を知っている。

 
 今、問題としているのは私とは何か、という事だ。この時、私と呼ばれる現象は何なのかと言えば、以上に上げた例で尽きている。つまり、他人や社会にとって、ヤマダヒフミという人物がある日、偽物に変わろうと、そのなりすまし方が完璧であれば、そこには何ら矛盾も欠点も存在しない。たとえば、どれほど親密な恋人、僕の些細な動作、言動にも敏感に反応し、その奥にあるものを想起する良き恋人がいると仮定したとしても彼女は僕が偽物だと見破る事はできない。それが絶対にできないという事がこの偽物が偽物として存在できる条件だからだ。こうした世界の中では、「私」と呼ばれる現象は三人称の「ヤマダヒフミ」という人物の中に溶けてしまう。ウィトゲンシュタインが言いたかった語りえない事ーーとは正にこの「私」の存在の事だ。我々が語れるのは「ヤマダヒフミ」という三人称の固有名詞の人物だけなのだ。

 
 だから、社会や他者にとって「私」とは「ヤマダヒフミ」の事であり、その為にそれがある日そっくりの偽物にすり替わっても何ら問題がない。というよりそこにはもはや、偽物ーー本物の区別というものがない。他人にとってはそうした動作や容姿をしている人間が「ヤマダヒフミ」であるからだ。しかし、これを偽だと感じる事ができるのは先に言ったように二人おり、それが「私」と「偽ヤマダヒフミ」である。この二人だけが、「私」と「偽物」の区別をつける事ができる。


 ここで、そういう区別がつけられる存在ーーつまり、「私」というのは絶対に他人に伝わらない何かだという事がわかる。(偽物をのぞけば) 私達が「私」と名づけている存在は、あらゆる外的表徴を抜いてもなお残る何かであり、それこそが私の本体である。しかし、それは他人には伝わらない。それは他人に伝わらない、という点によって本質的に「私」なのだ。


 だから、例えばこの文章においても、この文章の半分あたりで、偽のヤマダヒフミが本物の私に代わって書き継いでいても、文体や内容が同じであれば他人には見分けがつかない。人はよく「本当」とか、「真実」とかいうものを誰にも開示可能であり、絶対的に正確なものだと考えたがるが、ここでの私とは正に「開示不可能」という理由によってその本質を構成している。この時、私というのは一つの独我論の孤独の中に立たされていると言っても良い。

 
 ただ、この文章を書いていて自分でも意外に思ったのはこの偽物の存在だ。他人に「私」は伝わらないと自分は言いつつ、その事は「偽物」だけには伝わる。するとこの偽物はこれまでとは違った意味での「他者」なのではないかという疑問がよぎる。ウィトゲンシュタインにおいても、彼が「私の本質は他人には伝わってはならない事」と言う時、そう言っているのは誰なのかという問題が頭をかすめる。もし本当に「伝わらない」のなら、何故それはそのように、(ウィトゲンシュタインという個人によって)口に出されたのか。彼は一体、誰に向かって語りかけているのだろうか? これはまだ未決の問いとして残されるかもしれない。


 しかし、暫定的に結論を出しておくなら、「私」というものは他人は伝わらない何か、という事になる。「私」がどの民族、どの性別、どの世代に属していてもそれが「私自身」だという想像は可能である。しかし、姿形、性格が完全に同じでも、それが違う存在あれば、それは「私」ではない。そしてこの「違う存在」と言う事を知っているのは私一人(と、偽物)だけなのだ。私とはそのような、一つの「語りえないもの」だ。そこにおいて私の本質はとりあえず、示されていると言う事ができる。

語りと沈黙



 語る事というのは難しい事ではないかと思う。自分はこんな風にブログをつらつら書いているのだが、どうも全てが間違っていたのではないかという感じがしてしまう。本当はこんな風に語るべきではなかった。例え、読者がゼロ人だとしても、語るべきか、語るべきでないかというのは自分の良心の問題として存在する。自分はもっぱら、自分と話している。

 自分の書いた事にコメントが付き、「お前の意見は独善的だ」とか「お前の意見には根拠が無い」と言われる事もある。ニコニコのブロマガにも同じ内容で書いているので、そちらで言われる事がたまにある。そういう意見を言う人は、何故、自分がそういう事を言うのか、自分でよくしらない。だから、僕の意見は独善的に見えるのだろう。自分と対話をした事のある人には、僕の意見は独善的というより、「僕」ーーヤマダヒフミという個人の意見だという事が察せられるだろう。本当にあるべき意見は、盲目的な正しい意見ではなく、間違っていたとしても考えぬかれた意見だ。自分の信念、哲学はそこに立脚している。しかし、もっと考えるべきだ。お前ーーヤマダヒフミは何故、その哲学が優れていると自分に認可するのだ?と。

 ある個人が、自分の興味関心に従って歩いた道があるとして、それはどうして自分以外の他人に見せなければならないのか? それに対して、論理的な理屈がいくらでもつく事は知っている。しかし、それは何故この僕、つまり、今こうして書いている「僕」に通用するのか? 僕が僕独自の道を歩いたという事を僕以外の人間が知らなければならず、それを評価しなければならないというのは、それこそ独善的な事ではないか?
 
