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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

ブログ移転のお知らせ

新ブログ 「物と精神」


言い忘れておりましたが、ブログ移転しました。もしくはプロフィール欄にある「なろう」のサイトに最近の記事は載せています。

ニコニコのブロマガの方は、プレミアム会員を辞める可能性があるので、突然更新停止するかもしれません。

よろしくお願いします

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あけましておめでとうございます

広告消しの為に新規投稿します。

こっちに4日くらい連続で投稿します

https://mypage.syosetu.com/213983/

monogatary_comにて連載スタート

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ソニー・ミュージック様からお誘い受けて、monogatary_comの方に「聖域追放」という作品を連載する事になりました。ニートの話です。よろしくお願いします。

https://monogatary.com/story_view/124

本ブログを見ている少数の読者へ


 ブログのコメント欄を承認制にしました。何度言っても同じ人物が長文の批判コメントを送ってくるのでやむなく変えました。

 場合によってはこの先、コメント欄全面廃止も考えられますが、そんな事はあまりやりたくありません。

 ブログは一対一の通信ではなく他にも見ている人がいるので、配慮してほしかったのですが、駄目でした。

 とりあえず、ブログはいつもどおり続けていこうとは思っています。様子見をしながらやっていこうと思っています。またこのような事がある場合はその時に考えたいと思っています。こんな事は書かずに淡々と更新していきたかったのですが、ここで仕切り直しにしたほうが良さそうだと思ってこの文章書きました。




 本ブログを見ている少数の読者へ

 これからもよろしくお願いします。また相手の存在を配慮した言説をお願いします。僕は自分の考えた事、思った事を発信していますが、それを他人に押し付ける気はありません。それぞれがそれぞれに受け取って自由に、捨てるなり拾うなりして活用していってもらえばよいかと思います。よろしくお願いします。

コメントを承認制にします

もうやめて欲しいと言っているのに何度も同一人物がコメントをしてきたため、コメントを承認制にします。ご了承ください。普通にコメント貰えれば承認する予定です。

文学」というジャンルは存在するか




 少し前から「そもそも文学というジャンルは存在するだろうか?」と疑問に思っていた。例えば、インドの神話「バガヴァッド・ギーター」から村上春樹の最新作まで、くくろうと思えば「文学」というジャンルとしてくくれてしまう。これは非常に大雑把なくくりではあるが、括る事は可能である。先に、具体的な作品としてあるものを概念で括るとそこに動かしがたい統一性が必ずあるような気がするが、果たしてこれはそんなに安易に前提してよいものだろうか? 
 
 また、もうひとつは最近の作家が普通に「文学というものの良さを感じてもらいたい」なんて言うという事だ。平野啓一郎や中村文則や青山七恵がやっているのが「文学」であるなら、ドストエフスキーも夏目漱石も同じ「文学」であり、たしかに質の違いはあるかもしれないが、やっている事は同じである。それは、一般の文学に興味のない人からすればそう見えるだろうし、みんな「作家」の括りには入れられるだろう。しかし、それは本当にそうなのだろうか。

 ミハイル・バフチンはドストエフスキーの成した事をアインシュタインのした事に比べていたが、僕はバフチンの言う事は正しいと思う。小林秀雄もドストエフスキーを批評するにあたって、科学のパラダイム転換を例としていた。

 つまり、僕はこんな風に考えている。ドストエフスキーと似ているのは、ドストエフスキーに影響を受けた中村文則や平野啓一郎ではなくて、ぜんぜん違うジャンルで偉大な仕事をしたアインシュタインのような存在であると。知性というのは上の方に行くほど、固有の領域を抜け出して、妙な山頂へと辿り着く。その領域では、それぞれがジャンルを越えて、相互に影響し合う事が可能である。

 ただ、ドストエフスキーがアインシュタインに似ているかどうかというのはここでは主要な問題ではない。話を文学に戻そう。

 例えば、村上春樹がドストエフスキーのような「総合小説」を書きたいと思って書いた作品が実際には「総合小説」にはならず、それなりによくできたエンタメ小説になってしまう事。これはどこに問題があるだろうか。朝吹真理子が「無色透明の言葉を届けたい」みたいにインタビューで言っていたが、果たしてそんな言葉はこの世界に存在するのか。

