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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

お知らせ

哲学者ヴィルゲン氏ーのインタビューという小説をアップしました。元ネタの哲学者はウィトゲンシュタインです。

http://p.booklog.jp/book/95194/read
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サリンジャー論をアップしました

サリンジャー論をアップしたのでお知らせしておきます。

http://p.booklog.jp/book/95042/read

http://i.crunchers.jp/c/7226

メモ書き


 今、Bloga enneagramica http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3/ という人のブログを読んでいる。よく分からないが、物凄い博識でなおかつ独自の見識を持った凄い人のように見える。

 僕の考えには全くなじまない点も多々あるが、この方から学ぶ事も沢山ある。ちょっとメモ的に書いておく。

 小休憩





 七面倒な文学理論の文章を昨日からずっと書いていて、ちょっと疲れたので、楽な事を書く事にしよう。


 最近は文学理論みたいな事をずっと書いていて、別にそんなに書きたいわけではないが、そのイメージが後から後から湧いてきてしようがないので、書いて吐き出す事にしている。…さっき、僕はローラン・ビネの「HHhH」という作品を買ってきて少し読んでいるのだが、ビネのやろうとしている事は、僕としては実によく分かる。彼が小説を作る上で感じている事は「普通にフィクションを作る嘘くささ」である。僕も全く同じ事を感じていて、今、真面目に小説を書こうとする人間はこの課題から避けられないと僕は考えている。思えば、ミシェルウェルベックもまた、このビネの小説ほどではないが、明らかに作者が表面に出過ぎている。こういう、作者がやたらに登場するのは、単なるメタとか何とか、そういう表面的な技法の問題ではなく(形だけなら誰でも真似られる)、もっと根底的な、彼らの存在に関わるような一種の解決法なのだが、こういうものが現代に何故出てきたのか、解きほぐすのは難しい。今、僕はこういう事をすっきりさせるための文学理論を作っている所だ。

 
 別にそれは大層なものではないが…。しかし、僕という人間は全身芸術野郎というか、もう芸術的観点以外にはこの世界を見られなくなっているような気がする。…不思議なものだ。十代の頃には思いも寄らなかった問題が僕の頭の中では次々に噴出している。僕という人間の劇は全て、僕の脳の中でのみ起こっている。そして外面的には、僕という人間は存在すらしていない。それは、ひとかけらも存在していない。


 現代の優れたアーティストに目を向ける事はとても大切な事だろう。僕は昔、古典となったアーティストだけを尊重して、今に近いアーティストは馬鹿にしていた。要は、「最近の曲なんてクソみたいな曲ばっかり」の心象だ。だが、それは間違っていた。…僕は間違っていたわけだが、しかし、それは雑多な、現在の作品の群れの、その印象から身を守る為には必要な事だった。仕方ない。人は少しずつ成長していくものだから。今僕は、小林秀雄と神聖かまってちゃんを同列に、しかも全く同じ尺度で論じる事ができる。これは僕にとっては、僕の人生で得た、希少な物指しである。そしてこんな物指し一つを拾い上げる為にまっとうな人生を棒に振ったとは全く馬鹿な話だろう。…だが、全ての劇は僕の脳の中で進行する。僕はおそらくは、進歩している。しかし、他人から見れば僕はずっと退歩し続けている存在なのだ。

 
 馬鹿な事を言うのはやめて、読書の一つでもしよう。ビネの小説の続きを読もう。もっともっと僕は孤独にならなければならないだろう。僕が求めているものは将来、手に入るだろう。おそらく、僕の死後に。…でも、そんな事が何だろう?。今、自分が生きているという事に自信が持てれば、それでいいのだ。世の中のはしゃいでいる連中をよく観察してみたまえ。彼らの物欲しそうな表情、怯えた表情、自信なさげな顔、取り繕った表情、その仮面、エリート、才能、金、様々に多面的な仮面をつけても、彼らは自分に自信を持っていない。そう、だから、僕は幸福なのだろう。…こんな幸福がこの世の中にあるとは、奇妙な事だが。


