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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

代表作

〈小説〉

〈批評〉
伊藤計劃論 (有料250円) http://mjk.ac/yQ7GYb(Amazon「伊藤計劃論」で検索)
ウィトゲンシュタイン論 https://ncode.syosetu.com/n8596ep/
ドストエフスキー論 https://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/1199055/
サリンジャー論  https://ncode.syosetu.com/n4440eu/
太宰治 人間失格論     https://ncode.syosetu.com/n5991eu/
     「逆説の喜劇」    https://ncode.syosetu.com/n4994cx/
神聖かまってちゃん
旧  https://yamadahifumi.exblog.jp/28189083/
新  https://yamadahifumi.exblog.jp/26288756/
村上春樹とドストエフスキー
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自分の文学理論を整理する

 

 今まで自分なりに文学理論を作ってきたのだが、ここで整理する。自分のために言葉にして整理しておくという感じが強いのでわかりにくい話になるだろうが、参考になる人もいるだろうと思ってアップロードする。

 自分の文学理論として、最初にあるのは「自己意識」だった。自己意識の問題が常に自分にとっては決定的な問題としてあって、そこから神聖かまってちゃんにつながり、小林秀雄につながり、ドストエフスキーにつながった。自分で自分を意識すると、ごく普通に自分を生きられなくなるというのがスタート地点にある。また、孤独である事は意識を介して宇宙と繋がり、人々の中にいると意識を制限しなければならないため孤立を感じるという矛盾した感情があった。ここも重要となる。

 僕は自己意識というものは、「無時間的なもの」と考えている。「無時間的」とは比喩で厳密な意味ではない。意識は様々なものを自分の中に取り込む。様々なものを批評する。自己意識は世界を空間的に閲覧し、絶えずそれに話しかけ、それと応答し、自己だけで充足する。自己意識は「外部」を認めない。何故なら外部は、存在するやいなや自己意識が自分の内に取り込む素材となるからだ。様々なものに対して、自己意識は王のように振る舞い、全てを従属させるが、この自己意識は果たしてそんなに絶対的な存在なのかというのが次の問題となる。

 過程をすっ飛ばすと、個人的な文学的課題は、無時間的な自己意識を再び、時間の中に戻してやるという事にある。例えば、「永遠」という言葉は、いかにも自己意識にふさわしい言葉であり、「無時間的」と言って良い。不老不死を目指すというのも、自己意識の無時間性に対して肉体を従わせようとする人間の習性だと理解する。意識は、二十歳の自分と七十歳の自分との間に同一性を発見する。五十年の年月に、変化の奥にある同一性を発見しようとする。この同一性を延長すると、永遠、真理が現れる。

 しかし、こうした自己意識というものは本当に、外部を持たないかというそうではない。永遠に自己同一かというとそうではない。ただ、自己意識には外部が見えない。視野の限界が見えないように見えない。懐中電灯を闇の中で振り回し、懐中電灯に対して「明かりの照っていない所はあるか?」と質問したら、懐中電灯は自分の光の当たった部分だけを見て「闇はない」と判断する。懐中電灯は動く度に目の先を光で照らしているのだが、光の外側はいつまでも見えない。だから、自己意識もまた自分が見たものを世界だと信じる。外部はあるのに、彼の内部には存在しない。

 こういう厄介な自己意識は、自我ができた子供時代から死ぬ時まで続く。これからは逃れようがない。

 小説というものを書く際、自己意識というものはいずれにせよ重要な問題だ。最初に言葉ありき、という事で自己意識の探照灯を光の照らすままに描いていくのが自分にとって最初に出てきた問題だった。だが、次第にそれだけでは限界を感じるようになってくる。

 「罪と罰」という作品で、ラスコーリニコフはドストエフスキーとは異なった存在だ。この時、ドストエフスキーは、懐中電灯であるラスコーリニコフの外側の闇も十分に知っていて、闇も光も同時に描くという方法をよくわかっていた。ドストエフスキーの作品に論評する際、ミハイル・バフチンが指摘するように僕らは登場人物の一人に肩入れしたりするが、それは僕らが探照灯の一つに化している事を証明する。作家はもう一歩先を言っていた。彼は光を生み出しているものがその外部にあると知っていた。

 作品内において、ラスコーリニコフという人物は自分の自由を保持しているように見える。理性によって全てを統御しようと試みている。近代以降、人間の意志というものが社会的自由と共に極めて大きな問題となって現れ、ラスコーリニコフもまた自分の強烈な意志を試そうとする。だが、そのような意志を用意したもの、またその意志が行為となり、社会に反響して帰ってくる過程、それは意志ではない。人間は確かに意志を持つ。人生を振り返れば、自分の意志で道を決めた気がする。だけど、その意志を発生させたのは歴史であり、自然であるはずだ。人間の理性は自己と他を区別し、「私」というものを強烈に意識する。だが、その意識された私もまた自然の一部である…という真理は語る事はできない。その真理は「私」に取り込まれるとすぐに「私の言葉、私の真理」になって、私を包み込む真理ではなくなってしまうからだ。ここに面倒な問題が起こる。

 簡単に言えば、哲学で言う独我論は信仰を持たなければ越えられないと感じている。信仰は哲学ではない。お前は信仰を持つつもりか?と言われれば、僕は信仰を持とうと思っている。それはどんな宗教でもないが、単に一つの懐中電灯にすぎない僕が、その外側を(見れないにせよ)存在すると信じる信仰だ。この信仰は論理的には確証されえないか、確証されたとしてもすぐに自己の光として内に取り込まれてしまう。だからいつまでも「信仰」にとどまり続けると思う。

 整理しよう。最初に自己意識がある。それは僕にもあるし、あなたにもあるだろう。自己意識は様々なものを見、聞き、それに反応を示す。自分の個性、自我を主張しようとする。自意識はまた、自分を世界の中心と考える。地球の裏側で何万人死んでもそれほど気にならず、自分の歯が痛んだらそちらの方が気になるというのは、意識が自己を世界の中心と考えるからだ。

 こうした自己意識の作用を和らげるのは社会習俗だろう。社会的な慣習に従属していく事によって、自己の絶対的主張はなくなるし、自我は適度に抑えられる。だが、本来的に自己というものを徹底的に主張しようとするとどうなるだろうか。自己は自己を越えて外部に反響する。自意識は外側に形を取って現れ、ブーメランのように帰ってくる。

 「カラマーゾフの兄弟」のイワンはそんな存在だった。彼の内心の対話は、スメルジャコフを通じて、殺人という行為に現実化する。彼は現実となった自らの内心を見て、自分が本当に何を望んでいたのかを後から知ったのだった。イワンという強烈な自己意識もまた、己一人で生きていく事はできない。確かに、他者は無力かもしれない。作中、イワンほど強烈な自己意識を持つ人物は一人もいないかもしれない。だがそれでも、彼の中だけで物語は終わらない(始まらない)から、「カラマーゾフの兄弟」は書かれた。そんな風にも考えられる。

 僕にとって小説というのは自分から逃れ去る為の手段だ。それと共に、自分を捉える為の手段だ。どうしてお前は自分の事ばかりそんなに気にかかるのかと言う人がいれば、僕にとって他者とは、「僕の目から見えた他者」である。だから、どうしても自己意識を問題とせざるを得ない。

 自己意識とか私とかいうものにも限界を示せる、自分が懐中電灯だという事がわかってその外部が見れないにしても、なんとかしてその外部が(例えば「物自体」として)ある事を示せるのだと、僕は哲学から学んだ。オーソドックスな学習ではないだろうが、とにかくそう理解した。

 だから、小説を書くという事は僕にとって自己を客観化する過程である。最初に自己意識があるが、これを歴史的に生成された過程だと思考するのも、その一つの方法だ。伊藤計劃は「ハーモニー」で意識の消滅を語った。ジュリアン・ジェインズは三千年前に意識が発生したと説いた。どちらも、「永遠」「真理」≒「自己意識」という定式の外側を見ようとする行為だった、と解する。僕もまた自分の限界を見てみたい。何故そうしたいかと聞かれれば困るのだが、多分、より自由になりたいのだと思う。自己意識という、逃れられない自分の悪夢を、あるいは愛したり憎んだりしながら、その外側に出ていきたいのだと思う。そういう欲望が自分の中にある。だから、その欲望から自分の文学が生まれるだろうと思っている。自分の中では理論的にはそんな風になっている。

 「キッズ・リターン」のラストを考える

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 「マーちゃん、俺達もう終わっちゃったのかなあ?」
 「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」

                        (北野武「キッズ・リターン」より)

 「キッズ・リターン」という映画を最初に見た時、(ああ、この映画は一度見ればもう見なくて良い映画だなあ)と感じた。主人公は二人。落ちこぼれ高校生のマサルとシンジ。親友だったシンジとマサルは、学業をまともにやるつもりがなく、それぞれの夢を追い始める。シンジはボクシングの道を進み、マサルはヤクザの道を進む。だがどちらも道を進み続ける事できずに挫折し、後に再会する。人生に失敗した若者二人は、昔のように自転車を二人で乗りながら、学校の校庭を走り回る。その時に発したセリフが上記の引用となる。

 北野武の映像云々の事を置いておくと、ストーリーとかテーマなどは割合陳腐なものだ。他の監督でも取れるような映画だと言っても良いだろう。先に「ソナチネ」という傑作を見ていたから、なおさらその感が強かった。「これならば北野武でなくても撮れるな」 そういう印象で映画を見ていった。一度見れば十分な映画だと、そう感じていた。

 そのままの印象で映画が終わっていたら、僕はこの文章を書かなかっただろう。「一度見れば十分だ」と思っていた矢先に、有名なラストシーンが現れた。

 「俺達もう終わっちゃったのかなあ?」
 「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」

 このラストが現れた為に、ラストにたどり着く為だけに、それまでの映像を見返す事になった。僕の印象は破れた。ラストシーンが、それまでの映像に対する僕の印象を打ち破った。

                     ※

 先に、一般的な話をする。

 まず、社会における挫折という問題がある。実際の所、この問題を北野武はそれなりに陳腐にしか描けていない。というのも、「挫折」という問題においてはわかりやすい理解は、「成功」と「挫折」の二択だ。それは「一部の才能ある人(が努力すれば)成功するけれど、他の大半は挫折する」というものであり、これが普通にある見解と言って良いと思う。

 こういう普通の見解自体に僕は批判的なので、「キッズ・リターン」という映画がその見解からはみ出していない事に不満を覚えた。「一度見たら十分だ」と最初思ったのも、そういう理由がある。この見解の何に不満なのかはここで言うと長くなるので飛ばす。

 さて、シンジはボクシングに挫折し、マサルは極道に挫折する。二人は昔のように、高校生の時のように自転車に二人乗りして校庭を走り回る。彼らはもう終わった存在である。社会的にはチャンスがない。絶望しかない。だが、この絶望の中で「まだ始まっちゃいない」という、強がりにも聞こえるし、希望とも聞こえる言葉が発せられる。

 このラストは印象的だが、普通の「希望ある映画」ではこんな風な描き方は決してしない。普通の「希望ある映画」では、夢が叶ったり、いつまでも自分の幻想が続いたりする。「けいおん」のラストではあずにゃんが「先輩、卒業しないでください」と言う。これは僕ら(僕も入れてもらおう)アニオタの願いを代弁しているかのようだ。声優にいつまでも十七歳の少女であって欲しい、結婚しないで欲しいと願うかのようだ。だが、現実には幻想は続かない。

 本来的には、「キッズ・リターン」のラストはラストの絵にならないだろう。なにせ、シンジとマサルは二人共、失敗してどうしようもない状態にある。この二人が失敗を重ねながら成功していく様を描くのが、普通の映画だ。辛苦を重ねて、成功するのが僕らの幻想であるし、それはきっと叶いっこない現実だけど、叶って欲しい現実でもある。素敵な仲間はバラバラにならずいつまでも一緒でいてほしいし、映画内で失敗が一つ二つあっても、成功の為の足がかりだと信じられるからこそ、その「先」を見る事ができる。これが普通の人が映画を見る場合の精神的態度に思える。それは丁度、自分の子供にプロ野球選手になって欲しいと願う親に似ている。きっと無理だろうけど、でもなってくれたら、という夢。現実は厳しいかもしれないけれど、せめてフィクションでは夢を見させて欲しい、という欲望がある。

 「キッズ・リターン」はそういう終わり方はしていない。現実には敗北した。良い事は一つもない。希望はこれっぽっちもない。何もない。しかし、だからこそ、上記のセリフが輝く。この場合、輝くのは単に言葉のみである。物質的に、社会的に、客観的には完全に終わっている。いい所は一つもない。しかしだからこそ、単なる言葉が…つまり、ただの空っぽの精神が光る。精神は現実に敗北してやっと光る。キリスト教の根っこにある精神などはそれであると思う。現実に差別され、石を投げられる。徹底的に打ちのめされるからこそ、内心の精神は怪しく光りだす。自分達の現実が地獄であるからこそ、天国に行けると信じられる。ここには倒錯があるが、これは人間の強みとも弱みとも言える。

 劇というのは何だろうか。ソポクレスの「アンティゴネー」という作品は傑作だと思うが、女主人公は王の決めた掟に反しても、自分の意志に従って行動する。彼女は予定通り、王に幽閉され、最後は自死する。

 現代の劇はまるで逆となっている。人が意志を持って行動するのは、世の中に認められ、成功する為だ。だから、現実に沿ったそんな劇が多数輩出される。ほとんどがそんな劇だと言って良い。見かけがそうでない場合も、観客や同業者の顔色を窺っている作品は全てそういう作品だと言って良い。

 人間の意志とか精神は、現実に逆行しても、尚も存続し続ける、自分が死ぬ時まで走り続ける、という所に怖ろしい部分がある。精神は絶えず現実に敗北する。だから、最初から敗北した人は勝利したように見える。そんな大人を沢山見かける。最初から戦わずに屈した人はそれなりにうまくやる。彼らは戦わないから、勝利する。しかし、戦う事を決めた人間は必ず敗北する。

 戦う事を決めた人間も、社会的に成功して、勝利する場合もあると人は言うかもしれない。ここに最初に言わなかった「キッズ・リターン」全体への不満もあるのだが、結局の所、社会的に成功しようがどうなろうが、精神は必ず現実に敗北する。何故そう思うかはこれまた長くなるので、書かない。

 精神は現実に負け、地に塗れるが、それでも不屈であるという所に痛ましい美しさがある。ここにドラマが成立する。人間は現実に敗北するが、それでも敗北を笑い飛ばす事ができる。強がる事ができる。強がりはただの強がりだと人は見るかもしれない。しかし、強がる事もせず、現実に屈した人の笑顔をどう見ればいいか。彼らは負けた事がない。何故なら、最初に己に負けたからだ。

 「キッズ・リターン」の二人は絶望の状態にある。にも関わらず、二人は笑う。二人の笑いは虚しいかもしれない。だが、この笑いがなければ、人間はいつも環境とか現実に従属する存在となってしまう。二人の笑いを虚しいと笑い飛ばすのは大人の態度だ。だが、大人のその態度を子供が笑い飛ばしては何故いけないのか、という転調で映画は終わる。

