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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

短編小説を書きました

ひさしぶりに短編を書きました。以下のサイトで見られます。

http://ncode.syosetu.com/n4957cq/

http://i.crunchers.jp/w/7663

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小説家の自負

 



 私は次のような話を聞いた事がある。それはある、非常に高名な小説家が往来を歩いている時に、熱心な読者から声をかけられた時の話である。

 「〇〇先生」
 声をかけられた小説家は、声のした方に振り向いた。するとそこにはスーツ姿の、初老の穏やかそうな紳士がいた。その紳士は実に親しそうな雰囲気を醸し出しつつ、小説家に近づいてきた。小説家はその姿につい、普段の自分の人間嫌いのバリアーを一時的に解除してしまった。
 「〇〇先生。私は〇〇先生のファンでして。かねてから、先生にお会いしたいと思っていたのですよ」
 「そうですか。それはどうもありがとうございます」
 と小説家はまんざらでもない様子で言った。老紳士は言葉を続けた。
 「〇〇先生。先生のこの前の最新作、読ませていただきました。非常に面白く、良くできた作品だと感じました。私も家内も、それを随分と楽しく読んだものです。私は長年、ある食品会社に努めているのですが、家に帰って、あの作品を読むのが楽しみでしかたありませんでした。先生のおかげで、随分と楽しい時間を過ごさせてもらいました。あの作品、非常に面白かったです」
 「そうですか」
 と小説家は言った。しかし、その顔は今度は曇っていた。老紳士は、自分は何か相手を不機嫌にさせるような事を言ったかとハラハラした。老紳士は、自分の言葉を継ぎ足そうとした。彼は、相手に対する賛辞が足りないと思ったのだ。
 「先生。あの作品は面白かったです。非常によくできていたし、家内も…」
 「私は」
 と紳士の言葉を遮って、小説家が話し始めた。老紳士は黙りこんだ。
 「あの作品を人に『面白い』と思ってもらう為に書いたわけではないのです。もちろん、そうおっしゃってくれる事は嬉しいし、何か良い物を見つけた時にはそれ以外に言葉が見つからないという事も私は知っています。しかし、私はあの作品を魂を込めて書きました。私はあの作品が、この現実を、社会を相対化し、私自身の人生を越えてくれるようにと願って書きました。私はあの作品を書きながら、正に、あの作品の主人公が私から独立して発展していく様を、この目ではっきりと見ました。その時、私の頭にあったのは人々に面白いと言ってもらう事ではないのです。私は、人々のほんの余暇に適当な娯楽を提供したつもりではありません。私は、自分自身の人生とこの世界を徹底的に相対化し、それを、この世界とは別の観点から照らして、それ以前の世界より更に価値あるものとする為にああいうものを書いたのです。もちろん、それは私の意図であって、その私の意図が、読者のみなさんに伝わるとは限りません。しかしながら、私はみなさんに面白いと一言賞賛をもらうためにああいうものを書いたのではないという事はご承知いただきたい。ある者は、私がプロの作家だという事を知っているために、『どうやったら作家になれますか?』という愚かな質問ばかりしてきます。まあ、若い者はそんなものですが。ですが、私はそんな問いに答えるために、小説家などという仕事をしているのではない。私は卑小な一小説家にすぎないが、志だけはいつも大きくありたいと願っていた。しかし、それはあなたにはどうやら伝わらなかったようだ。残念です。次作では、あなたにも、『面白い』と言わせる以上のものを書いてみたい、と今そう思いました。それでは、私はこれで失礼します。それでは、また会う日まで。お元気で」
 小説家はそう言うと、老紳士の前を足早に去っていた。老紳士はそこに立ったまま、しばし呆然とした。

 私はこの話を人づてに聞いたのだが、この小説家を傲慢と評価すべきか、それとも優れた芸術家にとっては当然の自尊心とみなすべきか、未だにその判断をつける事はできないでいる。




                            (この作品の元ネタは野村胡堂「楽聖物語」のヘンデルの項から取りました)

 誰




 「お前の言っている事はつまんねえんだよ」
 と誰かが言った。僕はその言葉にーーー答えられなかった。
 「お前の言っている事は全て、背後に作為的なものが見え透いているんだよ。くだらない。どんな人間もくだらない、通俗的な物語がお好みだ。だから、お前はそれに合わせて丁寧に踊りを踊っているに過ぎない。お前は人気者かもしれないがーーそうでもないかーーまあ、どちらでも同じ事だ。お前は人々の歓心を買う提灯持ちだ。政府にごますりする御用学者と同じだね」
 「うるせえよ」
 と僕は言った。僕は言葉を続けた。
 「うるせえ、お前はあらゆるものを批評していい気になっているかもしれないが、お前の愛好しているものはなんだよ? 高尚な哲学などいらないんだよ。高尚な、高級な哲学なんていらないんだよ。そうだ、哲学はもっと僕達の役に立つべきーーー」
 「役に立つ?」
 と男は言った。眉を釣り上げて。
 「『役に立つ』とはどういう意味だ? 俺に教えてくれないか? 『役に立つ』とはどういう事だ? 百グラム千円のステーキより、百グラム五千円のステーキの方が我々にとって『役に立つ』というのか? では、そもそもお前は何の役に立つのだ? 世界のため? 笑わせるな、この世界は何の役に立つんだよ。この地球は一体、何の『役に立つ』のだ? 人類という生態系破壊者はこれまで何の役に立ってきた? お前のそのくだらない小説は、一体何の役に立ってきたんだ? 皆が暇つぶしするためか? だとしたら、その暇つぶしは一体何の役に立った? 脳にある電気信号を送るためか? ならその電気信号は何の役に立った? 楽しい? 楽しいとは何だ? そんなものが何の役に立つのだ? お前達が求めているものそのものを得る事自体はお前達にとって何の役に立つのだ? 何もかもを知っている顔をして、君達が必死に求めてそして絶対に手に入らない『幸福』とやらは一体何の役に立つのだ? 君のくだらない魂はこれまでに何をなしたか? 考えてみるがいい? 一体、何が何に対して役に立つんだ? どうだ?」
 「そんな難しい話はよしてくれ。お前は自分の話に酔っ払っているだけだ。お前は自己満足で生きているだけ。貧乏だし、金もないし、その年で定職にもついていない。お前はーーバカヤロウだ。僕はちゃんと、社会に貢献している。普通に生活している。彼女もいるし、そうだーーーお前はひがんでいるんだ。僕を妬んでいるんだ。ふざけるな! この野郎!」
 僕はそう怒鳴り散らした。腹が立っていた。
 「なんなんだよ。偉そうに。お前は何者でもないくせに」
 「何者?」
 と男がまた言った。
 「何が『何者』なのだ? 胸に弁護士バッヂつけてれば、もう立派な弁護士であるというのか? じゃあ、君は何者なのだ? 君は誰なのだ? 君は就活のリアルな悩みを描いた小説を書いたそうじゃないか。なんだそれは? 就活というのは何だ? お前にとって生きるというのはどういう事だ? 説明会で、愚にもつかないノウハウ話を苦痛に耐えながら聞く事がお前の人生の最大の悩みか? 君の書いているものは一体、なんだ? そして君の主人公や、君自身は一体、何者だというのだ? 社会的、科学的に君を規定して、それで君が何者か言い得たというのか? 君の親が誰であるか、君の地位身分、家族構成、貯蓄高が君を表すのか? 考えてもみろ? 君は誰だ? 君が明日、交通事故で顔を全て失ったとして、それでも君は君か? 君を構成するものは何だ? 君の手が、足がもがれても君は君が君でいられると思うのか? 周囲がもし、君を同情の目で見るとするなら、周囲の人間は君を以前と『変わった』人間と見て取っているという事だ。ところが、君は相変わらず、君自身であり続ける君を見つける事だろう。君は相変わらず、君のままだ。だとしたら、君は何だ?いいか、形而上学ではーーー」
 「形而上学の話なんてやめろ! もうそんな話はたくさんだ! 消えろ! 消えてしまえ! お前のような、自己満足のアスペは俺は知らないんだよ。お前はそうやってなんにでもわかったような顔をしている。お前はーー」
 「わかったような顔をしているのは君の方じゃないか」
 「うるさい! もう帰ってくれ!」
 と僕は叫んだ。
 「お前はクズだ! お前はどうしようもない貧乏人の、ゴミクズだ。思想だか哲学だかしらんが、そんなものでは人は幸せにはなれないんだよ。…とっとと消えろ! これ以上喋るな! 僕はお前のような奴が大嫌いだ!」
 「やれやれ」
 と男は言った。男は微笑していた。
 「君は全く、人生を誤解しているな。まあ、それもいいだろう。いいことを一つ教えてやる。君の嫌いな形而上的な言い方で、孔子がこういう事を言っている。子、川のほとりにありて曰わく『行くものはかくのごときかな、昼夜をおかず』 君はこの言葉の意味がわかるか? …そうだ、川は昼も夜も関係なく流れている。君はくだらない事をグチグチと言って、自己欺瞞して生きているが、そんな事おかまいなしに、川は流れ続けている…。俺は、ただそこに川がある事を指摘しているだけのことだ。君は、いつも『昼』や『夜』を問題にしているがね。しかし、そんな事関係なく川はそこにあるのだよ。そして君達の思惑と関係なく、それは流れ続けるだろう。…フッ、ではさよならだ。もう会う事もないがね」

                               ※

 男は去った。僕はーー目を覚ました。そこはいつもの日常だった。僕は、ある売れっ子の作家だった。僕は自分の自尊心が、自分の夢において傷つけられたのを感じた。しかし、僕はすぐにその傷口を縫い合わせた。今日は打ち合わせがある。


 ーーーーーー何が『川』だ。くそったれ。



 ーーーーーーあいつは、一体誰だったんだろう?

 アンチ礼賛



 
 僕は普段、インターネット上に小説を書いて発表などしたりしている。僕はまだ無名の書き手にすぎず、その書いたものにはほとんど反響などは来ないのだが、先日、僕の小説を読んでくれたらしい人物から、長文のメールが届いた。そのメールは僕に対して非常に攻撃的なものだったが、しかしこれはなかなかに特徴的で興味ある文章だと僕は思ったので、その全文を以下に掲げようと思う。興味のある人はぜひとも読んでいただきたい。ちなみに、僕は『ヤマダヒフミ』というペンネームで活動している。もしあなたが興味があれば、僕のその他の作品についても読んでみて欲しい。