 僕は僕を笑う。君は、君を笑え。笑いは、力だ。それでは。

裸足で


 「なあ、お前、将来、何になるんだ?」
 「さあ・・・まだ、考えてねえよ」
 中学生の頃・・・あるいは小学生の頃ぐらいに、こんな会話をしたという人はきっと多いだろうと思う。・・・だが、現に、この僕のように、その「将来」が来てしまった者は、かつてのこんな会話が全然間違っていた事だと、ふいに気づいてしまう。・・・将来に、何になるもクソもない。答えはただ一つ、奴隷となる事。・・・そう、どのような華やかな見かけを持っていようと、その本質は少しも変わらない。高級娼婦と低級娼婦がいた所で、どっちも同じ娼婦である事には変わりはない。・・・そして、どっちがどっちを馬鹿にするという事自体が、馬鹿馬鹿しい事なのだ。
 僕達は大人になれば、必然的に社会の車輪の中に挟み込まれて、身動きとれなくなる。そして、全ては奴隷となる。心身ともに。・・・いや、もしも、違う、という人がいれば、教えて欲しいものだ・・・。僕の言っている奴隷の意味は、「心身共に」である。自分は王だと奢っているものが、世間の脆弱な価値観にどれほど屈従しているかを指摘するのは、たやすい。
 では、希望も何もないのか?・・・然り。シオランは、うめきだけが、唯一の自由への道だ、と言っていたように思う。僕達がもがき、うめかなければ、そこには何の道もありはしない。うめきながら求める者しか認めない、とパスカルは言った。・・・だが、世の中は実に、脳天気な輩に満ちあふれているではないか?。・・・それが、絶望の形をまとっていようと希望の姿をしていようと、同じ事だ。彼らは来るべき幸福を夢見て、実に楽しそうな白痴的な笑いをもらしているか、それとも、自分達は絶望している・・・そんなフリをして、誰かの財布から金を掠め取ろうとしているにすぎない。・・・一体、どこの誰が、自分のうめきを、苦痛を大切に保存し、その日を送っているのか?。誰か、真の自由の道を知っているのか?。 
 ・・・黙れ、お前はクズだ、さっさと死ね、という言葉が僕の耳には聞こえる。僕の幻聴ではない・・・。よし、では、ここらで、僕は黙ろう。・・・だが、僕は君達が夢見ている「いつか、美女が急に抱きついてきてくれるかもしれない」「いつか、王子様がやってきて私をさらうかもしれない」「急に、宝くじがあたってハッピーになるかもしれない」的な、幸福の幻影だけは、破らせてもらおう。そこには何もない。それは希望ではない。それは嘘ですらない。それは、現実からの逃避であるが、動物以上に現実を見すらしていない人間の答えだ。・・・それこそがフィクションだ。思えば、世界は、実にフィクションに彩られているではないか?・・・好きなタレントが触ったコップには、何か、古代から変わらない、一種の神秘性が付与されているのではないか?
 ・・・いや、もう僕は黙ろう。僕も、黙らなければならない。僕にもまた、生活があるからだ。僕は言葉の上の存在ではない。僕もまた眠り、飯を食い、小便に行かなければならない。そんな事で生活が成り立っているにせよ、確かに、そういう自分を僕もまた、人々と同様に尊重しなければならない。・・・だが、僕は付言しておく。君は・・・生活に飽いても、また、必ずここに帰ってくる。どれだけ、君がハッピーになろうとも、君は必ずここに帰ってくる。・・・この言葉の闇に。そして、光の事を考えるのはそれからだ。・・・それまでは、僕達は皆、光でも闇でもないうすぼんやしたこの奇妙な世界を歩かねばならないのだ。・・・裸足で。

夢の中で

 夢の中で


 時間は過去から未来へと流れていく。私は、その中の、一つの石に過ぎない。私はただ、この川の流れに押し流されていくだけだ。

 私は、もはや、何も言わない。文句も喚かない。・・・私は、もう、どんな理不尽すら耐えしのげるだろう。なぜなら、生きている事そのもの、そして、それが死ぬという決定的な理不尽を越える理不尽はどこにもないからだ。

 私達が好んで、恐れているもの。・・・それは何か?・・・。しかし、そんな問いはいらない。私達は、大きなものを恐れるあまり、それに目を向けないようにするために、いつも、自分よりも小さなものに怒号をあげ、気を紛らわせようとしてきたのだ。

 人生とは旅である。いかにも。・・・だが、私達は旅しているのか、ただ流されているのか、誰も知ってはいない。流される事が人生なのかもしれない・・・・。確かに、そうかもしれないが、しかし、自ら能動的に一歩も踏み出さない事を旅といえるだろうか?。私達は、地球にのっているだけで、随分激しい運動をしているのだ。

