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詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

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ブコウスキーと西村賢太の違い


 ブコウスキーの本を図書館で借りて読んでいた。と言っても、もう返してしまったので、手元にテキストがない。なので、うろ覚えの印象だけで、ブコウスキーと西村賢太を比べようと思う。どちらも、無頼派作家という事では、外面的には似ている。

 さて、ブコウスキーという作家はどんな作家か。酒と女を愛して、その生活を赤裸々に描き出した作家と言えばわかりやすい。一見、そう見えるし、そういう外見から、終日飲んだくれていれば作家になれると妄想する人間も現れてくるが、ブコウスキーはそれとは違い、本物の作家と呼ぶ事ができる。では、ブコウスキーはどうして本物だと言えるのか。

 一見すると、西村賢太もブコウスキーに似ていると言えない事もない。ある程度年を取ってからデビューした事、底辺でのくすぶっている暮らしを私小説的に題材にしている事が似ている。しかし、それはあくまでも外面的な事にすぎない。僕は、ブコウスキーには「文学」を感じるが、西村賢太には「文学」を感じない、という印象から話を進めていく。

 そもそも、私小説とは何かという話から入る事にする。歴史的に私小説を考える事もできるが、こっちで考えた定義で話を進める。

 私小説というのは単に、「私」について書く事ではない。以前に、小説というのは「個人の生きている姿を描く事が社会的な意味を持つ」と定義してみたが、この場合、「私」について描く事が、社会的な意味を持っていなければならない。ただ「私」の垂れ流し、「私」の生きている様について話すのではなく、それが、他人にも意味を持つように語らなければならない、という事だ。

 だから、そこでは、経験よりも、経験を加工し、編集する作家の技術が必要となってくる。本物の作家というのはみんな、隠れた技術を持っているが、読者には、「作家というのは好き勝手にやっていていいなあ」と思わせておく、という事も頻繁にある。こういう場合、この手の読者は作家と作家の実生活をたやすく混同するが、そこに見えない技術を盛り込み、そこで語られているものに意味を見出していくのが作家の技術となる。

 この点からブコウスキーの作品を見るとどうか。確かに、作品には女と酒の事ばかり書いてある。(言い忘れたがブコウスキーは「詩人と女たち」、西村賢太は「苦役列車」をテキストに選ぶ) そして、実際に、ブコウスキーはそんな生活をしただろう。しかし、「詩人と女たち」という作品は、確かに作家が精魂傾けて書いた作品だと言える。それは最後の終わり方だけ見てもそうだが、その他の部分もそうだ。

 女と酒は、有名作家になったオジさんの主人公に次々に流れ込んでくる。主人公は詩人としては、女に溺れ、酒に溺れ、だらしない生活を送る。しかし、「詩人と女たち」を注意深く読むと、そこにある種の倫理性と諦念が流れている事に気づくだろう。それは、ブコウスキーならびに主人公が、人生というものを深く諦めているからこそ、そうしたものに生きざるを得ない、という感性である。つまり、ウマル・ハイヤーム的に、この世がろくでないものだとわかった暁には、酒でも飲んでいるしかないという感覚である。しかし、この世がろくでないものだと罵る事は政治性を帯びる為に、ブコウスキーはその言語を注意深く、作品から取り除いている。

 うろ覚えだが、こんなセリフがあったはずだ。
 「三杯目(の酒)を飲んだらどうなるんですか?」
  主人公はそれに答えて言う。
 「大差ないね。三杯目を飲んだら、四杯目に行く」

 他にも、いくつか主人公の諦念を示す文章があった。「恋は一度だけした」というような言葉もあったはずだ。つまり、女を抱くという行為には、もはや恋も愛もないし、詩人はいつかの日に何故か、恋とか愛とかを諦めたらしい。相手の女も自分を愛していないと知っていて、それでもかまわないと詩人は決めてかかっている。この手の諦念というのは、そう簡単に取り扱えるものではない。

