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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

レフンの「オンリー・ゴッド」「ドライブ」を見ました

 レフンの「ドライブ」「オンリー・ゴッド」を見ました。「ドライブ」を見て非常に素晴らしいと感じて、恐る恐る「オンリー・ゴッド」も見ましたが、良かったです。

 「オンリー・ゴッド」は賛否両論だったので駄作見る覚悟でしたが、画面の構図が常に計算されていて、一時間半飽きる事なく見る事ができました。思わずスクショ取りながら見ましたが、併記する画像を見れば感じがわかるのではないでしょうか。

 「オンリー・ゴッド」では常に奥行きがある構図が求められています。僕自身も外で写真を取る時は奥行きのある、重層的な空間が好きで、そういう写真を取りたいなと望んでいましたが、「オンリー・ゴッド」はそういうこちらの欲望を満たすものでした。

 見ている最中、小津安二郎やマーク・ロスコの抽象画を思い出した。「アートっぽい」人というのは沢山いるのですが、レフンはきちんとした「アート」の感覚を持った人だと思います。良かったですね。でも見るのなら「ドライブ」の方がお勧めです。


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 小津安二郎との比較


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レンブラント・リ・クリエイト展感想

 


 横浜そごうでやっているレンブラント展に行ってきました。正確にはリ・クリエイトなので、本物の絵画ではなく、極めて忠実に再現された模造品なわけですが、専門家の人が(おそらく)きちんとやってくれているであろうから、「レンブラントの絵を見てきた」と言っても良いと思います。美的価値と骨董価値は違うわけですし。

 で、見てきた感想ですが、正直、自分の絵画鑑賞能力が低いので、あまり大した事も言えません。ただ、レンブラントという人は恐ろしく頑固な人だったのだろうと思いました。飾られている絵はほとんどどれも背景を黒にしていて、黒色の中に黄色なんかで光を浮かび上がらせるというスタイルを取っているのですが、ほとんど全てがそういうスタイルで描かれている。レンブラントという人は非常に、芸術的に頑固な人だったんだろうと思いました。
 
 レンブラントの絵では「夜警」が有名ですが、これは一番大きい絵だから代表作という事になっているだけの事だと感じました。「夜警」以外も、レンブラントの絵は素晴らしい絵ばかりで、どれを代表作と言っても文句ない。レンブラントは素晴らしい絵を沢山作ったのだと感じました。ただ、その背後にある精神にはどこか、陰鬱な、というか、ほがらかでのびやかな作品というのはほとんど一つもなかったと思います。

 僕が特に興味を惹かれたの自画像です。レンブラントの若い時の自画像も、晩年の自画像も、その目の中には悲しい光のようなものが宿っていました。恐ろしく透明な目つきをした、この世の悲しみを全部味わい尽くしたような顔が目の前にあり、それは一緒に絵を見ている他のお客さんより(そして自分自身よりも)はるかにリアルなものに感じました。ある時代、ある地域に、このような哀しみを抱いた男がいたという痛切な思いを感じました。

 あとは、レンブラントとは直接関係ないですが、やはり、絵画というのは現代でいうアニメーションやCG、最近だとARとか、そういうものと連続的につながっていると思いました。僕が芸術に関して納得できないのは、クラシック音楽であるならそれだけで高級だとか、純文学ならばそれだけで大したものだとか、あるいはフローベールやドストエフスキーを歴史的産物とみなして権威化して、その他を軽蔑するという態度です。こういう態度がなければ商売が成り立たない人が一定数いて、また芸術それ自体を味わう能力がなく、雰囲気や香りに酔いたい人達もかなりいて、そうした領域においてこういう態度が成り立つのでしょうが、僕はそういうものが好きではありません。で、レンブラントの、闇の中から光を浮かび上がらせる技法は、絵画だけにとどまっているものではなく、光とか映像とかいったものに対する指向性みたいなものを感じました。レンブラントが今生きていたら映像作家になった…というと言い過ぎでしょうが、重要なのは絵画というジャンルではなく、人間性の発現としての色彩や線、光、闇の交錯なのだと思います。そういう所でレンブラントは努力しているように感じました。