 しかし、本当はそうではないと思う。例えば、太宰治が「君」と呼んで語りかける相手は、男性とか女性とか、ある社会の価値観を受けた人というより、もっと実存的な「君」だ。だから、太宰治が「君」と呼んだ時、まるで僕達は本当に自分が呼ばれたような気がしてしまう。そして、この「君」に「私」が該当しない人は、多分、私ではない他者を生きているのだ。では、他者とは何か。

 このブログの趣旨、自分のやろうとしている事にとって「他者」と呼ばれる存在はおそらく、「自分のため」「人のため」と考えている人の事だ。人が深く自分を覗き込み、世界と離れ孤独になる時、その孤独の内にもうひとつの共通性、共感性を発見する。それは孤独の中の社会性と呼ばれるべきものだ。僕ーーこのヤマダヒフミはその社会に向かって語りかけているのではないか。更に言うと、我々がある芸術作品に心の底から「感動」した時、その人は「その人」ではなくなっている。その時、人は自分から抜け出し、作品の精神に同化している。そして作品の精神は、作者自身が抜け出たものを反映している。作者が自分を捨てた所と、読者が自分を捨てる場所は同じなのだ。それは孤独の中心部にある。作品が語られるのは、自分について語るのをやめるためだ。世界を捨てるのは、もうひとつの世界を創造するためにほかならない。

 人はこのブログの記事を、ヤマダヒフミという他人の書いたものとして読むだろう。そしてそれに同意したり、批判したりする。それは何故だろうか。それは正に、その事によってこの人物ーーヤマダヒフミという人物から離れていく事なのだしたら、この人物…つまり、この僕とはそもそも誰なのだろうか。おそらくお前は………

 まあ、いい。今、僕はきっと、世界に向かって語るというゲームから抜け出せないのだ。本当は何かが間違っているのだ。そういう気がしてならない。パスカルが、アリストテレスやプラトンの哲学者として一番大事な部分はその著作にあるのではなく、彼らが静かな生活を送ったという事にあった、と言っていた。今、自分の演じているゲームに足りないのは、この静かな生活だ。僕には生活が欠けているーーという事が君の哲学の最大の欠点なのだ。だとすると、哲学は語られるものではなく、実行されるものだ。そしてこの哲学は語りえない。では、何故、君はこうした「言葉」を書いているのか。その問いは宙に浮かぶ。

 君は一体誰なんだ?

ドストエフスキーとインターネット空間

 
 

 今から書く事はミハイル・バフチンが書いた事ともかぶるし、自分が前に書いたドストエフスキー論とも重複する所がある。ただちょっと強調して、その部分だけ取り上げておく必要性を感じたので記す事にする。それはどういう事かと言うと、ドストエフスキーの現代性についての話で、現在を生きている僕達と大きく関係している。

 ドストエフスキーの小説とはただ単に優れた小説というだけではなく、自然科学的な認識の転換だった。そういう意味で、ドストエフスキーをカントやアインシュタインとひも付けて考えても全く間違いではない。更に重大な事は、ドストエフスキーが発見した人間像は二十一世紀の現代の我々にピタリと当てはまるという事だ。
 
 まず、バフチンがはっきりした事を言っている。彼は、「ドストエフスキーの小説の登場人物達は他人の認識を打ち破ろうともがいている」という意味の事を言っている。更に「ドストエフスキーの小説において登場人物達は一つのイデー(思想)である」とも言っている。これはそれまでの自然主義的な小説とは一線を画す物の見方だ。

 ドストエフスキーの小説が現れて以来、人間は単なる生活者ではなくなった。自然主義的なそれまでの小説では、登場人物達は作者の視線を受けて、行動し、生活する。彼らは普通の人達で普通の生活を送るのだが、彼らは決して作者の方を見はしない。一方、ドストエフスキーの小説の登場人物、またその中でも特に重要な人物は、自分の中にあらゆる「声」を飼っている。絶えずこの人物は自分の中の声と問答し、その結果として行動を起こす。この時、この人物の中にある「声」の中に、それまでの自然主義的なレベルでの作家の「声」「視線」も含まれていると考える事ができる。いずれにせよ、ドストエフスキーが描いた人物は皆、自分の中の「大きな声」との格闘を運命づけられている。

 これは現代とはどういう関係にあるだろうか。例えば、最近の純文学を読んでいて僕が物凄く物足りなく感じるのはその点だ。登場人物達はまるで、何かを無視している、何か重大なものから目を背けているという印象を読者としての僕は受ける。これは僕一個人の好き嫌いの考え方ではなく、必然的な理由があると僕は思う。それは、ドストエフスキーが描いたように、我々ーー現代の我々自身が一つの声、イデーと化してしまっているからだ。我々は内心にある声との格闘を絶えず義務付けられている。