 こうした諦念として、似ているタイプとして思い浮かんだのは、カート・ヴォネガットだ。ヴォネガットの人間への諦めっぷりは、戦争経験から来ているとわかるが、ブコウスキーの場合はどこから来たのか、調べていないのでわからない。ただ、こうした人間の諦念は、突き抜けると、滑稽さや笑いへと変わる。ブコウスキーは、有名作家になったのに女に罵られている滑稽な自分の分身を平気で描いている。どうしてそんな姿を描くのか、という所に作家の哲学があるが、ブコウスキーの場合、そんな哲学は真面目には語らない。ただ、人間そんなもんだという詩人の嘆息が聞こえてくるような気がする。

 さて、そうした存在がブコウスキーだとすると、西村賢太はどうなのだろう。西村賢太は、朝吹真理子と芥川賞W受賞した。朝吹真理子はいい所のお嬢さんで、西村賢太は底辺を這った中年作家で、出自は全く逆だが、それにも関わらず、作品は大して変わらないという印象を僕は抱いている。それは、西村賢太の作品が、「文学とはこういうものだろう」と頭で考えられて作られた優等生的なものにしか見えないからだ。つまり、どっちも優等生的に見える。

 谷内修三という人が、ブログで指摘しているが、西村賢太の小説は言葉でできている。作品の書き出しに「曩時」なんて誰も知らないような言葉を何故使うのだろうか。そうした疑問は文体全体に及んでいて、そこに生きた人間の姿がなく、言葉だけがある、と言うと、今の文学の世界では褒め言葉とも捉えられかねないが、褒めているわけではない。

 西村賢太がああした文体で描くのに何か必然性があるのか。作家としての、倫理、思想、哲学と関係があるのか。ブコウスキーの文体はブコウスキーの魂のパターンと一致しているし、一致させるのが作家の技術だろうが、西村賢太が「曩時」という言葉を使う時に、西村賢太の魂のフォルムが感じられない。言葉だけが宙に浮いて、文体が無理に屈折して、「文学」ではなく「文学的なもの」を作っているように見える。

 これは又吉直樹も共通だし、平野啓一郎の処女作もそうだが、意図的にそういう文体にしている事と、何故、そういう文体にしなければならないのかという事が、作者の精神によって抑えられていない為に、なんとなく「文学っぽい」作品を作る事にその努力の全てがある。平野啓一郎は、最初の難解な文体を離れて、途中から、通俗的な方向にシフトしたが、自分の文体に必然性がないからそれを捨てるのも簡単だし、人の望むような物語性の方に移行するのは当然の事に思える。

 中上健次ならば、底辺の人間を、土着的な自然に包み込んで描く事ができただろう。中上健次にはそういう「目」があった。中上健次は大きな作家ではないだろうが、少なくとも、人間を見る作家の目が、そのまま文体として表出している作家だった、とは言えると思う。

 しかし、西村賢太の小説が、朝吹真理子の小説と大差ないというのはどういう事なのだろうか。そこに、作家の個性的な努力、世界を見る目を磨こうという努力よりも、文学的なものを作ろうという努力しか感じられないというのはどういう事なのだろう。

 現代社会では、それぞれの人間が、底辺であろうと金持ちであろうと、何であろうと、似たようなステージに吸い込まれてしまうという問題がある。それは、テレビに、貧乏を売りにするタレントと、金持ちを売りにするタレントが同じように出てくる現象に似ている。どっちも個性らしきものを振り回すが、テレビに映って出てくると、同じに見える。

 西村賢太が底辺を生きたという事、朝吹真理子の育ちがいい事、それはただそれだけの事だ。問題はそれにどんな意味を与えるのか、それが何であるのかと自覚的に認識する事にある。

 ブコウスキーは、自分の生活を、酒と女に捧げる事に「決めた」が、その場合、その背後にあるものは見せないように決めた気がする。また、自分の情けない姿を晒す事に「決めた」ようにも見える。そして作家がそう決めた事は、ある種の倫理だが、その倫理は作品の背後にあり、表面には出てこない。だから、「詩人と女たち」を読んでも、ただの酔いどれスケベ親爺しか出てこない。