 「キッズ・リターン」という映画は、最後の場面で昇華されたように思う。ラストがなければ、本当に「一回見れば十分」の映画だっただろう。ラストの場面が感動的なのは、僕らが希望とか幻想とかいう形で持っているものを廃棄しても尚も、まだその底に何かがあるからだった。多くの人は「キッズ・リターン」を見た、感動したといっても現実に帰ると、やはり希望とか幻想を手に持つだろう。だが、「本当に」それを捨てなければ芸術は始まらないというのは一体どんな言葉で語ればいいのかと自分はいつも思案している。多分、それはこんな風に中途半端な言葉でしか語る事ができないのだろう。僕は一度、あのヘンリー・ダーガーに対してさえ、人生を「うまくやった」(結果として有名になったから)と評している言説に出会った事がある。このように、平俗化の運動はいつでもどこにでもある。そうした運動は絶えず、現実の過酷さから目を逸らすか、現実の過酷さに屈するかのどちらかだ。敗北した精神は外観上、勝利した微笑みを見せ、勝利した精神は外見的には敗北の姿を見る。どちらが良い人生かと言う事はできない。ただここは、大きな分岐点ではあると思う。「キッズ・リターン」はこの分岐点で独特の曲がり方をしたのだった。

角田光代と夏目漱石を比較して、文学を考える

 本をぶん投げたくなる気持ちを抑えて角田光代の小説を読んでいた。角田光代とか、平野啓一郎とか、中村文則、綿矢りさなどは、僕と同じような環境で生まれ育ったはずであり、上に下に世代間ギャップがあるとしても大した差はないはずである。にも関わらず、彼らの作品を読むと、僕はいつも孤独を感じてきた。まるで違う他人が全く僕には関係のない事を目標に生きているような気がして、自分とはまるで違うのだという感じを常に味わった。

 こんな事を言うと、権威主義だと言われるかも知れないが(不思議に、権威主義と相手を批判する人間は大抵その人が権威主義である)、僕にはソフォクレスとかセルバンテスの方がまだ同感できる。もちろん、翻訳とか時代とか、環境の違いはあるが、それにも関わらず、そこにある種の親しみを覚える。それは自分の中で謎としてあったのだが、これから先も謎として有り続けるだろう。中原中也の詩に、世間は遠くの方であらくれていた、といった詩行があったが、そんな気持ちがする。みんながはしゃいでる飲み会で一人でポツンと酒を飲んでいる感じ。あるいは表面的にはみんなと楽しく飲んでいるが、心はどこか別にあるという感じ。

 自分の話をするなら、高校二年生の時に、くじで当たってしまい、卒業式に出た事があった。卒業式は三年生のものなので、二年生は出なくていいのだが、何かの関係で二人出なくてはならない。僕は慎重に、極めて慎重にくじを選び、当たりたくない一心でくじを引いたら、見事当たってしまい、みんなに大笑いされた。それで、クラスメイトの女子と一緒に卒業式に出席した。

 やる気のない学生だったので、卒業式の間、隠れて文庫本を読んでいた。村上春樹の「ハードボイルド・ワンダーランド」だったと記憶している。前の方では式が進行している。僕は隠れて本を読んでいる。しばらくすると、隣の女子に怒られた。女子は真面目なタイプの学生ではなかったけれど、さすがに僕の行動を見咎めたのだろう。僕はやむなく本を閉じた。

 自分の人生はそのようなものだと自分でもよくわかる。色々な事が、壇上で行われている。が、僕はいつも隠れて文庫本を読んでいる。馬鹿馬鹿しい限りである。馬鹿馬鹿しい人生である。しかし、人生そんなものだろう、という気もする。

 話を戻すならば、角田光代の小説というのは、つまらないと思う。しかし、角田光代のファンがいるというのは納得できる。おそろくは、二十代から四十代くらいの女性が主ではないか。現代に生きる中流の女性の姿がそこにはきちんと映し出されている、と言いたい所だが、多分、作者は映し出しているつもりはない。作者は、そういう女性を描いているのでもないし、自覚的にそういう生き方に価値があると見ているわけではない。作者はおそらく主人公と同様に、現にそのように生き、それを描き、それに共感する人々がいるのだが、そこでは生を自覚したり、意識的に捉え直す視点がない。だが、そんなものなくてもいいではないか、別にただ生きているだけで構わないだろう、とすらも作者は抗議しないだろう。何故なら、生きているだけでいいではないか、小難しい話はどうでもいいではないか、という考えも突き詰めれば思想になるが、こうした問題を断固として突き詰めないのが、角田光代とか朝井リョウらの根っこにある思想だからだ。

 こうした事は、小説というものが一般化した状態として置き直せるだろう。夏目漱石の「三四郎」を読み返して、角田光代との大きな違いを感じた。角田光代も漱石と比べられたくはないだろうが、試しに比べてみる。

 「三四郎」という小説が、(漱石的には)未熟だとしても優れているのは、それが「象徴」になっているからだ、と考える。それぞれのキャラクター、三四郎とか美禰子とか、広田先生、野々宮などは、ただそう生きているだけではなく、西欧文明が日本に流入し、近代的な自我が現れ、自己主張が激しくなったから現れてきた人々だと理解できる。特に、美禰子という女性像はこれまでの日本にはなかったわけで、とりわけ漱石にとっては重要な存在だった。今の僕達にとっては漱石も鴎外も古典だが、江戸時代の社会秩序からすると、人間が主体的な存在として現れるという事は、新しいものだった。今や、恋愛はあまりにも当たり前、陳腐なものとなったが、当時の知識人・北村透谷にとっては人生を賭けた大事業だった。

 漱石のキャラクター設定の背後には常に文明論・社会論・歴史論があったし、そういうものを想定せざるを得なかった。そういうものを考えないとそもそも小説が成り立たなかったし、近代的自我が発育した社会でなければ、近代小説は作れない。それで当時の日本は非常に苦しんだが、その苦しみに、当時の日本の偉大さ・立派さがあった。しかし、今、小説というものを構成するにあたって漱石の苦しみは必要ない。一般化され、既知のものとなった。

 角田光代が小説を書くにあたって何があればいいか。自分の人生と、最近の日本の作家、後は小説を構成する技術があれば十分だろう。難しい事は考えなくても、小説は作れるし、共感する人は現れる。つまり、日本はかつてのように苦しまずとも済むような、成熟した社会となった。文学というものに、社会集団の運命が投げ込まれる苦しい期間は終わった。文学はただ、雑然と分化したそれぞれの人生を描くものとなった。だから、無数の小説があるという事は、この社会に無数の人がいて、無数の生き方があるという事と大して変わらない。それぞれに違う生はあるだろう。だから、小説がある、というように小説は書かれる。そこに共感する人々は、自分に似た人を小説内に見つける。象徴はない。社会は、僕らを生かす巨大なドーム状のものとなっていて、このドームは壊れないという前提がある。温かく柔らかく堅固な場所にいるのが前提の元、小説が作られる事が可能となった。その始まりは「よしもとばなな」ではないかと思う。このドームの中で、人は仕事に悩んだり恋愛したり旅に出たり、色々してみるのだ。それを僕らは生と呼んでいる。

 角田光代の小説では、小説内の人物はそのまま、僕達自身である。朝井リョウ「何者」の就活生はそのまま、今の就活生を写しているとも言える。しかし、なんとみすぼらしい人達であろう、なんとこじんまりとした人物であろうと言うと、それはそのまま僕達自身への批判となってしまう。我々はなんとこじんまりと生きているのだろう。

 ただ、このこじんまりさに開き直って、これが人生だというのであれば、それは立派な小説になりうる。生活の細々とした、つまらない事に全てを掛ける人生は、決して細々としたものではない。そこには自覚がある。人生はつまらないものだと信じて、そう生きる事と、ただ考えずに生きるのでは意味が違ってくる。この意味の違いを現在では認識するのが難しい。何故なら、僕達には比較する対象がないからだ。角田光代的世界観と比較するものがどこにもないから、実生活に根付いた小説は自然とそういう方向に走り、幻想的な小説もそこから色々なものを夢見るに留まる。そしてその全ては、僕達の共同認識を受けて、始めて意味を持つ。つまり、なんだかんだ言っても、我々大衆が認めるものにこそ価値があるという巨大な価値観があって、その中に我々の生はある。みすぼらしくても、みすぼらしいとも思う事すらできない我々の人生がある。

 ここに露悪的な中村文則を持ってきても、変わらない。中村文則はきっと、友人の結婚式でも楽しく酒を飲めるタイプの人であろう。就職活動と新人作家になる事を天秤にかけられる人であろう。ラスコーリニコフはドストエフスキーの分身だったが、中村文則の持ち出す悪人は、常識人の想像する悪人にすぎない。確かに、悪人は社会から弾かれている。我々は奇形を眺めるように犯罪者を眺める。自分が犯罪者になりうるとは考えない。悪についても、犯罪についても、考えない。お客さんの立場で弄びはするが。

 全てが揃った社会において、矮小化された我々の生、常識の範囲内において、芸術は作られるものになった。角田光代のように過不足のない作家を社会は生む事となった。そこに共感する読者も多数生む事となった。それは、近所の定食屋の雰囲気が良い事に満足できる世界であり、よく考えれば大した事であるが、それと比較する世界がないために僕らはそこに閉じ込められている。

 この世界にどうして誰も穴を開けないかと僕は訝しく思っていたが、そこに「神聖かまってちゃん」という野蛮人が現れ、小さな穴を開けて去った。今、僕はその穴から外部の世界を見ている。

 これは私事だ。話を戻す。漱石にとっては、人間を認識するにあたって、近代的な文学観と、当時現れていた近代的な人間が一致していた。彼はロンドンに行って、外部の目を持って、人間を見る目を得た。今、我々は自分を見る目を持たない。我々はただ自分を生きている。自分への懐疑、社会への懐疑は、すぐに社会への懐疑を社会に擁護してもらいたい、賛成してもらおうという姿勢に転じる。自分を疑う事はただ自分を疑うという姿勢に転じ、それが文学的であると信じる人へのアピールに変わる。我々にとってあらゆるものは、全て自分の手を逃れ去っている。今が悪い時代なのではない。おそらく、良い時代すぎるのだろう。しかし、葛藤も抵抗もない世界では、優れた文学は生まれにくいに違いない。

 確かに、小説というものは個人の人生を描くものだ。そういう意味では紫式部と角田光代、「こころ」と「異世界はスマートフォンとともに」も大した違いはない。あるのはただキャラクター設定、ストーリー構成、文体云々という事で話がつけば簡単だ。この簡単さが可能になったのが今の社会であり、僕が与したくないのはこの社会のそうした価値観であるから、人がそういう説教をしてきた所でこちらとしては御免こうむる。

 現状の文学においては、社会が文学を許容している。人々が、文学なるものを、自分達のために利用するかしないか、決める権利がある。文学者と呼ばれる人間の中には「文学は〇〇の役に立つ」と平気な顔で言っている人もいるが、それこそが、文学が完全に社会に敗北したという証左だろう。文学者の言うべき事は、文学が世界の役に立つのではなく、世界はどうやって文学の役に立つのか、という問いである。シェイクスピアは世界のあらゆる物事を自分の文学空間に叩き込んだ。その時、シェイクスピアは我々の常識に大して傲慢であったのか。我々の日常に大して虚無的であったのか。「ドン・キホーテ」や「源氏物語」のような長々した作品を倦まずに作り上げている作者は、現実世界に対して偉そうな態度を取ったのか。我々はそれに腹を立てるのか。もし、腹を立てるのであれば、どんな根拠からか。少しは世の中に役に立つ文学を作れと号令するのか。もっと、役立てるような、金を生むような作品を作れと命令するのか。これまでそうやって命令されてでてきた作品は、どんなにみすぼらしかったろう。そして、今、我々が無意識的に「自己のために」役立てようとする芸術作品がどうしてこうも貧しいのだろう。

 漱石においては、新たに現れた人間、社会を理解し、統御する過程として文学が必須の形式だった。我々は既知の世界にいるから、そこで、自分に親しみを持てる者、安堵できるものを探そうとする。小説というのは一般化したので、直木賞と芥川賞の違いはほぼない。「純粋な言葉を追う」と言いつつただ現実から逃亡する、あるいは逃亡する事を許されている場所にいる事を自覚しないという事に、そう言う作家の社会的立場がある。筋斗雲に乗ってどこまでも飛んでいけると信じている、仏の手に乗った孫悟空に似ている。

 常識的に考えるならば、世界の中に芸術があって、それを楽しんだり、嫌ったり、評価したりしなかったりというのが普通である。では、何故これが普通なのか。我々が生きている事が常に先行されているからだ。我々の生があって、その退屈を埋めるために、エンタメや芸術がある。

 文学もまたそれをなぞるから、生そのものに対して懐疑したりはしない。文学者になりたい人はできあがった文学という様式を疑わない。僕はだから、本当の文学者というのは全然文学者ではない、と思う。彼は極めて野性的な何者かであって、彼の表現がたまたま文学という様式を取ったにすぎない。だからこそ、そうした作品はそれとはほとんど無縁に見える人にも影響を与えられる。文学という様式にはまりこむのが愉しい人にとっては、世界をどう捉えるかは問題ではない。先に世界に捉えられた自分がいて(これは意識されない)、彼が「文学」を作れば十分である。

 漱石にとっては、世界はまだ生まれたばかりだった。それが彼の文学を生んだわけだが、むしろ、彼の文学がそういう世界を生んだ、と言った方が適当だろう。夏目漱石という存在が生まれるには、社会自体が変革するという苦痛が必要だった。断絶とか、相対的な変化が認識する「目」を与える。現在の社会では断絶はない。だから、物事を認識するのに必要な差異が生まれず、ただ我々はドームの内部にいて、互いに慰め合っているにすぎない。

 慰め合ったり、暇を埋める為の様々なものが開発されている内に、このドームは次第に衰亡してきた、というのが現在の状況であるように思われる。しかし、例えば、今、「作家」になりたければ、抑圧されていた自分を表現するよりも既にある新人賞に合わせていく方が良い。また、人々の価値観に適合していく事が個人にとっての成功には近い。

 現在、それらを越える文学はあるのか、という風に考えてみると、あるにはあるだろうか、そういうものは、仲間内の雰囲気なるものとは別なものになるという風に思う。困った事には、「仲間内」の雰囲気は、極めて巨大なものになっている。僕もそうだが、書く前から、もう人々の顔が見える。これを言ったら叩かれるだろうとか、これを言ったら評価されるだろうとか。問題はそのような自分自身の中にある人々をも同時に越えられるかという事にある。そして、その場所は自分という孤独に決まっている。自分の中の孤独を感じていない人に、芸術は作れないだろう。角田光代はおそらく、孤独ではないだろう。少なくとも、彼女の作品の孤独は孤独を知らない人の孤独であるように見える。では、孤独であるとはどんな感じか。それは、「自分は孤独だ」と言って他者が「そうだそうだ、自分も孤独だ」などと決して言えないような孤独である。つまり、語り得ないものとしての孤独である。

 その孤独が、自由を生むわけだが、そこからまた言葉は、社会に帰ってくるだろう。自由であろうとする事は、世界を捨て去る事を意味する。しかし、完全に世界を捨てる事はできないから、また魂は世界に還らなければならない。