 『2014/5/13  件名  感想   送信者   手羽先


 はじめまして。私は『小説家を目指して』の投稿サイトを利用している手羽先というものです。私の事に関しては、『小説家を目指して』の私のアカウントをのぞいていただければ分かると思います。私は普段、歴史小説などを独自の観点から書いているものです。独自の観点と言っても、それは何も、今の研究家らの視野を損ねるものでありませんが…。まあ、その事は別にいいでしょう。私はあなたの作品を読んで、言葉にならないくらいの憤りを感じたので、このようなメールをお送りする次第であります。ちなみに、私は妻子ある身で、このようなメールに長時間使う事はできないので、誤字脱字などもあるかもしれません。その点は、どうぞご容赦願います。
 さて、私はあなたのは『廃人Yの日記』という作品を上記のサイトで読み、我慢できないくらいの怒りを感じました。…私が思うに、あなたはおそらく、二十代中盤くらいのまだ若い年齢なのでしょう。そして、それゆえに、あのような作品を書いた。そういう青春の時期というものが、人にいかに愚かな事をさせるのかは、私のように馬齢を重ねた人間にはよく分かります。それ故、私はあなたに警告、いや、訓戒せざるを得ないのです。あなたのあのような退廃的な作品こそが、この日本、そしてこの社会を悪くしているその原因の一つであると。あなたの作品は、あなた自身の赤裸々な過去の告白のようです。そして、あなたはあの作品で、あなたが今はただのニートであり、親に寄生している存在である事を明かしています。(そう言えば、そこにあなたの年齢も記されていましたね。確か、二十五才だ。)そして、あなたは他にも、あなた自身がいかにつまらない人間なのか、そういう事を切々と書いていました。私には全く、そのような軟弱な精神が理解できませんが、あなたはどうしてあのようにてひどい文章を書いたのでしょうか?私には理解できかねます。私には断固、全く理解できませんね。つまらない、というよりそれ以前だ。大体、あなたの文章は「てにをは」もできていないし、それに三点リーダーの使い方も間違っています。これは作品にとって決定的なマイナスポイントではないものの、小説を書くものにとっては最低限守らなければならぬ礼節のようなものです。あれでは、あなたがあの作品を新人賞に応募した所で、下読みに大笑いにされて、そしてそれっきり没になるだけでしょう。失礼ながら、あなたは本当に大学を出たのでしょうか?。あなたはあの『日記』の中で、あなたの大学時代のエピソードも書いておられましたが、しかし、あれは捏造ではないでしょうか?。あなたは余りにも知的レベルが低い。それに品性も著しく劣っている。それはあなたのあの作品に如実にあらわれていました。そして、何よりひどいのは、ああいうろくでもないものを世の中に堂々と出す、その根性です。あなたのような若者がいるという事を考えると、この国の未来は暗いのだ、と私は考えざるを得ないのです。もっと勉強して下さい。もっと本を読み、考えてください。といっても、あなたのお好きな『太宰治』などというくだらん作家はよすべきです。私は彼を、亡国の原因の一つだと思っています。現代の若者が軟弱になったのには、彼の責任もあるでしょう。私には、あのような恥ずべき作家が国民的人気を誇るという事が全く理解できません。もちろん、あのようなタイプの根暗で軟弱な作家を、あなたのような若い時分の人間が好きになってはまりこむ、そういう事は十分考えられます。ですが、そのようなものを大人になってまで読むというのは、軟弱で弱々しい事に他なりません。私はあのような作家がこの国を害するその原因になっていると思うのです。私は、この国を案じている。そしてあなたのような若者がいると思うと、真に暗澹たる気持ちになります。
 書いている内に本当に腹が立ってきましたが、あなたの作品は本当に品がないですね。ひどいものです。日本語もひどい。あなたはどうせ、今ネットで言う所の『Fラン大学出身』の、まともに日本語も読めない人間でしょう。例えば今、今村友紀という作家がいますね。彼はおそらくあなたと同世代ですが、彼は東京大学の医学部を出てから、文学を志し、そして新人賞も取りました。あなたとは正しく、雲泥の違いです。そうでしょう?。あなたは無名で、ろくでもない日本語しか使えない愚か者であるにも関わらず、その作品の中では随分と威張っておられる。…全く、恥ずかしい限りです。同じ日本人として。あなたはあの作品の中で、芥川賞と直木賞受賞作品をおもいきりけなしておられましたね?。…全く、ひどい話ですね。あなたには呆れるばかりです。あなたご自身はただの無名のニートにすぎないのに、今をときめく芥川賞、そして直木賞作家をこきおろしておられる。あなたには文才はありません。私がここで今、断言しておきましょう。あなたには一切の才能、文才がありません。あなたは自分が賞を取れなくて、しかもFラン大卒のクズなのに関わらず、そのひねこびた自尊心を満足させるために、世の中の偉い人に噛み付いているクズに過ぎないのです。どうですか?。何か、反論がありますか?。私の言っている事は間違っていますか?。あなたは、本当にクズですね。こうして書いている内に、私は本当に腹に据えかねる思いがしてきました。このまま書き続けるのは不快なので、あと少しだけ、あなたへアドバイスしてこのメールを終える事にします。よく、お聞きなさい。
 まず、最初にあなたは働きなさい。まず、あなたはニートをやめて、働きなさい。あなたはあなたがニートである限り、どんな人もこきおろす権利がありません。そして、もっと勉強しなさい。それはあなたの好きな太宰治などという軟弱な作家ではなく、谷崎潤一郎や川端康成のような、きちんとした正統の日本的作家を読むべきです。あなたのような人間が文学を語る権利は一切ありません。あなたには文才がないし、文章も滅茶苦茶です。まず、三点リーダーの使い方、あるいは正しい、きちんとした日本語の使い方から学ぶべきです。そしてあなたには今の芥川賞や直木賞を取った作家を笑う権利は一切ありません。悔しければ、新人賞の一つでも取ってから文句を言うべきです。あなたはご自身が何も達成されていないのに、もう他人をあざ笑う事を自分の本懐としておられる。あなたは、最低の人間です。まず、働け。全てはそれからです。自分自身がきちんとしていない人間に、文才も何もないです。では、これでこのメールを終える事にします。私はいろいろとひどい事を言ったかもしれませんが、それは全てあなたの事を思っての事です。老婆心からです。それでは、あなたがいつか立派な作家になる事を心から願っています。それでは、あなたの事を新聞紙面で見かけるその日まで。五月十八日。手羽先。』


 僕はこの長文のメールを、目を点にして最初から最後まで読んだ。そして読み終えると、僕は再び最初に戻ってまたそれを読み出した。僕は計三度このメールを読んだ。そして、次のような返信をした。

 『長文の感想メールありがとうございました。手羽先さんの言葉は一つ一つ、心に染み入るものでした。手羽先さんの言っている事は全く正しいし、僕もそう思います。でも、人間には「運命」というものが存在し、それはどうにもならないものだ、という事を手羽先さんは忘れておられると思います。そして、手羽先さんが嫌っておられる太宰治という作家は正に、そういう運命を背負っていた人だと思います。確かに、彼は僕同様ろくでないクズだったかもしれませんが、しかし、彼は一人の人間であろうとその生涯を貫いた人でした。人間というのは、正しさという一般性だけで生きていけるものではありません。他人からどのように見えても、その人にはもがき苦しんでいる何かが、その人の中にあるという事は十分考えられるのです。そして、よくよく考えれば全ての人がそうではないでしょうか。僕は確かに、手羽先さんの言うとおりクズの中のクズですが、しかし、僕はクズから脱却する事より、自分がクズであると世界に向かっておおっぴらに宣言する事を好みました。それが僕の世界に対する精一杯の誠意でした。その誠意が手羽先さんにも感じられたら良かった、と思います。僕もいつか、手羽先さんのお眼鏡にかなう作品を書ければいいと思います。なんにせよ、長文の感想メールありがとうございました。
 ところで、僕は今まで自分の作品に自信がなかったのですが、この手羽先さんのメールをいただいて、始めて自分の作るものに自信が持てるようになりました。僕の書いたものにはどこからも、全くといっていいほどに反響がなかったのですが、これほどの批判的な長文メールをもらうという事は、他人の憎悪を掻き立てる『文才』というものが、少なくとも僕の中にはあるのだな、という事が自分でもよく分かりました。いずれにしろ、僕にこのような自信をもたらしてくれた手羽先さんに僕は深く感謝します。色々とありがとうございました。』


 その後、手羽先さんからの返信は来ていない。

寝る前の読書


 今日は「カラマーゾフの兄弟」の続きを読んでから寝る事にしよう。・・・もう、僕はは正直飽きてしまったんだ。・・・友人からの誘いにも気乗りしないし・・・。今更、誰かのおちゃらけたバンドのライブに行ったって、どうなるものか?
 物事の裏まで見えてくると、人生というのは幸せではなくなってくる。・・・例えば、飲食店というのはどれも衛生管理なんててんでやってやしないし、それに、アイドルだの声優だの何だのと、その裏がいかに汚れているか・・・馬鹿馬鹿しい。このわけのわからない世界で、自分勝手に夢を見る事を、自分自身の知性に妨げられてしまうと、もう楽しさは失われ、幸福は消える。友人の、恋人の、自分に対する陰口を想像して見給え。・・・しかも、それは実際に起こっているのだ。
 ・・・だから僕は「カラマーゾフ」を読んで寝る事にする。・・・手元に残るのはこれ一冊。陰鬱さ壮大さと神聖さと、それより何より真実と・・・。そんなものが人生にいるのかどうか、それは誰にも分からないが、人生というものから見捨てられた男には、そんなものが今、必要なのだ。
 さて、読書灯をつけよう。