 西村賢太にブコウスキーのような倫理性は感じられない。だから、ただそれだけなのだと思ってしまう。そして、それは文学でも私小説でもない、という風に思う。自分というのは、どのような存在でもありうるが、実際の自分はそのような存在となってしまった、そのようにしか生きられなかった、という事に、その人の魂のパターンが生まれる機縁がある。

 人間は運命に翻弄される生き物であるが、運命に翻弄される事に自覚的に決めた人と、ただ運命に翻弄され、成功したり失敗したりした人とは、違う存在だ。そういう微妙な違いが、境遇の似ている二人の詩人を分割しているように思われる。

グラウンドに流れる永遠について

 大学のグラウンドは広くて、僕一人の手に負えない。でも、贅沢に、僕はそこを使っていた。
 ボールを蹴る。壁に当たる。跳ね返ってくる。また、蹴る。
 サッカー選手の中村憲剛は、バルセロナのセルヒオ・ブスケツを尊敬しているらしい。ブスケツのポジショニングは完璧だ。彼はクレバーな選手で、常に、相手の動きを読み、試合全体を俯瞰して、ボールをコントロールしていく。
 でも、こんな話、サッカーに興味のない人にはどうでもいいだろう。じゃあ、僕はどんな話をすればいいのか。
 この文章ーー今、書いているこの文章、読むのは多分、三人くらいなんだけど、じゃあ、その三人の興味ある事を書けばいいのか。イチローはあんまり本を読まないって話を聞いたし、モーツァルトも読書家ではなかったらしい。じゃあ、イチローやモーツァルトになるためには、どんな本も必要ないっていうのか。多分、そうだろう。実際にそうだったろうし。
 どんな事を話しても聞いても感じても、それは僕一個人の身体に収まる事柄である。それが、哀しいし、嬉しくもある。なんと言えばいいのかわかんないけど。
 ボールを蹴る。強く、蹴る。すると、うまい具合に飛んでいき、壁の真ん中に当たった。壁の真ん中には円が描いてあって、僕はそれを狙っていたのだ。
 ボールは的を射抜いて、足元に帰ってきた。よし、よく帰ってきた。僕のサッカーボールよ。これで、中村憲剛にもセルヒオ・ブスケツにも負けないプレイができるぜ。ボールよ。お前さえ、言う事を聞いてくれれば、億万長者になれるのにな。メッシにもクリスティアーノ・ロナウドにも負けずに、ゴールを叩き込む事ができるのにな。そしたら、車を五台持ってセキュリティが完璧の高級マンションに住んで、ロシア出身のモデルと付き合う事ができるのにな。しかも、モデルの女は向こうから寄ってきてくれるんだ。そうだ、最高じゃないか、フットボール。
 もう一度、ボールを蹴る。強く、蹴った。ボールの下を強く擦りすぎて、ボールは上に飛んでいった。壁を越えて、後ろのネットに当たった。ボールを取りに行かなくちゃならない。やれやれ。僕はこんな風にして、何者にもなれないんだ。

                       ※

 休憩。自動販売機でポカリスエットを買って飲む。おいしいな。運動の後の水分はすごく、おいしいな。
 マジ、おいしいな。ベンチに座ってポカリを飲む。
 僕はもう大学四年だった。就職活動をはじめなきゃいけなかったけれど、やる気がなかった。一度、会社説明会に行ったんだけど、担当の社員が、プレゼンテーションはじめて、馬鹿馬鹿しくなって、やる気がなくなってしまった。社員によると、我が社は毎年、右肩上がりを続けているのだという。更には、世界との競争に勝つために、日頃から努力を怠っていないのだという。
 そんな事より、週の休みがどれくらいになるのか、残業はどの程度なのかという具体的な話を聞きたかったのだが、どうでもいいクソビジョンを社員が語り始めたので、うんざりしてしまった。他の、就活大学生は、うなずきながら聞いていた。どこにうなずく所があるのか僕にはわからなかった。世界と競争したいなら勝手にしてろ! 僕には新作のエロ動画と、酔って吐くゲロだけがリアルなんだ! あとは知った事か!
 …なんて事を考えていると、世の中の「流れ」とやらに取り残されて、あっという間に時代遅れのジジイになるらしい。僕としては時代遅れのジジイになる気満々だった。六十過ぎて女の尻を追いかけ続けるのが、理想の姿だった。時代から遠くはなれて、痴呆になるのが僕の望みだった。でもまあ、まだ時間はありそうだ。大学生だしな。まだ。
 日影からグラウンドを見るのは気持ちが良い。空には、雲があり、雲は風に流されている。