 あとは、レンブラントの絵は結構主題的な絵が多く、ただ絵を見ているだけでは理解できない所も沢山あると感じました。具体的に言うと、キリスト教に関する知識や当時の信仰心、レンブラント自身の思想について知らないとわからないような事が沢山あると思いました。ただ、レンブラントはキリスト教的な聖性を描き出す為に、闇の中の光という、彼の技法をうまく使っているように思いました。彼の技法と彼の主題とはその点では一致していたと思います。レンブラント展を見てきた感想はそういうものです。会場には、中学生は無料という事で中学生の子が沢山いましたが、中学生がレンブラントを見ても正直つまらないんじゃないかと思います。学校の課題で来ている子が大半だったのでしょうが。十年後、二十年後に自分の意志で再びレンブラントを見ようとする子がまた出てくればいいんじゃないか。そんな事を思いながら、僕は展覧会をあとにしました。

 
 

   神聖かまってちゃん「楽しいね」


楽しいね楽しいね
(2012/11/14)
神聖かまってちゃん

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音楽空間とでもいったものがあれば、それはこういうものだろう。特に、コンクリートからベルセウスへの流れは、の子の最も作りたかったであろう、「音でできた神聖空間」とでもいったものを見事に作り上げる事に成功している。

人は誤解しているし、またの子自身も意図的に誤解させているのだが、の子は純粋なアーティストである。それは例えば太宰治やルソーのようなタイプーーーつまり、典型的いじめられっ子としての、芸術家タイプだと思う。そして無垢な、純粋な形式の魂が、この錯雑した世界に向かう時、ああした反転した姿を取らざるを得ないという事を、人は決して見ようとはしない。

このアルバムが出てきた、という事は一つの奇蹟といっていいだろう。僕はそう信じて疑わない。現代のアーティストの中で、これだけの表現をした人間は他にはいない。・・・元々、の子の音楽世界はYOUTUBEのPVである程度解決していたし、視聴者もその映像に一番感動したに違いないだろうが、このアルバムによって、音源としてはPVを越えたと思う。それはまた同時に元々、「素人で何もない徒手空拳だが、この世界に立ち向かっているのだ」という初期のスタンスから逸脱、進化し、純粋な優れた音楽プロデューサーとしてのの子の姿を僕達に垣間見せる事となった。元々、芸術家というのは、自分だけの世界を、この世界に抗して持とうとする傾向がある。・・・例えば、シェイクスピアの広大な世界は我々の卑小な世界より、何十倍も広いのである。の子はそうした空間を、このアルバムによって、成し遂げたといっていいだろう。・・・まあ、君がもし興味があるならば、少しよい目のヘッドフォンを耳につけて、大音量でこのCDを聞いてみたまえ。君はこの世界とは違う世界が、この世界にも存在していた事を始めて、知る事になるだろう。・・・そういう事だ。

世の中は相変わらず、様々なことで沸騰している。大したことじゃない事、あるいはまあまあ大した事など・・・とにかく色々ある。そして結局の所、この平凡バンザイの世界では、自身の卑小な物差しをあらゆるものに当てはめ、偉大なものもそうでないものも、とにかく貶め、自分達と同じ卑小な段階に落とし込もうという宗教が猛威を振るっている。・・・彼らは、他人を破壊すれば、自分達の生のはかなさから目を一時的にせよ、逸らすことができる、と信じきっている者達だ。この世界のそうしたくだらない住人達が、この世界から去ったとしても、このアルバムの、この世界観は確実にその後にも残るだろう。人は時代を作るかもしれないが、また同時に、時代によって流されもする。・・・そして真に、時代に抗して、自らの表現を成し遂げたものは、洪水の後に残った巨木のように、その後も、巨大な記念碑として、残り続けるのだろう。