 ではその正体はなんだろうか。例えば、先日、タレントのベッキーが不倫をしたというニュースが話題になった。その時、タレントのベッキーと相手方のバンドのフロントマンは世間からかなりの批判を受けた。(今、自分はこの事について倫理的に論じるつもりはない。この話を今自分は一例として持ちだしただけだ。いちいち突っかかってくる人もいるので書いておく) この時、世間全体の「不倫は良くない」という倫理感が、社会全体を通じて表明されたと言う事ができる。その大きな力となっているのは、テレビ、インターネットだろう。また、直接的に自分の意見を発する事ができるという意味ではインターネットがやはり大きい。

 さて、こうして世間全体から「不倫は良くない」という意見が表明された。それは一タレントの話題をきっかけとして日本中に打ち出されたと言って良い。そうすると、この意見はもうそれぞれの内心に巣食う事となる。つまり、今、現に不倫をしている人がいるとすれば、その人は、内心で世間全体の声に弁明する事を強いられる。

 自分がこうした例を持ちだして言いたい事は次のような事だ。まず、社会全体の共同幻想、意見、意志、政治的意図、などはインターネットやテレビなどのメディアを介して社会に表出される。それは見えない多数決の票であり、普通選挙よりも強力な政治的意見と言っても良いかもしれない。すると、この意見は巨大な力として個人の内部に沈潜する。個人は絶えず、この共同幻想に大して、賛同を求めたり、弁明したりする事が義務となる。また、社会に生きる上ではなんでもない一個人でも、ネット上で皆と歩調を合わせた意見を吐き出していればまるで自分が大きなものと同化したような万能感が得られる。こうしておそらくは、生活者としての人間は消え、絶えず人間はこの見るものーーー見られるものの二つの極に収斂されていく。社会幻想としての巨大な声と、その圧迫を絶えず感じている個人の小さな声。この二つの声の中で、かつて、身の回りのことだけを考えていた生活者としての我々は消失する。いわば、個人は世界大の巨大な声と一体化するか、それに押し潰される無力な個人かの二つの自分しか選ばなくなってしまう。

 ドストエフスキーが最初に自分を発見した小説「地下室の手記」は主人公の独白小説だ。この主人公は絶えず、自分の内に響く世界全体の声にたいして抵抗する。この時、ドストエフスキーは最初の現代人を発見したのだった。人間というのはかつてのように、作者の視線を受け、生活空間の中で適宜に振る舞うだけの存在者ではなくなり、その代わりに、他人の声にたいして絶えず逆らい、自分を見せつけようとする一つの声となった。こうして人間というのは静的なものから動的なものとなった。

 現代はもはや、万人がこの声の中に位置している。自分の一行動に対して、絶えず人々の声が鳴り響いている。かつては、人間の中には神の声が響いたのかもしれないが、現在では人間の内部には共同幻想の声が響くようになった。この時、忘れられたのは肉体のある人間であり、個人の生活であり、もっと言うと、孤立そのものだ。マスコミが世相を切る、と言う時は必ず、皆が斬っている方向に切るだけの事であり、人々の前で意見を言う時は無意識的に人々の志向に僕達は合わせざるを得ない。巨大な声と一体となっている時、僕らはみすぼらしい自分の姿を忘れられる。おそらくこうして世界は「孤立」「孤独」そのものを排外し、排除し、一つの巨大な集積となろうとしている。ネットのここ数年の変化を見ればそういう方向性を感じさせる。

 ドストエフスキーはこのような現代を予想していたわけではない。ただ彼は人間を深く考察する事によって現代に通じる人間像を確立したのだった。現代では人間そのものがこのように動的なものへと変わってきている。そしてこの世界で人間が生きていく事はどういう事なのか、それはそれぞれが決定していく事なのだろう。ただ、集積された声と同調する事は、個人としての姿を見えなくする。この埋もれた声の中に、本当の人間は発見できるのか。それがこれからの文学の課題となると思う。


ウィトゲンシュタインとドストエフスキーの見た風景

 


 世界と呼ばれるものの中に善悪は存在しない。これはウィトゲンシュタインが論理哲学論考の中で考えた事だ。

 世界の中には善悪はありえない。おそらくまた、価値も幸福もないのだろう。それらを付与するのは「主体」であるが、主体は世界の限界を構成する為に、善悪、幸不幸、価値、意味は世界の内部にない。

 もう少し考えてみよう。しかし、世界を構成するその構成の仕方は価値判断ではないのか。ここで、自分は文学の問題として、この事を考えたい。

 個々の作家が世界を構成する時、作品内部に善悪は存在しない。(今、念頭にあるのはドストエフスキーとか漱石などの大作家で、普通の作家の事は考えていない) 作品内部にあるのは登場人物であり、その言動だけである。

 ある個人の生き方が別の人間の生き方より優れているという価値判断は、作品(世界)の内部にはない。しかし、作家がどういう人間を選んで書くのか、どういう人生過程として描くのか、その判断の中に価値はある。しかし、価値判断自体は作品内部には現れはしないのである。何故ならそれはもうすでに現れたわけだから、作品の中には現れはない。それは作品を形作るという形で現れており、作品内部にあるのはただ個人の言動だけだ。