 「この先、文学はどうなるのか?」という気の抜けた座談会なんてのもそうだが、そもそも文学というものを十分に定義でき、それらを弄び、それらの内部に入ればそれなりのーーつまりは、バルザックやドストエフスキーの仲間入りできるという考えそれ自体に問題があるのではないか、と自分は考えている。

 今の社会というものは消費社会であり、発展途上の社会というよりは、ある程度発展しきったような社会となっている。百年くらい前には、日本には近代文学というものがそもそも何かよくわかっていなかった。だから初期の文学者はみんな語学ができたし、漱石と鴎外は海外留学している。彼らはそもそも文学というジャンルがないから、それを作る事に邁進した。漱石の「自己本位」は自らの手で、自前の文学を作らなければならないという意図にもとづいている。

 芸術というのは不思議な所がある。普通、科学技術であれば、積み重ねがあるので、過去よりも今の技術が飛び抜けて劣っているという事は考えられない。だが、芸術という領域では、積み重ねた上で良いものが出てくるとは素直に言えない。非常に大きな視点で見るとそう言えるかもしれないが、今のロシアにドストエフスキー、トルストイ以上の作家がいるとは考えにくいし、今の日本に漱石以上の作家、作品があるとは考えにくい。もちろん、科学でも今はアインシュタインはいないかもしれないが、少なくとも、科学においてはアインシュタインの定理は消化済みであって、その積み重ねの上で新たな問題・答えが出て来る。

 芸術はそれぞれの個性に基づいているところと、社会・時代の必然的状態が絡み合っているので一概に「こうすべき」とは言えない。

 夏目漱石らが尽力して、また各種の海外の古典などが翻訳され、知識として蓄積され、日本の近代文学というものは成立した。漱石以降の作家ももちろんこの歴史に名を連ね、彼らが日本の文学というはこういうものだと言えるだけのものを、質・量ともに成してくれた。

 本屋で文芸誌を読んでいた時に、韓国の批評家のインタビューが載っていて、非常に面白く読んだ覚えがある。その批評家の話では、韓国にはきっちりと歴史が書けるような「韓国近代文学」と呼べるものははっきりないと言う。また自分が意外だったのが、その人は日本の文学を、ロシア文学やイギリス文学と並列的に話していたという事だ。

 自分は日本人で、日本から出た事のない井戸の底の蛙なので、日本について妙に卑下する所もあるが、その批評家の話を聞いてなるほどなあ、と感じた。つまり、隣の韓国からすれば、日本の近代文学はそれなりによく整ったものなのだ。(その批評家は更に、近代文学は植民地を持った事のある「帝国」でしか成立しないと重要な指摘をしていたが、それは本稿では関係ないので省く)

 さて、話を最初に戻す。この文章のタイトルは「文学というジャンルは存在するか」という煽りっぽいものだが、これはそんなジャンルが存在しないと言いたいのではない。文学というジャンルを所与のものとみなし、その領域に潜り込んでそれなりの事をすれば(賞をもらったり本を出したり、という事も含む)、自分も文学というものの歴史の中の一つになれる…そういう安易な考えが今の文学をイミテーションじみたものにしているのではないか、という事だ。

 日本の文学の歴史は確かにそれなりのものがある。しかし、それを所与のものとみなし、「これから文学はどうなるか?」などと、あたかも自分達が文学全体を背負っているかのように安易に発言できるという事に問題がある。ドストエフスキーの台詞回しを真似しただけで、自分もドストエフスキーと同じような主題を捉えていると考える事に問題がある。

 現状の「純文学」と呼ばれているものは、エンターテイメント小説、ライトノベルと全く同様の地平に立っていると僕は思っている。なぜそんな風になっているかというと、現状、僕達は消費社会の上に乗っかっていて、その中で自分達を「楽しませるもの」を模索している。自分達が立っている場所、自分とは何か、世界とは何かとは考えずに、自分や世界を所与のものと無意識的にみなしている。この場所から、右に萌えアニメ、左に純文学という風に平行的に移動していっても事態はさほど変わらない。それらの事は消費社会の中で、僕らが自分達の存在について掘り崩す事なく、安易に享受し、消費し、忘れ去られる何かとして流れていくだろう。