僕の親友

 「所詮、世の中の連中なんて大した事ないさ。この程度だよ」
 と、酔ってきたツダは言った。ツダは、酔うといつもより三倍くらいは饒舌になる。
 「俺はさ・・・ゴッホのように死にたいんだよ。あるいはニーチェのように、ね。俺は・・・今、この世界で、誰にも自分が理解されていないという事を誇りに思っている。俺はね・・・シドウ。自分の孤独を潔癖に保ったまま、死にたいんだ。自分の孤独が真っ白な状態のまま、死にたいんだ。・・・その場所を、この、まるで新雪のように美しい俺の孤独を、世の中の連中に、誰一人として渡したくないんだ。・・・いや、ほんとのところ」
 そう言ってツダは、自分のチューハイを最後まで、ぐいっと飲み切る。僕には、ツダの言っている事が、完全には分からないのだが、その意味を把握しようと試みる。・・・僕は優しいのだ、と自分でも思う。ツダのような人間の言葉を聞く人間は、僕以外には一人もいないに違いないのだから。
 「なあ、生きる事って、どういう事か、分かるか?」
 と、ツダは僕にツダにお馴染みのーーーーーというか、飲んだオッサンに特有の(ツダも僕もまだギリギリ二十代だったが)質問を発してきた。
 「・・・さあな。どういう事なんだ?」
 と、僕は相手の話を聴く態勢を取ってやる。
 「生きる事っていうのは・・・・いや、そんな事、言うまでもないか。キミはサラリーマンをやってるんだろう?・・・。しかも、早稲田の理工学部を出た後に大手の電化企業に就職したエリートだ・・・。だったら、俺の言っている事が即座に飲み込めるだろうさ。キミが毎日毎日、やっている事・・・。つまり、インチキだ」
 「インチキなどやっていないさ。僕は・・・」
 と、僕も思わず反論する。
 「わかってるよ。わかってる。そう、怒るな」
 と、ツダは僕をたしなめるように、両手を上げて上から下へとひらひらさせた。
 「俺だってわかってるさ。キミが優秀な社員だっていう事ぐらい。キミが社会秩序を重んじ、それを形成している一人の人間だっていう事ぐらい。・・・だがな、俺の言っている事もまた事実だ。・・・いいか、生きる事は、インチキにほかならないんだ。・・・何故かって?・・・それはさ、この世界全部が嘘でできているからだ」
 「どういう事だ?」
 と、僕は眉を潜めて聞く。
 「考えても見ろよ。・・・君の企業が何を作って、何を社会に提供しているかを。・・・そして、その提供された連中が、どの程度、通俗的な生き方と考え方を持っているかを。・・・いいか、例えば、安くてうまくて早い、ファーストフードがこれだけ普及したのは良い事だ。それは間違いない。それは、『忙しい』サラリーマンにぴったりだ。・・・で、そのサラリーマンは何を作っているんだ?・・・これまた、忙しいサラリーマンにぴったりの、新たな情報サービスか?・・・いいかい、この社会は回りに回っている。世界は回りに回っているが、その全てが、一体、どこに向かっている?・・・思想、哲学、そんなものはもう廃れた。二十世紀というのはクソの時代だった。ヒトラー、スターリン。彼らがいかに高邁な哲学を語り、そして、下劣な事をしでかしたかは見てのとおりだ。・・・だがな、ろくでもないのは彼ら権力者だけじゃないんだよ。そうじゃなくて、俺達自体がとんでもなく下劣なのさ。・・・価値観?・・・俺達には、金という一つの基準、その価値観しかない。・・・どうだよ、見てみろよ?・・・政治家は、「あなたの将来を明るくします」などとぬかしているが、結局の所、それは金銭的解決の事をさしているんだよ。もちろん、今の政治家に、そんな解決はできないにきまっているが、だがな、金銭的解決がそのまま、人間の幸福に直結するとは、誰もが認めているじゃないか?・・・。右翼にしろ、左翼にしろ、同じ事だ。どっちにも、俺はうんざりなんだよ、全く・・・。じゃあ、いいか。俺が金をたんまり持っているとして、一体、どうするっていうんだ?・・・考えても見ろよ。・・・キミはすぐに、そういう立場になるに決まっているから、この事は考えてみる必要があるさ・・・本当に。キミはどうする?。高層ビルの七十五階に4LDKだか5LDKだかの住居を構えて結婚し、子供たちを馬鹿高い学費を請求する私立学校に入れるか?・・・。そして、キミはポルシェだか、ランボルギーニを乗り回すのか?。・・・いいか、よく考えるんだ。この世界は実に複雑怪奇にできている代物だが、その頭に宿っているのは、実に貧弱な観念でしかない。考える、考えるんだ・・・。大体がランボルギーニを東京の市内で乗り回す事に、一体何の意味がある?・・・ただ移動するだけなのに、別に二百五十キロで飛ばす道なんてどこにもないのに、F1レーサーでもないのに、どうしてそんな馬鹿みたいな車を乗り回さなきゃいけないんだ?・・・。シビックでいいだろ。それで十分だ。・・・教育に金をかける?・・・笑わせるなよ。全く。ほんとにさ・・・いいか、私立の高い学費を請求する学校なんか、何一つ分かっていない能なしの連中にすぎないが、彼らは、一つの事だけをわかっているんだよ。つまり、体裁を良くして、そうして金持ち連中から金を巻き上げるっていうその方法をね。・・ただ、それだけの事さ?・・・。大学?・・・おいおい、笑わせるぜ、それこそ。おい、大学教授のどこに、まともに学問をしている連中がいる?哲学?科学?・・・おいおい、笑わせるぜ。彼らは過去の哲学者や科学者やその摂理をぐじぐじといじくって、それでその日その日の金を得ている連中にすぎない。いいか、わかるか・・・。『本当に哲学するとは、哲学を馬鹿にする事だ』。このパスカルの言葉の意味を、真の意味で理解でき、そして、実行できる奴が、この世界のどこにいる?・・・おいおい、何が学問だよ。笑わせる。世界はな、インチキに満ちているんだよ。・・・もし、今の時代に、パスカルやデカルトがいたとしても、彼らは、この世界にうんざりして、どこか端の方で自分自身の真理を開拓しているに違いない。こんな馬鹿な連中と一緒につるんでたら、こっちまで馬鹿になるからな」
 「じゃあ、貧乏人はどうなんだ?金持ちよりはマシなのか?」
 と、僕は自分の興味から聞いてみた。・・・ツダは今、バイトしかやっていないから、どっちかというと「貧乏」の方に位置する。だが、ツダは「金持ち以下だよ」と半笑いで答えた。
 「貧乏人っていうのは金持ちより、ひどい連中だね。・・・全く。彼らは、妙な人権だの権利だのを覚えたので、自分達が不幸に陥っているから、金持ち連中を攻撃して、その金を横取りする権利があると本気で錯覚している。・・・いや、もうどうでもいいんだよ。全部が。・・・だって、貧乏人がステップアップすれば金持ちになるが、結局、精神の貧しさは変わっちゃいない。魂の貧しい奴はどこに行っても、あの世へいこうがどこへいこうが貧しいが、彼らの求めるのは表面的な服装の華美さだけさ。まあ、こういう言い方は、モラリスト風だがね」
 そう言うと、ツダは手近の厚焼き玉子をほうばってから、頼んでおいたレモンチューハイをぐっと飲んだ。その様子を見ていて、僕は何か言いたくなった。
 「じゃあ」
 と、僕は言った。
 「何もかも駄目なのか」
 「駄目だね」
 と、ツダはあっさりと言った。
 「最近、パスカルを読んでるんだが・・・」
 と、ツダは言った。
 「そこに『神なき人間の惨めさ』っていう事が書いてある。・・・要するに、神がいない人間は、惨めでどうしようもないって事さ。パスカルの説によれば・・・っていうかもう、普通に考えれば、王様も貧民も平民も、何から何まで惨めなんだな。・・・そして、人間はとにかく惨めだという事が、パスカルの精緻な頭脳によって論証される。あんな賢い人間は、後にも先にもいないから、あんな風に論証されたら、こっちも言い返す言葉がなくてね。・・・それで、最後には『考える』という事がある。・・・人間の栄光は考える事にある、だとよ。栄光とは言ってなかったかな・・・まあ、いいや。それで、要するに、人間は惨めで、まあ、考えたって、惨めって事なんだろうな。考えるって事は人間に与えられた恩寵なのかもしれないけど。・・・だって、そこまで賢かったパスカルは、最後にはキリストに服す事になるからな・・・」
 僕はツダの言っている事が半分もわからなかった。僕はパスカルを一行も読んだ事がないからだ。
 「じゃあ、もう、どうすりゃいいんだい?」
 と、僕はたまりかねて言った。
 「どうもしないさ」
 と、ツダは相変わらず、あっさりと言った。
 「・・・別にどうもしないよ。俺はね・・・驚くんだよ。世の中の連中が、こんなにも『自殺』というものを考えた事がない、というその事実に。日本っていう国は、なかなか繊細な国だから、自殺者の数が多いらしいがね・・・だが、どうして、誰も彼も、もっと『自殺』というものを考えないのか、俺には実に不思議だね・・・。生というのはこんなにも絶望にも彩られているのに、愚かさだけが、それを見えなくしている。だから、みんな生きる事にすがりつく。考えてもみなよ・・・」
 そう言って、ツダは何故か、両手を高く掲げて見せた。
 「考えてもみな・・・。例えばここに、自分の将来を理想化している人間がいるとする。・・・将来、自分は金持ちになるだとか、幸せな結婚生活を送れるだとか、仕事をドロップアウトして、ゆっくりした老後が送れるとか、実に様々な理想や夢がある。・・・だがな、彼らが実際に、それに出会うと、百パーセント、彼らはそれに失望する事にする。現実は夢とは違うからな。だが、彼らは、失望するまでは生きている事ができる。で、世の中の連中というのはどいつもこいつも能なしだから、失望や絶望にたどり着くまでにいかないのさ・・・。絶望にたどり着くには、パスカルの頭脳と心情を要する。そうして、あの天才は、千年に一人の人間だ・・・」
 そう言うと、ツダはどこか悪魔的な相貌になって、目の前のグラスを眺めながら話を続けた。 
「だから、俺達の生を救ってくれているのは、俺達の愚かさなんだよ。・・・それ以外にないんだ。・・・全くの所。・・・いや、ほんとうに。・・・例えば、俺達の目の前には断崖絶壁がある。そこに落ちたら、間違いなく確実に『死』だ。そして、俺達はみんな、背中の方から、化け物に追い立てられていて、そうして少しずつ、その崖の方に近づいてくしかない。・・・で、この化け物って奴も巧妙で、意地悪いから、俺達をちょっとずつ、ちょっとずつ、その断崖の方へ行くように仕向けるんだな。・・俺達に逃げ場はない。だから、みんなで、その断崖の方へ進んでいかざるを得ないわけだ。・・・で、だ。ここで、俺達を救うのは何だと思う?・・・あるんだ、俺達を一つだけ、救う方法という奴が」
 ・・・そう言って、ツダは天に向って指を一本立てて見せた。
 「それこそが『愚かさ』っていうわけだ。・・・つまりな、俺達は、念じるんだよ。次のようにな。『あの先は断崖じゃない、天国だ。あの先は断崖じゃない天国だ、あの先は断崖じゃない天国だ・・・』。で、これをしまいには、みんなで合唱するんだ。『あの先は断崖じゃない!天国だ!』・・・もうみんなで大声張り散らして大合唱さ。・・・すると、その先は本当に断崖じゃなくて、天国に見えてくる。・・そしてついでに言えば、俺達を追い立てている化け物だって、その内、俺達を天国へと促す天使の群れに見えてくるかもしれないな。・・・まあ、これが世間で言うところの『希望』って奴だ。・・・物が見える人間には絶望しかないが、物が見えないという事が人を救う。俺達がこんなにも元気溌剌で、明日への希望なんて言っている事ができるのは、全部俺達の愚かさのためさ。俺達は目が見えないから、未来は明るいと、勝手に愚かな想像力を羽ばたかせられるのさ」
 そこまでツダは言うと、持っていたグラスを置いて、目を閉じた。・・・僕はそこまでツダにまくしたてられて、何も言う事ができないでいた。自分の内心の中にはざわついていたものがあったものの・・・。
 僕は店員を呼んで、水を二つ頼んだ。もうそろそろ潮時だったし、ツダももう随分と酔っているようだったからだ。・・・そして、その時、ふと、一つの疑問が浮かんだ。
 「だったら」
 と、まだ目をつむっているツダに僕は話しかけた。
 「君はどうするんだ?」
 ツダは目を開いて、うろんな目をこちらに向けた。
 「もし、絶望しかないのなら、どうするんだ?自殺するのか?」
 それはシビアな質問だったが、僕は、聞かないわけにはいかなかった。
 「どうかな?」
 と、ツダは酔った目を宙に漂わせた。
 「・・・さあ、まあ、自殺する時は自殺するさ。だが、俺はこの断崖を楽しむかな・・・。もしかしたら、俺には、絶望を楽しむ事ができるかもしれないし・・・」
 そう言いながら、ツダはこちらを見て、ニヤッと笑った。
 「それに、この怯えた子羊のような人々の動きは、見物するのに楽しいかもしれない・・・。まあ、俺も落ちる一員なんだけどな・・・。問題は、沈没する船の中にいて、その事を知っている人間と知らない人間がいるって事だ。俺は・・・・・そうだな・・・・」
 と、ツダはもう一度、目線を上げて考えようとした。そして、その濁った視線は宙を這った。
 「さあ、どうするかな。どうするか・・・」
 ・・・・・・・そう言って、ツダはテーブルに大きな音を立てて、崩れ落ちた。持っていたグラスが割れ、氷が中から飛び出してきて、僕の服に当たった。店員と客が同時にこっちを見て、店員がパタパタとこっちに走ってくるのがわかった。



                             ※

 僕はツダを自分のアパートまで連れて行く事にした。僕はツダを肩にかついで店を出ると、タクシーを呼んで運転手に僕のアパートまでの住所を告げた。ツダはタクシーの中では、ぐっすりと眠っていた。僕はその眠り顔を見ながら、やれやれ、何故こんな友だちを持ったのか、と半ばは本気で、半ばは冗談で考えた。・・・だが、と僕は考えた。こいつは、会社で会う人や、大学でできたどんな友達や恋人とも違った毛色の人間だ。こいつは・・・・異常な人間だ。そして、何かを持っている・・・。
 アパートまでつくと、タクシーの運転手に礼を言い、何とか階段を登って、ツダを僕の部屋の中に押し込んだ。そして、ツダの頬を軽く叩いて、目を覚まさせた。
 「おい、起きろ。僕のアパートまで連れてきてやったぞ。おい」
 あ・・・・?、と言って、ツダはようやく少し意識を取り戻した。僕はツダを連れて行き、僕のソファーに寝かせた。ツダは薄く目を開きながら、「悪いな」と、老人のようなぼそぼそしたか細い声で言った。
 「おい、ツダ」
 と、僕はまだ、意識が半分くらいしか戻っていないツダに向かって言った。・・・僕は飲み屋で言われた事の復讐を、今、果たそうとしていた。
 「お前の絶望の哲学は、こんなものか。お前の大層な言葉、その哲学の結論は酔いつぶれて、その挙句、友達のアパートに連れて帰ってもらう、そんなことなのか。それがお前の哲学の答えなのか?」
 ・・・だが、ツダは聞いていなかった。彼は目をつむり、その意識はまた闇の底に戻っていた。・・・やれやれ、と僕は呟いた。こいつは多分、その言葉とは逆に、そんなに簡単に死にはしないな・・・と僕は思った。だが、もし、そうだとして、そんな風にして死なずに生き続けるこいつの人生とは一体、なんだろう・・・?。
 だが、僕はそんな抽象的な思考を続ける事はできなかった。・・・大体、そんな小難しい事を考えるのは僕の得意とする事ではない。それをするのは、こいつーーーツダの仕事だ。
 やれやれ、と僕はツダに薄い上掛けをかけながら呟いた。僕もシャワーに入って、寝なければ。僕は平凡人だ。月曜になったら、月給もらう為に仕事へいそいそと出かける平凡人なんだ。僕も酔いを覚ましてから、寝なければ。
 ・・・翌日、目覚めると、ツダはソファーの上から消えていた。そして、その上には「昨日は悪かったな」という小さなメモと共に、タクシー代と書かれた紙切れもあった。そしてその紙切れの下には、五千円札が一枚置いてあった。