 極限の文学者はおそらくそういう世界観を保持している事だろう。さて、では、その目をもう一度現実の世界に向ければどうか。

 ウィトゲンシュタインが見た風景は、このような「極限の文学者」が見た風景と同じだったという事ができる。世界の中に善悪、倫理、道徳は存在しない。あるのは事実だけ(後期には言語ゲーム)。極限の文学者ならば、世界の中にあるのはそれぞれの人間の人生だけであり、その人生を意味づけるのはただ一つ、作家の視点だけと言うだろう。しかし、この作家の視点は世界を構成するものとしてあり、世界の内部にはありえない。

 しかし、ウィトゲンシュタインの言っている事は嘘ではないのか。例えば、イスラム国が、あるいは凶悪な犯罪者がしている事は紛れも無く「悪」ではないのか。

 それに答えるならば、それは「悪」ではない。もちろん善でもない。いや、もっと考えてみれば、世界の内部に善悪を見る見方よりも、善悪そのものを相対化する視点の方がより大きいのだ、本質的なのだ、とウィトゲンシュタインは叫んでいるように僕には見える。何故なら、善悪の概念は世界を分節化するからである。単一の概念の内部を、ケーキを切るように「善悪」で切り分ける。すると世界は二つに分けてしまう。片方を捨てて、もう片方を取るのが「正しい」のか。ーーこの「正しいか否か」は極限概念として言っている。

 ドストエフスキーは凶悪な犯罪者も「正しい」し、その犯罪者の頭を銃で撃ちぬく人間も同様に「正しい」のだという意味の事を言っていた。この「正しい」という言葉の意味は普通の意味の言葉ではない。これを普通の言葉として考えると、間違ってしまう。

 例えば、イスラム国のしている事は悪ではないと今、僕が言っても、もちろん内心それは間違った思いだという感情はある。ではそれは悪ではないのかと人は問うかもしれない。その時、こうした行為が悪であると思考するのは、肉体を持った一人の人間の立場としてだと考えられる。つまり、自分の肉体が痛み、傷つき、快さや不快を感じるそういうものとしての主体である。一方、哲学的主体はこれとは違う。哲学的主体は純粋な視野である。この時、彼は自分の肉体を失い一つの視点となっている。だから、世界の中に善悪は消えるのだ。
  
 しかし、人々は通常、世界の内部で毎日のように善悪の判断をつけ、価値判断をしている。これらの判断はどうなるのだろう。

 論理哲学論考ではこれらは「語りえない言語」に類別される事となるだろう。また、ドストエフスキーのような大作家であるなら、これらの価値判断は作品内部に取り込まれ、それぞれの人間が相対化して描かれる事になる。そうしてもうひとつのーー真のと言って良いーー価値判断は作品を形作るように現れるだけで、作品内部には現れない。つまり、世界で毎日我々がしている善悪、価値判断はより大きな視点からすれば、我々の行為、言動の一つとなり、絶対的ではなく相対的なものとなる。大きな、偉大な視点は全てを包括する。その内部には善悪はなく、また、「ない」もない。世界にはただ「ある」だけがある。大きな視点はこれをただ見つめ、認識するのだ。それは神の視点と言っても良い。

 こうした視点を我々が簡単に掴む事はできない。我々が通常、価値付け、意味付け、善悪の判断を行っている時、絶えず自分の立場を絶対視している。私がある身分に所属しているならその身分を私と同一化し、私がある国にいるならその国と自分を同一化する。より正確に見れば、私(主体)は認識しえない。哲学的に言えば、我々が主体(私)を手放した時、始めて、私は実体ではなく一つの視野である事がはっきりするのだ。つまり、私達は実体、通常考えられている私を完全に手放した時、一つの視野の元に世界が顕現されていくのを見る事ができる。僕の考えではドストエフスキーやウィトゲンシュタインはそのような風景を見たのだった。彼らは自己を置き去りにして一つの視野となった。そこに、世界は彼ら独自の姿を取って具現化したのだった。

 「エウダイモニア」としての幸福


 古代ギリシャに「エウダイモニア」という言葉がある。これは「人生全体の実質的幸福」というほどの意味だそうだ。光文社のニコマコス倫理学の解説に書いてある。
 
 アリストテレスのニコマコス倫理学は幸福論としても読む事ができる。その際の幸福とは、我々の想起する刹那的、快楽的幸福ではなく、エウダイモニアとしての幸福であり、「人生全体の実質的幸福」という意味である。それはいわば、人生全体を俯瞰しつつ追求するタイプの「幸福」の事だ。

 そこでふと思ったのだが、今やこの「エウダイモニア」に相当するような言葉は現在の世界からは失われているのではないか。日本人の「幸福」も英語の「Happiness」も同様に、エウダイモニアには相当せず、どちらかと言うと、快楽的、刹那的雰囲気を感じさせる。我々の言語にエウダイモニアが存在しないという事は、我々の内から「人生全体の実質的幸福」を追い求めるという精神が失われている事の証左になる。実際、僕はこの解説文を読んで始めて、『そういう概念』がある事に思い至った。これは言語という側面を考えると重要な事かもしれない。

