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詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

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バルザックからドストエフスキーへ


 


 小林秀雄の言葉を信じると、バルザックが発見したのは、「どのような個人も、社会における一存在だ」という事になる。例え、富豪であろうと貧乏人であろうと、社会において生息し、自分の生き方をしている一人の個人である(にすぎない)というのがバルザックの洞察だった。

 一方、バルザックの終わったところから始めたドストエフスキーはどんな発見をしたか。僕の定義では次のようになる。

 「どれほど巨大な自意識を持った個人であろうと、社会の中の一存在として生きざるを得ない」

 ここで重要な所は「生きざるを得ない」という、やむをえない、というポイントにある。人間は自己意識を持っており、ほっとくと膨らんでいく。究極的に膨らんだ自意識としては、パスカルという一個人を思い浮かべたい。

 「宇宙は物理的に私を包んでいるが、考える事によって私は宇宙を包む」

 この時、パスカルは(「罪と罰」の主人公)ラスコーリニコフによく似ている。考える事が「仕事」だったラスコーリニコフは、殺人という行為を犯し、他者の媒介を経て、社会へと解消されていく。

 例え、どのように反社会的行為であっても、それは行為であるという理由によって社会的行為の一つである。例え、愚かな殺人という市民社会に反する行為であっても、反するという意味において、社会的行為だ。屋根裏部屋で夢想にふけっているラスコーリニコフにはどのような劇も起こりようがなかった。彼は怪物のように、思考と夢想を膨らませていただけだ。

 夢想が凡庸な行為となる時、ドラマがおこる。他者との関係、社会との関係がある。仮に殺人というものが、犯罪であっても、やはりそれは行為であり、社会の中に起こるある事柄である。犯罪者が反社会を唱え、死刑になるまで世界に抵抗し続けたとしても、彼は抵抗という形式を通して、社会的な存在だ。

 社会は彼の首を刎ねる。その時、社会は刎ねられた首が自分の一部である事を感じざるを得ない。一方で、屋根裏部屋で寝転んでいるラスコーリニコフは、どんな存在でもない。彼は社会的存在ではない。反社会的存在でもない。彼はなにものでもない。だから、ラスコーリニコフが犯罪者という「なにものか」になるためには殺人という愚かしい行為が必要だった。ドストエフスキーはその事を見抜いていた。

 ドストエフスキーは、ラスコーリニコフという人物が作品内で解き放たれた時、どのような運命をたどるのか、よく見えていた。見えすぎるほどに見えていた。この場合、「見える」という意味はかなり難しい。というのも、ラスコーリニコフという人間の内面ですら十分複雑であるのに、その複雑な内容がどのような運命をたどるのかという事への洞察は、ラスコーリニコフを客観化する必要があるからだ。

 社会は個人を生む。どうあがいても、ラスコーリニコフの思想は社会が産んだ産物だ。ラスコーリニコフは当時のロシアが生んだ怪しい思想にかぶれている。ラスコーリニコフという個人は社会が生み、したがって、社会の方から彼を捉えれば、彼は容易に見える。このような観点がなければ、歴史学、社会学は成立不可能に見える。

 しかし、同時に個人もまた社会を見る。社会を洞察し、社会を意識する。ラスコーリニコフは屋根裏部屋でどんな事を考えていたのか。彼もまた、自身の思考の中に社会を、地球を、宇宙全体を丸め込んでいたに違いない。

 だが、そのように巨大な自意識を持つ人間もまた、人間社会において一人の人間として生きなければならない。それは意識にとっては諦めである。意識は社会全体を飲み込む事が可能だ。だが、それを飲み込んだ個人もまた、社会の中の一員として生きざるを得ない。
 
 社会の中の一員として生きるという事は凡庸な人にとってもっとも容易い事であるが、パスカル的人物にとってはもっとも受け入れがたいものだ。極言すれば、それは、凡人にとって極めて簡単に突破できる壁であり、天才にとってどうあがいても突破できない壁となる。凡人にとって簡単な事が天才には不可能なものとなる。

 ラスコーリニコフは、世界全体を十分に意識している。しかし、この人物は殺人を犯す。彼は殺人をどうして成そうと思ったのか。作品の構成からすれば、彼は自分の限界を知りたかったのだ。彼の意識は怪物的に彼を飲み込んでしまった。彼は自分を神のように思いなした。その時、彼の意識はそれに耐えられなかった。どうやら、自分は神ではない。その事を知る為に、彼は人を殺した、そうも言える。

 ニーチェの晩年の「この人を見よ」は狂気の発作が現れているが、この時、ニーチェは殺人を犯す前のラスコーリニコフに似ている。神を排除した以上、自分が神となるしかなかった悲劇がそこに現れている。だが、ニーチェは狂気に陥った己を見る事はできなかった。彼は自分を神と定義した為に、神に擬した自分自身を見る事ができなかった。悲劇はニーチェの外側に起こった。ドストエフスキーにおいて、作品構成として現れた悲劇は、ニーチェにおいては現実のものとして起こった。

 ラスコーリニコフは自分の限界を知る為に殺人を犯した。カントの鳩という哲学話がある。鳩が空中を飛翔している。真空のように抵抗がないところであれば、もっとうまく飛べると鳩は考える。鳩は大気圏を突き破って、真空の中に出るが、そこは抵抗がない為に飛ぶ事ができない。
 
 ラスコーリニコフはこの鳩に似ている。意識において万能であった己は社会においては一存在であるにすぎない。その事を、彼は知っていた。つまり、鳩は、真空に出れば死ぬ事を知っていた。それでも鳩は、真空に出なければならなかった。何故だろう。
 
 何故だろう、というこの問いには多分、誰も答える事ができない。実際、ドストエフスキーもこの問いに答えていない。原理的には、ラスコーリニコフの論理的知性は二つの、非論理的な要素によって支えられている。一つは、彼が殺人を犯す理由。もちろん、この理由には色々な意味付け、理由付けが成されているが、その根本は、謎であるし、謎であるのが答えだと僕は思っている。もう一つは、ラスコーリニコフが最後に改心する理由。最後に考えを改める場面を作者は、自然と偶然にまかせている。あらゆる必然と論理が破れる時にはじめて、自然が、偶然が彼を救う(破滅させる)という事は作者はよく知っていた。この「知っていた」というのは論理的に知っていたわけではない。ただ、作者はそう知っていたのだ。そうとしか言えないような形で知っていた。

 人間は有限な存在であるが、最初から自己の有限性を意識した人間はつまらない人間に違いない。最初から、うまく社会に適合しそこそこうまくやっていく人間はさして魅力がない。だが、ニーチェのような人物は魅力的かもしれないが、彼はほうっておくと、自分の思考のロケットに乗って宇宙の果てまで出ていってしまう。それは正しいのか? …そのような姿を外から捉えるのはやはり、凡人である我々の居場所からだ。ニーチェの悲劇がくっきりと見えるのは、みんながニーチェではないからだ。その差異に劇は起こる。

 ニーチェは自分自身を悲劇の主人公としたが、ドストエフスキーは自身をラスコーリニコフとはしなかった。彼自身がラスコーリニコフであった時期はあるだろうが、時間と粘り強さによって彼はラスコーリニコフを描く存在となった。論理と内的意識はその限界を示された。しかし、論理の限界を知る事ができるのは、それが無限だという誇大妄想を持ったものに限られる。理性の絶対的確信を持ち、走っていく事だけがその限界を知らせてくれる。巨大な望みを持った人間だけが、それによって突っ走る人間だけが、限界線を知る事ができる。

 最初から諦めている人間には諦めは訪れない。彼には欲求不満だけが訪れる。なんとなく、先があるような気がするが、自分はやる気がないからやらないという、不完全燃焼がある。こうした人物は利口ぶるが、彼は愚かになれないから、利口であるにすぎない。
  
 一方、望みを持ち、自意識を無限に膨らませていく人間は、それだけではただ、現実との差異に絶望するほかない。本当は、そうではない。現実が彼の意識についてこれないのではない。彼の意識と現実との間に常に差がある事が彼の運命であり、彼の望みですらある。彼はある点から自分自身を諦める。その諦めとは、願いが無限への願いだからこそ有限だという真理だ。この点に気付くと、彼は生きていく事ができる。この事を知らないと、彼はいつまでも夢の中で階段を無限上昇していく事になる。
 
 論理の両端には論理ではないものが控えている。論理を「こんなもの」と考える人間はその限界に触れる事ができない。社会において生きる事を安易に受取り、そこにたやすく迎合する人間は社会の限界にも自分の限界にも触れる事はない。自分の限界を知ろうとして、社会の外に出ようとして挫折した人間ーーそんな人間がいれば、彼には、社会において生きるという言葉の意味がわかるだろう。ロビンソン・クルーソーは一人で孤島に行っても、やはり近代人でありイギリス人だった。彼には社会において生きるという意味はわからなかったかもしれない。それは、彼が孤島においても一つの社会であったからだ。

 社会の内に生きるという意味を知る事ができるのは、そこから一度出た人間に限られる。だが、そんな事は不可能だ。孤島に百年いたって不可能だ。だが、その不可能を知る事が結果としては、彼を生かす事になる。自分の限界を知る事が他者との関係の内にしか生きられないという事を教える。そういう物語をドストエフスキーは「罪と罰」という作品で作ったのだと思う。最近のリアリズム小説では、スタート地点からうまく社会に適合している為に、その生に何の意味があるのかわからない。ただ生きているだけだ。一方で、ライトノベルは現実から離反して夢想するが、夢想は欲望の代替にとどまり、「理想」にまで到達しない。どっちでもない道を行く事ができるか。そう考えた時に、ドストエフスキーは未だに…興味ある素材であるように思える。

 神聖かまってちゃん 新アルバム「幼さを入院させて」 レビュー



  
  村の僕らはアコーディオンをただジャンジャカならして可愛くおどるのさ
  流れ星が美しさに
  願い事を叶えましょ      
                           「僕はぬいぐるみ」 (「幼さを入院させて」より)


 神聖かまってちゃんというバンドは最初、いじめられた経験、抗うつ薬、底辺の叫び、鬱病、といった極めて現代的な、底辺の個人をそのまま曲に載せるという事で出てきた。他のアーティストが現実を見ないようにして、綺麗でおしゃれな歌を歌っている時に、あえて自分の傷口に手を突っ込んで、血と肉塊を世の中に晒してみせた。そんな存在だった。

 だが、そんな神聖かまってちゃんにはもう一つの側面があって、それはバンド名の中の「神聖」という言葉にあらわれていた。神聖かまってちゃんファンはきっと、神聖かまってちゃんに現実の辛さ、苦しさへの抵抗を聞き取る一方で、神聖なものへのあこがれ、現実とは逆の、全てが救われるような美しく、ホーリーなものへの上昇も感じ取っていた。つまり、神聖かまってちゃんは辛い現実を満身に負い、抵抗したり、時に押しつぶされたり、といった経験から逃げ出さず、なおかつその実感はそのまま、現実とは違う神聖なものへの憧れへとつながっていた。

 そういう意味では、天国に入る事ができるのは現実の悲惨さから逃げ出さなかった者に限られる、と言う事ができるかもしれない。

 本アルバムでは、過去の、現実からの傷を洗い流し、いよいよ神聖さへと上昇していく神聖かまってちゃんの姿が見られる。このアルバムはの子にとって「聖地」であって、現実から上昇した人間が長い苦行の後にようやく辿り着いた領域に見える。

 最初にあげた歌詞はそんな空間の体現だ。

 「村の僕らはアコーディオンをただジャンジャカならして可愛くおどるのさ」

 これはただ、そういう風景を描いたものではなく、の子と仲間が、聖地にて「可愛く」踊る姿と言って良いだろう。現実の悲惨から始めた詩人はここでようやく、休息地に辿り着いたようだ。

 だから、ここがゴール地点だと言っても良いが、まだまだ天邪鬼たるの子には、走っていってもらいたい。(生きていってもらいたい) どこから見ても短距離ランナーだったの子には、長距離ランナーになって欲しい。その為の道筋は彼自ら用意している。

  1人じゃにゃいよと
  旅立ちの声が聞こえる
  声が聞こえる
  世界に捨てられたような
  鳴き声が聞こえる
  声が聞こえる
  駅の向こうから
  旅立ちの声が