 村上春樹にとって安住の地は、八十年代の東京だったと思う。バーで親友とビールを飲み、女を口説いてホテルに行く。それなりに経済力があって、家ではレコードを聞き、本を読み、パスタを茹でる。一方、最近のアニメは学園モノがほとんどを占めている。学校に行って美少女に囲まれ、時たま、用意されたゲーム的危機を切り抜ける。それらはまるで永遠のように、恒常的に存在するように思える。そこで舞台となっている場所、生活は僕達にとって永遠のようでもあるし、永遠であって欲しいという僕らの願いをフィクションという形で実現しているように見える。
  
 しかし、どうもそれは嘘ではないか、と僕は思う。この嘘に気づく事から色々な事が始まるのではないか。

 朝吹真理子は「無色透明の言葉を届けたい」と言っていたが、彼女は自分がどの地平に立ってそんな言葉を模索しているのかとは考えない。おそらくそんな言葉を自由に追いかけられるという、恵まれた立場に我々はいるが、我々の文学は自分達が恵まれた立場にいるからこそ貧しいものとなってるのではないか、と思う。存在しないのは技術や知識ではなくて、「自己本位」という自己認識である。しかし、自己認識に至る途中の通路で、「文学的」なるものに作家の意識は吸収されてしまう。なぜ文学なるものができたのか、その成立に思いが至る前に、文学的な、歴史的な層の上澄みをすくう事で満足してしまう。

 「文学」という言葉を使うとそういうジャンルが概念として成立済みであるように思えてくるが、実際の所、僕達はそうしたものを読んだり書いたりする事によって、そのジャンルそれ自体を成立させていっている。そんな風に考えた方がまだ良いように思う。芸術の形式は普遍的・本質的だという発想から、ジャンルや形式の固定化が始まり、それは国の補助費や社会制度として更に固定化される。それは人間の認識に根ざした行為ではある。人は本質的に保守的であり、変化、創造というものを捉える事が苦手だ。だから過去から様々なものを定義し、固定化し、そこに自らを適合させようとする。その事の内に、自分の過去との繋がり、創造性なるものがある気がするが、過去の偉大な芸術家らがなぜ、どのようにしてそうしたかという問いは忘れ去られる。人は見たいものだけを見る。だから、自分が現代のあり方にのっかてエンタメ作品を書いていても心理的にはバルザックやドストエフスキーとつながっているように感じる。

 「文学」というジャンルを所与のものとしてみなし、そこで日常の心理を微細に描いたり、やたら深刻ぶったりしてみるという事と、自分達が存在し、生活している立場、居場所を疑わないという事は同一の現象だとおもう。言い換えると、小説を書いて新人賞を取るという行為は、頑張って就活して大企業に入るのと同じ事になった。大企業の目的について、その方向性について、それが何を生み出し、社会の中でどう機能しているのか、そうした大事については考えない。考えるのは「試験に受かった」という事実だけであり、自分の待遇と、「ホワイト企業かブラック企業か」という二択問題だけである。

 同様に文学において、それそのものについては考えないが、それを弄びはする。漱石が最初から日本文学を成立させる為に払った労苦については考えられず、漱石の作品の形式についてのみ語られる。村上春樹がドストエフスキー「悪霊」のキャラクターが多様で面白いと言っていたが、村上春樹はドストエフスキーの深遠な問題、人間の理性、神、キリスト、ロシア土着性などといった問題については決して考えないだろう。それらの問題はドストエフスキーにとって彼の存在の根底をなす重大な問題だったが、今の僕達がそれらの問題を取り扱おうとすると、いかにも本で読みかじった知識を披露するという程度に留まってしまう。つまりはドストエフスキーにとっての深刻な問題はうんちくレベルの話となってしまう。

