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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

   リアルとフェイク   (ノリアキから始めて)

 「おれがこの心で、魂で掘り起こしたものが真実だ
  おれがこのメモ帳に書き留めた事だけが真実なんだ」
                       
                      ノリアキ「君はポイズン」より

 ノリアキについては、ネット上で調べてもらえばすぐに分かるはずだ。この拙文を読んで、ノリアキについて興味を持った方は是非とも自分の目でそのリアルを体験してほしい。
 先に言っておくと、私はこの文章内においては、ノリアキという一人のアーティストにまつわる様々な周辺事情はあらかじめ排除する事とする。(元々、ノリアキというアーティストが小さな企画から誕生した事など。)更に、私がノリアキ、という時、それは作られた「ノリアキ」という一つの概念体を指示するので、一個人としてのノリアキではないと考えていただきたい。何故こんな事を言うかと言えば、そうすることによって、楽曲の作詞がノリアキ本人ではないという事情を無視して、その詞の意味も、「ノリアキ」という概念に紐づけられるからだ。
 さてまた、私はおそらく、ノリアキの思想を曲解するだろうが、批評というものは元々、他人をダシにして自分を語るものだと、古来より決まっている・・・という訳には行かないが、批評の元祖小林秀雄先生がおっしゃっているので、多少多めに見ていただきたい。それに、もし私の言っている事が間違っているとしても、この文の読者の方はいくらでも、本物のノリアキをウェブ上でごらんになれるのだから、私が間違った情報を与えて読者を誤解させたという事にはほとんどならないだろう、、と私が安心していられる、という事情もある。

 さて、本題に入ろう。まず何より大切な点、そしてノリアキが私達に与えた二つの概念、というより思想、いや、言葉、道具ーーー何といって良いか分からないが、とにかく私達が私達の生活と思想にとって、そしてこの現代社会にとって最重要とも言える二つの概念「リアル」と「フェイク」についてだ。
 そしてこの二つの概念について上手く解くことができれば、あの不可解な天才「ノリアキ」の謎もおそらく解けるのであろう。(私がそういう風に話を持っていった訳だが。)
 この世界はフェイクに満ちている。だが、誰もそう言い出す事はできなかった。誰もが、その真実を言ってしまう事で、この世界から締め出される事を怖れていたからだ。だが、今ここでノリアキという一人の天才が、私達が怖れていて言えなかった一つの真実を託宣した。つまり、この世界はフェイクであるという事、そしてノリアキが自身のメモ帳に書き留めた事だけが真実である、という事、この事である。
 この点というのは神聖かまってちゃんに非常にその前後の事情が似ている。かまってちゃんもまた、私達が怖れて言えなかった事を、その真実を高らかに宣言した一人だった。彼の場合は、ノリアキよりももっと感情的であり、動物的でもある。彼は、この社会で誰もが感じていた「死にたい」「死ね」という言葉を、何の臆面もなく曲の中で吐き出したのだ。・・・そしてこの感情の言葉というのは、他者に向けられたもの、何かの煽りや釣りでは一切ない。一体、煽りや釣りといった、また世に溢れている見せかけの言葉達が人を真に感動させる事ができるだろうか?・・・もちろん、できるわけがない。だがしかし、軽薄な心には軽薄な言葉を感動と取り違えるという浅い交流がこの世界の表面に流れている為に、そんな軽い言葉達が流行るのだ。そして神聖かまってちゃんは、もちろん違う。彼の「死ね」も「死にたい」も彼の中の魂の叫びである。そしてそれは私達がこの社会の陰に埋もれて一人独語している真実の言葉でもある。だからこそ、我々はアンモラルとも言える彼の曲にああも感動する事が可能だし、それを避ける事は不可能なのだ。私達が真剣に自己を掘り下げて生きているからこそ、本物の言葉(痛切な言葉)に出会う事が可能なのだ。
 さてノリアキに戻ろう。・・・ノリアキもやはり、そうした真実の言葉を語った一人である。真実の言葉とは結局、私達が薄々感じていながらも、言うことができない、できないと思いこんでいるそうした言葉の事であろう。・・・もしかして地球は回転しているのかもしれないが、それは過去のとある秩序の範囲内では、そうと見られる兆候が現れたり、そんな思索が的確だと感じられたとしても、決して言ってはならない事だった。何故なら、その世界の中心的な価値観と、地球が宇宙の中心に座しているという作られた事実とは、ぴったりと合って身動きのとれないものだったからである。ところが、ここに一人の天才が現れてきて、次のように言った。「地球は回っている。そしてこれこそが真理である」と。・・・そして、当時の人々はこの天才を封じ込め、黙り込ませたのだったが、それでもしかし、彼の語った真実を黙り込ませる事はできなかった。残念ながら真理は人々よりも偉大で大きいからである。真理とは、多数決で決められるものではないのである。
 もう一度、この世界を見てみよう。この世界とはフェイクでできている。この、華やかとも退廃しているとも言えるこの世界は。私達は周囲にフェイクの世界を見る。何故、こうも世界はフェイクにまみれているのか?・・・だが、そうではない。それは昨日までは実在だったものだ。すなわち、ノリアキが出現して、これらを「フェイク」と名付けるその日までは。そしてその日によって、この世界に広がっていた偽の実在達はフェイクと名付けられ奈落の底に転落し、そしてその中からたった一つのノリアキというリアルが出現したのだった。
 私は今冗談を言っているのだろうか?ノリアキ、というネタアーティストをダシにして、壮大な冗談を言っているのだろうか?・・・もちろん、そうではない。私は、一貫してまじめだ。そして、まじめなフリをしてふざけているのは、私の方ではなく、世界の方ではないか。だからこそこれほど壮大な「フェイク」が全てを覆っているのではないか?
 私はこのフェイクを少し分析してみよう。この世界のフェイク達を。そしてそれは、必然的に、私達の身体にまで食い込んだ価値観を分析する事になるはずだ・・・。
          