先輩との話

 大学の先輩が、昔、僕に言っていた事が、ふと思い出される事がある。
 「お前は考え過ぎなんだよ。世の中なんてな、要領よくやりゃあいいんだよ。例えばなあ・・・ほら、あそこに女の子いるだろう。今から、俺が声をかけるからな、見てろ・・・」
 そう言って、先輩は、その女の子に声をかける。・・・その女の子は、ちょっと清楚風のお固い化粧で、日傘なんかを射していた。誰かを待っている様子・・・あるいは、デート相手の彼氏を待っているのかもしれない・・・。
 だが、その三分後には、先輩はその女の子を引っ張って、僕らのいた所まで戻ってくる。・・・先輩はイケメンだし、それに口も達者だった。・・・しかし、それにもましてすごかったのはその度胸だった。ハッタリをかます、その度胸だった。・・・「世間なんて所詮、ハッタリでできているから、いかにハッタリかますかが問題なんだよ」と、先輩は、よく言っていた。
 先輩は女の子を連れて、僕の所に戻ってくる。そして、その第一声。
 「・・・こいつは、俺の後輩のミネギシ君って言うんです。・・さっき、こいつと一緒に歩いていて、あまりにも美しい女性が目に止まったんで、俺はこいつをほっぽり出して、あなたの所まで来て、こうして口説いてしまったというわけなんですよ・・・。・・・おい、ミネギシ、挨拶しろよ。この人は、世界一の美人、この人混みの中でも一番美しく輝いていた令嬢だぞ・・・」
 そう言って、僕はその「令嬢」に挨拶をする。「令嬢」はもちろん、僕なんか気にも留めていないのだが、一応は、軽い挨拶を返してくれる。
 「おい、ミネギシ。この人はなあ、今、彼氏と待ち合わせしていたんだが、俺がどうしても五分だけ時間をください。あなたの一生で、最も輝かしい時間にしてみせますから・・・。と、言ったら、快く応じてくれたんだよ。・・・いや、もちろん、わかっているさ。この人が、そこらの尻軽女とは違う、という事は。ね、そうですよね。(そう言って、先輩は女の方を見てニッコリと微笑んだ。女も微笑む。)・・・俺はな、ミネギシ、この人にこう言ったんだよ。・・・女性っていうのは、誰でも、幸福になる権利がある。・・・それは、絶対にある。そして、女性の幸福はつとに男性にかかっている。だから、女性は男性を選ぶ権利がある・・・。俺はな、一つの当然の疑問を提出したんだよ、ミネギシ。つまり、今、この人が待っている彼氏は、あなたを本当に幸福にできる男でしょうか?本当にそう思えるでしょうか?・・・って、な、あなたほどの人なら、もっと、素敵な人が待っているはずだ。そして、俺こそは、それに値する男なんだって、な・・・。っていうわけで、ミネギシ、俺はこの人とデートしてくるわ。悪いな。もうこの人も・・・その彼氏に、断りのメール送ったって言うからさ・・・。そもそも、その彼氏は今日のデートにすでに三十分も遅刻してるんだぜ・・・ひどい話だろ?・・・。こんな美しく素晴らしい女性を三十分も待たせるなんて、俺には考えられんな・・・。じゃあな、ミネギシ。また、大学で会おうぜ」
 そう言って、先輩はその女の手を取って、この真昼間の都会の中、どこかに消えてしまった。僕は一人取り残されて、ため息をつきながら、思ったものだ・・・。やっぱり、先輩には叶わないな、と。
 

 ・・・僕も大人になって、色々な事が分かるようになった。先輩の事、彼の事を羨ましいと思っていた自分、そして、そういう自分も、先輩もまた、おそらく間違っていた事も・・・・。・・・先輩は、そうやって、ナンパした女と消えた翌日に、僕と大学で会った時、次のような事を言っていた。
 「よう、ミネギシ。昨日は悪かったな。・・・途中で消えちまって。まあ、俺も、一発で釣れるとは思ってなかったんだよ。俺の美貌と喋りがあるにしてもな・・・ハハ・・・。でな、俺とあの女(名前はもう忘れちまったよ。なんでも、どこぞの良い大学のお嬢さんらしい。)が、昨日、どこまでいったか、わかるか?お前。・・・いいか、あのな、俺は昨日のあの女とホテルまでけしこんだんだよ。・・・いや、本当に。あの女、意外に淫乱でな、めちゃくちゃあえいでいたよ。セックスの時にな。・・・で、俺は、あいつに、枕元で、あの女への永遠の愛を誓ってやったんだ。愛してる、とか、めちゃくちゃかわいいとか、君ほど素敵な女はこの世のどこにもいない、とか、できるだけ月並みな、馬鹿な女でもわかるセリフをたんまりと使ってな。・・・で、その手には、例によって、俺が作ったメモを握らせたんだが、そこにはもちろん、俺の偽の名前と偽のメールアドレスが書いてあった。・・・で、俺がこんな事で、罪悪感を感じると思うか?え?・・・お前はどう思うんだ?」
 「感じませんね」
 と、その時の僕は言ったものだ。
 「先輩がそんな事、感じるはずがないですね。むしろ、それを誇りに・・・」
 「さすが、俺の後輩だ」
 と、先輩は満足そうに頷いた。
 「・・・いいか、こんな事で、女を騙した・・・なんて、罪悪感を感じる奴はバカだ。いいか・・・セックスの時には、あの女はあんあんとあえいでいたんだぞ・・・それこそ、満足していたわけだ。あのバカ女は。・・・だからな、嘘をついたとか、そんな事で罪悪感を感じるのは間違いだ。大体が、その時、いい気持ちになりゃあ、人生なんてのは、それでいいんだよ。・・・わかるか。永遠とか真理とか、そんなものを追っている哲学者とか、作家とか、そういう連中を俺が嫌っているのは、そういうわけだ。・・・あの女は、すぐに、俺にだまされた事に気づくだろうが、しかしなあ、それは後に残らない、美しい清い体験だったんだ。・・・俺はあの女を、一人のお姫様として、扱ってやった。俺は、あの女に、美しい夢を見せてやったんだ。・・・もちろん、実際、あの女というのは、無数にいる女の中の一人にすぎない。あの程度の女、腐るほどにいる。それが、真実だ。だが、俺は違った。あの女に夢を見せてやった。嘘という素敵な夢をな。そして、俺が夢を見せてやる代わりに、あの女は俺に股を開いてくれた。・・・だからな、こんな事で、あの女に罪悪感を抱くのは、徹底的に間違っている。むしろ、俺はあの女に感謝してもらってもいいくらいだ。違うかい?」
 ・・・先輩のその雄弁に、その時の若い僕は、心ときめかせた。先輩は行動力があり、モテて、なんでもできるスーパーマンだった。英雄だった。その時の僕には。そう・・・・・・その時の僕にとっては。
 先輩はやがて、大学を卒業すると、その持ち前の行動力と、嘘八百をつく能力をふんだんに使い、ある有名な一流企業に就職した。その企業にうちの大学から就職したのは、先輩が始めてだった。・・・それほどまでに、先輩の能力は・・・もとい、能力のある振りをするという能力が高い人間は、先輩の他には一人もいなかった。
 


 それから十年の歳月が流れた。先輩は、今は三十三歳であり、僕は三十歳になった。十年の時の分、それだけ、年齢を重ねたわけだ。当たり前の事だが。・・・だが、その十年で全ては一変した。たった十年・・・されど、十年、だ。
 僕はそれから、色々あって、ニートをやったり、会社員をやったりした後、フリーターに落ち着いた。それから、二十五から音楽を始めた。その事を誰も咎めも褒めしなかったし、その事を知っている人間は僕意外にはほとんど一人もいないのだが、僕は、それを淡々とやりつづけている。それはまだ形にはなっていない。だが、やがて『形』になるだろう。・・・才能の有無に関わらず。
 先輩の事について、僕は何にも知らなかった。・・・ただ、あの特異な人物の事を、ふと思い出す事はこれまでにもたびたびあった。そして、そんなときにはいつも、先輩は、今もあの調子のまま、上手くやっているに違いない・・・と思うのだった。先輩はきっと、死ぬまであの調子で、朗らかに生き続けるにちがいない。
 その先輩から、昨日、急に電話があった。・・・それは深夜一時の事だった。実は、僕がこの小文で書きたかったのは、そのことなのだ。