 過去を遡れば「幸福」「Happiness」にも深い意味が隠されていた一時代があったのかもしれない。我々は我々の精神に則って語を変形させる。すると、もうそれ以上の観念は想起すらできないものとなってしまう。我々が自分の時代を相対化し、新たな時代を掘り起こす事ができるのは、我々が過去と今とを比較するからである。過去と今との違いを知る事が、未来を作る。

 言葉と人間とはおそらく、互いに浸潤する関係にあるのだろう。人間精神は言葉に反映されるが、言葉それ自体も一つの独立した物体のように人間を規制する。辞書の存在、「正しい日本語」という観念は、言葉が人間を規制する事を示している。我々が正しい、良い言葉を使わなければ、言葉の方でも悪しき人間精神を産出する事に一役買う事になる。

 我々が話す一つ一つの言語が、我々の全歴史であると言っても過言ではない。正しい日本語を使うべきであると主張する人は、言葉というものを物体のような硬いものとして想像している。重要な事は正しい日本語を使う事ではなく、正しい人間である事だ。その正しさが何かを追求するのに、古代の人間の文献を漁る事は無意味ではないだろう。そうした意味で、過去に帰る事こそが未来を作り出す。今、この瞬間を相対化し、俯瞰し、それを乗り越えるには過去を知る事によって自らを知るという方法しかない。知る事というのは常に、それ自体を乗り越えるという事を含む。過去は我々の未来となって現れる。その為に、我々は今を生き、過去を振り返る事によって未来に進む。時間というのは人間にとってそのように作用しているのだろう。

 

 「神の死」の後をどう生きるか


 今は2016年だから、二十世紀が終わってから十五年ほど経過した。二十世紀というのは概観してみると、かなり煩雑で、堕落した世紀だったように思う。その傾向は現在まで続いていて、人間は結局、神に変わる新たなシンボルを得ていない。現代人は神など必要ないと言うだろうが、今、アメリカでも日本でも、狭隘なナショナリズムが噴出しているのは、結局、これらの人々の基礎にある享楽主義というものの反動が出てきたのだろうと自分は思っている。

 現在と過去は違う、ある時期から新しいパラダイムが出現した、〇〇が発明したのは××時代から~というのは、最近の社会科学や哲学ではよくやられている。そこにはそれまでそう考えられていた偏見を覆そうとする意志が見える。

 僕は仏教哲学を勉強して、気が抜けてしまった人間である。二千年前、二千五百年前の人間がここまで本質、真実を洞察しており、それから二千年も経ったのに、この俺は一体何をしているのだろうと考えてしまったタイプの人間だ。だから、現在と過去との断絶を主張する哲学に対しては割合冷淡である。また、過去と現在の連続性を主張するのも同じ事だ。問題は連続性とか断絶とかが、人間の論理の一形式に過ぎないという事だ。世界をどう見ようが、それは我々の論理の内部にある。これをメタに、超越論的にカントは洞察した。カントと仏教は類似する点が多々あるように見える。

 神が死んだ後、カント、ゲーテ、ヘーゲル、ベートーヴェン、ナポレオンらの西洋近代の偉大な天才達は、それなりに安定感のある人間主義を生み出した。これは僕の勝手な私見である。これらの人々は神の概念を地上に下ろしてきて、神と地上、卑俗なものと崇高なものとの間に対して、バランスの良い巧妙な人間主義を生み出した。この人間主義がニーチェ以降は卑俗化してしまう。理想は現実に堕ろされ、享楽主義、大衆社会が噴出した。良き時代は消えた。ヘーゲル→マルクス→レーニン→スターリンと矢印をたどっていけば次第に歴史が悪化していくさまが見て取れる。

 例えば、ロシアの二人の偉大な作家、ドストエフスキーとトルストイがどうしてあんな高みまで昇れたかというと、考えられるのは彼らが信仰を持っていたからだ。彼らはキリスト教を最後まで手放さなかったが、同時に現実も手放さなかった。(トルストイはある時期以降手放したかもしれない) ドストエフスキーやトルストイが偉大な作家、思想家になったのは、現代の我々から古く、無意味と見える神への愛、神への信仰を持っていたからではないかと僕は思っている。もちろん、この「神」の所には別の言葉を入れても良い。そこに信念、イデア、愛、真理などを入れても良い。しかし、いずれにしてもこの神に値する概念は人間理性を越えている。そしてこの人間理性を超えたものはないと断ずるにはあまりに惜しく、あると称するにはあまりに嘘くさい代物である。この点をどう考えるかは未だに難しい問題であろう。(ドストエフスキーはこの矛盾を最後まで手放さなかった。彼は悪霊のチホンとスタヴローギンを同時に自分の中に飼っていた。彼の天才性はこの両者の対決それ自体にはっきりと表現されている)

 さて、ここまで概観して何が言いたいのかというと、現在はとにかく理想が消失した時代ではないかという事だ。恋愛という名の下に隠れているのは性欲の発露に過ぎず、夢を叶える、社会を向上させるという言葉の下にあるのは社会的地位の上昇、金銭の増加に過ぎない。もちろん、社会生活がよくなる事は良い事には違いないだろう。しかし、目を見開けば、我々の社会生活は過去に比べればもうすでに良くなっている。蛇口をひねればいくらでも水が出て、インターネットで世界中の情報が手に入る。そのほかにも、先進国の我々が享受している社会生活はかつての王侯すら手に入れられなかったものだ。しかし、それに対して心から歓びを感じている人間を僕は見た事がない。だとすると、こう考えるのが妥当ではないか。我々が社会や自分の環境を向上させる事によって達成しうると夢みている事は本当に夢にすぎないのではないか。我々がもし不老不死に達したとしたら、我々はその瞬間に「そんな事は当たり前だ」という態度を取るのではないか。本来、我々が望み、達成しようとしているのは我々が望んでいると考えている事とは全く違う事ではないか?

