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物と精神

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又吉直樹の芥川賞受賞から振り返る文学界





 芸人の又吉直樹芥川賞を取ったという事で少し文章を書いたが、もう少しきちんと書く事にする。


 僕は本屋で、「火花」という作品を手に取ってパラパラ見たが、大した感想も覚えなかった。いいとも悪いとも思えなかったし、さほど興味の湧くものではなかった。


 一応、僕個人も作家志望なので、芥川賞を取った作品などは、本屋でパラパラと見たりする。しかし、その場合、僕が「いいな」と思う作品はほとんどなかった。唯一、「少しいいな」と感じたのはいとうせいこうの「想像ラジオ」だ。(賞は取れなかったが) この作品には、珍しく文体というものが感じられた。


 以前から言っている事だが、基本的に現代においては芸術というのは形骸化している。僕が今一番優れたアーティストだと確信している神聖かまってちゃんというバンドは、世界に対して逆説的にしか接触できない。おそらく、その事は、この世界そのものが形骸化している事を示している。つまり、健全な一般人からすれば、神聖かまってちゃんは異端な、頭のおかしなロックバンドに見えるが、しかし、本当にそうであるのか、というのが問題だ。


 パスカルは「真に哲学をするものは哲学をバカにする」と言った。神聖かまってちゃんというバンドもまた、「ロック」というジャンルを再定義した存在として考える事ができる。つまり、神聖かまってちゃんはロックというジャンルの中で歌っているのではなく、そのジャンルを越え、そしてそれによって、ロックを再び現代に蘇らせようとしたのだ。その逆に、いかにもロックっぽいが、少しもロックではないバンドというのもたくさんある。(あえて名前はあげないが) そうしたバンドは「っぽい」のであって、ロックではない。もっと言うと、ロックとは何か、という定義を越えなければ、真のロックにはならない。


 そこから翻って、今の文学の状況は何か。どうなっているか。はっきり言ってしまうと、僕は、今、サブカルチャー系の人達の中に優秀なシナリオライターや作曲家などが現れているという状況に対して、「文学はどうしてこの程度なんだろう?」などと考えてしまう。今の文学の世界において、「まどか☆マギカ」とか「シュタインズゲート」に匹敵する作品があるだろうか? あくまでも僕個人の意見だが、少なくとも、両村上くらいの作家が二、三人、若手として出てこなければ、文学としては、アニメやゲームの優秀なクリエイター達と頭を並べる事はできないと思う。


 例えば、高橋源一郎、村上春樹、村上龍らの全盛期を想起すれば、これらの人を坂本龍一とか、中島みゆき、忌野清志郎などの優れた音楽家とくらべても、僕にはそれほど問題はないように思える。しかし、今の文学の状況はそうではない。今の文学の世界はどうなっているのか、よくしらないが、傍から見れば「文学っぽいもの」が文学の代用をしているように見える。つまる所、文学界そのものが行き詰まっている。これはクラシック音楽などでも同じではないかと思う。再三、言っている事だが、「っぽい」という事と、本物である事は似ても似つかないのだ。しかし、本物は、理解するのに時間がかかるし、力も必要になってくる。何故なら、本物はいつも、本質的な意味で「新しい」からだ。過去の天才達がその当初認められなかった例が多いのは、そういう事情による。


 それでは、今度、芸人の又吉直樹芥川賞を取ったという事をどう見ればいいのか。僕個人としてはやはり「っぽい」作品だと思うし、それ以上は特にないと思う。では何故これだけ騒がれるかと言うと、それは、大多数の人が又吉直樹という芸人をテレビを通じて知っているからだ。おそらく、「又吉直樹受賞おめでとう!」という人は、知り合いが有名な賞を取ったような感情があると思う。逆に言うと、それ以上の事はない。


 僕個人、余りに力がなくて、無理なのだが、もし現代にドストエフスキーの「罪と罰」のような作品が現れれば、世界は一変するだろう。あるいは、ソ連が実際にやったように、この世界はその作品に塗り込められた真理に恐れをなして、それを禁書扱いにするかもしれない。本物の芸術というのは、短期間であれば毒のように作用する事がある。しかし、それは最終的には人類の為になるものだ。しかし、我々が今、即時的な時間の中にいるか、究極的な時間の中にいるか、誰が知る事ができるだろう?


 話がずれたが、又吉直樹芥川賞を取ったという事は、全てがタレント化され、映像化されている現代社会の考察には持ってこいであろう。しかし、それは文学の状況を微動だに変えないどころか、文学の「いかにも文学っぽいものが文学」というよくわからない性質を強化するに留めるだろう。実際、何も変わらないだろう。もっと言うと、又吉直樹が賞を取ったという事で面白いのは、芸人が芥川賞を取ったという事象であり、それを評価している人々それ自体である。はっきり言うと、作品以上に、作品に付随する現象の方が面白い。これは作家と世界との力関係の問題である。


 もし、ここに、シェイクスピアのような真の作家が一人いるとすれば、この人物はおそらく、そうした事象そのものが何であるかを徹底的に解明する作品を生み出してしまうだろう。つまり、こうした本物の作品においては、人々が起こす事象そのものを作品の内に取り込んで、なおかつそれを解明する事によって、世界を越えるのである。そういうわけで、シェイクスピアやドストエフスキーは真に恐ろしい作家である。例えば、神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲でも、まさに、それに対する批判、アンチ的な言葉そのものをあの楽曲が取り込んでいるという事に一つの特質がある。あの楽曲は、ああした曲を批判しようとする人達めがけて書かれたものだから、あの曲を既存の方法で批判するなら、それはまさに、あの曲の支配下に置かれている事を、批判者が自ら証明してみせるようなものだ。傑作と呼ばれものは常に、このように現実に打ち勝つ素質を秘めている。


 そうした観点から考えて、今回の、芸人が芥川賞を取ったという話はまさに、大衆がちょっとした話題に持ち出すにあたっては格好の話題である。そこで問題になるのは作品ではなく、作品の外側の現象である。言ってみれば、こういう場合、作家や作品は人々によって「描かれている」と見たほうが見やすい。よく売れるかどうかなんて事を熱心に議論している人を見るが、本質的な事はそこではない。こうした場合、作家や作品が価値を帯びるのは、人々が話題に持ち出す限りである。しかし、本物の作家や、思想家の場合はそうではない。本物の作家はまさに、人々を描くのである。人々によって描かれるのではなく。人々はその事に、一瞬嫌な感情を覚えるだろう。自分の背後、自分達が隠していたものを暴露されたような、嫌な感じがするだろう。…しかし、最後には人々はその作品を認めるだろう。何故なら、それは人々そのものを描き、なおかつそれを越えているから。つまり所、それは真実だからである。そして真実というのは、我々の脳髄がいくら頭だけで否定しても、最終的にそこに戻ってくる、そのようなものだ。


 そういうわけで、今求められているのは真の、本物の作家、アーティストであると思う。しかし、それが世の人々に求められているかどうかは僕は知らない。世の人々が欲するのは、仕事の休憩中に適当に話題とする事ができる軽い事柄かもしれないし、あるいは人々が酔う事のできるわかりやすい作品かもしれない。しかし、真の作品はそれら全てをひっくるめたものとして現れる事だろう。


 そして今の文学の状況からは、そういうものが生まれる気配はほとんど感じない。そこで、この世界で何事かを思考し、自らの理想を持つ者は、再び自分の孤独に戻らなければならない状況が生まれてくる。未知の明日は、それぞれが秘めた孤独から生まれる事だろう。

神聖かまってちゃん「フロントメモリー」




神聖かまってちゃん「フロントメモリー」を僕は長らくディスってきた。理由はボーカルが川本真琴だからで、それ以外の理由はない。僕は川本真琴が嫌いではない…というか、ほとんど知らない。

でも、僕が神聖かまってちゃんが好きなのは、明らかにそこに何か逸脱したもの、過剰なものを感じたからだ。その叫びは「音楽」ではない。今の大半の楽曲はどれも巧みでポップだが、芸術とは言えない。それが何故かというと、それらに結局『作者』が存在しないからだ。現代において、世界に抵抗するか、世界から外れるかのどちらかの道を辿らずに芸術を作る事は不可能に思える。つまり、現代は芸術家に『作者』たる事を要求する。何故かというと世界は人間に満ちあふれているので、独自性を持つには、別種の、珍妙な、『作者』という生き物に化けなければならないからだ。

…しかし、今この曲を聞き直して、やはりの子の音楽的才能は凄いものだな、と思った。一つ、特徴的な点を上げるなら、最後の川本真琴のシャウト。。あの部分は素晴らしい。多分、普段の川本真琴なら、絶対にあのラストのようなわめきたてるシャウトはしないだろう。だが、の子はそれを『音楽』にする方法を知っている。だから、そう要求するように、川本真琴に歌唱指導したのだろうと思う。

昨日、アマゾンで曲を購入したので、これからはウォークマンで普通に聞こうと思う。

一歩を踏み越える者としての「神聖かまってちゃん」

(以前書いたもの。個人的な理由でお蔵入りさせていたが、読み返すと案外良かったので、ここにとりあえず出す事にする)