「出口のない場所」 ーーー「ライ麦畑でつかまえて」を読んでーーー


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 結局の所、青春というものは誰にも忘れ去られるものらしい。誰しもが、若かった頃を思いだし、思いだしはするものの、そこにあった全てのものを、大人の苦笑で片づけてしまう。「あの頃は若かった」と。
 あるいは、僕はーーーそうだ。僕は、それよりもっと怖ろしい気がする。この社会には根本的に「青春」が存在しないのではないか?・・・と。誰もが知った風な顔をする。子供は大人の顔を真似て、大人は偽善者の仮面を身につけ、そうして誰もが自分とは違う誰かになろうとする。こんな世界では、自分であろうとする事は、この世界を見下すか、見下されるかして、孤立する他ない。・・・だが、一度も孤立を経験した事のない人間が、この世界では随分と多いのだ。
 この世界は袋のようなものだ、と、特に日本人のような人種は考えていると思う。生まれては家族に属し、少し立つと、学校に、そしてまた少し立つと、会社に属し、そしてそうした袋の中の安定した価値観の中で安らかに死んでゆく。そして、この袋の世界の外側で生きてゆく事、その場所で思考する事を希求するのであれば、孤高の哲学者ニーチェや、罪と罰のラスコーリニコフのような、絶対的孤独、そして死か殺人か、それとも狂気かーーーとにかくそんな運命を選ばなくてはならないのだ。
 ホールデンはニューヨークの街をうろつく。そして、彼はあらゆる事を軽蔑し、反吐を吐き、挙げ句の果てには可愛いガールフレンドに「頭がスカスカな野郎」と罵って、ガールフレンドを立腹させてしまう。だがもちろん、ホールデンはよく知っているはずだ。あのエレベーター係のように、頭が「スカスカ」の方が生きていく事は楽である、と。彼は一時の気まぐれで、つい自分の内にずっと抱き続けてきた感情を、偶然その場に居合わせたガールフレンドにぶつけてしまったに過ぎないのだ。だから、彼は謝る。関係を修復しようとすら、試みる。だが、結局、「頭がスカスカ」だと彼が思っている事、そして、実際にそのガールフレンドの頭が「スカスカ」であるという事実は変わらないのだ。・・・そして、ある視点からすれば、もちろん、この現在を生きている全ての人間は(ホールデンも、もちろん)みんな、頭が「スカスカ」に違いない。なぜなら、それが「生きていく」という事なのだから。
 僕は夏目漱石「それから」の主人公代助を思い出す。彼もまた、自分の思考力の深さが人より透徹している為に、他人を、周囲の人間を馬鹿にしている。彼は自分がそこから金をもらっているにも関わらず、金をくれる父親や親類を芯から軽蔑しきっているのだ。彼にもやはり、ホールデンと同じく、この世界のどこにも出口はない。生きる事の馬鹿らしさを知った人間は、ロミオとジュリエットのように死という新たな出口を叩くか、それとも、代助のように社会と家族から追い出される事を決意して、新たな一歩を踏み出す他ないのだ。
 ホールデンにももちろん、出口はない。彼は都市の中をうろついて、自分の家に帰るだけだ。・・・もちろん、彼が夢想したように、突然、西部に出かけて小屋を作って、そこで暮らすなどという事はありえない。どうしたって、彼はこの世界にうんざりせざるを得ない運命にあるから。西部には西部でまた、うんざりする奴らと物事が現れるだろう。