 子、川のほとりに在りて曰わく、「逝くものは斯くの如きかな、昼夜をやめず」

 孔子という、人生失敗した爺さんはそんな事を言った。あの爺さんは偉かったと思う。説教臭いのが玉に瑕だけど。
 爺さんは、川を見て言ったのだ。「川は昼夜関係なく、流れていっているぞ」と。対して、人間共というのは、時代だの流れだの新作だの何だのごちゃごちゃ言って、人工的に流れを作っている。僕はその流れに乗る気がなかった。
 そして、人々の流れから離れると、自然が変化していっている事に気づく。
 いっつも、車に乗って移動しているクソセレブ共は自然の変化には気づかないだろう! 雪の冷たさを感じる事ができる人間は、雪の中で死んでいく人間だけなんだ! そいつだけが、キタキツネレベルではじめて「雪」を感じられる。今の人間は生まれてから死ぬまで、なんにも感じず、考えずに死んでいく。あらゆる悲惨が取り除かれているから、何も体験する事ができない。…そんな事を思った。
 馬鹿だな。僕は笑う。馬鹿だな。
 雲がゆっくりと流れていった。僕はそれをじっと見ていた。
 その時、僕は雲だった。ああ、誰がどう言おうが、その時の僕は雲だったんだ! 悪いか! 僕が雲で!! 僕は流れだ。流れそのものだったんだ!!

                   ※

 休んでいたら、ゼミの桜井がやってきた。桜井はゼミのイケメン学生だ。もう内定先も決まっているらしい。なかなか、気さくでいい奴だ。
 桜井は僕を見つけて、近づいてきた。何の用事で来たかはわからない。話しかけてきた。
 「よう、何してんの?」
 「いや、別に」
 立ち上がって、足元のボールをポンと蹴り出した。桜井の方に。
 「サッカーしてたんだ。お前もやる?」
 「いや、俺はいいよ。お前がサッカーやるなんて知らなかった。意外だな」
 「僕だってサッカーやるんだぜ。中村憲剛やセルヒオ・ブスケツに負けないくらい、頭を使ってサッカーやるんだ。ポジショニングも完璧さ。こいつで、ロシアの美女を捕まえるんだ」
 桜井は(何を言っているのかわからない)という表情をした。頭の上に「?」が浮かんでいた。
 「…またな。俺、用事があるから」
 「ああ、また今度」
 桜井は去っていった。あいつは、用事があるんだろう。僕と違って。何か、とても大事な、意味のある用事が、あいつにはあるんだろう。でも、僕にはなんにもないんだ。
 僕は再び、ベンチに座った。そして、そのまま、その場所から動かなかった。僕は永遠に、大学のベンチに張り付けられていた。


 それから、長い時が流れた。とてつもなく長い時が流れた。僕はベンチに座り、この世の全てを眺めていた。ただ、眺めていた。

 その後、何が起こったか……それは知らない。当方の管轄外なので、知りません。とにかく僕はそんな風にベンチに座ってたって事だ。それ以上にはどんな意味もないんだ。くそったれ。

文学と文学でないもの




ブコウスキーの小説を図書館で借りてきて読んでいる。あんまり興味のなかった作家だけど、読んでみると面白い。

ブコウスキーの小説は、僕はある種のコメディとして読んでいる。くっだらねえ人生送ってやがんなあ、と読者に言わせれば、ブコウスキーの勝ちである。しかし、大抵はくだらない人生しか送れないし、くだらないのが人生だ。