 今更、時間や流れについて述べても仕方ないだろう。私は、時の中で、静止した時間を思う。全てが停止した時間。そこは、始まりでもあり、終わりでもある。私がこうした駄文を書いているのは、そうした場所だ。

 人々の過ちは正されるだろう・・・他民族によって。人類の過ちは正されるだろう・・・宇宙によって。宇宙の誤りは、宇宙ではない、そして宇宙より遥かに巨大な、そして、おそらく決して私達が拝める事ができないなにものかによって、是正されるだろう。

 世界がマトリョーシカのようにできていると、言いたいのではない。そんな事はどうでもいい。・・・問題は、間違えた時は、必ず、何かがそれを覆さなければならないという事だ。

 近代人は自然という事を言ったのかもしれない。それは、私達が十分、人工化された後だった。・・・私は、今、何を言おうか。このSF的に、道化じみた世界で。

 私に友達はいない。恋人はいない。家族はいない。私より、孤独な人間があるだろうか?・・・いや、ある。それは、馴れ合っている人々だ。彼らほどの孤独を、私は知らない。彼らより、バクテリアの方がまだ、必死に生きているのではないか。

 全てが終われば、また、全てが始まるだろう。私が死ねば、それは無に違いない。だが、私が感覚した事は、私の中に残っている。だから、人を傷つけたり、傷つけたりするという事は、やはり「何か」なのだろう。

 私は、ゆくゆく、寂しがりの人物に違いない。自分についてばかり、こんなに語っているのだから。だが、これは、自己愛の成果でもなければ、自己嫌悪の成果でもない。私は世界を拒否した。そして、それと共に、私自身を拒否した。なのに、私の中にたった一つ残ったものがあったーーーそれが「言葉」だ。そこで、私は私について語る事を始めた。私の語る私とは、ただの抜け殻にすぎない。ただ、誰よりもよく知っているサンプルとして、私という対象を選んだにすぎない。

 さて、私はこれから眠るだろう。そして、おそらく、その時に見る夢は、今ここに書いた文章とは、きっと、何の関わりもないだろう。

 さよなら。また、明日。夢の中で。

未来について


  未来について



 考えても見たまえ。僕達の生が、八十歳まで生きて死ぬのが平均だとすると、僕達の人生の内、およそ、四分の三は、ただただ死に傾斜していく、その余韻にすぎない。若さ、美しさ、が、二十歳を境に衰えていく事は誰にとっても明白だろう。だから、人生とは死との闘いだ。・・・そう思えないのなら、既に、死に一歩リードされているという事になる。

 人生という、この明白な、雑然としたゲームで人は、夢を見る。様々なものに、思い入れる。イデオロジスト達は、自分のイデーに思い入れる。私達平凡な人間は、自分のみすぼらしさに、自分の正しさに対して、夢を見る。あるいは、親は、子供に夢を見る。だが、夢は、時の変化と共に、消えて、流れていく。それでも、人は、夢にしがみつく。自分は悪くない、自分は正しい・・・・・こんな心の中の言葉を読み取れない人々が、その漠然たる衝動につかれて、他人を排撃しはじめる。彼らは、自らの夢を防衛するために、必死に戦っているのだが、だが、しかし、彼らは知らないのだ。夢を壊すものは、他人の中にではなく、自分の中にあるという事を。

 古代人が見た夢は、多少の彩りを加えて、現在へと続く。夢は、続いていく。現実というのは束縛であり、思考が何ものかを目指す限り。だが、誰が知るだろう。一部の天才達を除いて、この世のあらゆる思考は、玻璃となって砕け散ったという事を。それらは、美しい残骸となったか?・・・否。それは、歴史の闇に同化して、そんなものが存在したかどうかも、私達には知る事はできない。私はただ勝手に、その存在を感じているだけにすぎない。

 あらゆる権威を、あらゆる歴史的遺物を、政治的機構を、他民族を、企業を、自分自身と他人を、あざ笑い、軽蔑し、なんなら殺害する事が可能だ。・・・そして、それが許されようとする時代に、私は生きている。しかし、現に生きている私を、誰かが殺したとしても、私の存在は、私の殺害者にとって、見えない血の滴りとなって、残る。・・・どんな犯罪者も、自分という良心の置所を裏切るという事はできない。・・・なぜなら、誰もが、「正しさ」を目指しているからである。誰もが、自分を正当化する。だが、正当化というのは、大抵、一時の気休めにすぎない。スターリンの孤独・・・・・そんなものは、想像を絶する。今、孤独の極みにいると感じている私の魂は、彼のような絶海の、無私の、自分自身から隔離された存在に比べれば、まさしく、天国の極みにいる事になるだろう。