 先に言っておいた世界に対する認識、文学を通じた社会認識ーーなどは、自由であろうとした魂に副産物的に生じた世界の映像であろう。世界と切り離された存在のみが世界を認識する。彼は見たものを報告するために、また世界に帰る。たとえ、聞く人が一人もいなくても彼は世界に帰る。いずれにしろ、自分が見たものは誰かに語らなければならないから。アルチュール・ランボーの詩のように、それは現象界に言葉として残るだろう。ただ、カントの「物自体」は永遠に物象化はできない。それを見た人は見た映像をただ魂の内にしまい込む。彼が見たものの意味、その価値について詮議できる者は、きっとこの地球には誰もいないだろう。あるいは、そういう人間がもしいたとしたら、彼はまた自分の内に語り得ない言葉が生まれるのを感じるだろう。詩人は詩人に相通じる。しかし、魂は、流通する言語でしか語れない。流通を見た人々は亜流の流派を様々に生み出す。が、いつの時代でも、詩人の魂は時代の上を飛翔している。

ブコウスキーと西村賢太の違い


 ブコウスキーの本を図書館で借りて読んでいた。と言っても、もう返してしまったので、手元にテキストがない。なので、うろ覚えの印象だけで、ブコウスキーと西村賢太を比べようと思う。どちらも、無頼派作家という事では、外面的には似ている。

 さて、ブコウスキーという作家はどんな作家か。酒と女を愛して、その生活を赤裸々に描き出した作家と言えばわかりやすい。一見、そう見えるし、そういう外見から、終日飲んだくれていれば作家になれると妄想する人間も現れてくるが、ブコウスキーはそれとは違い、本物の作家と呼ぶ事ができる。では、ブコウスキーはどうして本物だと言えるのか。

 一見すると、西村賢太もブコウスキーに似ていると言えない事もない。ある程度年を取ってからデビューした事、底辺でのくすぶっている暮らしを私小説的に題材にしている事が似ている。しかし、それはあくまでも外面的な事にすぎない。僕は、ブコウスキーには「文学」を感じるが、西村賢太には「文学」を感じない、という印象から話を進めていく。

 そもそも、私小説とは何かという話から入る事にする。歴史的に私小説を考える事もできるが、こっちで考えた定義で話を進める。

 私小説というのは単に、「私」について書く事ではない。以前に、小説というのは「個人の生きている姿を描く事が社会的な意味を持つ」と定義してみたが、この場合、「私」について描く事が、社会的な意味を持っていなければならない。ただ「私」の垂れ流し、「私」の生きている様について話すのではなく、それが、他人にも意味を持つように語らなければならない、という事だ。

 だから、そこでは、経験よりも、経験を加工し、編集する作家の技術が必要となってくる。本物の作家というのはみんな、隠れた技術を持っているが、読者には、「作家というのは好き勝手にやっていていいなあ」と思わせておく、という事も頻繁にある。こういう場合、この手の読者は作家と作家の実生活をたやすく混同するが、そこに見えない技術を盛り込み、そこで語られているものに意味を見出していくのが作家の技術となる。

 この点からブコウスキーの作品を見るとどうか。確かに、作品には女と酒の事ばかり書いてある。(言い忘れたがブコウスキーは「詩人と女たち」、西村賢太は「苦役列車」をテキストに選ぶ) そして、実際に、ブコウスキーはそんな生活をしただろう。しかし、「詩人と女たち」という作品は、確かに作家が精魂傾けて書いた作品だと言える。それは最後の終わり方だけ見てもそうだが、その他の部分もそうだ。

 女と酒は、有名作家になったオジさんの主人公に次々に流れ込んでくる。主人公は詩人としては、女に溺れ、酒に溺れ、だらしない生活を送る。しかし、「詩人と女たち」を注意深く読むと、そこにある種の倫理性と諦念が流れている事に気づくだろう。それは、ブコウスキーならびに主人公が、人生というものを深く諦めているからこそ、そうしたものに生きざるを得ない、という感性である。つまり、ウマル・ハイヤーム的に、この世がろくでないものだとわかった暁には、酒でも飲んでいるしかないという感覚である。しかし、この世がろくでないものだと罵る事は政治性を帯びる為に、ブコウスキーはその言語を注意深く、作品から取り除いている。

 うろ覚えだが、こんなセリフがあったはずだ。
 「三杯目(の酒)を飲んだらどうなるんですか?」
  主人公はそれに答えて言う。
 「大差ないね。三杯目を飲んだら、四杯目に行く」

 他にも、いくつか主人公の諦念を示す文章があった。「恋は一度だけした」というような言葉もあったはずだ。つまり、女を抱くという行為には、もはや恋も愛もないし、詩人はいつかの日に何故か、恋とか愛とかを諦めたらしい。相手の女も自分を愛していないと知っていて、それでもかまわないと詩人は決めてかかっている。この手の諦念というのは、そう簡単に取り扱えるものではない。

 こうした諦念として、似ているタイプとして思い浮かんだのは、カート・ヴォネガットだ。ヴォネガットの人間への諦めっぷりは、戦争経験から来ているとわかるが、ブコウスキーの場合はどこから来たのか、調べていないのでわからない。ただ、こうした人間の諦念は、突き抜けると、滑稽さや笑いへと変わる。ブコウスキーは、有名作家になったのに女に罵られている滑稽な自分の分身を平気で描いている。どうしてそんな姿を描くのか、という所に作家の哲学があるが、ブコウスキーの場合、そんな哲学は真面目には語らない。ただ、人間そんなもんだという詩人の嘆息が聞こえてくるような気がする。

 さて、そうした存在がブコウスキーだとすると、西村賢太はどうなのだろう。西村賢太は、朝吹真理子と芥川賞W受賞した。朝吹真理子はいい所のお嬢さんで、西村賢太は底辺を這った中年作家で、出自は全く逆だが、それにも関わらず、作品は大して変わらないという印象を僕は抱いている。それは、西村賢太の作品が、「文学とはこういうものだろう」と頭で考えられて作られた優等生的なものにしか見えないからだ。つまり、どっちも優等生的に見える。

 谷内修三という人が、ブログで指摘しているが、西村賢太の小説は言葉でできている。作品の書き出しに「曩時」なんて誰も知らないような言葉を何故使うのだろうか。そうした疑問は文体全体に及んでいて、そこに生きた人間の姿がなく、言葉だけがある、と言うと、今の文学の世界では褒め言葉とも捉えられかねないが、褒めているわけではない。

 西村賢太がああした文体で描くのに何か必然性があるのか。作家としての、倫理、思想、哲学と関係があるのか。ブコウスキーの文体はブコウスキーの魂のパターンと一致しているし、一致させるのが作家の技術だろうが、西村賢太が「曩時」という言葉を使う時に、西村賢太の魂のフォルムが感じられない。言葉だけが宙に浮いて、文体が無理に屈折して、「文学」ではなく「文学的なもの」を作っているように見える。

 これは又吉直樹も共通だし、平野啓一郎の処女作もそうだが、意図的にそういう文体にしている事と、何故、そういう文体にしなければならないのかという事が、作者の精神によって抑えられていない為に、なんとなく「文学っぽい」作品を作る事にその努力の全てがある。平野啓一郎は、最初の難解な文体を離れて、途中から、通俗的な方向にシフトしたが、自分の文体に必然性がないからそれを捨てるのも簡単だし、人の望むような物語性の方に移行するのは当然の事に思える。

 中上健次ならば、底辺の人間を、土着的な自然に包み込んで描く事ができただろう。中上健次にはそういう「目」があった。中上健次は大きな作家ではないだろうが、少なくとも、人間を見る作家の目が、そのまま文体として表出している作家だった、とは言えると思う。

 しかし、西村賢太の小説が、朝吹真理子の小説と大差ないというのはどういう事なのだろうか。そこに、作家の個性的な努力、世界を見る目を磨こうという努力よりも、文学的なものを作ろうという努力しか感じられないというのはどういう事なのだろう。

 現代社会では、それぞれの人間が、底辺であろうと金持ちであろうと、何であろうと、似たようなステージに吸い込まれてしまうという問題がある。それは、テレビに、貧乏を売りにするタレントと、金持ちを売りにするタレントが同じように出てくる現象に似ている。どっちも個性らしきものを振り回すが、テレビに映って出てくると、同じに見える。

 西村賢太が底辺を生きたという事、朝吹真理子の育ちがいい事、それはただそれだけの事だ。問題はそれにどんな意味を与えるのか、それが何であるのかと自覚的に認識する事にある。

 ブコウスキーは、自分の生活を、酒と女に捧げる事に「決めた」が、その場合、その背後にあるものは見せないように決めた気がする。また、自分の情けない姿を晒す事に「決めた」ようにも見える。そして作家がそう決めた事は、ある種の倫理だが、その倫理は作品の背後にあり、表面には出てこない。だから、「詩人と女たち」を読んでも、ただの酔いどれスケベ親爺しか出てこない。

 西村賢太にブコウスキーのような倫理性は感じられない。だから、ただそれだけなのだと思ってしまう。そして、それは文学でも私小説でもない、という風に思う。自分というのは、どのような存在でもありうるが、実際の自分はそのような存在となってしまった、そのようにしか生きられなかった、という事に、その人の魂のパターンが生まれる機縁がある。

 人間は運命に翻弄される生き物であるが、運命に翻弄される事に自覚的に決めた人と、ただ運命に翻弄され、成功したり失敗したりした人とは、違う存在だ。そういう微妙な違いが、境遇の似ている二人の詩人を分割しているように思われる。

文学と文学でないもの




ブコウスキーの小説を図書館で借りてきて読んでいる。あんまり興味のなかった作家だけど、読んでみると面白い。

ブコウスキーの小説は、僕はある種のコメディとして読んでいる。くっだらねえ人生送ってやがんなあ、と読者に言わせれば、ブコウスキーの勝ちである。しかし、大抵はくだらない人生しか送れないし、くだらないのが人生だ。

井原西鶴を読んでも感じたが、ブコウスキーにしても、そこに人間の生活が書いてある。人間の実態というものが書いてある。しかし、同時に、その実態を少し離れた所から見ている。自分の観点からすればこの「少し離れた所から見る」のが「作家の認識」だという事になる。

普通の小説というものを読んでいて嫌になるのは、結局、そこに「誰々が何をした」という以上の事が書いていないという所にある。こう言うと「全ての小説がそうじゃないか」と言われるだろう。事実として表面に現れている点ではそうだが、もう少し深く考えていくと違うように思う。

文学とは人生そのものではなく、人生に対する認識だ、と以前に書いた事がある。これを現代の作家に当てはめると、大抵が、生活に固着している為に、認識とならない。というか、そもそも人生に対する認識というのが何かわからないままに、人生の内部に作者も埋め込まれている。そこで、作者から見られた他者、人生、現実が描かれていくのだが、それはただ、意外な事件を目撃したような位相でしか書かれていない。だから読んでいると、どんな突飛な事実、どんでん返しがあってもつまらなくしか感じない。

誰しもが人生というものを知っているような気がする。だから、小説も誰でも書けるような気がする。そこから、事実の集積としての小説が沢山出てくる。しかし、そこにあるのは、「誰々が何をした」という以上のものではない。もちろん、誰しもがそうやって生きているが、誰しもがそうやって生きていると感じる事と、誰しもがそうやって生きているという事実は違うはずだ。

例えば、「人生はくだらないものだ」と作者が「思う」事と、人生を実際に生きて、そういう認識に達した、というのは違う事だ。「人生はくだらないものだ」というものが思考の水準で行われているのなら、「そう思おうが思うまいが勝手である」という以上の事は言えない。だが、「人生はくだらないものだ」という認識から、人生を描く事のできる作家の認識というのは、決してくだらなくはない。彼は現実を知って、現実を越えようとした。現実の内部において思考しているのではなく、現実を越えようとして「認識」している。少なくとも、そうしようとしている。

こういうのは感覚なのでわかりにくいだろうが、個人的には、そういう認識がなければ文学とは呼べないと思っている。「文学的」とか「文体」の問題など、色々な事が言われるが、作家というのは、現実にしがみつきながらもそれを越えようとする存在である。

が、文学とか小説とかいうものも一般化した以上、また、現実の我々が、認識よりも具体的な知識とか共感性を求めるわけだから、そうした領域に現実そのものと一致した小説も沢山出てくる。そうした作品は自分の中では「文学」とは呼ばない。そうした作品は、むしろ、文学が描くべき「対象」であるように思う。角田光代は朝井リョウは、作品よりも作者の方が豊富なものを持っているだろう。何故なら、彼らが意識できない部分、彼らが描く事ができない部分に真実があって、それも含めて描くのが本当の作家だからである。そういう点で、真の作家は平凡な人間を描いても非凡な作品となり、平凡な作家は非凡な人間を描いても平凡になる。そこでは作家の認識が違っている。認識とは太陽のようなもので、それが当たると、例え塵でも、キラキラと光って見える。そんな風に思う。

 お笑い芸人について



 「内村さまぁ~ず」という番組をずっと見ている。この番組は毎回、違うお笑い芸人がゲストとして登場する。で、番組をぼーと見ている内、なんとなく芸人がどんな風なコードを作っているのか、ぼんやりとイメージできる部分があった。

 「内村さまぁ~ず」という番組は、タイトルの通り、内村とさまぁ~ずの三人の力が大きい。三人共、ものすごく普通の、友達同士が喋っているような様子でやっているが、実際にはきちんと画面映えするとか、画面として持つようなものにする事ができている。

 そういう事は面白くない芸人が出てきた時に、如実に現れる。と言っても、面白くない芸人はそれはそれで構わないという所がある。狩野英孝、つぶやきシロー、出川、アンジャッシュ児島あたりは単体では辛いが、内村やさまぁ~ずが突っ込むと構図になる。その辺り、ふかわりょうなどもボケ役に徹すれば、十分芸人としてやっていけたはずだが、どこからか軌道をそれてしまったのかもしれない。

 天然キャラとかポンコツキャラというのは、本当にその人の資質としてあるように画面を見たら感じるが、結局、それが芸にならなければならない。芸になるとはフィクション化する事だ。例えば、本当に天然の人がいて、ところどころ、そういう要素を出す。するとそこに突っ込みが入るのだが、これに本気で切れていたら芸にもなんにもならない。そこで切れている演技をしつつ、切れられるような自分を容認しなければならない。ポンコツであると言われて怒る振りをしながら、そういう役割を演じなければならない。

 そう考えると、芸人は妙にかっこつけたり、高級に見せようとしたり、思い上がったりしたらピンチだという事になるだろう。これは天然とかポンコツでなくても、そうだと思う。笑いというのは低俗な所がある。お笑い芸人というのは人から馬鹿にされる所があるが、それと同時に物凄く人気が出る部分がある。つまりは浮ついた泡のような部分がある。これはお笑いを非難しているわけではない。ただ、お笑い芸人であれば、そういう、泡としての自分に誇りを持たなければならない。本来、誇りを持てないような事に対して誇りを持つというのが、芸人の哀しい部分であると共に、秘められた高貴な姿であるように思う。

 そういう意味では、その域に達しているのはやはりタモリ、さんま、くらいかなと思う。(たけしは映画監督になったので除外する)

 タモリで言うと、タモリは本来持っている力からすれば、もっと高級な事ができる。又吉直樹なんかより遥かに高い創造物も作れるだろう。その能力も資質もある。だが、タモリという人は、いいともに三十年以上出て、なんというか、「そういう人」に決めてしまった人に見える。「いいとも」を三十年やってもそれは泡のようなもので、なんでもないことだ、と一番知っていたのはタモリ本人だったように見える。でも、そういう泡でいいじゃないかと諦念込めて、そういう自分にしてしまった人がタモリに見える。タモリは「いいとも」の最終回でも、泣かなかったし、ふざけ通しだった。最後には少し真面目にスピーチした。それは感動的なもので、本来的には、タモリは一流の知識人になれたはずだ。でも、そういう部分を全部殺して「町のおじさん」を演じ続けるという事にタモリの美学があったように思える。