 私達が幻想を見させられる、幻想を見るようになったのは、いつ頃からだろうか?・・・それがいつ頃からか、私は思い出す事はできない。おそらくそれは私が生まれるよりずっと前からだったはずだ。あるいはそれは原初の人間からそうだったのかもしれないが、さし当たりそんな悠久の時間についてはどうでもいい。問題なのは私達だからだ。そして私達が今見ている、また見ようとしている幻想達というのは全て、一つの理由に基づいているように私には思われる。つまり、自分からの逃避。そしてこの場合の「自分」というのは紛れもなく、自分の死の事だ。
 私達は夢を見る。実に様々な。それはこの高度な社会において、非常に分化した複雑な形式を取る。たとえば、単純な詐欺的商法の方法論というのは、いつになっても変わらない、すなわちフェイクをリアルと見せかける事にあるだろうが、それは今やおそろしく複雑な手法を取り、意図的に出口を見えなくするようにして、新たな利得を稼ごうとする。複雑化した現代人の脳髄には、もはや単純な手法では引っかける事は難しいからだ。
 それと同じように、私達は意図的に、様々な夢を見る。実に様々な。それは分化の過程を無限に辿って、もはやほとんど全てが迷路になっている。そして驚く事に、その中で我々が「リアル」と感じられるものは全くといっていいほど、存在しない。
 では、我々がリアルと感じられるものは何か、そしてフェイクと感じられるものは何か、今ここで定義を決めておこう。・・・そしてこの定義の重要性は、この小文の読者は言わずとも分かっているだろう。幻想が現実となり、現実は幻想となって、私達を取り囲んでいるこの現在の状況において、フェイクとリアルを決定する事ほど難しいものはないからだ。
 まずフェイクとは何か。それは私達の実在と遊離した存在である。実在とは何か。それは私達である。私達一人一人の惨めな肉体、みすぼらしい生活、それら全てである。私達が現在の状況において生息している現存在そのものである。・・・ちょっと待て、だが、みすぼらしい生活をしていない、私は立派な生活、素敵な妻(旦那)を持っている、年収だって××あるぜ・・・という、そういう奇特な、幸福と見える方もいるだろう。だが、私は言う。そういうあなた自身がフェイクなのだと。何故なら、人間の生涯の終端には死というものが、神だか誰かによってあらかじめ設定されており、そうした真実から目をそむけて、自分は幸福である、最高であると、夢想に逃げ込むのはフェイク以外のなにものでもないからである。(もちろん妻(旦那)や良い年収を持つ事そのものが悪い事であるという事は一切ないが。そしてそうしたものがフェイクから脱するのはどこであるか、それはまた私は別に稿を起こさなくてはならないだろう。)私は、自分は幸福だと、自分の深い内的事実以外の原因(つまり外的事実)を持ち出して説明する人に問いたい。そうした理由、そうした幸福はあなたの死という絶対的事実を越える事ができるのか?と。王もまた死ぬのだ。民衆達と同様に。みすぼらしく。
 私は別に、市民的幸福を破壊するためにやってきた者でも何でもない。だが、それにうんざりした者ではある。君達はおそらく、それら幻想を保持する為なら、多少自分達の市民的集団以外のものを破壊する事を厭わないであろう。そしてもはや実際に破壊している事だろう。・・・だが、他人をいかに破壊しようと、自分は持ち上がらない事、幻想は遂に幻想に終わるのだという事をはっきりとさせておきたいのだ、私は。そしてその幻想をぶちこわすのは私の妄言ではない。死だ。死という最も峻厳な神がやってきて、我々の生活をめちゃくちゃにぶちこわすのだ。・・・だが、死なくして人生というものはありえない。何故なら、不老不死の生活ほど退屈なものはないからである。もしそうなれば、この世に面白いものは何一つなくなり、誰も努力も進歩を目指す事もなくなりそして、退屈の余り死にたくても死ねないという状況になろう。何せ、明日は無限にあるのだから。決められた明日があるからこそ、我々は努力をする事ができるのだ。
 話を戻そう。フェイクとは何か。それはもう決まった。フェイクとは現実と遊離する存在ーーーそして最も峻烈な、そして最も現実的な現実とは死であるという事ーーーこれである。ではリアルとは何か。死を背後に背負った我々にとってのリアルとは何か。死そのものか。いや、違う。何故か。
 死そのものは無である。それはいわば、我々を裏から照射する逆光線に他ならない。我々の実在の仮象性を照らし出す一つの光である。それはいわば、リアルに至る唯一の道である。・・・何故なら我々は、死という、人間にとって最も厳しい裁き手の手から逃れ、(あるいはその審判に合格してから)初めて仮象から実在へ、フェイクからリアルへと至る事ができるからである。
 もはや、ノリアキとはあんまり関係のない所へ我々は出てきてしまったようだが、まあいい。ではリアルとは何か。実在とは何か。真実とは何か。私達が仮象を逃れる、私達が死という、私達の精神と肉体を滅亡に導く、この恐ろしげな神から逃れて、何ものか、手に触れられる実在を手にする事のできる日というのは来るのだろうか?
 ・・・私達が、動物性を乗り越えて、人間から神に至る道程にいわば、この問題が存在する。つまり、私達は死を乗り越える事ができるかどうか?という問題だ。・・・そしてここでまたノリアキに戻ろう。彼は既に答えを、あるいはそれに至るヒントを私達に呈示してくれているからだ。次の言葉を聞け。