 だが、現に私は生きている。そして、人々もまた同様に生きている。だが、私達は今や、自分達で自分の生を否定しようとさえしている。自分の生とは、自分の感覚であり、肉体であり、魂でもあるが、それら全ては、この世界のどこかにある、この世界のすべてを記述した、一冊の古びた本ーーーつまる所、一つのデータベースに比べれば、みすぼらしく、価値のないものであるらしい。
 自分の感覚は信用ならない。自分の尺度には自信がおけない。そうした空孔に入り込むのが、様々な結果主義や、科学的といわれる言説の数々だ。・・・これらの有効性については、私も現代人だから、もちろん、認めざるを得ないのだが、また同時に、一人の人間として次の事だけは指摘しておきたい。「未来とは決して定まったものではない」。

 「未来はわからない」。・・・どうして、こんな当たり前の言葉を繰り返さなければならないのか?。・・・こんな言葉は、誰しもが当然の事だというような顔をしている。・・・だが、そし一方で、どうなるかわからないはずの未来を「老後の不安」などという漠然とした言葉で形にする事もある。その時、その人にとって、未来というのは、確かに存在するものであるかのように扱われている。だが、私が不安に感じるのは、結局、不安を感じるのは未来の自分に対してではなく、今の自分に対してではないのか?という点だ。

 未来はもちろん、不定である。だが、それにある程度の定性を決めてやらないと、我々の生は分解し、細切れになってしまう。・・・全ての労働は無意味でさえあるだろう。だが、それが行き過ぎすると、今のように、非常な閉塞感を感じる。人は、視界の外側を見る事はできない、とある哲学者は語ったように思う。だが、視界の外側から受ける圧迫については、感じる事ができる。・・・これが現代の閉塞感の正体だろう。私達が作った閉塞感というのは、自分達が閉じこもり、無敵だと考えた、私達自身の創作物ーーーこの世界という名の要塞に由来するにちがいない。

 さて、私は、これで軽く、問題を適当な形で扱ったようだ。・・・ちなみに、この文章は誰の為にも書かれてはいない。私が、私の問いかけに答える為に、書いたものだ。私はこれから、この世界の中へと入ってゆく。その中で、私がどんな表情をするのかは定かではないが、私は、未来を掴んだと考えている人々の中では、過去のような暗い表情をし、そして、人々が過去の不可能の壁に取り囲まれ、絶望している時には、私は、未来のような明るい表情でそれによじ登る事に、おそらくはなるのだろう。

3月3日

         

 僕が現実から学んだたった一つの事は、現実に期待する事というのは、何一つないという事だ。・・・それ以外にはない。

 今、何を語る必要があるだろう・・・?。小説とかアニメとか、お笑い芸人とかモデルとか、そうした、色々な夢が転がっているね。僕達の周りに。僕達の学ぶ事は、まずそれら幻影の一つ一つを潰していくという事だ。それらに、一つずつ、幻滅していくという事だ。すると、後には、生活という、もはや、幻滅する必要のないくらい嫌なものが残る。・・・では、最後に、これに唾を吐きかけようか。・・・すると、僕は、人間ではなくなる、という事になる。

 人間ではないとはどんな気分だ?・・・と、人に尋ねられても、僕は、不思議な気持ちがするね。全くの所。僕は知っているんだよ・・・自分は人間だと固く信じきっている動物以下の存在、獣以下の獣というやつを、僕はずっと見てきたから。

 人間が神と動物の間の生き物という定義は今も廃れてはいない。廃れてはいないが、廃れたような気がしているもんで、みんなが様々な事を、人間らしく言う。人間であるという事も辛い事だ。それはちょうど、人間を装う事だからだ。

 そんなんで、どうして自殺をしない?・・・と尋ねられても・・・僕は質問に窮するね。たまたま、生き残ったとしか、言えない。でも、もう体は屍だ。・・・それで、答えになっているだろうか?