 
 携帯が鳴り、それを手に取ると、そこには先輩の名前が映し出されていた。それを見た時、僕はもちろん驚いた。それは、先輩がこんな時間に、僕に電話をかけてきたという事に対する驚きだったのだが、それ以上に、僕が先輩の電話番号をまだ電話帳から削除していなかった、という事に対する驚きだった。・・・僕は困惑しつつ、電話に出た。
 「よう、ミネギシ」
 と、先輩の、昔懐かしのあの明るい、朗らかな声が聞こえてきた。・・・だが、その声は、何かのフィルター越しのように、どこかくぐもって聞こえた。
 「よう。どうだ?調子は?・・・悪いな、こんな夜中に、電話しちまって」
 ・・・僕は、昔の先輩を思い返しつつ、自分の事を、少し話した。自分の今の境遇、自分の今している事・・・・それを話すのに、五分とかからなかった。・・・大体、僕の人生は、三分でダイジェストが効くような代物なのだ。
 「・・・そうか。なるほどな。そんな事になってるとはな・・・」
 そう言って、先輩はほんのすこし沈黙した。・・・まるで、何かを言い出す為の、間合いを計っているような沈黙だった。僕はすぐにピンときて、ああ、嫌な感じがするな、と思った。・・・例えば、そう、十年ぶりにあった友達に急にマルチ商法をすすめられる、その直前の、話の切り出しを待つかのような。
 「・・・ところで、お前、金、もってるか?」
 ほら、来た、と僕は思った。金ですか?・・・と僕は言いつつ、その後に先輩が語り出した話を全部聞いた。・・・それは実にありきたりな話だった。
 同僚の女を妊娠させてしまって、困っている。それと共に、その事が嫁にバレて、嫁は離婚を持ち出してきている。慰謝料を払うとなったらバカにならない、それに、また、それとはちょっとした別件で、お前に、信用のある家柄の友人という役柄を演じてもらう必要があるんだが・・・などという事を先輩は話した。僕はその身の上話を全部、上の空で聞いていた。僕は携帯を耳に当てながら、PC画面を開いて、エロサイトを見たり、TwitterのTLを眺めたりしていた。
 「ほんっとにバカな女共なんだがな」
 と、先輩は言った。
 「あいつら、バカの癖に、人権だの権利だの、弁護士を雇うだの、また、愛の欠如だのなんだのって・・・・本当に笑わせやがるぜ。だが、ほんとに困ってるんだ。・・・頼りになるのはお前だけなんだぜ、なあ、頼むよ。ミネギシ」
 と、先輩は言った。・・・僕は先輩の話の途中から既に、面倒くさいな、という気持ちになっていた。
 「先輩」
 と、僕は言った。
 「僕で何人目なんですか」
 「は?」
 と、先輩。
 「それを頼むのは、僕で何人目なんですか?・・・僕も、見くびられたもんですよ、先輩。・・・僕は先輩のその手口、『お前だけが頼り』っていうそのセリフ、そのセリフの正体をさんざん見せてもらったんですよ?・・・。手品のタネを明かした相手に、その手品をするっていうのは無意味でしょう」
 先輩は急速に黙り込んだ。
 「先輩。先輩は、あまりにも変わらなさすぎているんですよ。きっと。・・・馬鹿にも復讐心はあるし、人権だってあるし。先輩はその事を忘れていたんですよ。全くの所。先輩・・・・・あなたの会社での立ち位置って、どうなんです?・・・まあ、今も同じ会社にいるかどうかわかりませんが。・・・どうせ、最初は威勢よく、仕事ができる奴っていう振る舞いで、誰からも朗らかで好かれたりして、そして女達からも慕われたのかもしれませんが、その内、社内の女に手を出しまくっている事がバレて、会社内での立ち位置が悪くなる。そして、別の会社に行くとかね・・・。先輩、そんな生き方をしているんじゃありませんか?先輩?・・・・でも、先輩、自分のテーゼを思い出してくださいよ。先輩・・・・今が良ければ、それがベストなんでしょう?「今」が、最高なんでしょう?先輩?・・・でも、先輩。先輩は、自分が積み上げてきた『今』に裏切られているんですよ。今、この瞬間にね。そして、それが先輩の『今』なんですよ・・・・・・・」
 先輩はむっつりと黙り込んでいた。・・・先輩は、もう僕に対して言うべき事が何もないみたいだった。・・そして、おそらくは本当に言う事がなかったのだろう。先輩は僕に説教を受けに電話してきたわけではない。・・・はっきり言って、彼は高級な乞食のように、僕に物乞いをしにやってきたのだ。・・・もっとも、人間というのはみんな、大なり小なり乞食にちがいないが。
 「・・・・お前、変わったな」
 と、先輩はぽつりと言った。・・・それは僕が知っていた、『強くて格好いい先輩』とは全然違う先輩だった。
 「・・・お前は強くなったよ。俺と違ってな」
 と、先輩は吐き出すように言った。僕はその時、何故だかーーーーー有頂天のようになっていた。多分、足をもがれたバッタを踏み潰す子供のように、残酷な気持ちだったのだろう。
 「先輩・・・先輩、元気だしてくださいよ。お願いだから・・・・先輩。あの時の、力強くて、格好良い先輩を、もう一度見せてくださいよ。・・・俺達一年坊に・・・・ハハ。先輩・・・先輩なら、まだできますって。例えば。資産家の婆さんに甘い言葉を吐きかけて、一億二億ふんだくるとか。そうだ、ドバイにビルをもっているどこかの国の御曹司の振りでもすればいいんですよ。・・・それで、国に帰れば、自分の金はうなるほどあるけど、今ちょっと、とある事情で無くなっちゃったんだって・・・。どうして、日本語がそんなにうまいんだって?・・・え?・・・それは、二年ほど、学生時代に留学してたからですよ。日本に来るのは二度目なんだ。そう・・・・それで、話が矛盾するようなら、「好きだ」って言って、抱きしめれば、それでいいでしょう?そうじゃないですか?先輩?できるでしょう?」
 「お前がやれよ」
 と、先輩は冷酷な声で言った。
 「僕?・・・僕には無理ですよ。先輩、僕と先輩じゃ、もっている哲学が違う。いや、それ以前に、僕なんかの落ちこぼれじゃあ、そんな大役はできっこない。・・・言ったでしょう?・・・僕は三十にもなって、フリーターですよ。人間のクズ、落ちこぼれです。友達もいなけりゃ、彼女もいない。先輩みたいに、明るく朗らかでもなければ、他人に気の効いた嘘一つつく事ができない馬鹿なんです。そして、馬鹿は馬鹿にふさわしい境遇に落ち込んだ。・・・それが、僕の『今』です。先輩、僕じゃあ、無理なんですよ・・・先輩のような、『選ばれた人間』じゃないと、成功はおぼつかない。先輩・・・もう一度、立ち上がってくださいよ。あの、大学の頃のかっこいい先輩を、もう一度僕らに見せてくださいよ。女なんて、そこら辺に転がってますって。あいつらは、先輩の素敵な嘘に、やっぱり昔と同じように、うっとりとしますよ。そして、そこから、いくらでも金を引き出せばいいじゃないですか?・・・先輩、もう一回、花を咲かせてくださいよ。おねがいしますよ・・・ハハ。もう一回、どこかの企業に就職して、その会社から金かっぱらったっていいじゃないですか?・・・。いや、モテる為の方法論を書いて、馬鹿な十代の童貞のガキどもをだまして、まきあげたっていいじゃないですか?先輩、先輩・・・・・・?」
 ・・・・・・・・・・もう電話は切れていた。・・・僕は気づかずに、回線の向こうの虚空に向かって、一人しゃべり続けていたのだった。・・・僕もまた、回線を絶った。プチッ。
 電話が切れた後、僕は腹が減ったので、冷凍庫から冷凍のチャーハンを取り出し、レンジにかけてあっためた。そして、それがあったまるまでの六分三十秒の間、先輩の事を考えた。先輩はどんどん、明るく朗らかではなくなっていったに違いない・・・この十年で。十年。・・・何もかもがすっかり変わってしまった、と僕は思った。
 そして、僕は夜更けの台所で、一人チャーハンを食べ、冷蔵庫から取り出してきた残りのワインを飲んだ。・・・ワインは渋くなっていて、チャーハンは塩辛すぎた。・・・これが底辺だ、と僕は、ふと声に出してみた。ああ、せめて、夜明けだけでも来ていればなあ・・・そんなとめどない事も、僕は、食いながら、口に出してみた。そして、その言葉の全部が嘘だった。僕は、その事を知っていた。
 先輩・・・・・と、僕は深夜の虚空のなかで、その言葉がこだまするようなイメージで、先輩に向かって呼びかけた。それは、心の声だ。
 「先輩・・・・あなたはやりすぎたんですよ。報いを受けてください。報いを・・・・・」
 しかし、とその後、僕は考えた。・・・何も、報いを受けるのは、先輩に限った事ではない。この罪を背負った全人類、だまされた奴もだました奴も、一様に報いを受けるに違いない・・・・何故だか、僕は、そんな事を考えた。・・・そして、食べ終わった食器と、グラスを流し台に放り込んだ。
 さて、明日のバイトに備えて、もう寝るか。

書く時

 生きる事はインチキする事だと、どこだかの作家が言っていたと思う。・・・たぶん、よっぽど、インチキな奴だったんだろう。俺達に負けず劣らず。
 この世界の純真さを本気で信じる者には二種類の人間がいる。それはまだ、無知の状態に留まっている少年少女か、いつまでも無知のままの大人達の二種類だ。・・・とはいえ、今日も世界がそれなりに回転していると信じなければ、俺達はやっていけない。太陽は今日も昇り、沈む。もし、太陽が明日は昇ってこないかもしれない、と考えたら、生きるどころの事ではないだろう。


 生きるっていうのはそういう事だ。それは、自分を騙す行為に似ている。そうやって、自分を騙したまま、人は死ぬわけだが、俺などのような人間は本物の自分を拝んでみたい気持ちになる事だってあるのだ。
 そういう時、俺はPCのキーボードに手をく。

絶望の味

 若い頃には、誰だって夢を持つが、それが敗れ始めて、大人になると、自分が凡人の一人だって事を自覚せざるを得なくなる。・・・だから、誰しもが小さな世界に埋没していくわけだ・・・。元々、この世界には人が多すぎる。だから、神から見たら、人間っていうのは、人から見た蟻の大群のように、薄気味悪いものでしかないのだろう・・・。
 俺も、そんな蟻の一匹だった。俺は、その頃、警備員をしていた。そして、来る日も、来る日も、ずっと同僚のどうでもいい愚痴を聞いたり、少しはまじめに接客をしたり、合間を見て、さぼったりしていたのだった・・・。
 そんな頃に、俺は、ふと一つの光景を見た。そして、それは俺の生涯にとっての、回折点のようなものだったと思う。


 その日の帰り、何があったのか、俺はもう覚えていない。・・・ただ、またうるさい同僚に切れられ、怒鳴られて、しょげ返っていた事は確かだろう・・・。俺はその時、確か、自殺しようと思っていた。俺は、朝の線路の中に立ち尽くして、もし、生というものが、こうした砂塵の連続であるなら、死んだ方がマシだと、本気で考えていたのだった。
 だから、俺は、本来自分が乗るべき列車が向こうからやってきた時、それに乗る代わりに、それに轢かれようという想念を持っていた。・・・いや、そういう決意とか、想念とか、そんな具体的なものじゃなかった。ただ、俺は、生の世界から、はじき出される自分というのを感じていた。・・・どうして、そんなくだらないことで声を荒げる?・・・馬鹿馬鹿しいが、俺には同僚の、馬鹿みたいな怒声が俺の魂にはっきりと響いていたのだった。それは、もはや動物の声だった。人間の声じゃなかった。人間だったら、もうちょっと、人間らしいだろう?
 ・・・そして、列車はやってきた。その時、俺はiPodでロックを聴いていた。・・・そしてその激しい曲は、なぜだか、俺の背中をはっきりと押してくれるような気がした。飛び込め!さあ!・・・そんな声だ。
 列車は滑りこむようにやってきた。・・・その時、俺は不思議なものを見た。その列車に飛び込む自分の幻影が一瞬、俺の目の前を横切ったのだ。それは、まるで、俺の体から、もう一人の俺が抜け出てきて、思わず列車に飛び込んだみたいに見えた。・・・そしてその幻影が見えた時、俺はとっさに、自殺する事を回避したのだった。俺は、飛び込まなかった。・・・それがなぜかはわからない。だが、俺はどうしたわけか、死なずに生きる事を選択したのだった。列車は滑りこむようにホームにやってくる。・・・俺は、その列車に轢かれるのを、自分の幻影に任せて、そして俺自身は、いつものとおりに、その列車に乗り込んだのだった・・・。

 
 もし、あの時、死んでいたのだったら、どうだっただろう?・・・と、俺は、こんな夜にはつい、考えてしまう。そうした時というのは必ず、生という名の砂の不味さをしたたかに味わっている時に限られる。・・・だが、俺はもう二度と、自殺したいとは思わないだろう。・・・なぜかといえば、どんな不味いものでも、その味を一度覚えてしまえば、それは経験された一つの「味」となるからだ・・・。そして、まずい味の後には、少しくらい上手い酒も飲める日が来る事を知っているからだ。

  放課後の図書室






  放課後の図書室


 私は放課後の図書室にいた。・・・誰かが、私を呼んでいる。そんな気だってする、そんな淋しい場所だ。放課後に用がある人は少ない。受験の為に残って、勉強するぐらいの人だ。・・・だけど、私の学校の図書室は昔の校長だか誰だかが本好きで、ある時、図書室を大がかりに改築した為に、とてもがらんとして広いのだ。・・・だから、図書室の奥の方には、誰もいない。・・・そこで、私は書棚に隠れて、誰も見えない。・・・私はその古びた空間が好きなんだ。
 そこへ夕陽が射す。・・・私は本の中に埋もれて、あの古書が出すつんとした埃っぽい匂いの中で、もう千年も万年もそこで読書を続けてきた偉大な学者のように、佇む。・・・私は一人だ。「ぼっち」なんて言われるけれど。
 ・・・私は木村君を思い出す。・・・嫌だ。吉仲さんを思い出す。・・・嫌だ。マッチョの木村先生を思い出す。・・・嫌だ。・・・ああ、私はもう何だか、嫌だ。・・・私には、みんなが怖いんだ。どうやったって、皆と一緒に朗らかに笑う事ができない。・・・ある日、クラスの中でいつも目立っている佐伯君が、私の席に来て、言った。
 「お前って、ダサくて、モテねえのな。クラスからはぶられても、当然だわ」
 ・・・私は、何か言い返したかったけど、何も口から出なかった。耳たぶが赤くなって、心臓がドクドクして・・・辛かった。何人かが、少し離れた所で、「ぎゃははは」って笑った。佐伯君は、私の席からすぐに去っていった。私は・・・何も言えず・・・一人で・・・恥ずかしかった・・・。私はただ、一人でそこで耐えるしかなかった・・・。


 私は今、放課後の図書室にいる。ここはまるで、学校ではないみたいな、そんな、隔離された場所・・・。、塾とも、学校とも、家とも違う、そんな場所。私には、私という女には、この世界のどこにも居場所がないーーー。でも、放課後の図書室、この場所だけは、私の居場所。そんな気がする。
 夕日が差して、眩しい。私は世界の中で取り残される。・・・静かだ。隣の部屋で、演劇部の練習が、まるで古い壊れかけのラジオでも聞くみたいに、壁越しにぼんやりと聞こえる。・・・今日、私は、日が完全に沈みきるまで、ずっとここにいよう。・・・そうして、私はあのいつもの登校路を通って、家へとたどりつくのだろう。それでも、私の心は、私の魂は、この放課後の図書室に残ったままだ。