 「時間が回ってるんじゃない
  時間が決めるんじゃない
  おれのこの心が、魂が掘り起こしたものが真実だ
  おれがこのメモ帳に書き留めたものだけが真実なんだ」

 素晴らしいではないか。ここに既に多くの答えが、そして私達には沢山のヒントが示されているのである。
 私は、死そのものはリアルではない、と語った。それはいわば、フェイクを炙り出す、一種の試金石のようなものだと言った。それはそうである。この死というものの魔手を逃れる事のできないものは、残念ながら全てフェイクである。幻想だ。・・・では、リアルとは何か?死を越えるリアルとは何だ?・・・そんなものはあるのか?
 古来より、というより、生命として誕生した時点で、我々は死という止みがたい病気に取り憑かれてきた。動物達はこれから逃れる為に、歩行や運動を開始したのかもしれないが、残念ながら、彼らの背後に常に死という魔は常に張り付いてきた。・・・だが、動物は進化の過程で我々にバトンを渡した。私達は結局、バトン走者のようなものである。常にこの死と追っかけっこをしているようなものである。そして偉大な人間というのは皆、この死との競争に競り勝ったものである、と言えるだろう。そして平凡な人々というのは・・・・それについては、語るまい。
 そして、ここでリアルとは何かという定義をようやく今、ここでしてしまおう。ノリアキにならって「今ここでおれが決めてやる」と言おう。・・・それはつまり、死に競り勝った何物か、その実在である、と。そしてそれは正に自らの「メモ帳に書き留めた真実」だけなのである、と。
 説明を要するだろう。説明しよう。私達は生きている。その中で様々な享楽的な事がある。それらはもちろん悪い事ではない。生を賑やかしてくれる、実に様々なものである・・・。だが、私達がふと奈落の底に目を向ければ、そこには私達の死という絶対的な厳粛が存在する。ではこの死に勝てるものはあるのか?・・・それこそが、リアルであり、メモ帳に書き留めた真実である。・・・私達はこうした現実にさいなまれる。死、という最も厳粛な現実に責めさいなまれ、優れた人であればあるほど、彼は余人が見ようとはしないものを見てしまうという不可解な現象に襲われる。私の考えによれば、普通の人が考えるのとは逆に、天才であればあるほど、普通の人が苦しまない場所において余計に苦しむのである。彼は誰よりも、魂の相克のレベルにおいて苦しむのだ。そしてこの苦しみが、一冊のメモ帳を生む。それが、自らの「メモ帳に書き留めた真実」である。・・・象徴的な言い方から脱しようか。・・・こうして苦しんだ、世の天才(それは天才という都合の良い見かけを持っていないかもしれないが)は、様々なものを生み出す。それが芸術であるか、政治的事象であるか、科学的真理であるか、はもはや問わない。だが、死という我々の確定した存在の宿命を乗り越える時、そこに初めて種々の天才的偉業が現れるのである。そして、初めてこれこそが、というより、これだけが私達にとってリアルと、真実と思える一つのものなのである。なぜならば、現存する私達にとっては、死という確定した宿命を乗り越えて後に残ってゆく、そうしたもの、幻想のように私達の生死と共に掻き消えていくものとは違うなにものかがこの地球上にある事を私達はその存在によって初めて知ることとなるからである。