 だが、この笑いの美学は、僕のように生真面目に「美学」と言われた瞬間に消えてしまう哀しい泡のようなもので、また、そうなければならない。笑いは、真剣なものに僕らが出会った時に、それから目をそむける、優雅な動作に似ているーーと思う。真剣な、深刻な話が持ち上がった時に、ふと誰かが、空気を変える為にふざけた事を言う。回りの人間はそれに笑うか、怒りながら「ふざけた事を言うな」と思うのだが、実はふざけている人間が一番真剣である。その人間は全体の空気を察して、それを転換して、全体を良い方向へ持ってこうとしている。真剣にふざける事の美学は、その真剣さを相手に悟らせないようにするという技術にかかっている。

 そういう意味では微弱であるが、さまぁ~ずの大竹なんかにもそういう部分を感じる。大竹も、誰かが真面目な話をすると茶化そうとする姿勢がある。もちろん、大竹だって自分の中に色々真面目な部分はあるだろうが、それを隠す所に大竹の芸人としての秘密があるはずだ。

 あまり話を広げるつもりはないが、明石家さんまにももちろんそういう部分はある。さんまという人は、普段でもああなのだろうが、タモリとは違った意味で自分を決めてしまった人だ。お笑いを表面的にしか見ない人は(それは正しい見方だが)、明石家さんまやタモリを「そういう人」だと思うだろうが、彼らは人生のどこかで、「タモリ」「明石家さんま」という人物を自分で作って、それが自分なんだと決めてしまったように見える。そういう事は、行く所まで行ってしまっているので、人がどうこう言えるものではない。ただ、尊重するのみだ。

 …とお笑い芸人について薄く語ってみたが、最近の芸人は、ネタを振られた時だけネタをやって、番組にゲストとして呼ばれる事ぐらいしか考えていないように見える。お笑い芸人も詰まっている状態なので、なんとか奇抜なネタをやって一瞬だけでも大衆の興味を惹きつけようと努力している。こうした芸人から瞬間の連続は出てくるが、大きな芸人は出てこない気がする。

 もっとも、「お笑い」というのが、これまで(ジャニーズと共に)王者のような地位にあったのは、大衆の嗜好がそこにあったからだ。社会が変わり、大衆の方向性が変われば、色々変わってくる。「いいとも」終了、SMAP解散は安定した大衆文化が崩れた象徴と見ている。これからはもうお笑いの時代ではないのかもしれないが、それだからこそお笑いをやるのだという気概のある人がいれば、お笑いにもまだ未来は残されている事になるかもしれない。


 物語とは何か  〈伊藤計劃のエッセイから考える〉





 作家の伊藤計劃は「人という物語」という注目すべきエッセイを書いている(webで読める)。

 このエッセイを簡略すると、要するに、「私」というのは一つのフィクションであるという事だ。「私」はフィクションだというのは、仏教哲学の時点から言われているので、真理としては目新しいわけではないが、伊藤計劃は脳科学の見地から言っている。

 脳は外界から沢山の情報を受取る。同時に、内からも情報を沢山受取る。それらの情報が編集、処理されて、「私」というフィクションが成立する。これは外界に関しても同じであり、僕らが「現実」と認識しているのは、そもそも脳の編集後の世界であり、編集前の、ありのままの現実とは何か、それはわからない。(このあたりはカントとも一致する)

 「私」というものは当たり前のものとして通常は扱われている。「私の物を取らないでください」「私に触れないでください」 これは普通の言葉だ。同様に、僕らは「私」というものを素直に信じている。Amazonのアカウントから銀行口座、私有財産制まで、様々な事は「私」を独立した存在とみなす事から生まれている。

 伊藤計劃の主張では、「私」というフィクションであるから、だからこそ、それは一つの物語であるという事だ。「物語」もまた、編集された時間的系列であろう。そもそも、仏教哲学の言うように、変化していくものの中に同一性を発見する事はできない。しかし、それを強引に行う事、それが人間の特権だ。「永遠」という概念はそこから出てくる。「永遠」は時間の先にあるのではない。むしろ、人の脳髄の中にある。変化していく時間というものの中で、変化する自分を無理矢理「私」と規定していく、同一性発見という傾向の象徴として「永遠」は存在する。

 「私」はフィクションである。物語である。それは、脳が様々な情報を加工・編集した後の時間系列、一つの実体である。ここから、ある道筋が見える。

 それは、絵画でいう印象派から抽象画、ゴッホからピカソ、ピカソからポロックへ至る道だ。ここで何が起こっているか。絵画には不案内なのであくまでも哲学として言うが、そこでは、テーマというものが次第に解体していく様子が見て取れる。ここで言えば、脳が処理した情報を、その構成因子に帰していく事、そうした系列が見られるように思う。

 我々はただ物を見るのではない。ありのままの物を見るのではない。目と脳によって編集されたものを見ている。「ただ見る」というのはありえない。常に、我々は意識下で加工された世界を見ている。

 近代にはバランスの取れた、大芸術家が現れた。彼らは主体的な表現とテーマがうまく調和していた。ベートーヴェンにおいて、彼の哲学と主体的な表現は一致する。均衡点は存在した。ベートーヴェンには理想があった。彼の理想は同時代のゲーテ、ヘーゲル、シラー、そうした人々と共通する点があったはずだ。

 その後、現代音楽は解体する方向に辿った。文学、音楽、絵画。いずれも、近代の均衡を失い、微分化していく様子が見て取れる。それは、近代において作り上げられていた、加工・編集後の整然とした姿を保てなくなった時、そこにあったそれぞれの要素が要素としてバラバラに砕け散った。僕はそういう風に見る。

 物語とは時間系列におけるフィクションである。嘘である。この嘘が、異なった社会・現実に晒され、嘘である事を保てなくなった時、それらの構成因子だけが世に晒された。文学からは物語が剥奪され、絵画はテーマを失い、音楽ではジョン・ケージのような人物が現れるに至った。芸術は解体したが、それは芸術家が誠実だった故に現れたやむを得ない現象と言えただろう。かつてのような均衡あるフィクションは作れなくなっていた。フィクションーー「嘘」を作るにも色々なものが必要になってくる。歴史という編集され、加工された情報、その上澄みを使って「芸術」が作られる。が、地盤が揺らいでしまえば、芸術家は個々の小さな存在に還らざるを得ない。

 だが、その一方で、物語の氾濫という現象もある。それはどういう事だろうか。

 これは雑感レベルの話だが、芸術に深入りしない人、つまり「大衆」は絶えず物語を必要としている。物語性がある作品が受けるのは何故なのか。伊藤計劃流に言えば、我々そのものが物語だからという事になる。だが、普通の人は、そんな小難しい事は考えない。

 ベストセラー作家、また、そうした作品を欲する人は、物語を嘘とは考えない。それを、所与のものとして見ようとする傾向にある。伊藤の言葉で言うと、脳が外界を処理した結果ではなく、本当に、外界(並びに「私」)はそうである、と考える。これに対して深く疑わず、編集され加工された情報が、我々の要求に一致する事が求められる。ところで、その要求もおそらく、彼が思っているものとは違う所から生まれている別の物語である。

 物語は愛される。真人間になったヤンキーだとか、名門大学に受かった底辺ギャルだとか。あるいは、自分自身を物語のヒロイン、ヒーローと思い込む傾向は、社会によって強められてもいる。恋愛小説では、恋愛は一つのフィクションであり、また、現実ににおいても恋愛はフィクションである事が望まれている。それは、我々が望むものこそが我々の現実であって欲しいという欲望だ。

 しかし、もう一度思い起こそう。物語とは、単に所与のものではない。ここに、大作家と通俗作家の、大きな違いがある。僕はそう見る。

 大作家は、現実が物語ではない事を知っている。現実は無数の混乱した事実がある。くだらない事がある。過ちがある。愚かさがある。断罪されない犯罪者がいる。物語に収まらない混沌が世界にある事を知っている。

 が、それは一つの物語に「織られなければ」ならない。世界は物語ではないからこそ、それを物語に織り込み、我々が理解できる形式にしなければいけない。世界を一つの物語に織り込む事。それは、世界は混沌であり、物語ではない事を痛感したからこそ、それを成そうとする、そういう技であるべきだろう。いわゆる大作家と呼ばれる人はそういう人でなければならない。

 大作家は現実を経験している。現実はあるいは無慈悲かもしれない。現実には、理不尽な事は無数に起こる。しかし、現実が理不尽であるから、ただ理不尽さを主張するのは、それだけの事だ。彼は現実を模写しているだけだ。大作家は嘘をつく。その嘘は、現実を知り抜いた上に出てくる嘘であって、現実から逃げる為の嘘ではない。

 通俗作家は反対の道をたどる。あるいは、見かけ上だけは一致する。彼は文学を物語と決めてかかり、うまくそれを作る。それは物語を求める人々に受け入れられる。しかし、人々も作家も、物語を成り立たせている現実については考えない。この嘘は、現実の果てに現れた嘘ではない。むしろ、現実を遠ざけた末に現れる嘘だ。

 例えば、角田光代とか吉本ばななの作品に漂っている「あったかい」雰囲気は、現実の一部を彼らが切り取りうるような場所に立っているからこそ出てくる「あったかさ」「優しさ」であり、現実の苦痛を経験した上に、優しく「ならざるを得なかった」というのとはわけが違う。

 彼らの作品、また彼らのようなタイプの作品は、日本社会がそれなりに成熟しているからこそ可能なフィクションであるように思われる。彼らの「あったかさ」「他人思い」は、世界の混沌に接したもののそれではない。最初から秩序化された世界で生まれ育ってきた人間が持てるような「優しさ」だ。その優しさは、ある箇所では残酷な仕打ちを取るだろう。つまり、秩序化された世界の外部に対しては、それらをたやすく排除するのが可能だろう。

 このエッセイの元になった伊藤計劃という作家は、「優しさ」の外側について考えた人間だった。このような社会の中で「優しく」なるのは簡単だ。残酷になるのも、露悪的になるのも、狂人的な見かけを取るのも簡単だ。だが、世界の外部を意思するのは難しい。我々の認識そのものが、我々の世界とぴったり一致している為に。

 先に、大作家は、物語ではない現実からスタートし、そこから物語によって世界を認識可能な形にする存在だと言った。その時、当然、世界を認識する形には作者自身の思想が明確に覗く事になる。混沌とした世界の再編成が、作者の主観によって行われる。

 しかし、今言ったように(以前「フィクション化する現実」で言ったように)、この社会それ自体が既に編成済みの物語である。これが、現代において一番面倒な問題である。角田光代らがリアリズム=物語の傾向を簡単に取れるのは、現実そのものが、人工化され、物語化されているから、作者の認識がなくても、簡単に物語に移す事ができてしまうからだ。

 だから、現在における大作家ーーその傾向性、素質というものは、現実それ自体の混沌を探す事から始めなけれはならない。かつての偉大な文学はおそらく、混沌とした現実を認識によって把握できるものにする所から生まれてきていた。現在では、整頓された現実からスタートし、それらを破る物語について指向しなければならない。

 伊藤計劃という作家はその作品において、世界と、その外部の境界線について絶えず思考していた。角田光代のキャラクターらが、怒ったり泣いたり笑ったりしている世界の外側が彼の問題であった。多くの作家が世界を所与のものとしてみなし、我々が世界を所与のものとしてみなしている時に、それらをフィクションによって揺さぶる事を彼は考えていた。

 では、どうして、現在そんな物語が必要なのか? どうして、この世界のあり方に、角田光代的に安住してはならないのか?と問う時、一体、どんな答えが出るだろう。

 それについて、僕はなんとも答えられない。ただ、人は「今」を打ち破り「次」に行こうとする傾向があるから、としか言えない。

 元々、「私」というもの自体が一つのフィクションだと僕(伊藤計劃)は言った。すると、その「私」が更に、フィクションを、物語を織る。それは、大きく言えば進化というものの傾向性とも言えるだろう。目は、世界を編集するカメラである。耳は、世界を編集するマイクである。だとすれば、「私」は世界をまるごと編集し、別の宇宙に仕立てる為の機械である。

 この時、角田光代や朝井リョウらの作品は、そうした要求に応えるフィクションなのか。そうではない、と僕は思う。それらは「次」を志向するフィクションではない。少なくとも、偉大な文学とはまるで違ったものである。偉大なものは、暗いかもしれない。冷たいかもしれない。角田光代やよしもとばななのようにあったかくも優しくもなく、小難しいかもしれない。が、それは、世界の構成因子をまるごと作品に(編集して)表そうとするからこそ、そのような形式を取らざるを得ないものなのだ。世界の一部を切り取って、その外部について沈黙するものではないからだ。だから、偉大な作品は、僕らにとっては難解なものとして、冷たいものとして現れたりするが、それは僕らが普段、自分の暗い部分について考えたがらないのに似ている。僕らは自分の死について想起しない。しかし、死もまた人生の一部だとすると、それを編集する機械(芸術家)はそれから逃れてはいけない。

 そこで大芸術家は世界のあらゆるものを自己の作品に投入しようとする。そこに、気持ち良いもの、面白いものだけを求める人々との齟齬が生まれる。しかし、それだけを求める人も、それだけの存在ではない。だからこそ、偉大な作品は歴史を通じて生き残っていく。

 物語とは、そのように、現実を編集したフィクションである。この場合、全てがフィクション化した世界において、何を現実とするかと認識する事自体が今、問題となっているように見える。かつての、バルザック的リアリズムもまた、時代において改訂されるべきだと思う。

 そういう時代において、伊藤計劃という作家は、ディストピア的世界観を使って、世界の境界について描いて見せた。彼の作品は紛れもなく一つの物語だった。現実から逃げるのではなく、現実を直視しようとする物語だった。今、僕らはその物語を読む事ができる。そして物語を通じて、僕らは現実を再び見るべきなのだろう。あるがままの現実……あるいは、あるがままの現実は存在しないというあるがままの現実を見なければならないのだろう。おそらく、「新しい物語」はそこから生まれてくるだろう。


〈全体を見ると矛盾している所がありますが、自分の感覚が大事なのでそのままにしておきます〉

「ドラマ」についての思惟 


 小林秀雄は「ハムレットとラスコーリニコフ」という文章で、「罪と罰」と「ハムレット」の両主人公は、内面と行為とが分離された存在だという事を指摘している。この指摘は僕にとっては極めて大きな示唆となった。

 一般に転がっている小説、物語、ドラマ、また大きく言えば、多くの人が生きている生き方そのものーーそれらに対して、僕はずっと疑問を感じてきた。簡単に言えば、それらが「つまらない」という感覚だ。現実で(ネットでもそうなのだろうけれど)そういう事を言えば「何を言っているんだ、みんな、真剣に生きている」と説教されるに決まっている。しかし、自分の感じている事はそういう事ではないーーと思うが、その声はどこにも届かない。自分の中の声として、自分の中に留まるだけだ。

 一般的なドラマ・小説というのは、結局、「誰かが何かをする」という話になっている。それは誰だって当たり前の事で、現実にみんな、そう生きている。しかし、果たしてそうだろうか。何故、誰かが何かをしなくてはいけないのか。例えば、夢を持って努力するという方法論から、挫折とか成功とかが生まれる。が、夢を持って努力する事自体馬鹿らしいとみなしたら、どうなのか。それは夢を諦めるという事ではない。夢を持つとか持たないとかいう事自体が、個人の主体的意志に過ぎないのだから、その意志を統御すれば、夢は消える。何故、夢を消してはならないのか。何故、夢を持たなければならないのか。

 こうした考え方は突き詰めると、「全ての人間が餓死する事を自分に許せば、あらゆる闘争は消える」という哲学者の極限的な言葉に収斂されていく。もちろん、そんな事を言えば身も蓋もないだろう。だが、身も蓋もない事を言わないというのは果たして大人の態度か。大人とは、自分の欲望に社会的衣装を身に付けた人の事なのだろうか。

 このような哲学的問いというのは、おそらく、子供らしい問いにすぎない。が、もし、僕がこの子供らしい問いを突き詰めれば、どうなるのだろう。あらゆる社会現象が自己から隔離されて、他人事となり、自分は悟りすました僧形のようになる。それでは、そこで全ての答えは終わるのか。

 プラトンは、そうした道を辿った。現実からスタートして、イデアの世界に到達する。現実は、私の外側にあり、世界に属するものだ。一方の「私」は一人、洞窟の外に出る。そこで真なるものを見る。そうして帰ってこない。

 物語・劇を作る際の動機において、現実そのものを否定すると、もはや動機とならない。牢獄に入れられてもそれを諦め、自己の死を、嘆く事なく受け入れればそれはドラマにならない。そうなると、社会・経済におけるあらゆる事柄はどうでもよくなる。これをどうでもよくないという視点はありうるか。常識的にはいくらでもあり得るが、この場合、常識そのものを否定しているから、もはやこんな人物に掛ける声というのは存在しない。ドラマは存在しない。劇は存在しない。

 だが、そんな人間もやはり、現実に生きねばならないとはどういう事なのだろう?
 