井原西鶴を読んでも感じたが、ブコウスキーにしても、そこに人間の生活が書いてある。人間の実態というものが書いてある。しかし、同時に、その実態を少し離れた所から見ている。自分の観点からすればこの「少し離れた所から見る」のが「作家の認識」だという事になる。

普通の小説というものを読んでいて嫌になるのは、結局、そこに「誰々が何をした」という以上の事が書いていないという所にある。こう言うと「全ての小説がそうじゃないか」と言われるだろう。事実として表面に現れている点ではそうだが、もう少し深く考えていくと違うように思う。

文学とは人生そのものではなく、人生に対する認識だ、と以前に書いた事がある。これを現代の作家に当てはめると、大抵が、生活に固着している為に、認識とならない。というか、そもそも人生に対する認識というのが何かわからないままに、人生の内部に作者も埋め込まれている。そこで、作者から見られた他者、人生、現実が描かれていくのだが、それはただ、意外な事件を目撃したような位相でしか書かれていない。だから読んでいると、どんな突飛な事実、どんでん返しがあってもつまらなくしか感じない。

誰しもが人生というものを知っているような気がする。だから、小説も誰でも書けるような気がする。そこから、事実の集積としての小説が沢山出てくる。しかし、そこにあるのは、「誰々が何をした」という以上のものではない。もちろん、誰しもがそうやって生きているが、誰しもがそうやって生きていると感じる事と、誰しもがそうやって生きているという事実は違うはずだ。

例えば、「人生はくだらないものだ」と作者が「思う」事と、人生を実際に生きて、そういう認識に達した、というのは違う事だ。「人生はくだらないものだ」というものが思考の水準で行われているのなら、「そう思おうが思うまいが勝手である」という以上の事は言えない。だが、「人生はくだらないものだ」という認識から、人生を描く事のできる作家の認識というのは、決してくだらなくはない。彼は現実を知って、現実を越えようとした。現実の内部において思考しているのではなく、現実を越えようとして「認識」している。少なくとも、そうしようとしている。

こういうのは感覚なのでわかりにくいだろうが、個人的には、そういう認識がなければ文学とは呼べないと思っている。「文学的」とか「文体」の問題など、色々な事が言われるが、作家というのは、現実にしがみつきながらもそれを越えようとする存在である。

が、文学とか小説とかいうものも一般化した以上、また、現実の我々が、認識よりも具体的な知識とか共感性を求めるわけだから、そうした領域に現実そのものと一致した小説も沢山出てくる。そうした作品は自分の中では「文学」とは呼ばない。そうした作品は、むしろ、文学が描くべき「対象」であるように思う。角田光代は朝井リョウは、作品よりも作者の方が豊富なものを持っているだろう。何故なら、彼らが意識できない部分、彼らが描く事ができない部分に真実があって、それも含めて描くのが本当の作家だからである。そういう点で、真の作家は平凡な人間を描いても非凡な作品となり、平凡な作家は非凡な人間を描いても平凡になる。そこでは作家の認識が違っている。認識とは太陽のようなもので、それが当たると、例え塵でも、キラキラと光って見える。そんな風に思う。

 お笑い芸人について



 「内村さまぁ~ず」という番組をずっと見ている。この番組は毎回、違うお笑い芸人がゲストとして登場する。で、番組をぼーと見ている内、なんとなく芸人がどんな風なコードを作っているのか、ぼんやりとイメージできる部分があった。

 「内村さまぁ~ず」という番組は、タイトルの通り、内村とさまぁ~ずの三人の力が大きい。三人共、ものすごく普通の、友達同士が喋っているような様子でやっているが、実際にはきちんと画面映えするとか、画面として持つようなものにする事ができている。

 そういう事は面白くない芸人が出てきた時に、如実に現れる。と言っても、面白くない芸人はそれはそれで構わないという所がある。狩野英孝、つぶやきシロー、出川、アンジャッシュ児島あたりは単体では辛いが、内村やさまぁ~ずが突っ込むと構図になる。その辺り、ふかわりょうなどもボケ役に徹すれば、十分芸人としてやっていけたはずだが、どこからか軌道をそれてしまったのかもしれない。

