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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

源氏物語に見る文学の原型

 


 最近、気になって源氏物語について調べていた。源氏物語、ダンテの神曲、オデュッセイアなどはおそらく傑作なのだろうが、叙事的で自分には苦手な作品だ。ただ、折口信夫の批評を読んでなるほどと思った所もあるので、そうしたものを基準に、文学の原型について考えていこうと思う。前の村上春樹論では村上春樹を批判したが、批判した以上、村上春樹が文学というものにどこまで肉薄し、どこで落伍していったかについても示さなければいけない。源氏物語を例にとって考えてみよう。


 まず、源氏物語というのは単純に当時の恋愛、「色好み」、絢爛豪華な平安の恋愛について描いた作品ではない。もしそうであったなら、そうした作品が世界文学となる事はなかっただろう。文学というのは単に現実に埋没したものではない。そもそも、単なる、平安の恋愛ー絢爛豪華ー日本らしいーという漠然とした、通俗的な物の見方しか現れていないならば、そんなものは傑作として現代に蘇る事はありえない。アーサー・ウェイリーのような優れた詩的感覚を持った人間が鋭敏に反応する何かが、源氏物語はあったはずだ。そうでなければそれは傑作とは呼べないだろう。


 では、どんな所が源氏物語の傑作たる所以なのだろう。僕は源氏物語を通読していない(というかほとんど読んでいない)ので、折口信夫を例に考えていく。折口信夫は源氏物語のテーマを次のように書いている。

 『自分の犯した罪の爲に、何としても贖ひ了せることの出來ぬ犯しの爲に、世間第一の人間が、死ぬるまで苦しみ拔き、又、それだけの酬いを受けて行く宿命、――此が本格的な小説の「テーマ」として用ゐられると言ふことは當然ではないか。』

 折口信夫は源氏物語に仏教の倫理ーー『因果応報』の原則が貫かれている事を見る。源氏は若い頃の奔放な恋愛をするのだが、それは彼が年を取ってから、自分の愛人が若い男に取られるという、因果応報の形を取って現れてくる。その事に源氏は苦しむ。


 科学史家の伊東俊太郎が源氏物語について書いた文章でも、似たような記述が見える。浮舟という女性キャラクターは、様々な男に翻弄された後、その事に嫌気が差し、最終的には出家する。伊東俊太郎はここに、日本型の女性の自立を見ている。この場合は因果応報というわけではないが、仏教的倫理が常に、現実の社会風俗(つまり平安の貴族的駆け引き・恋愛)の背後に閃いているという事は同型である。


 浮舟が『女性の自立』だというのは賛否あるだろう。僕はそういう見方もできるが、紫式部はもう少し柄の大きい作家だったではないかという気がしてくる。浮舟が出家し『色好み』から解放されるという過程は、源氏が『色好み』の中で苦しむという過程と裏表を成していると言える。僕はここに、仏教的な倫理によって当時の社会風俗を批判的に描いている一人の優れた作家というのを見たい。ダンテの神曲と比べると、ダンテはキリスト教的倫理によって当時の社会風俗を批判的に描いている。「ダンテーー男性的ーーキリスト教的」、であり、「紫式部ーー女性的(作者が女性というより表現など含めて)ーー仏教的」という違いはあるが、これらは似たような構造ではないか。もっともこうした事を僕はまともに読まずに想像で語っているので、あくまでも文学を考えるツールとして源氏物語を利用しているという事は強調しておく。

 これまで書いた所を整理していくと、源氏物語には二つの要素が互いに絡まりあってできている、という事になる。つまり、当時の貴族的恋愛、社会風俗を描くという現実的要素と、それらに意味づけを行い、それが何であるかという結論部となる仏教的倫理と、である。これはわかりやすく言えば、現実の生は過程的であり、倫理は結論的である。紫式部は仏教的倫理を使って当時の現実を俯瞰的に描いてみせた。この場合、当時の現実、恋愛的要素を如実に描く術が欠けていても、また、それらを意味づける思想の深さが欠けていても、どちらか一方でも欠けていれば源氏物語は世界文学とはならなかったに違いない。源氏物語はその二つをうまく融合している。だから、構成としてはよくできているし、世界的なレベルにある文学と言える事になるのだろう。

 ここまで大雑把に源氏物語を見てきたのだが、これまでの分析はあまりに図式的すぎると感じる人もいるだろう。僕自身もそう感じているので、もう少し、創作の内部に入り込んだ分析を行ってみよう。ここでも折口信夫を使う。折口信夫は重要な事を書いている。

 『源氏物語を書くのに、作者は何を書こうとしたかと言うと、源氏が一生に行った事にあるのではない。源氏の生活の中から、作者が好みのままに選択して、こう言う生活をした人に書こうという風に、或偏向を持った目的に源氏が生きて行っているように書かれたと思うのは、どうかと思う』

 『源氏自身が其生活に、我々の考えるような目的を常に持ってしている訣ではない。唯人間として生きている。ところが源氏という人間の特殊な性格と運命が、源氏の生活を特殊なものにして行っている。併、たとえば実在の人物として考え、後から其生活を見ると、自ら一つのまとまりがついていて、此方向へ進もうとして居たことが考えずには居られぬ。そこに人生の筋道が通っているのである。唯作者が勝手にぷろっとを持って作った型ではなく、源氏の生活の中に備っている進路に沿って書いているのだと言える。』

 少々長いが、文学、創作というものを考える上で物凄く重要なポイントなので引用した。折口信夫はここで重大な事を言っている。まず、次のような語句が見られる。

 「源氏物語を書くのに、作者は何を書こうとしたかと言うと、源氏が一生に行った事にあるのではない」
 
 現代においては、小説、アニメ、ゲーム、あるいはその他の企業の商品作りや宣伝、そうした様々なものはみな、このように見られている事だろうと思う。つまり、あらかじめ、作り手の側が細部まで計算し、頭で考えて、「源氏の一生」を描こうとした、というような事だ。相も変わらず陰謀論がはびこるのは、実はこうした僕らの思考の根強い習性にもとづいている。つまり、作り手や発信者の側が、あらかじめ色々な事を計算し、その通りにできるという先入観がそうした思考を生む。確かに人間は理性の力、頭脳の力があるので、そうした事が可能に見える。現代の産業社会は、頭脳により先々まで計算できる事、我々が計画に従う、精密な計画を立てられるという能力の上に築かれた。だが、それが人間の全てではない。

 話を文学に戻す。ここで折口は非常に微妙な物の言い方をしている。ネットでの議論やらコメントやらを散々見て、つくづく人はそういう見方をするものだなと感じるがーー人は二択で考える事が好きだ。ここで言えば、作者紫式部は源氏物語を「計画通りに書いた」か、「全く無作為に書いた」か、の二択。しかし、折口はここを微妙な言い抜け方をしている。つまり、源氏の生涯はあらかじめ、作者の手によって確定的に決められたものではない。だが、かといって全て無作為に書かれたものではない。これは現実の人間と同じ事だ。人は一見、自由に生きているように見えるが、人生を俯瞰すると統一的な方向が見えてくる。真の作家は全てを計算して描かない。そうすると、細部が頭脳によって圧迫されてギスギスして、力のないものになってしまうから。かといって、全くの無作為であれば、「作品」という統一性を持つ事が不可能になる。したがって、作品としての構成、統一性を考えながらも、その時のキャラクターの自由(我々の生の自由と同じ)を作家は尊重しなければならない。そこに作家の生みの苦しみがある。

 事実、つまらない作品というのはたいてい、キャラクターが生き生きとしていない。キャラクターが図式的であるが、構成は統一されている。ジブリのアニメ作品は構成、ストーリーは予め整然としているが、キャラクターの性格や意志は固定的だ。宮﨑駿のジブリアニメはキャラクターは「生き生きしていない」というほどではないものの、作者によって頑強に決められた枠に当てはめられている。ここに子供も安心して見られる作品の枠組みができあがると共に、目のこえた視聴者には足りない部分があると思える要素が出て来る。

 『たとえば実在の人物として考え、後から其生活を見ると、自ら一つのまとまりがついていて、此方向へ進もうとして居たことが考えずには居られぬ。そこに人生の筋道が通っているのである。』

 この折口の言い回しは重要だ。作者は源氏の一生を最初から計算づくで書こうとしたのではない。むしろ、作者は源氏という人物がどういう人生を辿っていくか、その推移を見守ろうとした、という方が正しいように思われる。とはいえ、作家の中には、最初からある程度の方向性は見えていたに違いない。つまり、最初に、作家に見えているのは方向性であり、結論ではない。そしてこの方向性とは、人が人生という過程で学ばなければならないもの(仏教の因果応報)である。仏教的倫理は、人生を生きる上で、それに対して当てはめる「枠」ではない。むしろ、人生を生きる過程で現れる結論部である。人は結論から人生を始めるのではなく、生きて迷い、誤ちを犯し、そして何が正しいかを後から知るのである。この順序を逆に僕達は考えてしまう。だから、現代の人間は様々な事を、過去の人間よりも遥かにたくさん知りながら、源氏物語のような優れた作品を産む事ができない。

 折口に寄れば、源氏物語成立後、源氏物語を淫らなものを書いた良くない作品というレッテルを貼った時期もあったそうだ。こうした倫理的な観点から、つまり結論から逆算して過程を黙殺するというのは、現代でも普通に行われている。だが、文学というものの力はそうしたものではない。また、文学というものがそういうものではないというのは、人生もそういうものではない、という事でもある。

 源氏物語は過程から結論に至るまでの全体を取った作品である。物語はそこでは、現実の社会風俗からスタートし、それがどうなるか、どうならなければならないのか、人はどのように生き、どのような場所に至るのか、という道筋となっている。この場合、物語の入り口に立っているのは当時の貴族的恋愛、つまり当時の社会的現実であり、作品の最後に立っているのは仏教的な倫理である。そしてそのどちらも、現実に根付いた事実と倫理である。源氏物語に物語的要素があるといっても、それはあくまでも、現実の描写であり、現実を乗り越えようとする過程で現れる倫理に分解されると考えて良さそうだ。

 これを批判した村上春樹とくらべてみよう。村上春樹は、物語を過程的にとらえているという点では正しい物の見方をしている。村上春樹は結論を作品に当てはめているわけではない。ただ、村上春樹は物語を形式的にとらえている。紫式部においては、現実と理想との矛盾がそのまま物語になったが、村上春樹はあくまでも「文学」という枠組みの中で物語を作っている。村上春樹の作品の端々に出てくる「文学ってこういうものでしょう」「こういうのが文学だよね」という態度は、彼の作品を作る根底的な姿勢からにじみ出てきてしまう。しかし、これは当然村上だけの問題ではない。現代の僕達ーー世界的に見てもーーは、文学というものを「そんな風なもの」として見る事に慣れている。小説を書いて新人賞を取りたい、デビューしたいなんていうのはその代表例であり、先に人生があるのではなく、先に文学がある。文学の形式があって、それによって自分の人生に箔がつくと思っている。

 だが、源氏の人生は、正に人生の現実から出てくる。人間が現に生きている現実を見つめるところ、そしてそれを越えようとする所から物語性が出て来る。僕達はこれを転倒して、結論から過程を逆算して、「世界的な作品」と見て取ってしまう。しかし、紫式部が描こうとした所はそういうものではない。そして紫式部は正に、自分が何を書くべきかを、書いていく事によって知ったのだ。作家にとっての技術は、自分にとって未知なものを現出する事にある。

 …だが、こんな風に言えば、自分の「無意識」に寄りかかってる村上春樹も同意するに違いない。村上春樹に関しては、彼が未知だと思っている自分の「内部」が、現実と断ち切れている事に問題がある。村上が「物語の力」を語る事と文学を「形」としてしか見れていない事は同じ意味を持っている。生と文学、現実と理想はつながっているが、僕らは知らずにそれをどこか途中で断ち切ってしまう。ダンテにしろ紫式部にしろ、おそらく彼らは自身の苦悩や苦痛を経て、この道筋を現に生き、またそれを言葉に現したのだろう。だから、彼らの作品を辿る事は彼らの辿った道を辿る事だと思う。この道筋に物語というものの方向性はあるのであり、この順序を逆にする事で小利口な作家や評論家で現れてくる。人生は誤ちと苦悩に満ちており、それ故、人は成長する事ができる。だかこそ、生には意味がある。そういう人生こそが本当に文学の主題になるのではないか。源氏物語について思考する内、自分はそんな答えが出るように感じた。

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幻想としての『村上春樹』

 


 本屋で村上春樹の「職業としての小説家」をパラパラ読んでいた。買わなかったが、今の村上春樹というのは「ナルシスト村上」と呼ばれても仕方ないなという印象を持った。もちろん、元々、村上春樹にはそういう資質があって、自分の中に閉じこもった作品を書いてきたわけだが、その資質が年を取ってはっきり出てきているように感じられた。

 とはいえ、村上春樹は世界的に売れている作家である。その事実は認めなければならない。すると、村上春樹のように自分に閉じこもっている作家がどうして世界的に売れるのか、について考えてみなければならないだろう。

 ネットを見ていて、自分の目を疑わずにはいられないのが、村上春樹の作品をあたかも文豪の作品の一つのように評価している批評が結構あるという事だ。これは自分には信じられない事で、自分はシェイクスピアの作品を読んでその凄さに感嘆し、村上とシェイクスピアというのはとても比べられないと感じる。しかし、シェイクスピアというのはゲーテですらが「叶わない」と言った人なので相手が悪すぎるかもしれない。だがもう少し下げて、サリンジャーとくらべても、サリンジャーにあった本質性は欠如している。

 村上春樹の作品というのは高校生~大学生くらいにはちょうどよい読み物だと思う。基本エンタメだが、哲学的な雰囲気を兼ね備えていて、何か一歩大人の世界に入り込んだような気がする。しかし、実際それは「気」だけで、本当に面倒な問題に突っ込むわけではない。ドストエフスキー、トルストイであれば、色々な社会問題、人間の問題、哲学について考えざるを得ない事になるが、村上春樹は雰囲気だけで十分だ。そして村上春樹が世界的に受けるという事は、大半の人には、基本エンタメ、雰囲気哲学、というので文学は十分だと感じられているからかもしれない。

 村上春樹の作品は「自分へ閉じこもっている」と自分は書いた。しかし、これは村上作品を好きな人には伝わるだろうが、ある種心地よい閉じこもり方である。村上春樹は母性を独占する物語を書いていると批評していた方もいたが、それは正しいと思う。村上春樹作品は、自分の内部に独特な閉じこもり方をする。他者を締め出して、ただ自分の気持ちよい空間のみを作り出そうとする。そしてそれが消費社会で生きる僕達の心性にピッタリ一致する。難しい事、ややこしい事、死、実存の問題は微妙に僕達の外に追いやる。しかし、それらは物語を作る上で雰囲気として入り込んでくる必要がある。この微妙な構造の上に村上作品は成り立っているように思う。つまりそこでは様々な問題が解決されるように見えるが、結局は、問題の解決というよりは問題の回避に終始する。問題の解決(問題との全面的対決)を問題の回避として、解決したかのように見せるという技術が村上春樹には存在している。

 この微妙な構造の気持ちよさというのは確かに存在する。しかし、この詐術の上には安住できない。人はやがて人生の荒海に放り出されなければならない。村上作品の上にいつまで安堵する事は不可能だ。人はいつか村上作品が文豪でなかった事に気づいて、本当の文豪が一体何と戦ったかを見なければならないだろう。…あるいは人は今度は、自分達で「村上春樹」の役割を生み出すのかもしれない。つまり、今度は自分達で幻想を作り、嫌なものを極力遠くに退けようとするのかもしれない。

 村上春樹は自分の事を「小説を書く資格を天から貰った」みたいに話していたが、まあなんと大層な話なのだろう。ドストエフスキーやトルストイや漱石が「私は小説家としての資格を天から貰った」なんて言うだろうか。彼らは皆それどころではなかったし、現実や社会を芸術によって乗り越える事に必死だった。トルストイはその挙句として芸術を否定するに至るが、トルストイの悲劇(喜劇)の意味は村上春樹には理解しかねるだろう。トルストイは人生の深淵な問題として芸術を捉えていたのであり、芸術がそれに耐えられないと見るやいなやそれを放り出してしまった。トルストイの悲劇も、「死せる魂」を焼いてしまったゴーゴリの悲劇も皆、村上春樹には関係ない。文豪にとって文学は死活問題であり、宿命的な意味を持っているがそれは「自分には物語を生み出す才能がある」なんて自惚れるタイプのものではない。

 最も、村上春樹の傍観者的態度は世の中にフィットしている。文学なるものを自分とは違う所で少し離して考える。作者も読者も作品の「雰囲気」に浸る。そして本を離れるとすぐに「文学」は忘れ去られる。

 世の中は自分達が楽しむ為にあり、世界とはその為の道具に過ぎない。社会学者のマックス・ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のラストで不気味な言葉を残している。

 「『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまで登りつめた、と自惚れるだろう』」

 ドストエフスキーは作家の日記で「人間が地中から牛肉を何トンも引き出す事ができるようになっても人間は救われはしない」ーーそうした事を言っていたと記憶している。ドストエフスキーやウェーバーが予見していた当のものに僕達は成ってしまった。すると、その地点から振り返って、ウェーバーやドストエフスキーを眺める事になる。ウェーバーは大学の単位を取る為に存在し、ドストエフスキーは「総合小説」を書くための道具である。我々は既に「心情のない享楽人」だからこそ、その為の道具として「心情のない享楽人」という言葉そのものを捉えている。村上春樹が過去を振り返り、そこから文学的方法論を取り出して行っている事、彼が作家としての自分に誇りを持っている事ーーそれら全ては正に、文豪と呼ばれる人がそうであってはならないと念じていた姿ではないか。村上春樹が自分には小説を書く資格がある、と自惚れられる立場とは一体何か、とは考えない所に村上の自惚れの源泉はある。こうした事を本の売上で糊塗する事は自分には不可能に思われる。