 だが、この作品にもまた、クライマックスはある。それを担当するハメになったのが、妹のフィービーと、そして物わかりの良い先生ミスタ・アントリーニだ。この二人には、作者によってある程度は主人公に近い自意識と知性を与えられているのだが、それは結局は主人公ホールデン少年と同格なものとしては描かれないようになっている。もし、この内のうち二人のどちらかが、ホールデンクラスの精神性と自意識を持っていたなら、これはホールデン少年がこの世界にうんざりする冒険ではなくて、ドストエフスキーやシェイクスピアのような、人と人とのぶつかり合いの物語になっただろう。そして、この物語の核である、主人公ホールデンの流れるような告白体の、世の中にうんざりするが、その上を滑り落ちるように歩いていくこの小説の骨格そのものが成立できなかっただろう。
 先生のミスタ・アントリーニの言う事は真っ当だ。それはそれまでの登場人物に見られなかった知性を持った言葉を放っているが、結局はミスタ・アントリーニは夜中にホールデンの額に触れるという行為によって、互いに離ればなれになる。だが、もしこんな行為がなくても、ミスタ・アントリーニは真っ当な事を言い、ホールデンはそれにほとんど納得しながらも、そこから離脱し、逃げ出すという事は確実だ。ホールデンはまだ社会に融和する素質ーーーそんな運命も、そんな覚悟も存在していない。
 だが、もっと重大な変化は妹フィービーによって起こされる。これがこの物語の最後で、最大の変化なのだが、それは結局、主人公の自意識を揺らがす所まで行かない。
 ここでは、おもしろい転倒が起こる。フィービーはホールデンを真似て、自分も西部だかどこだかに一緒についていきたい、と半ば子供の出来心で、半ばは真剣にそう言い出すのだが、ホールデン少年はこのフィービーを止める側に回るのだ。それと共に、ホールデンは自分がどこかこことは全く違う田舎の場所でひっそりと暮らすという自分の考えも、自分がついた一つの冗談である事を悟り(あるいは既に悟っており)、その考えも一緒に撤回する。そしてホールデンは無事、フィービーを家に帰す。
 ここではもちろん、これまでの主人公の役どころが反対側に回る唯一の瞬間なのだ。これまでは、無鉄砲で全てを馬鹿にしていたホールデンを、周囲の常識的な人々が押しとどめ、自分達の約束事を守らせようとしたのだが、結局それはできなかった。だが、ここでは、ホールデンは常識的な立場に立って、フィービーを押しとどめる役割を演じる。・・・ここで、いわば決定的になる事は(あるいは最初から決定されていた事は)、どこかここではない場所で静謐として暮らすというのは、最初からホールデンにとっても冗談でしかなく、いわば、全てがホールデンにとっては冗談にすぎなかった、という点にある。そして、彼が出会う全ての人々は、ほんの小さな煌めきを見せるごく一部の人を覗いては、みな偽物に過ぎないのだ。(そして、主人公がふと思い出す、絶対に自分を曲げようとしなかった為に、階上から落ちて死んでしまった学生は、彼が思い出す、この世界の小さな煌めきに該当する。)
 だが、そうかといって、この偽物だらけの都会の他に、ホールデンが行くところはどこにもないのである。例えこの世界が偽物だらけ、インチキでできあがってしまっているとしても、今更、ホールデン少年にとって行く場所は「どこにもないのだ」という点にーーーフィービーを通じてーーー悟る所で、この物語は終わる。
 この物語に続きはあるのだろうか?・・・ホールデン少年には、「先」があるのだろうか?・・・僕には、ホールデンは、絶えず振り子状に、この世界にうんざりしてその外に出ようとするも、その虚しさをすぐに悟って、またこの偽物だらけの世界に戻ってくる・・・そんな往復運動をしている一人の人間の映像を直知する。・・・だが、僕達もまた、ホールデン少年といかに違うだろうか?・・・この少年を軽蔑するのは、社会にいわば改造された大人にはたやすい事だ。だが、この世界が偽物とインチキでできているという真実に我々が出くわす度、私達はその都度にあのニューヨークの街をふらついているホールデン少年の事を思い描くのだ。 