 うんちくレベルの話しになるのはまあ仕方ないが、なぜそれはそうなるか、という問いを現代の僕らは持つしかないように思う。そしてこうした事はまずーー文学というジャンルを所与のものとしてみなすという事が問題となっている。おそらく、新しく文学というジャンルに何かを付け加える人物は、それを蹴り飛ばすようにして現れてくるだろう。「真に哲学するとは哲学をバカにする事だ」とパスカルは言ったが、それは文学にも当てはまるだろう。現状では、タレントが作家になったり、作家がタレントになったりして、多少売上を伸ばして耳目を集め、「文学は盛り上がってきた」という見かけを作るくらいしかやる事がない。そしてそうした見かけの製造の為に、根底的な事はいつも世間の陰で忘れられていくのだろう。
 

The Red Diptychというブログ

タイトルのブログを今読んでいますが、非常に面白いです。コメントとか拍手が結構ついているので、その界隈(?)では有名なのかもしれませんが、今日はじめて気付きました。URLはhttp://howardhoax.blog.fc2.com/


読んでいて、色々目から鱗が落ちる所がありました。例えば


「近代小説を書き作中で描写をなす小説家は、そもそもの前提として、国民国家によって準備された百科全書が作品の外部に存在していることを必要とする。ある言葉がいかなる対象を指示するのかが固定され、その国民国家の内部で合意が形成されており安定して流通することが自明の条件となっているからこそ、小説家は言葉によって描写をすることができる。

 十九世紀、ヨーロッパ各国で近代小説が確固たるものに形成されゆくその渦中で、例えばメルヴィルは『白鯨』のごとき異様な小説を書いた。……これはつまり、メルヴィルは国民国家によって事前に準備された百科全書を自明の前提としなかったがゆえに、自ら鯨に関する百科全書を編纂してゼロから文脈を形成するそのプロセスをも含み込む形でしか小説を書くことができなかったということではないかと思うのだ。(略)

 アメリカは単一民族・単一言語の国民国家を形成することが不可能な場所であったからこそ、ヨーロッパ型の近代小説にとって完全なオルタナティヴとなるメルヴィルのような存在を生み出し得たのではないか。


こういう洞察はオリジナルなものなのか、誰かの影響、流れで言っているのか、僕にはわかりませんが、非常に感心しました。これから吸収していこうと思います。

メールアドレス

実験的にメールアドレスを公開します。何かあれば送ってみてください。左のプロフィール欄にあります。

yamadahifumi(アットマーク)excite.co.jp

です。無精なので、適当だと思いますが。

宣伝 アヴァンギャルドでいこうvol.5

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僕も参加している アヴァンギャルドでいこうvol.5 がAmazonで売られています。よろしくお願いします。

『アヴァンギャルドでいこうvol.4』の宣伝

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僕も執筆している雑誌がAmazonで販売されます。19日からです。よろしくお願いします。
http://www.amazon.co.jp/dp/B018UATRXW

大分県のブランド古着ショップW.BARCHELさん
http://wbarchel.thebase.in/items/2344609

こちらでも買えるようです。


※宣伝は以上ですが、正直な所、書き手としてはあまり仕事はできていません。ブログの再掲載ですので、あまりきちんとできませんでした。ただ、友人の手回しオルガン弾きさんから村上春樹に関する優れた論考を頂いた(僕から依頼しました)ので、それに関しては多少仕事したと思います。

そういうわけで、オルガンさんの批評がおすすめです。他の方だと、山田宗太朗さんの「火花」の評論が良かったです。久しぶりに批評らしい批評を読んだという感じです。後は表紙の絵がいいですね。R眞さんという方です。他にも二十名以上の方が参加しています。よろしくお願いします。