 やがてメッキは剥がれ、真実が顔を出すだろう。そう思わずにはいられない。真実はおそらく、村上作品よりも心地よくはないに違いない。しかし、それ以上に力強い、「本物」であろう。景気の後退が長引き、中産階級が底から抜け落ち始めている今、必要なのは夢を見る事ではない。真実を見て立ち上がる事にある。その時、僕達は村上春樹という夢を捨て去る事だろう。

文学作品における「対話」について 3

 最後に言いたい事としては、こうして「対話」の側面として文学、というか小説作品を考えていくと、小説ー文学というもの自体が一つの思想であるように思えてくる。つまり、そこではそれぞれの生き生きした実在は、単一の真理では捉えられない、捉えられてはならない、という思想である。そしてこの思想は語られず、実行される必要がある。この思想は当然、語られた途端に一元的な真理に結晶してしまう類の真理だからである。

 作家からすると楽なのは、一元的な作品である。自分一人が夜郎自大であって、自分一人、自分の国、自分のグループのみが正しく、その他は愚か者か取るに足りない連中であるという単純な構造というのが、クリエイターにとっては楽な事である。そしてこういう単純な構造は実は受けが良い。なぜなら人は、そんな風に自分をみなしたいという無意識的欲求を持っていて、その欲求を刺激する作品は、大きくヒットしたりする。(今頭に思い浮かべているのは「シン・ゴジラ」だ)

 しかし、実はこれとは正反対の作品も同様に楽だったりする。「世界に一つだけの花」に代表される、表面的な多様性礼賛作品である。これもまた、クリエイターにとっては安易で楽であり、しかも受けが良かったりする。ここでは多様性が肯定されてはいるものの、実は表面的な論理を世界に対して一面的に行使し、その部分を、部分として認めているに過ぎない。皆同じで皆いい、あるいは皆違って皆いい、というその皆の顔つきはどうしてこうもふやけて、似通っているのだろう。多分、世界が終わる時、人は深刻な顔をしているのではなく、どこか幸福そうな、ふやけた微笑をしているのだろう。

 優れた小説ーー文学作品は、そのどちらをも排除し、世界を理性的に洞察しなければならない。そして真のクリエイターは自分が最も撃滅したい相手すらも自分と同じ地平線上において眺め、何故彼がそうであるのかを徹底的に理解しなければならない。ドストエフスキーは「未成年」のラストにおいて彼の作家技法を独特な言い方で語っている。それは「洞察し、間違える事」である。美しい、整備された形式が失われた今、混沌の現在に、混沌の方法を持ってドストエフスキーは入っていったのだった。

 文学作品は、個々のキャラクターが何であるかを解明する義務を負っているように思う。現在ではこの義務を遂行するのは難しい。ある時期から文学は現実と接着した健全な、穏やかな日常を描くものになり、危機や暴力を描くにしても、金持ちのお坊ちゃんが一時ぐれてみせるような、そんな甘さしか感じさせない。僕達は何かに柔らかく包み取られているのだが、それがなにかわからない。心の深層には絶えず無意識的なストレスが溜まり続けているが、その原因がどうしても特定できない。そこで、安易な子守唄が聞こえてくるが、それは僕達の表層のみを慰撫し、深層は無視する。なにかがズレているのだが、そのズレはどうしても感知できない。

 文学作品において人間とはそもそも生き生きした存在であらなければならないが、現に生きている僕達は生き生きしているとはとても言えない。小説という形式において、個々の人物は自己を言葉によって開示しなければならないし、その開示の仕方は相互依存形式ーー対話という形式が望ましい。そう考えても良いだろう。この時、人間を一義的に決定できないか、決定してはならないという態度が作家の態度となる。更にドストエフスキーにおいては、それはキャラクターの態度にすらなる。ドストエフスキーのキャラクターは(バフチンの言うように)他人の定義を打ち破ろうともがいている。彼は生きた存在であろうとするから、他人の、死に似た定義を我慢できない。例え間違っていても、彼らは自らを生きたいから他人の定義が我慢できない。また、他人の定義が正しければ、その「正しさ」にこそ、彼らは噛み付くのである。つまり、人間は論理ではないと彼らは身を持って証明しようとする。その為に何を失ってもかまわないのである。

 こうしてドストエフスキーのような作家の作品には独特のポリフォニー空間が現出する事となった。普通の作家においてキャラクターは静的な存在だとすれば、ドストエフスキーのキャラクターは動的だと言えるだろう。宮崎駿の作るキャラクターが、一々自分自身に反抗していたら、安心して見る事ができない。多分、宮崎駿作品とかワンピースのような大衆ヒット作品というのは、一様にしてキャラクターが自分の定義を覆さないからこそ安心して見られるという性質を持っているのだろう。彼らは作者が与えた定義の範囲内でドラマを作る。キャラクターそのものが自らの定義を食い破ろうとする劇はそこには決して作られ得ない。そしてそれが現れると、例えば、社会におけるある役割を安心して享受している「普通の人」はまるで不可解なものでも見るかのようにそれを見る。そこでは、自分を疑い、その本質を露わにさせる事は社会の根底を破壊する事につながると彼らは本能的に知っているに違いない。自分そのもののあり方を疑い、本質を露出させようとする事は、根本的に不可解な、社会の掟を破る何事かを含んでいる。しかし例えそうであっても人間は自由に生きたいのである。ここに劇がある。そこには人間の生き生きした姿がある。彼はそこで、客体的な視線を脅かす何かを始める。つまり、自己との対話であり、他人との対話である。彼は自分とは何かと考え、その本質を露出させていく。そこで、彼は自らの本質と世界の本質に対して、他者を通じて深く問いかけていく。この時同時に、それを見ている安定した視線も一度は脅かされざるを得ない。人々、というのは何かに対して目を瞑る事から可能なある恒常状態である。本質を求める事は、これに揺さぶりをかける事でもある。

 「対話」は、言葉によって他人との関係を決め、自分との関係を発露させる道具である。これによってキャラクターは自分が何かを読者に開示させていく。この「対話」は我々が通常行う「会話」とは全く違うものである。僕達はおそらく、そもそも自分の事を全然知らないのだ。だから、僕らの理性は僕らの深層に届かない。三島由紀夫の右翼的思想は三島の魂の深くまで洞察しきった故に出てきたものではなかった、と僕は考えている。そこでは、本格的な対話がまだ本質にまで至っていない。この対話を出現させ、その各々の存在を生き生きした姿として、ポリフォニー的空間を表すのが真の作家だと、言えるように思う。そしてそういう作家は現在ではいない。現在は人間そのものの捉え方がまだはっきりと決まっていないし、どの捉え方が正しいのか全くといっていいほどわかっていない。しかし遺伝子学や脳科学、経済的価値によって人間は計られると信じる人間も多い。僕はーー自分の立場からはーー文学にはもう少しは可能性はあるように思う。しかし、その為には今いる位置から膨大な努力が必要となるだろう。自分を知るという事はとかく難しい。漱石が、ドストエフスキーが描くべきものをはっきり定めたのは四十過ぎてからだった。しかも、彼らがそれにようやくたどりつく事ができたのは、おそらく非常に長い間に渡って自己との対話を繰り広げたからであろう。僕はそんな風に考える。そしてその対話は、やがて文学作品という形で花開いたのだった。彼らの作品は相互対話的であり、それぞれが互いを理解しようとする事が、彼らの世界理解の答えなのだった。つまり、答えよりも答えを求める態度の方が、文学という未完成なジャンルにはふさわしい。世界は未だ閉ざされておらず、そしてこれまで一度も、閉ざされた事はないのだ。ここに確定的答えを与えようとすると対話は止み、「演説」が始まる事になるだろう。

文学作品における「対話」について 2

 では、このドストエフスキー・シェイクスピア的原理(シェイクスピアも含めるが)は、タイトルの「対話」とはどういう関係にあるのだろうか。その場合、「対話」は関係性として規定される。また、ドストエフスキーが個人に与える「思想」の定義は、「対話」を成立させる為の諸元素として位置づけられるだろう。

 この場合、僕は、ドストエフスキー・シェイクスピア的原理を仏教的な『関係主義』として捉えたい。関係主義とは、個々の物事のあり方は、それ独自なものとして捉える事は不可能であり、それらは常に関係の側面としてしか捉えられない、として考えるものだ。これと反対なのは『存在論』『存在主義』で、ある真理や物事を単独で、その全てを捉えきれるというものだ。

 この『関係論』『存在論』を大雑把に二つに区切った時点で、先に述べていた、文学と学問との関連性に気付く事ができるだろう。つまり、文学は『関係論』であり、学問は『存在論』である。…もちろん、この分け方というのはとてつもなく大雑把かつアバウトなものなので、本格的に学問の問題を指摘しているわけではない。区分するのに便利だから使っているだけの話である。

 さて、学問ー存在論の系譜から考えていくと、世界は単一の真理で把握可能という事になる。それらは単一の存在の様相を取っており、ある視点を取れば、世界の様相は確実に捉えられる。物理法則には世界各地、宇宙のどこでも通用される事が要求される。この時、物理法則各々が相互の存在を持って葛藤しうるというのは奇妙な話だろう。そんな葛藤は解消され、科学は単一の真理を目指す。学問はこのように世界に大きな網の目を投げかけ、世界を一つに溶かそうとする。
  
 一方で文学はーーというか、ごく一部の特異な文学者はーーそうはしない。バフチンはドストエフスキーについて鋭い指摘をしていた。ドストエフスキーは「罪と罰」において、ラスコーリニコフの殺人正当化の思想を語らせる時も、決して単一のモノローグ的な観点から語らせなかった。それはポルフィーリィの口をついて出てくるのであり、したがって、元のニュアンス、原型をとどめていない形でラスコーリニコフの思想は現れてきた。これをもっと突き詰めていくと、そもそも人間には追い詰めるべき原型などないという事になる。人間は種々の関係の中でのみ自らを開示してく存在であり、だからこそ、肯定するにしろ、否定するにしろ『他者』が必要となる。より強烈に言えば、そもそも「自己」とは「他者」との関係の中で規定される動的な存在であるから、唯一絶対な自分を他者に開示したり、閉却したりという事自体がそもそも存在しないのである。

 この時、注意しておきたい事が一つある。それは自分との対話も、「他者との対話」の中の一つに繰り入れられるという事である。ドストエフスキーにしろ、シェイクスピアにしろ、キャラクターの自己との対話は完璧な水準に達している。そこでは、理性が自らを振り返って自らと応答しているようだ。ドストエフスキー、シェイクスピアの偉大さはこのように自己を完全に客体化した個人を作中に描き出している事にあると言ってもいいだろう。そしてこの時、やはりこの自己対話は非常に生き生きしたものである。彼は自分と語り、自分に問いかけ、その存在を自分に対しても開示しようとする。そしてその事により、その存在が読者である私達にも開かれるのだ。一つ、例をあげよう。

 (シェイクスピア「ジュリアス・シーザー」 ブルータスの妻ポーシャの言葉)

 「もう家にはいらなければ……情けない、意気地がなさすぎる、どうしてこうなのだろう、女の心は! ああ、ブルータス、運良く本望をお遂げになるように!」

 ブルータスの妻のポーシャはこのように語る。この時、妻ポーシャは自分の女としての意気地のなさを嘆いている。しかし、だからといって、彼女自身の女らしさを嘆く彼女の理性は、彼女を純粋に客体的に眺めている。普通の現実において、僕達はそれぞれの立場、例えば「男」や「女」やといったものにとらわれている場合が多いわけだが、この時、ポーシャもそれにとらわれてはいる。しかしながら、それに捉えられている自分を純粋に見つめる理性の目は、それには囚われてはいない。つまり、ポーシャは女であり、女ゆえの弱点を晒したわけだが、しかし、それを見つめる彼女の理性は女でも男でもなく、純粋に「人間的」と呼ぶ代物である。

 シェイクスピア作品に見られる人間造形の偉大さは僕はまずこの点に認められるのではないかと思う。そこでは悪人も善人も己が何者であるかという事を世界に開示される事が要求される。そしてそこでは、上記のように自己への痛烈な対話として示される場合もあるし、演説や他者との対話という形を取って示される事もある。しかしいずれにせよ、これらの人は男であり女であり、ローマ人であったりキリスト教徒であったりするのだが、どっちにしろ彼らは理性の偉大な目が差している限り、どこまでも「人間」なのである。彼らは理性によって自己をえぐり、世界に開示する点において、徹底的に平等であり、なおかつ自由なのだ。ここでポーシャは、女としての弱さをさらけ出しているからといってそれが女を非難するものでも肯定するものでもない事は見て取れるように思う。ポーシャはとにかく「そのような人間」なのである。そしてポーシャという、劇の中ではそれほど重大ではない人物もシェイクスピアの手によって、とにかく自分を開示する一人の偉大な人間として、我々には指し示されるのである。

 さて、このようにして、「自己との対話」も「文学内の対話」の一つとして重要な事が分かった。長くなったのでまとめていくと

 ① 文学作品におけるキャラクターは言葉によって自らを指し示す。そこでは「対話」が重要な位置を占める。
 ② 対話はそれぞれの生き生きした実在を示す。対話は関係的である。それは一元的な真理を行使しない。というより、一元的な真理は行使できないと考えるから、人は対話的に自らを示さなければならない
 ③ 対話は自己との対話も含む。
 
 という辺りになる。

 本当はここからもっと先の事を考えていかなくてはならないのだが、これ以上やるともっと長くなるので、この論はここらあたりで辞めておく事にしたい。(続く)

文学作品における「対話」について 1

 文学作品にとって「対話」というのは非常に重要な要素として存在する。そしてこう考える際、僕は「対話」と「会話」を一応区別しようかと思う。僕が「対話」という事で言いたいのは、文学作品内部の個々のキャラクターがそれぞれ自分の本質を言語表現するという意味での「対話」であり、それは具体的にはシェイクスピアとドストエフスキーの作品内部における「対話」を指す。だから僕が「対話」をイメージする際は、かなり狭い範囲の話になる。

 …とはいえ、そうしたイメージにだけ縛られる事なく、漠然と話を進めていこう。優れた批評家であるハワード・ホークス氏はミハイル・バフチンの議論を前提にしつつ、小説における「会話」とはどんなものかという優れた論考を書いている。こうした事は非常に参考になったので、最初に書いておこうと思う。

                          ※

 さて、文学作品で「対話」、あるいは「会話」はどんな意味を持つだろうか。人は普段、『普通に』会話する。しかし、我々の普段の会話というのは大抵、内容に乏しい。「昨日、〇〇行ってきたんだよね」「あ、あそこ、こないだ私も行ったよ」「えー、うそ? ××いたでしょ?」「いたいた、でさー」 みたいな感じで、活字で現しても、ほとんど意味内容が感じられないようなものである。もちろん、そうは言っても、それを話している僕達自身が空虚である訳ではない。僕らの普段の会話というのはほとんど、会話外の情報が多いように思う。相手の顔色や雰囲気、服装や身振り手振りによって僕達はなんとなく会話している。そこでは、言葉の意味概念で捉えられない情報で僕達は話している。さりげない日常会話の中でも「あ、あの人は私に好意を持っている」とか「あの人は私を嫌いらしい」とか、人は様々に日々感じるだろう。では、これを文学作品において活字に表すとどうなるのか、という事が問題になってくる。

 文学の面倒な問題というのはこの辺りにある。言葉の羅列によって、世界は抽象化される。僕達は過去の古い書物を読む事が可能だが、それは言葉が様々なものを抽象化する、その作用のおかげである。しかし、その作用は現実のあり方の非常に多くの部分を捨象してしまう。これら捨てられたものの中に、本当の僕達の生き生きした姿はあるのではないか。…もちろん、答えはそれで正しいのだが、しかし、言葉によってもう一度、生きた現実、生きた人間を取り戻す事に文学の本懐があると言っていいだろう。言葉は世界を抽象化し、やせ細ったものにするが、それを再び、世界以上の大きさに、豊かなものにする過程において文学の技術というものがある。そんな風に考える事ができるだろう。

 さて、この時、言葉はどのように人間を現していくだろうか。
 例えば、バフチンが教えてくれた事だが、全く同じ言葉でも、話者が違えば、全く違う意味を持つ事になる。例を出すと、
 
 A「昨日、マクドナルド行ってきたよ」
 B「昨日、マクドナルド行ってきたよ」
 
 という『会話』があれば、Bの言葉は嘲弄の意味を持つ事になる。これは当たり前の事だが、非常に重要な事に思える。AとBの言葉の意味内容自体は全く一緒だが、話者が違うという事で違う世界が開けてくる。例えば、これが言語学であるなら
 
 「昨日、マクドナルド行ってきたよ」

 という語は単一の意味として捉えられるはずだ。言語学における言葉の意味は、話者の変化を考慮に入れていない。それは単一にして全体的な意味作用であり、だからこそ『辞書』というものが成立する。言語学、科学のような学問はこうした一元的な体系によって世界を俯瞰視する。だからそこに体系的な真理が生まれるのだが、文学作品においては、そうした一元的な真理は行使されえない。何故なら、単一の真理を握っているものが仮にいても、それは登場人物の一人として作中に埋め込まれるやいなや、一つの関係の網の目に組み込まれた一元素となるからだ。