 ここにおいて再び、現実ーードラマが戻ってくる事になるが、還ってきたドラマは最初のドラマとは違う。そういうドラマというのは存在しうるか…と考えると、やはり「罪と罰」が頭に浮かぶ。僕がしつこく、「罪と罰」という作品にこだわるのは、そうした、ドラマを否定する精神をもう一度ドラマの中に叩き込むという事が唯一やられている作品だからだ。

 主人公のラスコーリニコフは、自分の外的行為と、内面との相違を常に感じている。この先駆は、小林秀雄の言葉では、シェイクスピアによってやられている。ハムレットは復讐を誓う。彼は復讐を天命と感じている。にも関わらず、天命である復讐という行為と、ハムレットという人物が一致しない。そこに微妙なズレが生じ、それが独白の際に見え隠れしている。

 ラスコーリニコフはハムレット以上に差異が激しい。自分の外的行為、欲望、欲求、それ自体を無意味と感じながらも、それをしなければいけないと信じている。自分が自分である事と、自分が、行為という局面においては自分にとって他人であるという事が常に感じられている。

 普通のドラマは、行為面、社会面において行動している個人像と、その人間自身の自己像が一致している。あるいは、それほど大きなブレはない。したがって、人間は、苦悩したり、苦しんだりするかもしれないが、それは自分が望む事が達成されないとかいう類の悩みである。もし、この自分が、自分がそもそも何も望む事ができないという事に苦しむとしたら、不思議な苦しみを持つ事になるが、僕が見たいのはそのタイプの苦しみとなる。

 ラスコーリニコフは殺人を天命と感じる。ハムレットは復讐を天命と感じる。その時、もう一人の自分が自分にささやきかけているのだが、自分にとってもう一人の自分は他人と感じられている。では、どうしてもう一人の他人は現れなければならないのだろうか。

 実際、ここに答えはない。「罪と罰」では象徴的な言い方が成されている「例え、どこにも行く所がなくてもどこかに行かなければならない」 この時、正しい理屈なんてものがなんだろう。

 通俗的な経済学が生産性、功利性、利益についていくら喧伝した所で、毎日ごはんと塩だけでいいのだと自分自身に決定したとしたらどうなるのだろう。そうしたら、馬鹿げた事になるのか。でも、どうして馬鹿げた事をしてはいけないのだろう? 他人から見て馬鹿に見えても、それは他人の視点から見ての事だ。自分から見た時、それが全てだ。

 だが、この人間も生きねばならない。どうして生きるのか? 
 
 ここに理屈はなく、人はただ生きる。あるいは親鸞のように、ただ黙って山から降りるのだろう。プラトンは最後まで下に降りなかったが、なんとなく、上に飽きた時、人は下に降りてくるのだろう。

 ラスコーリニコフが、改心する所を作者は理屈では描いていない。そこは理屈では描けなかった。…別の言い方をすれば、私と外界との間に無限のように広がっていた溝は、ある時、ふと、それが溝ではなかった事に気づく。そういう事なのだろう。

 人は現実の中で、一人の人間として生きる。一部のSF作家が鋭く見抜いていた事は、社会が完全なものとして現れるのであれば、もはやドラマは起こらないという事だ。現在に見られるドラマの多くは、人工的にコントロールされたドラマであり、例えば音楽を主題にすると、コンクールで優勝するとかしないとかが大きなテーマとなる。モーツァルトが借金まみれで死んだように、本質的に自己の音楽像と社会常識とが矛盾する際の葛藤を描く人間は(おそらく)いない。自分が自分と衝突する事なく、自分が社会と衝突する事なく、社会と自己とが融和されたコントロールされた場所での、先の見えたドラマのみがある。

 全てが自己意識に収斂され、哲学で言う独我論に極まれれば、世界に意味はなくなる。世界の中における私も消える。葛藤は消える。そこには安楽がある。だが、安楽それ自体に安楽できなかった時に、つまりは倦怠がーー自分という名の「完全」に飽きてしまった時、そこから人は不完全に向かって歩き出さなくてはならないのではないか。

 その時に、親鸞は山から降り、ブッダもめんどくさながりも、地上に降りてくる。自分だけが真理を理解したのだし、それを一々、世の中の誰彼に言いたくないというブッダの気持ちは現代からも共感できるものに感じるが、ブッダはハムレットと同様に、運命の啓示を見た。彼は自己の完全性から外に出た。(ブッダは最初、真理を教えるのを失敗して、つたなく否定されたが、その時に、内心に屈辱を感じたと想像すると、そこにはドラマがあるという事になる。ブッダが屈辱を感じられるのは、自己の完全を否定したからだった)

 人は通常、社会の中を生きる。社会の中を生きる自己と、自己から見た自己を一致させた人間は健常な人間だと言われる。何故ならば、人はとにかくも、その社会の有様を一応肯定するからだ。反社会運動も、たった一人でやれば狂人と呼ばれる。人は狂人を好かない。

 だが、もしあらゆる人間が、行為面、社会の中の自己が全ての自己であると信じ、世界と自分との間にズレがないのならば、世界からは苦悩が消え(伊藤計劃「ハーモニー」の世界となり)、完全な世界がもたらされる。しかし、その時、世界と呼ばれる社会現象はそれを否定する場所を失い、それ自体の論理が破綻する所によって破綻する所となる。思うに、世界の異変を察知できるのは、本当の意味での(見かけだけではない)アウトサイダーに限られているのではないか。

 通常のドラマにおいて、人間は自分を疑わない。劇は、どちらかと言えば無知から起こる。自分の欲望を否定できない弱さが、意志の強さだと誤解される所において、様々な事件が発生する。世の中にはそんな人間がいる。だが、常識を疑わない事と、自分の本能を疑わない事、どちらも疑わないという点においては一致している。そして疑いはドラマを消去してゆく。次第に諦念に落ち着いていく。

 だが、諦念に対して諦念を持つと、もうそのままそこにいる事はできない。ドラマが起こる。山から降り、人と交流し、世界の中の人となってゆく。自分と世界とのズレは、世界との否定とはならない。そうではなく、世界を否定した自分もまた世界の一部だという事が感じられている。

 ラスコーリニコフが最後に見た光景はそんなものだった。彼は、檻の向こうの茫洋とした、昔からの風景に、静かに自分が溶けていくのを感じた。自分もまた、世界の一つにすぎない事を知った。独我論は溶けた。独我論という論理ではないものによって溶けたが、それは独我論の言葉では描けない。おそらく、そこには哲学から宗教への転換がある。

 ……というような事を、「ドラマ」をテーマに考えた。しかし、「ドラマ」を考えるのは一人の人間の頭脳(意識)に過ぎないわけだから、この意識もまた世界の中の一事物にすぎない、という風にまた、ドラマを作る意識は、より大きな、歴史というドラマに吸収されていく。それをまた、未来の誰彼が、自分の意識下に収めようとする。そうした輪廻、連関というものがあるのだろう。そんな風に物語は連綿と続く。物語は、物語を否定する意志を媒介として存続していく。

「さまぁ~ず」についての感想




 Amazonのプライム会員になっている事もあって、「内村さまぁ~ず」という番組を見ている。吉本風の騒がしい笑いではないという所もあって、作業しながらゆるく見る分にはちょうどいい。

 「内村さまぁ~ず」という番組を見ていて、思ったのは芸人というものの立ち位置だ。「内村さまぁ~ず」は、内村光良と、「さまぁ~ず」の二人がゆるい笑いを届けるというバラエティ番組で、特にあれこれ書くような感じでもないが、結構話数見たので、芸人のポジションについて素人目線で考えてみる。

 「内村さまぁ~ず」では、三人の芸人はゆるい感じでやっているし、実際にゆるくやっている部分もあるだろうが、本当はそれだけではない。最近の芸というのは、一見、居酒屋で話している普通のトークであるように見せて、実は視聴者を意識した話芸になる事が求められている。自然さを装いつつ、技術を底の方に置いておくという所に主眼がある。

 だから、「さまぁ~ず」と言えば「ゆるい」というのも、そういう風に見せているという要素が多い。しかし、視聴者には「『さまぁ~ず』はゆるくやっててあの感じの笑いが好き」という風に思わせれば成功となる。本当は芸人は裏で努力しているとか、そういう所を見せたら、芸人である必要がない。「笑い」というフィクションの強度を保てない芸人、もっと高級な事、かっこいい事をしたい人は、自然、笑いから離れていく。

 笑いの一般論に戻ると、「内村さまぁ~ず」で、内村と同期の売れていない芸人が集まる回があった。見ていると、売れていない、売れなかった芸人というのは本当に面白くない。いや、面白くないだけなら別にいいのだが、そもそもカメラに自分が写っていて、カメラの向こうには大勢の人間が見ているという当たり前の意識すら持てていなかった。これはタレントとしては致命的な欠陥だと思う。

 その回で、売れなかったコンビの片割れがトークをしていたのだが、その話が「僕らのDVDが売れましてねー」という、本当の居酒屋、おじさん自慢トークであり、ただ自慢に始まり、自慢に終わっていた。それから、下ネタなども、テレビに写っている意識もなく露骨な表現を使っていて、全くカメラを配慮できていなかった。三村などはスケベなキャラを演じており、それは事実かもしれないし、そうではないかもしれない。三村もやりすぎる事はあるが、それでも、カメラに映る事を意識した下ネタであるから、生々しい感じは除外されている。これは、タレントとして、当たり前の事を意識しているかしていないかという差だと思う。

 一度、「さまぁ~ず×さまぁ~ず」の収録を見に行った事がある。知人がチケット二枚取れたというので一緒に行った。渋谷かどこかのスタジオだったと思う。

 収録に実際に立ち会って、印象に残った事があった。それは、収録現場での「さまぁ~ず」の振る舞いである。


 もちろん、「さまぁ~ず」はテレビで、僕らが見ているように二人でトークしていただけである。観覧席から二人までの距離はかなり近い。しかし、実際、観覧席から二人を見ていると、二人とこちらの間の距離を物凄く遠く感じた。

 何故、距離を遠く感じたのか。答えは簡単で、「さまぁ~ず」の二人は、実際には観覧者とスタッフの、数十人単位の前でトークしているだけなのだが、二人の頭の中にはカメラの向こうにいる無数の人の姿が見えていて、それに合わせて話したり、怒ったり、暴れたりしている。つまり、そこに実際にいるのはせいぜい数十人だが、「さまぁ~ず」はカメラの向こうの広大な人達を想定して演技をしていた。それは不思議な体験だった。だから、実際、かなり間近で「さまぁ~ず」の二人を見たのに、あんまり実在のタレントを見たという感じはしなかった。距離が近くなって、カメラが消えても、カメラを意識して振る舞う行為は、やはり、タレントとしての行為である。

 「さまぁ~ず」の二人の芸人としての力量がどんなものか。比較を明石家さんまに取るか、つぶやきシローに取るかで相対的に変化するだろうが、少なくとも二人がカメラの前でどう振る舞うかという事を心得ているプロフェッショナルだという事は確かだろう。そしてそれは、カメラの前に出る人間としての最低限の技術・訓練なのだろう。前述の、売れなかった芸人はカメラを意識せず、「芸人の先輩」としての内村光良とかさまぁ~ずばかりを意識していて、カメラと、カメラの奥の無数の人達を想定できていなかった。そうした芸人に比べれば、さまぁ~ずとか内村光良なんかはやはりプロなのだろうと思う。彼らがプロである事を前提とした上で、その芸について更に言うこともできそうだが、ここでは言わない。大体、そういう事を「内村さまぁ~ず」を見て思ったという、そういう話だ。

 伊藤計劃「ハーモニー」の中心的思想について



 伊藤計劃「ハーモニー」のラストは、人間が進化の帰結として、意識を消失するという風になっている。引用すると、次のようになっている。

 「社会的存在として完全に純化し適応した人間が最小単位となったとき、社会学と経済学は完全な純粋理論と現実の一致をみた」

 個人の意識は消失し、人間は純粋な社会システムと完全に一致する事となった。こうした事は小説上の絵空事と思う人もいるかもしれないが、これは極めて現実的な問題であると思う。嫌な事を言うなら、そもそも社会システムと自己を一致させ、その事に何も疑わない人は、この問題の所在そのものを認めないだろう。何故なら、彼は既に「ハーモニー」を達成しているからだ。

 伊藤計劃が「ハーモニー」に籠めた思想は、様々なものとつながって見える。例えば、哲学者のシオランだ。シオランは、進化論者と対話した時、学者に対して「人間の苦悩は理論の中にどう位置づけられるのか?」と質問した。すると、相手は「苦悩は理論の中では単なる偶発的なものにすぎない」と言った。シオランは怒り、それ以上の対談を拒否した。

 以上の話はツイッターのbotで見たので、事実かどうかはっきりわからないが、非常に興味ある話だ。これは因果系列の問題として考えられる。

 例えば、先日、サッカー日本代表はオーストラリア代表に勝利した。するとすぐに「何故日本代表はオーストラリアに勝利できたのか?」といった類の記事が現れる。「勝った」という結果から原因を探るゲームが始まる。

 このゲームは行き過ぎると、人間の苦悩や意識を消失させる因果的理論が目の前に現れる事になる。オーストラリアに日本が何故勝てたのか? という問いはやがて、その原因を遅かれ早かれ発見する。すると、「原因→結果」という方向性の中で、選手や監督の迷い、不安、苦悩、努力などは消えてしまう。ある地点aが次の地点bを引き起こすのであり、その方向が必然的なものならば、その必然性の中で、その時々に現れた迷いや苦悩や自由は消失する。(苦悩は深く自由とつながっている)