太宰治論をアップしました

読みやすい方でどうぞ。


http://ncode.syosetu.com/n4994cx/

http://p.booklog.jp/book/101771

最後の一息



もし君が笑っているなら

君は泣く事を覚えた方がいいだろう

世界にはいくつか功利的な原理があって

それをマスターできれば

このメディアばかりの世界で 君は

王者になれるかもしれないが しかし


もし君の心にやさしさがなければ

世界はその実存的意味を失い

そしてもし君に強さがなければ

君は外部の力によってそのやさしさを

失う事となるだろう

それは正にフィリップ・マーロウの言った通りだ

現代の街におそらく

マーロウが住む場所はどこにもないが


世界がもし一つの場所なら

君も世界の中の一つの場所となればいい

この宇宙は多元性を僕達に許している

ブラックホールの内部にも外部にも まだ

僕達が知らない世界があって そして

そこでその世界の「ダニ」や「ノミ」達は

僕達が決して知る事のできないこの全宇宙の真理について

真剣に語り合っているのだよ


もし、君が知性の翼をひらめかせて

世界から飛び去る事ができるならば

君の肉体はすぐにでも形骸となるだろう

その時、君は君の「死」を見るだろう

人間にできる最も尊い事はおそらく

自身の「死」を見る事だ

ほとんどの皆は死から逃げる事を

「生」と呼んでいるようだけど


…さてと、僕の短い話はこれで終わりだ

あとは君が勝手にやってくれるだろう

…くれぐれも言っておくが、現実の世界で君が僕に会ったとしても

僕に握手など求めないでくれ

現実の世界では僕と君はお互いに敵同士ーーーにも関わらず

君はどうやら僕の魂の秘密を知り抜いているらしい

だとしたら、僕達の死後、僕達の魂はおそらく

天上の酒場で互いに胸襟を開き合う事だろう

そういう事はありうるのだ、おそらくーーーしかし、まさにそれ故に

僕達は「今」を真剣に行き無くてはならない

忘れられた太古の記憶を胸に秘め

渋谷、新宿、池袋の街を歩いて見たまえ

そうすれば君はその雑踏の中を まるで

深海を静かに移動する深海魚にように歩行できるだろう

人々など波の一滴に過ぎない

人々のざわめきは一つの静寂であり だから 君は

一つの「騒音」として世界を泳ぎまわる事ができるのだよ

泳げ! そして君は最後には

海上に上がって そして

決して人間達にはできなかった最後の一息を

つく事だろうよ


Who? / 罠

Who? 


誰しもが忘れている事を

誰かがそっと人々に告げるなら

その人は、すぐに忘れられてしまうだろう

まるで、月の彼方に飛んでいった

「架空のオペラ」の男のように


君は誰だ?






 罠


もし雨が降ったら

あなたは必ず外を見て下さい

本当に雨が降っているかどうかを

確かめるために

天気予報士がタッグを組んで

あなたを罠にかけていないかどうかを

確かめるために


 形式を越える音楽  ー神聖かまってちゃんとD猫殿下ー


 この二つのアーティスト(神聖かまってちゃんとD猫殿下)には一見、何の共通性もなさそうに見える。神聖かまってちゃんはロックバンドだし、D猫殿下はピアニストである。神聖かまってちゃんの音楽技術は拙劣なものだし、殿下のそれは達人的なものだ。

 しかし、にも関わらず、この両者の音楽に僕は心を打たれる。それは何故かと言うと、この両者共に、彼らの表現意志、表現意欲がその形式を打ち破っているからだ。彼らは共に、自分達の歌を歌う為に、それ以前の形式を破壊する事をためらわない。彼らは叫ぶ。彼らは歌う。ある者は自らの声と、歪んだギターで。ある者は、細かく調整され尽くしたピアノという楽器によって。しかし、どちらも、それらの音楽が「過去」に属していた形式を破壊し、「現在」たろうとする。彼らは過去の形式を破壊し、何より、この今、現在というその瞬間に極限的に集中する。そしてそこに始めて、未来への扉が現れる。そしてそういうものが、芸術の本質と呼べるものなのだ。