はじまりと終わりのラスコーリニコフ

  


この物語を真摯に読む者は、恐ろしい経験をするだろう。それはまるで、未来の自分が目の前にいて運動しているかのような幻覚である。・・・ラスコーリニコフは、全てが終わった所から始めた。そしてあの恐ろしい殺人を行ったのである。・・・ところが、それが物語の始まりなのである。ドストエフスキーの恐ろしさは、ここにある。我々が死を越えるほどの絶望を体験していない時、おそらく人類ーー我々は、まだあのラスコーリニコフのスタート地点にすらたどり着いてない。だとすれば、我々はやがて誰かに向かって、あの斧を振り上げたりはしないだろうかーーー?。・・・自分は常識人だから、そんな事は絶対にしない、自分は幸福な市民だ、収入もある、という奇特な方ももちろんいるだろう。だが、ドストエフスキーはぬかりなく、書いている。この物語の最後で主人公は一つの夢を見る。そこでは、めいめいの人間が自分が正しいと信じて他人を害する、という病にかかっており、それによって人類は滅亡する。・・・さて、現代のこの世界は、そんな夢の中の世界に酷似していないだろうか。我々は自分が正しいと信じる所から始めていないだろうか?・・・我々の誰が、あの恐ろしい病にかかっていないと断言できるだろうか?・・・そしてその最初の罹患患者が、ラスコーリニコフという、超人に憧れた凡人であった。そして歴史は繰り返す。ドストエフスキーの死後に、あのスターリンや、ヒトラーといった、自分を絶対にねじ曲げる事のできない奇妙な超人が現れ、あらゆるものを殺戮の海に叩き込んだのだ。
 
 私は何の為にこの批評を書いているか、自分でも知らない。ラスコーリニコフもまた、自分の自意識からの逃走しようとして、あの恐ろしい殺人を行ったのだが、結局、その自意識から逃れられなかった。だが、彼は贖罪の途中で、何ものかを見た。(ラストの遊牧民の風景を見る場面の事。)そして彼は救われた訳だが、それが何であるのか、作者は具体的には書いていない。それは、書けないものなのだ。だから、書かなかった。ここに一つの終点があるのだが、これはまた始まりである。ラスコーリニコフは、自分の罪を悔いる事、自分が殺人という罪を犯した事に対して、人間的に悔悟する事を覚えたのではない。(結果的にそうなったとしても。)そうではなく、彼ははじめて、精緻な頭脳によって、完璧を画した自分の理論が、現実に、世界に、自然に敗北した事を直覚したのだった。・・・そして、この青年の、彼自身の敗北は、同時に彼の第一の勝利であるはずである。何故なら、そこから彼の人生が始まるから。

 スターリニズムが、資本主義に敗北し、崩壊した。それは、ドストエフスキーが知る所ではなかったものの、ドストエフスキーが正に予言した通りの出来事だったと僕は思う。彼は、そうなる事を正しく指摘していた。ラプラスの悪魔。あの、完全なる計算、頭脳ではじき出された正義が、それ以外のものによって滅びる様を、彼は確かに直感して、描いた。・・・そして、現在、それと全く同じ事が起こってはいないだろうか。人は、現実主義者の名をかたると共に、最も効率的に現実を蹂躙する。頭脳で考えられただけの正義が世界を這いずり回り、世界と人々の救済を謳いながら、世界を荒らし、壊滅させる。今また世界はそのように動き出している。だとすると、今また新しいドストエフスキーが我々には必要なのだろうか。最初に絶望するからこそ、真の希望を持つに至る、そうした人間が、我々には欠けているのだろうか?

「暗い部屋で一人」さん





「暗い部屋で一人」というバンド(?)の方です。youtubeで見つけました。神聖かまってちゃんが好きな人にはおすすめです。

地獄


 彼方にはまだ誰も見たことのない天国があって皆それに向かって進む。その流れに「逆流」する奴は犯罪者として捕えられる。
 僕もその一人だ。
 僕はヘラヘラ笑って手錠を外して逃げてやった。そして地獄を追いかけた。




彼らの敗北と僕らの未勝利

 自分の様式を押し付けてくる人に対しては、絶対に自分を譲ってはならない。何故なら彼らの頼みは自分達のが多数派であるということで、彼らはあなたを自分達に同化させることで勢力を高め、自らを安心させようとしているのだから。だから決して自分を譲ってはならない。


 僕らが自己の様式を他人の同化作用から守ることは、生涯を己のものにするため絶対必至のものである。僕らは誰も他人の人生を行きたくない(と僕は思う)。彼らはまず初めに自己を失った。そして僕達にもそれを失えと言う。彼らは「普通」や「常識」という言葉を必ず使う。彼らは世間の通念に根拠を求める。だが世間とは僕らが各々生きることによって「自然に」生まれるものであり、それを根拠に僕達の生活を規定するものではない。