 「死体である自分を殺す事は誰にもできないだろう」・・・こんなランボーの語句が趣味的でなく、染み入るようにわかり始めるなら、僕らはもうすでに、この世界の外に出ているという事だ。・・・僕は昔、学校の教室の窓から、休み時間に外に出て、学校というものから逃げ帰った事がある。・・・その時は愉快な気分だったけど、後で、こっぴどく怒られてね。・・・僕もまた、あんな風に、外に出てみたいな。この世の外に。もう一度。

 ああ、もう疲れた。うんざりだよ。はっきりいって。自分に、自分というものに、うんざりなんだ。僕も、みんなみたいに、明るくできればいいんだけどね。よく、求人広告なんかであるだろう?「明るくて、はきはきした人を募集!」って。明るくハキハキして、朗らかで・・・それで、一体、どうなるんだ。・・・でもまあ、それしか、他人に対する態度というのはないんだろうね。無知というものを前に、自分の深淵をさらけ出しても仕方ないだろう?

 誰もが、真面目にこの世界を、それぞれの道を歩いている、というのは、真面目な魂が早い内に出会う、正しい誤謬だと思う。この世が間違っているという事を速やかに、真面目な魂は発見するのかもしれないが、しかし、それにしても、他人の権利というものは、絶対に認めなければならない。これを抜かせば、すなわち、政治的抗争になる。

 こんな政治家みたいな事を言うのはもうやめよう。・・・僕は政治家を好かないが、本当に良い政治家が出てきた時、それを見極める目も持ってやしない。でも、今あるのは・・・なんだろうね。誰も彼もが、知りもせず、感じもしていない事を、まるで自分の体が傷つけられたかのように、大声で喚いているという事だ。メディアの発達によって、一人の人間の自意識は、この世界全体と同じ大きさになってしまった。僕は、僕の弱小の、滅び行くこの肉体を愛そう。自分の卑小さ、くだらなさと一緒に、心中しよう。

 そんな事言ってても、仕方ない?・・・・・全くだ。・・・実際の所、僕は、自分が好んで孤独になっているのか、それとも、周囲に強いられて孤独になっているのか、見分けがつかないのだよ。

 おそらくは前者なんだろうけどさ。でも・・・・・・・・・・・いや、やめよう。それでは、また。

3月2日

 ねえ。

 自分が何者でもないって事は、一体、どういう事だろう。・・・そして、自分が何者にもなれるという事も同様に、一体、何なのだろうね?

 誰もが考えるという事をしない。考える事は苦痛だから。頭の良さを誇るという事と、考えるという事は違う。違うが、それは見えない。考えなければ、見えないからだ。

 僕は自分の人生が不安なんだよ。「人生」というやつに目を向ければ、すなわち、不安になる。だが、何事かを考え、行動し、自分のすべき事をしている時ーーーつまり、「自分」を忘れている時、僕は安楽なんだ。

 一体、なんだって言うんだろうね?・・・馬鹿げている?・・・一体、何なんだろうね。この世は。

 僕が、もてたいとする。可愛い女の子をGETしたいと考える。・・・と、すると、僕は走りだす。走りだす・・・そして、帰ってこない。

 僕らの目の前には色々な餌がぶら下がっている。・・・そして、どうやら、それを食べなきゃいけないようだ。この世では、働く事は、立派な素晴らしい事であるらしい。・・・それは誇るべき事らしい。・・・だが、その内、心底、その労働に、自分の存在を賭けて、打ち込んでいる人間を、僕は一人も見たことがない。みんなは愚痴を言う。愚痴を言うという事は不満があるという事だ。自分の力が足りないという事だ。ベートーヴェンが、自分の耳が聞こえなくなった事に愚痴をこぼしていたようでは、あんな風にはなれなかった。

 僕は「天才」共の事なんか、言うべきではないんだろうね・・・。きっと。彼らは、僕達とは「違う」存在だ。でもね、聞いてくれ。君。僕は、現実にうごめいている人間達より、死んだ天才共と語らっている方が、遥かに楽で、快い気持ちになるんだ。・・・そうだね、彼らの愚痴は、昇華されていると言ってもいい。フロイトが言ったように。

 フロイトなんてどうでもいい・・・?。そうだね。僕は今、生きている。辛うじて。・・・そして、その事が様々な問題を引き起こする。全く・・・厄介な事だよ。生きる事にこれっぽっちも期待なんてもうしていないのに、希望というのは、繰り返し、戻ってくるんだね。ブーメランのように。捨てても、捨てても・・・というやつだ。

 世間に、世の中に期待している奴は、世の中についていやというほどの経験をしそこねたのだろうと思うよ。よく、わからなかったんじゃないかな。みんながどれほど浅はかに、他人を評しているか、という事実が。

 まあ、いいや。今日の所は、僕は寝よう。じゃあ、また明日。この時間に。

三月1日

 下記の銀行口座にお金を振り込んでください。振り込んだ分だけ、あなたの事を愛します。ええ、それこそが真実の愛というやつです。
 全く、うんざりするね。こんな夏は。夏ーーーーー夏か?今は?