 もちろん、そうは言っても、小説の作者が、自らが正しいと考える思想を、自らが正しいと信じる登場人物にべらべら喋らせるというパターンは存在する。この時、おそらく、こうしたパターンを使う人物はそもそも小説というものが何故そんな形式を保っているのかというのを徹底的に思考していないのではないか、と思う。(もし徹底的に思考している者なら、単に僕とは違う考えの持ち主だという事になるが) もし、そういう事がしたいのであれば、別に小説という形式を使わず、単なる「演説」つまる所、「エッセイ」「批評」という形式で充分だろう。そしてこの場合は作者から読者に対して「作者→読者」という一本の線が引かれており、それを何かの理由で薄める為だけに小説という形式が採用されているにすぎない。しかし、小説の真の能力は作者の思考、哲学を主要な登場人物に語らせる事にあるのではない。そうではなく、小説の構造と機能は、そのような作者の思考や哲学すら相対化して作品の中に折りたためるという事にある。

 ミハイル・バフチンにしろ、ハワード・ホークス氏にしろ、彼らは小説というものを構造的に、関係性として捉えている。その際、問題となっているのはそれぞれのキャラクターの独立性である。しかしながら、もちろん、それぞれのキャラクターの独立性を成り立たせているのは作者である。では、それぞれのキャラクターを成り立たせている作者の個性とはどんなものだろうか、と考えるとこれが難しい。特に大作家においては圧倒的に難しい。なぜなら、普通に考えれば、作者と言えども、現実世界では無数の人間の中の個性の一つに過ぎないからである。シェイクスピアにしろ、ドストエフスキーにしろ、彼らは多くの人間の中の一人に過ぎないはずである。彼らは単に、一つの個性として現実の世界を生きていたはずなのに、何故、彼らの作品にかくも無限の個性が集積し、そこでそれぞれが自己を主張する事が可能になったのだろうか。ここに非常に難しい問題がある。

 僕の見方ではこの難しい問題に対して、多くの知識人はつまづいているように思う。例えば、ドストエフスキーに影響を受けたと称する作家が、自分のキャラクターに思想めいたものを語らせる。そこで「自分はドストエフスキーの影響を受けた」と信じるのだが、実際の所には似ても似つかない。では、何故、似ても似つかないのだろうか。

 これに関しては割に明瞭に答える事ができるように思う。既にバフチンの指摘している事だが、ドストエフスキーは思想というものを単に主人公に語らせているわけではない。ドストエフスキーにとって思想とは生きた人格であり、何よりも生きた人間そのものの事だった。これがシェイクスピアにおいては情念と理性というような項によって、人間が括られるがドストエフスキーにとっては「思想」というものが人間に対する定義として当てはまった。もちろん、これは現代社会を写したものである。

 例えば「罪と罰」をよく読んでみて欲しい。そこでは、ラスコーリニコフの情熱に浮かれた言葉に釣られて、つい作者も舞い上がって文章を書いていると思いがちだが、実際、背後にいるドストエフスキーは案外冷静、冷淡である。ラスコーリニコフにしろソーニャにしろ、ポルフィーリィにしろ、それらの人物は自分の存在と自分の主張を融合させて生きているものの、ドストエフスキーは安易にそれに与したりしない。つまり、ドストエフスキーは思想というものをキャラクターに語らせているのではなく、むしろ、思想というものが生きた存在として社会の中を通行している現代世界を客観的な位相から描いている。

 だから、ドストエフスキーはあくまでも思想を描写していると言える。この時、ドストエフスキーのキャラクターの誰彼の思想が浅はかであるとかないとか、そのような批判は微妙に的はずれな批判だ。なぜなら、現実世界においては浅はかな思想に捉えられてとんでもない事をしでかす人間だって存在するからである。問題は、僕達が(バフチンの言うように)、まるで一人の作家の作品について批評するかのように、ドストエフスキーの小説の中のキャラクターの一人について語る、という事にある。この時、僕達はドストエフスキーが思想を「描写」しているのではなく、むしろ、ドストエフスキーが思想を語っている、と無意識的に見てしまっている。だから、そこでドストエフスキーの作家としての位相が見逃される事になる。

 ドストエフスキーの「心に染み入る言葉」・「他者性」について



 ミハイル・バフチンドストエフスキー作品内の「心に染み入る言葉」というタイプの言語を次のように規定している。

 「確かに、ムイシュキンは、ドストエフスキーの構想通り、初めから『心に染み入る言葉』の持ち主、つまり他者の内的対話の中に積極的に、自信を持って入り込み、その他者が自分本来の言葉を自覚するを手伝ってやることのできる言葉の持ち主である」

 ここでは「白痴」の中のムイシュキンについてしか述べられていないが、以下の文章では「心に染み入る言葉」という定義を僕なりに自由に展開し、論じていく事にしたい。したがって、バフチンの意図とは外れた話にもなるだろうが、バフチンの言葉をきっかけとして考えていく。

                          ※

 「心に染み入る言葉」のバフチンの定義とは上記にあげたようなものだ。この事を言い換えると、他者の無意識的応答それ自体に対して語る言語…と考えられる。これは例えばアリョーシャが兄イワンに対して言う
 
 「父さんを殺したのはあなたじゃない」

 という一語だ。この言葉はイワンの中の内的葛藤『それ自体』に向かって述べられているのであり、イワンその人に対して述べられているのではない。アリョーシャはイワンの奥のもう一人のイワンに話しかけているのであり、表面的なイワンに話しているのではない。(これは以前にも指摘した覚えがある) だから、アリョーシャは『表面的なイワン』にその後、拒絶されたとしても平気でいられる。「本当の兄さん」は「表面的な兄さん」とは違うという事をアリョーシャはよく知っているから。

 ここで、自分が注意しておきたい事がある。『心に染み入る言葉』を発する権利がある人間とは誰か、という事である。自分のイメージでは、それを発せられるのは『聖職者』である。例えば、それは悪霊のチホン、カラマーゾフのアリョーシャ、また、聖職者ではないが聖人気質のムイシュキン、などである。ここに付け加えるなら、罪と罰のポルフィーリィを上げてもいいかもしれない。ポルフィーリィは聖職者、聖人ではないが、人生の普通のコースを外れた、独身で将来のない人物として描かれていた。

 こうした事を上げて僕が何を言いたいかというと、人生において真実の言語を発する権利を持つ者は、世俗の論理にまみれていない人間だ、という事だ。世界というのは世俗の論理、世俗の人々で溢れている。ドストエフスキーその人も世俗の論理、世俗の意識を持っていた。しかし、世俗の論理、世俗の体系の中を泳いでいる人ににはその奥にある真実を語る事ができない。世俗の内部の、その奥の「真実」を語る権利があるのは、世俗の論理から外れた「聖職者」である。(ここで、「聖職者」という言葉を自分は非常に広い概念として象徴的に捉えている)

 話を拡大する。アメリカに、エリック・ホッファーという優れた哲学者がいた。ホッファーという人はアメリカ内部を放浪者としてうろつきつつ、日雇い労働をしつつ動きまわり、その過程で図書館で本を読んで自分の哲学を作り上げた哲学者だ。ホッファーの自伝を読むと、彼の生活というのがよくわかるし、彼の、誰とでもうまくやっていける、という感じの人柄の良さも感じられる。
 
 それで、ホッファーが好きな本の中にドストエフスキーの「白痴」がある。ホッファーは「白痴」を毎年読む事にしていたそうだが、僕にはどうしてホッファーの好きな本が「カラマーゾフ」や「罪と罰」ではないのかという事に密かに疑問を感じていた。それである時ふと気づいたのだが、自分の思ったのは、エリック・ホッファーという人はどこかしらムイシュキンに似ている、という事だ。

 ホッファーはアメリカを旅した人で、人柄も良く、聡明である。彼は哲学者であるから、彼が出会う世俗の人々の奥に隠された真実もその時々に見ぬく事ができてしまう。しかしそれ故に、彼はーー世俗の人間とはほんの少しばかりズレている。それを感じたのは、ホッファーが、彼を愛してくれる美しい女性と出会った時のエピソードだ。

 ホッファーはある機会でその女性と出会う。女性は女子大生で、ホッファーの事を愛しているし、ホッファーも女性を愛している。しかし、二人は結婚したり、結びつく事はなく、ホッファーの方で、女性の側からの拘束を嫌って逃げ出してしまう。ホッファーはその後も独身のはずだ。
 
 僕はホッファーの恋愛についてどうこう言うつもりではない。ただ、僕はホッファーの姿になんとなく、ホッファー自身が一番好きだった「白痴」の主人公、ムイシュキンの姿を見てしまうのだ。ムイシュキンもまた、地に足をつける事ができず、「生活」という泥土の中に身を委ねられない人物だった。ムイシュキンはナスターシャとアグラーヤの間でどっちつかずの態度を取り、現実的な人間存在として相手を愛する事ができない。彼は、博愛精神でナスターシャを愛するのだが、それは現実とはかけ離れたものだからたとえ結婚してもうまくいかなかっただろう。一方、現実的な恋をするアグラーヤに対しては拒絶してしまう。

 ムイシュキンにしろ、ホッファーにしろ、彼らは世俗の論理に身が染まらないからこそ、世俗の論理の奥にある人間存在について的確な言葉を吐く事ができる。ホッファーは「哲学者」であり、ムイシュキンは「聖人」である。これをもっと拡大してみると、「哲学者」と呼ばれる存在は、世界の中に身を浸していないからこそ、世界とは何かという問いに答えを出せる人々だと定義できるだろう。哲学者は独身が多い、というのは歴史的事実だ。

 「心に染み入る言葉」について戻ると、そのような言葉によって相手の深層に触れる事ができるのは、人間が表層の中に位置づけられていないからこそだと言える。チホンやムイシュキンらは、聖人として、人間の奥にある言語に触れられる。しかし、それは彼らが、世俗としての存在を疎外された故…と考える事もできる。

     
                           ※

 話を戻す。もう一度、アリョーシャの言葉に戻ろう。アリョーシャは、自分が父を(間接的に)殺したのではないか、と葛藤しているイワンに対して

 「あなたが殺したんじゃありません」

 と言った。この言葉はアリョーシャのイワンに対する「心に染み入る言葉」だ。これとほぼおなじ言葉はその後に、悪魔的存在スメルジャコフによってイワンに繰り返される。スメルジャコフもまたイワンに対して

 「あなたが殺したんじゃありません」

 と言った。ここに僕は恐ろしいほどのドストエフスキーの技工を見たいと想う。

 「あなたが殺したんじゃありません」という単一の言葉はアリョーシャとスメルジャコフという違った主体によって、イワンという同一人物に向けられている。この同じ言葉は、アリョーシャとスメルジャコフでは、『全く違う意味』の言語として用いられている。
 アリョーシャの場合、『兄さんは本当に殺していないのだ、仮に兄さんが心のもっとも深い部分で父さんが死ぬ事を密かに望んでいたとしても、「それでも」兄さんは自分と葛藤しており、父さんを本気で殺したいと願ったわけではなかった」というほどの意味で使われている。
 一方、スメルジャコフの場合はこれとは真逆だ。スメルジャコフの言葉は「確かに、あなたは直接には手を下しませんでしたが、あなたは私に殺しの命令をくだされました。あなたはフョードルを直接殺しはしませんでしたが、あなたは私に指示をしました。ですから、殺したのはあなたですよ」というほど意味になる。

 ここでは全く同一の言葉が違う主体によって語られる事により、全く違う意味が付与されているという事態が起こっている。もちろんこの構造は単に技巧的なものとして作られたわけではない。この構造はドストエフスキーが、イワンという人物を解読し、その内面を露わにさせる為に必要とした技工である。この時、アリョーシャはイワンの善良な側面を強調し、スメルジャコフは悪魔的な部分を強調する。どちらの言葉もイワンの中にあったものだ。

 ここで二人はそれぞれ、「心に染み入る言葉」を使っている、と言う事ができる。アリョーシャもスメルジャコフもイワンの言葉など聞いていない。彼らは共に、イワンの奥にある言葉を聞き取っているのであり、その「聞き取り方」にアリョーシャとスメルジャコフの、天使と悪魔との差異が現れてくる。そして天使と悪魔、両方ともがイワンの内面にあったのであり、それはたった一つの言葉「あなたが殺したんじゃありません」という台詞をどんな風に解釈するのかという違いによって、恐ろしく明白に晒されている。

 ここから更に突き進むと、イワンが後に戦う事になる、イワン自身の幻影ーー「悪魔」のイメージとなる。イワンが戦うはめになる悪魔は紳士のみなりをしていて、冷静な口調で話す。それはイワンの中の内なる言語が外化したもので、イワン自身に反抗し、別の存在のようにイワンに語り出す。この時にはもはや「心に染み入る言葉」はどこにも見出されない。イワンは悪魔が彼の心に侵入しようとしてくることに、反抗しようとするのだが、反抗しようとする動作事態が逆に相手の存在を、実在のものとして認める事になる、という厄介な構造を生んでしまう。

 イワンが恐れていたのは、自分の中で隠し通していた言語が明るみに出される事だ。それは、「他者」を通じてなされなければならない。ドストエフスキーに特徴的な事の一つは、小説内において、「純然なる他者」など一人もいない、という事だ。誰しもが相手の顔に、自分自身の相貌を読み取る。しかしそれにも関わらず、ドストエフスキーの小説には、他の小説家と違って圧倒的な「他者性」がある。登場人物はそれぞれ、自分とは真逆の、全く異質な人物を目撃し、それと抗争する事になる。これは、例えば、イワンのような人物にとっては、最大の「他者」とはまさに、彼自身が自分に隠し通そうとしていた、彼自身の姿そのものの事なのだ。つまり、ドストエフスキーの登場人物にとっての「他者」、「他者性」とは、彼自身の内部に秘められ、自分の中にあるにも関わらず、自分にはどうしても発見できない言語そのものの事だ。これは彼以外の人物によって、生きた存在として具現化され、象徴化されなければならない。そして登場人物本人は、隠れた言語である他者と抗争し、あるいは融和することによって自己を成長・完成させてゆく事になるのだ。

 ここまで引っ張ってきて、ようやく僕にも「他者」というものが何であるのか理解できてきた。それは彼が隠し通そうとしていた言語であり、生きた実体として彼の目の前に立ち現れる事だ。普通は他者というのは、ただんに自分とは違う人物の事だろうが、仮に自分と全く同じ趣向の持ち主であるならばそれは「同一者」と呼ばれるにふさわしく、また、単に自分とは逆の立場の持ち主ならばそれは「敵」と呼ぶにふさわしい。ドストエフスキーの登場人物、特に重要なキャラクターに関してはそう言う事はできない。イワンにとって悪魔が敵なのは、悪魔が彼と逆の立場だからではない。そうではなく、それはまさにイワン自身だからこそ、彼はそれに戦いを挑まなければならない。そしてイワンはこの戦いの滑稽さも、悪魔が実は自分の分身に過ぎない事も知っている。知っていて、それを演じるという事に現代の滑稽さがある。この時、彼にとっての他者は己自身に過ぎない。それでも彼には他者が必要なのである。全てが馬鹿らしく、全てが自己の意識内で完結したラスコーリニコフ、イワンのようなキャラクターにもやはり他者は必要なのだ。彼らは自分自身が何であるかを確かめる為に、他者達がひしめく世間に出て行く。その時、世間、世界とは彼らの自己意識の反映であり、この時、この人物は世界と格闘する事によって自己への認識を深め、それによりまた、世界へと帰ってくのである。

 このようにして考えてくると、「心に染み入る言葉」…例えば、チホンのスタヴローギンへの言葉などもまだまだ発展して考える必要がありそうだ。ドストエフスキーの極度に発達した技巧は、「カラマーゾフ」のイワンの悪魔との対話、またここでは扱わなかったが、裁判での殺人事件の解釈の方法などにおいて現れた。ドストエフスキーの技巧は、「心に染み入る言葉」から更に突き進み、自分の隠れていた心そのものが幻覚として現れるという情景となった。そうでなければ、表し得ないほどイワンの内面は複雑だったわけだが、この複雑さは、他者の極限としての同一者ーーつまり、幻覚としての悪魔という個人として現れる他なかった。このような表現法はドストエフスキーから影響を受けただろう数多の作家も、真似する事はとても不可能だと思う。ドストエフスキーの構造の深さはまだまだ探す余地がありそうだが、この論考はここで終わる事とする。

 村上春樹、カフカ、ドストエフスキー、セルバンテス、夏目漱石の現実との接続について 


 文学という領域では、メタファーという事が重要になってくる、と最近考えていた。ただ、このメタファーというのはいわゆる「暗喩」ではなく、作品全体が現実と何らかの関係を結んでいる、という意味なので、本来は「象徴」とか「アレゴリー(寓意)」と言った方が正確かもしれない。しかし今は、メタファーという言葉を拡張して考えていこうと思う。ここで使われるメタファーというのは「現実の象徴」という意味だと思ってもらいたい。

 例えば、村上春樹作品を「拡張されたメタファー」という観点から考えてみよう。僕の感じでは、村上春樹作品は「ねじまき鳥クロニクル」までは、彼の作品の物語の構造は現実の象徴、メタファーとなりえていた。彼の作品の物語的な構造が、高度資本主義的な世界で、人間達が織りなす文明の謎、不可解さというものと必ずリンクするようなっていた。

 これは吉本隆明が言っていた事だが、村上春樹の作品では、充足した高度資本主義、輸入されたアメリカ文化に対する「疑い」が作品の構造を成立させていた。「ダンス・ダンス・ダンス」の最初では、主人公の「僕」が、ティーン・エイジャーから小銭をふんだくる為に歌われたバンドミュージックに対する毒舌が現れていた。物語の最初にそれが出てくるというのは特徴的な事で、そうしたものに対する疑いが、主人公を世界の構造とは外れた(実は世界の構造の内部にすぎないのだが)もう一つ別の世界への冒険の契機となる。この物語の作り方は僕は優れていると思う。