                            「ねこねこレスキュー隊」


 「駅の向こう」から聞こえる声はまだの子を呼んでいる。そのはずだ。「聖地」はまだ、の子にとって通過点のはずだ。駅の向こうからは声がする。丘の向こうには何かがある。旅はまだ続く。まだまだ神聖かまってちゃんは歩いていかなければならない。聖地を越えて、山の向こうへと旅しなければならない。そうする事がきっとーー選ばれた者の宿命なんだと思う。

物語の嘘くささと時間に関する中途半端な論考


物語の嘘くささと時間に関する中途半端な論考



読むにしても書くにしても、「物語」というのはどうも嘘くさいと以前から感じていた。自分自身の書くものに対してそう感じてきたので、書いては消す、書いては消す、という期間が過去に結構あった。

物語というのに嘘くささを感じるのは、映画を見る時もそうで、物語が導入される前の細かい描写、細かな生活感とかキャラクターの感情がうまく表出されていると愉しく見られるのだが、物語が導入されはじめると急にその人工的な手つきが気になって、見えなくなってしまう。こういう気持ちは個人的なもので、一般性はないのかもしれないが、続けて考えてみよう。

最近だと東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」という小説がそうだった。「クォンタム・ファミリーズ」は決して低次元の作品ではないが、途中から作者が物語を導入しはじめたなという、その手つきが見えてくると読む気がなくなって読むのをやめてしまった。作者が登場人物を自分が作った物語の中に放り込む時、どうしても登場人物は硬化してしまうという現象があるのではないかと思う。それは、人間は本来、自由であり自分の内面があるのに、それを作者が自分の決めた路線に強引に押し込めようとする時に起こる仕方ない現象であるように見える。

別に東浩紀を批判したいつもりでもないので、話を進める。

物語の嘘くささを現実の問題として捉えていく事にする。人間の存在を考えてみると、人間は完全に自由なわけではないが、完全に不自由なわけでもない。未来が確定的に決まっているわけでもないが、同時に、全く決まっていないというわけでもない。

何故そんな風に見るかと言うと、例えば、僕という存在を例にとって考えてみよう。僕がこの先、小説家になる未来はあるかもしれない。なれない未来も当然あるが、小説を書いたり書かなかったり、そこで成功したり失敗したりという未来は予想される。だが、僕が歩いて月に到達する未来は考えられないし、数学者になる未来もまず考えられない。現時点の僕の存在が未来に対してある程度、可能性を絞っている。今の存在が未来の存在を予知している。しかし、それは完全な予知ではない。

人間には資質とか方向性というものがある。これは身体的な問題も含まれる。人間というのは、自我意識に目覚めた時には既にある程度の方向性が決まっている。仮にこの社会が全く自由なもので、自分の努力次第で何にでもなれる存在だとしても、自分の存在自体、最初からある程度決定されている。その決定からまた次の決定がぼんやり予期できる。つまり、人間の生涯は白紙に自分を描いていくものではない。全くの白紙に自己を思い描く事はできない。だが、全く決められた経路を辿るわけでもない。自分の資質とか運命とかを感じながら、それと終始葛藤していくのが人の人生であると思う。

問題は、ここから起こる。こうした、葛藤した個人を客体的に見ると、その人間はある経路を通っているように見える。未来の観点に立つと、過去の人間はみんな、それを望んでそう意思して生きたような気がしてくる。アンネ・フランクが少女のまま死んだのは彼女の確定的な運命だった気がする。が、彼女が生存している立場に立つと、彼女はどれほど生きたかったかわからない。生きられる可能性だってあった。現実にはそうならなかった。この時、アンネの内面に立つ事と、結果としてアンネが死ぬ事は、フィクション作品の中ではどのように整合が取れるのだろうか?

作家が物語を作り、その経路にキャラクターを従わせる時、作家は未来の観点に立っている。彼は確定的な過去というものを知っている。だから、アンネ・フランクの人生を題材にして描く場合、彼女の死に焦点を絞って描く事ができる。しかし、アンネ・フランク自身は自分の死に焦点を当てて生きる事はできない。彼女は別に自殺したわけではないし、彼女の死は彼女の外側にあった。そこでは、彼女の内面は意識として様々に展開されるものの、死はその外側にある。

「アンネの日記」を読む人は、そこに若いままに死んだかわいそうな彼女の姿を見る。だが、日記を書いているアンネにはその姿は見えていない。彼女は生きたかったはずだ。彼女の内面は広がっていき、自分の意識について意識している。それをノートに書き付ける。が、読者はそれを彼女が死んだという事実の場所から覗く。

物語の嘘くささというものを僕が感じるのは、登場人物は本来、ある程度の自由を持っているにも関わらず、作者が登場人物を強引に自分の作った物語の中に引き込むからだと思う。実際、物語性があるにも関わらず、物語の嘘くささを感じない小説というのは存在する。



物語というのは、起こった出来事の連続性でもあるし、時間というのが順序よく継起していくという事でもある。物語の渦中にいる人間というのは結末を知らないのに、作者は結末を知っている。

作者は未来の場所に立っている。一方、登場人物、主人公は過去のある一点に立っている。作者は主人公に対して絶対有利な立場に立っている。この時、作者は自分を、世界を創る創造主であるように感じられる。

これに関しては見方を変える事もできる。仮に神がこの世界を、我々を作ったのだとしても、そこに我々に全く自由がないとは限らない。というのは、我々がある資質、存在、肉体を与えられたという事実は、全て神の創意によるとしても、そこからどのように発展していくかは神にも決められない。例えば、僕が文学的資質を与えられたとしよう。その僕がいきなり数学者になる事を決意したとしたら妙である。神が与えた文学的資質なるものに、僕の決意は反する事になる。そして神がそのような転向を意図して与えたとしても、それは最初に神が与えた資質に反するからやはり奇妙である。それにそんな事ばかり神がしているのであれば、神はわざわざ僕を創る必要はなかった。神には自分の意志と命令のままに動くロボットがあればいいのであって、僕という独立した意識を持つ存在を創る必要はなかっただろう。

作者は登場人物をどのようにも作る事ができる。どんな突飛な設定も付け足す事ができる。だが、一度与えられた設定は登場人物においては、自分のものとする。登場人物はもちろん、単なる記号であるから、自分の内面とか意識とかは持たない。それでも登場人物は自分に与えられたものを守ろうとする。単純な設定ーー例えば、光に弱い主人公がいると、主人公が平然と太陽の下に出てくる事は許されない。作者が好き勝手にそういう描写をする事はできるが、それは作者が最初に与えた設定自体に反する。そうなると、そこには不自然さが出てくる。

主人公が光に弱いという設定そのものは単純なものだが、これが人間の性格ーー内面とかいうものになると、一気に複雑なものになる。だから、物語を作る上では単純な設定にしておいた方が、作りやすい。登場人物がそれぞれ自分の自由を感じつつ動いてこられたら、作者の脳内の処理能力が追いつかなくなる。

もう一度、スタート地点に戻って考える。作者は作品を作り、登場人物を動かして物語を作る。その際、登場人物は何らかの存在を与えられる。登場人物はその存在に規定されて動く。もし登場人物が存在として規定されないと、登場人物は登場人物ではない。登場人物は物語という時間軸内で他者と関わり、それによって自己を決定していく。

通常の物語は決定されていた自己が運動しある地点に到達するものだが、ドストエフスキー「罪と場」ではそもそも未決定にとどまっている主人公が他者との関わり(殺人という行為を媒介とし)によって自己を決定していくのが物語そのものと言える。つまり、ラスコーリニコフにとっては未決定な自己を決定していくのが物語であり、普通の物語がスタートする地点に到達するのが「罪と罰」なのだ。だがこの場合でも、ドストエフスキーはラスコーリニコフという青年にある設定を与えている。それは「未決定」という決定である。ラスコーリニコフは自ら未決定な存在であるが、やむなく、それを社会の中で意味あるものとして決定していくはめになる。未決定を決定するという難しい技をドストエフスキーは長い苦難の末に手に入れたと見る事ができる。

さて、やたら長々と書いてしまって、自分でも混乱してきたので、結論を書いてこの文章を終わらせる事にする。




物語というものを作る際に発生する嘘くささというのは一体どこから来ているか。それは作者が全能の顔をして登場人物を統御しだす手つきが視聴者にも見えてしまうからだ。これへの対処法として、自分は時間を二つに割って考えるという手法を取りたい。時間を二つ……この場合、それは二つの線で表される。一つは過去から未来へ向かう線であり、もうひとつは未来から過去へ向かう線だ。

登場人物は通常、自分達の物語の結末を知らない。作者だけが結末を知っており、作者は登場人物を動かして結末に持っていく。これは時間継起を過去から現在、現在から未来へと考えていく通常の時間観と適合する。こうした見方を一部変更する。

登場人物は、自分の資質や方向性について自覚的なものとする。登場人物、特に主人公は己が何かという事を知ろうとし、知ろうと務める。その事から、未来は、おぼろげな予測として感じられる。未来は予知されるのではなく、自分の資質や方向性から予測されるようなものとして感じられる。

一方で、同時に、主人公は未来に逆らう事も可能である。自分の存在から考えられる未来可能性にわざと反する事もできる。僕の例で言えば、あえて数学者になろうとする道もありうる。あえて、月まで徒歩で歩こうとする道もある。だが、それは自分自身の資質から来る予測性と反する。最後にはきっと、自分の予測の範囲にとどまる運命を甘受するだろう。僕の物語の作り方としてはそういうものを考えている。

人間は意識を持っている。そこで自分についての洞察も出てくるが、自分というものから離反するという事もある。離反しようとする意識もまた、一つの運命であるという視点というのは、主人公に持つ事ができない視点である。作者はこれを持つ。一方で、主人公や登場人物は自分を生きようとする。普通の人物であれば、固定的な性格、性別、社会的存在を演じる。だが、これに反しようとする事もまた人間のする事だ。これらを統一的に見る視野が作家には要求される。

過去は現在を通じ、未来へと通っていく。今の僕は将来を予知ではない。が、ぼんやりと予測する事はできる。

現在から見れば、過去の人物がどのような経路を通り、どんな運命を辿ったか、明確にわかる。歴史小説を書く上ではこれは極めて有利だ。歴史の中の人物は自由ではない。運命は確定した。未来から過去を描く視点は、過去からすれば、彼らの未来を予知できるのと同じ事だ。しかしながら、過去の人々の内側に目を向けると、彼らもまた我々と同時に自由であった。その自由性と、彼らの運命の確定性はどこで調和させられる事ができるか。それを自分は……人間が自分の資質や方向性についてある程度知っているという事、人間が自分の未来についてある程度予測できるという事、それと、そのような人物が現にそのように生きたという事実性を未来から描くーーつまり、人間を未来から過去に向かう視点と、過去から未来に向かう内的視点の同時性によって確保したいと思っている。

整理する。人間はただ自由なだけの存在ではない。人間は遺伝子・環境・身体・資質など、様々な要因によって最初から規定されている。幼少期は自分の意志が通じる場面はほとんどない。その期間を通じて自分は形成される。

形成された自己から、自分の未来についておぼろげに考える事もできる。決められた自己から未来の自分を決めていく。過去は未来を拘束する。だが、未来もまた自分を主張する事はできる。過去の因果から、未来は自由になろうとする。人は意志を持って自分を変えようとする。この葛藤そのもの、つまり、過去と未来が現在という場で戦うという現象そのものが物語を織りなすと考えたい。その場合、通常の意味での物語は、登場人物によって意識的に取り込まれるという手法を取る。つまり、普通の意味での物語を登場人物は知っている。

僕らはテンプレ的な物語をテンプレとして見る。それはそれ以前の沢山の物語を知っているからだ。テンプレの物語が成立するのは、登場人物達が自分をテンプレだとは知らないからだ。だが、自分をテンプレだと知った主人公のたどる物語はテンプレではない物語となるだろう。表面的な形式ではテンプレだとしても、それを知った主人公がそれを越えようとする時、そこにはテンプレではないものが現れるはずだ。

ややこしい話になってしまったが、イメージしているのはそれほど難しいものではない。

年を取ると、僕らには過去が見えてくる。誰がどんな運命を辿ったのか、わかってくる。若い頃には未来が見えている。未来は可能性に見える。

若い頃の自分の思い描いた夢をそのまま実現したとしても、そのままハッピーな事ではない。なぜなら、夢は何らかの形で具現化されてしまったからだ。思い描いていた自分が実際に具現化されると、具現化されたという事実だけによっても、イメージとは違うものとなる。具現化された現実は現実として定在している。大富豪になる事を夢見て努力し、その通りになって年を取って自分が大富豪である事を感じる。満足もあるだろうが、得たものを感じるのが若い頃と変わらない自分の意識であると感じる時、自分が追っていたものはなんだったのかと思わざるを得ない。