 神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲は、歴史的な楽曲だと、個人的には考えている。冗談だと思われるかもしれないが、本当にそう思っている。
 このアーティストに出会う前には、例えば、レッド・ツェッペリンやビートルズが好きだったし、宇多田ヒカルとか、中島みゆき、坂本龍一なんかも好きだった。・・・これらはみんな、もう既に高い評価を受けているアーティスト達だし、僕もその評価に異存はない。
 だが、例えば、神聖かまってちゃんの「ロックンロール」のあのシャウトが鳴り響けば、僕にとっての他の音楽は沈黙してしまう。神聖かまってちゃんのあの凶暴な叫びが僕の耳に届けば、僕にとっての過去のあらゆる名曲、全ての素晴らしい音楽は全て過去のものとして消え去り、そして、の子のあの叫びだけが僕の耳に響く・・・。
 何故、そんな事が起こるかと言えば、(変な話だが)これまでの「かまってちゃん以前」の曲は、余りにも『音楽』なのである。・・・確かに、良い曲があった。うまい曲も、下手な曲もあった。感動する曲も・・・吐き気を催す曲もあったかもしれない。しかし、それはあくまでも、『音楽的』である。音楽だから、それはもちろん、当たり前なのだが、しかし今ここで、かまってちゃんが問題にしているのは、うまいとか下手とか、そういう問題ではない。綺麗なメロディー・・・それはもちろん、大切だし、神聖かまってちゃんの曲は大体においてメロディーが美しいのだが、しかし、実はここでは、それすら問題になってはいない。
 例えば、この「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲を、もっと綺麗に歌い上げたとしよう。(B.B.クイーンズのカバーが参考になるだろう。)すると、この曲は多分、とたんにロックの名曲、なかなか良い、良曲になるはずだ・・・。綺麗なメロディ、美しく鳴るピアノ、ざらざらとしたギター・・・申し分のない、誰が聴いても「いいね!」となるような曲になったはずだ。つまり、普通の曲、普通の良い曲になったはずだ。
 ・・・だが、彼はそうしなかった。ところどころ聞けばわかるが、彼はメロディーを壊してまで、自分の叫びを歌い上げようとする。彼は、後ろに音楽を鳴らしておきながら、しかも、その音楽を踏み越えて叫ぶのである。どうしてか?・・・。ここでは、凡庸な音楽家、または優れた音楽家では絶対やらない事が取られている。もし、の子が「音楽」の枠にとどまっていたら、この曲はこんな曲にはなってはいなかったと、僕は断言できる。もし、優等生がこの曲をアレンジしたら、聴き応えのある良い曲になったにちがいない。(例えば、B.B.クイーンズ。)だが、の子はそうしなかった。彼は全てを踏み越えて叫んだ・・・。その答えは、もはや音楽の中にはない。その答えは、の子の生の、彼の人生そのものの中にある。・・・ここにおいて、始めて音楽は、一人の人間の宿命と接する。・・・人々が音楽と呼んでいるものの大半は、実は「音楽の形式」に他ならないのである。
 の子の怨念は強い。・・・彼は優しく、弱く、脆い人間だ。だからこそ、全てを抱え込んでしまう。・・・だから、それは音楽の中に思い切り表出するしかなかった。・・現実での彼は抑圧されている。その抑圧は、彼に自殺を促すほどに強いのだが、しかし、彼はそれを音楽へと転化する。彼は自分のエネルギー、その怨念を、全て、音楽という器に入れて表現してしまう。だが、彼の想いはあまりに強すぎるから、彼の表出行為は、音楽という器からこぼれてしまう。・・・だが、彼はそれを恥ずかしいとは思わない。・・・天才とは、凡人が過ちと見る所に、正答を見出すものだ・・・。彼はそれを、そのまま叫ぶ。彼のシャウトは音楽を越えるが、実は、その越えた部分が、新たな音楽となって、形になるのである。・・・私達はあらゆる芸術を過去のもの・・・つまり「形式」として見ているが、実は、作者にとってそれは、未来への、天空への見えない拳の突き上げ、または、宇宙へと向けた大シャウトなのだ。
 これで言いたい事は少しは言えた気がする。つまり、僕にとって、の子によってはっきりと知らされた事は、芸術にとってもっとも大切なのは、芸術ではない、という事である。パスカルが次のような言葉を残している。「真に哲学するとは、哲学を馬鹿にする事だ。」・・・天才はいずれも、一歩を踏み越える。そして、その一歩が踏みしめるのは、前人未到の地である。そして、それを名付けるのは、あくまでも後の人、彼の後に出てくる未来の人であり、彼にとって大切なのは、踏み出た時に発見された、未知の土地、未知の大陸である。彼は今や気付くだろう。自分の周囲のざわめきは消え、自分が一人になったという事に・・・。彼は・・・の子は・・・あくまでも、音楽という星から生まれ出た遺児なのだが、彼の足は、音楽を越え、別の土地に到着する。そして、それが可能なのは、彼の魂によってであり、彼の音楽的見地によるのではない。人が先行するのは技術によってではなく、魂によってなのである。だが、しかし、魂は技術によって表される他ない・・・。ここに、天才の苦悩があり、また、いかに天才といえど、いきなり大きな一歩を踏み出す事ができないという理由が隠されている。我々は、あらゆるものに拘束されるが故に実体を持つ事が可能になるのだが、新たな実体を生み出すのは、その人間の意思、魂という、全く不定形なものに限られているのである・・・。
 僕は思わず、色々余計な事を語った・・・。が、これで、これまでの音楽が「余りに音楽的」に聞こえる、というその説明も少しはできたのではないか、と思う。つまり、神聖かまってちゃん並びにの子の音楽は、これまでのシャウト以上のシャウトであり、音楽家の叫びが、音楽を乗り越える一瞬である。だから、彼の音楽は「音楽ではない」という、そのような否定的な意見も、ある程度はあたっているとも言える。・・・だが、忘れてはならない事は、例えば、始めてベートーヴェンを聴いた大文豪のゲーテが、思わず、「こんな大きな音を出したら、建物が壊れてしまう」という否定的な音を吐いたという事である。・・・ゲーテの耳には、ベートーヴェンは大珍事であった。・・・もっとも、ゲーテはその後、ベートーヴェンを評価しはしたのだか、しかし、全面的に賛成できたわけではない・・・。ゲーテは沈黙したので、我々も沈黙しなければならないのだが、ベートーヴェンの主観的な、感情的な音楽が、クラシックと形式性を模範としていた当時のゲーテを嵐のように襲った、というのはある程度、想定できるだろう・・・。僕は今、(もちろん僕は文豪でもなんでもないが)そのようにして神聖かまってちゃんを聞くのだ。つまり、主観が客観を越える、その一つの嵐として・・・。
 音楽というものが、自己表現というものにあるなら、これからも音楽の未来は続いていくであろう。何故なら、音楽は音楽ではないものによって支えられているからである。・・・だが、もし音楽が自らの形式性に充足するのであれば、音楽というのは、模倣と形式性を横に並べて、次第に衰亡していくだろう。・・・そして、それは今、ほとんど全ての、芸術以外のあらゆる分野にも見られる現象でもある。人は、「うまい」とか「へた」とか言いながら、そのうまい、へたを越えるものを想定できないし、また、考える事もできない。・・・本物のアーティストというものが目指す先は、人が認める所のものではない。それはカントのように、人の認識の限界を越える事にある。人が、うまいとかへたとかいう判断基準を無意識の内に持っているなら、その判断基準そのものを突き刺し、破滅させ、そして、自分自身が新たな基準として立ち上っていく事にある。そして、現代、どれほど病的な形に見えようとも、その事を企図して、そして成功させているのは、僕の知っている限り、神聖かまってちゃんというバンド以外には見当たらないのである。

の子のソロアルバム「神聖かまってちゃん」の事など


神聖かまってちゃん神聖かまってちゃん
(2013/09/11)
の子

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の子のソロアルバム「神聖かまってちゃん」を買ってきた。レビューはアマゾンの方に既に書いたが、少しだけこちらにも書く事にする。

アルバムそのものは新曲は一曲だけという事で、別段目新しいものはないが、全体的に音のクオリティはアップしているので、CDを買って損したという事はないと思う。ただ、「楽しいね」のコンクリートや、ベルセウス、らんっ、を聴いた時ほどの衝撃は僕にはやってこなかった。・・・でも、それでいいと思う。このCDは完全新作として、世の中に、新たなムーブメントを・・・・・というようなアルバムとして作ったのではない、と想定されるからだ。

神聖かまってちゃんが各界でどういう評価を受けているのかよくは知らないが、僕の中ではビートルズやツェッペリンクラスのバンドであるというのは揺るがない評価だ。冗談を言っているんじゃない!・・・と言われるのかもしれないが、その理由はきちんとある。それは、神聖かまってちゃんが、音楽という形式性に捕らわれる事を抜けだして、音楽を完全に自己表現の道具と化している唯一のバンドだからだ。

・・・最近、よく思うのだが、僕達の周りに溢れているあらゆるものは、何だか偽物ではないか、という感じがする。つまり、純文学にしろ、バンドミュージックにしろ、僕の書いている詩の領域にしても、そうだ。つまり、それら全ての事は大抵、『それ風』だという感じがする。芥川賞を取った作品を読んでみても、純文学というよりは、純文学「風」といった方が適切なように思える。・・・つまる所、この世界は全てが、うまく回りすぎているのだ。あらゆる事に対して、先人があり、模範があり、そしてノウハウやマニュアルがあるので、誰も自己表現というのを思いつかなかった。そして、自己表現をしようとするや否や、その自分の表現は、模範から逸脱するので、「その形式から外れる」ような感覚を味わさせられることになる。・・・こうして、僕らディレッタントも、プロのアーティストも、同様に、一つの線を境にして、自分達のかつての領域に引き返してしまう。そこでは、大抵のものが、技術的には高い水準にあるのだが、しかしその全てはどれも、「何だかどこかで見た事がある」ような気がするものになってしまうのだ。

 だから、それを始めて破ったのが、神聖かまってちゃんというバンドだと言える。・・・もちろん、の子はそんな事を考えて、音楽をつくっているのではない事は確かだろう。・・・だが、彼が、自分の怨念や情感を表現しようする時、過去の表現形式では表現しきれないものがあり、そして、彼が一歩を踏み越えた時、そこに新しい形式ができあがった。・・・それが神聖かまってちゃんの「意味」であり、「価値」である。それこそが、かまってちゃんのあの壮絶にシャウトの本当の「意味」だ。

 神聖かまってちゃんについては、もう随分と解説したような気がするので、あまり書く気ではなかったが、また、こうして書いてしまった。・・・かまってちゃんは今は、大人にならなければならない時期が来ていると思う。これまで、の子はいわば、「少年・少女の叫び」というのを、自分の音楽の中心にしてきたが、これからは、大人の物語にしなければならない。それは、大人の常識をしったしたり顔の物語ではなく、一人の独立した人間が、世界に立ち向かう物語としての音楽だ。それが具体的にどういう形になるかは分からないが、はっきりしている事は、彼がもはや無名のフリーター・ニートという場所から抜けだしているからには、彼がまた新たな自己変革を成し遂げなければならないという点にある。・・・これは難しい課題だろうし、数年とか、または十年くらいかかる事かもしれないが、やらなければならないだろう・・・そうでないとこのままでは生きてはいけない・・・という危惧も正直ある。しかし、僕もまた、他人にそんなおせっかいを言っている前に、自分がそれをしなければならないだろう・・・。何せ、神聖かまってちゃんがいなければ、僕という人間は今、存在する事すら許されていないからだ。もし、彼がいなければ、僕はやはり、全体性からつまはじきされる事を恐れて、相変わらず、日常生活のような、にやにやした表情を浮かべ続けていた事だろう・・・。

 色々とごちゃごちゃした事を書いたが、これからもかまってちゃんのファンとして、の子の変化を見守っていきたいと思っている。そして、ファンというのは誰よりも、神聖かまってちゃんに対する厳正な批判者でなければならないとも思っている。・・・実の所、その対象を真に批判できるのは、それを本当に愛しているものに限られるからだ。






















神聖かまってちゃんとは何か

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 人間にとって生きる事とは何か?・・・自分とは何か?・・・そんな事を考えている人というのは少ない。それに、そうした事を考えるのは哲学者の仕事であって、自分達の仕事ではないと、考えている人の方が、どちらかといえば多勢だろう・・・。だが、人はそうした問いを持たざるを得ない瞬間というものは、誰にでもやってくる。そして、その明瞭な瞬間とは、死の自覚である。だから、全て天才というのは、凡人に対して、死を先取りした人々とも言えるだろう。我々が死を想えば、何かを為さざるを得ないではないか。


 この論考ーーーとでもいうべきものは、神聖かまってちゃんに対する批評であると同時に、また、神聖かまってちゃんという驚くべきバンドにはじめて遭遇した一凡人の自己省察であって欲しい、と僕は願っている。世間には、頭脳は動いているが、心が動いていない批評というのは沢山ある。頭脳だけが動いていれば、要領良く生きる事はできる。しかし、心がなければ生きている価値はない。そして、心だけがあっても、やはり世界に押しつぶされて死んでしまうだろう。世界というのは、この両立した破壊と秩序で成り立っている。だから、僕もまた、チャンドラーのように、強いと同時に優しい文章を書こうと願っている。


                                              ※
 「神聖かまってちゃん」というバンド名・・・それをアマゾンのサイトで、はじめて見た時、正直、僕は「ああ、またゲテモノを気取ったバンドか」と思った。
 元々、神聖かまってちゃんを検索して調べたのは、それまで洋楽のロックーーー特に、ビートルズとレッド・ツェッペリンが好きだった僕が、ふと、現代の日本のロックも聴いてみようと思った事に端を発する。・・・そして、色々検索して調べている内に、「相対性理論」というバンドを発見し、好きになった。そして、相対性理論をアマゾンで調べると、その隣に神聖かまってちゃんのアルバムが表示されていたので、僕は気になってクリックしたのだった。
 僕は、「ああ、またゲテモノ系か」と思いながらも、「一応」、楽曲を聴いてみる事にした。そして、ニコニコ動画で神聖かまってちゃんと打ち込み、検索をかけた。そして、その検索結果の一番上に来たのが、「ロックンロールは鳴り止まないっ」だった。僕はクリックした。
 最初、その歌声が聞こえてきた時、僕は「ああ、下手だな」と思った。そして、その楽曲が進む内に、僕は心の中で様々な無言の葛藤を感じながら、その曲を最後まで聴いた。
 聴き終わった時、僕は思い切り誰かに腹を殴られたかのような衝撃を受けた事を今でもはっきりと覚えている。だが、まだ頭はそれを否定していた。こんなの音楽じゃない・・・・・こんなのは本当のアートじゃない・・・・・と、僕のちっぽけな常識で支えられていた頭脳は、ずっとそう叫び続けていた。だが、僕は、どうしても気になった。そのバンドが気になった。だから、僕は頭脳の否定の言葉の声を聞きながら、順に、神聖かまってちゃんの動画を聴き、見ていった。
 「二十三歳の夏休み」を聴き、「自分らしく」を聴いた。その時の反応はまだ「ふーん、悪くないじゃん」程度の反応だった。そうして、その内に「美ちなる方へ」という楽曲を聴いた。聴いている内に、勝手に涙がこぼれてきた。泣きたくて泣いたわけじゃない。泣くまいとしても、涙が勝手に出てきて止まらなかったのだ。
 僕の魂に響いてきたフレーズは次のようなものだった。



「なるべく楽しいふりをするさ誰だって
憂鬱になると気ずけば誰もいないんだ

知っているからたまに狂っちまうんだ

君には見せたい素顔があると思います」
 


 僕はこの箇所を聴いて、涙が止まらなかった。また同時に、「この作者の事がわかった」と、感じた。この歌詞、この曲を作った人間の魂が、自分の魂に直に響いてきたのだった。そして、ようやく、僕は神聖かまってちゃんというバンドの魅力に完全に屈する事となった。ここではじめて、神聖かまってちゃんがただの「ゲテモノ系」のバンドではない、これまでのアーティストと全く違った類の芸術家である事が、ようやくわかり始めたという事になる。



                                                  2
 様々な切り口があるが、一体、どこから切ればいいのか。音楽的に、あるいは哲学的に。歌詞の面から、あるいは社会と個人の関係の面から・・・。だが、神聖かまってちゃんというバンドに言及する時、絶対に外せないのは、「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲だ。この曲はバンドの代表曲と目されているし、確かにそれだけのものを持っている。この曲は、例えば、ツェッペリンの「天国への階段」のように、神聖かまってちゃんというバンドの核を内包した曲だからだ。





ロックンロールは鳴り止まない / 神聖かまってちゃん

作詞:の子
作曲:の子

昨日の夜、駅前TSUTAYAさんで
僕はビートルズを借りた、セックスピストルズを借りた
「ロックンロール」というやつだ
しかし、
何がいいんだか全然分かりません

do da
turatura
oh yeah!yeah!yeah!