 彼らは自己を失うと必ず他人を同化させることに走る。彼らは自分達の生活の正しさを主張するが、もしそうなら何故彼らは自分達の生活の正しさを保持して泰然自若としていないのだろうか?結局の所、彼らは不安なのだ。彼らが他人を自分達と同化させようとするのは、自らが「自己」という単純な形式を失ったために勢い他人の上に流れて行こうという勢力であるからだ。

 
 率直に言って彼らは敗北したのだ。この社会に。彼らはこの社会の機構の使い手ではなく、その使われ手となったのだ。だから彼らはそれを慰めるために様々な手管を弄する。僕らがそれに同情することはあっても、それを受け入れる余地はない。

 
 だがもう一つ気をつけねばならないのは、自分自身だ。敗北を恐れて戦わない意志だ。彼らは敗北したが戦いはした。そしてその敗北の結果を僕達に浴びせかける。僕らはこれを乗り越えねばならない。そして彼らが敗北した当のものに戦いを挑まなければならない。

 

狂気

「狂気をつきつけろ! これが俺だ!」
 
 もし自分が正気の中にしかないなら気が狂ってしまうだろう。

 正気の人間が夜見る夢ほど恐ろしいものはない。

未知なる場所へ

 僕は普段あいさつをしたり明るく振舞っている。だけどそういうのが何もかも嫌になる時がある。すると僕の中の誰かが僕に「明るく振舞え。暗くなるなよ。」と囁く。僕はその声にはげまされつつ仕方なく次の日に向かう。僕の毎日はそんな風だ。だけどそんな中で、誰かが急に「僕は死にたい!死にたい!死にたい!」と叫ぶ。僕はこれに同感する。

 「死にたい」とはどういうことだろう。それは「生きたい」ということとも「死にたい」ということとも違う。そうではなくてもう生きることにうんざりということなのだ。「やってられないな、やってらんねえよ」(天使じゃ地上じゃちっそく死 3学期)という歌詞がある。こんな風に生きてゆくのがもう嫌だ、との子は言っているのだ。それは「死にたい」という表現となって現れる。だが彼は自殺しない。それを歌う。大声で。これはどういうことだろう?これは「新しい生を形作りたい」ということなのだ。今いる場所では生きていたくない、だから新しい場所で生きたいということなのだ。「未知なる場所まで走ってゆけ」(スピード)。だが最初に抜け出たのはの子だった。彼が今いる自分を蹴破って最初に未知なる場所へと走り出したのだ。

 僕はの子の事をよく知らないが、彼をそこへ向かわせたのはいじめ(と一口に言ってしまうが)だったと思う。おそらくの子はその時、尋常でないくらい絶望したのだ。絶望というのは絶望した人にしか分からない。絶望しない人には絶望というものは決して分からない。本当は彼はここで自殺するはずだったと言っていいかもしれない。だが彼はそこから立ち上がった。そのエネルギーは音楽にぶつけられた。彼はいじめられ、絶望した時、深くしゃがんだ。そしてそこからそれをエネルギーにかえて思い切り跳躍した。これが彼の音楽だ。
 
 

アインシュタインvsボーア

 ボーアとアインシュタインの討論について僕は(科学的点についてはわからないが)こんなふうに感じた。
 アインシュタインは様々の仮説を持ち出してボーアに「お前はこんな点が間違っている!」とつきつける。
 だがボーアはその問題を仔細に検討した挙句、アインシュタインにこう言う。

「アインシュタインさん、あなたは私の量子論がおかしいと言っておられる。そのために私の量子論がおかしいと思えるような仮説を持ち出す。しかし私の量子論はあなたがおかしいとかおかしくないとかいった基準そのものを破壊してしまったので、あなたが私にいくらおかしいと言っても、実はおかしいとかおかしくないとか言うことを判断していたあるものーーつまりはカント的なものですねーーこれを破壊してしまったのですよ」
「何だと!だとすると1+1=2じゃないと言うのか!」
「そうです」