老境の地点から若者を眺める。あるいは現在から歴史的過去を眺める。過去は一筋の物語を持っている。一方、その地点から未来を眺めれば世界は可能性に満ちている。色々な道が予測される。

人間は意識ある存在であるから自分の中に色々なものを持っている。これを明晰に書きつくしたいと思うとプルーストのように、起きてぼんやりしている間だけで多量の原稿用紙を使わなければならない。一方で、そのような無限性を持っている自分というのも未来のある一点から見ると一つの運命を辿ったように見える。

物語ーー小説というものをどういう風に考えるかというと、この二つの要素、二つの場所から挟み取るようにして、人間をすくいあげるという事になる。個人は自由であるが、その自由には傾向性がある。個人はその傾向性に反する事も許されるが、最後には自分というものを社会の中で位置付けしていく事になる。具体的に言うと、社会に抗して自由であろうとする人間(他者との関係の中でも自由であろうとする人間)が、次第に自分自身を一つの物語として決定していく物語という事になる。何故、自由は最終的に不自由な方向へ決定されていくのか。それは人間には「死」があって強引に、その人物を規定するからとも言えるし、その事には理由はない、ただ、人間は無限の自由には耐えられないからだ、とも言える。(永遠に続くように思われたプルーストの小説も最後にはオーソドックスなポイントに収斂された。プルースト自身の死と共鳴するように、主人公は自己を一つの点に位置づけた)

人間の自由は未来への広がりとしてあり、それを意識に対する絶えざる記述(モダニズム的な)とする場合、その記述は構成を取る事が難しくなる。近代から現代への文学の変化は、自己を定式化する事より、自己の内面領域を広げる方向に進んだが、例えその方向が正しくても、そうして広がった内面を持った個人はやはり、社会の中での定在としての自己を生きる事に変わりははない。そこに物語が生まれる機縁がありそうだ。

過去は既に在る。未来はまだない。だから可能性に見えるが、未来もまた過去に変わるだろう。人間は自分自身を生き、どのような事にも反抗できる。反抗の意志は無限だが、現実的な反抗は必ず結末を持つ。反抗、自由への意志は最後には、意志か諦念かという二択に行き着くように思う。

ソポクレスや漱石、シェイクスピアらの作品に見られる運命と自由の弁証法は現代に視点を移し替えると、自我意識が他者との関係により、一つの定在に置き換わる形に見える。

作家は確かに登場人物よりも多くの事を知っている。だが、登場人物もまた自分自身の運命を知っている。登場人物を簡単に統御しようとすると、登場人物自体の存在から反駁を受ける。反駁を目にすると、物語は不自然になる。ここで何らかの形で、自由と不自由を作家内部で、整合を取らなければならない。

整合の取り方としては、個人の内面を無視する事なく、なおかつそれを客体的に取る、言ってみれば四次元的な視点を得るという事になる。単に過去から未来へと時間の糸が伸びているのではなく、未来は自由への反抗、予感として登場人物(主人公)には感じられている。だからこそ、その物語は、単に作者が弄り回したものには見えない。少なくとも、そうなる事が希望されている。

今までは時間を例に取って言っていたが、これは言い換えれば、物語が成立する根拠を登場人物(主人公)が握っているという事でもある。彼は自分が何故そうするのか知っている。あるいは、何故、そうしたがらないかを知っている。しかし、知識や感性は物語ではない。物語を知っている事は物語ではない。だが、何も知らない登場人物を、作者の作った簡単なレール上を走らせるのは簡単な物語であるにすぎない。主人公はある意味で作者を圧倒する存在でなければならない。そのような主人公をうまく統御し、この猛獣をうまく飼いならす事が可能になってくると、読者の目からも納得できる作品構造ーー物語性ーーが現れてくる。

…とやたら、ごちゃごちゃ書いてしまったが、思ったよりわけのわからない文章になってしまった。疲れたので、このあたりでこの文章はやめる事にする。本当に、疲れた。

 折口信夫と柳田国男


 折口信夫と柳田国男を読み返している。と言っても、二人の本をまともに読める教養はないので、関心のある所、わかる範囲で読んでいる。

 柳田国男と折口信夫の二人は、基本的に立派な学者という事になっている。それは事実だろうが、読んでいてふと、それだけではないのではないかと思った。二人のやっている事はむしろ、ニーチェのような存在に近いのではないかという気がする。穏健かつがっしりとした柳田国男のような存在も実は、かなり思想性が強く、その主張の為に古代日本がクローズアップされたというように見える。

 柳田の書いているのを読んでふと、昔の日本はそんなに素晴らしいものだったろうか、と疑問を抱いた。もちろん、柳田も単純に昔を神聖化しているわけではない。それにただ年を取って、懐古に耽っているのでもない。柳田国男は当時の日本に近代西洋が入り込むのをよく知っていたし、西洋近代というのも知り抜いていた。だが、柳田は知り抜いており、将来の日本がますます西洋化すると分かっていたからこそあえて、昔の日本というものを意図的に理想化して取り上げたように見える。つまり、過去を一つの定在として、現在への異議、主張とする。それによって来たるべき未来を(見えない形で)指し示す。そのようなスタイルは、穏健な学者というよりは、ニーチェとかマックス・ウェーバーに近いスタイルではないかと思う。

 だから、以前は昔の日本を知る為に柳田国男や折口信夫を読んでいたのがそれはある意味で危険ではないか。折口には常に異郷、ないし、まれびとの概念があった。しかし、異郷は観察者がこちら側にいる上で異郷であるし、まれびとも、外から来る上でまれびとである。折口にとって古代日本は、現在から見たまれびとだった。古代日本は、今とは違う一つの場所だった。だからこそ、そこには沢山の意味があった。折口ももちろん、同時代の文学などは知り抜いていた。だが、それと同時に古代に目を向けていた。

 今から考えると、古代日本を探り出せる最後の機会に、二人の天才学者は洞察を深くしたように見える。今、僕が田舎に行って民俗調査をしても、得られる事は限られている。古い日本が消失していく過程で、その過程に自覚的であるからこそ、二人の天才ーーナショナリストは生まれたのではないか。だとすると、彼らは「日本」が消滅していくからこそ、「日本」を発見したという事になる。僕には二人の姿は悲劇的なものを背負っているように見える。それゆえに魅力も感じる。

 今はナショナリズムが流行ってきているので、日本礼賛の声も聞こえる。僕は日本生まれの日本人だが、かねがね、日本という国を遠いものに感じてきた。日本文化、日本思想、そういうものが身近に感じられないと感じてきた。例えば、モンテーニュのエセーを読んでいて、現代に通じるヒューマニズムが見られたのだが、僕にとってはモンテーニュやパスカルを読む方が荻生徂徠を読むよりわかりやすい。

 過去の日本との間に大きな隔たりがあって、むしろ、近代西洋とか近代ロシア文学なんかの方が、隔たりが少ない。日本古典の間にはいくつものフィルターがあって、それを破らなければ到達できないし、どっちにしろ、古い日本を僕らは西洋近代の目で見ている。自分の居場所に自覚的になるほど、日本人であるのに日本は遠い国だという気持ちになる。

 古い日本、古代日本はどのようなものだったのだろうか。柳田国男は江戸時代を退廃し、爛熟した時代とみなしていたが、これはつまり、江戸時代は「新しすぎる」という事になるのだろうと思う。より良いものは江戸時代以前にある。しかし、僕らにとって江戸時代は「古き良き日本」であるように思える。このようなズレはどこまで行くのだろうか。

 三大投資家でジム・ロジャーズという人がいるが、彼が「自分は古い黄金時代なんてなかったと思っている」と言っていて感心した。非常に微妙な所だが、僕もそうだと思っている。

 あるいはもっと違う事を言った方がいいのかもしれない。古代ギリシャを理想化したり、古代日本を理想化して、歌い上げる事ができるのは、他者の時代ーーつまり、古代ギリシャや古代日本とは違う時代に立たなければならないという事だ。古代ギリシャの只中にいて、それ自体を自覚的に歌い上げる事はできない。いつでも、ある時代に生きて、その中から時代を見ると、混乱した時代に見えるはずだ。いつも、その時代はとらえどころのない、不完全な時代にも思える。そこから過去を懐古したり、未来を憧憬したりする。しかし、その未来も過去も、そこに行けばそこはやはり混乱した現在であるにすぎない。

 この矛盾した考えをどうすればいいか。柳田や折口の言っている事は嘘ではない。真実である。だが、それはよその時代から眺められ、そこに入り込んだ時に始めて見えてくる時代性である。だから、僕らは「古代から学べ」と言えても、「古代に戻れ」とは言えない。ゲーテは談話の中で将来のドイツが今より良くなる事を希望していたが、第二次大戦の後、有名な歴史学者は「ゲーテ時代に帰れ」と言った。しかし、時代は帰る事ができない。ゲーテ時代が素晴らしい時代だというのは、それが失われて始めて気づくものなのだろう。僕らは過去を賛美する事も貶す事もできる。しかし、現在を廃棄する事はできない。

 結論から言うと、折口信夫や柳田国男の残した著作はどうやって未来に役立てればいいか、なかなかわかっていないように思う。過去の制度、文化をそのまま尊んで残しても、周辺事情が変わっている為に、そのまま通用しない。形だけが無残に残り、国が金を出して、本人達も何故それをしているのかわからず、「日本の伝統だから」という事でなんとなくやっているという事になりかねない。伝統文化も当時は、当時の現在に合わせてできたものだった。時代が変われば形が変わるのはやむを得ないと思う。

 大きく言うと、過去の形式だとか、個人の知恵だというのは抽象化して現在に生かしていくしかないのではないかと思っている。古人のした形よりも、古人が何故それをしたのか、そこには現代の人間が忘れている知恵があるのではないか、というように。言葉というのも、古い言葉に詩性を感じる事もある。だが、その言葉をそのまま使うのは難しい。それがどのように使われていたのかを洞察しつつ、現在にない倫理や習俗の良い部分を自分のものとして進んでいくしかないのではないか。現在は全ての物のスピードが早いために、今この瞬間に閉じこもりがちになる。「今」だけが全てになる。絶えずアップデートされるソフトウェアのように、絶えず「今」が上書きされていく。

 そうした時代でも「過去」を洞察する事で、また「時間」が生まれるのではないか。その際、「時間」と呼ぶものはおそらく、個人の可能性を広げるのではなく、可能性の臨界点を示すものになると思う。モダニズムはじめとして、近現代の思想は個の自立と自由を大きく誇張した為に、全てがそれぞれの離散した自己意識に収斂される事になった。自己意識が己の限界を感じる所に、過去の人からの恩恵、未来において子孫ないし他者がすべき事、そういうものが見えてくるように思う。そういう観点からも柳田国男や折口信夫から学ぶ事ができるだろう。

自己満足の芸術




 柳田国男の「病める俳人への手紙」に次のような一節がある。

 「俳諧を復興しようとするならば、先ず作者を楽しましめ、次にはこれを傍観する我々に、楽しい同情を抱かしめるようにしなければなりません。現在の俳句界などは修羅道です。どこにも世に疲れた者の憩い場はありません。それというのが点取り式の競争が、少し形をかえてなお続いているからだと思います。」

 柳田国男の言っているのは俳句についてだが、大体、これは現在の色々な事にも当てはまると思う。今回はこのラインから考えてみる事にする。

                        ※

 「お前のやっている事は自己満足だ」というセリフは、現在では非難的な言葉として考えられている。こういう言葉を投げつけられて「ありがとうございます」と言う人はまずいない。

 僕は芸術の根本は自己満足であると思っている。それが普通だと思っている。むしろ、「自己満足はよくない」という意見が普通にあるというのが一体どのような情勢から出てきたのか、興味がある。

 柳田国男に話を戻すと、柳田は俳句の即興性と、その場限りの愉しみを強く主張している。こういう事は歴史的にはよくある事なのだと思うが、プラトンの対話篇なども実際は、普通の賑やかな談笑という面がかなりあると思う。それが文字に書き起こされ、みんなで真面目に研究しだす事によって微妙に取り逃すものが出てくる。もちろん、研究しないと見えないものもあるが、行き過ぎると、当時の感情が忘れ去られる。俳句は硬く、形を守る事が主眼になり、主観的な愉しみ、ごく自然な愉しみといったものがなくなる。