 一般に「デザイン」と「芸術」との両者は違うものとされている。何故だろうか。それは、デザインというものには必ず、ある種の反復性があるからだと思う。デザインが、例えば、ポロックのような芸術作品であってはならない。芸術とデザインとは、微妙に重なり合っている領域であるが、しかし、デザインは過去の形式を反復する要素が芸術よりも強い。過去を反復する要素が強い方が、我々の感性と認識に大して安定的である。それは僕らの感性を脅かしはしない。それは僕らの積み上げたてきた「過去」を壊しはしない。だから、それは見ていて、聴いていて、安心できる何かである。しかし、デザインが反復だけだと飽きてしまう。だから、デザインは常に、過去の中に巧妙に、現在、そして未来を薄く溶かして入れておかなくてはならない。だから、デザインとは常に、新しいものを標榜した古いものである、という運命を背負っている。そしてそれが芸術になろうとすると、必然的にそれは世界から孤立してしまう。だから、デザインと芸術とは違うものである。芸術とはもっと、孤独なものである。

 YOUTUBEにあるアーティストの動画を適当に開いて聴いてみれば、大抵の場合、そこにある類形性が認められるだろう。それは必ず、そのカテゴリや分野に閉じこもっている要素が感じられるだろう。そしてそれはかなり優れたアーティストですら、そこに閉じこもっている何かである。もちろん、ある程度以上のアーティストは、そのジャンルを部分的には破壊する。しかし、それを全面的には破壊しはしない。ある分野、ある反復的な形式を完全に破壊する事には、勇気がいる。音楽にもっとも必要な才能が「勇気」だと言えば、人は笑うだろう。絶対音感? 三才からのピアノ? しかし、僕は言う。本当の意味で天才になるには、その者に、世界から孤立して自己自身となる勇気が必要である。僕はそう思っているし、常々そう感じている。この世界の中で孤立する事には、おそらく、死ぬより辛い何かがある。にも関わらず、それをくぐらなければ人は真に生きる事ができないのだ。

 神聖かまってちゃん、そしてD猫殿下の音楽には絶えず、過去の形式を破壊していく何かがある。例えば、彼らが、目の前にある明確に決められたリズム、音程、音量などがあるとしても、彼らは自分自身の支配者であるので、彼らはそれをたやすく越えていく事ができる。これは繰り返して言ってきた事だが、彼らは、音楽につかえている従者ではない。彼らこそは(例え演奏の間だけとしても、その一瞬だけだとしても)、音楽の支配者なのだ。彼らは音楽を道具にして、それを調べとして、自らを奏でる事ができる。しかしほとんどのアーティストはむしろ、自らが音楽によって「奏でられている」存在なのだ。

 従って、両者は僕は、今のアーティストの中では傑出していると思う。今述べた事が、僕がこの両者を褒めるその根拠だ。この両者にもおそらく、それぞれに欠点がある事だろう。普通の人同様に。しかし、彼らに欠点があろうとなかろうと、彼らがその楽音、シャウトによって「現在」、そして「未来」をこの世界の中に顕現させたという事だけは確かだ。大抵の人間は、芸術に仕え、学問に仕え、会社に仕え、人に仕えて生きている。そこに自由はない。人は、一般に、自由を求める時も、恐れのあまりに集団であり続けようとする。だから彼らにはいつまでたっても自由は手に入らない。自由とは孤独のその先にあるものである。過去の形式を破棄する恐怖に耐えたものに与えられる恩寵である。だから、この両者はその一線を越えたのだ。彼らは音楽によって自由になったのであって、彼らは音楽によって不自由に、苦渋に満ちた表情にさせられたのではない。彼らは、日常では自分自身ではない、そのような存在を音楽の中に解き放つ事によって、自分自身となったのだ。つまり、彼らは音楽によって始めて自己を完全に表現し得たのだ。

 芸術=表現という形式が正しいのであれば、どんな人間にも自己がある限り、全ての人間が天才になる余地があると言える。そしてこの両者はそうなった。しかし、人はこれからも形式の前でとどまり続けるだろう。そしてこれから先も、ある種の孤独な変わり者達は、自らの勇気と技術だけを武器に、この一線を越えるだろう。そしてこの線を越えたものだけが、新たな形式の創造者となるだろう。だから、本当の意味での形式とは、形式を破壊し自己を露わにした人間にだけ与えられる褒章のようなものなのだ。

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