もちろん上記の会話はでたらめです。

今日

 サカナクションとか踊ってばかりの国、遠藤ミチロウ、戸川純とようつべで聞いてみた。自分の知らない世界があることをはじめて知ったよ、先生。だけどやっぱり神聖かまってちゃん(てか「の子」)はやっぱり天才だと思った。
 の子の音楽には哲学も思想も科学もちゃんと入っている。彼が傷ついた度合いがあまりに深いために、彼の中にいろんなものが入ってきてそれをおしのける動作に彼の芸術がある。
 「死ね」「死にたい」という叫びのどこに哲学があるのかと言われれば僕はこう答える。
 
 哲学というのは対象の本質を理解するものだ。科学だってそうだ。社会学だってそうだ。それは対象と自分を分離して理解する。人類学者は未開人を理解する。だけど未開人と近代人、文明人、西欧人とは違うものだという前提がちゃんと入っている。だけど未開人の人間からすればどうか。自分が何をするか逐一理解されている。それはやりきれないことじゃないのか。
 例えば勝間和代さんのような優秀な女性が、僕のような愚かなフリーターを理解する。僕の幸福度を上げたいと願う(願ってくれる)。だけど僕の意志はどうなるだろうか。僕はやりきれなくないだろうか。もし諸制度の改革によって僕が幸福になるなら、僕という人間とはなんだろう。僕が天国なんか嫌だ!地獄に行きたいと言えばどうなるだろうか。
 僕なんかはーー僕はーーここらのあたりでの子は「死にたい」と叫んだような気がする。もちろん、彼はそんなこと考えちゃいない。だけど彼のあまりの絶望の深さがーーこの社会の底まで達しているのだ・・・と思うよ。

最初の一匹

 の子の音楽は一貫して打ち破るということだ。芸術とは生活の軌跡だ。彼自身が生活を打ち破らない限り、永久に芸術はあらわれない。フィクションとは二つの意味がある。ひとつは文字通り架空のもの。そしてもうひとつは生活を土台にして撃ち放った大砲だ。(飛行機の滑走をイメージして欲しい。滑走路は即ち生活で、それを土台に上がっていった飛行機が芸術だ。)その昔、どこかの無謀な魚族が水中から陸地に上がろうとした。周りの魚達は「おいよせよせ、危ないから」とそいつに声をかけて自分達は水中に潜っていった。彼一人潜らなかった。そして彼は水際で長い(ほんとうに長い)時間をかけて陸地に上がっていった。そして彼らの一派はやがて陸地の王となった。要するにこの最初の一匹目が「の子」だ。

神聖かまってちゃん「自分らしく」について

 僕らに「自分らしく」は存在しない。そんなものは存在しなかった。彼がそう歌うまでは。
 僕らは自分自身を剥奪された存在だ。僕らは科学原子のように中性的で何の個性も持たない個体に過ぎない。もちろん人々は様々な「自分らしく」を用意する。だがそれは絵の具の種類を無限に増やすようなもので、いくらそんなものが増えても「絵の具」には違いない。こういう大きな一つの抽象項が僕らの社会を占めている。
 僕らは様々な珍奇なことをしたり、面白おかしいことを考えだそうとするが全て同じものだ。僕らはこれを全て同じと思いたくない為に様々に言い訳を用意するがその言い訳はみんなが用意しているものと全く同じものだ。人々はこう言う。「自分は悪くない。ただこういう理由があって。」だが理由に耐えられないという点ではみな同一だ。
 もちろん僕は全ての人の事を語っているのではない。そんなことは不可能だ。僕は一番極端な場合について語っているに過ぎない。
 僕らはみんな同一だ。この事実に耐えられない者は自ら同一性の中に溶け込んでゆく。自分という権利を放棄してみんなと同じになっていく。そしてその理由は既に用意してある。
 の子は僕らの中で初めて、本当に初めて、自分がいない、存在しない、どこにもない、ということに耐えきった人物だ。こんな人物はいなかった。そしてこの人物がーこの曲が現れるまで本当に自分というものはどこにも存在しなかったのだ。
 彼は歌う。「自分らしく生きたい」と。これは自分というものがこの世に何一つ存在しないことに気づいた者の叫びだ。僕らはみんなそれに耐えきれなかった。自分がいないという事実に耐えられなかった。の子だけが、彼だけが気づいたのだ。そして「自分らしく生きたい」と叫んだのだ。
 僕らはここに不思議なー現代でしかありえないようなパラドックスを見る。つまり自分というものはこの世に全く存在しえないために「自分らしく生きたい」という叫びこそたった一つの自分というものを取り戻す方法であるということを。