夕暮れ時、部活の帰り道で
またもビートルズを聞いた、セックスピストルズを聞いた
何かが以前と違うんだ
MD取っても、イヤホン取っても
なんでだ全然鳴り止まねぇっ

do da doda
tura tura
oh yeah! yeah!
yeah!


今も遠くで聞こえるあの時のあの曲がさ
遠くで近くですぐ傍で、叫んでいる

遠くで見てくれあの時の僕のまま
初めて気がついたあの時の衝撃を僕に

いつまでも、いつまでも、いつまでもくれよ

もっともっと、僕にくれよ
もっと、もっと、もっと、もっと、
くれよ!

遠くにいる君目がけて吐き出すんだ
遠くで近くですぐ傍で叫んでやる

最近の曲なんかもうクソみたいな曲だらけさ!
なんて事を君は言う、いつの時代でも

だから
僕は今すぐ、今すぐ、今すぐ叫ぶよ
君に今すぐ、今、僕のギター鳴らしてやる
君が今すぐ、今、曲の意味分からずとも
鳴らす今、鳴らす時

ロックンロールは鳴り止まないっ

 

 ここに一人の脆く、優しさ故に傷つきやすい一人の少年がいる。彼は、学校で嫌な事があったのか、沈鬱な表情をしている。彼は、田舎の田んぼ道の登校路を逆に辿っていく。家までの道のりはまだ遠い・・・。彼は、MDプレイヤーのイヤホンを耳に差し込んでいる。そして、そこから、ビートルズや、セックス・ピストルズの曲が流れてくる。・・・そして、それは次第に、彼にとってひとつの重要な意味を持ってくる・・・。やがて、彼は自分自身、ギターを手に取り、音楽を始める事になろう・・・。だが、そこから、この曲ーーーロックンロールができるまではまだ長い道のりがある。
 そして、この後半部では、自分自身がギターを持って、かき鳴らし、そして自分自身がシャウトするまでが語られ、また、実際に曲の中でシャウトする。そして、その時、「ロックンロールは鳴り止まない」という事実ーー真理が語られる事で、この曲は終わる。

 この曲で重要な事はいくつもあるが、その中でも一番大切な事は、もちろん、の子という一人の少年が、あの夕暮れの帰り道にMDを聴いていた姿から抜けだして、自分自身がロックンロールの化身となって叫ぶ、その変遷である。だが、ここには特異かつ重要な一行が挿入されている。それが、「最近の曲なんかもうクソみたいな曲だらけさ! なんて事を君は言う いつの時代でも」の部分だ。
 ここには、の子の現実認識が示されているし、また同時に、こうした行に、神聖かまってちゃんというバンドが今の時代と共鳴している、その理由ーーー証拠がある。・・・僕は、音楽的な事柄には無知なので、こうした言葉の面からこの曲を考えてみたい。

 今は、誰も知っての通り、誰もが何もかもを「知っている」時代である。多くの人間が、それぞれの自分なりの答えを持っている・・・と聞けば、聞こえはいいが、多くの人が、すでにこの情報の世界の中で、もうなんでも知っているような気にさせられる時代でもある。人は言う。「もう、ロックなんてものはないよ。それは何十年か前に、ビートルズで終わったんだ。今の音楽は全部、つまんねえ。クソみたいなのばっかり。」・・・それはあらゆる事に対して、そうである。なぜかは分からないが、百年も遡れば、天才や美といったものはわんさかあるような気がするが、ただ、現在に目を向ければ、それはクソみたいなのばっかりのような気がする。・・・何故だろうか?
 誰もがたかをくくっている。ネットの掲示板をのぞけば、「通」の人があらゆる過去の情報と知識について論議し、そしてまた彼らは天才的にあらゆる物事を知り尽くしているように感じられる。しかも、そうした人というのは沢山いるのだ。だが、彼らは、決して、現在を超え、未来に歩もうとはしない。未来に歩む事は大変なリスクがあるという事を、彼らは直感的に知り抜いているのだ。だから、彼らはいつまでも嘆き続ける。「今はくだらねえ・・・昔は良かった・・・」などと。
 だからこそ、の子は叫ぶ。彼のシャウトは、過去のロックンロールにおけるシャウトとはすこしく意味をちがえている。それは新しい時代に適応した、新しい叫びーーー自己実現ーーーとでもいうべきものだ。過去のシャウトは自分の感情を表現するものであり、あるいはロックの様式としてそうしていたのかもしれない。の子の場合、叫ぶ対象は人々である。しかも、それは普通に生活している普通の人々に対して向けたものではない。たかをくくっている人々、あらゆるものの知識を身につけ、通となり、理解し、しかし、そこから歩み出す事を本能的に恐れている人々、そんな人々に対して、の子は叫んでいるのだ。・・・人々が、定義し、知識付け、そうして全ての様式を確定させたと信じたその箇所に向かって、の子は雷鳴のような叫びをあげているのだ。・・・それはまるで次のように叫んでいるかのようだ。「たとえ、世界が何であろうと、俺はこれだ!」と。
 ニコニコ動画のコメントなどを見れば、わかるが、「こんなのはロックじゃない」とか、「こんなのは音楽じゃない」とか言った言葉が散見される。・・・もし、僕がの子であれば、そのコメントを見れば、一人ほくそ笑む事だろう。・・・なぜかといえば、「ロックンロールは鳴り止まないっ」という楽曲自体が、そうした言葉に対して、真っ向から闘いを挑んだ作品だからだ。・・・しかも、その勝利は確定している。なぜなら、過去の優れた芸術家達がみんなそうしてきたように、この「ロックンロールは鳴り止まないっ」という楽曲は、完全な形で自分を表現する事に成功しているからだ。人は考える。「ロック」とはこういう形だ。「音楽」とはこういうものだ。・・・それは頭脳で練り上げられた、精緻な図式だ。だが、芸術というのは、絶えず、過去の様式を破って現在に現れてきたもう一人の自分の姿ではないのか・・・?。その当時にいれば、彼らは必ず、次のような言葉を語った事だろう。ゴッホを見て、「これは絵じゃない」と言い、ベートーヴェンを聴いて、「これは音楽じゃない」と。
 だが、もちろん、音楽は魂で聴くべきものだ。僕が今、そんな風に定義したからといって、そんな事はどうっていうことはない。たとえ、僕達が、頭でこの楽曲をこのように否定したとしても、僕達の心は僕達よりもずっと賢い。だから、神聖かまってちゃんというバンドもまたいずれ、そのように評価されるだろうと思う。僕達の心が、順にこのバンドの正確な価値を、僕達の頭脳に教える事となるだろう。



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 僕は一度、神聖かまってちゃんのライブに行った事がある。それは10月の下北沢のライブで、僕はとある会社の面接を受けた後だったので、スーツ姿だった。
 ライブ会場は、下北沢の地下のライブハウスのところで、何人くらいがはいるだろうか、三百人くらいはいたのだろうか?・・・とにかく、それは満員であって、ファンである所の僕の見間違いかもしれないが、その人々の多くは神聖かまってちゃんを見に来たように感じられた。(そのライブは神聖かまってちゃん以外のバンドも出ていた。)
 そのライブ全体は素晴らしいできだったし、様々な感想と感興を覚えたのだが、僕にとって大切な事は、そのライブの前にあった。それは、の子が、ライブ前に、路上ライブをしていた時の事だ。・・・それは名目は、路上ライブと言っているが、実際はの子が一人で路上で怒鳴り声を上げたり、観客と何かやりとりしながら、その様子をインターネットで同時に生放送するというものだった。
 僕はその瞬間に、偶然、遭遇した。といっても、それはまだの子が生配信の準備をして、パソコンをいじっている時だったが。・・・僕は、もう少しでライブの開演の時間だなと思い、暇つぶししていた書店から離れ、ライブハウスの方向に向かって歩いて行った。すると、その途中の道で、僕は十字路の角のところに座り込んでいるメンバーの「ちばぎん」と、「の子」がいるのに気づいた。二人はその時、パソコンのセッティングをしていた。
 僕はその時の事をよく覚えているが、その小さな青年ーーーの子に、離れたところから近づいていくと同時に、「ああ、変な奴がいるな」という感覚が自分の中に広がってくるのを感じたのだった。それは、何か器質的な障害を持つ人に対して持つ感覚でもなければ、また奇行をする人間に対する感覚というのでもなかった。それはとにかく、僕に「普通の奴ではないな」という感覚を与えたのだった。・・・そして、それがの子だという事がわかると、ああ、やっぱりな、と、僕は妙に安堵したような気持ちになった。
 実は、僕は、の子に話しかけた。・・・の子とちばぎんの二人の周りには、すでに興味本位の客やファンが何人かいたのだが、僕もその中に混じって、こんな機会は滅多にないだろう、と思って、内心ビビリながらも、の子に話しかけたみたのだった。僕は、「の子さんですか?」と聞いた。すると、の子は、僕の方に目も合わせずに、手近の知り合い(?)の人を、さっと掴んで、「いや、僕は確かにの子ですけど、この人の方がすごいんですよ」とか、何とか意味不明な事を言って、僕を煙に巻いた。僕は普通の会話をする事はできないんだな、と諦めて、少し遠くからの子の行動を見てみようと思って、離れた。
  その時、僕が感じた事は、の子という人間の、決定的な人間不信だった。・・・もちろん、ファンの見知らぬ人間からいきなり話しかけられて、いい気になるアーティストはそれほどいないのかもしれない。だが、僕が感じた事は、それよりもっと、奥深いもの、それは人類全体に対する決定的な人間不信、人間恐怖とでもいうものだった。の子にはいつも、自分の精神的な穴蔵があって、そこで自分の作品を形作るのだろうが、その穴蔵からのぞいた人間の姿というのは、みんな化け物であるかのように映るのだろう。
 僕は、邪魔にならないようなところに腰掛けて、の子とちばぎんが何をするのか、見る事にした。僕は段差に腰掛けて、の子の方をぼんやりと見ていた。・・・すると、の子が一瞬、チラリとこっちを見た。僕はその時の表情を、一生忘れる事ができない。
 それは、他人が怖くて怖くて仕方ないという顔だった。目が大きく剥きだして、一瞬だけこちらを見た。・・・僕がそこにいて、そっちを見ているのが多分、気に触っただろう・・・。だが、その気に触り方は、やはり根源的なものだった。その顔は、とにかく恐怖の表情に満ちていた。・・・僕は、の子の方を見るのをやめて、その場から離れた。
 その後、僕は路上ライブと称するの子がただたんに暴れ叫びまわっているだけの様子を、ファンに混じってずっと見ていたのだが、その事も書かなければ手落ちだろう。の子は、一人でパソコンを持ちながら、ファン相手に一人叫び回っていた。そして、その間の、残り二人(みさ子は見当たらなかった。)のメンバーの表情もまた、僕は忘れる事ができない。
 二人のメンバー・・・ちばぎんとmonoの二人は、の子が暴れまわっている間、何か、自分の子供がいたずらしているのをあえて咎めずに、少し微笑みながら見守っている母親のような、そんな表情をしていた。二人は、ただ、の子という特異な人間が叫び回っているのを優しく見ていた。その時、バンドの関係性というもの・・・・というか、バンドというもののつながりの根源を感じたといっていい。
 そして、その路上ライブと称する、の子が一人で片手にパソコンを持ちながら、わめきまくっているその様子ーーーそれを見ている、周囲の人達は多分、面白がって見ていたのだと思う。そして、ネット上で、の子のパソコンを通じてその映像を見ている人もまた、面白がって見ていたと思う。だが、僕は見ていて悲しかった。それは海の底のように真っ青で、また同時に暗い、悲しみだった。道化の悲しみについて理解するには、また自分も道化である必要があるのだろうか。
 セルバンテスのドンキホーテというのは滑稽小説だが、同時に、これほど悲しみに満ちた作品はないように思われる。人が、この作品を喜劇的と捉えるように、の子という人間を喜劇的に見る場合もあるだろう。・・・だが、神聖かまってちゃん、並びにの子という人間は、根本的に太宰治的な性格を持っている。彼は優しい。そして、彼はその優しさ故に死ぬべきであった。この世界では、純粋な優しさだけでは生きていかれないから。だが、彼は何かのきっかけで、生きる事になった。それはおそらく・・・いや、間違いなく「音楽」だろう。彼の「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲が、それを証している。彼は、この世界と闘うにあたって、音楽というたった一本の槍しか持たなかった。・・・だが、また同時に、彼にはネット上の生放送を通じて、道化を演じるという手法もある。彼はこれを巧みに、自分のプロモーションに使ったのだが、その裏の悲しみと孤独に気づいている人は少ないのではないだろうか。・・・あたかも、お笑い芸人というものが、本当に始終おもしろおかしい人であると錯覚するように。
 こうした神聖かまってちゃんの道化的な性質によって、人は眉を潜め、そして楽曲の魅力に入っていく事に躊躇するか、また、「確かに良い曲もあるがバンド自体はクソ」という評価も現れてくる事だろう。・・・実を言うと、僕もまた、道化としての神聖かまってちゃんには、の子が考えているほど多大な意味はないように感じている。僕が衝撃を受けたのは何より、楽曲の衝撃であって、パフォーマンスの衝撃ではないから。・・・だが、それでも、やはりそのパフォーマンスの裏には常に、孤独と悲しみを前向きの道化的演技に変化させようとする、一人の暗い戦略家が眠っているのだ。