 こういう考えに突き当たる時、自分の目にウィトゲンシュタイン・カントが重要な存在に見えてくる。これらの哲学者は結局、天国に行く事を拒み、現実に帰ってくる。マルクス主義はあらゆる天国を夢想したが故に実現したのは人工の地獄だった。今のナショナリズム、変形したマルクス主義、イデオロギスト達もみな、おそらくはこれと同じ結論をたどるのだろう。つまり、彼らは理想は実現しうるという甘い夢を抱き続けるが上に、現実の上では落下し続けるのだ。カントの純粋理性批判は人間の理性の限界を教えてくれる。我々にとって生きる事が幸福となるのは、我々の望む幸福が実は幸福ではないと知る事が条件となっている。

 以上はとりとめのない意見だが、自分の思想の過程として書き記しておく事にする。おそらく僕個人はこれから、理想と現実を共に自分の中に飼う事を目標とするだろう。もしかしたらその内、自分は宗教者になるかもしれないとも感じている。

 物語空間について ートルストイ・ドストエフスキー・シェイクスピアー




 トルストイは晩年、シェイクスピアを批判した。オーウェルはそれを論評している。オーウェルはシェイクスピアを擁護し、トルストイを批判している。オーウェルの言っている事を読むと、彼の言っている事は至極まっとうだとわかる。ただ、自分はオーウェルとは違う視点を持ちたい。

 例えば、トルストイとドストエフスキーはどう違うか。トルストイの場合はあくまで邪を斥け、正しいものに迫ろうとする。アンナ・カレーニナでは主人公に似た人間は幸福に「ならなければならない」し、逆に、主人公と反対の思想の持ち主は不幸に倒れなければならない。不倫という罪を犯した人間は汽車に突っ込んで死ななければならない。それがいかに魅力あり、聡明な女性であったとしても。

 一方でドストエフスキーは、邪なものと正しいものとを自分の中に共存する事ができた。彼の中では悪ですらも、世界を構成するためには必要なパーツとすらみなされていたのである。しかし、それは悪を「肯定」する事ではない。僕の意見では、ドストエフスキーは自由と混沌の立場に立っている。ドストエフスキーは罪と罰では、場合によっては殺人を肯定しているようにすら見える。しかし、これは肯定とは少し違う。もちろん、殺人は肯定されるべきではない。それは倫理的に考えればそうだ。しかしより詳細に見れば、殺人という行為すらも、それが生まれる源泉ーー自由ーー混沌を否定する事はできないとドストエフスキーは考えている。殺人はやがて、悔恨、罰を受けるという物語的時間の中に吸収される。この物語的時間の中をラスコーリニコフは生きるのだが、問題はこの物語的時間に一つの結論を与えるという事である。この物語的時間に結論を与えると理性が勝ちを収め、「殺人は良くない」とか逆に「(正当な)殺人は良い」などという結論が出てくる。しかし、この結論よりも、人は常に未完結な時間の中を生きざるを得ないという根底的な条件の為に、ラスコーリニコフは罪を犯すのである。いや、罪を侵さざるを得ないのである。この問題に関して自分はかなり徹底的に考えたが、この事が自分以外の人に容易に伝わるとは自分も思っていない。

 ドストエフスキー、あるいはマクベスにおけるシェイクスピアの立場は例えば、後期ウィトゲンシュタインの思想と比べる事ができる。ウィトゲンシュタインは後期には、行為と規則とが逆転できる事を主張した。つまり、ゲームのルールは、ゲームを遊ぶ事から生まれるのであり、普通考えられているように、ルールがあるからゲームできるのではない。そうではなく、ゲームをするから、ルールが生まれる。(ルールがあるから遊べるのではなく、「遊ぶ」事からルールができる) しかしこの時、ウィトゲンシュタインがひっくり返したものーーその、「ゲームをする」「プレイする」という言葉の意味は、言葉の意味以前の混沌と自由の領域に身を置いている。ウィトゲンシュタインは明言しなかったが、彼が成し遂げた事は、彼の表現の簡素さよりもは遥かに奇妙で偉大なものだった。