 芸術というものの根本に自己満足がある、というのは単純な説だが、普通の意見だと思っている。というのも、誰しもがそんな所から始めるしかないからだ。アーティストがスタートを切る時期というのは非常に重要だ。最初、アーティストはとても人に見せられないレベルのものしか作れない。人に見せられない、下手くそな作品しかできないが、自分には静かな喜びを与える。この、自分にしかわからない静かな喜び、原初的な喜びを育て、やがてはその喜びを他人に分かち与えられるようになるのが本物のアーティストだと思っている。どれだけ売れていようが、そうしたものが感じられないアーティストは僕は良いとは思わない。

 しかし、その最初の喜びそのものが稀有なものか、あるいはあったとしてもすぐに消えてしまう類のものではないかと思う。純文学の作家を見ているとデビュー作から、三作目くらいまで、作者の感性が出た少し良い作品を書いていても、その後、すぐにお話を作るようになる。そういうのをよく見てきた。お話と今ここで言うのは、事実をうまくつなぎ合わせて、物語性のある作品を作るというようなものだ。具体的に言うと綿矢りさなんかが思い浮かぶ。確かに、技巧は増したのかもしれないが、同時に、自分の物の見方、感性は失われた。あるいはそもそも、彼らにはそんなものは必要なかったのかもしれない。

 アーティストは最初、下手くそな作品を作るといったが、これがうまい事もありうる。しかし、どんな天才であろうと苦労も苦悩もなく、オリジナルなものを作り上げる事はできない。すでにある規範をうまくなぞれた時、人はそれだけでその人を評価する。一方で、自分の内的な喜びを大事にして、下手くそな作品を密かにこしらえているアーティストは世間からは無の期間である。

 この無の期間に、密かに自分の方法論、物の見方、作品の作り方、そういうものを育てていくという事がアーティストにとっては大切なのではないかと思う。他人本意でやると、他人が嫌だと言った時にこちらも嫌になってしまう。突き詰めるべきは、自己の道を進む事は必ず他者の道に通じるだろうという信念だろう。そういう意味では、人間は例えひとりぼっちで無人島にいても社会的存在である事をやめられない、という哲学の言葉が思い起こされてくる。

 ラスコーリニコフの孤独もまた、どれだけ自分の孤独に籠ろうと、常に(架空のものを含めて)他者が侵入してくるという念入りなものだった。人間は極限の孤独の中にいても、自分の中に共同体を飼っている。自分の中の共同幻想に話しかけられるようになれば、他人にも話しかけられるようになるだろう。最初の、アーティストの静かな自分だけの喜びはいずれ、他者の世界へと開かれていくだろう。そう楽天的に信じても良いのではないかと思う。

 私は風だ。

 この一文を読んで、あなたはどう思うだろうか。人間というのは不思議なものだが、人間はこうした文章を暗喩として受け取る。人間の世界には直喩とか暗喩とかいう区分けがある。

 だが、そんな区分けは無意味だ。人間の世界にとっては意味があるのかもしれないが、少なくとも、私からすれば無意味だ。もう一度言おう。

 私は風だ。

 これは比喩ではない。私は風だ。

                           ※

 風が吹いていた。人はそう言う。私は確かにそのように吹いている。

 無論、「風」というのは言葉にすぎない。名詞に分類されるらしい。しかし、これは風だという「風」の本体をどうやって取り出す事ができるのか? 私はただ吹く。それはただ動詞として存在すれば十分な代物だ。私は名詞ではない。

 より正確には、私は動詞ですらない。風と風でないものをどうやって区分けするのか。「大気」と呼ばれるものをまず明確に科学的に定義して、その変化を「風」と呼ぶか。ではまず「大気」を明確に説明せねばならない。しかし、その前に、「酸素」とか「二酸化炭素」を明確に定義しなければならない。化学式を正確に定義したければ、まず、その定義と君達が呼んでいるものを定義しなければならない。いつまでも君達は定義しなければならない。君達はそんな事ばかり、二千年もやっている。

 私はただ吹いていた。それだけだ。

                          ※

 風は爽やかだ。そんな言葉もただ人間の方で勝手に決めた事柄に過ぎない。人間の好きでそう言っているだけだ。

 私が常時、三百度の熱風を吹き荒らす存在だったとすれば、人間は私を「爽やか」とは決して呼ばなかっただろう。私は「爽やか」であるわけではない。ただ、そのように感じる人間がいたにすぎない。

 私は吹いていた。世界中のあらゆる場所を。人間達の目からは、私は世界中のあらゆる所に吹いているように見えるだろうが、事実は逆だ。私は、私が吹いているあらゆる場所に人間が現れるのをこの目で見た。人間には知る事のできない私の目で見た。(今言っている事は人間の特性に合わせた表現であるにすぎない)

 しかし、そうして現れた人間もこれまで私が見てきた様々な生命のほんの一つにすぎない。私は、人類がこの先滅亡するのを怖れて自殺した青年を知っている。一体何をそれほど怖れるのか。自分達だけが滅びる事のない特別な存在だと思っているのだろうか? 私は滑稽にも感じたが、憐れにも感じた。

 青年の葬儀の際、風はいつもより強く吹いた。それは私からの手向けであったと思って構わない。もちろん、それが手向けだと感じた人間は一人もいなかったのだが。

                           ※

 私は吹いていた。ただ、吹いていた。ただただ吹いていた。

 人が殺され、死体が切断される時、少女が強姦されている時、少年が首を吊っている時。

 科学者が野原でインスピレーションを感じた時。ピアニストが山の中で霊感に打たれ、美しい曲の最初のフレーズをひらめいた時。

 人々が労働し、眠り、性交し、愚痴り、罵り、勝手な事を各々にやっている間、私は吹いていた。風として世界中を運動していた。

 私は風として吹いていた。過去にも未来にも吹いていた。人類はこの先、まだ見ぬ場所に私がいる事に気づくだろう。まだ人類が探索する事のできないミクロの領域、マクロの領域、様々な場所で私が吹いているのを発見するだろう。私はそこでも吹いている。風として運動している。

 今ーーこの今もそうだ。スコットランドの草原で少年がはしゃぎまわっている。少年は強い風に吹かれるのが楽しくて仕方がないようだ。少年は風に吹かれて、吹かれるままに走ったり、転んだりしている。親は近くに見当たらない。一人で遊んでいるらしい。

 私はしばらく、少年と一緒に遊んでやった。少年の思うままにーーそして時に、少年に逆らってーー突風を吹かせてやった。少年はキャッキャッと遊んでいた。転げ回り、服を草まみれにした。

 空は広大だった。空と私は兄弟のようなものだった。

 私はそうやって一時間も遊んでいた。少年は遊び飽き、自分の家に帰り始めた。私は少年をそっと見守った。

 おそらく、少年はこの先、風の事なんかなんとも思わなくなるだろう。十年もすれば、人類の機構に巻き込まれ、ただ自分の目的を達する事だけ考えるようになるだろう。目的の外で、私がどのように吹いていようがいまいが、そんな事は関係ないものとして考えるだろう。きっとそうなるだろう。

 私はその事を知っていた。そうした事は知っていてもどうなるものでもない。私はただ、吹いていた。

 少年は家に辿り着いた。陽が傾き始めていた。空はまだ明るいのだが。不思議に透明な色をした空。私はそこにも自分を充満させていた。

 家の中には風はない。私は締め出されたというわけだ。小さな、ほんの小さな風しか起こらない。

 ある時から人間は囲いを作る事に腐心しだした。囲いを作り、その中を彼らの王国とした。私は締め出された。もちろん、だからといってどうというものでもない。私はその外を、ただただ吹いていた。

 私は過去からずっと、吹いてきた。神の命令で、吹き続けてきた。…いや、神が命令する最中にも私は吹いていたから、神よりも古い過去から吹いていたのかもしれない。

 私は吹いていた。風として運動していた。

 今、草原を渡る一つの風がある。私はそれが自分自身である事を感じていた。

 草原には人間が一人もいない。それでも休む事なく私は吹いていた。私が吹くと、草花は様々な反応を見せた。それぞれに右に曲がったり左に曲がったり、花びらを閉じたりした。私はそれらの変化を楽しんでいた。

 私は吹いた。ただ、それだけだった。私は吹いている自分を感じていた。西から東へ、あるいは東から西へ。様々に吹いていた。

 どこまでも吹いている自分がいた。私は自分をはっきりと身の内に感じていた。そしてそのように吹いている自分もやっぱりーー吹いているのだった。

 西から東へ。あるいは、東から西へ。

 ぴゅうぴゅう、と。

 「ハサミ男」 感想



 殊能将之の「ハサミ男」を読んだ。ネタバレ回避しつつ感想を書くつもりだが、ネタバレがないとも限らないので、嫌な人はブラウザバック推奨する。

 「ハサミ男」というのはミステリに該当する。ミステリはまず読まないので、「読むのが楽だなあ」と思いつつ、すらすら読んでいった。「わかりやすく書け!」「面白く書いてくれ!」というたびたび聞こえる声というのは、こうした作品を中心に読んでいる人達の声だったのだなと感じた。また、自分が読んでいる本はわかりにくい本が中心だったという事もわかった。これに関してはどうこう言うつもりはない。ただ、そうか、なるほど、と感じただけだ。

 さて、「ハサミ男」という作品は最後に大きなどんでん返しが待っている作品だ。あらすじを紹介すると、「ハサミ男」という名で呼ばれる猟奇殺人犯がいて、すでに二人の美少女を殺している。警察も行方をつかむ事ができない。「ハサミ男」は三人目の美少女を標的にして、準備を整えるのだが、美少女をつけねらっている際に、すでに死体になっているのを発見してしまう。しかも、その死体はハサミ男の犯行を真似られていた。

 つまり、三人目の殺人は模倣殺人なのだが、ターゲットの死体を、本物のハサミ男が目撃してしまう。そこで、本物のハサミ男は自分の犯行を模倣した真犯人を捜索する事にする。それと共に、警察内部でのハサミ男の捜索も内側から描かれていく。果たして、三人目の美少女を殺したのは誰なのか? ……というのがあらすじだ。

 僕は「ハサミ男」を最後まで読了した。まるでテレビドラマを見るようにスラスラ読めた。テレビを見ている感じで活字を読むという経験はあまりなかったので、非常に楽に分厚い本を読めた。活字嫌い、活字離れといっても、活字如何によって難易度が違うので、そう簡単に決められないと思う。楽に読める活字もあれば、奮闘して読まなければならない活字もある。活字も色々ある。

 「ハサミ男」というのは最後に大きなどんでん返しがある。そこで主に二つ、読者の意想外の秘密が明かされる事になる。だが、秘密というのは、読者に見えないように作品内部に隠しておかなければならない。そうでなければ、どんでん返しの意味がない。

 率直に言うと、どんでん返しのくる終盤部分までは愉しく読めた。特に面白く感じたのは、「ハサミ男」という殺人鬼の像が、マスコミを通じて独り歩きし、その独り歩きが逆に、ハサミ男本人にフィードバックするような部分である。マスコミは猟奇殺人犯の真実に迫ろうとイメージを作るのだが、それは実際の犯人とはまるで違う単なるイメージにすぎない。犯人の方ではマスコミの作るイメージを知り、巧みに利用しもする。つまり、対象の真実を僕達が探り出そうとしているように見えて実は、僕らは各々勝手なイメージを作っているにすぎない。気づけば、イメージを与えられた方も、イメージに合うように自分を作り上げる。こうして現実は虚構によって書き換えられる。

 実際はここまで抽象的に書いているわけではないが、そういったメッセージを受け取り、その部分は「なるほど」と愉しく読めた。またハサミ男と警察双方で、真犯人(模倣犯)を追いかけていく姿も、臨場感があって愉しく読めた。だが、最後のどんでん返しまで来た「うーん」となり、ダウンな気持ちになってしまった。

 元々、自分はどんでん返しというのには重要な価値を感じていない。「ネタバレ良くないよ」という声がこれだけ多いのは、話の筋を中心に見ている人が多いだからだろう。そして、そうした読者に適合する姿勢として、どんでん返しもまたある。つまり、読者が騙されるといっても、それは騙されたい読者が沢山いるから成り立つ。僕としては別に騙されたくないし、相手の裏をつこうとも思っていない。自分が作品に隠されたメッセージ・表徴を読み取れなくても、気にしない。