 私達はこの世界に存在する時、二枚のカードを持たされる。それは生きている、という現状と、死ぬという未来の必然性の二枚である。私達が今のように、生を称揚すればするほど、もう一枚のカードが疼き出す。つまり、生を称揚すればするほど、死に至る道である生そのものは苦痛に満ち、それから逃れようとすればするほど、その死の酷薄さは増すばかりなのである。そして、逆に死を称揚し、そこに飛び込む事を賞賛すれば、私達が何のために生まれたのか、というその疑問は否定され、私達は次第に存在する意味を失い、死の中に没するのである。
 現在のように、あるいは過去に私達がやってきたように、生と死の二律背反から逃れようとする方法は多数ある。まだ言っていない事であれば、それは自分達の集団の外に明確な敵を捕捉して、それを徹底的に迫害し、攻撃し、そして殺害する事である。ナチスがやった事である。そしてこれからもまたおそらく、そうした事は間違いなく繰り返される事になるだろう(あるいは既に行われている)だろうが、結局、そうした方法もまた、自身の死の苦痛を増すのに一役買うという以上の役割は持っていないのである。それは、先延ばしにすればするほど利息を増す借金のようなものである。手術を怖がって、最初期に手術すれば助かったものを、怖がって結局病勢を増して自らの身体をダメにしてしまう病人のようなものである。
 だからこそ、この二律背反を克服する方法というのは、我々が苦痛の内に生み出した何ものか(メモ帳に書き留めた真実)なのである。私達と動物との違いは、自らの内に死を持つ事ができる、という点につきる。そして私達は自らの内に死を持ち、それを超越する事によって、同時にまた、今現在送っている生を越える事になるのである。そしてそれこそが、この世界の様々なフェイクを超越し、たった一つのリアルに到達する道と言って良いだろう。私達が共同して作り出した幻想は間違いなく、すぐにでも掻き消える運命にあるが、私達が死の苦痛から紡ぎ出した真実は、私達の微少な一生涯を越えてその先を歩んでゆくのである。
 

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  ノリアキという名のリアル

もうみんな薄々気づいている事だと思うが、この世界は隅から隅までフェイクで出来ている。・・・そんな世界の中、たった一つのリアルが生まれた。それがノリアキ、お前だ。

「自らのメモ帳に書き記した事だけが真実なのだ」・・・こんな真実を、どの哲学者が、科学者が語っただろうか?・・・彼らは何一つ見えていなかったに違いない。ノリアキほどに物が見えていなかったのだ。この世界の真実はだからもはやはっきりとしている。全てがフェイクだという事。そしてノリアキだけが・・・そして自分を信じるもの、つまり俺達がメモ帳に書き記した物だけ真実なのだ、という事。だからこそ、ノリアキは俺や俺達のファンでいてくれるのだ。

何を言っているか分からないと思うが、俺もやはりわかってはいない。だが真実はそこにあり、フェイクは俺達の回りに溢れている。何がフェイクか、もはや言う必要はないだろう。気付かない人間はもはやどうでもいい。問題はお前にとってのリアルとは、真実とは何かという事だ。

リアルとは何だ。フェイクとは何だ。

さらけ出してみろよ。腹を割って。

そう生きるとは正にその事ーーーリアルを追い求め、フェイクを疎外する事だ。例え、ノリアキのファンである俺達が、周囲から何と言われたって、な。

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