 何も言うべき事はない。僕は無職なんだ。

 聞いてくれ。君。僕は進化している。毎日。でも、それがなんだっていうんだ?・・・一体。

 もし、悪というものが、善いものを引き立たせる為に現れるのであれば、僕は、神という奴を褒め称えなければならないだろう。だが、もし、そうでないならーーーーーいや、そんな事はないのだろう。

 死があり、生がある。それが全てだ。その他のものは全て嘘、虚妄だ。ーーーと、する所から、もうひとつの世界が生まれる。芸術を見分けたければ、この事が役に立つ。生と死に屈従した芸術、生の賛歌。死の奴隷。だが、本物の芸術はーーーーーまあ、いいさ。そんな事は。

 否定するのは楽だ。批判するのは楽だ。だが、創造するのは難しい。難しいというのを誰もが知っている。あるいは知っているふりをする。だれもが、過去の尺度で、他人を裁く。「これは音楽じゃありません。」「これは文学じゃありません。」

 カフカを、バタイユを世界各地のアカデミックな秀才達がこぞって研究するのか?・・・ばかばかしい?・・・いいや、そんな事、。全て、ありふれた事だ。キリストは乞食のなりをし、その弟子どもは、乞食の親分を稼いで、大儲けしたか?

 馬鹿馬鹿しいと思う僕が馬鹿馬鹿しいのだろうな、きっと。この世界では。全くーーーー僕の中二病ってやつは、ここまできたか。

 シェイクスピアを、これまでに五億人が読み、そして百万人の研究者が研究したのかもしれない。だが、シェイクスピアの魂は、その作品の上に乗って、今でも、あの天空の辺りをふわふわさまよって、僕達下界の人間を見下ろしている。僕はそれを下から眺める。ああ、いつか、僕も、あそこにーーーーーいやいや、何を。やめよう。夢は、叶わない。

 人が一人生きるという事は大変な事だ。人間というのは、あまりにありふれているが。

 お前は何を言っているのか、わかっているのか?・・・わかっているよ。わかっている。きっと。・・・で、多分、精神病院に入っている連中だって、色々な事をわかっているに違いない。狂気はいつも、理性の外側からやってくる。でも、最悪の狂気は、行き過ぎた理性だ。

 こんな事を言ったって、しかたないね。僕にはね・・・・・君、聞いておくれよ。現実肯定の連中というのが基本的に、うんざりするんだ。彼らを見ると、僕は必ずゾンビを思い出す。それも、骨と皮だけのスッカスッカの奴をね。
 現実に骨を埋める。それで終わりだ。だが、終わった所から始まるのではないか?・・・だとすれば、彼らはスタート地点をゴール地点と勘違いしたんだ。きっと。

 まだ、開始のピストルは鳴っていない。

 いつになったら、僕らはこのマラソンのスタートを切れる。人の点数と、自分の点数を数えているうちに、いつの間にか、年をくっちまった。僕も、もう年だ。

 さよなら。もう、君に、人間として会う事はないだろう。僕は人間にうんざりして・・・・・まあ、いいか。多分、屍が喋れば、こんな感じだろうよ。まるで、この僕そのものだろうよ・・・。

水を


 人が死ぬ。・・・と、すると、すぐにその責任が問われる。誰かが、その責任の罪を負わされ、吊るし上げられる。・・・さて、これで一安心と。・・・人は、そんなことで、家に帰って、ぐっすりと寝るのだろうか?。

 彼らの忘れている事は、死そのもの、リスクそのものが僕達の中に内在しているという事実である。死は、いつの間にか、全く、非常な事態となった。・・・現代の世界において、死という、かつては非常に身近であったものは、もはや疎外されている。だから、人は、誰かが死ねば、非常に驚く。・・・死ぬはずではなかったのに。・・・だが、やはり、死は、向こう側で、僕らを笑っているのだ。この世界から疎外された事を、僕達に償わせる為に、その触手を動かして。