 
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 ライブから帰ってきたその日から、どういう訳か、僕の頭にはある映像のようなものがちらついて動かなかった。それはある種のイメージであって、夢のようなものだった。・・・その映像というのは、一人の少年が真っ暗闇の中、何かに追われながら、必死の形相で逃げて走っている・・・というものだ。そして、その少年の恐怖と焦燥は、まるで手に取るように僕の心に強く感じられた。
 そして、その映像はまる一週間近くも、僕の脳内で頻繁に再生された。・・・そんなことになった理由というのは、僕が、の子という人間を直に見て、そしてそのために、の子という人間の恐怖と悲しみに、自分があまりにも強く同調してしまった結果だと、今では考えている。そして、もちろん、の子の作ったPVの中で、一人ぼっちでどこか田舎の道を走るという映像が頻出してきた、そしてそれを事前に見ていたという事が大きい。
 僕は、自分の体験も合わせて考えて、こうした映像というのが、の子の原風景なのだと感じる。PVは作られてはいないが、もし「ぺんてる」のPVがあったら、それは一人の陰鬱な少年が田舎の田んぼ道を歩いている映像になりはしないか?。・・・そして、それはの子にとって、おそらくもっとも陰鬱で暗い瞬間であると共に、創作意欲が湧くその泉にすらなっているのかもしれない。



ぺんてる 
 
放課後はまた蛙道
ゲロゲーロだぜくそがぼくは
ゲロまみれだくそがマジで
どーでもいい
ジャポニカ学習帳に今
ぼくなりに学習した事さ、あーもう人生が完全に
狂っちゃっている

ぺんてるにぺんてるに
助けてくださいなんて言えればさぁ
ぺんてるにぺんてるに
助けてくださいいつものくださいな
サイボーグなんだっておばちゃんは
ゲロゲーロなぼくがいても終始
だんまーりと読書しちゃっている
どーでもいい
ぼくは また ぺんてるに 行きました。
Lowテンションな文章で結構
雨があがる前に
ぺんてるにぺんてるに
助けてくださいなんて言えればさぁ
ぺんてるにぺんてるに
ぼくの人生をずっと蹴っ飛ばしてみんます
1学期、2学期、3学期と
時は、撫ぜて
ぼくはまた
一つ大人になって
二つ大人になって
三つ大人になりました
ぶ厚い風に飲み込まれちゃ
いったい僕はどうなるんだろうとまだ考えてるのに人生が
ふわっと舞い上がる
あーもう嫌だ、ゆーっくりと
大人になりました
僕は大人になりました、
冷たい風に吹かれて
どうしようもない大人になりました
ジャポニカ学習ノートのページがどんどんめくれてく
僕が学んだ事なんて風の中へと消えてゆく
あーもうどうするか、あーもうしらねぇぞ僕は
風に吹かれてしまおう
落ち葉のようになれ果てよう
考えて生きてくような価値なんてどこにあるんだと僕は思うのです
放課後から続く蛙道、どーでもいいやとほざきつつ
どこまでもどこまでも生きたいと
願っているのかよ
殺してやると呟いて
頭を下げて謝った
僕はいつまでもそんな糞ゲロ野郎でさ
あぁもうどうなるか、まぁどうでもいいんですが
僕はぺんてるに行きました
ぺんてるにぺんてるにまた行きました
ぺんてるにぺんてるに買いに行きました
僕はぺんてるに買いに行きたいのです
また、ぺんてるにぺんてるに


 ここでも、やはり「ロックンロール」と同じように、一人の少年が放課後に田んぼ道を歩いて帰っている姿が見える。だが、彼は、そこではもはや、ロックンロールのような向上性は見せてはいない。彼は、屈辱感と逃避願望の入り混じった世界の中にいる。
 彼は絶望し、俯きながら下校している。彼は孤独であり、世界は真っ青である。・・・彼には嫌な事があったのだろう。「殺してやるとつぶやいて/頭を下げて謝った」。この経験を、詩人特有のものとみなしてはならない。これは誰しもが、生活で遭遇する一場面にすぎないのだ。だが、その屈辱感を歌詞に、曲に、正確に反映したのは、の子だけだ。・・・ここで、ひとつの疑問が起こる。・・・なぜ、誰しもが考え、感じている事を、場面として、描写として表す事ができるのは稀有の芸術家だけなのか?・・・誰もが感じているのなら、誰もが表現できるのではないか?
 ・・・その答えは、次のようになるはずだ。それは、人は、自らの無意識の奥深くに手を入れて、それを形象化するという技は誰に許されていない、という事に。未熟な芸術家は意識の表面を撫でる。彼は他との違いを出すために、突拍子もない描写や、わざと極端な残酷さやエロティシズムを持ち出すかもしれないが、結局は凡庸なものである。非凡なものとは、凡庸な人の中も眠っている。だが、誰も、それを、ある種の形として取り出す事ができないだけである。
 ・・・の子が、この作品で特に際立って表現している人生に対する挫折感というのは、多分、きわめて重要なものだ。僕は今から、それについて話そう。
 僕達の世代ーーーこの二十一世紀のはじめに青春期を過ぎたものには、共通の感覚があるだろうし、また今も続いている、ある感覚とでもいうべきものが、僕達の中にはある。それは、生ーーーつまり、人生というものに、あらゆる幻想の重荷を被せて、すっかりわけがわからなくなってしまったという点にある。生きる事は希望に満ちている。生きる事は夢を持つことである。将来の為に勉強せよ、学べ、人生のコース、その理想の道について、誰もが喚き続けている。だから、僕達は、そのコースから外れている自分を見ると、まるでその自分が恥ずかしいかのように感じる。「僕は人生の理想のコースを歩いていない。」この、情報が神となっている世界では、全ての模範、理想が僕達に示されるかもしれない。・・・だとしたら、逆に、そこから外れた僕達の挫折感は、前代未聞のものだ。それは、もはやこれまでのどんな実存主義者も予想できなかった、大きな挫折感だ。・・・そして、それはまるで、「人間」を剥奪されたかのような感覚だ。
 だが・・・僕達は、あまりにも慣れてしまった。そんな恥ずかしい自分を隠蔽する事に。どんなに恥ずかしい(と思われる)立ち位置にいる人間も、どんな立派な立場にいる人間も、自分を隠蔽する。それが、一種の処世術であるからだが、しかし、本当は、生の自分を見る事に対して、本能的に恐怖しているのだ。ニートであろうと、何であろうと、自分の姿を直視する事は恐ろしい。・・・裸の自分を見る事ほど、恐ろしい事はないのである。人は、すでに、この世界では、人間を、そして人生というものを、様々なメディアを通じて、様々な幻想形態に作り変えてしまった。だからこそ、そこからの挫折感は凄まじいのだ。過去のどんな世界で起こった挫折よりも。・・・そして、落下していく自分を見る事はほとんど誰にもできなかった。・・・僕達はいつも、言い訳ばかりしていた。本当の自分はこんなんじゃない・・・・・自分はこれじゃない・・・。
 そこで始めて、の子は見た。「殺してやるとつぶやいて/頭を下げて謝った」。
 ・・・だから、この楽曲並びに、の子のこの挫折感、飾らなさ、裸の自分を直視する姿勢に、共感するファンというものは十分な根拠というものがある。そして、それは現在的なものである。・・・こうした曲に共感するファンの心理としてはーーー僕もそうだからなのだがーーー、現実世界では、ある程度、気が弱く、優しい為に、自分を偽り続けてきた人ではないだろうか?・・・。優しいが故に、自分を偽ってきたわけだが、その偽りに対しては、自分でも、よくわからない憤懣を感じて生きてきたのだと思う。社会の常識、背丈をピンと伸ばし、肩肘は張らなければならない。仮面を、人は被らなければならない。それが生きていく事だ・・・それはよく知っている・・・でも・・・・・。そんな時に、おそらく神聖かまってちゃんの、たとえば、この「ぺんてる」が福音のように聞こえてくる。その時、はじめて、人は、自分が、自分にとっては過大な重荷を背負って生きていた事に気づくのである。・・・素顔でいいじゃないか・・・。だが、素顔とは何か?・・・そう、それは結局、社会の常道に反する事かもしれない。素晴らしい人生、立派な人間・・・僕らがいつの間にか作り上げたそんなもの、そうしたレールから外れる事なのかもしれない・・・。ちょうど、ここでアンチとファンとは二分される。俺は立派な人間だ・・・俺は自己弁護を止めない・・・・・よろしい、ならば、神聖かまってちゃんの生の声は、その人の排するところになるだろう。・・・もちろん、神聖かまってちゃんを否定する事は誰でもできるし、したところで、何ひとつ、何の問題もない。むしろ、その人はその事によって、自身の健全さに帰る事ができるのかもしれない。だが、たとえ、そうした人でも、絶対に否定出来ないものがひとつある。それは、生の自分だ。本当の自分だ。・・・どれほど、着飾って、自分を偽り、飾り立てようと、真の自分はいつでも影のようについてくる。・・・だとしたら、それを最初に歌い上げた神聖かまってちゃんという存在に、再びスポットライトが当たらねばならいなのではないだろうか。
 この少年は、深い敗北感と挫折感の中にいる。・・・そして、彼はそこから、現実から逃避する為の手段として「ぺんてる」に行く。・・・敗北の姿。だが、「考えて生きてくような価値なんてどこにあるんだと僕は思うのです。」これは、敗北と挫折感にまみれた人間の独語だ。だが、それと同時に、それは社会に対する反撃の芽をも含んでいる。だが、この少年はロックンロールの時のように、肯定的な主義主張まではたどり着かない。彼は、敗北する。敗北の姿を、僕達になんのてらいもなく、晒す。そこには、裸の人間の姿がある。だからこそ、虚飾によって彩られた世界を歩行する事に疲れたもう一人の僕達は、この「ぺんてる」のような曲を聴いて、はじめて安堵するのだ。そこに、共感がある。それこそは、もう一人の自分であり、肩肘を張っていた自分に失われていた真の姿だ。

 