 僕はシェイクスピアが大好きだが、シェイクスピアの作品には秘められたものがないように見える。ゲーテの言うように、登場人物はもちろん、石であろうと草木であろうと、真実を吐露する事を要請されている。全ては明らかであって、読者に隠すべきものなど何もない。逆に、シェイクスピアの作品は全てがあまりにも明らか、あまりにも真実であるからこそ、僕らの凡眼には眩しすぎて、逆に謎があるように感じてしまう。先日、「モナリザ」の模造絵を見て、素晴らしい絵だと感じたが、「モナリザ」に陰謀や秘密の必要は全く感じなかった。作品の背後ばかり見ようとする人は作品全体を見落とす。「モナリザ」の絵の美しさという当たり前のものが見えなくなって、代わりに背後の陰謀と秘密を探る。

 …と言うと、大げさな話になるので、話を戻す。「ハサミ男」はよくできた作品である。最後によくできた叙述トリックが披露される。それは非常によくできているので、読者はだまされる。「俺はだまされなかった!」という人もいるだろうが、それは別に読者の優位を意味するものではない。僕は普通にだまされたが、だまされて気持ち良いとは感じなかった。「ああ、そういう風に来るんだ」と思った。正直言うと、こちらの信頼を裏切られたと感じた。逆に考えると、ミステリファンというのは、みんな、あのような戦闘態勢に立って本を読むのだろうか。(多分読むのだろうけれど) 一つの本に対して常にだまされまい、真実を見抜こうという姿勢で読むのだろうか。僕としては多少の粗があっても、全体として作者が作品に与えた方向性や思想、そしてそれらが醸し出す個々の部分が良ければそれで満足する。細部の設定は完璧だが凡庸な作品というのは興味がわかない。

 「ハサミ男」のラストは意外な結末である。意外な人が真犯人だ。だが、真犯人の犯行動機はかなり平凡なもので、まるで「名探偵コナン」を見ている気持ちになった。もちろん、動機が平凡でも構わないわけだが、この動機はどんでん返しの為に、最後までとっておく必要がある。犯人は急に明らかになるので、その心理的過程は深く描く事はできない。

 僕には、真犯人があの人だったというのは確かに意外だったが、それと引き換えに、真犯人の内実や心理を描く描写はかなりお粗末なものに見えた。作者が真犯人の内面を描く力がないのであれば、別になんとも思わない。だが、作者にはそれを描く力が十分にある。にも関わらず、最後に真犯人が平凡な動機で人殺しをしたという事実は、それが、最後の最後まで謎としてとっておくための代償のように見えた。つまり、どんでん返しの為に、真犯人の内面や人間性はこそぎ落とされ、読者を欺くためだけに出てきた役者のように感じた。

 言い換えると、作者は真犯人を物象化して扱った。人を殺したり、殺されたり、といった時に現れてくる人間の内面の問題は、読者の思考を上回る為に、省略された。代わりに、単純化された事実が現れた。それは、物事を事実の連なりとして読む読者の為に構成されたものだったと思う。

 確かに、殺人事件を扱う作品というのは、殺人を単なる事実として扱う。毎度毎度、人が殺され、毎度毎度、刑事は犯人を探る。その時、殺された人の内面、殺す側の内面の葛藤を深く描いていたら尺が足りない。

 色々な物事が記号化し、単純化されている。僕らは作品の筋を追う。意外な結末を知りたがる。巧みなストーリー構成を期待する。しかし、その時、登場人物はストーリーを構成する為のただの駒に見えてくる。ブラック企業の社長には社員が駒に見えるのかもしれないが、同様に、ストーリーだけを追うのであれば、登場人物はその為の道具として現れてしまう。
 
 「ハサミ男」の作者は決してそんな単純な作家ではない。きちんとした力量のある作家だ。ハサミ男が幻視で見る架空の医師と、ハサミ男自身が会話する部分がある。あの部分はストーリーの流れを阻害するかもしれないが、文学的には価値があると思う。また、被害者が清純な女子高生に見えてそうでなかったという部分もきちんと描けばもっと意味のあったものになっただろう。

 しかし、最終的に「ハサミ男」という作品はどんでん返しに収斂される事になった。僕はそこから急速に読む気力を失ってしまった。ああ、そっちに行ってしまうかという気分だった。

 作者はキャラクターの内面や動機といった問題をラストに省略し、ストーリーの転調に水準を合わせた。その為に、事実の連鎖としては意外なものとなったが、水面下の人間は単純化された。真犯人は知能の高さとは裏腹に、異様に凡庸な存在になってしまった。そこには取ってつけられたような葛藤しかなかった。僕はそれを残念に感じた。

 …とここまで書いたが、こういうのは今までミステリを読まなかった人の読み方かもしれない。ただ、常に作品から隠された意味を発見しようとして、普通に作品が見れなくなってきているというのもどうだろうと思っている。作者もそれに合わせて作品を作らざるを得ないのだろうけれど。

 例えば、本を読むという事では、ほんの人間のリアリティを感じるだけでも十分おもしろいと思う。本ではないが「龍が如く」というゲームはキャラクターが魅力的だ。冴島とか秋山とか、魅力あるキャラクターが出てくる。しかしこの作品もまた、読者を驚かす為に沢山の労力を支払っている。その労力は良い支払いだったとは思わない。むしろ、キャラクターの方がストーリーの為に損をしている印象すらある。

 ひらたく言えば、作品の価値はストーリーにあるとは一元的には言えない。だが、それを望む読者は沢山いる。沢山いるからこそ、それは一つのジャンルになる。そうした作品が多くできる。読者はどんどん高度になる。複雑で高度な内容を求める。作品は次第に複雑化していき、高度になるが、本当にそれが過去より良くなったかどうかはわからない。ただ、誰もがなんとなくそれを追い求める事になってしまっているという事実だけがある。

 どんでん返しには確かに意味がある。それに最初に出会うと、大きな驚きを感じる。面白いと思う。だが、そういう見方をする読者はその本をいつか読み返すだろうか。どんでん返しに代表される瞬間の驚き、一回限りのサプライズにエネルギーを集中させている作品は繰り返し読むに値するだろうか。

 「ハサミ男」は確かに面白い作品だ。僕も面白い作品だと思うし、良い作品だと思う。娯楽として優れていると思う。しかし、「ハサミ男」を再び読み返したいと思わない。一度経験したからもういいやと思ってしまう。そして、作品それ自体もそのように書かれている。では、この作品を良いという基準はどんな基準なのだろうか。少なくとも、過去の古典と同じ水準にはおけない。

 もちろん、こんな見方は僕固有の勝手な見方である。しかし、作品の途中までは十分面白く感じていたので、最後でそういくのかというのは残念に感じた。ただ、あちらの方が正当なのかもしれない。よくわからない。少なくとも、僕は読み返したいとは思わないだろう。

 …という事で、「ハサミ男」の感想を終わる事にする。すらすら読める面白い作品だったが、同時に、色々な事に疑問を持った。読者の方でも非常に賢くなっているために、作者はそれを越えるのが大変になっている。だけどその賢さとはそもそもなんだろうと根源的に考えてみても良いように感じた。もっとも、そんな事言っていると、ミステリの世界では生き残っていけないのかもしれないけれど。

 文体と認識


 レフンという映画監督を僕は気に入っている。それで、レフンの作品というのは、一人称なのか三人称なのかわからないように描かれている場面というのがある。見ている方としては、映し出されている映像は事実なのか、それとも主人公が見ている幻想なのか、わからないようになっている。

 作品に言及すると、「ドライブ」のラスト、あるいは「ネオンデーモン」の終盤部分などはそうだ。視聴者は見ている映像が事実なのか幻想なのか、わからないままに放り出される。でも、それが気持ち悪いわけではない。(「ネオンデーモン」は内容だけ見ればグロい) それは監督の哲学であると、僕には素直に信じられるし、見ている方として違和感を抱くわけではない。

 むしろ、僕が違和感を抱くのは一般的なーー一般的に流通しやすいーー作品の方だ。例えば、「小説家になろう」のランキング上位の作品を見ていると、一人称的視点と三人称的視点を混同している作品に出会う。それは例えば、次のような文章となる。

   外の光が見えた。出口はもうすぐのようだ。息をあえがせながら歩く。
   このトンネルは百年前にファミリア王国によって作られた。その時、この場所にトンネルを作るのは無理だろうと女王は言った。

 これは僕の作文で、実際の作品にあるわけではない。が、こんな文章は頻出する。
 この文章の一行目では、作者は主人公の内面に入って、トンネル内部から外を見ている。だが、次の文章では、トンネルを外部から、神の視点から客観的に説明している。

 こうした混同が平気で行われるのは何故なのか。これは結構、難しい問題だし、場合によっては、「どうしてそれがいけないのか?」と問い詰められるだろう。実際、こうした作品も人気を博していたりするし、人気・面白さという観点からは否定できない。

 では、この混同とは何か。僕は、こうした作者は「客観的な現実」というものを素朴に信じているのではないかと思う。主人公の内側に入り込んで見る外の世界と、神の視点から見る現実世界に違いがあるとは考えていない。つまり、現実とは意識に映じた現実だという認識はなく、現実とはあくまでも客観的な現実だという考えに立っている。では、この考えはどのようなものだろうか。

 音楽家の坂本龍一と哲学者の大森荘蔵が対談した本に興味深い事実が載っている。それを例に考えてみよう。

 坂本が言うには、例えば、今、僕の場所からして左前と右前にスピーカーを置いて、同じ音を同時に流す。(短めの音) 図にすると次のよう感じ。

 スピーカー1    スピーカー2
            

 
         僕


 これでスピーカーから音を流すと、音は当然、斜め左右から聞こえるはずだが、同じ音が同時に発せられると、まるで正面から聞こえるように聞こえるらしい。つまり、スピーカーは二つではなく、一つ、正面にあるように感じられる。(スピーカーの存在を隠しておく事にしよう)

 さて、この実験の際、被験者が「前方から音が発せられた」と言うと、人は「本当は音源は二つ、斜めに配置されていた」と言う。それは、人が「客観的な事実」を知っているからだ。だが、スピーカーの存在を隠されていると、僕には目の前から音が出たようにしか聞こえない。これを「錯誤」と普通は言うが、どうしてこれが錯誤かと言うと、客観的には二つあるという事を知っているからだ。しかし、実は僕達だって、もっと大きな錯誤を犯しているとも限らない。僕達にとっての世界はより大きな意味での誤謬であって、例えば、この世界は誰かが見ている夢で、二秒後には破裂するシャボン玉のようなものかもしれない。そして、そのシャボン玉について知っている第三者がいるとすれば、僕達は錯誤して世界を見ている、と彼は言うだろう。

 こういう事について「そんな事はありえない!」という人は、自分が何故そう言っているのかについて考えてみて欲しい。その「ありえない!」という論理の外側自体に、別の論理があるという可能性を僕は言っているのだから、こうした事は簡単に否定できないはずだ。

 さて、以上のような事を考えていくと、スピーカーの音を聞いた私は、錯誤していたのだろうか。もちろん、誤っていたのだが、それは、誤っていたという事を知っている第三者がいる限りの話である。もし第三者がいなければ、「正面から音が発された」というのが「真実」という事になるだろう。

 こうして考えていくと、僕らの現実は相対的なもの、こちら側の主観が大きく作用したものだという事になる。これに関してはカントがはっきりと言明した。

 さて、話を戻すと、僕が一般的な作品について、抱いている疑問は次のような事になる。つまり、そこでは語られるべき事実は何ら疑われていない。世界は、客観的なものとしてあり、それをどの観点から描いても結構で、面白い物語を読みたい!という人は、物語を構成する事実について疑わない。作者もまた疑わない。主人公の内面から月を見た時、見えた月と、「客観的な世界」に浮かんでいる月は全く同じものとして扱われている。だからこそ、視点を内に外に移動させて、なんら不都合なく、「事実」の集積を語り、一編の物語を生む事ができる。

 認識されている事実が事実であるという思考は省かれ、事実は単に事実だ、という単純な立場に作家は立つ。これは一般的にはわかりやすいはずだ。なぜなら、僕らは皆、そんな風に現実を考えているからだ。

 現代の作家における文体の欠如というのは、作者が自分の認識に対して自意識を持っていない事の証明だと言えるかもしれない。その先に向かうのは、客観的事実の集積としての物語だ。事実は事実だ、という観点から、硬い事実を連続的に組み合わせていけば、即、僕らにわかりやすい物語となる。