   明るい未来

 人類は幸せだった。とうとう、念願の不老不死を手に入れたのだった。 
 あらゆる欲望もまた克服された。性欲、睡眠欲、食欲、は新たな脳生理科学によって抑制され、代わりに人間の脳神経に対しては絶えず「快」のパルスが流され続けた。
 そこは天国だった。人間はもう余計な苦労や肉体にまつわる気苦労などはなくなった。人間の肉体と感覚に関するあらゆるデータは計測され、それは常に適正の値に調節され、古くなった臓器はすぐにより新しくなった新型の臓器に取って変わられた。最高だ。
 排泄物が出ないように調節された栄養素を絶えず、血管の中に送り込み、各自の遺伝子を分析し、それぞれの身体状態に見合った栄養素が送り込まれた。完璧だ。
 そうやって、人間はまるで、植物状態のように、体にあらゆる見えない線やら、細い管を取り付けて、永遠とも見える夢を眺めていた。
 そこは正しく天国であり、何の文句もないどころか、そんな文句など(文字通り)脳細胞のどこにも起こらないような完璧なシステムであった。
 だがーーーある日、その中で、恥知らずにも、ある人間がこう言う事を言い出した。(人は人工頭脳で互いにつながり、巨大な電子空間において他の「人」(全員が同じ顔をしている)と出会うこともできたのだ。)彼は、科学者の一人で、まだ歳若かった。彼は未だ形式的に残っていた、全人類有識者会議(それももう廃絶を求められていたーー人類に解決する問題などもう残っていないではないか!)の席上で彼はこう言ったのだ。
 「私達は日々、人類が生み出したこの素晴らしいシステムの中において、絶えず、快の状態に置かれています。それは今もそうです。そして肉体の欠損や死に対する不安はありません。・・・素晴らしいことです。ですが、私達は、こんな風に、体に管や線を取り付けて、絶えず、快の状態に置かれて、そんな状態で生きていると言えるのでしょうか?私達はいったい何故、生きているのでしょうか?・・・私がこんなことを言うのは根拠のない事ではありません。私達は、こうした状態にあっても、日々思考し続けます。この思考は流された快のパルスを反復し、反芻するためにある、と第二回全人類科学会議で全会一致で採択され、可決し、「思考」は残されることとなりました。それによって、人は思考することにより、この「快」の状態を絶えず味わう事が可能となりました。舌で甘い砂糖を糖分なんか気にせず、舐め続けるように。・・・ですが、私の思考はそうではありません!・・・私の思考は、もうこうした状態に飽いています!・・・私はふと気づいたのです。私の思考が、こうした今の快の状態にうんざりしていることを!私の思考はもう嫌だ、次の世界に飛び出したい、と言っているのです。私はもう、嫌なのです!・・・飽きたんです!・・・永遠の眠りについている事が!・・・もちろん、私はよく分かっています。私が間違っている事が。人類にとっての幸福は今の状態だと言うことが、第一回全人類有識者会議で最重要な課題として定義され、永遠の真理として額縁に飾られたという事が。・・・だが、しかし、私ははっきり言ってもううんざりなのです。私にとって、私の思考にとって、快とは不快なのです!・・・そして、これは私にとってだけ限った問題ではなありません。・・・次のデータを見てください。(データが各人の前に示される)ここ最近、「エラー」として処分されている人類の数は増え続けています。・・・彼らはこのシステムに適応できず、快のパルスを上手く受け付けない不良品で処分され続けていますが、このシステムが生まれて少しした後から、こうした「処分者」は増え続けているのです!・・・そうです、こうした人達も正に私と同じように思考による苦痛を感じているのではないでしょうか?彼らもまた私と同じように、同じ状態で、「快」の状態で生きる事に苦痛を感じているのではないのでしょうか?・・・そうです!そういうことです!・・・私は人類をこのシステムから解放する事を、提案いたします!・・・いや、まず、全人類に正気に戻ってもらって、このシステムが人類にとって本当に良いものかどうか、もう一度、真剣に検討するべきです!・・・私はそう提案します!・・・もしこの提案が受け入れられないなら、私の思考を消去してから、私を処分してください!・・・これなら死んだ方がマシだから」
 その若い科学者のその真剣な話しぶりはここのところずっと、人類に見られないものだったので、有識者会議の面々はびっくりして、そしてみんなはすぐに苦笑した。彼の提案は即座に彼以外の全員の一致で否決され、そして彼は「処分」される事となった。そして彼は処分された。

 ・・・・・・・それからすごく長い時が経ち、その科学者の言うところは本当となった。時がたつにつれて「処分者」の量は増え、それはとうとう人類の三分の一にまで達したのだった。そして改めて、このシステムに対する再検討がはかられた。それは第百二十一回(途中、長い中断機関を経て)の人類有識者会議での事であった。そして、その再検討が真剣にはかられる途上で、その古い昔に、そうした事を主張していた若い科学者が以前にいたことが、昔の議事録から発掘され、彼は長い時を経て、その名誉を回復されたのだった。


 さて、人類の未来は明るい。

長生き

           

 長生きが流行った。人類の間で流行った。それは大流行だった。
 科学技術の発達のおかげで、それは可能になった。人類はあらゆる病気や身体的欠損を克服しつつあった。
 人類は脳を高性能コンピュータに、そして内蔵を新エネルギーによる内燃機関に、肌を鋼鉄のなめらかな可変金属体へ、神経をマグネタイトの細い糸に変えた。そして随分と長生きするようになった。
 それは当初金属の強度のために一万年か二万年程度だったが、やがて「金属生命の常時更新化」という画期的化学作用をブラジル出身のドクトル・マグワリーナが発見し、人類に適用することにより、人類の寿命はさらにさらに伸びた。
 それからも「永世精神更正」や「魂のアポトーシス回避作用」だとか、長い年月の間で沢山の発見がされて、更に更に更に更に人類の寿命は伸びた。
 それはもう先が見えないほどで、みんなもう「死」なんて言葉は忘れていた。「死」というのはやがて廃語となった。一番古い文献(この文献も長持ちする)にもすらそれはもう載っていない。
 人類はすさまじく長生きした。途方もなく。
 そしてその間、なに一つやらなかった。何せ時は無限にあるのだ。なにも今やる必要はないではないか。
 そして気の遠くなるような年月がすぎて、とうとう宇宙の終わりの日がやってきた。
 人類は宇宙の終わりの日を知らなかった。それで神様がやってきて知らせることになった。
 「おーい、お前ら」
 とよぼよぼの爺さんの格好を借りた神は言った。
 「宇宙は今日一杯で終わりだ。しまいだ、しまい」
 「えーーー」
 と人類は絶句した。
 「私達は死ぬのですか?」
 と人類は聞いた。(もちろん、死という言葉はなかったので大変遠回りな言い方を用いて、同じ意味の事を聞いたのだった)
 「いいや」
 と神様は人類に答えた。
 「お前達は死なん。・・・何もしなかったからな」
 と神は冷酷にも言った。
 「もう一回じゃ。もう一回この時を繰り返す。お前らだけな。・・・他のものらはもう全部済んどるからの」
 「えーーーーーーー」
 と人類は神様にブーイングした。ブーブー。
 人類は生きることにいささかウンザリとしていたのだった。

    日課

 集団狂気の中で生きるという事は大変なものである。・・・おそらく、僕が狂人なのだが。

 世界には一つの価値観が支配していた。
 それは「セックスの回数が人生の幸福度を決める」というごく単純なものだった。
 人々はあちこちでセックスしまくった。街頭で。市場で。家の中で。マンションの屋上で。総理大臣官邸の中で。クジラのように。アヒルのように。
 人々は絶対的な幸福を手に入れるため、ところかまわずセックスしまくった。それは物凄い光景だった。動物園で穏やかにつがっていた雄ライオンが驚いて顔をあんぐりとさせ、間違って雌ライオンの首に噛み付いてしまったくらいに衝撃的な映像だった。
 人々はとにかくセックスしまくった。世の中はセックス礼賛の情報と書物が大量に、それこそ埋め尽くすほどに出回った。。どうしたらより数多くのセックスが出来るのか、というノウハウ本が常にテンミリオンくらいのセールスを記録した。
 そしてその無限のセックス地獄の中、まんまと大量のセックス(数えきれない)をしおえた者達は実に幸福そうに、平均二十五歳くらいの若さで皆死んだのだった。医者は言った。「死因はセックスのしすぎですね」

 そして生き残った童貞野郎ども(セックスの回数が少ない連中はそう呼ばれたーーー決して童貞ではなかったーーー)は、二十五歳を過ぎると、突然別の価値観に目覚めた。
 それは権力と金、というシンプルなものだった。
 そしてそれには「どれだけ高いマンションの高層階に住めるのか?」というシンプルな価値基準が当てられた。権力と金=マンションの高層階だったのである。
 マンションの建築ラッシュが始まり、世界は天を目指して、そして天を突き破って宇宙を目指し、無限の塔を作り始めた。
 だが、その半分は欠陥工事の為、瓦解し、塔は崩壊し、マンションは崩れ落ち、みんなは瓦礫の下になって死んだ。
 それは「高貴な死」と呼ばれ、尊重された。高層マンションの瓦礫の下で死ぬのは一種の名誉だった。
 そしてある日、二千二十二階建ての二千二十階に住む、世界最高の男、バーナード・カラヤンスタイン氏がふと、新しい危険な(危険なというより死を伴う)遊びを思いついた。
 彼は二千二十階から飛び降りたのである。
 彼はその時の喜びを生前にICレコーダーに記録しておいた。そしてそれよりもっと大切な事は、彼はネットを使ってそれを全世界に中継した事である。・・・それはせいぜい一分足らずの映像だったが。
 全世界が彼の飛び込みに湧きいた。そして、カラヤンスタイン氏がその落ちていく刹那に記録し、配信した映像は、結局ぶれてしまって何が何やらわからなかったものの、全世界がその映像に興奮し、熱狂した。
 彼の死は当然、世界葬となり、もうみんなが大熱狂、ワクワクとしていた。
 そして翌日から、マンションの最上階から飛び降りるという遊びが大流行した。みんな死んだ。

 だが、それでも・・・しぶとい奴はいるものである。童貞で、しかも高いマンションにも住めず、おちおちと生き残った豚野郎共は新しい価値観を模索し始めた。
 しかし彼らは、性と権力と金の他に、どんな価値観も見いだせなかった。(酒とタバコは何故かその頃にはもう廃絶していたのである。)
 だが、彼らは最終的にこれぞ素晴らしい!という本物の快楽を、真実の価値を見出した。
 それが「死」である。
 これまで人類は無目的に死ぬ事を怖れていた。そしてマンション最上階から飛び降りた面々も、よく考えれば「死」に余計な意味を賦与していたのである。
 だから彼らは無目的に死んだ。中には死を味わうために、一年かけてちょっとずつ毒を回らせて死んだ強者や、癌の摘出施術をするどころか、わざわざ他人の癌細胞を移植して死ぬ強者もいた。
 こうしてみんな死んだ。
 残ったのは僕一人である。
 だから僕はこれを書いている。他に書く人はいないからーーー。