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 今度は、神聖かまってちゃんとしては、非常に珍しい、恋愛の曲をとりあげてみよう。・・・僕には、この曲は、他の恋愛の曲、例えば「ベイビーレイニーデイリー」や「Osー宇宙人」よりも、遥かに痛切に感じられる。そして、この痛みはとても現代的なものだ。



                                             ちりとり

だからと言って
僕は逃げていたわけじゃありません
すいません
嘘つきました、いま
あなただけ あなただけ
それだけなんです
多分僕はちょっと
多分僕はちょっと
多分 多分
ばか、なんです
やぁ
去年も1階から3階へ
夏の声をジャンプさせました
あなたには あなたには
届きもしません
多分僕はもっと
多分僕はもっと
ばかに ばかに
なれば
放課後僕と君
掃除当番同士少し喋りました
優しくしようとして先帰っていいよ
なんて言っちゃいました また僕は

ああ ばか
1、2、3
と数えました
1、2、3と
4、5、6と数えていたら
出てくる出てくるあなたの事ばかり
次々と次々とあなたの事ばかり
なんですかこれ
なんなんですかこれはー!
そう 街の灯をなぞって
さっき帰っちゃった君を追いかけました
最後にくれたあの一言と
最後にくれたあの微笑みが
足を加速させてゆく
掃除当番あなたとやれてよかったと思ってます
あなたの美しいちりとり捌きをみれただけでも
本当によかったと思ってます
しかしだ
あなたは僕の心までちりとっちゃったのです
それは完全に奥までちりとっちゃったのです
僕もあなたをちりとりたいのです
奥まで
奥まで
  


 これは恋愛の曲だ。それも、たぶん、中学生ぐらいの、まだ幼い少年少女の淡い恋だ。実際、こうした事が、の子の身にあったかなかったかは、さしあたってどうでもいい。大切な事は、それが楽曲に表現されている点だ。僕は、この曲をはじめて聴いた時、涙が溢れてきて止まらなかった。痛切な恋愛の曲は、もちろん、かつてにも沢山あったし、素晴らしいものが沢山あったろう。・・・だが、これほどにひねこびて、淡く、縮こまった恋愛の曲を聴いた事は、僕は他には一度もない。・・・それが、こうした、単なる恋愛の歌にも、神聖かまってちゃんらしさが現れてくる所以だ。ここには、社会によって歪められ矮小化された個人がいる。だからこそ、この少年の恋愛は、あくまでも薄くて、淡く、小さく、いじらしいのだ。ここでも、やはり神聖かまってちゃんのどの曲、そしておそらくの子が生きている間のどの瞬間にも感じているような、そうした世界の圧力ともいうべきものが、確かにそこにある。それは、かまってちゃんのどの曲にも、表現されているといっていい。それが表向きになる時もあれば、背後に隠されている場合もあるが、どちらにしても、この世界は個人を押しつぶそうとして圧力をかけている。そして、の子の世界にとっては、この個人は、この世界の圧力に対して抵抗し、戦わなければならない。かつての偉大な芸術家達がみんなそうしたように。
 ・・・そして、恋愛というものが、古来からさんざん芸術のテーマになったように、これは個人的なものであり、社会と対立する場合が往々にしてある。その例は、ロミオとジュリエットを一つあげれば十分だろう。
 だが、この少年の恋はあまりにも弱々しいものに感じられる。だから、この少年の恋は、社会との格闘までは行き着かない。・・・それは世界に置き去りにされたような場所で、ぽつんと光っている小さな恋なのだ。

 「放課後 僕と君 掃除当番同士少し喋りました/優しくしようとして先帰っていいよ なんて言っちゃいました また僕は」
 ・・・僕達は、こんな純真な感情をもうとっくに忘れていたに違いない。世界は今、回転している。だが、その回転は、僕達の露わな感情の事など、とっくに忘れて回転している。・・・誰もが、他人を見て、笑っているこの世界で、純真さというのは愚かさと同じく、他人の額についたあざ笑うべき兆候にすぎない。その世界の中で、自らの心を開陳するとは、どういうことか。
 「そう 街の灯をなぞって さっき帰っちゃった君を追いかけました 最後にくれたあの一言と 最後にくれたあの微笑みが 足を加速させてゆく」
 少年は少女を追っていく。だが、何故この少年の姿はこんなにせつないだろうか。何故、少年の恋愛が明るく、向上的で、世界に認められた健全なものであってはならないのか?・・・。この少年は、何か恐怖のような感情、人間に対する恐怖のような感情を背中に負いながら、少女を恋い、求めるのだ。
 「掃除当番あなたとやれて良かったと思ってます あなたの美しいちりとりさばきをみれただけでも本当によかったと思ってます」。今、この世界はどのようになっているだろうか?・・・いや、今の、中学生や高校生というのは、どんな恋愛をしているのだろうか?・・・僕は知らない。僕は、僕自身の、過去のそんな学生時代を振り返っても、ただ空っぽの自分を見つけるだけだ。おそらくはの子と同じように。この世界に、虚飾は、造花のようにして広がっているが、それは大人の世界だけではない。大人達が嘘をつくことを当たり前にしてしまえば、子供達にとってもそれは正義となる。・・・つまるところ、僕達はいかに嘘をつくのが上手いのかを、この社会の中で争っているわけだが・・・・・まあ、そんなことはいい。とにかく、ここに現れた淡い恋慕の気持ちは、この世界の見せかけの華やかさの影に咲く、今にも倒れそうな一輪の花だ。だから、こんなにも切ないのだ。
 「しかしだ あなたは僕の心までちりとっちゃったのです それは完全に奥までちりとっちゃったのです 僕もあなたをちりとりたいのです 奥まで 奥まで」。・・・思うに、恋愛という言葉は、この世界にこうまでして広がり、様々な幻想を美しい蝶のように振るまいているのだが、だがしかし、本当の恋愛を経験するものがどれくらいいるだろう・・・?。恋愛というのは、いつの間にか、相手との功利的なやりとり、金、肉欲、その他を行使した、純粋な経済活動となったかのような感がある。誰もが恋愛を夢見るが、誰もが強情に肩肘を張っているために、互いにぶつからざるを得ない。恋愛の痛切な感覚が、僕達の肉体の一体、どこに隠れているだろう・・・?。僕達は、振り返って、失われたものを見る。・・・もちろん、それを見る目が、まだ残っていればの話だが。そして、そこには、きっと一人の少年が走っている。「街の灯をなぞって」駆けている。・・・そして、僕達はその姿に痛切さを感じて、涙を流す事が、まだできるのだ。それは、華やかさを装った僕達が、置いてきたもうひとつの姿だ。そして、その痛切さが僕らの胸に再び宿る時、世界の表と裏がはじめて入れ替わる事となるのだ。


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 元々、このバンドが起こした衝撃は、片隅でのものだったし、今でもおそらくはまだ、世界の中では片隅に留まっているのかもしれない。だが、それが普遍的な意味を持っていないという証拠にはならない。かつて、世界の表面に現れでなかった偉大といわれる存在がいかに多かった事か。
 世界は、今、虚飾に満ちている。・・・だが、そんなものは過去からずっとあった。・・・おそらく、虚飾が飾らない時代など、いつの世にもなかった。だが、曇天の奥に陽光があるように、その先にも常になにものかが控えていたのだ。
 そして、この世界の二十一世紀の初頭を飾った、きらびやかなデザインとは何か・・・?。それは、大戦の終わりから続く、大衆と平和の世界である。大衆は、世界の王となった。・・・そして、彼らは夢見る事を選んだ。
 神聖かまってちゃんに、「さわやかな朝」という曲がある。これは、家族の爽やかな朝ーーー実に模範的な家庭の、模範的な朝の食卓風景などを写してみせた作品だが、もちろん、それだけではない。そこに、この主人公とおぼしき息子の少年は、やはり、虚飾の匂いを感じている。確かに、この朝は爽やかで理想的なものに違いないーーー。だが、この少年は苛立ち、この風景に嘘の匂いを感じているのだ。
 この大衆の夢を強化したのは、もちろんテレビをはじめとする多くのメディアである。そこは、人々の夢を肯定する様々な言辞とイメージに溢れていた。そして、世界はいつの間にか、夢の中に紛れていった。僕達はみんな、いつの間にか、夢を真実だと受け取って暮らしていた。・・・そして、今や、僕達に残された事は一つしかなかった。つまり、夢から現実への落下、その失望と絶望である。夢がついに夢にすぎないとすれば、僕達は現実という地面に追突しなければならないだろう・・・。だが、それでも、人はまだ夢を見ようとする。「我々は間違っていない・・・我々は正しい・・・。」
 神聖かまってちゃんというバンドは何より最初に、ネットの言語にぶつかっていった最初の存在だった。・・・そうした場所にはすでに、無数の苛立ちの言葉が見られる。そして、そこにあるのは限りない自己肯定と、そして、自分の留まっている所から一歩も出ようとはしないその態度だった。聖書の言葉にもあるように、彼らは自ら門の中に入らず、他人をも門に入れさせまいと踏ん張っていたのだ。・・・彼らはいわば、失墜した現実の象徴だったかもしれない。僕達は沢山の夢を、希望を掲げた。それにより失墜した言葉は、罵倒と憎悪へと変化したのだ。彼らは敗れたのではない。彼らは最初から敗れていた。ただ、それが露わになったにすぎない。他人の夢に乗っている人間というのは、どれほど勝者に見えようと、根本的に奴隷であり、敗北している者にすぎない。
 神聖かまってちゃんは正に、そんな彼らに叫びかけた。「ロックンロールは鳴り止まないっ」。「自分らしく」。これらの言葉は、新しい自己表明であり、自分の創造である。自分というのは存在しない、だから創造する・・・・そんな、デカルトのような事をやったわけだ。人はみんな、自分を探していた。そして、虚像をこねあげて、これが自分だと信じようとした。あるいは、栄光ある虚像を作れなかった、「人生を失敗した」と考えた人々は、ネットの言葉を使って、他人を攻撃する事によって、自分を慰めようとした。だがもちろん、全ては嘘である。この世界という名の海の中で、自分という一滴の滴が自己主張するとは笑えることではないか・・・。自分は存在しない。自分は無だ、という事を直視することからはじめて、自分は存在する事ができる。「 創造というものが、常に批評の尖頂に据って いるという理由から、芸術家は、最初に虚無を所有する必要がある。」という小林秀雄の言葉は、根拠のあるものだ。
 だから、神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」という自己宣言は、二十一世紀初頭に青春期を迎え、その虚飾と華やかさを装った世界の香気を全面に受けた僕達にとっては、意味のあるものだ。もし、この曲、神聖かまってちゃんというバンドがなければ、僕達はこの世界の泥沼と、美しい造花の間をさまよい、そしてあるはずのない自分というものを永遠に探し続けたのだろう。だから、神聖かまってちゃんというバンドの意味は、ここにある。それは、僕達に、最初に生の感情を露出させ、自分の不在を直知させた。・・・それは、僕達が自分達の身を守るためと称して、かぶり続けていたあらゆる覆いを取り払ったのだ。そして、そこには当然、何もなかった。だがしかし、の子は、何もないという事が全ての始まりだという事を僕達に教えた。無論、僕達も生きていけばよいのである。それぞれに、生活の中で違ったシャウトがあるだろう。それはもはや、虚飾ではない。自分を失った事によるはじめての自己存在の確立、叫ぶ事によってはじめて生まれるもう一人の自分なのだ。

神聖かまってちゃん「ロックンロールは鳴り止まないっ」について

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 今、この文章を書き始めるに当たって、何から始めれば良いだろう?・・・批評というものが現代において、知的なゲームから逸脱して、行動の芸術に真剣に向かい合う知性の光であるためにはどうすれば良いだろう?・・・その答えは既にはっきりとしている。そして僕は、僕という人間はこの答えからスタートを切ったのだ。
 その答えとは「神聖かまってちゃん」であり、そして、その(初期の)思想の精髄である、「ロックンロールは鳴り止まないっ」である。この曲には、そうした思想などというものは入っていないように感じられるかもしれない。そうした高級なものなどどこにもないではないか、と。だが、そうではない。この単純な叫びから我々はーーー自分の脳髄に捕らわれていた我々はーーー始まるのであり、また始めなければいけないのだ。
 だが僕は今急ぐのをよそう。せいては事を仕損じるーーー落ち着いて、落ち着いて。僕は今、やっとこの曲の影響下から抜け出し、この偉大な芸術家(そうは見えなくても)から這い出し、ようやく、僕自身の沈黙を破る機会に出会っているのだから。