 ドストエフスキーの罪と罰、シェイクスピアのマクベスにおいて彼らは、トルストイのように、自分の思想の反対側の人間を完全に否定しているわけではない。ドストエフスキーは牢獄には入ったが殺人者ではなかったし、シェイクスピアも人殺しではなかった。彼らは人殺しではなかったにもかかわらず、人殺しが書いた手記などよりも遥かに人を殺すという事がどういう事を正確に書いている。では、それをなぜ書いたか。なぜ書かざるを得なかったのか。ここには先に言ったように、悪すらも世界の現象の一つだと見る視点がある。より詳細に考えると、シェイクスピアとドストエフスキーは、悪や善という倫理道徳よりも、それが発現してくる自由と混沌の領域に目を据えていた。しかし、自由と混沌は、時間的推移を伴い、なんらかの結論、概念、倫理に至らざるを得ない。シェイクスピアとドストエフスキーの物語空間はこの「自由・混沌→概念・結論」の領域とイコールだ。これはウィトゲンシュタインからすれば、行為から規則が生まれる、という真理となった。

 一方で、トルストイは丁度真逆の立場にいる。トルストイは自身、随分とひどい事もしてきたにもかかわらず、彼は自分を常に善と幸福の立場に置き、悪を自分の外側に排出しようと努力する。トルストイがこの努力に誠実であった事から彼の天才は生まれたのだが、しかし同時に彼の悲劇も生まれたのだった。トルストイの生涯の晩年は悲劇と言えたが、それは彼がそもそも、絶対に悲劇を認めない存在だから生まれた悲劇なのだという事もできよう。トルストイは善を取り、悪を排除する。この時、トルストイは自分の芸術的天才を捨てて顧みなかった。しかし、人が今、トルストイを顧みる時、重要なのは芸術的天才としてのトルストイであり、説教家としてのトルストイではない。この事は、芸術家だった頃のトルストイが自身の内に、いやいやながらも混沌を持たざるを得なかったという事情が反映している。アンナ・カレーニナにおいて、幸福なレーヴィンとキチイだけでは物語にはならない。アンナ・カレーニナが優れた作品になるには、トルストイが否定したがっていたアンナという女性が必要だった。しかし、トルストイが決して認めたがらなかったのは、人は悲劇的な生を送るという意味では、誰しもが多少は「アンナ」ではないかという事だった。この事をトルストイは頑強に認めようとせず、これとの戦いに彼は生涯を費やした。一方で混沌と自由を手にしたドストエフスキーとシェイクスピアは、トルストイよりも更に先の領域に進んで行った。もっとも、その際にドストエフスキー、シェイクスピアが払った犠牲は我々には考えられないほどに巨大なものである。彼らの偉大な達成は、彼らが世界に対して完全な諦念を持った時に生まれたのである。彼らはトルストイのようにニヒリズムを排除し、否定しようとはしなかった。彼らはニヒリズムを引きずったまま、突っ走ったのだ。

 トルストイはあくまでも、善と悪の二項対立の論理の中で自らを善の立場に置こうとした。一方で、ドストエフスキー、シェイクスピアの二人はニーチェの言う所の「善悪の彼岸」まで彼らの論理、作品を推し進めていった。この事と、二人のキリスト教信仰がどんな関係にあるかは自分の手にあまる問題だ。ただ、神という概念はおそらく、無慈悲と悲惨、絶望、犯罪、無秩序をも含んだものでなければ、彼らはとっくに神を失っていたに違いない。彼らは神という概念からゲームを始めたのではない。彼らは行為、ゲームのプレイという混沌・自由からスタートして、神という概念(ルール)に到達したのだ。しかし、後の時代の我々はまたこの行為という混沌からはじめなければならない。だから、僕はドストエフスキーとシェイクスピアが到達した概念を疑う。疑う事から全ては始まるのだ。そしてトルストイが終わった地点はむしろ、トルストイの全盛期よりも後退した地点だったのではないかという疑問が頭から離れない。人生に結論はないというのが、唯一の人生の結論ではないか。今、自分はそういう事を思う。そしてこの僕もーーそして世界全体も、おそらくはこの自由・混沌→結論・概念の物語空間を移動しているのだ。もっとも、これを読んでいる人間がこの「物語空間」という概念を疑う事は可能であろうし、それは今こうして主張している「物語空間」という理屈に沿ったものですらあるのだ。自分はそのように考えている。

良い芸術作品とはどういうものか

 


 良い芸術作品と良くない芸術作品は見分けがつくだろうか。
 
 現実にはそんな事は困難だが、今、便宜上、そういう事が可能だとして自分の芸術理論について述べてみたい。できるだけわかりやすく書くつもりでいる。

 例えば、一枚の風景写真があるとしよう。それは、あなたの友人が外国旅行した時に撮ったもので、友人はその写真を写メで興奮気味に送ってきた。写真に映っているのはモンサンミッシェルでも、ガウディの建築でもいい、とにかくそういう有名な観光スポットだ。
 
 さて、そうするとあなたの前に一枚の写真が置かれる事になる。では、この写真は「良い」写真かどうかと今、僕が尋ねたら、あなたは不思議な気持ちに陥るだろう。そもそも、こういう写真はそのように「良い」「悪い」、あるいは美的に判断するものではないからだ。しかし、僕はあなたに尋ねよう。ではなぜ、あなたはそう思うのか?