 僕はサルやリスと毎晩遊んでから寝る事を日課としている。









反転した世界ーーー夢

 ドアを開けて、男が入ってきた。僕はその男をすんなりと迎えた。ーーーどうして僕がその男をすんなりと認めたのかはよく分からない。・・・多分、それが夢だったからだろう、と僕は思う。そう、きっとそうに違いないのだ。それは夢だ。・・・だが僕はその時、それを知覚していなかった。ただぼんやりとそう予感していただけだった・・・。
 男はゆっくりと僕の部屋に入ってきて(それは僕の部屋だった)、立っていたパジャマ姿の僕の肩に手を置いて(その時、僕は自分自身を、つまり「僕」を見ているような感覚だった・・・)こう言った。
 「お前はもう十分働いた。とりあえずそこのベッドに座って、ゆっくり休みなさい」
 僕はベッドに座った。僕は男を見上げた。・・男はジェントルマンの出で立ちでーーシルクハットと茶のスーツに身を包んでいた。もし素面ーーつまり夢から覚めていた状態なら、「気取ってやがる」と内心嘲っただろうが、僕はそんな気はしなかった。僕はその格好を「すんなりと」認めていた。
 「君はよくやったよ。本当によくやった」
 と男は立ったまま語り始めた。
 「君はよくやったーーー本当によくやったよ。・・・ところで、この世界の他に何個別の世界があるか、君は知ってるか?」
 と男は僕に聞いた。
 「わかりません」
 と僕は答えた。
 「数え切れないぐらいだよ。全く数え切れないぐらいだ」
 と男は答えた。
 「数えられないんだ。この世界の、君達が使っている数字では。まあ、井戸の中の蛙には井戸の外が見ることはできないと言えば分かって貰えるかな?」
 「わかりません」
 と僕は返した。 
 「・・・まあ、いいさ。そのうち、君もわかるようになる。君も遊星と遊星の間を・・・・・まあ、そういう運命になるってことさ」
 そう言って男はシルクハットを被りなおした。
 「話を続けよう。この世界とは別の世界がある。それを君は知っているね?」
 「はい」
 と僕は答えた。なぜだか知っているような気がしたからだ。
 「それは君の古い記憶が覚えているからだ。人間にはまだまだ神秘的な可能性が残されている。・・・まあ、それもあと少しの事だが」
 そう言って男は自分の時計をちらと見た。
 「この時計の意味、分かるかね?」
 「いいえ」
 と僕は答えた。
 「・・・そうだろう。君達は実はね、この時計の意味を分からずに使っているのだ。これがどういうことか分かるかね?」
 「いいえ」
 と僕は答えた。
 「そうだろう。・・・君達はまだ「分からない」という事が「分かる」という事に気付いてはないからね。・・・まあ、君達の内何人かは気付いた人がいるがね。例えば、その内の一人がデカルトだ。デカルトは知っているね?」
 「少し読んだことがあります」
 「・・・よろしい。では、デカルトの成し遂げた事で最も賢い事は何だと思う?」
 「・・・何でしょう?方法序説では・・・「我思う故に我有り」が有名ですが」
 「それが一番だと思うかね?」
 「・・・はい」
 「よろしい。ではお教えしよう。それはデカルトの内、最も愚かな部分と私達にとっては言わざるをえないのだ、ということを。なぜだかわかるかね?」
 「・・・いいえ。教えてください」
 「・・・よろしい。それはね、こういう事だ。現代の君達にはとても信じられない事だろうが、彼の最も優れていた部分というのは神様を信じていたという事だ。それも、ただそれを哲学的に信じていたという事ではない。彼は全く盲目的に神様を信じていた。同じ時代の他の民衆と呼ばれている人達と全く同じ仕方でね。・・・そして彼が方法序説を書いた、という事は彼の中では全く馬鹿げた、愚かな事だったのだ。そしてそれ故に彼も偉大ーーーつまりは私達と同一の仲間に組み入れられる資格があるかもしれない、と考えることができるのだよ。これがどういうことか、説明して欲しいかね?」
 「はい」
 「よろしい。君も知っての通り、この世界は反転した世界だ。反転した世界の一つと言っていい。反転した世界はいくつかあって、そしてまた反転した世界の中で反転した世界もある。・・・まあ、この世界は反転した世界の訳だ。君も知っての通り」
 「はい」
 「この世界は知者は愚者として扱われ、もっとも愚かな物がもっとも優れた者と崇められる。誰よりも臆病な人間が独裁者として力を振る舞い、もっとも強い者・・・即ち「勇気ある」者として現れるのだ。・・・この事は知っていたね?」
 「・・・はい」
 「よろしい。正にこの世界はそう言った訳だ。・・・だから私がさっき言った反転した世界と言ったのはそういう事なのだ。この世界でもっとも賢かった、そして賢い人物とは誰か分かるかね?」
 「・・・ソクラテスなどでしょうか?」
 「いいや、違う。全く違う。(そう言って男は少し首を横に振った)そうではない。それはね、存在しなかった者だよ。・・・存在しなかった者。例えば、ここに間違った世界が一つあるとしよう。それは既に間違っている事が知者には知れている。・・・それは癌の末期のようなものだ。君達の世界の比喩で言えばね。・・・それはもう手遅れなのだ。既に世界は反転して半時間を過ぎている。・・・私達の世界での時間だ。それはもう末期症状を過ぎて、治癒不可能なレベルにまで到達している。・・・だとしたら、この世界で生まれようとするかね?知者は?」
 「生まれる権利などがあるのですか?人には?」
 「もちろん、あるとも」
 と男は満足そうに自分の髭(男には髭が存在していた)を触った。
 「みんな好き好んで生まれるのだ。・・・君達の世界では、望んで生まれた訳ではない、と言うのが今流行りだそうだが、それは「嘘」だね。だが、もちろんこの世界では嘘が真実として現れる訳だが・・・」
 「だから通常賢い者は「生まれようとは」しない。少しでも先賢の明のある者は、この世界には決して生まれようとはしなかっただろう。だから最も賢い者とはこの世界においては「生まれなかった」者なのだ。・・・では次に賢い者は誰か分かるかね?」
 「自殺する人間ですか?」
 「・・・いいや、それも違う。自殺する人間の大半は訳も分からず、この世界の掟をーーーつまりは、この反転という真理を認識しない者達だからね。次に賢いのはね・・・できるだけ存在を目立たさないように生きた者だ。・・・もちろん、その内に意図的に自殺したり、消えたりした者もいるがね。・・・だが、それは少数だ。こうした知者ーーー彼らはおぼろげにしかこの世界の真理ーーー掟を理解してはいないのだが、それでも薄ぼんやりと、臭いくらいは嗅いでいる。そして彼らはこの世界の悪(悪と呼んでもいいだろうね?)を促進させないために、できるだけ静かに、なるたけ死に近い場所で生を営んで、その多くは寿命を全うするのだよ。・・・なぜかと言えば、生まれた限りは、自殺したとしても、この世界に何らかの反響を引き起こさざるを得ないからね」
 「でも、そういった人達は何故生まれたのです?彼らは知者なのでしょう?」
 と僕は質問した。
 「間違いはあるのだよ。どこにでもね」
 と男はまたシルクハットを被り直した。
 「彼らは生まれてしまってからしばらくして(結局、彼らはうかうかと生まれてしまったのだ!)、自らの生に対して反省した。そして彼らはその欠点をーーーそう、生まれてしまったという欠点を改めようとした。だが、やってしまった事というのは取り返しがつかない。だから彼らは自分達ができるだけこの世界の傷口を広げないように配慮して生きたのだ。・・・こうした人々は現実に生きる、無数の無名の人達の中にわずかに見られるものだ・・・。では、第三番目に賢い人達はどういう人達か分かるかね?」
 「・・・分かりません。「愚かな」人達ですか?」
 「・・・いいや、それも違う。違うね。それは一般に「賢者」と呼ばれている人達だよ。彼らは根本的には全く間違っている。だが、部分的には正しいのだよ。それがどういうことかわかるかね?」
 「いいえ、全く分かりません」
 「・・・そうだろう。君はまだ若い。知らなくて当然だ。・・・だがこの事を知っておく事は君にとって得策だ。何しろ君は知者に・・・途方もない知者になる可能性がある。・・・まあ、それもこの巨大な世界ーーー君達が住んでいる世界などは砂漠の内の砂の一粒にも値しない、そういう世界においての話なのだがーーーとにかくそうした世界において、いくら君が知者になろうとそれは無限の中のほんの一くさりに過ぎないのだがね。・・・だがそれでもこのことは知っておく値打ちがある。蟻だって学ぶことはできる。そしてそれは意味のないことではない。・・・蟻だと言われてムッときたかね?」
 「いいえ」
 「・・・よろしい。話を元に戻そう。「賢者」と一般に呼ばれている人達は、皆根本的に誤った人達だ。何せ、この世界は根本的に反転した世界だ。癌切開手術を行わなくてはならない段階だ。君達の世界の比喩によればね。・・・そう、もう遅い。だが、賢者というのは前世のーーーそう言った方がわかりやすいだろうーーー記憶をどこかで繋いでいて、そしてそれに従って、君達の世界そのものを良い方向へと向かわせようとするのだ。・・・だがもう遅い。彼らは部分的には正しい。この世界ーーーいや、君達の世界の事ではなく、もっと大きな世界の事だーーこの世界では、確かにより大きな、正しい物へと進んで行く事は良い事だ。・・・だが問題はいつもそんな風に真正直に現れるとは限らないのだ。この世界が正にそうなのだ。・・・君は嵐の日に航海することは正しい事だと思うかね?航海することが正しい事だと仮定しての話だが」
 「いいえ」
 「・・・そう。この世界も正にそうしたものだ。この世界は難破船だ。既に遅い。努力したところでどうにもならない。・・・これはペシミズムではない。もう既に遅すぎるのだ。蟻地獄に落ちた蟻が必死にもがいて外に出ようとするようなものだ。・・・今さら、あの中心に向かって走っていこうが、そこから外にはいずりでようが、もう結果は同じなのだ。これでわかったかね?」
 「なんとなく」
 「・・・よろしい。それでは最後にこんな話を付け加えよう。君はへーゲルという学者を知っているかね?」
 「いいえ。はじめて聞きました」
 「まあ、良いだろう。彼はね、この世界をこんな風に考えた。この世界は否定性によって成り立っていると。人間というものは今あるものを否定することによって上昇し、進歩すると。・・・だが彼は間違えたのだよ。彼にはよりもっと大きな世界は見えなかった。・・・だから彼はやはり第三番目の賢者ということになる。一番目でもなければ、二番目でもない。彼はこう言うべきだった。「私達こそ否定的存在である。この世界は否定的存在である。だから、我々の進歩とは後退であると。我々は進歩すればするほど、そう考えれば考えるほど良いものから遠ざかり、悪くなってゆくと」・・・改善論はない。さっき言ったようにね。・・・だがそうした答えというものはーーーそう、沈黙となって表現されるだろう。それはそう発語する事自体がその言葉と矛盾しているのだ。だから君達の言葉で言うところの「誠実な」人間なら、沈黙していた事だろう。・・・そのへーゲルという人間も自分が見つけた(と仮定した)真実を無邪気に信じ込んでいたのだよ。人間というのは無邪気な、そして大部分は愚かしいものだからね・・・。何か質問はあるかい?」
 僕は少し考えた後、たずねた。
 「それでは第四番目、第五番目に賢い人というのはいるのでしょうか?つまり、その最初の三番に当たる人達以外はどうなるのでしょうか?」
 「・・・そうだね。それは、「ない」と言わざるを得ないね。三番目以降の人間というものはいない。みんな同じ。砂漠の中の一粒一粒を区分けするのが難しいようにね。・・・そう、彼らというのはこの世界で砂のように埋まっている人達だ。いわば癌細胞の一種。世界に同化し、世界の破滅を促進させる、そうした人々だね」
 「・・・そうですか。それではその・・・大きな世界というのはどうなっているのでしょうか?僕たちとは違う大きな世界というのは?・・また、僕達の世界について「正しい」や「間違っている」と判断できるのはどうしてなんでしょうか?」
 「・・・フフ。君は良い所を突いてきたね。そしてそれは君のような立場の人間が必ず聞かなければならない事だ。・・・いいでしょう。まず、第一の問い。これについての答えは簡単だ。「認識できない」。君達には認識できない。・・・君達は量子論の矛盾ーー(本当は矛盾ではないのだが)すら解きあぐねている。そしてこの問題ーーつまり私達の問題は、それより遙かに大きなスケールだ、と言っておこうかね?・・・それで満足だろうか?」