 芸術は形骸化する。全ての物がそうであるように。宗教、哲学、政治、学問、ーーーそして人間の生活さえも。もっとも無私であり(そして私的であり)、生き生きした実態であり、また、全てのものの源でありながら、それが生み出したものの所によって支配されるものーーー「生活」というものさえ形骸化する。・・・というより、現代という腐食した時代は生活という人間の最後の砦まで、形骸化して、食ってしまったと言えるだろうか。
 今、僕はこの形骸の歴史については詳しくは書かない。ただ一つ、宗教という例を上げてみる。キリスト教は教会によって形骸化し、神道は神社という「形」によって形骸化する。人間が本来持っていた素朴な神への信仰はいつの間にか、一つの形に変わり、それを人間が修めるようになり、いつの間にか神がーーー人々の中にいた素朴な神が消え、神に似た何かを信仰するように強いられているーーー偶像、お布施、豪壮な寺や神社、教会と言ったもの。それは神の象徴ではなくして、いつしかそれ自体が目的に変わるようになった。我々の中には神は既に失われているのである。・・・そして形骸だけが残った。・・・とでも言えば分かってくれるだろうか?他の事も似たようなものである。
 形骸化というのは現代人にとって、あまりに身近である。我々はそれを毎日、空気のように吸っている。それは誰にとってもあまりに身近ーーー身近というより、肉体の一部にすらなってしまっているので(時として肉体の全部ーーーいや多くがーーー)、誰も気付くことはできないし、実際できなかった。
 そして先にも書いたように、生活もまた形式と化した。これはまさしく現代の発見であり、社会の個人への浸食である。これまで生活は社会とは一線を画し、外壁を持って区別され、その内部においては、僅かにその自由を保存されていた。ところが現代においては違っている。それは一体何が原因だろうか?・・・おそらくはテクノロジーの進歩、情報というものの伝播のスピード、そして映像によって生活はその実態を映し出され、巨大なスクリーンに引き出され、そしてそれがもはや一つのモデル化してしまったことにある。・・・こうして各人は己自身に忠実に生活を意欲するのではなく、一般幻想(テクノロジーと欲望が作り出した)に向かって生活を始めるようになった。
 ここでついでに言っておきたいが、僕は保守派ではないので、テクノロジーの進歩がよろしくない、などと言う気はない。だが個人は社会と争闘し、社会は個人と争闘するべく(それがどんな良いものであろうと)義務づけられている今、個人は圧倒的に社会に敗北しているという現状を正しく認識したいと願っているだけだ。
 そしてこの現状ーーー社会が個人に圧倒的に勝利し、我々の生活が既に「モデル化」し、形骸化してしまっているということを我々は殆ど無条件に享受してしまっていた。芸術というものは常に社会に対して個人の自由を宣言することによって・・・つまりは個人が社会に勝利することによって、また社会の進展を促し、その発達を促してきた。なぜなら、社会を発達させるのは常に社会そのものではなくして、強い個人(天才と呼ばれる)の力だからである。
 そして現代の現状はどうであろうか?・・・一体それはどうなっているだろうか?・・・我々は自分たちを省みて、まるで自分たちが海の中の一滴のように、社会という海に吸い込まれているのを感じる。「我々は存在しないのだ。」そして我々は・・・我々を追い求めるほど、自分自身から離れて行く。なぜなら、そうした我々の像というのはまさしく、社会が我々に与えるべく用意した、それぞれにお誂え向きの衣だからだ。・・・だから、誰しもが自己主張しようとする時、「社会的なもの」を持ち出す。「私は社会に認められたことがある・・・私は社会に認められたことがある・・・」。こうして個人というものは消失してゆくのだ。
 もう一度整理してみよう。この現代の現状、個人が一種の集合体として社会の中心に集まり、一つの塊のように個人そのものが溶けてしまっているという現状ーーーの源は先にも言った通り、テクノロジーである。(テクノロジーそのものが悪ということではない。)この伝播と伝達をその基礎に持ったあるものは、常に四方八方に情報をまき散らし、また情報を取り込むことが可能だ。・・・これによって全体の意向に沿いつつ、また同時に全体を制御し、部分を排除するような情報の集合体が生み出された。・・・我々は知らず知らずの内によってこれに規定されているのである。
 こうした世界の中にいる一人の個人の像を思い浮かべて見よう。それは正しく「あなた」であるはずだ。・・・まあいい。この個人は全体によって統御されている。この個人は、テクノロジーが生んだ一つの情報体によって、常にその肉体を、そして精神を、取捨選択され、価値づけられ、また無能、無策、役立たずとも判断される。我々は個人としては日々、こうした選択を受け続けている。
 だが先に言ったように、我々は「同時に」規定する存在であるはずだ。全体は個人の意向に沿いつつ・・・とさっき言ったばかりである。だから、この個人は全体を規定する。だが、規定するのはあくまで「多数の個人」である。だからこの個人にとって、全体とは常にあまりに巨大であり、そして自分という個人は絶対的に無力である。・・・そうして自分の非を悟った個人がどう動くか?・・・答えは一つだ。全体に依拠し、同化する事で力を得ようとするのだ。一般社会、一般的な理念に自己を捨ててすり寄ることで(ここでもまた一般社会、その理念そのものが悪というわけではない。それは必要な時もある)力を得ようとする。かつては自分達の意向に沿って生まれたこうした全体的な理念=情報の集合体というものは、もはや抵抗することなど全く考えられないような一つの巨大な生命体(全てを支配する)の地位を与えられたのだ。
 こうして一つの転回点が現れる。それはかつては我々が生み出したものであったが、今やそうではなく、我々に指示するものとなった。それはまず、誰よりも、弱者というものが自らを潔く捨てて、全体性の中に入ることによって、この個人というものを捨てた弱者が強者になることから始まる。彼は個人としての戦いを捨て、全体と同化することによって万能の神となるのである。彼に自分の意見というものはない。自分というものはない。だが全体の理念に従ってさえいれば、まるで万人に指示しているかのような錯覚を(いや、実際にしているか)自分に与えることが可能なのだ。
 こうして全体性は神となった、と言っていいだろう。そこには弱者を強者にするためのパラドックスがある。人は強くなりたければ、己を潔く捨てれば良いのだ。自分の意見、自己などという厄介なものをゴミ箱に放り込めば、彼は今すぐにでも、万能の神になれるのである。・・・これが今、我々が体感し、また取り込まれている実状と言える。この世界では弱者は強者となり、個人に拘泥するものは泥水を啜るのだ。・・・こうした状況に「神聖かまってちゃん」の「の子」は「ロックンロールは鳴り止まないっ」をひっさげて現れた。・・だが今、またもう少しだけ振り返ってみよう。これは、大切な事だから。
 我々にとって全体性とは、その理念とは神である。それはもはや、かつて我々が生み出した、生活の一般的形態、その抽象体とは似ても似つかない。我々の日々の生活がそれを作り出すのではない。我々はむしろ、その一般的な世界にとけ込むために一つの生活を行うのである。我々の一挙手一投足には意味がない。それは全体の光に触れることで、初めて意味を持ち、生命の息吹を吹き込まれるように感じられる。我々には個人、そして自己というものの所有は許されていない。そうしたものは持った途端に、社会から、全体から糾弾を受けるものである。我々が強者になるためには、自己を捨てるのが一番だ。・・・簡単に言って、現代の全体性とは、僕らとっての神であり、宗教である。・・・神を嫌い、宗教を嫌い、我々はここまできた。だが実際に現れたのは宗教よりももっと拘束力の強い、全体性の理念である。
 こうしたものは先にも言ったように、率先して自己を捨て去るものがネガティブなリーダーシップを取る。彼は全体性からはずれるものを貶し、陥れる。・・・こうして我々は少しずつ、全体性に同化することを半ば強制、また半ばは自己の安楽のために喜んで自己を犠牲にして全体性に捧げることになるのだ。
 こうした事における弊害とは何だろう?・・・まだ弊害というものを問うことができればの話だが?・・・なぜなら全体性というものにとっての弊害というのは個人的なもの、全体としての理念から外れたものに他ならないからである。今、私が問おうとしているのはそうしたことではない。
 こうした事についての弊害として当然、考えられることは、個人、自己というものがないということである。だから当然、人生というものはない。それぞれが違った航路を進み、また違う航路を進むからこそ、他人同士が互いの運命を認め合って同和する・・・などということは考えられない。みんなが同じ道なのだ。みんなが同じ考え、同じ表情、同じ人間に統一されてゆくのだ。この社会では。嘘だと思うなら、君の隣人の表情を見ればいい。君そっくりだから。君が頭でどれほど否定しようと、その隣人もまたあなたと同じように「自分はあなたと違う」と思っているのだから、これほど似ていることはない。
 この世界ではーーもうこの世界に棲んでいるのだーー全体というものに認可されなければ、人間としての意志と資格を剥奪されるというようなシステムになっている。もはや人間というものはいない。ただ人間という一般概念だけが我々の頭上に浮遊し、それは誰の手にも届かない所に存在する。各々がどうして違った顔をしているのか?・・・違った顔、個性というのは恥である。恥以外の何物でもない。世の中がどれほど「個性尊重」を叫ぼうとも、実際に社会に適合せず、役に立たず・・・いや、一般概念として認められていないような個性などはクズであり、ゴミである。それは必要ない。だから捨てられる。・・・「君は自分を叩き直してきたまえ。この社会に適合するように。」それだけである。・・・世界が個性と呼んでいるものは、我々にとって必要であり、かつ役に立つ限りの個性でしかない。「我々が認めてやらなければ個性などはない。」これが世界の声である。・・・だから今、個性のある人(芸能人など)はみんな、精一杯世の中に適合するように個性というものを演じて見せるのである。それは差異化を生み出すためだけに作られた差異である。彼らは一人ぼっちになれば、ぽかんとしてまるで能面のような表情を浮かべていることだろう。彼らの顔にどんな入れ墨も施せるように。
 個性というのは社会に強制された衣装である。この事を認めない人はもういないだろう。我々は何と多くの箇所で日々、自分自身を演じていることか?・・・そして演技が本質になり、自分自身がバラバラに裂けて、もう原型を留めていないのである。我々はバラバラの存在だ。もう自己なんてものはこれっぽっちも残っていない。そしてこうした、自己の非存在を熟知する人間ーーーいや、「知らずに感じている」人間が、この社会から再び、自分自身をもぎ取ろうと戦いを始めるーーー。だがこの人間は「なぜ」自分が存在していないかこれっぽっちも知らない(知りたくもない)ので、幼い自己主張をしようとして、益々ネットの中、情報、そして全体の中に入り込んであらん限りの声で自己を叫ぼうとしてまた、彼らは全体の中に沈んでいくのである。なぜなら彼ら自身、自分を失っていることに気付かないのであり、彼らは自分を得ようとして、益々社会が与える仮そめの自分に酔っていくのであるから。・・・これは麻薬などよりはるかにやっかいな症例である。なぜなら、彼らは酔えば酔うほどに、自分を失えば失うほど、自分が正義のただ中に、真理の中に入り込んでいるという事を自覚するからである。・・・こうして最後に無惨な一個人としての死体が浮かび上がる。全てが終わった後。まるでそれは彼らが間違っていたかのように顔面蒼白の死体顔をしている。生きていた時はあんなに生き生きとしていたのに・・・ではない。彼は人間ではなかった。一個人としての一人ではなかった。彼は全体に溶け、全体そのものとなっていたから、彼にはいかなる人間「関係」も、いかなる人生も、一個人としての喜びや悲しみは少しも、・・・そう、これっぽっちもなかったのである!・・・だが自然は慈悲ぶかい。彼は自然に帰って、初めて一人の人間に還ったのだ。無惨な一個人の死体として現れることによって。
 だがこれはあくまでネガティブな症例である。近い将来、こうした人々がかつてのヒトラーとそれを擁護した人達のように権力を握るかもしれないが、それはあくまでネガティブな症例である。・・・ではポジティブな症例ーーー病理の方を見ていこう。現代人というのはいずれにしろ、病人なのだから。