 …とはいえ、村上春樹の作品にはある限界がある。それは、「ダンス・ダンス・ダンス」では主人公の「僕」が結局の所、スタートするのも帰ってくるのも、村上春樹自身にとって母胎のように感じられているある世界観であって、村上春樹はどうあってもこの世界観の外には出ない。この世界観とは多分、八十年代の日本の雰囲気であって、それは友人とバーでビールを呑んだり、自分が「寝たい」と思った女とはなんとなく優雅な雰囲気の中で「寝れる」ような世界である。

 村上春樹の他の作家では、村上龍をのぞけば、大抵、そもそも世界に対する疑いも抱いていないので自分は非常に物足りなく感じるわけだが、世界に対する疑いを抱いている村上春樹でも、上記のようにある限界性を感じる。では、この限界性はどのように表出されたのだろうか。僕はそれを、「海辺のカフカ」以降の、作品の現実からの遊離、つまりは単なる「お話」を紡ぎだす人になってしまったという事実に見ていきたい。

 ここで話を「メタファー」に戻す。…海辺のカフカでは、作品内で、化物を倒すシーンが出てきたと思うが、今振り返っても、化物を倒すという事は、それ自体何のメタファーにもなっていないと感じる。友人の手回しオルガン弾きさんが指摘していた場面で、イワシが降ってくる場面があったが、それもおそらくは何のメタファーにもなっていない。ここでメタファーになっていないとはそれが現実と接続していないという意味だ。

 こうした事で何が言いたいかというと、村上春樹が自分の中に持っていた、現実分析装置が時代が変わるにつれて機能しなくなっていったという事だ。世界が、八十年代の日本を大きく外れて、別の世界に変わっていくに連れて、分析は機能しなくなっていった。それにつれて村上春樹の作品は現実を遊離して「お話」を書くようになっていった。村上春樹は形式的なレベルでは技術を高めていっているだろうが、作品内の深い構造のレベルにおいては、作品の精度を高めていっているとは言いがたい。

 村上春樹とくらべて、例えばカフカを例に取ってみよう。カフカの作品というのはどれほど幻想的に見えても、常にカフカ自身の宿命と接続している。カフカの世界との間のごわごわした違和感、自分がそこになじめないという感覚、その感覚をカフカは絶対に手放さない。カフカ自身はそうした運命にうんざりしていただろうが、文学者としてみる時、カフカの作品を現実に接続させているのはその違和感である。カフカは、世界に対する異質物としての自分を手放さなかった。カフカの作品がアレゴリー・メタファーとして機能しているのはカフカが自身の違和感を手放さいなからであり、カフカは自身の宿命を通じて絶えず現実と接続していた。だからカフカの作品は現実に対する逃避としてのフィクション作品ではなく、あくまでも優れた文学作品として論じる事ができる。

 これに比べると村上春樹作品は確かに精妙に構成されたそれなりのスケールの世界ではあるものの、彼の作品は最初から作者にとってある気持ちの良い世界、優雅で快適な世界を目指していた。もちろんそうはいっても、その快適で優雅な世界にそれなりの意味、実定性があったのだ。しかしその実定性は「ねじまき鳥クロニクル」までで、それ以降は現実と接続する事も少なくなっていった。

 これらの事を総体として考え、今、ある程度の答えを出してみよう。つまる所、文学作品は何らかの形で現実と接続している事が求められる。この場合、「いや、想像力は無限だ、自由だ」という人がいるかもしれないが、カント哲学を想起してみれば、それは嘘だという事がわかる。我々は我々の世界の「外」を思考しうるが、その「外」も実は内側の世界を延長したものに過ぎない。「1+1=2」というのは我々の直感と一致するが、「1+1=3」の世界は想像する事ができない。「1+1=3」は正しいと言い張る事はできても、その「正しさ」がそう言い張っている人間の直感と一致する世界というのは、この世界に生きている我々には想起しえない。だから、我々は「1+1=2」が「正しい」(本当に正しいかどうかはわからないにせよ)として生きていく他ないのである。ここで想像力は限界線を引かれる。

 想像力はこのように限界を引かれるだろう。この時、SFもリアリズム文学も同じ、「文学作品」というジャンルに混合されるわけだが、それで構わないと自分は考えている。ではこの文学作品と呼ばれるものはなんだろうか。アリストテレスは文学というものを「一個の人間の人生を描く事によって人類全体の人生を象徴的に描き出す」のように定義したのだが、アリストテレスの定義は現代にも通用するのではないかと思う。アリストテレスの定義を村上春樹に適用してみると、海辺のカフカ以降の作品は人間全体を象徴する事を止めて、単なる文学作品という形式性の中に入っていったという事を意味する。

 こうして考えていくと、文学作品というのは常に現実と照応した、イデア的なものだと考える事ができるだろう。漱石やドストエフスキー、トルストイのような偉大な作家の作品は最初から最後まで現実に対して開かれていた。それは「海辺のカフカ」以降の村上作品とは違うタイプのものであって、村上春樹がいかに形式的に漱石・ドストエフスキーから学ぼうと、文学作品の根底的な構造において村上作品はドストエフスキーとも漱石とも異なっている。ドストエフスキー・漱石・トルストイ作品で物語性が現れるのは、現実に対する逃避や、現実の我々を心地よくさせ、読者を楽しませるためではなく(そういう目的もあったかもしれないが)、あくまでも現実に対する分析の延長線上の事だ。現実とは何かという問いに対してそれと葛藤し、それを越えようとする時にある物語のパターンが現れてくる。後代の作家がそのパターンにのみ目をつけ模倣すればそれなりの優れた作家にはなれるだろうが、セルバンテスやドストエフスキー、トルストイ、漱石のような大きな作家にはなれないだろう。彼らが偉大な作家なのは、彼らの作品が現実を観照し、なおかつそれを越えようとする事自体が、物語内部で主人公が運動していく過程として描かれているからであって、単にそういう形式性を生み出したからではない。

 それでもう少し付け加えるとすれば…カフカの作品は現実に対する照応やメタファー概念として考えられる。それは現実に対するカフカ自身の意識の構造化として認識する事ができる。しかし、カフカは現実と自分とを、極限的に、いわばセルバンテスのように対比的に作品内部に取り込む事はできなかった。カフカの作品が幻想的なのは、彼が幻想の外側にある現実を作品内部に取り込めなかったからだ。現実は幻想の外部にあって直感されてはいるが、内部に取り込めてはいない。これを取り込んだのだがセルバンテスの「ドン・キホーテ」であり、だから「ドン・キホーテ」の主人公は悪夢を背負ったまま現実を通行する。こうして考えていくとドン・キホーテという主人公はカフカの悪夢…カフカの作品全体を脳髄に宿したまま現実と戦う物語であり、カフカよりも一段大きい構造を持っていると言える。同じ事はドストエフスキーの「罪と罰」にも言える。時代が違うので本来単純比較できないのだが、無理に比較するというそういう点でカフカーーセルバンテスは物語の構造が大きく違うと思う。

批評 アルチュール・ランボー

http://p.booklog.jp/book/110133/read

ランボー論です。小林秀雄のランボー論から一歩も越えていないのでお蔵入りにしようと思ったのですが、なんとなく公開する事にしました。批評というよりは散文詩として読んでもらえるといいかと思います。

 「引きこもり」の言語が外に出て行く事について



 ドストエフスキー=小説の構造について考えている。それで色々思いつく事がある。

 例えば、「地下室の手記」の言葉は基本的に「引きこもり」の言葉だ。それは一人の個人が内的に貯めこんだ、非常に根深い言葉であって、深い井戸のように果てしない。この言葉はこの個人ーー主人公ーーの内部で無限に発せられている。

 しかし、「地下室の手記」という作品に意味があり、価値が有るのは、これが単に内的な、引きこもり的な言葉であるが故、だけではない。この人物はドストエフスキーに似て、神経過敏で、感受性が異様に豊かである。だから、彼の内的な言葉には常に他者の言葉が入り込む。延々と独語される内的な言葉には他者の言葉が入り混じり、感知されている。独白型の小説というのは沢山あるだろうが、そうしたタイプの小説の価値とはそこにどれほど他者の言葉が織り込まれ、内的な言葉を発する人間にどれほど肉化され、理解され、融合されているか、その点にかかっている。…そんな風に考えてみる事も、できるかもしれない。

 例えば、狂人の言葉とは他者の言葉の響きを欠いている。人のブログなどを覗き見ても、明らかに精神が病んでいる人間というのは他人の言葉を受け付けず、自分の言葉の中に閉じこもっている。他人の言葉はその言葉の中に一切入ってこない。それに引き換え、内的な、「地下室の手記」的な言語は独白でありながら、他人の言葉が入り込んでいる。注意したい事は、他人の言葉が入り込むとは他人の言葉を鵜呑みにするという事とは全く違う事だ。最近は「わかりやすく書け」「もっと面白く書け」と横暴に書く人間が多数いるが、こうした人間の意見を「聞く」必要はおそらくない。しかし、彼が何故そんな言葉を話し、彼らが何故そんな事を言うのか、という事は知らなければならない。つまり、他者の言葉を自らの言葉に融合されるとは、それ自体おそらく、対話的なアプローチなのだろう。「引きこもり」の言語の中には、そうした他者の言葉が流れこむ。

 しかし、「地下室の手記」から「罪と罰」へと進んだドストエフスキーの道筋は更に興味深い。自分はこんな風に考えている。ラスコーリニコフが殺人という事件を起こし、世界の闘争の中に入り込み、実在の他者との葛藤関係に入る事ーーそれは正に、彼が本質的に引きこもり的な言葉を彼の孤独の中で徹底的に練磨し、磨き上げたからなのだ、と。確かに、ラスコーリニコフのイデーは拙い。彼の殺人を犯す為に生んだ論理はそれ自体、いくらでも批判しようがある。批評家などはよくドストエフスキーの小説の中の登場人物のイデーに対して文句をつけたりしているが、彼らが理解していないのは、ドストエフスキーの小説においてイデーは生きられているのであり、真理としてドストエフスキーに語られているのではない、という事だ。つまり、そのように文句をつける批評家というのは実は、ドストエフスキーより上に立っているように見えて、彼自身がドストエフスキーの描く小説世界の中の一登場人物と化してしまっている。ここにドストエフスキーの不思議さ、偉大さがある。

 ラスコーリニコフによって醸成された引きこもり的な言語は、殺人という誤った形で、他者にとって目に見えるものとなった。カラマーゾフの兄弟や悪霊などで、ドストエフスキーが「事件」を必要としたのはおそらく、それぞれのあまりに深い内的自意識が一事件を巡る事で、様々な照明を当てられ、その本質が開示されるからなのだと思う。その最も著しい例がカラマーゾフの兄弟のラストだ。カラマーゾフのラストでは、検事と弁護士が親殺しの殺人事件にたいしてそれぞれの見解を述べるが、ドストエフスキーはこの事件に対して、検事と弁護士の口を通じて、巨大な思想的意味を見出してしまう。これはドストエフスキー自身が現実に対して取った態度と同じで、凡庸な目には退屈と見える人々、現実に対して、ドストエフスキーはそれとは全く違う巨大なものを背後に見た。これは、情報量の問題として考えられるだろう。…例えば、プログラム言語や難解な数式を僕が見てもそれを単に文字の羅列のようなものとしか見えないが、専門家が見ればそこに無数の情報を読み取る。ドストエフスキーはそのように現実から巨大な思想的意味、大きな情報を読み取ったのであり、そういう意味ではドストエフスキーの言うように、彼自身は「写実家」だったと言える。

 「罪と罰」を内的な、引きこもり的な言語の問題として考えてみると、まず、そうした内的な言語や意識は一つの思想となって結晶化して現れる事になる。それは仮にラスコーリニコフという名前が付けられる事になる。次に、このラスコーリニコフという人物は殺人事件を犯す。しかし、これは単なる殺人ではない。普通の小説家は殺人事件を殺人事件として描くが、ドストエフスキーにとってこの事件は、ラスコーリニコフという思想の外世界への発露である。すると、この発露である事件を、ポルフィーリィのような人物は読み取らねばならない。つまり、事件の奥にラスコーリニコフという無数の内的言語…巨大な情報を読み取るわけだ。

 こうした物語構成が可能なのは、先に、ラスコーリニコフの内を流れる内的言語、引きこもり言語が、イデーという形で結晶化していたからだった。だからこそ、この結晶化されたイデーは一つの人格として、外界を自由に振る舞えたのだった。(それ自体、イデーの虜だったが) これと比較する時、プルーストの小説は結晶化していない内的言語と見る事ができる。プルーストの語り手の内的意識は外側の世界に出る事はない。何故なら、彼は外側の世界を全て自らの内的意識に溶かしあわせてしまうからだ。普通の人間の内部を見ればプルーストの方が自然だ。しかし、この内的言語を結晶化し、それが「行為」となってようやく、ラスコーリニコフには「他者」が現れる。人間に「他者」が本質的に現れるのは、恐ろしいまでに自己との対話を繰り広げ、もう逃れようのないほど自分というものを固く、突き止めた後の話なのだろう…。

 後はちょっと社会的な話をする。クレッチマーの「天才の心理学」という本があって、ここに天才というのは、集団的な遺伝構造とはどんな関係があるのか?という事が論じられている。クレッチマーの言う事を信じると、天才が出現しやすいのは、ある程度の時間成熟した社会的グループ、部族、国家のようなものが、あるときにそれとは違う異質な集団と出会い、混交する時だという。

 クレッチマーが何度も主張しているのは、そうしたグループはただ開かれているだけ、ただそれぞれが無作為的に混血するのは人類にとってあまり良くない事であり、かといって完全に閉鎖しているのも良くない、という事だ。ある程度の閉鎖性がある集団が外界にひらけ、他の集団と出会う時、そこに天才をはじめとする創造的な文化が生まれる。クレッチマーはそんな風に考えているように思える。

 この話を読んで僕は二つの事を思い浮かべた。一つは今書いたような、ドストエフスキーの物語構成。ここでは孤立した内的言語が外界に出ていき、その意味を問われる事が重大な要素となっている。もう一つはもっとわかりやすいが、日本の近代化だ。長い間、鎖国していた日本という国が改革を行い、外界に開かれていく過程で夏目漱石のような天才が生まれた。そういう意味では、今の社会はおそらく、あまりに開かれすぎている為に、強制的にそれぞれが閉じてきている…そんな風な気がする。日本でのナショナリズムの高まり、アメリカでの政治家トランプの出現などは、開かれた集団が、平地的な空間に我慢できなくなったが故、自分に誇りを持ちたいが故に、閉じていこうとする現象の一端であるように見える。こうした事がいいことかどうかはわからない。しかし、開かれたものが閉じていく過程でどのような文化が生まれるかは僕はよくわからない。もしかしたらこれからは歴史的には、巨大な暗黒期が訪れるのかもしれない。そんな気もしている。


思想は語られるものではなく、生きられるもの……ドストエフスキーについて

  
  

 ドストエフスキーについてずっと考えていて、気付く所があった。それは、ドストエフスキーにとって真理(思想)とは語られるものではなく、「生きられるべき」ものだという事だ。これはバフチンの指摘から気づいた。

 バフチンは、これまで批評家がドストエフスキーの作品に対して各々の思想を見出してきた事を非難する。バフチンの言葉では、ドストエフスキーにおいて思想、イデー、あるいは真理とは、それが命令的に、モノローグ的に語られるのではなく、小説内部において一人の人格として生きられねばならない。人は思想を語るのではなく、一つの思想としてそれを生きるのである。

 この事は、ドストエフスキーという人物が、骨の髄まで小説家だったという事を示している。事実、ドストエフスキーの「作家の日記」という評論は、一つの明確な声を欠いており、最初は作家の真理の提示と見えていたものが、次第に、ドストエフスキーの耳に他者の声が反響し、彼はそれに応答しようとする。彼は真理について語ろうとしていつしか対話に入っていく。これは、ドストエフスキーが真理というのを固定的なものと捉える事ができなかった、という事を示していると思う。

 こうした事は、それだけで詩と小説との分水嶺を成していると思う。また、自分の思想を一義的に世界に語る思想家と、それを小説内で、一人の人間として生かす小説家との違いをも示している。

 詩は何よりも言語表現であり、それがどのように高度に複雑になろうと、それは世界に対してある言葉を投げかけるという事を意味するように思われる。つまり、そこでは「作者→(言葉)→世界」という定式がとりあえず作用している。作者は世界に向かって何かを語りかける。そこには、作者の感覚、心情、思考、イデーなどが、言語により感覚的に表現されている。読者はそれを詩人の言葉として聴く。しかし、そこで現れている感覚や心情、イデーはそれ自体変化しはしない。そういう意味で詩とは、己の瞬間性や気分というものに対して最も素直で、正確なものだと言う事ができる。

 ある個人の思想、正しさについて一義的定義というのも同様に考えられる。世界に対してある言葉が投げかけられ、それは正しいか否か、正確かどうかという判断をくだされる。そこでは「正確さ」や「正しさ」が考えられ、たいていの人間は自分の哲学や思考を、他者よりも正しいものとして世界に言明する。これは非常に賢く、高度な思考を持つ者でも大抵は同様の思考パターンによって成されている。