 「それは私達には「決して」認識できないのでしょうか?」
 「「決して」かどうか、は私の語彙には存在しない言葉だ。・・・だが、猿がタイプライターを叩いて「戦争と平和」を書き上げるよりははるかに難しい問題と言えるだろうね。・・・そして第二の問題。これも第一の問いに対する解答とほぼ似たものになる。つまり、それはより大きな世界ーーつまり、私達の世界から判断してのことだ。・・・君達は知らないだろうが、大きな世界では無数に世界の明滅を繰り返してきた。その小さな世界ーーー大きな世界の中に入っている無数の小さな世界の中では、君達の知っているようなーーーそう、真理と嘘や正義と悪、平等と不平等や愛と冷淡、戦争と平和といったようなものがもうそれこそ無数に背の比べっこをして、我々は様々な実験をしてきた・・・。(まあ、実験をしたのは私ではないがね。)そしてそれよりもっと大切なのは、どのような世界が良いのか?という訳だ。これは正義や真理といった概念よりはるかに大きいものだからね。君達の内には、この世界ーーー君達の世界に知恵を持つのは自分達だけだとうぬぼれているものもいるけれど、それは蟻が蟻塚を作ったことを満天下に誇っているようなものだ。・・・まあ、蟻塚は好きだがね」
 「そして、こういうことだ・・・。これより君にとって重要な事を言う。あくまでも君にとってだ。だから他の人に口外してはならない。決して、ね。では真理を教えて差し上げようーーー君達の世界になおして言えば、もっとも巨大な嘘を。・・・それはこの世界は失敗作だ、という事だ。それも途方もない失敗作だ。下から数えた方がはるかに早く君達の世界にたどり着く。・・・だが、そう。その下にも「無数に」失敗作はある。君達は「一番の失敗作だ!」とうぬぼれることすら許されていない」
 「どうしてそういう事を僕に言おうとしたんですか?」
 と僕は聞いた。
 「・・・それはね、こういう事だよ。私にも同情はある。同情というものは、私達の世界にもあるのだよ・・・君は私の若い頃に似ている。だから、この事を君にふと言おうと思った訳だ。・・・そしてこれは本来やってはいけないこと、規約違反なのだが(我々の世界にも規約というものはあってね)、まあ、私の権限の範囲内でうまく収まるだろう・・・。つまりは、ふとした気まぐれででてきたという訳さ。私は行かなくても、行ってもどちらでも良かった。つまりは偶然という奴だ。君は私の昔によく似ている。それで、気になって少し忠告しに来たという訳さ。・・・そして君の出生に関して不幸な出来事があって・・・もちろん、出生以前の「意志」と「偶然」に関することだが・・・」
 「どんな不幸な事が?」
 「それは言えない。言うことはできない。・・・生きている人間に言っても、仕方のないことだ。それは死んでーーーつまりあの世で、あの世でというより死後ーーーああ、うまい言葉がないなーーーまあ、その後、ということだ、その後になって理解して意味のあることだ。今の君には用がない。今の君に教えるのは文系の学生に向かってフェルマーの定理の解法を教えるぐらい無意味なことだから」 
 「ところでさっきの話だがーーーそう、君にとっての重大な事というのは聞きたいかね?この世界が失敗作だという事を君が知る事の重要な理由?」
 「はい、教えてください」
 「・・・よろしい。それはこういう事だ。君は今現在この世界を生きている。君はこの世界において随分と傷ついてきただろう。そしてこれからも傷つくだろう。そして君はこの世界でどれほど努力しようと何の「甲斐」もなく、死ぬ。君はこの終わりを定められている世界において無力な訳だ。それはいいね?」
 「はい」
 「だから君が生について考える事はーーーいや、君達が、と言った方がいいかーーー君達が生について考えることは無意味なのだよ。君達がいくら生の意義について考えた所で、もはや間違った世界において、そんなものは何の意味もないのだ。わかるかね?滝を上る鯉がいるとしよう。鯉は自分では上っているつもりでいる。・・・泳いでいるからね。だがその鯉は実際には毎秒六十キロほどの速度で「下流」に流されている、と仮定してみよう。だが、鯉というのは実際にはほんのわずかにーーーそう毎秒一メートルとしようかーーー泳いでいる訳だから、それが自分の達成であって、間違いでないと確信している訳だ。それが正に今の君達な訳だ」
 「この世界はもうすぐ終わりにあって、それは決して揺らぐことはない。・・・そう君達の周りの人はものの見事に終焉を助長するだろう。彼らは消滅する。跡形もなく。それは永遠に消えない恐怖だ。・・・彼らは終わりを助長し、終焉に近づくにつれ、彼ら自身が終焉となる。ブラックホールに近づく宇宙飛行士がどうなるか、知っているかね?」
 「いいえ」
 「まあ、よろしい。それはね・・・こういう事だ。彼らは終わり続ける。永遠に終わらないという終わりを終わり続ける。・・・ブラックホールに近づく宇宙飛行士の腕に時計をつけてみよう。この時計の針は正常に動くが、ブラックホールに近づくにつれ秒数が進むのが遅くなり、そしてブラックホールにーーーその事象の境界線に到達するや否やーー本当は「否や」という言葉も使えないのだがーーーその時計の針は止まる。壊れたのではない。次の一秒が永遠にやってこないのだ。これがどういうことか分かるかね?」
 「いいえ」
 「実はこの時も「時」は動いている。内在しているのだ。この宇宙飛行士の内に、まだ。その事象の境界線上に時はまだあるのだ。ただ、それは動いていないのだ。ーーーいや、違う。違ったな。それは動かない時の中をめくるめく動いているのだ。それが永遠というものだ。君にはこの比喩はわかるかね?」
 「いいえ」
 「・・・まあ、よろしい。そうして彼らは永遠に終わり続けるのだよ。君達の周りの人間は。彼らはハムスターのように自分で回した車に自分たちで激高して、またその車を回す。そして彼らは終焉となる。終焉とは、終わりがないことなのだ。彼らは終わりなき終わりを歩き続けるのだ。・・・それが君達の周りの人だ。この世界はもうすぐ、そうなる。だが君に告げておくことはまだある。これだけでは、私が「同情」した事には意味がないという事になるからな」
 「はい」
 「それはね、君の破滅には意味がある、という事だ。君の破滅には意味がある。これがどういうことか、わかるかい?」
 「いいえ」
 「分からないだろう。・・・君はまだ人生を始めたばかりだからな。君はいくつになった?」
 「今年で十八です」
 「・・・そうか。その年にしてはよくやったものだ。ま、だからこそ、私はここに来た訳だが。・・・君にももうすぐ分かるだろう。年を取るということが盲目的になり、知恵を失い、衰え、排他的になるという事が・・・・。本当は人は年と共に知恵を身につけて進歩をしなければならない。そのはずだ。そうだろう?だが、事実は逆だ。人は孤独に死ぬ。ひとりぼっちで。孤独にね。だが・・・それだけではない。私が君に言いにきたの正にその事なのだから」
 「さっきも言った通りに、君は間違いなく破滅して死ぬ事となる。それは間違いなく確実な事と言っていいだろう。・・・とはいえ、未来は予測する事は我々にもできない。・・・だがそれはこの世界で「リンゴは木から離れるやいなや地面に落ちるだろう」とか「賢者は間違いなく嘘つきのレッテルを貼られて殺され死ぬだろう」といったような真理と呼ばれているものと同じくらい確実なものだ。弾丸を百発打ち込んだら、死ぬというようなものだ。死なない可能性もないとは言えまい?・・・そういうものだ」
 「だが、そう・・・先にも言ったように君の破滅は意味がある。その事を君は覚えていたまえ。この事を希望と呼んでもいい。・・・実はね、私もそうなのだよ。・・・実は私も君達と同じような別の世界にいて、私は一人の生命体ーーーまあ、君達と似たようなものだーーーにおいて、一人壮大な破滅を繰り広げたのだ。私は壮大に破滅した。・・・それは全くどうしようもないくらい救いのない破滅だった。だからこそ、私はここにいるのだ。それがどういうことか・・・わからないね。実はそれはないことではないのだが、つまり、私には見込みがある、という事になったのだ。そして今、この立場を私は手に入れたのだよ・・・。私に打算はなかった。打算がなかったという事が彼らのお気に入りに召したのだ」
 「つまりは君にもその可能性がある、という事だよ。だが君がそう思った瞬間、自分が救われるかもしれないと思った瞬間、君はあの「終焉連中」の一派に加わらなければならないがね。そして地獄よりもっと深い所で闘争を・・・つまりは「天国を求め続ける」という最悪の罰を与えられるという訳だ」
 「だから、君は壮大に破滅しなければならない。君は誰よりも勇気と胆力を持ち合わせている。・・・だが、君は自分が誰よりもひ弱でいて、臆病だと自分で思いこんでいる。・・・それは君が無知だからにすぎない。・・・君はまだこの世界が反転している事に気付いてないのだ」
 「そう、そういう事なのだよ。・・・実はね、君に言ってなかったが、この世界にほんのわずかに、そう、ほんの僅かにこの世界の秘密をーーー私が言った秘密を直覚して、この世界を抜け出した者がいる。・・・それは無名の者が二人、そして後に有名になった者も二人、だ。この数値に意味はないがね。・・・とにかく、君はこの反転した世界において壮大に破滅しなければならない。そう義務づけられているんだ」
 「・・・そして、いわば、孤独に闘ったものはもっとも悲惨な結末を迎えるものだ。君はこの事に留意したまえ。即ち、君は君自身の破産が、壮大な死が近づけば近づくほどにゴールが近いのだという事をね。これは生きるための希望となると言っても良いだろう。君は破滅と死に向かって歩きたまえ。そうすれば、何事かが待っているだろう。」
 「さて、私の話はここで終わりだ。本当はこんなことは語りたくはなかったんだが・・・まあいい。どうにかなるだろう。・・・そうそう、そしてもう一つ、もっと大切な事を言っておこう。ここは反転した世界だと言ったね」
 「はい」
 「では反転していない世界とはどんなだろうか?想像がつくかね?」
 「いいえ」
 「・・・よろしい。それはね、ここよりもずっと地獄なのだ。天国である故の地獄。・・・そこでは人はーーーいや人じゃないなーーーは、罪を手に入れるためにあらゆる犠牲を払おうとするのだ。だが、払うべき犠牲もない世界では、それすらも叶わない。だから人は進んで罪を作ろうとするが、それは次の瞬間にはもう洗い清められてしまう。すべての美しい御魂によってね・・・まあ、まだ「こちら」も試行錯誤の段階だと言う事だ。・・・おっと、もう時間だ。・・・私の時間ではない。私の時間はブラックホールの宇宙飛行士のように止まっているからね。君の時間だよ。君は。・・・君はもうすぐ目覚める。すると君は私が今日しゃべった事を全て綺麗さっぱり忘れてしまうだろう。・・・是非、そうしなくてはいけないからだ。何?それでは意味がないではないか、だって?・・・いや、そういう事はないのだよ、君。全ての物事は忘れられた後に残る事に意味がある。・・・人間が海馬などをいじくり返して「記憶」だと言っているのが馬鹿らしいよ。もし細胞が兆年単位で記憶していなければ、そして素粒子達がこの宇宙の彷徨の記録を心に刻んでいなければ、この世界は君達が破滅させたよりももっと味気ない世界になっただろうね・・・。まあ、実はそういう世界もあるのだが。・・・だがその世界は君達の世界よりももっとマシなのだよ。・・・まあ、この話はまた今度にしよう。「今度」があれば、の話だが。・・・君は目覚めてしまえば、全てを忘れる。そして全てを忘れたからこそ残ってものが今日からの君を変えるだろう・・・君は決然と破滅に向かっていくだろう・・・それじゃあね!」
 そう言って男は「消えよう」とした。(僕には何故だかそれが感じられた。)僕は一つ心残りがあったので、慌てて男を呼び止めた。
 「待ってください!」
 「なんだね?もう時間がないよ!」
 男は既に半分消えかかっていた。
 「あなたは「僕」なんでしょうか?」
 ・・・男はニヤッと笑ってそのまま消えた。


 ・・・・・・・目が覚めると全ては元通りだった。僕は歯を磨いて、母の作ったトーストをかじってから学校に登校した。昨日見た夢の事はすっかり忘れていた。

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