 何を隠そう、そのポジティブな症例こそが「神聖かまってちゃん」であり「の子」である。彼はこの腐った世界(と言っていいだろう。これほど堕落と諦念に満ちた時代はなかった)に咲いた一輪の花である。・・・ここでもまた、「良識ある人達」は鼻で笑うだろう。「あんなキチガイのどこがいいんだ?あんなのただのバカじゃないか?」と。・・・だが事実はそうではない。キチガイは我々の方なのである。この間違いに留意したまえ。この文章に傍点を打ちたまえ。もう一度言う。我々の方がキチガイなのだ。僕は「ロックンロールは鳴り止まないっ」を聞いた時に初めてそれを感じた。頭の輪っかが外れて、自分自身となった。・・・だがそんな個人的な事を語っていても仕方がない。このことをまた考えていこう。
 このキチガイーーー神聖かまってちゃん、その「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲、そしてこの作者「の子」は、誰よりも正常な人物である。いや、「あった」。彼はインタビューで言っている。「さすが天下一空気を読める男、俺」。彼はそんな風に自分を評価している。この人間はあまりに正常であったのである。この意味が分かるだろうか?・・・この人間はあまりに鋭敏で、他者に傷つき、おどおどして、自分を凹ませ続けているような人間なのだ。そして周りに怯え、傷つき、周りの空気を読み、そこに同化することにあまりに長けている人間なのだ。・・・ 我々は日常生活でそういう人間に出くわすと、そういう人間がなぜかいつも弱みを晒し、何かに怯えているような感じを受ける。事実、彼は怯えている。彼はいつも何かあれば自分を凹ませる人間なのだ。彼は全体性に、空気というものを読み、それにもっとももとり、私淑し、自己を凹まし、それに仕える第一等の奴隷なのだ。・・・こうした人間は精神の弱さと優しさのあまり、自己を破滅に導いて精神病院に入ったりする。・・・事実、「の子」もそうした系統の病院に通院しているそうだ。だがそうしたことは問題ではない。問題ではない!・・・問題はそこからの子という一人の人物が抜け出したことにある。彼はロックンロールというたった一本の剣を、武器を持つことで、それを理解し、摂取し、自らの剣とすることでこの世界とただ一人で戦っているのである。
 ・・・運命というのは不思議なものだ。僕は去年の十月に神聖かまってちゃんのライブに行った。その時、の子という人物と初めて路上で出会った。・・・出会ったと言っても、ファンである僕が少し離れた所から「の子」を覗いて見ていただけである。・・・僕はすぐにの子という人物がどういう人物であるかを理解した。これほど優しい人間はいない。そうなのだ。これほど優しい人間はいない。だから自分の優しさに傷ついて、他人を擁護し、他人に傷つけられることを良しとするあまり、自分の中に暗愚の怒りが渦巻いて、それがロックとなって迸る、そんな人間なのだ。
 僕はその姿を見た時、一つの運命の事を思った。優しく、弱々しい、一つの魂。だがその中には途方もないこの世への反抗心ーー一匹の天の邪鬼が隠されているのだ。もしこの人間に、社会に対する荒々しい反抗心がーーいや、例え備わっていたにしても、この人間が目の前にいることは奇跡なのだ。僕はその人間(の子)と会った時から、しきりにその事を思った。周りの人間は騒いでいる。「の子!」「の子!」・・・だが僕はそこには一つのあり得ない憂愁と孤独の魂を見た。僕だけが見たとは言うまい。・・・僕が言いたかったのは次のような事だ。すなわち、この社会、この世界ではこうしたの子のような優しく傷つきやすい魂は本来肉体の死を持ってこの社会から復讐されるべきものだった。・・それが正しいということではない。もちろん。こうした魂は現に、今日も自殺やメンヘラ(精神異常)という形で精神的自殺を遂げているだろう。だがの子は違った。何が彼を違えたのか?・・・それは誰にもわからない。だがこうは言える。神はこの人間に余りに課題な運命を課した。彼は言う。「神様、お前を殺してやる。」これは真実の叫びである。
 ・・僕は急ぎすぎたようだ。慌てるな、慌てるな。まだ先はある。・・・こうだ。彼はロックというたった一つの武器を手に立ち上がった。そして現実社会に対する失望と絶望から死に至ることはなく、(おそらくその時、精神は一つの死を見たーーーおそらく「いじめられた」時だろうーーー)彼はネット、インターネットという不思議な世界で再び人間としての自分を取り戻した。彼に肉体はない。僕は彼にーーーの子に会って、その事を感じた。彼に肉体は存在しない。ある文士によると、モーツァルトはその「肉体における分量が極めて少ない天才」なのだそうである。だが我らーー我らの時代の子である「の子」には、肉体というのは全く存在しない。彼はこの世界では死滅した存在である。・・・嘘だと思うなら、現実の彼を見たまえ。ライブに行けば分かる。・・・彼の顔は仮面がひっついて離れない、というような表情を常にしているはずである。
 こうした事が何であるか、と疑う人がいるかもしれない。こういう人間に何の価値があるか?・・・と。極端な場合は、ただの音楽ではないか?と言う人もいるかもしれない。(実際いるだろう。)だが、ただの音楽などない。ただの音楽などは教科書に書かれた音楽史を真に受け、真剣に捉え、それが音楽の全てだと思っている人々の頭の中にしかないのだ。ただの音楽などはない。それは常に(一流の音楽、そして芸術etc.)運命の奏でる主調音の一種である。自分自身の実存をかけた、現実世界との個人の駆け引きーーーその闘争である。・・・これを事実だと思わないものは既に、この世界に顔がめりこんでいるのである。僕はもはや簡単に言うことができる。君達が一人の人間の運命を掛けた闘争ーーーいや、運命そのものとの闘争、自分自身との戦いが自身であるような一人の人間ーーーそうしたものを認めない理由は正しく、君らが一人の人間である事を拒否して動物性にーーーいや、もっと無化された「無」に、この宇宙の始原以前の存在ーーーいや、非存在に還ろうとしている存在だからに他ならない。君らには人間の荷は重すぎたのだ。あまりに過大すぎたのだ。ーーーだから、君達はこの世界と闘争する一人の人間を認めないのだ。そして、孤立して世界と闘うような人間が自らの資質に従って、ロックンロールという武器を取ろうと、クラシックという形を取ろうと、僕のように(と言ってもいいだろう)文学などいう浅はか(と思われてる)ものでこの現実、この社会と戦おうと、そうした形式の違いはもはやそれほど大切なものではないのだ。人は形式から内面を読みとるしかない。だから形式は大切である。だが、形式から内面を、その深奥を覗きこまないものは一体、何であろう?・・・彼は形式がその本質と化した人間である。・・・だがその事はもういい。大切なことは・・・そう、大切なことは、この世界と戦うこと、一人の人間がこの世界の現実に辛い思いをし、復讐を果たし(ネガティブな意味ではない)、そしてようやく自分自身の人生をーーーいや、まだそこまで行かないーーー自分自身を、そういうものを、例え映像の中であれ、何であれーーー人はフィクションに生きるものだからーーー取り戻す、そう「自分を取り戻す」という事が何よりも大事なのだ!
 ・・・僕は語りすぎたかもしれない。だがそれでいい。現代に足りていないのは過剰であって、過少ではないから。・・・それはあまりに満たされ過ぎているために、人は急に突飛なことに飛びつく。・・・だがそういう事ももうどうでもいい。我々はここで一人の人間の運命というものに(現代人に運命ーーーというより宿命というものはない)出会っているからである。
 の子はロックンロールによって自分の回帰を果たした。その叫びを聞こう。ここからが本題だ。
 「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲は神聖かまってちゃんの代表曲と目されている。それはその曲が音楽的に優れているというより(音楽的な事は詳しくは僕には分からないが)、神聖かまってちゃんの思想の精髄が詰まっているからである。これ以前にも書いた。ではその思想とは何か?・・・それを見ていこう。
 僕はそらでも覚えている。この単純で力強い歌詞を。この作者は自分の過去を、幼かった学生時代を想起する。子供から大人に抜け出す、そんな時期だ。何もない学生時代、真っ黒な学生時代、その時、突然、ロックという流星に火が灯いたのだ。
 何もない学生時代・・・覚えがあるだろう。希望を抱いた魂はこの社会で自分ができることは何か、得意なことは何か・・・自分は何かをしなくてはいけないという使命感を抱いて社会に飛び出す。(学校も一つの社会だ。特にの子にとっては。)だがこの社会は冷淡だ。人々は今あるものを無条件に受け入れ、そして新たに何かをしようとする人間を拒否する。「空気読めよ」・・・これがこうしたものの言い訳だ。
 さて、我らがの子はこうした世界に絶望して引き返す。彼は希望を持ってこの社会に飛び立った。そして希望を持った人間は必ず、絶望しなければならない。絶望できるのは常に希望を持った人間のみなのだ。
 ・・・僕が語っているのはの子の実際の歴史ではない。の子にどうした歴史があるか、僕は詳しくは知らない。歴史家はそういったものを辿って、現実から一つの精神史を導き出してくるが、僕にとって大切なのはの子の精神史なのである。生な精神の現実ーーーその変化の歴史なのだ。
 この曲ーーー「ロックンロール」では、部活帰りにロックンロールを聴き、それが「MD取っても、イヤホン取ってもなんでだ、鳴り止まねえっ」というロックとの出会いから始まっている。僕はそこにーーー一つの光景が想像される。暗い道を歩いてーーー学校で嫌なことがあったのだろう、おそらく、嫌なことがーーーその帰りにロックを聴き、それに心打たれる純粋無垢な一人の少年がそこにいるのだ。
 繰り返し言っておくが、僕が言っているのは現実にの子にそういう体験があったかどうか、という事ではない。あくまで精神のイメージである。そういう像が現実に会ったかどうか、そういう、そういうようなロックとの出会いがあったかどうかという、ということだけが問題である。なぜなら複数の現実の中に埋め込まれた一つの真実を見つけだすのが芸術家の仕事であり、芸術家は現実に拘泥していてはいけないのだ。写実派という言葉があるがーーーどうしたって、写実が現実を映そうが映すまいがーーーそれは現実を超えなければならないのだ。もしその超える部分がなければ、なぜ印象派などというものが成立したろうか?
 の子が具体的にどういう歴史を辿ったのか、それはの子自身の歴史の奥深くの闇に隠されているのだろう。・・・「ロックンロール」に見られる、軽快な(と見られる)ロックとの出会いは、その背後に後ろ暗い闇を含んでいる。闇がなければ、内側に闇を抱いていなければ、また光と出会うこともできない。希望を持ってこの社会に飛び出すものは失墜せねばならないが、失墜したものだけが這い上がることができるのである。・・・現代人はおよそ「ポジティブ」という言葉を濫用するが、彼らには絶望がないので希望もまたない。白昼の中では光もまた薄いのだ。
 この曲の全体のテーゼは、ロックと出会った一人の少年が、ロックを叫び、そうして自分自身がまたロックンロールになる・・・というそんな過程を辿っている。そうした精神史・・・物語がある。僕はこの物語を信じる。彼を救ったのはロックという一本の剣であり、彼が現実に抗して、それと闘う刃はロックというたった一つの光なのだ。
 この曲の「ロック」ということに関して言うと・・・ニコニコ動画やyoutubeのコメント欄において喧しいように、「ロック」とは何か、ロックの定義とは何か、が問題になっている。・・・そして「ロックンロールは鳴り止まないっ」はロックだとか、こんなのロックじゃない、音楽じゃないなどといった賛成と反対の意見が入り乱れている様相になっているが、そうした病理そのものに彼らは気づいていない。そして心正しくこの曲を聴く人は正に、この曲が、そうした病理云々の人々に向かって叫ぶものだということに気付くであろう。
 ロックとは何か、という事に意味はない。繰り返し言う。そんな事に意味はない。ある一軍の音楽家達の集団をロックンロールと名付けたり、ジャズと名付けたりすることはできるだろう・・・。だが自分達をロックであると言おうと、ロックでないと言おうと・・・そうした事はどうでもいい事である。問題はそれがただ優れた芸術であるか否かという一点である。それがロックであろうと、ジャズであろうと、クラシックであろうと、どうでもいいことである。人の勝手に名付けた名称に、流れてゆく音楽が縛られるいわれはない。・・へーゲルやマルクスが歴史を規定しようと、今生きている人間が彼らの歴史哲学に縛られて行動しなければならない、といういわれは微塵もない。・・・だが現代とは正にそういう時代である。歴史哲学があれば、それに沿うように生きなければいきない、と思わせられている時代である。ある物事から抽象した真理というのが、真理なるものを元に行動の規範を転回しなければならない、そう思わせられている時代である。これは全く病的な事であるが、それはまるで空気のように(科学思想と共に)この世界に転回しているので、それに誰も気付いていない。それは作られた服を元に人間を裁断するようなものだが、皆、平気でそれを行っている。