 自分がここで思い起こしたいのは哲学者カントだ。彼は僕にとっては、哲学者としてのドストエフスキーであるようにどうしても見えてしまう。彼の純粋理性批判では、理性の限界が示されるのだが、それは物語的に運動する。カントの圧倒的に偉大なところは、彼は、何かが論理的に正しいかどうかを見極めるのではなく、論理そのものを主人公にした物語を展開した所にある。論理を自分の思うがままに進めていって、それがどこで破断するか確かめようとした。これは一つ次元の違う事であって、後世の我々は彼の業績をまた「論理的に正しいかどうか」で見ようとする。しかしそれを越えたあり方がいわば、物語としての哲学であり、根源的にはカントとドストエフスキーは同様の、人類史的に極めて偉大な事をしたのだと思っている。

 ドストエフスキーは罪と罰で、純粋理性批判に近い仕事をした。重要な事はラスコーリニコフの思想が正しいか否かではない。彼が一つのイデーとして自分の人生を生き始め、それが純粋理性批判の論理のように、あるポイントで破綻したという事が重要な事だ。これはラスコーリニコフの思想が正しいか否かと論議している中では絶対にたどりつけないポイントであるように思う。通常は、ラスコーリニコフの思想か、あるいはそれに似た思想が正しいか否か、何が正しく何が間違っているかが集中的に論争される。そしてここで出てくる、正しさや間違いというのは空間的なものだから、ドストエフスキーやカントのような時間性、物語性を生む事がない。そこでは真理は語られ、述べられているが、生きられてはいないのである。(こう考えると、維摩経や論理哲学論考にもある時間性、物語性があるように見える。これはまた別で考えてみないとわからないが)

 罪と罰のラスコーリニコフは一つのイデーを生きる。彼は殺人に正当な、完全な論理を付与して生きようとする。彼はそれに失敗し、最後に社会からの裁きを望む事になる。これは物語のプロットであるが、通常、小説家というのはプロットを、全容として把握するのであろう。つまりは登場人物、主人公、物語などをあらかじめ頭の中に想起しておくのだろう。罪と罰は小説なので、一見、これは他の小説と同じようなものにも見える。そこから、種々の小説家らは、ドストエフスキーから影響を受けたという事ができる。つまりは登場人物にある思想を語らせたり、作品のテーマを取ってきたり、または三人兄弟が出てきて親殺しを行うなどのストーリーラインを取ってくる事ができる。しかし、罪と罰のラスコーリニコフはそうした事とは全く違っているように見える。彼は自らのイデーを語るのではなく、一つのイデーとして人生を生きる。彼は自分の思想を自分の中に包含しているのではなくて、彼そのものの存在が思想であり、彼はその思想を生きて貫こうとするのである。だからこそ、彼の目の前には現実が立ちふさがり、彼はソーニャに内心の告白をし、ポルフィーリィと対決しなければならない。彼は思想として生という道を歩くが故にある結論に達する。しかしその結論はおそらくイデー・思想ではない。それは思想が一つの生として生きた結果であり、固定的に世界に遍く宣言される解答ではない。世界に解答は決まっておらず、また、世界に解答は決まっていないというこの僕のイデーもやはり、僕の人生を通じて、それは生きられねばならないのだろう。

 こうして考えると、ドストエフスキーという人物は徹底的に、魂の底まで小説家だったという事が分かる。ベルジャーエフはドストエフスキーを「ロシア最大の形而上学者」と呼び、それは正しいが、そうした考えに対するバフチンの批判もよく分かる。ドストエフスキーにとって、思想とは描写の対象であり、それは肉化され、作品の中で生きられねばならないものだった。これは、ある固定的な思想や見解を互いに突き合わせ、その審級を考えている段階ではイメージする事すら難しい産物である。何故なら、これまで僕が書いてきた事、またはドストエフスキーの小説そのものを一つの固定的思想として僕達は見ようとしてしまうからだ。これに比べれば、トルストイはより明瞭にその思想を発見する事ができる。ウィキペディアを見ると「トルストイ主義」というものがあるそうだが、それに反して「ドストエフスキー主義」というものはない。「ドストエフスキー主義」というものは僕には到底考えられない。ドストエフスキーはある主義を標榜したのではなく、主義を描写し、それを作品内で生かし、それを最後に結末まで持って行った。それでは彼の思想はいかなるものか?と僕達が問うとき、おそらく、そこで言われる「思想」という語は既に変質したものである。ドストエフスキーは骨の髄まで小説家だった。彼は現代人が、正否を巡って論争し、結論を出そうとしている様を見た。彼は、他の人がしているようにその論争に加わろうとせず、むしろそれを小説の対象としたのだった。それによって、彼はカントと同様に、正否では見つけられない答えを発見した。そしてその為には完全に、正否や論理に囚われたラスコーリニコフのような人物が必要だったのだ。

 

 ドストエフスキーと現代を生きる哀しみ

 
 ドストエフスキーとカントの重大性について、今になって気がつく事が沢山ある。彼らはいわば認識論的展開をしたのだが、これを骨身のレベルで受け止めるという事がどれほどむずかしいかーー逆に言えば、過去の様々な事をもう「知っている」と考える常識がいかに何も知らなかったか、という事を思い知らされている。あるいは彼らはそれらを概念としては知っていたが、自分の物の見方を根底的に変えてしまうものだと「知る」事ができなかった。「知る」とはおそらく「見る」事であり、「見る」とは「行動する」事なのだろうと思う。この辺り、「知る」から「行動する」までの間をこれから自分は運動していくだろう…。

 ドストエフスキーの認識論的変化について明確に語っているのはバフチンだろう。バフチンには本当に沢山の事を教えてもらった。ドストエフスキーの世界というのは、カント的な意味での「事実」の放逐であり、世界のあらゆる物事は常に、自意識という鏡に映し出された像に過ぎない、という事だ。この自意識はプルーストの「語り手」のように単一のものではなく、それぞれの人物に割り振られており、だからこそ、それぞれの搖動する自意識は相互に影響を与え合っている。

 これまでにドストエフスキーに影響を受けた作家は沢山いただろうが、認識論レベルで影響を受けた人物はほとんどいないのではないかと思う。構造的に、ドストエフスキーと似ていると感じるのはサリンジャーだが、サリンジャーはドストエフスキーに直接影響は受けていないかもしれない。また、別の意味で構造的に近いのはセルバンテスのドン・キホーテだ。セルバンテスがドストエフスキーに影響を与えた事は明瞭に分かっている。

 ドストエフスキーが成した革命とは世界とは「自意識」という鏡に映し出された映像に過ぎないというものだ。よく考えれば、全ての物事は人間の意識、感覚、心理に還元される。誰にも目に見える判明な事実というのは、むしろ様々な自意識が、複合的に感覚的な客体として「想定」しているものであり、それは確固として外側に存在するものではない。今の小説の大半は、世界を「事実」として見る、単純な世界観でできている。そこではだから、テーマや登場人物や雰囲気だけを取ってきて「ドストエフスキーから影響を受けた」と言う事ができる。

 「地下室の手記」の主人公というのは、ほとんど規定しがたい人間だ。この人間の自意識は全てに反発しており、一様の定義を許さない。四十過ぎた作家がこのような混乱した小説を描かなければならなかったという事に、僕はドストエフスキーの巨大な才能を感じる。ある種の作家が、こじんまりとしつつもまとまった作品で賞を取ったりする事ができるのは、最初からその世界には明確な限界があるからであり、この限界の内部で技術を磨いていく事ができる、そうする事が無意識的に正しい、と信じられているからだ。ドストエフスキーはこれとは逆に、技術が作られていく際の、限界自体に対して突破しようと試みた。これは過去からの技術の破壊であり、事実の構成としてのリアリズムからの逸脱だ。当然、混乱した作品とならざるを得ないのだが、ドストエフスキーはそういう事をやった。

 「地下室の手記」の主人公の自意識はあらゆる事に反発するため、一様の定義を許さない。この人物は凶暴に自分の自意識を主張しようとする。よく、小説においても、あるいはタレントなどに対しても「性格」「キャラクター」という言葉が割り振られたりする。これを現実に当てはめると「天然キャラ」などである。しかしこの世にキャラクターなどというものが果たして存在するのだろうか。僕がある自意識を保有しており、人が僕に対して「この人はこういうキャラクターだ」と決めつけるとき、その人は僕の自意識の限界を強引に設定しているのではないだろうか。フローベールのボヴァリー夫人の描写が正確に成り立つのは、その中の登場人物よりも、それを描くフローベールが一段高い場所に立っているためだ。ボヴァリー夫人の中の人々は生活者であり、彼らは自分を疑わない。彼らが自分を疑い、自分の行為、心理を詳細に分析にかけ、己自身の願望と「あえて」逆の事をしてみる、と言えば、もうフローベールの世界は成り立たなくなるに違いない。しかしドストエフスキーの世界は正にそのようなもので、ドストエフスキーのキャラクターは、自らをある「キャラクター」と決めつける定義に抵抗しようとして、他者と相関する。自意識は常に自由だが、その自由にはどのような形で定義ができるのかという事にドストエフスキーは独特の方法で答えたのだった。

 話を進めよう。「地下室の手記」というのは、主人公の一人称の告白小説になっている。これは主人公の自意識を主張するには好都合だったが、この方式では描けないものがある。それは「他者」と「無意識」の二つだ。一人称の告白の場合、全ての物事は語り手の意識に吸収される。そこで語る事ができないのは、語り手の立場から見えない他者の内面と、語り手自身の無意識だ。語り手に対する他者の内面をいくら作品内で語ろうとしてもそれは単に語り手の推測に過ぎないという事になるだろう。これは現実的に考えれば簡単で、「僕」はいくら頑張ってもあなたの心の内を覗く事ができないという事だ。洞察する事はできるが、それはあくまでも洞察に留まる。

 同様に、語り手は、自らの無意識も描けない。語り手が語るのは自らの意識であり、語りそれ自体であって、仮に無意識を描こうとすれば、それは意識に上ってきた、過去に無意識だったものであって、それは意識に上った段階で無意識ではない。ドストエフスキーが「罪と罰」で三人称に移行したのは一つには、主人公の無意識を描くためだった。

 ドストエフスキーは「罪と罰」という作品で、三人称に移行した。これによって主人公の無意識と、主人公以外の自意識を描ける事となった。実はこの両者は同じものでなのではないかと僕は考えている。「カラマーゾフの兄弟」のラストで、イワンは自らの無意識と葛藤する事になっている。この時、イワンのかくれた言葉に対して悪意ある言及を行うのがスメルジャコフであり、これを天使のように言及するのがアリョーシャだ。アリョーシャとスメルジャコフは対をなしている。その後、イワンは自らが生み出した幻覚の悪魔と会話するが、これはイワンの中のかくれた言葉が具現化したものと見る事ができる。つまり、自己にとっての無意識とは、自己にとっての他者に他ならない。また、他者は、自己の意識と無意識を総体として受け取る存在である。僕達に他者が必要なのは、僕は僕の存在の一部分しか知覚できないからだ。これを存在まるごととして受け取るのは、「他者」だ。しかし、もちろんこれは普通の「他者」ではない。イワンに対して、アリョーシャやスメルジャコフという強烈に加工された、徹底的な内部考察力を持った他者であるからこそ、イワンに対する「他者性」として機能する。普通の意味での他者はほとんど他者ではないし、同一の信仰や同一のイデーに心酔している人間はむしろ、「地下室の手記」の主人公が自分で自分に対するほどの他者性も持っていない。

 人間とは自意識そのものであり、それ故にそれは無限に広がり、定義する事はできない。それぞれの人間が自分の自由を持ち、他者が自分に対してあてはめようとする定義に反抗する。「白痴」では、ナスターシャ、ムイシュキン、ロゴージンの三角関係が展開されるが、これは極端に言えば、狂人三人の、自意識の劇だ。この中で地に足をつけている人物は一人もおらず、彼らはラスコーリニコフのようにその可能性も示されていない。アグラーヤという女性が白痴には出てくるが、この人物だけが地に足を付け、ムイシュキンを正しく愛する事ができる。わかりやすく言えば、結婚して「良い奥さん」になりそうなのはアグラーヤだけだ。だが、現代人はみな、ナスターシャやムイシュキンやロゴージンの方に似ている。

 話がずれてきたので、「罪と罰」を基本ラインに据えてみよう。「罪と罰」は主人公ラスコーリニコフが殺人をする話だ。この殺人は、ラスコーリニコフの徹頭徹尾、意識的な加工である。ラスコーリニコフが、殺人という行為を行ったのは、彼自身が自分の内面的、自意識の地獄から抜け出るためだった、と考える事ができる。この行為は、それが行われる事によって、他人に対してラスコーリニコフの意識が見える事になった。この事は重要だと僕は考える。

 つまりはーー小説というものに「事件」が必要なのは、それが小説内で解かれる為だ。ラスコーリニコフは殺人という行為を行ったが故に、ラスコーリニコフという自意識の内面が外界に、一つの事物として目に見えるものとなった。つまりは、他者の意識に、ラスコーリニコフの意識は殺人という行為・事件を通じて可視化される。だからこそ、殺人以降のラスコーリニコフは「世界」の中で他者と相関する事を余儀なくされる。実際、人を殺すまでのラスコーリニコフは全て、内面的な自意識の告白で済む。しかしそれ以降は、それだけでは済まない。他者と己との関係を意識せねばならない。(これは作家にとっても同じだった) この事が始まる為には、「殺人」という誤った事件が必要だったのだ。

 ドストエフスキーの小説において「事件」とはおそらく、人間の自意識を外在化し、他者との関係を築く為に必要な物だった。ドストエフスキーの小説は大枠で見れば何らかの「事件」が起こり、それを「解決」する方向へ導かれる。しかしそれはあくまでも大枠での話で、この大枠の内部で、それぞれの自意識は「事件」を中心に関係する。いわば、何らかの事件を媒介としてそれぞれの自意識は自分のギリギリの内面的言語や、絶対的な行為をなさなければならない。見方を変えれば、ドストエフスキーは、それぞれの自意識の限界を露呈させる為に、わざと「事件」を起こした。ラスコーリニコフにとって得た金はどうでもよく、最初考えていた思想もむしろどうでもよかった。彼は世界に、世間に出て行きたかった。しかし自分の内面的自意識に閉じ込められて出て行く事ができず、どうしようもなくて殺人を行った。…そんな風に見る事もできる。

 ドストエフスキーの作品においては、イデーが描写の対象となっている。確かにバフチンの言う通り、この登場人物のイデーに、批評家はドストエフスキー自身のイデーを見つけようとするか、または批評家自身のイデーを発見しようと務めてしまっている。しかしドストエフスキーそれを「描いた人」である。描く人間は描かれたものとは違う存在だから、ドストエフスキーはそれらのイデーをまるで、過去における物質のように描写したのだった。ドストエフスキーはこれらを「描写」したのだが、人は未だにこれらの「内部」にいる。人は未だに、自分の正当性とイデーを他者との関連の中で主張しており、その思考方法を知らずにドストエフスキーにも当てはめてしまっている。しかし、そうしたイデーそれ自体が劇の構成要素そのものだというのがドストエフスキー自身の「イデー」だった。今はそんな風に見えている。

 後、付け足したいのは、ラスコーリニコフとは、自分自身のパロディだという事だ。彼が何度も漏らす台詞は「自分はこうなる事を知っていた。前から知っていた」というものだ。ラスコーリニコフは、自分がどうなるかを知っていた。彼の聡明は彼自身の行く先を「最初から」知っていた。しかしそれは無意識的なもので、意識はそれとは違うものを求めていた。普通の小説においては、当たり前だが、主人公は物語の結末を知らされてはいない。物語を統御しているのは、作者であり、主人公や登場人物は何も知らない事になっている。しかしラスコーリニコフは作者としての機能も兼ねており、彼は自分がどこへ行くかを知っている。彼の生きる哀しみとは全てを知っており、自分が何であり、どこへ行くかもわかっているにも関わらずそうしなければならない、という事だ。ラスコーリニコフは自白するが、本当は自白したくない。にも関わらず彼は「自白しなければならない」「ソーニャと会わなければならない」という事を「知って」いる。彼は最初から、物語内における時間それ自体を空間的に把握しており、それにも関わらず彼はそれをもう一度時間的に生き直すのである。ここにラスコーリニコフの悲しみがある。この事は僕は、現代人の生きる哀しみと繋がっていると考える。つまり、現代人もまた、全てがアーカイブ化され、あらゆる事に対して結論が出ているにも関わらず、その「生」をもう一度生きなければならない。この事にある哀しみが生まれてくる。そしておそらくはこの世でアーカイブ化されていないのはその哀しみだけなのだ。

 

 フローベールとドストエフスキーの描写の比較


 言葉の面から小説というものを考えみたい。
 
 小説というのは言葉でできている。言葉のみでできている。これは当たり前の事だが、本当に当たり前の事となっているのか疑わしい。僕らは「小説」という言葉を聞くと、すぐにストーリーや登場人物の事を思い浮かべる。しかしそうした事は当然映像作品でもできるし、もしかしたら映像作品の方がよりうまく表現できるかもしれない。

 小説が言葉でできている、とは小説というものの根本的な構造にどう作用するのだろうか。僕は既存の小説家がすぐに「お話を作る人」に落ちていくのを見てきたが、彼らに大して不信感を持っているのは、彼らが言語の抵抗を忘れる事で、彼らの「お話」は成立しているのではないかという気がしてならないからだ。

 小説というのは言葉でできている、という場合、言葉はどのように使われているのだろうか。色々考えられるが、大論文を書く気はないのでイメージしている事だけ適当に言ってみる。例えば、フローベールのような描写