 僕には非常に滑稽と見える、多くの物事がある。死というのは、その中の一事である。人が死ぬ。肉親が、恋人が死ぬ。いずれも、痛切な出来事である。自身が、段々と死に傾斜していく。これこそ、人生で最も偉大な痛切事だ。だが、それはもはや、痛切ではない。リスクは、保険会社が負うものか。

 もう、これ以上は言うまい。この世界はなるようになるだろう。お前は誰に向かって言葉を書いているのか?・・・そんな問いが聞こえる。それに、僕は答える。自分の死に向かって、であると。



 僕は今日、水を3l飲んだ。

 何故、理解しない者共はこれほどまでに目が見えないのか、と俺は考える。だが、そこに答えは用意されていない。ただ一つ、はっきりとしている事は、根底的な近眼者は、近くの一ミリ四方くらいのものを世界全体だと拡大解釈して、うぬぼれているという点にある。結局、彼の目に見えないものが、彼を押しつぶす事は自明の事だろう。そしてその彼はやはり、自分がつぶれていくそのさなかにも、相変わらず、大きなものは見えず、小さなものに固執し続けるのだ。
 我々は人間関係において、よく、こういう近眼者になっている。相手が自分を好きである、自分を愛している、あるいは仲がよい、などと自惚れている相手に限って、急に音信不通になる。・・・ここで、相手に対して憤怒の情を発するだけの輩には、永遠に人間関係というのは作れないだろう。こういう人間には、自分にだけ都合のいい事を言ってくれるロボットでもあてがう他はない。他人というのが、また自分もそうであるように、自立してなにものかを考え、そこに存立しているという単純な事実に気づこうとはしていないのだから。・・・こうした人間は迷惑千万である。こうした人間が、自分より力の弱い人間を見つけて、支配し、いじめ、犯罪沙汰になる事も非常によくある事だと思う。こうした人間に出会ったら、我々は思い切って、ノーを相手に突きつけなければならない。他人にしなだれかかる者に対しては、自分の足で立てと、断固言わなければならない。場合によっては逃げ出しても良い。だが、いわゆるノーを突きつけられないお人好しが、こうした他人にしなだれかかる者の犠牲者となる傾向にあるのは間違いないだろう。
 だが、いわゆるお人好しに問題がないという訳でもない。彼は、あらゆる人間に自分をさらけ出して、自分を譲歩してしまう。だからこそ、いつの間にか、自分を失ってしまう。そして自分を失うという事は、その人間にとっての損失であり、また、それは同時に社会にとっての損失であろう。ある種族がそのお人好しの為に、みんながこぞって自分を譲歩したなら、そこに、他人にしなだれかかってくる別の集団がやってきて、これを制圧してしまう。我々は、自分と闘うように、他人と闘わなければならないのだ。
 俺は未だに、ネット上での、様々な無数の人間関係に対する煩悶や苦痛、疑問の声を見かける事ができる。・・・そしてその内で、己に起因した問題であるにも関わらず、他人のせいにしている人達もいる。こうした人々というのは、大した問題ではない。彼らは、ただ現実に裁いてもらう必要がある。裁くの我々である。彼らが他人のした行為を、真に常識的な人々は、こうした事をした人達に返してやらねばならない。・・・そしてそれは断固としてやるべき事である。そして、結局は、それが最終的には、その相手の為になるからである。
 だが、俺にとって問題は、本当に自分のせいでもないにも関わらず、苦しんでいる人である。こうした人達に対して、俺が思う事は、すぐそこに答えがある、あるいはもう既に答えは知っている、にも関わらず、それを断行できない優しい魂の場合である。・・・自己欺瞞でない場合は、こうした魂はいたわる必要性があるだろう。・・・だが、この答えを「知る」という事と、それを為す、という事には苦痛が、正しく大きな苦痛が横たわっている。人から嫌われるのではないか?・・・人を傷つけるのではないか?・・・だが、考えても見てほしい。あなたはもう十分に傷ついてきたではないか?・・・・そしてあなたが、傷つける事を恐れている相手というのは、一度も傷ついた事もなく、あるいは、傷ついたと考えたがりもしないし、すぐに自分の傷口から目を背け、それを全部、他者のせいにする、いわば人生の未経験者達なのである。・・・彼らはこの人生の、社会性という半分の事実は通り過ぎたかもしれないが、もう一つの重要な、心理的要因に関しては、一切、通り過ぎてきた事はないのである。彼らはこれまでずっと逃げてきた。彼らは一度として傷つかなかった。だからこそ、彼らは弱いのである。彼らは自分が傷つきたくない為にありとあらゆる手を弄する。それが、一種の強さとなって現れ、一部の盲目の人間方には、男らしい力強さと錯覚されるのである。だが、それはまやかしの強さであり、ただ単に、自分からの逃避が社会へと、世界へと向かっているに過ぎない。・・・もし、自己を傷つけ、他人を傷つける事を恐れている心優しい人物がいれば、こうした事を是非とも考えるべきである。一度は、彼らに人生を経験させてやる機会を与えてやるべきではないか?と。おそらく、いや、間違いなく、彼らはそれらをまたも経験せず、その経験から逃げ出す事は確かだろうが、しかし、その余りは我々の心優しい者達の責任ではない。それは、彼らの責任なのである。彼らは、自分自身から逃避したのだ。だから、彼らは逃避したまま死ぬ。彼らの行く先は暗口である。彼らは逃げれば逃げるほど、苦痛が増大する事を知らない。だから、我々のように、もし、はじめに苦痛を甘受する事ができれば、それは後に、安らぎへと、そしてまた同時に我々が生きていくべきに必要である力へと、まやかしではない真の力へと、変貌していくのだ。