 だが、ここでもう一度考えてみよう。「ロックンロール」という曲を。ここでは不思議な事に(不思議でもないが)、その最後には「(僕がこうして叫ぶ時)ロックンロールは鳴り止まないっ」という宣言で終わっている。これはどうした訳か。さっき、お前はロックンロールの定義などどうでもいいと言ったではないのか?・・・この点についてまた考えて見なければならない。
 この曲の最も主要なテーゼは、「最近の曲なんかもう糞みたいな曲だらけさと君は言う」という現実認識から跳躍して、「だから僕は今すぐ叫ぶよ!」という、現実に叫ぶという行為と自分がこうして叫んでいるという認識が統一している極点に集中してゆく点にある。そしてそれは「(僕が叫ぶ時)ロックンロールは鳴り止まない」という結論に墜落してゆく。この点についてよく考えよう。ここが主要なポイントだ。
 「最近の曲なんかもう糞みたいな曲だらけさ」と言うのは、言うまでもなく、僕らのペシミズムである。僕らはほとんど例外なく、諦めた表情をしている。「所詮、やっても無駄さ」・・・これが僕たちの言い訳だ。だが、事はここで終わらない。「所詮、やっても無駄さ」という我々の集団的認識は一つの行為である、という点に現代の最大の問題がある。観察が行為を制する。見る者が行動する者を圧し、その行動を制限し、最終的には行動そのものを疎外してしまうのだ。そしてこの見る者はこの化石化した(自分達が留めておいた)者達、行動しようとして失敗した(失敗させられた)者達を眺めて、次のように言う。「ほうら、やっぱり無駄だったじゃないか。」・・・人は、人を殺す時、巧妙に見えない所で手を回しているものである。自分達が見たいものを見るために、見られるものを巧妙に片方の手で、自分達で見られないようにしながら、操作し、あるいは破壊する。そしてその操作(破壊)が終わった後、彼らはそこに正に自分達が見ようとした真実を発見する。これが「現代の曲が糞みたいな曲だらけ」の理由である。
 ・・・だから、実際の所、そうした事を言っているものは正しく、そうした事を望んでいるのである。彼らはもし、世の中に素晴らしい曲の一つでもあれば、個人を、自己自身を歌った完全な歌があれば(それは正にこのーー「ロックンロール」だ)、真っ先に否定し、否定するどころか、抹殺しようとするのだ。・・・そうしてこうした曲を完全に無視か、あるいは無視できないほどの人気を集めてきたならば、集団的に圧力をかけて潰し(今のように)、そしてまたあの嘆きに帰るのである。「世の中の曲は糞みたいな曲ばっかりだ・・・」と。
 つまり彼らは自分の無価値を慰め、肯定しようとしているのであり、彼らにとって最大の敵は努力する者、上昇しようとする者、何より、優れたものを抱き、それを表現している人間達でありその作品や営為である。彼らは自分達が劣っている、誰よりも劣っている(身体的にとか、能力的にとか言う意味ではない。もちろん)ことを直感的に理解しているので、またそこから抜け出そうとする努力をする気もなく、また将来永劫に渡って「しないだろう」ということもこれまた直感的に理解しているので、彼らは何より、優れている(と考えられている)者を何とかその台座がひきずりおろして、自分達を慰めようとしているのである。
 何故そう言ったことが起こるかは分からない。だがとにかくも、この曲ーーー「ロックンロール」は正に、そうした人達に向かって反抗するために、の子という一人の人間の孤独の中で成熟された魂の一つの現れであるということは言っておきたいのだ、僕は。
 引き続き、彼の叫びを聴こう。「最近の曲なんかもう糞みたいな曲だらけさと君は言う」の後に彼は言う。「だから、僕は今すぐ叫ぶよ 君に 今すぐ 僕のギター鳴らしてやる!」・・・この「だから」の使い方は特徴的だ。そしてこの「だから」の使い方には一つの結節点がある。一つの極点がある。
 通常、「だから」という接続詞は「だから 無理だ」とか、「だから できる」とか言ったように一つの論理的演算としてーーー論理的な接続詞として現れる。現代人が神のように崇めている「論理的」という奴だ。この「論理」という問題は、原因と結果を、そして可能性と不可能性を示唆する数値として使われている。たとえば、もう少し営業成績を伸ばせるとか、伸ばせないとか、テストの点が良いとか、悪いとか、勉強したからテストの点が上がった、などのように、それは我々の(あくまで)ルールの中で可能性と不可能性の領域を示唆するものとして使われている。ところで、このの子の「だから」の使われ方はそうした使い方と全く違う。それは全然違う。そしてここに天才の秘密がある、と言っていい。・・・秘密を解明したからといって、天才になれるわけではないのだが。
 全て天才というのは困難を好む、という格言があるのかどうかは知らないが、そうなのだ。彼らは進んで、人が不可能だと言う、そう考えている領域に赴き、一つの場所を、一つの道を開拓してしまう。常識人達にとっては彼らはやっかいな存在である。・・・なにせ、自分の教義書に書いてある「常識」という概念を一変させ、それを覆してしまうからである。だから古代から常に常識人と天才は闘争を繰り広げてきた。常識人達は常に自分のドグマを脅かそうとするものを専制的、独裁的と言って殺戮してきたし、(そして優れたものに統治されるのを嫌った心性が最も劣った者による全体支配を呼び込んできた)、天才達は常にそれに反抗して、より上に、彼らを抜いて新しい不断のものを創造してきた。さて、ここで僕が何を言おうとしているか、もうおわかりだろう。常識家や音楽通、また根っからのペシミストや無関心主義者(世の中には様々な主義者がいるものだ)には笑われるだろうが、の子こそ正にそうした天才の一人であり、正に君達が美術館に行き無一文で精神を病んで死んだゴッホを称揚しているその横で、現代のゴッホはまた新たに生まれた(そうは気付いていないが)常識と格闘しているという訳である。
 ここで先に言っておいた「だから」の誤用も明らかになる。・・・それは不可能「だから」するという意味だ。普通、できないのは不可能だからであるが、天才達の一人であるーーー現代の天才であるの子は正に人が不可能だという領域に切りかかって、できる、イエスと言う。彼がなぜイエスと言うのか?・・・それは紛れもなくそれが不可能だからである。では現代の不可能とは何か?
 「現代の不可能」とはもちろん我々が先に取っておいた「最近の曲なんか糞みたいな曲だらけ」の状態である。これも先に言ったが、こうした言葉はあらゆる状況に適応できる。・・・ただ、の子がロックという一本の剣を掴んだ時、目の前に見えたのは嘆息する自称音楽通達、いや自分が平凡であることに自足しながら天才が「いない」という事を嘆いている振りをする人達だったのだ。
 「最近の曲が糞みたいなのは」彼らが正にそう言うからである。観察が対象を、見られる物を征する。こうした不可能性ーーー不可能性の要求に伴った不可能性の平原ーーー彼らは自分達ができないことを正当化するために全てを「できなく」するーーーに対して、の子はロックという剣を持って立ち上がる。
 「だから僕は今すぐ叫ぶよ 今すぐ 今すぐ 遠くで近くですぐそばで叫んでやる!」
 ここで「だから」の意味もーー僕が言っていた意味もーーようやくはっきりするようだ。天才は皆困難を好む、とさっき言った。だが、の子が天才かどうかはどうでもいい。の子が天才かどうかという空虚な議論はどこかで行われているのかもしれないが、そうした事は彼の曲がロックの範疇に入るかどうかというのと同じくらい、意味のない事だ。彼らは永遠に空虚な形式を追い求めて自分を失うだろう。そして決して、曲そのものを、曲そのものに雷光に打たれるような体験を味わうことはないだろう。彼らは永遠に頭脳だけで永遠の都を作ろうとして泥沼を這うだろう。ーーーここでの「だから」の意味はもはや言ったように、全てを超える、そうした事に意味はある、そしてこの全てとは我々の心理であり、状態である、という事だ。はや、自然は失われた。古代から続いていた自然は失われたのであり、人間のドグマだけがつるつるした自然界のようにこの環界に残ったのであり、それが全てのルールとして人間に残された。全体は個人を規定するのであり、個人とは社会から離れれば何ものでもないーーーそんなルールが人間の頭上に天界のように張り出し、それがこの宇宙のーーー人間の宇宙の根幹を成していた。我々は常に社会に敗北しているのであり、隷従しているのであった。そしてここでは「最近の曲なんかもう糞みたいな曲だらけさ」がその象徴ーーーというより、その隷従と敗北に対する肯定の姿勢の象徴として現れる。そしてそれに対して「の子」は通常とは違う誤用で「だから」と繋ぐのであり、自分が叫ぶこと、それがそうであるから、正に人々が沈黙し、沈黙を強制しているから「こそ」、叫ぶことを宣告するのであり、そしてその言葉と共に叫ぶことによって、この現代という時代を軽々と、巨人の足のように越えて行くのだ。
 さて、ここで僕は最も大切な事に触れたように思う。大切な事は超えること、そして叫ぶことなのだーーーロックかロックじゃないか、ではない。いや、もっとも、ロックというものは元々そういものではなかったのか?ーーー叫ぶこと、自己主張すること、若者が若者らしく自己主張して何が悪い?・・・ゲーテが嘆息しようと、若者は常に新しく自己主張を始めるものだ。自然は常に新しく生み出される。だが、人間においてはタダで、という訳には行かない。そこには才能と意志が必要なのかもしれない。そして才能と意志が無いものが、もっとも勝ち誇った顔をして、何かを始めようとしている者をネット上で軽蔑する。冷笑し、唾を吐きかけ、立ち去る。そして最も才能と意志を持ち合わせるものが誰よりも敗北感を抱いて、それをバネにして立ち上がるーーーそうしたことかもしれないのだ。勝利とは、敗北とは一体何だろう?敗北者がもっとも勝ち誇った顔をしているかもしれず、勝利者がもっと情けない顔を泣きべそを誰よりもかいたかもしれない・・・そしてそれを自分で意識したのだろう・・・の子はひどいいじめを受けたそうだ。そして誰よりも心に深い傷を負った。誰よりも優しいために。
 我々が時代を超えるとはどういうことか深く考えてみなければならない。ここで鳴っているのはただの音楽ではない。そこにあるのは一つの魂の意志であり、個人が社会を越えて行く瞬間なのだ。ここで鳴っているのは音楽ではない。一つの魂の音楽、その意志、越えて行くもの・・・・そうでなかったら、音楽とは何だろう?・・・詩が、音楽が、その「高尚な」形式に堕して、一体どうやって人の心を震撼させられるというのだ?・・・そうしたことは大学教授、その徒党、そしてそうした事で利得を稼いでいる一部の者達・・・そして大衆をまんまとだましおおえている自称玄人達に任せておけばいい・・・。形式が魂を規定するのではない(彼らの魂がそうだとしても)。魂が形式を規定するのである。そうしたことから当然、ロックの精髄が、そのシャウトが、その魂がこれまでのロックという形式を破ってまた新しい形式を創造することもある。そしての子がこの曲で(また初期の一群の曲の中で)成し遂げたことこそ正にそれだったのだ。彼は言う。「僕が叫ぶ時 ロックンロールは鳴り止まない」と。
 さて、これで僕は最も大切な事に、最後まで触れたと思う。これで僕の初めのーーー拙い批評を終わりにしたい。ここまで来れば、初めに言った全てのものが形骸化する、という言葉も、またの子がそれを超えていった様もよく見下ろせるはずだ。・・・この曲で・・・僕はこう思う・・・この曲での子は僕たちを入り口まで、扉の入り口まで連れてきてくれた。ここから先を扉を開けるのは我々自身であり、その先にはどんな未来が待っているかは全く分からない。だが始まりのない時代に、(全ては封印され、凍結され、見えないようにされていた。誰かが見つけだそうとするとたちまち止められたーーー本編でさんざん言ったことだーーー)始まりをつけたのはの子であり、その最初の宣言がこの曲である。そしてこの扉から先、どう歩こうが我々の勝手なのだ。未来は一つの若者の手からまた新たな若者の手に移るのであろう。絶えず、人々の制止する手を食い破って。 

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