 因果系列を「a→b→c→d→…」と考えていくと、それは必然的なものであり、動かす事のできないものとなる。こうなると、理論としては完璧だが、自由は全くなくなるという事になる。

 社会学の創始者はデュルケームだろうが、デュルケームは「自殺論」を書いている。デュルケームは「自殺」は社会的単位として分析できる事を発見した。しかし、自殺が「純粋に」社会的な所産であるならば、社会的対策を適切に施せば、自殺は完全に防げる事になる。その際、社会の関係の上で自殺に「追い立てられた」人間が、どのような内的意識、苦悩を抱えていたかという問題は取り残される。

 僕はデュルケームが間違っているなどと主張するつもりはない。デュルケームは適切に問題を扱っていると考える。しかし、デュルケーム的なものをある一方に拡張すると、人間の中から、意識や苦悩の問題を取り除く事になり、「ハーモニー」が達成される。それとは逆に、個に焦点を当てすぎると、どんな集団自殺が起ころうと、「個人の踏ん張りが足りなかったからだ」という事になる。こういう見方もまだ根強い。鬱病の人間に、「根性が足りない」と言い続けるようなものだ。しかし、実際の所、鬱病が純粋に社会的所産であるならば、彼の病は社会から生み出される必然的事象となり、したがって、彼は自分の病と戦わなくて良い事になってしまう。そうなると、彼は救われるのだろうか。

 今までを簡単に総括すると、確かに、人間は理論的な所産だと言える部分がある事がわかる。しかし、同時に、人間は意識や苦悩を通じて自由であろうとする存在だとも言える。

 伊藤計劃は「ハーモニー」でこの問題をどのように取り扱ったか。答えから言うと、彼はこの問題を完全な形では解決できなかった。しかし、そもそも完全な形での解決が必要なのかどうかという問いの方が、この場合、答え以上に重大と感じる。

 そもそも、伊藤計劃が小説という媒体にこだわったのは何故なのか。彼の小説では、大問題は常に小問題と結びついている。三人の少女の小さな物語が、大きな、世界という物語に対して抵抗しようとしている。ほんの些細な感情というものを、大きな問題と対比させつつ、物語を進行させている。

 伊藤計劃がもし、小さな物語に、固執していなければ、彼は社会学者になればよかったはずだ。その素質もあっただろう。だが、小説というジャンルにこだわるのは彼にとって、彼自身の小さな肉体が絶えず、世界の中で一つの存在であるという以上に重要だとという確信があったからだ。そんな風に考える事もできるだろう。

 大きな問題からすれば、個人のエモーションの部分はくだらないものにも見えるだろう。ある政治家がテレビで「俺達は日本の為に頑張っているのに、今の若者ときたら…」と愚痴っているのを見た事がある。高坂正堯を勉強していて痛感したが、政治とか社会とか経済とかの大きい問題とばかり組み合っていると、小さな、個人レベルの物語は馬鹿馬鹿しいものに見えてきてしまう。自国の領土を増やすとか、外交で得をするとか、そういう大きなゲームにずっと携わっていると、個人レベルの事は馬鹿馬鹿しい事に見えてくるだろう。

 これは、作家が、デビューしていくらか立つと、政治的な講演とか言説を成して、真面目に小説を書くのが阿呆らしくなってくるのと同様の現象に見える。「日本のために」という大きい物語にはまりこんでいると、誰と誰が好きだとか嫌いだとか、そんな小さな話は馬鹿げたものに見えるだろう。僕は小説家というのは、「小さな説」になんとしてでも、頑強にしがみつく存在だと思っている。しかし、大雑把な物語にばかり関わっていると「いろんな事は工学的に処理できる」だとか「社会理論が世界を救う」という話になってくる。僕は、人間の希望は決して社会理論によっては救われない場所にあると感じている。

 「ハーモニー」に戻ろう。「ハーモニー」では三人の少女という小さな物語は、世界全体の「ハーモニクス」という、大きな物語と直結したものとして語られている。このあたりは最近のセカイ系のアニメ・ゲームなどと共通するもので、その影響にあると言ってもよいが、それ以上に、伊藤計劃にはそれを描く事が必要だという根拠があった。

 その根拠はつまり、大きな物語だけでは小説にならないからである。あるいは、小さな物語を欠いた、最後のエピローグだけでは、物語にならないからである。もっと言えば、そもそも現実とはそういうものではないという事になる。もし我々が苦悩を消し、意識を消し、自由を消す事によって、大きな存在と一致し、そこで幸福になったとしたら、それは何のための幸福かという問題が出てくる。言い換えれば、自由と幸福の二元対立が問題となる。

 自己を捨てる事によって幸福になれるとして、それは果たして幸福なのかどうか。例え不幸になっても自由である方が良いのではないかというのは、古来から続いてきた、人間にとって本質的な問題に思える。

 繰り返すが、「ハーモニー」という作品ではそれは解決されていない。むしろ、非解決に終わっているとさえ言えるだろう。女主人公はこう言う。

 「たぶん、そうなのだろう。
  異議は、ない。      」

 女主人公はこんな風に述懐する。彼女は世界が「ハーモニー」になる事には異議はない。少なくとも、意識の表面上ではそう言う。しかし、どう考えても、異議がないはずはない。その証拠に

 「この弾丸は、わたしが撃ったもの。
  他の誰の意志でもない、わたしが撃ったもの。
  わたしが。
  わたしが。

  わたし。」

 という風に、主人公は「わたし」に固執している。これは、理論的な面においては同意せざるを得ないが、彼女のエモーションとしては同意できないという事だと思う。それが、文体レベルで現れている。文体レベルにおける表現と、作者の思想、作者の現実認識が見事に一致している稀有な例を、ここに見たい。

 また、同様な繰り返しはエピローグにもある。

 「いま人類は、とても幸福だ。

  とても。


  とても。」

 これは主人公の述懐ではないが、どうしてこんなに「とても」を繰り返すのだろうか。ここでは、理論的な側面、論理的には完全に終わった書物の中で、感情レベルで(文体レベルで)、まだ終わっていないという事を示している。そう考える。「とても」を繰り返す意味は、論理的には存在しないし、余計だ。しかし、本来的にはそこで終わってはならないという祈りがそこには籠められている。

 こうして考えていくと「ハーモニー」という作品のそもそもの思想は何だろうか。一人称におけるナイーブな視点というのは「虐殺器官」から変わっていない。そこから、ラストに向かって順番に歩いていくわけだが、最後には自分を消失するという結果が現れてくる。自分の消失は即ち、一人称の消失であり、語る主体の消失である。消失させるのは、社会システムである。

 一人称が消えていくという小説的な方法は逆に言えば、それを消失させるシステムそのものが肥大化すると、これは消えてしまうのだという事を示しているように思える。時間的に言えば、過去から未来まで順番に論理で折り畳んでいくと、そこに意識の自由、苦悩という「現在」はなくなる。

 ベルグソンは時間の空間化を批判したが、ベルグソンの時間は意識の時間だった。渡辺慧が言っていた事だが、時間というものを

    未来ーーーーーーーーーーーーーーーー過去

 と置くと、「現在」はこの線のどこにも取れる事になり、「今ここ」という我々の実感は消失してしまう。歴史の本を最初から最後まで時系列に沿って眺めても、何故今生きている「私」が十三世紀の人間ではなく、三十四世紀の人間ではなく、「今ここの人間なのだろうか?」という問いに答える事はできない。

 今生きている私が私にとってのっぴきならない事態であるとは、論理では語れない事態であるが、この私がいなければ、論理そのものを語る事はできない。世界と、私との継ぎ目に、「私」は存在する。一人称で語るという事は、「私」と世界を繋ぐ役目を負っている。だが、世界が肥大化して、「私」が消えた時、その時、一体、何が残るだろうか。

 先日、電通の社員が過労を苦にして自殺したが、一人の社員の魂を踏みつけにしたとしても守らなければならない契約とか義務とかいうものはあるのだろうか。こうした体育会系のシステムにおいて個人は、それではない事を要請される。彼らには、伊藤計劃の提出した問題は見えないだろう。何故なら、その問題は彼らにおいて既に解決済みだからだ。つまり、「ハーモニー」は達成されている。あるのはシステムに適合できない、不適合者だけだ。

 伊藤計劃は独特の一人称によって、システムを内部から、疑問に曝した思想家だったと言えるだろう。システムは人間の頭には、大きな物語、必然な因果系列として移る。過去から未来まで、順番に論理を繋いでいけば「今」の自由は消失される。しかし、伊藤計劃の一人称では、その「今」から世界について語るという方法論が徹底されている。それ故、一人称は作品の最後ではその不可能性に衝突し、消えてしまうが、その衝突の余韻を読者である我々は、作者の思想として読む事ができる。つまり、一人称が消え去った場所に、本当に豊かなものがあると考えられる。何故なら、その箇所は一人称では書けないが、伊藤計劃は書けない事を意識して書いているからだ。

 伊藤計劃の「ハーモニー」においては、そうした思想が現れていると見ている。世界をシステムに一元化した時、全ては救われるが、救われた世界は果たして良き世界なのだろうか? …が、この問いは、作品そのものからはみだしてしまう。はみだしてもなお、語ろうとして語り得ない事を明らかに感じて書いている所に伊藤計劃の非凡さが認められる。そういう風に「ハーモニー」という作品を考えている。伊藤計劃が示した問題は現在でもビビッドな事柄だと思う。これについては、考えついで、書き継いでいく必要があるだろう。

 

流行り廃りについて (「ニコニコ動画」・「小説家になろう」)




自分もオタクの一派なので、ニコニコ動画をわりと前から見ている。しかし、最近のニコニコはひどいなあと感じている。

最近のニコニコで特にひどいと思うのが、人気生主の座談会で、横山緑などの生主が集まって、北朝鮮の問題なんかについて話している。

この座談会みたいなものを見ると、成れの果てというか、何かの終わりを感じる。最初、内輪で盛り上がっていたものが公式化されて、一般化されると、魔法が解けるような、そんな感じがある。

テレビに出てくるタレントは最近は批判されているが、そうはいっても、彼らには話芸があったり、見た目が非常な美人だとか何らかの武器を持って出てくる。もちろん、すぐに消える、手持ちの武器がほとんどないタレントもいるが、タレントは競争社会なので、大衆の視線にある程度耐えられる人が残る傾向がある。

翻って生主の座談会を見ると、特に話芸があるわけでもなく、時事問題に精通しているわけでもなく、なにが魅力なのか正直よくわからない人がだらだら喋っていて、内輪のノリに入っている人しか見られない構成になっている。僕が押している神聖かまってちゃんなんかも、音楽をやっていなければ、彼らのうちの一人にすぎなかったと思う。

内輪のノリ、ニコニコ動画のノリの中に入っている人はある程度、こうした流れについていくだろうが、いきなり外部から入ってきた人からは一体何が面白いのか、何が良いのか、よくわからないと思う。こうなっていくと、多分、一つのブームの終焉という事が考えられる。

ニコニコから話を移すと、「小説家になろう」では異世界小説が流行ってる。書く人も多いし、読む人も多い。何より、書籍化されるのもそうした作品が多いので、運営も力を入れているのだろう。

異世界小説が流行るというのはもちろん悪い事ではない。収益が見込めるから流行るわけだし、利益が必要な団体がその方向に行くのはやむをえない。

だけど、ここでもニコニコ動画で起こったのと同じ事が起こるのではないかと思う。異世界小説が流行り、その流れが一旦できると、「小説家になろう」=「異世界小説」という定式がなんとなくできあがる。「異世界小説」を読みたい人、そういう傾向のライトノベルを読みたい人は「なろう」に入っていくが、それに興味がない人はそこから離れていく。

書く方も、アニメ化が見込める、プロになれる、書籍化できるかもしれないという事で、その方向に特化していく。こうしてある方向への流れができると、それはどんどん加速していく。読む方も書く方も、傾向性が出てくる。

しかし、その傾向はいつまでも続くものではないから、ある時、異世界小説ブームにも終わりが来る。似たような作品が飽和し、読者の方でも飽きてくる。そうなってくると、異世界小説ブームは終わる。ブームだけが終われば別にいいが、「小説家になろう」=「異世界小説」という定式がなんとなく、ネットを見ている人の頭にあると、「小説家になろう」というサイト自体が力を失っていく。そういう可能性は十分あると思う。

今、ニコニコ動画で起こっているのはそういう事な気がする。ブームは活気付けるが、それが去れば、その場所を廃墟にしてしまう。栄枯盛衰という点で考えるとやむをえないのだろう。

ユーチューバーなども同じ事が起こっているのだろう。この場合、サイトの上昇・下降とそこで扱っているコンテンツ・流れとが一致するかどうかというのが重要な気がする。

何が言いたいかというと、流行りだからといってその流れに全面的に乗っかる事ばかりしていると、流れが去った時、手元に何も残らない状況になるという事だ。もちろん、流行りに乗った方が「おいしい」のだから乗らない手はない。しかし、賢い運営者であれば、流行りに乗りつつも、次の一手を考えておくべきだと思う。異世界小説の流れに乗りつつも、常に次の展開、このブームが去った時、このサイトはどうあるべきなのかと考えておく必要があると思う。また、ブームに乗りすぎると、そのブームと一緒に流れ去ってしまうから、バランスを見ながら抑制する事も必要かと思う。持続的に、長くやっていくコツというのは、あんまり勝ちすぎず、また、あんまり負けすぎないという事にあるように思う。(このあたりは阿佐田哲也の「麻雀放浪記」から学んだ)

…とまあ、感想を書いてみたが、これはブームとは無縁の人間の独り言である。自分の言っている事が誰かの参考になれば幸いだ。

バルザックからドストエフスキーへ


 


 小林秀雄の言葉を信じると、バルザックが発見したのは、「どのような個人も、社会における一存在だ」という事になる。例え、富豪であろうと貧乏人であろうと、社会において生息し、自分の生き方をしている一人の個人である(にすぎない)というのがバルザックの洞察だった。

 一方、バルザックの終わったところから始めたドストエフスキーはどんな発見をしたか。僕の定義では次のようになる。

 「どれほど巨大な自意識を持った個人であろうと、社会の中の一存在として生きざるを得ない」

 ここで重要な所は「生きざるを得ない」という、やむをえない、というポイントにある。人間は自己意識を持っており、ほっとくと膨らんでいく。究極的に膨らんだ自意識としては、パスカルという一個人を思い浮かべたい。

 「宇宙は物理的に私を包んでいるが、考える事によって私は宇宙を包む」

 この時、パスカルは(「罪と罰」の主人公)ラスコーリニコフによく似ている。考える事が「仕事」だったラスコーリニコフは、殺人という行為を犯し、他者の媒介を経て、社会へと解消されていく。

 例え、どのように反社会的行為であっても、それは行為であるという理由によって社会的行為の一つである。例え、愚かな殺人という市民社会に反する行為であっても、反するという意味において、社会的行為だ。屋根裏部屋で夢想にふけっているラスコーリニコフにはどのような劇も起こりようがなかった。彼は怪物のように、思考と夢想を膨らませていただけだ。

 夢想が凡庸な行為となる時、ドラマがおこる。他者との関係、社会との関係がある。仮に殺人というものが、犯罪であっても、やはりそれは行為であり、社会の中に起こるある事柄である。犯罪者が反社会を唱え、死刑になるまで世界に抵抗し続けたとしても、彼は抵抗という形式を通して、社会的な存在だ。