 ちなみに、僕は朝吹真理子や黒田夏子に「文体」があるとは思っていない。文体とは作者の認識の現れだと考えると、彼らの文体は認識としての文体ではなく、形骸化した文学というフィルターを通して世界を見たいという屈折した欲望だと思う。つまり、そこには本当に、世界を違う目玉で見たセザンヌやゴッホと、世界をセザンヌやゴッホのような視点で見たいと思っている画家くらいの差がある。そういう風に考える。

 話を最初に戻すと、レフンの映画では途中から一人称的視点を取っている。これはレフンの認識であるのか。僕は映像を見る限り、そう言って差し支えないと思う。つまり、世界とは、主体が見た限りでの真実であると考えると、例えそれが幻想であろうと、夢であろうと、見たものは見たのだ、と言う事ができる。

 そして、主体が見た真実とは、カメラが見た真実なのかもしれない。カメラは客体的だと僕らが信じる所に、事実の連鎖としての物語が成り立つ。

 物語作者は、文体に気を払わない。物語作者は「事実」を積み重ねて、それを一つの筋にする事に気を使う。最近では「ネタバレはよくない」という声が多い。それは逆に言えば、作品の筋のみを着目して見ている人が多いという事の現れでもあるだろう。

 こうした領域では、作者の認識には注意を払われていない。作者が提出した事実を事実として信じ込み、それが物語として綺麗に構築されている事が望まれている。その構築が可能なのは、その一つ一つのブロックーー事実ーーが堅固なものだからだ。この堅固さを保証するのは、僕らが生きていて、現実世界を疑わないという共同体の習性に依拠する。僕らは客観的世界を信じる。それを信じる事は、フィクションの中では、その組み換えにより理想的な組み合わせができる事の希望へと繋がっていく。

 よくこんな声を聞く。もっと面白い話を読ませてくれ。もっとわかりやすい話にしてくれ。そうでなければプロ失格。物書き失格だ。

 僕が思うのは、例えば、セザンヌの絵やゴッホの絵は、単にわかりやすいものでないという事だ。また、それは面白くもないかもしれない。面白いもの、わかりやすいもの、それが望まれる事、あるいは、黒田夏子や朝吹真理子のように、故意に文体をひねくり回す事、ダリやマグリットのように、細部にまで認識が行き届かず、画家の着想で全体の絵を仕上げてしまうという事。そのどちらでもない道に、認識のーーつまりは、本当の芸術の道があるのではないかと思う。
 
 日本画の一流の人の絵、そこに出てくる虫とか、植物とかを見ると、実に彼らはよく自然を観察していたのだと感心する。彼らは僕らが見ていない自然を見ているが、それは同時に、画家の客観的な自然探求であったはずだ。認識というものが、作者の立ち位置を示し、作者の見た主観的真実を表すと同時に、それが僕達視聴者にも、「客観的」だと信じざるを得ない、そういう領域というのは確かに存在するように思う。

 モーツァルトの楽曲が、彼の聴いた真実を表したと考える時、僕らはモーツァルトという主観を客観的に聴く事になる。かつて確かにそのように、世界を聴いた個人はいた。それを知る時、僕らはイミテーションでもなく、僕らにおもねる面白おかしいものを作る人でもなく、それ自体、主観であると共に客観であるような存在に出会えるはずだ。

 自分独自の視点、と言うと、すぐに思い浮かぶのが「他人とは違う視点」という事で、わざと差異化を計ろうとする事だ。芸術家と呼ばれる為に、わざとそのような場所に立とうとしたり、奇妙な物の見方を「個性」と取り違える芸術家(らしき人物)もいる。それとは反対に、「わかりやすさ・面白さ」をと言う事で、僕らの視点から一歩もはみださない事を前提とした上でそれなりに高度な作品を作る人もいる。『君の名は』はそんな作品で、僕らがあの作品を受け入れたのは、そもそもあの作品が僕らの認識を最初に受け入れていたからだ。

 こうした二つの極を越えて、自分独自の認識が、客観性を帯びる事ができるような芸術作品は現在ありうるだろうか。作者の認識が文体として現れ、技法として現れる事は可能だろうか。文体が文体を目的とし、技法が技法を目的とするのではなく、文学(絵画等)を通じてのみ世界を見られないが、そこにのみ真実があるとはっきり言明できる芸術家は現れるだろうか。

 …とここまで、書いて、この先の事については、おそらくそれぞれの手に委ねられる事になるだろう。再三言うべき事は、一般的な解がないからといって、その人の解がないという事ではない、という事だ。また、その人にとっての解が僕にとっての解だとも限っていない。しかし、それは極めて興味深い解かもしれない。

 ニーチェとパスカルは似通った魂の持ち主だと思うが、それぞれの辿った道も答えも違った。全く同じ魂が違う時代、違う環境に生まれたとしたら、それらーー魂ーーは自らを証明する為に、違う形式を持つだろう。それは時に、画家の色彩に現れたり、哲学者の観念の相違となって現れるだろう。

 作者の主体的認識が作品に現れる時、それは、作者の姿を雄弁に語るものではなければならない。が、作者は自分を語る必要は少しもない。作者が世界を見つめるその目それ自体が、裏側から作者が何者であるかを証す。それは画家が自然風景を描いていながら、風景が逆に画家の目を特定するようなものだ。一視聴者としては、芸術家の自分語りなど聞きたくない。みたいのは彼の表現だ。その客体的表現こそが彼を最も雄弁に語るだろう。

 しかし、現在では既に書いたように、様々な誘惑が溢れている。現在の芸術家は、かつての画家が王や貴族につかえたように、大衆につかえなければならない運命を持っている。いくら芸術家が自分の特殊な個性を主張しても、この社会的趨勢は極めて強い。例えば「きゃりーぱみゅぱみゅ」がいくら自分をアーティストだと言っても、大衆が彼女をそのような視点で見て、扱っていない限り(そしてその視点内で運動している限り)、彼女は結局の所、アイドル、タレントでしかない。本当の芸術家はどこか取り扱いにくい印象を常に持っている。それは彼が世界に反抗しようとしているから、というより、彼が自分自身であろうとする事が必然的に世界と衝突する運命を持っているからだ。

 多くの人に面白く、わかりやすい物語を提供するアーティストは、世界の物の見方について、多くの人と物語を共有する。物語もまた一つの認識形式と考えると、物語それ自体を共有する。それは僕達の殻を破らない。むしろ、僕達の殻を肯定する。支持してくれる。

 二十世紀には、宗教から離れ、岡本太郎の言うように、芸術家は個性的な存在、自由な存在となったようだ。その行き着く先が、個性的という「良い」性格から、単に、偏執的な変わり者になったとすると、どこに問題があったのか。芸術家が芸術にのめりこむ以前に、芸術家らしい姿を構築する為に多大な努力を支払わなければならないというのはどういう事だろう。

 認識がその人の文体を表すとすると、どんな個性的な文体も「芸術らしいよね」という僕らの一般的認識に吸い込まれる、とすると、もうどんな反抗も無意味だろうか。どんな反抗も最初からシステム内部に巧妙に位置づけられているとすると、反抗する事自体が従順である事を意味してしまうのではないか。

 (年配の人が最近の若者は反抗しとらん、みたいな事を言う。そういうネットニュースを見たが、最近の若者にとっての問題はそもそも反抗する事自体が全く反抗にならない事ではないかという気がする。デモ活動もメディアに取り上げられ、すぐにシステムに吸収される。反抗自体が不可能なのが今の時代ではないか)

 …長々と書いたが、今回の愚痴はこれで切り上げようと思う。別に、現代に一流の芸術がなくても困る事はないのだろうが、個人的には困るので、こういう文章を書いてみた。現代において、認識という事が、決められた認識パターンを守るという事を意味して、なおかつ、過去の整然とした形式を破壊・解体するというのも、二十世紀に色々な芸術家によって徹底的にやられた以上、僕らの世代は何をしていいのか、さっぱりわからない。結局の所、というかやはり、この分からなさを解明する所から始める他ないのだろう。

新作短編

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 「ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド」に感動した話



 一時期、友人が口を開けば「ゼルダの最新作が面白い」と言っていて、(はあ、そんなに面白いなら一度プレイしてみたいな)と思っていた。
 
 この度、友人の協力もあって、「ブレスオブザ・ワイルド」をプレイする事ができた。今、丁度やっている。

 元々、自分はゼルダはスーパーファミコン版と64版をやっていて、「大体ゼルダっていうのはこういうのだよな」という感触は掴んでいた。それはゼルダファンが感じていたのと同じものだと思う。ゼルダというのは人気作であり、いつもクオリティの高い作品を出してきていたし、プロデューサーの宮本茂も、優秀なゲームクリエイターという認識を持っていた。

 さて、そういう過去の流れから、今回の最新作「ブレスオブザ・ワイルド」を見てみると、「こっちの予想を遥かに裏切ってくれた!」という感じだ。もちろん、これはいい意味での話だ。

 では、未プレイの人に「ブレスオブザ・ワイルド」の魅力をどうやって伝えられるか。既プレイの人には「凄いよね」で通じてしまうが、未プレイの人には言葉で伝えにくい。というのも、今作の凄さは言葉に表しにくい凄さだからだ。

                          ※

 思いついた所から始めよう。僕が「ブレスオブザ・ワイルド」(以下、「今作」と呼ぶ)で一番感動したのは、本筋のメインストーリーとは全く違う所にある。

 今作はオープンワールド形式のゲームである。オープンワールドとは今までのように、マップに制限がかかっていて、決められた筋道をたどるのではない、広大なマップを自分の思うままにプレイできるゲームの事だ。自分でどこに行きたいのか、自分で決める事ができるし、自分の冒険したいように冒険できる。とはいえ、本筋のメインストーリーが存在しないわけではなく、各所に存在する。今作のゼルダの場合は、プレイヤーがいきなりラスボスの所に突っ込む事も可能だが、基本的には各所のメインストーリー攻略を頭の片隅に入れながら、各地を自分なりに旅していくというプレイスタイルとなっている。

 オープンワールドとして有名なゲームは、以前にプレイした事があった。「スカイリム」「フォールアウト3」の二作で、「フォールアウト」の方はすぐにやめてしまった。「スカイリム」はある程度やったが、単調で、これもやめてしまった。

 「スカイリム」というゲームはゼルダと同じように、行きたい所に行ける。例えば、「あの山に登りたい」と思えば本当に登る事ができる。だが、「スカイリム」は全体的に雑な作りで主人公の挙動も自然さに欠けていたし、「あの山に登りたい」から「登る」といっても、それはあくまでも「ゲーム」としての山を登るという感じだった。山の質感も自然ではなく、主人公をコントローラーで動かしているという感じが拭えなかった。

 この話を聞くと、ゲームをあまり知らない人からは「ゲームだからそんなものだろう」と思うかもしれない。実際、僕もゲームにそこまでのリアルさ、自然さ、質感のようなものを期待していなかった。

 今作のゼルダに一番驚かされたのは、その「質感」である。つまり、「スカイリム」が果たせなかったものが見事に、しかもゲーマーの予想を遥かに上回る形で実現されたと言って良いと思う。

 僕が一番ゼルダで感動したのは、深夜に一人で山を登っていた時の事だ。深夜、一人、誰もいない高山を登っていく。周囲の空気は冷えていて、空は濃い藍色、星がキラキラ光っている。山頂に辿り着いた時、見知らぬ花があったので、静かに摘んで、ポケットに入れた。

 深夜に一人で山とか丘に登り、珍しい草花を見つけて、思わず嬉しくなって摘んで帰る。その時に、もしリアルにそれをしたら感じるであろう、寂しいような、悲しいような、でも嬉しいような不思議な感触を僕は家にいながら、ゲームをしていて感じる事ができた。天地に自分一人しかいないような、自分と星空だけがあるような不思議な感触。そういうものをゲームというフィクションの経験から、十分に感じられた。これは「スカイリム」には決して無理な体験であると思う。

 同様の経験について、Amazonのレビューで書いている人もいた。サラリーマンの人が、通勤途中、山を見て「あの山、登れそう」と思った時、思わず涙が出てきたと言っていたが、気持はよくわかる。今作のゼルダをやった後、外に出ると、目が、ゲームを通して現実を見るようになっている。ゲームを通して現実を見るとは、危険な考えだと一部の人間は思うだろうが、僕ーー僕らがおそらく感じているのはそれとは全く逆の経験である。ゼルダというゲーム作品の中には風がある。空を見上げると雲が動いていて、月を隠す。木に登ってりんごを取る事もできるし、どんな崖も登る事ができる。