 「シャルルは患者をみに二階へ上った。見ると病人はベッドに横たわって、ふとんをすっかりかぶって汗をかき、ナイト・キャップをずっと遠くへ投げ飛ばしていた。五十かがらみのでっぷりした小男で、顔は白く眼は青く、額ははげあがり耳輪をはめていた。」
 
 こうしてこの文章だけ見ていると、この手の文体は今の作家も普通に使っている事がわかる。フローベールの描写というのは、、フローベール自身が安定した土台の上に立ち、神の視線に立って、物事を映し出す事ができるという前提に立っているように見える。ドストエフスキーとくらべてみよう。

 「そう言うと、彼女は疲れきったような、けだるげな眼差しをじっと彼に注いだ。シャートフは部屋の反対、五歩ばかり離れたところに、彼女と向い合って立ち、おずおずとながら、何か生まれ変わりでもしたように、これまでについぞない輝きを顔に浮かべて、彼女の言葉に耳を傾けていた」

 以上、あげた文章だけで二人を比較するのは無理な話だが、僕自身の意見を提出するために、恣意的に引用したと、この記事を読んでいる人は考えていただきたい。元々、文学研究的に公平に比較するつもりはない。

 さて、こうして見てみると、両者はだいぶ違うように思う。ドストエフスキーとフローベールの文学、どちらが世界に影響を与えたかと言うと、おそらくはドストエフスキーの方が読まれもし、影響も与えただろう。しかし、今の作家が、どちらの文体を採用するかと言うと、フローベール的文体の方が圧倒的に楽だろう。もちろん、フローベールのような精度と高さには到達できないにしても、の話だ。

 フローベールの方法は僕にはそもそも、知識人というものと大衆が分離しているからこそ可能な視線の行使ではないかと思う。描くべき対象と、描かれる対象とが整然と区別されていて、それは知識人と大衆との分離に対応している。フローベールが書斎から世界を眺めた時、世界は明瞭な形で見えた。フローベールの文体の背後には、確固として揺るがないフローベールの視点がある。これは透明で直線的な光線のように世界に光を当てる。この時、人間の精神は事物の中に現れている。ここでも、明白な哲学があるように見える。つまり、個人の精神性は外側に肉体として現れるわけだから、肉体の描写の精細を強めてやれば、自然とその内側も描写される。…もっとも、僕はフローベールの事をよくしらないので、勘違いしている可能性も高い。

 一方、ドストエフスキーの視線は歪んでいるように見える。ドストエフスキーが文学の世界において無類の光芒を放っているのは、ドストエフスキーが彼の視線自体を一から作り上げなければならなかったという事情に原因があるように思える。上記の「悪霊」の描写では、その描写によって、シャートフの女、マリイの魂を描いている。ドストエフスキーの目にはほとんどマリイの顔形は映っておらず、マリイの魂しか映っていない。
  
 「悪霊」のマリイというキャラクターは、ドストエフスキーの筆致を見る限り、平凡なキャラクターだ。しかし、マリイは決して平凡に見えない。マリイはスタヴローギンに騙されて、スタヴローギンの子を身ごもっている。マリイは出産直前に元の恋人シャートフのところに戻ってきて、最終的にはシャートフと和解する。このプロットだけ見ると、それはただそれだけの事だが、マリイがシャートフと和解する前の、マリイのシャートフへの嫌悪、憎悪は明らかにドストエフスキーが誇張して、彼女の魂を徹底的に描き出す為に彼が作り上げた独特の方法である。マリイはもはやシャートフを愛している事が明確であるからこそ、シャートフから離れた自分を許せず、だからこそ彼への憎悪を浴びせかけているのかもしれない。あるいはあまりに優しく、平凡で、柔和にすぎるシャートフに腹を立てているのかもしれない。いずれにせよ、憎悪と愛は紙一重であって、この矛盾をドストエフスキーの登場人物は生き抜いてみせる。
 
 この事はカフカなどと比較可能だろう。カフカの「変身」では、カフカ自身の憎悪と愛情のジレンマは、主人公自身が虫になり、なおかつ人間であるという矛盾として表出される事になる。カフカの小説が幻想的であるにも関わらず、現実的な印象を与えるのはそれがカフカの魂と完全に一致しているからだ。ただ、カフカはこのジレンマの処理を、最終的には、虫=人間、の主人公が排除されるという風に描いている。カフカ自身が人生上、このジレンマを処理できなかったように、作品のうえでも未解決ままに終わってしまっている。(終わらざるを得なかった) そういう印象を受ける。

 さて、この時、ドストエフスキーやカフカのラインは、フローベールのようなリアリズムとは違うかもしれない。しかし、それはそもそも、僕達がリアリズムというものを狭義に設定している故に生まれてくる誤解に過ぎないと僕には思われる。マリイやシャートフの姿をフローベールが描けば、確かに現実に生きている平凡な人間となっただろう。では、ドストエフスキーはそれを誇張して書いたのだろうか。例えば、普通の素人には見えないモノが、その道の玄人には見える、という事がある。地層に詳しい人が、崖の断層を見るとそこに様々な情報を読み取るが、素人にはただの断層としか見えないーーという事はきっとあるだろう。そのような場合、地層に詳しい人は情報を「誇張した」とは言わない。彼は単に、正確に事実を把握したに過ぎない。このように、主体の内部の豊富さにしたがって、外界の豊かさも決定されてくる事になる。

 さて、最初は言葉の面から文学を考えると言ったにも関わらず、結果的には全然違うところに来てしまった。言葉の面から考えるのは、次の機会としたい。それで、とにかくーー小説というものを簡単に振り返ってこの論は終わりにしたい。

 フローベールの視点というのは、おそらく、他の作家にも真似やすいものであると思う。その視点を採用しつつ、現実を描き、そこに過不足のないキャラクターや物語を盛り込むという事はできる事だ。今の小説の主流はそれではないかと思っている。これを直木賞的に、ストーリー重視的に持って行っても、卑小な個人生活を描いていく芥川賞的に持って行っても、事態はさほど変わらない。

 しかし、それはそもそも、描く対象と描く作家とが明瞭に分離している前提の元に成される技なのではないか。現代においてこうした、写実的方法によって世界を描いても、世界全域を描いているという感覚を受けないのは、現代社会において、個人というものが生活を営む静的な存在ではなくなかったから、と僕は見ている。生活している人と、生活を見る視線とはかつてのように明瞭に分離できなくなった。現在では、生活者は同時に、批評家でもあり、作家でもある。知識人でもあり大衆でもある。

 ドストエフスキーの方法は、人間を誇張して描いているように見えるが、彼はむしろ、人間の魂を写実している、と考える事ができる。彼の写実は、彼の視線が外面を突き破り、内面を見てしまう。マリイがシャートフに大して嫌悪を示すのは、彼女の愛をより正確に描写する為に必要な段階だった。また、ドストエフスキーの登場人物はそれぞれがそれぞれの定義に大して食って掛かる。マリイの嫌悪もそうだが、他人が自分に大して一義的に当てはめた定義に反抗しようとする。その極端な例がラスコーリニコフであり、イワンであり、スタヴローギンだ。これらの人物は他人の定義に反抗しようとし、ラスコーリニコフはその挙句に殺人までする。彼らの天邪鬼は例えば、フローベールの小説の登場人物が、フローベールがそれぞれに当てはめる定義に大して、全力で反抗する様のようである。もちろんそうなると、フローベールの小説、小説観は成り立たなくなる。しかしドストエフスキーの小説は正に、「そうした世界」を描いたのだ。

 フローベールとドストエフスキーの比較になってしまったが、この論はここで終わる事にしようと思う。文学を言語の面から考えるという事はまた次にやりたいと思う。自分の頭にはバフチンや吉本の言語論があって、それを僕の文学観とつなげてみたい。



魔法少女まどか☆マギカの作品構成分析

 


 今、虚淵玄のサンダーボルトファンタジーという人形劇(ほぼアニメ)を見ているが、非常に面白い。それで、今回は虚淵玄の以前の作品、大ヒットした魔法少女まどか☆マギカの作品構成について考えていこうと思う。(サンダーボルトファンタジーはまだ途中なので) もっとも、まどか☆マギカだけに話をしぼらず、ストーリーのある作品構成をどうするかという全体的な話にも触れる。

 まず、まどか☆マギカを見ると、虚淵玄は力のある脚本家だという事はわかる。まどか☆マギカの時は、女の子数人のグループが、大きな圧力と闘いながら、葛藤する所が描かれていた。

 キャラクターから考えると、例えば、「美樹さやか」は、普通のアニメキャラクターより彫りが深く描かれている。彫りが深いというのは、他の通常のアニメなら回避するであろう人間の醜い部分もきちんと描けている、描こうとしているという事だ。美樹さやかが好きな人を取られて「魔女」に堕ちていく過程は文学的に見れば、まどか☆マギカの中で一番良い所だろう。

 まどか☆マギカでは、そのように少女達の葛藤は非常にうまく描かれていた。登場人物それぞれに特徴的なキャラクター性があって、それぞれの個性がしっかり描かれていた。一番むずかしいのは主人公のまどかだが、これはごく普通の女の子で、実は一番むずかしい。悠木碧はむずかしい役をしっかり演じきったと思う。

 しかし、まどか☆マギカには欠点があった。自分はそう見ている。それは、サイコパス一期にも共通していて、終わり方がまずいという事だ。特に、まどか☆マギカのラストは納得できるものではない。

 まどか☆マギカのラストで主人公の鹿目まどかが、キュウベエに願いを叶えてもらって、メタ概念みたいなのになって全てを解決するという事になっている。アニメ見ていない人には意味不明だろうが、これを読んでいる人はラストまで見たという前提で話を続けたい。

 ここを見て、首をかしげたという人は結構いるんじゃないかと思う。少なくとも自分は首をかしげた。最後にまどかがキュウベエにそんな願いを叶えてもらうというのはいわば…作品としてのルール違反と感じたのだ。

 バトルアニメというのは通常、何らかの形で主人公が論理的に相手に勝つことが要請される。もちろん、その論理は完璧である必要はないが、例えば、全て偶然で決着がつく戦いというの見ていてつまらない。しかし、ある程度の偶然で相手に勝つというのは見ていても許容できる。現実においても、偶然が問題を解決する事はありうる。…とはいえ、全て偶然ではこまるから、何かしら、相手の弱点を見つけたり、主人公が何かのきっかけで成長したり、戦略を練ったり、というような何かの「過程」がなければならない。過程がなければ、相手に勝つ勝ち方にカタルシスが生まれない。これは「ジョジョの奇妙な冒険」とか、「カイジ」辺りを見てもらえればわかりやすい。

 さて、それではまどか☆マギカのラストはどうだろう。まどかはキュウベエに願いを叶えてもらうという形で概念化して全てを得るに至る。しかし、「そんななんでもあり」というのは、作品内の構成としてどうなのだろうか。例えば、まどかがもう一度この宇宙をやり直して、新たな宇宙を作り出したい、その時、人間は死をなくし、永遠に生きられるようにする、とか望めばキュウベエはそれを叶えてくれるのだろうか。というか、どうしてキュウベエはまどかの願いを拒否できないのだろうか。こんな風な「なんでもあり」に出会うと、ルール違反であるような気がする。何故そんな気がするかというと、作品全体が生み出された土台そのものがひっくり返される事が可能だという事が、作品内で示されてしまっているから、だろう。なんでもありは本当になんでもあり、なので、作品そのものが演じられている、フィクションの土台を作り変える事すら可能になってしまう。そしてまどかは実際にそういう願いを叶えてしまった。

 しかし、こういうメタな、概念レベルでの解決しかできなかったのはそもそも、最強の魔女「ワルプルギスの夜」が『絶対に勝てない敵』と定義されてしまっていたからだった。『論理的には絶対に勝てない敵』にたいしては論理外のメタなポジションに立たなければ勝てない。それで、作品のラストはあんな構成になってしまったのではないか。自分はあの作品のラストには、不満を感じる。

 例えば、これをシェイクスピアの「マクベス」とくらべてみる。マクベスは最後に、自分のライバルに打たれるのだが、シェイクスピアは巧妙に劇としての構成を作っている。マクベスは魔女から「女の股から生まれた者には負けない」という宣告を受けていた。魔女の予言は全てあたっており、人間の中に、女の股から生まれてこなかった人間はいないから、マクベスは自分は絶対に負けないと確信する。しかし、ライバルと最後の決着をつけるにあたって、ライバルのマクダフは、「自分は帝王切開で生まれてきた」と言う。つまり、「女の股から生まれた者には負けない」という宣言には落とし穴があり、マクダフは股から生まれたのではなく、女の「腹」から生まれてきたのだった。マクベスは自分が魔女に裏切られた事を知り、マクダフに討たれる。この構成は巧妙だ。

 シェイクスピアは、マクベスに大して、一見、「絶対に負けない」ような見かけを作るが、その裏で密かにそこに穴を作っている。例えば、ジョジョの奇妙な冒険三部のラストでも、ディオは最強に見える。彼は時間を止める能力を持っているのであり、これに叶う能力など考えられない。しかし、承太郎は

 ① 相手の能力が時間を止める事だと認識する
 ② 止まっている時間の中で目だけ動かせるようになる
 ③ 止まっている時間の中で一瞬動く
 ④ 自分が時間を止め、ディオを倒す

 というように、段階を追って、ディオに到達するようになっている。ここには荒木飛呂彦の工夫が見られる。またここでは承太郎の能力が正確さとスピードさに特化していたという事も、加味しなければならない。承太郎のスタープラチナのスピードが臨界点を越えると時間が止まるーーというようなイメージも作る事ができる。承太郎が作品ラストで急に時間を止めるのはやや性急にも思えるが、荒木飛呂彦はしっかりとその過程を描いて、最後のディオ打倒に説得力をもたせている。

 まどか☆マギカは結果的には大ヒット作になったわけだが、そういうラストの部分は弱いのではないか、と自分は思っている。「ワルプルギスの夜」自体が、人格性を欠いた存在だというのも、「弱点を見つけて戦う」みたいな事がやりにくくなっている要因ではないか。また、少女達に絶望感を持たせる設定を強くしすぎた為に、それを覆す最後のどんでん返しがかなり強引な手法になったとも感じられる。サイコパス一期のラストも自分は疑問を持ったので、サンダーボルトファンタジーでは、うまく収まる事を虚淵さんには期待したい。

                               ※

 この原稿を書き始めた当初はまどか☆マギカの話はちょこっとして終わらせるつもりだったのが、書いているうちにまどか☆マギカの作品分析になってしまったので、このまま最後まで行く事にする。

 まどか☆マギカという作品を思い返して、一番に思い浮かぶのは、暁美ほむらというキャラクターの内的葛藤ではないか、と思う。作品を見通すと、実質、ほむらが主人公のようにも思える。

 暁美ほむらはまどかを救う為に、時間を何度もループして、戦い続ける。暁美ほむらは無限ともいえる長い時間を何度もループして、孤独な戦いを続けてきたのだった。

 まどか☆マギカという作品を優れた作品にしている重要な要素の一つは、この暁美ほむらの孤独な戦いにある。普通に分析してもいいのだが、ここでは現在性というものつなげて考えたい。

 暁美ほむらが、時間の中でループして戦い続けるというのは、ヒットアニメ(ゲーム)・シュタインズゲートと似ている構成だ。また、涼宮ハルヒの消失とも同じような構成と言える。いずれも、時間の中をループしたり、一人だけ違う世界に飛ばされ、世界を元に戻すために苦闘する。

 ここで重大な事は、『真実を知っているのは自分一人だけ』という事だ。上記のサブカルチャー作品が、ただ面白い、楽しいというだけではなく、現在に生きる人が共感できる要素を持っているのは、この点が原因だと自分は考える。これを「疎外」という問題から考えてみよう。
 
 かつて、「疎外」とは歴史的、社会的文脈において編み出されたのだった。例えば、女性が男性に虐げられていたとか、極貧の人間は虐げられていたとか、あるいはある社会階層で、その出自からいじめられきた、など…。それらの「疎外」はかつて、社会的、歴史的な文脈で行われていた。しかし、現代においてはどうだろうか。

 インターネットでは「ぼっち」という言葉が頻繁に使われている。(ひとりぼっちの「ぼっち」) 「ぼっち」という言葉はネガティブな意味で使われているが、それは現代の状況ではむしろ必然的なものではないか。自分が考えたいのは次のような事だ。つまり、現代はネットなどを通じてあらゆる知識、幻想を身につける事となった。これまでの社会では、例えば同じ偏差値とか、同じ地域には、同じ幻想性とか、知識が共有されていた。わかりやすく言えば、「関西人は阪神ファンが多い」みたいな事だ。ここから「巨人ファンは疎外される」のような事実が生み出される。そういう事が考えられる。

 しかし、現代では人は一人、自分の部屋に閉じこもってあらゆる幻想性を身につける事となった。人はネットを通じて世界と直結する。そこで個人は自分の望む幻想をいくらでも拡大する事ができる。そうなってくると、生活世界との間に齟齬が生まれてくる。例えば、学校のクラスメートよりも、ネットで知り合った遠くの人との方がはるかに気が合う、趣味が共有できる、という場合も出るだろう。現在では言葉の壁があるので、まだ日本人は日本人と価値観を等しくするだろうが、その内、自国の隣の人よりも、フランスにいる同じアニメが大好きな〇〇さんとの方が気持ちがよく合う、というような事が起こるかもしれない。その場合、僕達は空間を乗り越えて、自分達の幻想性を元にもう一つの、違う世界を作ろうとしているのだ。その際、学校とか職場とかいう今までの、同じ価値観を共有していたはずの世界は古い世界となり、そこではむしろ、自分の言葉が通じない空間となってしまう。

 まどか☆マギカの暁美ほむら、シュタインズゲートのオカリン、涼宮ハルヒの消失のキョン、これらの人物はいずれも「今までと違う世界」で一人で、世界を元に戻すために苦闘する。この時、僕達はこの孤立に共感するが、それは元々、僕達の中に潜在していたのものではないか、と僕には思える。自分一個の幻想性が、ネットなどを通じて膨らみ、巨大化し、それは学校、職場、家庭、地域コミュニティのような、それまで主要だった世界と全く違うものになってしまう。自分の知識や幻想性が自分の欲望ととけ合い一つになって、それが巨大化するに従い、それまでの生活世界との乖離に悩まされていく。それでは、この狂った世界を元に戻す事ができるのだろうか?