 ここから簡単な芸術理論に入る。僕の考えでは良い芸術作品とは、主体の存在が作品の中に入り込んでいる作品の事だ。別の言い方をすれば「表現」している作品が良い作品だという事だ。「表現」とは「表に現す」と書く。作者が自分の様々な感情や、その存在を表に現しているのが良い作品である。逆に言えば、それができていなければ良くない作品だ。

 ではさて、あなたの前の一枚の風景写真に戻ろう。この写真は良いだろうか、悪いだろうか。…おそらく、この写真は良くはない。なぜだろうか。それは、あなたの友人は、ガウディの建築やモンサンミッシェルを前にして、非常に興奮した気持ちでシャッターを切ったにもかかわらず、その興奮は全然、写真に刻印されていないからである。あなたの友人は、有名な建築物を見て興奮し、ひどく感動して、おもわず携帯で写真を撮ったのだろう。しかしその興奮や感動は写真に表現されていないのである。

 ここから一つの結論を引き出す事ができるだろう。良い芸術作品は芸術単体で成立している。それ自体が一つの世界である、と。なぜなら、あなたが友人の風景写真を決して馬鹿にしないのは、友人が海外旅行に行き、観光スポットに感動したという事を知っているからだ。つまり、あなたが友人の事とか、この写真が取られた前後関係を知っているという事が、この写真に独立した芸術作品とは別の価値を与えているのだ。どんなつまらない作品でも、作者の人となりを知っていれば、多少は興味あるものとなるだろう。

 この事を別の例で考える事もできる。音楽でも似たような例を考えられる。例えば、二十歳前後の可愛らしい女の子のシンガーソングライターという存在は大体、何年かのサイクルで定期的に出てくる。シンガーソングライターでなくても、単に歌手でもかまわない。この場合、彼らの楽曲とか、CDを買う人は曲単体の魅力で音楽を評価しているわけではないだろう。それには、その曲を歌っている歌手がどんな女の子かという事が必ず関係している。これをイケメンの歌手にしても、アイドルソングにしても事情は同じだ。ここでも、先ほどの風景写真と同じ構造がある。つまり、作品そのものが単体で成立しておらず、作品を支える事情がむしろ、作品自体よりも重要になっている。とはいえ、いくらかわいくてもあまりに下手くそなら人は嫌がるだろうから、その辺りのバランスの問題もあるかもしれない。

 今では誰も彼もがアーティストという事になっているが、本当の意味でアーティストと呼べる人は、芸術作品が単体で成立している人の事だ。言い換えれば、本物のアーティストはある意味で、現実廃棄的な精神を持っているとも言える。なぜなら、作品が単体で成立する所まで行くほど努力する人間は、それを支える現実をある程度切り捨てる必要があるからだ。現実を超越しようとして優れた芸術作品が生まれるという事情もここにある。だから当然その逆に、現実におもねる芸術作品も無数にあるという事だ。

 ここまで書くと、自分の芸術理論は吉本隆明「言語にとって美とは何か」の「自己表出」という概念と似ているという事に気付く。自己表出という考え方では、同じように、芸術作品は自己の表出が問題となるのだから、これは先に言った「表現」「表に現す」と同じ事情であると言っても良いだろう。

 では、その自己とは何か、表出とは、表現とはなにか、と言う論理も考えられるが、これはそう簡単には決められない。それは個々の優れた芸術家が開拓すべき問題であって、理論でどうこうできるものではない。理論は現在から過去を見て、全体を整理する事はできるが、未来までは決定できない。自己とは何か、表現とは何かという事は個々の芸術家の手に委ねられるほかない。

 ただ、良い芸術と良くない芸術の違いとは何かと考える事はできる。あるいは、人が本当に芸術家としての道を歩き始める最初の一歩はどこにあるか。それは先に言った風景写真の例で尽きている。つまり、その風景写真では、作者の感情、興奮は伝えられないのである。(言葉の例で言えば、「私は哀しい。私は死にたい」とノートに書きなぐっても、そこに作者の悲しみは「表現」として独立した形では造られていない。詩人が修辞的な言語を持って遠回りするのはこのように、直接的な言語では伝えられないからだ) この「伝えられない」をなんとか伝えようとする事に芸術の努力が本当に始まると言っていい。

 コミュニケーション大好きな世の中に反して言うなら、芸術というコミュニケーションにとってもっとも大切なのはこの「伝わらない」事の自覚に他ならない。そしてこの「伝わらない」を対象化し、客観化しようとする事に芸術家の真の努力がある。つまり、ここでこの芸術家は、自分と世界の溝とを架橋しようとしているのだ。また、この芸術家と世界との間になぜこのような深淵が生まれたかは芸術家自身の運命と関わる問題だ。おそらく芸術家はこの深遠を意図的に選択したわけではなかった。彼は気づけば、世界と自分との間に巨大な溝がある事に気づいた。そしてふとこの事に気づいた時、彼は第三の言語ーーー自己言語でも他者言語でもない、それを超えるような言語ーーーを作り上げなければならない事に気づいた。この第三の言語こそが、本当の意味での良い芸術作品と呼べるものである。芸術家はこのような第三の言語で自分と世界とを同時に越えようと努力し、もがいているのだ。

 

このカテゴリーに該当する記事はありません。