 現実に僕達は生きていて、いつも制約を感じている。あるいは、僕らは現実に対して十分、自分達の論理を被せてきたと言ってもいいかもしれない。例えば、土地がある。すると、それは誰の土地なのかという事がすぐに問題になる。海があればそれはどの国の領土か、どうしたら法律違反になるのか、そんな事ばかりが問題になる。

 ゼルダの海も土地も、全て実際に冒険して確かめる事ができる。そこには現実からは失われた「質感」のようなものがある。現実において建物があり、そこを人が使っているとすると「そこは入ってはいけない場所」である。それ以上の事は僕らは考えない。僕達が触れられる世界は世界の中のほんの一部で、それ以上の事は見なくてもいいし、触る事はできない、考える必要もない。僕らは自分達の制約の中で暮らしていて、その事にも馴れていて、それが当たり前となっている。

 「ブレスオブザ・ワイルド」をプレイした後、外に散歩に出かけると、不思議な気持ちに襲われる。それは、「この世界は全てちゃんと存在している」という感じである。これは不思議な感触だ。木に登ってりんごを取り、高所からパラグライダーで降りる事もできる。それら全てに質感があり、重量感があり、どこかの集落のモンスターもそこに生きているという事が感じられる。世界はそういうものとして質感のあるものとしてあって、プレイヤーは自分の意志で、それらのいちいちに、自分の目で見て、自分の手で触れて……つまり、「冒険する」事が可能なのだ。

 目の前の猪を弓で射る為に草むらに潜んでいる。そこから空を見上げると雲が風で動いている。猪を追うために走り出すと、足元の草むらから虫が飛び立っていく。その懐かしくも、自然な感じというのはおそらく、このような形での、このようなゲーム以外では表せなかっただろう。その感触というのだけでも唯一無二なものに感じた。

 こうした経験は、僕達の子供の頃に根がある。大人から見ると何でもない木の棒を気に入って振り回していた過去。何でもない草むらを秘密基地にして遊んでいた昔。その時、僕らが感じていたものはなんだったか、とは大人は問わない。大人はすぐに忘れる。「汚いからやめなさい」「危ないからやめなさい」「人の邪魔になるからやめなさい」 こうした倫理を一つ一つ受け入れて、僕らは大人になる。大人になると功利性が問題になる。数量が問題になる。

 数を問題にするのは簡単なので、すぐに話題になる。が、質は語るのが難しい。今作のゼルダの素晴らしさは、例えば、雨が降っていて岩肌が濡れているツルツルした感じ、その「質」がはっきり感じられるという事にある。これはどんな数にも還元できない。足元から虫が飛んでくるのを捕まえる事はできる。それをクスリにする事もできる。そうなると、それは功利的なものでもある。が、素晴らしいのは、そうした事よりも、ゼルダの世界が全て、それ自体としての質感を備えていて、ただその世界があるという事を愉しく感じられるという事にある。なんでも、目的と原因に分解し、あらゆる事を自分(達)の幸福のための道具と考える人は世界を道具と見ている。世界を素材と見ている。世界は目的のための道具ではない。世界はそれ自体として味わい、感じ、確かめるものだ。そこに意味はない。なぜなら、それ自体が意味だから。

 …と、哲学的な事を書いたが、言いたいのは「今作のゼルダは凄いよ!」という事だ。「ブレスオブザ・ワイルド」をプレイした後、外に出ると、風景が今までと違って見えると思う。ゼルダの世界を通して現実が見えるようになる。いわば、それまで、失われていた風が、ゲームというフィクションを通した事によって再び現実に流れ出すようになる。そんな経験をする事ができるだろう。

 これだけの経験をさせてくれた任天堂スタッフには拍手を贈りたい。さて、僕はハイラルの大地にまた戻る事にしよう。まだ未探索の場所は沢山ある。この世界をもっと愉しみたい。

 フィクション化する現実について


 今から考えると、ゴーゴリ・バルザック・フローベールといった作家らのリアリズムというのは正当に機能していた。が、それを現在に持ち込むと色々な問題が起こる。しかしそれにも関わらず、今の作家はその問題を見ない。そこに現在の文学の問題がある。そういう風に考えて、リアリズムという観点から文学について考えていく事にする。

 「リアリズム文学」というのをネットで調べると「現実性を重視し、写実的な手法によった文学の総称」と書いてある。「リアリズム」とは何かと考えていくだけでも一苦労なので、とりあえず、この定義を基礎に置いて考えていく事にしよう。

 さて、まずゴーゴリの「外套」という作品を例として考える事にする。ゴーゴリ「外套」とはどんな作品か。
 
 「外套」という作品では、貧しい役人が出てくる。この役人は自分の外套を新調する事もままならないほどの窮乏を極めた生活を送っている。思えば、バルザックの小説も、おそらくフランスの社会に実際にいたであろう人間の悲劇とや苦しみとかをリアリズムの路線で描いていた。

 「外套」の貧しい役人は最後には幽霊となるので、リアリズムの路線は越えている…かもしれないが、まあ、今はこの点については目を瞑る事にする。どっちにしろ、今から論じる事に大きな影響は与えないだろう。

 ミハイル・バフチンはドストエフスキーを論じる上で色々な宝を僕達に残していってくれた。僕はバフチンを利用して考えていく事にする。ここにゴーゴリという一人の作家がいて、これがアカーキエウィッチという貧しい役人を描くとする。貧乏役人はロシアの社会に現実に存在するであろう人物であり、それをゴーゴリは作家の視点から描いていく。
 
 ゴーゴリという作家にとって、そしてそれを読む者にとって重要なのは、このような人物を克明に描くのに意味があるという事だ。この貧しい役人は社会の片隅にいて、なお人間悲劇を遂行している。このような人物が生まれなければならないというのが社会の悲劇であり、それを作品を通じて共同体が共有する事に意味がある。貧乏役人に涙を注ぐという事自体に、その社会そのものの問題点を明らかにする意味が存した。

 さて、ここにリアリズムの基本的な路線が発生しているわけだが、現在において、同じような事をしても問題が起こる。何故かと言うと、貧しい役人アカーキエウィッチという人物が仮にいるとして、その人物は、作者の方を容易に振り向く事ができるからだ。アカーキエウィッチという人物は現在では、ただ社会に当てはめられた人物ではなく、誰が自分をそこに当てはめようとしているか、よく知っている存在である。つまり、我々の時代においてはバルザックとかフローベール、ゴーゴリのように、単純に、観察する側ーー観察される側という二項の関係が成立しない。我々、一般の人間はいつの間にか、プロレタリアートからブルジョアジーになった。我々がブルジョアになったというのは金銭だけの問題ではない。それ以上に重要なのは意識と知性のあり方だ。

 この問題を一般化してみよう。そもそも、リアリズム文学が成立するのに、どのような社会事情が必要だったのか。まず、最初に、何はともあれ生活している人がいる。パリでもペテルブルグでもトーキョーでも、そこで生活している人がいる。生活し、苦しみ、あるいは恋愛をし、暴力を受け、暴力を振るい、何かをして生きている個人がいる。作家がこれとは違う場所にいる。作家は高所に立って、これらの人物を描く。この時、作家→人という風に視点は動くのであって、描かれる人物は自分を誰かが描いているとは考えない。人は社会の中を己として生きる。それを作家が別の視点を持ち出して描く。

 これは現在でも、全く同じように見える。が、違うと僕は考える。というのは、今では人は既に、「作家的視点」、いわば、傍観者的視点を身に着けているからだ。ここには当然、テクノロジーや社会環境の充実も大いに意味のある事柄として現れてくる。つまる所、かつては僕らはフィクションの内部に描かれる存在だったが、今や僕達は、大衆としての生活を失い、それと共に、描く立場の視点を手に入れた。つまり、僕達はフィクションに描かれる立場からフィクションを描く立場になった。

 また、それと似たような事、あるいは同じ事だが、僕達は自分達の存在そのものをフィクションと化してすらいる。これに関してはどこを見渡してもそうなっている。
 
 例をあげるならば、最近流行りのユーチューバーなどはもちろんそうだ。彼らが、自分自身を映像の中に収めているような気がしていても、実際には、彼らは映像の中でしか存在できない架空のものへと少しずつ変貌してきている、という事が肝要に思われる。

 また、「君の名は。」とも関連するが、恋愛というのもそうだ。例えば、付き合っている女が急に「海に行きたいね」とか「今度会うのは秋だね」とか、そんな事ばっかり言っていたら、僕としては心底うんざりするが、この女はリアリズムとフィクションの境界線に浮かんでいる。というのも、こうした女(たまたま女を例にしたが男も同じ)は自分の言動をどこかで見た、フィクションに合わせて行っている。ここでは既にパロディ的な要素が出ているが、これが我々の現実となった今、それをなぞる作家が自分を「リアリスト」だと考えても不思議ではない。

 以前に批判した青山七恵という作家がいるが、この作家はその代表と言える。「ひとり日和」という作品で、七十過ぎのおばあさんが出てくるが、これは「年を取っても身ぎれいにして恋も忘れない素敵なおばあさん」というイメージで描かれていて、それ以上のものではない。つまり、ここでは化粧品のCMレベルの理想のおばあさん像が作品に投入されているだが、こうしたおばあさんも現実にいるであると考えられる以上、青山七恵が自分をリアリストと名乗る可能性が生まれてくる。

 つまる所、我々の生活はもはや、我々が知識を持ち、我々が我々自身をフィクションの中に投げ込んだ事によって、それ自体「リアル」なものとは言えなくなった。確かに、ドラマのような恋愛をする人間は現実にいるだろう。それも、沢山いるかもしれない。だが、そのような人物を描くという事はバルザック的、ゴーゴリ的リアリズムを意味するのかというと、違う、と僕は考える。現実の人間をリアルに描くという文学の方法論は一貫して変わらない。(幻想性はこれに対する処方箋にならないと僕は考えている) だが、現実そのものが変容している以上、方法論が同じでもその意味は変わったはずだ。だから、それはかつての妥当性を失っている。そのように自分は考える。

 僕達の世代はもう、生まれた時からフィクションに囲まれて生活している。様々な価値観、物語、方法論、ノウハウといった事柄が溢れていて、それに沿って生きる事が普通になっている。受験勉強を頑張って良い大学に入り、「一発逆転」の人生を送るという物語は、社会が個人に用意した物語だ。社会は、社会に適合しようとする個人を、社会にとって都合が良いという理由で支持する。受験を頑張って一発逆転する若者は現にいるだろう。だとすると、その個人を描くのはリアリズムなのか、という事が今僕が問いたい問題だ。
 
 こうして考えていくと、フィクション化した現実を描くという事はそもそもなんだろうか。今の作家が放っておくと、軒並み、エンタメ、物語志向に流れていくのと関連があるように思える。また、青山七恵のようなリアリズム路線の「純文学作家」が実質的に、ライトノベルや異世界小説とさほど差がないという原因もここにあるように見える。現実そのものがフィクション化しているのであれば、それを描く事はリアリズムであると共にファンタジーとなる。一方で、ファンタジーによって、現実における鬱積した感情を爆発させたいというのはまた新しいファンタジーを作る事になるが、これは現実において「理想的な恋愛」をフィクションになぞってやろうとするのと大差ない。

 問題を整理するならば、今言われている「リア充」VS「非リア充(オタク)」というのは、実は同じものに統一可能だという事になる。つまり、「リア充」は現実そのものをフィクション化しようとし、「非リア充」はそれをフィクションの世界で行おうとする。つまり、どちらもフィクションの世界で生きている事に変わりはない。

 ここまで来ると、世界全体がフィクションで覆われているという話になってしまう。答えとしては僕はーーイエス、まさしくそうだと感じている。ネットを通じて、人々の意見、価値観、物語があらゆる現実に浸透した結果、僕らは改変された現実こそが現実の全てだと視認するようになった。

 しかし、そうなるとそもそも描くべき現実は今存在するのか。一体、何を描くべきなのか? という事が疑問となる。
 
 例えば、モダニズム、あるいは印象派から抽象画、象徴派、ポストモダンといった現代の芸術思潮はもっぱら、孤立し、独自な存在となった芸術家その人からあらゆる芸術的要素を吸い出し、それを画布に塗りつける(表現する)ものとなった。そこからダリのような変種も生まれてきたが、芸術家がそもそも独創的な変人、変奇な人物というのは歴史を通じた普遍的概念ではなく、現代に特有の思想だと思う。神が消えた今、芸術家は孤立し、自分の内面を重視する事になった。そこからあらゆる芸術的要素が吸い出され、芸術作品として結晶する事になったが、同時に、それは芸術家それ自体を痩せ細らせた。ポロックの絵画、マーク・ロスコの絵画はどちらも一流のものだが、そこには僕らの袋小路があるように見えてならない。片方は自殺に近い事故死、もう片方は本当に自殺している。