 一体、何があるのか、とこの世に問う事は愚かな事だ。この世界に何もない事がはっきりして、はじめてそこから創造の道が開ける。
 現代というのは、どういう時代だろう?・・・私は繰り返し、考える。多分、シェイクスピアがその鋭敏な知性で、繰り返し、偽善としての悪、美徳の印を額につけた悪の出現を描いた、そうした姿と現在の形姿と基本的には変わっていないのだろう。そしてそれはドストエフスキーによっては、社会主義的革命という、「システム」と「真理」の形態とに取って変わったのだが、以前その中身は変わっていないように思える。だが、私達の平凡な感性にとって、百年前というのはもうすでに、嘲笑してもよい遙か昔に過ぎないのである。こうして、私達は百年前の賢者が指摘した愚行を繰り返し、安心して犯す事ができるのである。
 人は何故、過ちを犯すのだろうか?・・・それに対する答えは簡単である。結局の所、それは人が自己肯定をするからに他ならない。よく考えれば、どんな劣悪な犯罪者ですらも、自分自身を肯定する。自分を否定しつつ、その事をする、という業は、ほとんど人間には不可能な事ではないか、と思う。人間は過ちを犯した後、その事を魂のどこかでは反省しようとしていつつも、口先だけでは、自分自身のした事に調子を合わせて、自分を肯定しようとする。こうした事が続けば、人はどんな犯罪を犯しても、自分が正しいという嘘を、いつでも容易に自分自身に信じ込ませる事ができるのだ。
 だが、自己肯定というのは、正しく正義の行動として発露する事もある。時に、この世の天才というのは、人々の否に反して、自分の行動に真実を、真理を発見し、それを肯定する時がある。・・・そしてそれは結局、人々の為になる真理なのだが、人々は無知か、それとも目先の利益の為に、この天才に向かって、「やめておけ」と言うのである。だが、この人間はそれを断行する。・・・そうやって、道は開けてきた。
 しかし、このラスコーリニコフ的討論にも、もちろん欠点がある。それは、自分を天才だと勘違いした、凡人が出てくるという怖れがある。・・・だが、このポルフィーリィ的結論は、個人だけでなく、集団にも適用可能であると私は思う。つまり、自分達を天才だと、正しいと信じた、間違った集団が現れはしないだろうか?・・・そしてそうした集団は、過去に既にはっきりと存在してきた、という事を、今の私達が振り返って確認する事も可能である。
 こうして、全ては両義的なものとして、あまり面白くもない結論にたどり着くようである。力は、良い方向にも、悪い方向にも向かう。だが、常に、劣った者達は、山の裾野に広がるように存在するのに対して、優れた少数の個人は山の頂上に向かおうとする性質を持つだろう。そして、誰も彼もが自分を天才だと称して暴れ回ったにせよ、時間というふるいは、それらの中から、本物の宝石だけを生み落とすのだろう。

X教授の作った世界

http://p.booklog.jp/book/54609
↑「X教授の作った世界」
セカイ系短編小説です。

地獄から始めよ。天国に辿り着く。

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