 社会は彼の首を刎ねる。その時、社会は刎ねられた首が自分の一部である事を感じざるを得ない。一方で、屋根裏部屋で寝転んでいるラスコーリニコフは、どんな存在でもない。彼は社会的存在ではない。反社会的存在でもない。彼はなにものでもない。だから、ラスコーリニコフが犯罪者という「なにものか」になるためには殺人という愚かしい行為が必要だった。ドストエフスキーはその事を見抜いていた。

 ドストエフスキーは、ラスコーリニコフという人物が作品内で解き放たれた時、どのような運命をたどるのか、よく見えていた。見えすぎるほどに見えていた。この場合、「見える」という意味はかなり難しい。というのも、ラスコーリニコフという人間の内面ですら十分複雑であるのに、その複雑な内容がどのような運命をたどるのかという事への洞察は、ラスコーリニコフを客観化する必要があるからだ。

 社会は個人を生む。どうあがいても、ラスコーリニコフの思想は社会が産んだ産物だ。ラスコーリニコフは当時のロシアが生んだ怪しい思想にかぶれている。ラスコーリニコフという個人は社会が生み、したがって、社会の方から彼を捉えれば、彼は容易に見える。このような観点がなければ、歴史学、社会学は成立不可能に見える。

 しかし、同時に個人もまた社会を見る。社会を洞察し、社会を意識する。ラスコーリニコフは屋根裏部屋でどんな事を考えていたのか。彼もまた、自身の思考の中に社会を、地球を、宇宙全体を丸め込んでいたに違いない。

 だが、そのように巨大な自意識を持つ人間もまた、人間社会において一人の人間として生きなければならない。それは意識にとっては諦めである。意識は社会全体を飲み込む事が可能だ。だが、それを飲み込んだ個人もまた、社会の中の一員として生きざるを得ない。
 
 社会の中の一員として生きるという事は凡庸な人にとってもっとも容易い事であるが、パスカル的人物にとってはもっとも受け入れがたいものだ。極言すれば、それは、凡人にとって極めて簡単に突破できる壁であり、天才にとってどうあがいても突破できない壁となる。凡人にとって簡単な事が天才には不可能なものとなる。

 ラスコーリニコフは、世界全体を十分に意識している。しかし、この人物は殺人を犯す。彼は殺人をどうして成そうと思ったのか。作品の構成からすれば、彼は自分の限界を知りたかったのだ。彼の意識は怪物的に彼を飲み込んでしまった。彼は自分を神のように思いなした。その時、彼の意識はそれに耐えられなかった。どうやら、自分は神ではない。その事を知る為に、彼は人を殺した、そうも言える。

 ニーチェの晩年の「この人を見よ」は狂気の発作が現れているが、この時、ニーチェは殺人を犯す前のラスコーリニコフに似ている。神を排除した以上、自分が神となるしかなかった悲劇がそこに現れている。だが、ニーチェは狂気に陥った己を見る事はできなかった。彼は自分を神と定義した為に、神に擬した自分自身を見る事ができなかった。悲劇はニーチェの外側に起こった。ドストエフスキーにおいて、作品構成として現れた悲劇は、ニーチェにおいては現実のものとして起こった。

 ラスコーリニコフは自分の限界を知る為に殺人を犯した。カントの鳩という哲学話がある。鳩が空中を飛翔している。真空のように抵抗がないところであれば、もっとうまく飛べると鳩は考える。鳩は大気圏を突き破って、真空の中に出るが、そこは抵抗がない為に飛ぶ事ができない。
 
 ラスコーリニコフはこの鳩に似ている。意識において万能であった己は社会においては一存在であるにすぎない。その事を、彼は知っていた。つまり、鳩は、真空に出れば死ぬ事を知っていた。それでも鳩は、真空に出なければならなかった。何故だろう。
 
 何故だろう、というこの問いには多分、誰も答える事ができない。実際、ドストエフスキーもこの問いに答えていない。原理的には、ラスコーリニコフの論理的知性は二つの、非論理的な要素によって支えられている。一つは、彼が殺人を犯す理由。もちろん、この理由には色々な意味付け、理由付けが成されているが、その根本は、謎であるし、謎であるのが答えだと僕は思っている。もう一つは、ラスコーリニコフが最後に改心する理由。最後に考えを改める場面を作者は、自然と偶然にまかせている。あらゆる必然と論理が破れる時にはじめて、自然が、偶然が彼を救う(破滅させる)という事は作者はよく知っていた。この「知っていた」というのは論理的に知っていたわけではない。ただ、作者はそう知っていたのだ。そうとしか言えないような形で知っていた。

 人間は有限な存在であるが、最初から自己の有限性を意識した人間はつまらない人間に違いない。最初から、うまく社会に適合しそこそこうまくやっていく人間はさして魅力がない。だが、ニーチェのような人物は魅力的かもしれないが、彼はほうっておくと、自分の思考のロケットに乗って宇宙の果てまで出ていってしまう。それは正しいのか? …そのような姿を外から捉えるのはやはり、凡人である我々の居場所からだ。ニーチェの悲劇がくっきりと見えるのは、みんながニーチェではないからだ。その差異に劇は起こる。

 ニーチェは自分自身を悲劇の主人公としたが、ドストエフスキーは自身をラスコーリニコフとはしなかった。彼自身がラスコーリニコフであった時期はあるだろうが、時間と粘り強さによって彼はラスコーリニコフを描く存在となった。論理と内的意識はその限界を示された。しかし、論理の限界を知る事ができるのは、それが無限だという誇大妄想を持ったものに限られる。理性の絶対的確信を持ち、走っていく事だけがその限界を知らせてくれる。巨大な望みを持った人間だけが、それによって突っ走る人間だけが、限界線を知る事ができる。

 最初から諦めている人間には諦めは訪れない。彼には欲求不満だけが訪れる。なんとなく、先があるような気がするが、自分はやる気がないからやらないという、不完全燃焼がある。こうした人物は利口ぶるが、彼は愚かになれないから、利口であるにすぎない。
  
 一方、望みを持ち、自意識を無限に膨らませていく人間は、それだけではただ、現実との差異に絶望するほかない。本当は、そうではない。現実が彼の意識についてこれないのではない。彼の意識と現実との間に常に差がある事が彼の運命であり、彼の望みですらある。彼はある点から自分自身を諦める。その諦めとは、願いが無限への願いだからこそ有限だという真理だ。この点に気付くと、彼は生きていく事ができる。この事を知らないと、彼はいつまでも夢の中で階段を無限上昇していく事になる。
 
 論理の両端には論理ではないものが控えている。論理を「こんなもの」と考える人間はその限界に触れる事ができない。社会において生きる事を安易に受取り、そこにたやすく迎合する人間は社会の限界にも自分の限界にも触れる事はない。自分の限界を知ろうとして、社会の外に出ようとして挫折した人間ーーそんな人間がいれば、彼には、社会において生きるという言葉の意味がわかるだろう。ロビンソン・クルーソーは一人で孤島に行っても、やはり近代人でありイギリス人だった。彼には社会において生きるという意味はわからなかったかもしれない。それは、彼が孤島においても一つの社会であったからだ。

 社会の内に生きるという意味を知る事ができるのは、そこから一度出た人間に限られる。だが、そんな事は不可能だ。孤島に百年いたって不可能だ。だが、その不可能を知る事が結果としては、彼を生かす事になる。自分の限界を知る事が他者との関係の内にしか生きられないという事を教える。そういう物語をドストエフスキーは「罪と罰」という作品で作ったのだと思う。最近のリアリズム小説では、スタート地点からうまく社会に適合している為に、その生に何の意味があるのかわからない。ただ生きているだけだ。一方で、ライトノベルは現実から離反して夢想するが、夢想は欲望の代替にとどまり、「理想」にまで到達しない。どっちでもない道を行く事ができるか。そう考えた時に、ドストエフスキーは未だに…興味ある素材であるように思える。

物語の嘘くささと時間に関する中途半端な論考


物語の嘘くささと時間に関する中途半端な論考



読むにしても書くにしても、「物語」というのはどうも嘘くさいと以前から感じていた。自分自身の書くものに対してそう感じてきたので、書いては消す、書いては消す、という期間が過去に結構あった。

物語というのに嘘くささを感じるのは、映画を見る時もそうで、物語が導入される前の細かい描写、細かな生活感とかキャラクターの感情がうまく表出されていると愉しく見られるのだが、物語が導入されはじめると急にその人工的な手つきが気になって、見えなくなってしまう。こういう気持ちは個人的なもので、一般性はないのかもしれないが、続けて考えてみよう。

最近だと東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」という小説がそうだった。「クォンタム・ファミリーズ」は決して低次元の作品ではないが、途中から作者が物語を導入しはじめたなという、その手つきが見えてくると読む気がなくなって読むのをやめてしまった。作者が登場人物を自分が作った物語の中に放り込む時、どうしても登場人物は硬化してしまうという現象があるのではないかと思う。それは、人間は本来、自由であり自分の内面があるのに、それを作者が自分の決めた路線に強引に押し込めようとする時に起こる仕方ない現象であるように見える。

別に東浩紀を批判したいつもりでもないので、話を進める。

物語の嘘くささを現実の問題として捉えていく事にする。人間の存在を考えてみると、人間は完全に自由なわけではないが、完全に不自由なわけでもない。未来が確定的に決まっているわけでもないが、同時に、全く決まっていないというわけでもない。

何故そんな風に見るかと言うと、例えば、僕という存在を例にとって考えてみよう。僕がこの先、小説家になる未来はあるかもしれない。なれない未来も当然あるが、小説を書いたり書かなかったり、そこで成功したり失敗したりという未来は予想される。だが、僕が歩いて月に到達する未来は考えられないし、数学者になる未来もまず考えられない。現時点の僕の存在が未来に対してある程度、可能性を絞っている。今の存在が未来の存在を予知している。しかし、それは完全な予知ではない。

人間には資質とか方向性というものがある。これは身体的な問題も含まれる。人間というのは、自我意識に目覚めた時には既にある程度の方向性が決まっている。仮にこの社会が全く自由なもので、自分の努力次第で何にでもなれる存在だとしても、自分の存在自体、最初からある程度決定されている。その決定からまた次の決定がぼんやり予期できる。つまり、人間の生涯は白紙に自分を描いていくものではない。全くの白紙に自己を思い描く事はできない。だが、全く決められた経路を辿るわけでもない。自分の資質とか運命とかを感じながら、それと終始葛藤していくのが人の人生であると思う。

問題は、ここから起こる。こうした、葛藤した個人を客体的に見ると、その人間はある経路を通っているように見える。未来の観点に立つと、過去の人間はみんな、それを望んでそう意思して生きたような気がしてくる。アンネ・フランクが少女のまま死んだのは彼女の確定的な運命だった気がする。が、彼女が生存している立場に立つと、彼女はどれほど生きたかったかわからない。生きられる可能性だってあった。現実にはそうならなかった。この時、アンネの内面に立つ事と、結果としてアンネが死ぬ事は、フィクション作品の中ではどのように整合が取れるのだろうか?

作家が物語を作り、その経路にキャラクターを従わせる時、作家は未来の観点に立っている。彼は確定的な過去というものを知っている。だから、アンネ・フランクの人生を題材にして描く場合、彼女の死に焦点を絞って描く事ができる。しかし、アンネ・フランク自身は自分の死に焦点を当てて生きる事はできない。彼女は別に自殺したわけではないし、彼女の死は彼女の外側にあった。そこでは、彼女の内面は意識として様々に展開されるものの、死はその外側にある。

「アンネの日記」を読む人は、そこに若いままに死んだかわいそうな彼女の姿を見る。だが、日記を書いているアンネにはその姿は見えていない。彼女は生きたかったはずだ。彼女の内面は広がっていき、自分の意識について意識している。それをノートに書き付ける。が、読者はそれを彼女が死んだという事実の場所から覗く。

物語の嘘くささというものを僕が感じるのは、登場人物は本来、ある程度の自由を持っているにも関わらず、作者が登場人物を強引に自分の作った物語の中に引き込むからだと思う。実際、物語性があるにも関わらず、物語の嘘くささを感じない小説というのは存在する。



物語というのは、起こった出来事の連続性でもあるし、時間というのが順序よく継起していくという事でもある。物語の渦中にいる人間というのは結末を知らないのに、作者は結末を知っている。

作者は未来の場所に立っている。一方、登場人物、主人公は過去のある一点に立っている。作者は主人公に対して絶対有利な立場に立っている。この時、作者は自分を、世界を創る創造主であるように感じられる。

これに関しては見方を変える事もできる。仮に神がこの世界を、我々を作ったのだとしても、そこに我々に全く自由がないとは限らない。というのは、我々がある資質、存在、肉体を与えられたという事実は、全て神の創意によるとしても、そこからどのように発展していくかは神にも決められない。例えば、僕が文学的資質を与えられたとしよう。その僕がいきなり数学者になる事を決意したとしたら妙である。神が与えた文学的資質なるものに、僕の決意は反する事になる。そして神がそのような転向を意図して与えたとしても、それは最初に神が与えた資質に反するからやはり奇妙である。それにそんな事ばかり神がしているのであれば、神はわざわざ僕を創る必要はなかった。神には自分の意志と命令のままに動くロボットがあればいいのであって、僕という独立した意識を持つ存在を創る必要はなかっただろう。

作者は登場人物をどのようにも作る事ができる。どんな突飛な設定も付け足す事ができる。だが、一度与えられた設定は登場人物においては、自分のものとする。登場人物はもちろん、単なる記号であるから、自分の内面とか意識とかは持たない。それでも登場人物は自分に与えられたものを守ろうとする。単純な設定ーー例えば、光に弱い主人公がいると、主人公が平然と太陽の下に出てくる事は許されない。作者が好き勝手にそういう描写をする事はできるが、それは作者が最初に与えた設定自体に反する。そうなると、そこには不自然さが出てくる。

主人公が光に弱いという設定そのものは単純なものだが、これが人間の性格ーー内面とかいうものになると、一気に複雑なものになる。だから、物語を作る上では単純な設定にしておいた方が、作りやすい。登場人物がそれぞれ自分の自由を感じつつ動いてこられたら、作者の脳内の処理能力が追いつかなくなる。

もう一度、スタート地点に戻って考える。作者は作品を作り、登場人物を動かして物語を作る。その際、登場人物は何らかの存在を与えられる。登場人物はその存在に規定されて動く。もし登場人物が存在として規定されないと、登場人物は登場人物ではない。登場人物は物語という時間軸内で他者と関わり、それによって自己を決定していく。

通常の物語は決定されていた自己が運動しある地点に到達するものだが、ドストエフスキー「罪と場」ではそもそも未決定にとどまっている主人公が他者との関わり(殺人という行為を媒介とし)によって自己を決定していくのが物語そのものと言える。つまり、ラスコーリニコフにとっては未決定な自己を決定していくのが物語であり、普通の物語がスタートする地点に到達するのが「罪と罰」なのだ。だがこの場合でも、ドストエフスキーはラスコーリニコフという青年にある設定を与えている。それは「未決定」という決定である。ラスコーリニコフは自ら未決定な存在であるが、やむなく、それを社会の中で意味あるものとして決定していくはめになる。未決定を決定するという難しい技をドストエフスキーは長い苦難の末に手に入れたと見る事ができる。