 外界が描くべき価値を失った今、芸術家はそもそも何を描けばいいのかというのは本質的に、現代の真摯なアーティストに強いる苦しい問題に見える。この問題を無視して、芸術家っぽい、アーティストっぽい人になる道はいくらでもあるが、根本的には僕らはどうすればいいか分かっていない。

 こう考えていく、絶望しかないようにも見える。実際、ここ最近の流行りのアーティストや作家だけが、フィクションの全てだとしたら、僕にも希望の持ちようがないわけだが、過去に目を向けると、ドストエフスキーとかバルザック、セルバンテスのような存在が見つかる以上、この問題を安易に妥協するわけにはいかない。これらの優れた作家は、ただ世に都合の良い嘘をついた作家ではなかった。にも関わらず、それらの作家の作品が残っているという事実は僕達が、僕達にとって都合の良い夢だけを望んでいるわけではないという事を証明する。いや、そうとでも信じなければやっていけないだろう。

 この文章では現実とフィクションの問題について書いたが、この実践的解決は、現に小説を書く事によって証明しようと考えている。これに対する答えはこのようなエッセイで書かず(書くかもしれないけど)、基本的にはただ黙って小説を書く事によって実践するつもりである。

 「君の名は。」 感想


 今になって、映画「君の名は。」を最後まできちんと見た。その感想を書こうと思う。

 …さて、今、「感想を書こうと思う」と書いたけれど、実を言うと、感想を言いたい気持ちというのはそれほど湧いてこない。というのは、「君の名は。」という作品は、通俗的な作品で、既視感の連続であり、別に言いたい事もないし、言うべき事もないと感じる。

 今の十代は知らないと思うが、「世界の中心で、愛をさけぶ」という小説が流行った事があった。映画化され、ドラマ化もされ、本はよく売れた。しかし、今、「セカチュー」の事を言う人はほとんど見ない。あれだけヒットした作品は今は忘れられているようだ。

 調べると、「セカチュー」は十五年も前の作品だ。「君の名は。」はそれから十五年も経っている。なのに、何も変わっていない、という印象を受ける。主人公が持っているものが携帯からスマートフォンに変わっただけで、根底の部分は何も変わっていない。商業的な世界はいつも、「新しい」「これまでになかった!」「今まで一番泣ける!」とか、そういう言葉を常に発するが、実際には何も変わっていないと感じる。「恋空」なんて小説もあった。「セカチュー」があり、「恋空」があり、「君の名は。」がある。でも、だからどうだというのだろう。

 嫌厭ばかり吐き出しても仕方ないので、まともに作品を考えていく事にしよう。

 まず、褒めるべきは確かに映像が綺麗だという事だ。自分もああした自然風景の場面は好きなので、ああいうものをあのようなグラフィックで見れたという事は個人的には好きなポイントだ。また、作品全体の雰囲気も嫌いではない。生ぬるい作風なのだが、自分は生ぬるい人間なので、ああしたものは好きである。しかし、これはあくまでも個人的好悪の部分だ。もしAmazonで星をつけるとすると、本来的には星三つだが、自分の好みもくわえて星四つにしたと思う。

 それはさておき、もっと根本的な部分について考えていく事にする。「君の名は。」はいわゆる恋愛ものである。それで、恋愛を基礎にシナリオを作る場合、制作者の観点からは、単純な方法が見えてくる。

 まず、お互いに好き同士のAとBを作る。これは男女関係だ。で、このA、Bはお互い好き同士なのだが、何かの理由で、一緒になれない。つまり、AとBの間に障害があって、この障害を乗り越えて、AとBは一緒になる。その道筋が物語の構造となる。

 この障害は人間である事もあるが、「君の名は。」の場合、過去に隕石が落ちて、人が死んでしまうという所にポイントがある。また、田舎⇔都会という差異も、障害を生み出す起因となっている。

 「君の名は。」という作品では、いくつかの設定がこしらえられている。主人公の男と女が、定期的に体が入れ替わってしまう事。女は三年前の世界にいて、男は三年後の世界にいる。その三年を繋ぐのは伝統的な「紐」で、男は隕石の落下で死んでしまう女を救う為に、三年前に戻って奔走する。

 自分で書いていてもよくわからないプロットだが、こうしたプロットは適当に見ていっても何の問題もない。というのは、こうした大掛かりな仕掛けは結局、男と女の「好き!」という気持ちを盛り上げるために作られた設定にすぎないからだ。だから、至る所、都合の良い場面が出てくるが、視聴者は主人公達の「好き!」を素直に信頼する限りで、そうした場面をスキップする事ができる。あるいは、そうした場面が気にならない。

 僕はそもそもこうした「純愛」そのものが信じられないので、素直に見る事ができない。「それはお前が濁っているからだ!」という人もいるだろうが、ここには個人的なだけではない、色々な問題がある。これに関しては今は触れない。

 さて、「君の名は。」という作品を通して見た時、まず、僕達は、そこにある色々な場面を素直に信じなければ普通に見られない。頑張って走っているヒロインが途中でこけて「う、うう…」となる場面だとか、お互いの手が触れあいそうになって、人混みに巻き込まれて、ついに手が触れ合えない場面だとか。

 最近読んだ小説に、主人公の彼女が「ねえ、海に行きたいな」みたいな事を言う場面があったが、僕としては「勝手に行けば」なんて思ってしまう。もちろん、「君の名は。」とかこうした小説では、こういうセリフや場面は、普通に見なければ、鑑賞する事ができない。

 青山七恵の「ひとり日和」でも、主人公が失恋して髪を切る場面があったが、「君の名は。」でも似たような場面があった。何が言いたいかと言うと、これらの作品は極めて類型的な場面が頻出するという事だ。キャラクターもそうで、「君の名は。」でサブキャラクターに位置づけられている田舎のカップルは、正にサブキャラクターたる事を運命づけられていて、その領域を一ミリもはみださない。また、主人公達が自分を疑う事もなく、自分について(属性としての自己以上に)考える事もほとんどない。制作者は世界を類型的に見ており、その視点は作品に投入され、それが多くの人に受け入れられるという事は、僕達が世界を類型的に見ているか、少なくとも、それを望んでいるという事を意味する。

 「君の名は。」が大ヒットした事が何を証明したかというと、「何も変わっていない」事だと思う。「セカチュー」にあった通俗的恋愛観念は二千十年代の現在も見事に通用し、かつての十代は二十代に、二十代は三十代になったとしても、何も変わらなかった。世界は驚くほど変わっていない。相変わらず、作品世界内部では、「就活」「受験」「恋愛」といった所与の概念が幅を利かせており、これに対してまるで疑わず、それらを基礎としてプロットを作るのが普通であるし、それによって大きな利益を得る事が未だに可能である事が証明された。

 「君の名は。」という極めてクオリティの高い映像作品、物語をうまく二時間の尺に収める技術、それらの高いレベルが到達する先は、最終的には「○○君(さん)、好き!」という感情だ。似たような構成をこれもヒット作である「アバター」という映画で見た事がある。「アバター」の向かう先は「自然は大切」というこれもどこかで見た事のある概念だ。

 「シン・ゴジラ」も構成的には同じで、問題が起こった時の内閣の動きや、ビルの倒壊する場面などが緻密に描かれているが、その先にあるゴジラをやっつける観念は単純なものとなっている。また、これらの作品ではどれも、善悪が綺麗に別れている事も特徴的と言っても良いかもしれない。(「君の名は。」では、悪人はいないので、「意地悪」VS「いい人」という構成になっている)

 こうして考えていくと、現在のヒット作の主流は「極めて高い細部の技術」を「僕らが一般的に持っている通俗的正義感、恋愛観、社会感情」に収束させていく事にあると思う。僕は世間まるごとを含め、ヒット作のあり方そのものに疑問を持っているので、こうしたものを積極的に評価しない。もっと言えば、これらの作品に「心の底から感動した」という感動のあり方に疑問を持っている。遠藤周作の「沈黙」という作品は丁度「君の名は。」と同じように「泣ける作品」だが、その涙は果たしてどんなものか。僕としてはその涙そのものに疑問を持っているし、そういう涙を素直に信じられるという感性そのものに疑問を感じている。

 …もっとも、次のように考える方が妥当かもしれない。つまり、「君の名は。」をカップルで見に行って「良かったね、また見ようよ」と、素直に言える人間であったら、僕はこのように苦しんだり考えたりする必要はなかっただろう、という事だ。多分、そちらの方が真実だろう。しかし、これらの事はそう簡単には決定できない。人生において、何も疑わないという事がどんな悲劇・喜劇を招くのか、また、果たして幸福な人生が「良い」人生なのか、というのはそれほど簡単には決定できない。ただ、はっきりしているのは「君の名は。」に心から涙できる人は僕よりも幸福な人間だという事だ。しかし、その幸福を計る基準が、この世界のどこかにあっても良いのではないかと自分は考える。

 『声優志望』について

 

 声優志望、声優になりたいけどどうすればいいのか、といった言葉を最近はよく見る。その際の反応のパターンは大体、二つに別れる。一つは「現実を見ろ! 食えるのはほんの一部だ!」というもの、もう一つは「頑張って! 夢を諦めないで!」というもの。だが、個人的にはどちらにも不満を持っている。

 個人的に不満を感じるのは何故かと言えば、声優というのは広い意味で役者であって、そこで実際に芝居、演技に対するノウハウとか、どのように芝居をすればいいかという具体的な意見がほとんど見当たらない点にある。いろいろな数字を上げて、「食える役者はこれぐらいしかいないんだぞ!」と言っても、では、「食える役者」とは何で食っていけているのか、どのようなノウハウを持っているのか、プロとして長年やれる人の芝居は、他の人の芝居とはどう違うのか、という具体的な問題にはまず踏み込まない。

 もっとも、声優のような業界では、使われる側なので、色々難しいだろうとは思う。いわゆる「枕営業」のような事があっても、そう驚かない。しかしそんな「営業」で首の皮を繋いでいっても、すぐにプツンと切れてしまうだろう。問題は、流動していく社会の中で、自分自身に自信を持てるスキルを持てるかという事にある。そしてそのスキルは(できれば)人間的なものであるべきだろう。単なる知識の寄せ集めとか、何か機械的な運動を人並み以上にやれるという事ではなく、その人の個性と表現が一致したスキルが望ましい。

 自分の記憶では、初期の声優は元々、役者の側から流れてきた人達だったはずだ。彼らは役者としては食えないから、声優に流れてきたのかもしれない。「声優になりたい!」という夢は結構な事かもしれないが、世の中が求めるものと、自分が社会に提供できる能力との調整点というものを広い意味で考えたほうが良いように思う。例えば、芝居が好きで、演じる事に自信があるというのであれば、声優だけが仕事ではないはずだ。そこから舞台役者に行ったり、テレビドラマに役者として出たり、色々な可能性が考えられる。自分で脚本を書いて演じるという可能性もある。問題は「プロの声優になる」事ではなく、広い意味で何かを演じる事で、人々に価値を提供するという事にある。では、そのような能力を自分は持っているかと自問するのが、役者ー声優を目指すという点ではもっともオーソドックスではないか。

 「プロの声優になる!」と考えるとかなり門戸は狭くなるし、色々煩雑な問題は起こってくるだろうが、どうしても芝居が好きである、何かを演じる事によって社会的価値を生み出したい、というのであれば、例えアニメ業界が斜陽になり、声優が「オワコン」になっても生きる道はあるように思う。「何かを演じる事によって人々に価値を提供する」という事柄はそれこそ、能や狂言の時代から今まで連続的にある。声優を目指すというのであれば、そういう観点に立って自分が何ができるのか、どんな芝居ができるのか、そう考えてみても良いと思う。

 もっとも、このような考え方は時代遅れなものなのだろうとは自分でもよく分かっている。現在は数量化されたモデルの中でゼロサムゲームをするのが基本になってきている。何かを生み出すよりは、何かを取り合う事が主流となっている。

 そういう中でも、「声優になりたい!」というのであれば、自分の核となる芝居そのものがどのような社会的価値があるのか、そもそも、演じるとはどういう事か、人はどんな演技に心を惹かれるのか、そうした事を普通の観点から考え直すのもそう悪くないのではないかと思う。