 しかし、この問題にはこれ以上首を突っ込まない事にしよう。僕が言いたいのは上記あげたような作品に僕達が共感できるのはおそらくそんな風な社会的下地があるからだ、という事だ。これまでのように「疎外」というものは、社会における空間的なものとして現れるのではなく、むしろ個人の中の幻想性として、いわは平和な世界の中に別の世界が重ねあわせるような形で現れるものとなった。個人の思想、哲学、幻影は一見社会の中で平穏に生きている人のなかで極めて狭隘なものになる可能性がある。それは、知識を我々が自由に手に入れられ、自分の好きな幻想を自分の脳内で加工できるようになった所からスタートしている。まどか☆マギカ、シュタインズゲートなどでは、平穏な世界に暴力的な世界が隠されていたり、時間の裏でそれが起こっていたりする。その事は、我々が世界の中の真ん中とか端とか、頂点とかが問題ではなく、むしろ、二つの世界が同時的に重なり合ってい事を意味している。まどか達が戦うのは我々の平穏な世界の、その「裏」だ。この「裏」は実は平和に飽いた我々が作り出したもう一つの暴力的な幻想世界として考える事ができる。例えばネットの炎上、叩きの苛烈さのように。

 まどかやほむら、オカリンは「裏」の世界で苦闘するが、その事は「表」の人達は知らない。「表」の人達は他人という以上に、違う世界の人だ。我々が孤独を感じるのはもはや疎外された社会集団内ではなく、それぞれが生きている異なった世界において、だ。そしてその世界とは我々自身が自分の脳内で作り上げたものだ。フィクションの中ではそれは具体化され、「自分達だけが見えているもの」とか「異なった時間軸」において表される。そんな風に考えることもできる。

 ついでに言えば、ペルソナ4、ペルソナ3でも同じ事態が起こる。世界は狂っているが、その事を知っているのは自分一人か、自分の仲間達だけ……ここでは疎外の概念が表されている。そして、疎外された者でなければ、物語の主人公である資格はない。言い換えれば、物語の中の主人公とは、社会と離反し、己の孤独を抱えているという点で必ず狂気性を抱いている、と言う事ができる。他者からは狂人と見えるが、己からは世界が狂気と見える。セルバンテスのドン・キホーテは、上記の作品よりもはるかに幻想性と現実性をかね備えた傑作だが……深入りするのはやめよう。自分の言いたいのは要するに、上記の作品の主人公の疎外に僕達が共感できるのはそれなりの意味があるのではないかということだ。
 
                             ※

 後、言うべき事があるとすれば、『敵』の問題だ。これを自分は少し特殊な見方をする。

 自分は、エヴァンゲリオンやまどか☆マギカにおける敵(「使徒」、「魔女」)が非人格的な、絶対的な悪であるかのように描かれている事はかつての達成からの後退だと思っている。かつての達成とは、富野由悠季の「機動戦士ガンダム」あるいは「イデオン」だ。

 「ガンダム」や「イデオン」では、敵は相対的なものとして描かれていた。敵と呼ばれる者が、味方である自分達と同じように痛み、苦しみ、悩んでいる複雑な存在だという事ははっきり示されていた。僕の憶測では、富野由悠季は戦争の事を考えていたのではないかと思う。かつての二次大戦の時、人間が敵を絶対悪と想定した……その事に対する反省があったのではないか、と思う。一方、富野よりも後の世代に生まれた庵野秀明、虚淵玄は、敵を絶対的なものとして想定してしまった。ここで、ドラマは一元的に、平板化されてしまった。自分はそう見る。しかし、こちらの方が視聴者には受け入れられやすいのだろうと思う。どこからかやってきた巨大な、絶対的な悪が人間を襲うという設定は、その悪を討つ自分達の善意、正義を素直に肯定してくれているかのように感じる。敵と味方が相対的だと、いわば爽快感がない。しかし、爽快感を取り、敵ーー味方の相対性を捨てるのは、ドラマとしてみれば一歩後退だと自分は考える。僕のこういう考えは少数派だろう。人が絶対的悪を想定したがるのは、現代の平和への倦怠、自分へのいらだちがあるためではないか。破壊衝動が、正義という見かけを取って現れるとき、我々は容易く色々なものを絶対的な敵として想定してしまう。平和な社会に生まれ、平和な世界に生きているからこそ、絶対的な敵を想定したがる我々の心性は興味深いものがある。

 ただ、今は、シナリオの全体の構想を富野由悠季、虚淵玄、庵野秀明という個人名に被せてしまった。実際は商売がらみなので内部で色々あると思う。別に個人攻撃をするのがこの文章の目的ではないので、「とりあえず」そういう個人名にシナリオを還元した、という事は言っておきたい。具体的には会社の指定とか、色々な兼ね合いがあるだろう。

 まどか☆マギカという作品は元々そのように、「敵」を絶対的なものとして想定していた。だからこそ、それを上回る最後の結論はメタ的な、作品の土台を壊すような強引な解決方法となってしまった。この辺りは、バトルアニメなどは考えなくてはならない点かもしれない。最初に風呂敷を広げて、「敵」を巨大に強いものにするのは簡単だ。絶対に勝てない敵、を想定するのは簡単で、それで読者を威嚇する事はできる。まどか☆マギカはそこから、少女の絶望をうまく描く事ができた。しかし、まどか☆マギカは少女の絶望を描くのは上手でも、救済の方はうまく描ききれなかった。そこにカタルシスはうまれなかった…と僕は見る。これは虚淵玄の今作、サンダーボルトファンタジーではうまく解決される事を期待したい。


                              ※
 
 さて、これまで色々な事を、まどか☆マギカという作品を中心に語ってきたが、思ったより分析できなかった気がする。まあ、予想通りと言えば言えるが。

 あと付け足す事があるとすれば、まどか☆マギカはペルソナ4などと同様に、穏やかな学園生活をしっかり描けているので、その反転としての死、残酷さ、裏の世界などの切り替えがうまく効いている。穏やかな世界の描写を適当に切り上げると、その裏面である真っ黒な世界が際立たない。最初から残酷さや不気味さばかりを表に出した作品は、製作者が意図しているほど残酷だったり不気味だったりしない。これは裏表、陰影をうまく使えていないからだろう。(単純化しすぎかもしれないが)

 それと、まどか☆マギカに限らないが、今の日本のアニメは大抵、学園物となっている。これはオタク(僕含めた)が、JKやJCが好みだという嗜好的な要因があるのだろうが、もう少し掘り下げて考えると、今の日本には、たいていの人が共通して経験する「場」が高校や中学くらいしかない、という事が考えられる。非正規労働が増えている今、サラリーマン漫画などは共感しにくくなっている。ある程度自意識が発達していてドラマが作れて、なおかつ誰もが一応は体験しているだろう場は、中学、高校辺りに求めるしかない。そういう要因もあって今は学園モノが多いと思う。しかしおそらく、もうすぐにでも、学園という「場」も誰もが共通に体験する場ではなくなるだろう。僕はそう見ている。そうなった時、人々が見ていて素直に共感できるドラマ、それが展開する「場」はどこになるのか。今、この答えをはっきり出している人はほとんどいないと思う。今はズルズルと後退して、かろうじて学園がドラマの場となっている状態だ。先の事はわからない。

 さて、自分がまどか☆マギカという作品を通じて言いたい事はあらかた言ってしまった。この論考自体は元々、まどか☆マギカを論じるつもりではなかったがなんとなくダーッと書く事になった。今、虚淵玄のサンダーボルトファンタジーという人形劇がやっていて非常に面白いので、話の皮切りにと、まどか☆マギカを出したらまどか☆マギカ論になってしまった。まあ、自分が言いたい事は、サンダーボルトファンタジー面白いので、虚淵さんに最後まできっちりうまく締めてもらいたい、という事だ。しかし、サンダーボルトファンタジーは面白いけれど、多分、ブルーレイあんまり売れないんだろうな…とも思う。面白い作品を作ったからといって売れるとは限らない。ということで、最後に、サンダーボルトファンタジーが面白いよ!という宣伝で、この論考は幕を閉じる事にする。

ベラスケス 「ラス・メニーナス」

Las_Meninas,_by_Diego_Velázquez,_from_Prado_in_Google_Earth


                            はじめに


 ベラスケスの「ラス・メニーナス」の批評をやってみようと思う。絵画に対してはあまり詳しくないのだが、自分の論理がどこまで通用するか試す感じでやってみる。(時代背景考えず、抽象的にやる) もとより、余技としての批評ではある。

 さて、「ラス・メニーナス」を見てみよう。この絵画をじっと見ていると、不思議な感覚に打たれる。きっとこの絵画の批評を書いた人は自分の中のこの不思議な感覚をなんとか言語化しようと試みたに違いない。まずそんな考えが頭に浮かぶ。

 ラス・メニーナスは室内画である。しかし、室内画なのに、不思議にこの空間は手前側と向こう側の二つの空間に開かれている。室内画であるのに、この絵は非常に豊かな重層性を感じさせる。この重層性は画家ベラスケスの論理的な精神を感じさせる。
 
                            扇型の空間

 まず、目を付けるべき一番大切なポイントは左手にいる画家だろう。この画家ーーベラスケス自身はこちらを向いて絵筆を持っている。目の前には大きなキャンバスがありキャンバスはこちらに背を向けていて、見えないようになっている。

 元々、絵を見るとはどういう事か。そこから掘り起こして見よう。自分のウィトゲンシュタイン論から引用してみる。

 「一枚の風景画を想像して欲しい。山の絵でも川でもなんでもよい。その時、我々はそこに語られず(描かれず)示されているものを想像する事ができる。それは画家の視点である。画家の視点は、絵画から逆算して想起する事ができる。しかし絵画の内に、画家の視点、そして画家自身は描かれない。たとえ、この風景画に絵を描いている画家自体を描いたとしても、その絵を描いている画家自体は描く事はできない。つまり、描く「手」は描かれるものとは違うものである。」

 上記の引用で、僕は「主体」を明らかにしようとしていた。つまり、主体とは語られず示される。主体とは絵画においては、作品内部に現れずに、それを描く画家の事である。画家の存在は絵を通じて、描かれず、示されるのである。この事は、ベラスケスのように、メタなポジションを取っても変わらない。描かれた画家を描く画家(ベラスケス本人)を描く事は、やはりできないのである。

 もう一度、絵を見てみよう。左手にいるベラスケスはこちらを見ている。こちらを「描いている」。しかし、彼を描いた当のベラスケスは、一体どこにいるのか。絵の中のベラスケスを描いたベラスケスは、絵画の「こちらがわ」にいる。この時、私達は「こちらがわ」のポジションに立って、絵を見る。すると、すでに不思議な事が起こっている事に気付くだろう。つまり、私達は見る存在であると同時に見られる存在ーー描く存在であると同時に描かれる存在だという事になる。これは散々指摘されただろうが、考えると非常に不思議な点だ。

 しかし、それだけでは、この絵画の不思議さは説明できない。上記の説明だけだと、画家がこちらを向いて絵を描いているという構図だけで十分だろう。ラス・メニーナスにはまだまだ不思議が眠っている。

 画家ベラスケスは僕らから見て左手にいる。中央にいるのは王女であり、その位に応じて、中央の一番光が当たる位置にいる。王女は鑑賞者の視線が最も集まるポジションにいる。王女の側には二人の侍女がいる。右側には小人が二人いて、足元には犬がいる。この時、ベラスケスは見えない主体(鑑賞者)を中心にして、扇型の空間を作っている事に注意しよう。図にしてみよう。
 
        扉・男
    鏡・夫妻     
              
             男、男2
 画家 女官 王女 女官 小人 小人
キャンバス         犬
   \          /     
     \       /
       (鑑賞者)  

 後で使うので、後ろの男も書き込んでおいた。さて、この時、見えない主体をぐるりと囲むように、扇型の空間が現れている。この扇型の空間の支点に当たる所に鑑賞者がいて、鑑賞者は見えない。絵の外部にいて、なおかつ絵に対して決定的に重大なポジションを占めている。

 この時、扇型の空間の「外部」に後ろの人間はいる。特徴的なのは、扇の背後の、鏡に映った王夫妻であり、扉をあけている男だ。後で詳しく述べるが、この二つのポジションは扇型の空間の「外部」にいる。扇を形成している人はこちらを向いているか、横を向いているかで、背後の人には気づいていない。だから、背後の存在(特に、扉を開けている男)の、空間の異質性は強調される。扉を開ける男は周囲が暗いのに一人だけ光を受けている。この男の存在を知っているのは、扇型の空間の支点の鑑賞者(私)だけであり、扇を形成している少女達は彼を知らない。だから、男の異空間性はいやでも強調される事になる。

 この扇型の空間を形成する方法を、ベラスケスは他の絵でもやっている。ベラスケスに「アラクネの寓話」という絵がある。ここで、ベラスケスはいわば、ラス・メニーナスに到達する寸前の段階の手法を僕達に開示している。「アラクネの寓話」でも同じように手前に、鑑賞者を支点とした扇型の空間を形成している。扇の弧の部分には糸を紡ぐ女達がいて、その奥にはまた別の人達ーー別の空間があるーーという方法である。

 「アラクネの寓話」は、後ろの空間に光を当てて、背後の空間の異質性が強調され、手前の扇型の空間との違いが示されている。これは「ラス・メニーナス」と共通している。しかし、「ラス・メニーナス」にあって「アラクネの寓話」にないものはこちらを見て絵を描いている画家であり、また、明暗の使い分けだ。こちらを向いている画家がいるからこそ、ラス・メニーナスには「アラクネ」にはない空間の二重性ーー描かれるものと描くものとのーーが現れている。また、ラス・メニーナスでは明暗をくっきりと強調させる事により、特に最後方の男の扉を開ける光が強調されている。この最後方の男が開けている扉は、前面の様々な効果が前提されているおかげで、強烈な効果を生んでいる。表面的には、真ん中の王女が一番スポットライトを浴びているのだが、実はもっとも重大なポジションを占めているのは背後の扉の男ではないかと僕は考える。

 伝記的な詳しい事は知らないが、ベラスケスは宮廷画家であり、官史でもあったから、王女を一番目立つ所に置かなくてはならないという事情があったのもかしれない。しかし、ラス・メニーナスにおいて真ん中の王女は傀儡であり、この絵は見るものに不思議な空白感を生んでいる。ベラスケスの描く肖像画は皆こちらを向いて、非常に透徹とした視線を見せている。この視線はまるで、現実を乗り越えてもう一つの世界を見ているようなーーもう一つの宇宙を見ているような、そんな錯覚を起こさせる。おそらく、ベラスケスの内部にあった空白の宇宙は、「ラス・メニーナス」という大画によって始めて完成された、閉じた円環を持ったのだろう。中央の少女は傀儡であり、ベラスケスが本当に描き出そうとしているものはそれとは違うものに見える。もう少し、詳しく見ていこう。

                      夫妻の鏡面、ミシェル・フーコー

 言葉は不器用だから、一つずつ要素を潰していこう。まだほとんど言及していないポジションで、鏡に映った左手の王夫妻がある。これは、調べた所、王夫妻の視線は鑑賞者の視線と一致するらしい。つまり、絵の中のベラスケスが見ている鑑賞者は、王夫妻という存在として、鏡面に写り込んでいる。簡単に言えば鑑賞者=王夫妻という事になるらしい。

 美術批評の世界がどうなっているのか全く知らないが、この辺り、僕は自分勝手に考えたい。僕は、王夫妻と鑑賞者をイコールとは考えたくない。何故かと言うと、そうなると、不在、空白としてもっとも謎めいた存在である鑑賞者(主体)にわずかに実体の影が射してしまうからだ。不在としての鑑賞者こそが最も重要なポジションを占めるというこの絵の不可思議さを考えると、鑑賞者にこうして実体がわずかでも与えられると、この絵の神秘性は損なわれてしまうように感じる。そういうわけで、美術批評の事を考えず、(あくまでも個人的に)王夫妻と鑑賞者は違うものとして考えてみたい。ただ、鏡面に映った王夫妻は、手前の扇型の空間とは違う、別の空間を告知するものとしては、隣の、扉を開けている男と同じように、空間の多重性を形成する事に役立っている。王夫妻はこちら側を見つめており、それはこちらを見ている王女、画家、小人、扉の男と共に、不在の鑑賞者を指し示している。こちらを見ている人間は絵画の左右にきっちり配置されており、その為に我々は「見られている」という感じを強くする。この時、三つの異なった空間があり、①扇の弧の部分の三人 ②鏡面の王夫妻 ③ 扉の男 である。このように多重的空間がこちらを指示しており、それが絵の複雑さを増している。王夫妻の鏡面はその空間の一つを占めている。

 全体の構成については簡単に触れられたので、「ラス・メニーナス」という作品のイデー自体に迫ってみよう。つまり、この絵を見た時に鑑賞者が感じるだろう「不可思議な感覚」に自分なりの言葉を当てはめてみたい。