「地下室の手記」について

自意識過剰の青年(そう言える年でもないのだが)は全てを遠ざけて「地下室」に籠もっている。彼はこの世界を軽蔑している。それでいてこの世界に極度に怯えている。彼はこの世界を全て手に入れたかのように頭の中では考えているが、現実では何一つしない。女性一人を自分の身で受け持ってやることさえできない・・・。
 ここにはリーザという一人の娼婦の女性が現れる。彼女は、重要な存在だ。なぜなら彼女は彼の自意識過剰をやぶるために現れたのだから。
 この作品で彼は、一度は彼の自意識過剰を破った彼女を再び遠ざけてしまう。そして彼はまた「地下室」に戻ってしまう。だがそれは作品の体裁上のことだ。おそらくドストエフスキーはこの作品を書き始めた頃、この自意識過剰の青年が殻を破ってどこへ行くのか知らなかったのだ。だからあんな長い前口上が長々と述べられたのだった。だからシェストフの「これまで全生涯仕えてきた他ならぬその「理想」に唾を吐きかけ、その理想を泥に埋めるため、唯そのためにリーザという人物は必要だったのだ。」というのは間違っている。無論、彼は自分の思想を語っているのだ。リーザは思想宣命のために用意された道具ではなく、この思想を打ち破るために現れた人間だった。だがおそらくドストエフスキーはその用意を果たしていなかった。ためにこの問題の解決は次作の「罪と罰」に持ち越されたのだ。
 この作品の最後の場面でリーザは主人公の不幸を読みとる。ここの描写はこうなっている。
「だがこのとき奇妙な状況が突発した。
 僕は何でも本を通して考え、想像し、世の中のすべてをかって自分が夢の中で描き上げたそのままに空想することに慣れていたので、まったくその時すぐにはその奇妙な状況を理解しなかった。さてどうなったかというと、僕に傷つけられ、踏みにじられたリーザが僕の思っていたよりもはるかによく理解していたのである。彼女はこの一切の中から、女が、心から愛する時、いつでも何より先に理解することを理解した、すなわち、僕自身が不幸であることを。」
 この時、奇妙な状況が突発した。実際、奇妙な状況が突発したのだ!作者はこの時、はじめてこのラスコーリニコフ風の男の脳髄から逃れ出たのだ!この忌まわしい男は何もかも自分の頭に封印してしまう。そこで全てを解釈してそこで終わらせてしまう。だが!この女性は、この無知で賢明で卑しく高貴な女性はー彼の不幸を読み取ったのだ!僕自身が不幸であるーこれは主人公の言葉ではない。作者の言葉だ、リーザの言葉だ。彼は自分自身を呪われた不幸な人間と考えるかもしれない。だがその時この男はそうした呪われた不幸を喜んでいるのだ!彼が自分自身の恥辱を楽しむように!そしてこの作者は、リーザは、そうした彼が不幸だと言っているのだ!
 さて、ここから先はもう決まっている。彼は自分の世界をー自分の脳髄から出ていくか、彼を破ったリーザを拒否して地下室に戻るのか?・・・彼は後者を取った。この作品の中にはーその始まりから一本引かれる作品の主調低音にはまだーその力はなかった。だから彼は後戻りをした。しかし彼は再びラスコーリニコフとして戻ってきてこのしきいを乗り越えていった。

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