さて、やたら長々と書いてしまって、自分でも混乱してきたので、結論を書いてこの文章を終わらせる事にする。




物語というものを作る際に発生する嘘くささというのは一体どこから来ているか。それは作者が全能の顔をして登場人物を統御しだす手つきが視聴者にも見えてしまうからだ。これへの対処法として、自分は時間を二つに割って考えるという手法を取りたい。時間を二つ……この場合、それは二つの線で表される。一つは過去から未来へ向かう線であり、もうひとつは未来から過去へ向かう線だ。

登場人物は通常、自分達の物語の結末を知らない。作者だけが結末を知っており、作者は登場人物を動かして結末に持っていく。これは時間継起を過去から現在、現在から未来へと考えていく通常の時間観と適合する。こうした見方を一部変更する。

登場人物は、自分の資質や方向性について自覚的なものとする。登場人物、特に主人公は己が何かという事を知ろうとし、知ろうと務める。その事から、未来は、おぼろげな予測として感じられる。未来は予知されるのではなく、自分の資質や方向性から予測されるようなものとして感じられる。

一方で、同時に、主人公は未来に逆らう事も可能である。自分の存在から考えられる未来可能性にわざと反する事もできる。僕の例で言えば、あえて数学者になろうとする道もありうる。あえて、月まで徒歩で歩こうとする道もある。だが、それは自分自身の資質から来る予測性と反する。最後にはきっと、自分の予測の範囲にとどまる運命を甘受するだろう。僕の物語の作り方としてはそういうものを考えている。

人間は意識を持っている。そこで自分についての洞察も出てくるが、自分というものから離反するという事もある。離反しようとする意識もまた、一つの運命であるという視点というのは、主人公に持つ事ができない視点である。作者はこれを持つ。一方で、主人公や登場人物は自分を生きようとする。普通の人物であれば、固定的な性格、性別、社会的存在を演じる。だが、これに反しようとする事もまた人間のする事だ。これらを統一的に見る視野が作家には要求される。

過去は現在を通じ、未来へと通っていく。今の僕は将来を予知ではない。が、ぼんやりと予測する事はできる。

現在から見れば、過去の人物がどのような経路を通り、どんな運命を辿ったか、明確にわかる。歴史小説を書く上ではこれは極めて有利だ。歴史の中の人物は自由ではない。運命は確定した。未来から過去を描く視点は、過去からすれば、彼らの未来を予知できるのと同じ事だ。しかしながら、過去の人々の内側に目を向けると、彼らもまた我々と同時に自由であった。その自由性と、彼らの運命の確定性はどこで調和させられる事ができるか。それを自分は……人間が自分の資質や方向性についてある程度知っているという事、人間が自分の未来についてある程度予測できるという事、それと、そのような人物が現にそのように生きたという事実性を未来から描くーーつまり、人間を未来から過去に向かう視点と、過去から未来に向かう内的視点の同時性によって確保したいと思っている。

整理する。人間はただ自由なだけの存在ではない。人間は遺伝子・環境・身体・資質など、様々な要因によって最初から規定されている。幼少期は自分の意志が通じる場面はほとんどない。その期間を通じて自分は形成される。

形成された自己から、自分の未来についておぼろげに考える事もできる。決められた自己から未来の自分を決めていく。過去は未来を拘束する。だが、未来もまた自分を主張する事はできる。過去の因果から、未来は自由になろうとする。人は意志を持って自分を変えようとする。この葛藤そのもの、つまり、過去と未来が現在という場で戦うという現象そのものが物語を織りなすと考えたい。その場合、通常の意味での物語は、登場人物によって意識的に取り込まれるという手法を取る。つまり、普通の意味での物語を登場人物は知っている。

僕らはテンプレ的な物語をテンプレとして見る。それはそれ以前の沢山の物語を知っているからだ。テンプレの物語が成立するのは、登場人物達が自分をテンプレだとは知らないからだ。だが、自分をテンプレだと知った主人公のたどる物語はテンプレではない物語となるだろう。表面的な形式ではテンプレだとしても、それを知った主人公がそれを越えようとする時、そこにはテンプレではないものが現れるはずだ。

ややこしい話になってしまったが、イメージしているのはそれほど難しいものではない。

年を取ると、僕らには過去が見えてくる。誰がどんな運命を辿ったのか、わかってくる。若い頃には未来が見えている。未来は可能性に見える。

若い頃の自分の思い描いた夢をそのまま実現したとしても、そのままハッピーな事ではない。なぜなら、夢は何らかの形で具現化されてしまったからだ。思い描いていた自分が実際に具現化されると、具現化されたという事実だけによっても、イメージとは違うものとなる。具現化された現実は現実として定在している。大富豪になる事を夢見て努力し、その通りになって年を取って自分が大富豪である事を感じる。満足もあるだろうが、得たものを感じるのが若い頃と変わらない自分の意識であると感じる時、自分が追っていたものはなんだったのかと思わざるを得ない。

老境の地点から若者を眺める。あるいは現在から歴史的過去を眺める。過去は一筋の物語を持っている。一方、その地点から未来を眺めれば世界は可能性に満ちている。色々な道が予測される。

人間は意識ある存在であるから自分の中に色々なものを持っている。これを明晰に書きつくしたいと思うとプルーストのように、起きてぼんやりしている間だけで多量の原稿用紙を使わなければならない。一方で、そのような無限性を持っている自分というのも未来のある一点から見ると一つの運命を辿ったように見える。

物語ーー小説というものをどういう風に考えるかというと、この二つの要素、二つの場所から挟み取るようにして、人間をすくいあげるという事になる。個人は自由であるが、その自由には傾向性がある。個人はその傾向性に反する事も許されるが、最後には自分というものを社会の中で位置付けしていく事になる。具体的に言うと、社会に抗して自由であろうとする人間(他者との関係の中でも自由であろうとする人間)が、次第に自分自身を一つの物語として決定していく物語という事になる。何故、自由は最終的に不自由な方向へ決定されていくのか。それは人間には「死」があって強引に、その人物を規定するからとも言えるし、その事には理由はない、ただ、人間は無限の自由には耐えられないからだ、とも言える。(永遠に続くように思われたプルーストの小説も最後にはオーソドックスなポイントに収斂された。プルースト自身の死と共鳴するように、主人公は自己を一つの点に位置づけた)

人間の自由は未来への広がりとしてあり、それを意識に対する絶えざる記述(モダニズム的な)とする場合、その記述は構成を取る事が難しくなる。近代から現代への文学の変化は、自己を定式化する事より、自己の内面領域を広げる方向に進んだが、例えその方向が正しくても、そうして広がった内面を持った個人はやはり、社会の中での定在としての自己を生きる事に変わりははない。そこに物語が生まれる機縁がありそうだ。

過去は既に在る。未来はまだない。だから可能性に見えるが、未来もまた過去に変わるだろう。人間は自分自身を生き、どのような事にも反抗できる。反抗の意志は無限だが、現実的な反抗は必ず結末を持つ。反抗、自由への意志は最後には、意志か諦念かという二択に行き着くように思う。

ソポクレスや漱石、シェイクスピアらの作品に見られる運命と自由の弁証法は現代に視点を移し替えると、自我意識が他者との関係により、一つの定在に置き換わる形に見える。

作家は確かに登場人物よりも多くの事を知っている。だが、登場人物もまた自分自身の運命を知っている。登場人物を簡単に統御しようとすると、登場人物自体の存在から反駁を受ける。反駁を目にすると、物語は不自然になる。ここで何らかの形で、自由と不自由を作家内部で、整合を取らなければならない。

整合の取り方としては、個人の内面を無視する事なく、なおかつそれを客体的に取る、言ってみれば四次元的な視点を得るという事になる。単に過去から未来へと時間の糸が伸びているのではなく、未来は自由への反抗、予感として登場人物(主人公)には感じられている。だからこそ、その物語は、単に作者が弄り回したものには見えない。少なくとも、そうなる事が希望されている。

今までは時間を例に取って言っていたが、これは言い換えれば、物語が成立する根拠を登場人物(主人公)が握っているという事でもある。彼は自分が何故そうするのか知っている。あるいは、何故、そうしたがらないかを知っている。しかし、知識や感性は物語ではない。物語を知っている事は物語ではない。だが、何も知らない登場人物を、作者の作った簡単なレール上を走らせるのは簡単な物語であるにすぎない。主人公はある意味で作者を圧倒する存在でなければならない。そのような主人公をうまく統御し、この猛獣をうまく飼いならす事が可能になってくると、読者の目からも納得できる作品構造ーー物語性ーーが現れてくる。

…とやたら、ごちゃごちゃ書いてしまったが、思ったよりわけのわからない文章になってしまった。疲れたので、このあたりでこの文章はやめる事にする。本当に、疲れた。

 折口信夫と柳田国男


 折口信夫と柳田国男を読み返している。と言っても、二人の本をまともに読める教養はないので、関心のある所、わかる範囲で読んでいる。

 柳田国男と折口信夫の二人は、基本的に立派な学者という事になっている。それは事実だろうが、読んでいてふと、それだけではないのではないかと思った。二人のやっている事はむしろ、ニーチェのような存在に近いのではないかという気がする。穏健かつがっしりとした柳田国男のような存在も実は、かなり思想性が強く、その主張の為に古代日本がクローズアップされたというように見える。

 柳田の書いているのを読んでふと、昔の日本はそんなに素晴らしいものだったろうか、と疑問を抱いた。もちろん、柳田も単純に昔を神聖化しているわけではない。それにただ年を取って、懐古に耽っているのでもない。柳田国男は当時の日本に近代西洋が入り込むのをよく知っていたし、西洋近代というのも知り抜いていた。だが、柳田は知り抜いており、将来の日本がますます西洋化すると分かっていたからこそあえて、昔の日本というものを意図的に理想化して取り上げたように見える。つまり、過去を一つの定在として、現在への異議、主張とする。それによって来たるべき未来を(見えない形で)指し示す。そのようなスタイルは、穏健な学者というよりは、ニーチェとかマックス・ウェーバーに近いスタイルではないかと思う。

 だから、以前は昔の日本を知る為に柳田国男や折口信夫を読んでいたのがそれはある意味で危険ではないか。折口には常に異郷、ないし、まれびとの概念があった。しかし、異郷は観察者がこちら側にいる上で異郷であるし、まれびとも、外から来る上でまれびとである。折口にとって古代日本は、現在から見たまれびとだった。古代日本は、今とは違う一つの場所だった。だからこそ、そこには沢山の意味があった。折口ももちろん、同時代の文学などは知り抜いていた。だが、それと同時に古代に目を向けていた。

 今から考えると、古代日本を探り出せる最後の機会に、二人の天才学者は洞察を深くしたように見える。今、僕が田舎に行って民俗調査をしても、得られる事は限られている。古い日本が消失していく過程で、その過程に自覚的であるからこそ、二人の天才ーーナショナリストは生まれたのではないか。だとすると、彼らは「日本」が消滅していくからこそ、「日本」を発見したという事になる。僕には二人の姿は悲劇的なものを背負っているように見える。それゆえに魅力も感じる。

 今はナショナリズムが流行ってきているので、日本礼賛の声も聞こえる。僕は日本生まれの日本人だが、かねがね、日本という国を遠いものに感じてきた。日本文化、日本思想、そういうものが身近に感じられないと感じてきた。例えば、モンテーニュのエセーを読んでいて、現代に通じるヒューマニズムが見られたのだが、僕にとってはモンテーニュやパスカルを読む方が荻生徂徠を読むよりわかりやすい。

 過去の日本との間に大きな隔たりがあって、むしろ、近代西洋とか近代ロシア文学なんかの方が、隔たりが少ない。日本古典の間にはいくつものフィルターがあって、それを破らなければ到達できないし、どっちにしろ、古い日本を僕らは西洋近代の目で見ている。自分の居場所に自覚的になるほど、日本人であるのに日本は遠い国だという気持ちになる。

 古い日本、古代日本はどのようなものだったのだろうか。柳田国男は江戸時代を退廃し、爛熟した時代とみなしていたが、これはつまり、江戸時代は「新しすぎる」という事になるのだろうと思う。より良いものは江戸時代以前にある。しかし、僕らにとって江戸時代は「古き良き日本」であるように思える。このようなズレはどこまで行くのだろうか。

 三大投資家でジム・ロジャーズという人がいるが、彼が「自分は古い黄金時代なんてなかったと思っている」と言っていて感心した。非常に微妙な所だが、僕もそうだと思っている。

 あるいはもっと違う事を言った方がいいのかもしれない。古代ギリシャを理想化したり、古代日本を理想化して、歌い上げる事ができるのは、他者の時代ーーつまり、古代ギリシャや古代日本とは違う時代に立たなければならないという事だ。古代ギリシャの只中にいて、それ自体を自覚的に歌い上げる事はできない。いつでも、ある時代に生きて、その中から時代を見ると、混乱した時代に見えるはずだ。いつも、その時代はとらえどころのない、不完全な時代にも思える。そこから過去を懐古したり、未来を憧憬したりする。しかし、その未来も過去も、そこに行けばそこはやはり混乱した現在であるにすぎない。

 この矛盾した考えをどうすればいいか。柳田や折口の言っている事は嘘ではない。真実である。だが、それはよその時代から眺められ、そこに入り込んだ時に始めて見えてくる時代性である。だから、僕らは「古代から学べ」と言えても、「古代に戻れ」とは言えない。ゲーテは談話の中で将来のドイツが今より良くなる事を希望していたが、第二次大戦の後、有名な歴史学者は「ゲーテ時代に帰れ」と言った。しかし、時代は帰る事ができない。ゲーテ時代が素晴らしい時代だというのは、それが失われて始めて気づくものなのだろう。僕らは過去を賛美する事も貶す事もできる。しかし、現在を廃棄する事はできない。

 結論から言うと、折口信夫や柳田国男の残した著作はどうやって未来に役立てればいいか、なかなかわかっていないように思う。過去の制度、文化をそのまま尊んで残しても、周辺事情が変わっている為に、そのまま通用しない。形だけが無残に残り、国が金を出して、本人達も何故それをしているのかわからず、「日本の伝統だから」という事でなんとなくやっているという事になりかねない。伝統文化も当時は、当時の現在に合わせてできたものだった。時代が変われば形が変わるのはやむを得ないと思う。

 大きく言うと、過去の形式だとか、個人の知恵だというのは抽象化して現在に生かしていくしかないのではないかと思っている。古人のした形よりも、古人が何故それをしたのか、そこには現代の人間が忘れている知恵があるのではないか、というように。言葉というのも、古い言葉に詩性を感じる事もある。だが、その言葉をそのまま使うのは難しい。それがどのように使われていたのかを洞察しつつ、現在にない倫理や習俗の良い部分を自分のものとして進んでいくしかないのではないか。現在は全ての物のスピードが早いために、今この瞬間に閉じこもりがちになる。「今」だけが全てになる。絶えずアップデートされるソフトウェアのように、絶えず「今」が上書きされていく。

 そうした時代でも「過去」を洞察する事で、また「時間」が生まれるのではないか。その際、「時間」と呼ぶものはおそらく、個人の可能性を広げるのではなく、可能性の臨界点を示すものになると思う。モダニズムはじめとして、近現代の思想は個の自立と自由を大きく誇張した為に、全てがそれぞれの離散した自己意識に収斂される事になった。自己意識が己の限界を感じる所に、過去の人からの恩恵、未来において子孫ないし他者がすべき事、そういうものが見えてくるように思う。そういう観点からも柳田国男や折口信夫から学ぶ事ができるだろう。

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