 叩き台に、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの「ラス・メニーナス」論を使ってみたい。フーコーの批評は例によってわかりにくく、まどろっこしいのだが、どっちにしてもフーコーが自分の歴史哲学を象徴させるものとしてベラスケスの絵画を使っている事は明白である。
 フーコーは「ラス・メニーナス」という絵画を時代の「継ぎ目」を象徴していると考えている。彼はそう本気で信じているというよりは、「歴史断層」という自分の哲学を代表させる為に、ラス・メニーナスという絵画を引用している。

 フーコーの「知の考古学」「エピステーメー」という基本的な歴史哲学のスタイルは反ヘーゲルとして生まれたものだと思う。元々、フーコーは共産党にいて、後、共産党やマルクス主義にうんざりしたのだった。ソ連やマルクス主義にうんざりしたという所から、それらの哲学を知的に中和しよう、修正しようという意向が生まれ、ドゥルーズやフーコーのような抽象的な概念を利用する哲学が生まれた。つまり、哲学と政治とを再び分離させようとする、しかし、哲学と政治とは互いに緊密な対面状態にあって、それらはマルクス主義のように合流して一つにさせたくはない、という微妙なポイントをフーコーらは狙っていたように思う。
 
 ここではフーコーには深入りしないが、フーコーの哲学がサルトルらとの権力争い、フランスの高度なインテリの知的闘争であった事は容易に想像できる。そこからフーコーの、歴史を空間的に区切っていく哲学が生まれ、その哲学に過去のあらゆる表現、哲学、政治は埋め込まれる事になった。

 フーコーがヘーゲルとは違う歴史観を持ち、それを展開したにせよ、彼がヘーゲルやマルクスと同様、歴史を一様に「展望」できる視点に立ったという事は確かだ。フーコーは「主体の消失」を証明する事により、ある権力意識に抵抗しようとしているが、彼が歴史そのものを一望できると前提している事がすでに、ある知的地盤(エピステーメー)に立っているように僕には見える。僕はあらゆる地盤を踏み抜こうとする、デカルト、パスカル、ウィトゲンシュタイン、ヒュームらのようなオーソドックスな哲学者により好感を持っている。

 これはミシェル・フーコー論ではないのでフーコーの事はこれぐらいにしよう。フーコーはベラスケスの絵画「ラス・メニーナス」を歴史的文脈の中に埋め込もうとしている。僕はこれを逆さに振って考えてみたい。つまり、歴史が「ラス・メニーナス」を見るのではなく、「ラス・メニーナス」が歴史を見るのだ、という風に。

 何故、僕はそう考えるか。「ラス・メニーナス」の最大のポイント、不在の鑑賞者のポジションは様々に変更可能である。ここは(フーコーの言うように)、鑑賞者が自在に変化する事ができる。「ラス・メニーナス」が描かれ、ベラスケスが死んで百年、二百年経った後も、鑑賞者のポジションに現れる人物は次々に変化する。今、僕は二千十六年に存在する一人の日本人ーー男性だが、こんな人間が「ラス・メニーナス」を見るとはベラスケスは想像もしなかっただろう。しかしきっと、最初にラス・メニーナスを見た人間が感じたと同じような不思議な感覚が、現在の日本人ーー「僕」にもやはり訪れるのである。この時、我々がラス・メニーナスを見ているのではなく、ラス・メニーナスが我々を見ているのだ。ラス・メニーナスはフーコーの考えるように歴史的文脈に埋め込まれていると共に、その透徹した視線で鑑賞者の我々を見ている。我々人間の集団が歴史を形作るものだと考えると、ラス・メニーナスが我々(歴史)を見ているのだと考えてもそう間違いではないだろう。

                          通路を伝って

 左手の画家はこちらを向いて絵筆を持っている。キャンバスは裏向きになっていて、そこに何が描かれているかは分からない。しかし、画家はこちらを向いて、描いているわけだから、「私達」「私」を描いているのだろう。

 鑑賞者である「私」は見えないポジションに立っている。しかし、絵の中の人物の何人かはこちらを注視している。私達は「自分」が見られている事を知る。この時、「自分」は相互に交換可能だという事を私達は観念としては知っている。しかし、それにも関わらず、私達はこの絵の前に立っている時、他でもない「私」が見られているという感覚を味わうのである。

 フーコーに足りないのはこの観点だった。フーコーは一般的な、抽象的な概念としての鑑賞者を絵の前に立たせる。しかし、彼、フーコー自身は巧妙に一歩引いた場所にいて、鑑賞者と絵を交互に見ている。しかしそれでは「絵」は見えないのではないか。まず、フーコー自身が絵の前に立たなければならない。そしてフーコー自身が絵の前に立ち、「ラス・メニーナス」を見た時、「ミシェル・フーコー」という固有名詞は消え去るのである。彼はもはや「鑑賞者」という一般的概念でもなく、ただ絵を見て、絵に見られている一つの存在になるのである。ここで私達は、絵の前で始めて「自分」に還ってくる事となる。

 「私」がこの絵を見る。この時、「私」と名付けられる存在を「ミシェル・フーコー」と呼ぼうと「ヤマダヒフミ」と呼ぼうとそれは関係ない。絵の前で固有名詞は消失している。フーコーが絵の前に立てば、彼はキャンバスに描かれているのはフーコー自身だと考える。僕が絵の前に立てば、キャンバスに描かれているのは僕だろうと考える。そしてこれは一般的な概念としての、他者としてのミシェル・フーコーやヤマダヒフミではないのだ。
 
 絵の中の画家はこちらを見て、キャンバスに絵を描いている。扇型の空間は、こちらと関連性を持っている。私達はおそらく王女を知っている。小人も犬も、右後ろの辺りの男も一応は知っている。「私」はきっと、この扇の中心となれるような関係の存在であるに違いない。こう考えると、ここから歴史的、社会的研究を始める事ができるだろう。この人物は〇〇王朝の〇〇何世である、という風に。しかし、そうではないのではないか。私はこの絵を見ている時、本当にこれらの人と知り合いであり、扇の中心に位置しているのだ。「私」はふと気づくと、絵の中にいる。私はーー現在、二千十六年に生きている日本人なのに、それとは全く違う一つの空間の中にいる。この時、鑑賞者は自分自身を二重化させている。この存在の二重性こそが、ラス・メニーナスを見た時に感じる不思議さの正体ではないのか。そう気づいた時、私達は絵の中から現実の自分を見ているのではないか。現実の自分が絵を見ているのではなく、絵の中の私が、現実の私を眺めているのではないのか。段々、そんな気がしてくる。

 しかし、絵はそこで終わっていない。それだけであれば、扇型の空間、画家、キャンバスがあれば事足りる。可視的な物の中では最も重大なポジションーー扉の男がいる。この男は暗闇の中で、鑑賞者ーー「私」にしか見えないような場所で扉を開け、光を内部に入れている。これによって、「私」ーーー「絵画」の絶えず相互に影響しあう空間に、もう一つの「道」をベラスケスは取り入れている。扉の男は、絵画と鑑賞者の間の絶えず戯れ続ける空間に一つの通路を導き入れている。ベラスケスはまるで、「これで終わりではない」と言っているかのようだ。絵画と「私」は相互に向き合い、気がつけば私は絵画の中にいて、もう一人の私を見ている。私は見られていると共に、見ている不思議な存在である。しかし、この対面的な二つの空間、その整合性に描き手としてのベラスケスは最後の明るい道を取り入れている。ここで終わりではない、絵画は絵画内部の通路を伝って別の世界に出て行く事ができるのだ。私達は自分を絵の中で形象化した後、扉の男の通路を伝って、これまでとは違う世界へと出て行く。一体どこへ? 答えはない。しかし、ここで終わりではないのだ。絵画と「私」の閉じた、完璧な閉鎖性とは違う通路をベラスケスは開けてくれているのだ。これが彼が構図上、扉の男を必要とした理由ではないか。世界の完璧性と閉鎖性だけではなく、まだ先があるが、それは『本当に』画家に描けないものである。絵画は絵画を通じて、絵画でない世界へと通じている。そしてこの通路を伝って運動していくのは、歴史、空間によって変化していく様々な鑑賞者である。形象化された鑑賞者はそのように、「ラス・メニーナス」という空間の通路を運動していくのである。

社会的見地から考える「神聖かまってちゃん」

 

 
 自分はもっぱら神聖かまってちゃんというバンドを純粋にアーティストとして論じてきた。今回は見方を変えて、社会の方から見てみようと思う。ただ、社会、歴史に関する自分の知識はあやふやなので、推量的に、アバウトに論じる。

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 さて、神聖かまってちゃんというバンドが出てきたのは、の子が二十三歳くらいの時だから、今から七、八年前くらいだろうか。思えば時間が結構立っている。
 
 神聖かまってちゃんというバンドはネット上の活動を主としている。あまり知識のない人は、神聖かまってちゃんを「頭のおかしい狂人」あるいは「狂人を演じている人」「ライブで滅茶苦茶する人」みたいに思っているだろう。そう思われるのは神聖かまってちゃん自身がそう演じてきたからだ。ただ、ここにはある種の必然性みたいなものがある。の子という、外面とは違い、非常にオーソドックスな詩人的魂を持った芸術家が社会の表面に浮かび上がるには、どうしてもあのような不自然な態度を取らざるを得なかったという事だ。僕はこの事を良いとも悪いとも思っていない。今は、純粋に社会と個人との関係で捉えていく。

 昔の話からはじめよう。夏目漱石や森鴎外が活躍した日本近代文学、その始まりにおいては、文学を志したり、文学をしている人間は大抵、東京帝国大学という場所に集まっていた。優等生タイプには見えない、太宰治ですら、東京大学の仏文科に所属していた。これは現代とはだいぶ状況が違っている。現代では芥川賞作家が、日雇い労働者だったり、ニートだったりフリーターだったり、派遣労働者だったりしても、誰も全く驚かない。つまり、知識というのが一極集中から、全体に分散したという事だ。

 漱石や鴎外の頃は僕らが思い描く文学というものの正体すらつかめていなかった。近代文学というのは西洋からの輸入でもたらされたのだが、当時のインテリ達はその正体をつかもうと必死だった。だから、漱石や鴎外がドイツやイギリスに留学したというのは、ただ日本のエリートが海外に行ったというだけでなく、日本全体の文化を背負っているという気勢があった。最初の文学者は大抵、語学ができた。最初の文学者達が外国語を習得して東大にいたというのは、昔の文学者は今と違って賢かったのだと人は言うかも知れないが、僕はそんな風には考えない。彼らがそもそも文学を志し、それを理解しようとするには、東京帝国大学という狭いコミュニティであれこれ翻訳したり考えこんだりしなければいけなかったわけで、今僕たちが当たり前のように知っている事を知る為に彼らは必死だったのだ。現代のように翻訳で、いろいろな国の文学や哲学を知るという事ができなかった。漱石や鴎外をはじめとする知的エリートは、国家や社会全体の動静とその運命をともにしていた。

 現代は全く状況が代わっている。現在、東大に行くという事は知的ステータスのような意味合いが強い。「いや、東大にはもっと意味がある」という人もいるだろうが、まあ、それはいい。いずれにしろ、昔と違い、我々は様々な知識、情報をネットで、図書館で、自由に得られる事になった。それに伴い、かつての知的シンボルだったものは形骸化した。現代でも一応文壇というものが存在して、それは日本近代文学の延長にあるかのような感じだが、実際存続しているのは雑誌名などの表皮的なもので、知識、知性の本質は全く違う形に変わってしまった。

 神聖かまってちゃんを作り上げた「の子」という人物の経歴は高校中退である。高校中退の後、の子はニートやフリーターをやっていたらしい。だが、の子は自分で音楽を勉強し、音楽につけるPVも一人で作り上げている。の子のそれらに対する教養は僕は別に、幅広いものでも深いものでもないと思う。しかし、高校中退した、どん底の人間が己を具現化する為の様々な知識は、ネットなどが彼に用意していくれていたのである。彼がアーティストとして自己表現する為の素材は、彼が規定のどこそこにいかなくても得られたのである。またその表現も、自宅にいながらネットで世界に向かって拡散できたのである。この二点が、の子という、オーソドックスな詩人が世界に向かって開かれていく過程で重要な要素である。の子が高校中退で、社会的にはいかに恵まれていなかったにせよ、彼は自分一人の力で自分の得たい知識を得られたし、その成果としての表現も世界に発表できたのだ。これを普通の事だと思うなら、例えば、中国とか北朝鮮とかなら、そううまくはいかない事が想像できるだろう。我々はどん底にいても、一応この社会に生きているという事で、現代日本が我々に与える恩恵は得られるのである。

 ただそうは言っても、問題はある。現代は大衆社会であり、いろいろなシステムが形式化した、固定的な社会である。インテリはただクイズ番組に出て、クイズに答えるくらいしか能がなくなったのは、そもそも僕たちが本質的な意味でのインテリをそんなに必要していないからである。漱石や鴎外のように、社会が進歩発展する上で、未知の領域を開くインテリがそんなに必要と感じられていないからである。つまり、現代は戦後何十年も経って、それなりに発展し、進歩した。だから、大衆に必要なのは彼らの耳目を一時的に潤す人物だったり物事だったりする。それで、インテリもタレントもアイドルも皆、大衆に対して座興を提供する演者となっている。いわば、我々は豊穣故に、座興を見たがっているのであり、それ以上の事は大して望んでいない。(これはこれまでの所の話で、現在は風向きが変わりつつある。だがその事には今は触れない)

 ただ、ここにも一つの問題がある。大衆の前に立つ、つまり「売れる」「スターになる」というのは現代では誰もが夢見る事だが、誰しもがこれを望んでいる為には、過当競争が生まれる事になる。また、人々は長年の平和のためか、自分達の感覚をガリガリと削るような、スキャンダラスなものを望んでいる。彼らは自分達を安定した傍観者の立場に置き、目の前の座興を論評してみせる。この傍観者たちに訴えるには、普通の方法では無理だ。だからこそ、の子とか、ホリエモンのような、おそらくは話してみれば案外普通な人間も、外面上は異常な、普通とは違う、神経を駆り立てるような姿で現れてきたのだ。現代はいろいろな事が麻痺している社会であり、この社会でまっとうな、賢者的な事を言っても誰も見向きはしない。人々が望んでいるのは異常なもの、珍奇なものであり、なおかつ彼らはそれを軽蔑したがっている。他には、自分達が楽に浸れる、都合の良い物語、価値がすぐにわかりやすいモデル、お笑い芸人なとが次々と現れてくる。

 こういう状況の中で、神聖かまってちゃんというバンドは現れてきた。僕の見る限り、の子という人物は、非常にオーソドックスな芸術家である。そういう詩人的、音楽的な魂を持っている。しかしそういうオーソドックスな魂の芸術家が、オーソドックスでない形で現れてくるには以上のような社会が土台にあると考えられる。の子は世間に訴える為に、一応、世間が望んでいる姿に身をやつさなければならなかった。の子はその事を良く知っているだろう。の子は、オリコンで一位になるとか、もっと売れたいとか、Mステーションに出たいとか言っているが、一方ではそれらの事は「どうだっていい」という感覚も持っている。そういう事をインタビューで言っているのを聞いた事がある。

 僕にはの子が何故、そういうのか、よくわかる気がする。一方では社会に訴えかけ、のし上がりたいという気持ち、もっと言えば、人に認められたい、人に自分の価値を知ってもらいたい、「かまって」もらいたい、という気持ちがあり、もう一方ではそういう人々に反発し、自分の作品の中に没頭し、孤独の中に価値を見出している、そういう二人の「の子」がいる。僕にはその気持がよくわかる。の子という人物にはこういう二重性が絶えずあって、この二重性が彼の魅力の源泉をなしているのだと思う。例えばこれと勝間和代を比べてみれば、勝間和代は社会に認められているようで、社会に踊らされている個人の姿が透けて見えるばかりだ。

 神聖かまってちゃんという異端のバンドが、異端というスタイルを取ったのには上記のような状況があったからだと思う。現代ではいろいろな事が形式化、形骸化しており、資格とか学歴とかいうのが、表面的には支配している。資格や学歴が問題になるのは、それらに重大な価値があるからではなく、知識が全体に広がって分配され、差異を設けるのが難しい為に、社会通念上、一応、差異をつくり上げる為にある。もちろん、資格や学歴に価値はあると言ってもいいが、僕は現代の傾向性を言っている。この社会においては差異というものが、根底的になくなってきている。だからこそ、社会通念上、社会構成上、一応の差異を設けなければならない。(2chで年収の話がしょっちゅう出てくるのも同じ事情だろう) 人間は人を見下したがるし、人から尊敬されたくもあるし、「あいつは俺達とは違うから」と言い訳もしてみたいのである。だからこそ、差異は設けられなければならない。その為に色々なシンボルができあがる。

 しかしあらゆるシンボルを持たない、高校中退の少年は独力で世界に己を明かさなければならなかった。だからこその子は「キチガイ配信」みたいな一見異様な行動も取った。この行動が見識ある人から嫌われるのはある意味当然の事である。ただの子の方にはそういう社会に訴えかけるには、自分のやった愚かさが必要であったと感じているだろう。神聖かまってちゃんが世の中に出てくるというのは、そういう現代社会との関係があったと思う。この論自体は、ここで終わる事にする。ちなみに、そういう神聖かまってちゃんがこれからどう評価されるかというのはこの社会自体がどうであるかという事と関連性があると見ても良いだろう。僕としては、の子の仕事の意義は、「ロックンロールは鳴り止まないっ」から「美ちなる方へ」という一連のPVにあったと思う。社会の極小の一部としての僕個人には、これらのPVが一つの啓示として現れたのだった。

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