 天然キャラとかポンコツキャラというのは、本当にその人の資質としてあるように画面を見たら感じるが、結局、それが芸にならなければならない。芸になるとはフィクション化する事だ。例えば、本当に天然の人がいて、ところどころ、そういう要素を出す。するとそこに突っ込みが入るのだが、これに本気で切れていたら芸にもなんにもならない。そこで切れている演技をしつつ、切れられるような自分を容認しなければならない。ポンコツであると言われて怒る振りをしながら、そういう役割を演じなければならない。

 そう考えると、芸人は妙にかっこつけたり、高級に見せようとしたり、思い上がったりしたらピンチだという事になるだろう。これは天然とかポンコツでなくても、そうだと思う。笑いというのは低俗な所がある。お笑い芸人というのは人から馬鹿にされる所があるが、それと同時に物凄く人気が出る部分がある。つまりは浮ついた泡のような部分がある。これはお笑いを非難しているわけではない。ただ、お笑い芸人であれば、そういう、泡としての自分に誇りを持たなければならない。本来、誇りを持てないような事に対して誇りを持つというのが、芸人の哀しい部分であると共に、秘められた高貴な姿であるように思う。

 そういう意味では、その域に達しているのはやはりタモリ、さんま、くらいかなと思う。(たけしは映画監督になったので除外する)

 タモリで言うと、タモリは本来持っている力からすれば、もっと高級な事ができる。又吉直樹なんかより遥かに高い創造物も作れるだろう。その能力も資質もある。だが、タモリという人は、いいともに三十年以上出て、なんというか、「そういう人」に決めてしまった人に見える。「いいとも」を三十年やってもそれは泡のようなもので、なんでもないことだ、と一番知っていたのはタモリ本人だったように見える。でも、そういう泡でいいじゃないかと諦念込めて、そういう自分にしてしまった人がタモリに見える。タモリは「いいとも」の最終回でも、泣かなかったし、ふざけ通しだった。最後には少し真面目にスピーチした。それは感動的なもので、本来的には、タモリは一流の知識人になれたはずだ。でも、そういう部分を全部殺して「町のおじさん」を演じ続けるという事にタモリの美学があったように思える。

 だが、この笑いの美学は、僕のように生真面目に「美学」と言われた瞬間に消えてしまう哀しい泡のようなもので、また、そうなければならない。笑いは、真剣なものに僕らが出会った時に、それから目をそむける、優雅な動作に似ているーーと思う。真剣な、深刻な話が持ち上がった時に、ふと誰かが、空気を変える為にふざけた事を言う。回りの人間はそれに笑うか、怒りながら「ふざけた事を言うな」と思うのだが、実はふざけている人間が一番真剣である。その人間は全体の空気を察して、それを転換して、全体を良い方向へ持ってこうとしている。真剣にふざける事の美学は、その真剣さを相手に悟らせないようにするという技術にかかっている。

 そういう意味では微弱であるが、さまぁ~ずの大竹なんかにもそういう部分を感じる。大竹も、誰かが真面目な話をすると茶化そうとする姿勢がある。もちろん、大竹だって自分の中に色々真面目な部分はあるだろうが、それを隠す所に大竹の芸人としての秘密があるはずだ。

 あまり話を広げるつもりはないが、明石家さんまにももちろんそういう部分はある。さんまという人は、普段でもああなのだろうが、タモリとは違った意味で自分を決めてしまった人だ。お笑いを表面的にしか見ない人は(それは正しい見方だが)、明石家さんまやタモリを「そういう人」だと思うだろうが、彼らは人生のどこかで、「タモリ」「明石家さんま」という人物を自分で作って、それが自分なんだと決めてしまったように見える。そういう事は、行く所まで行ってしまっているので、人がどうこう言えるものではない。ただ、尊重するのみだ。

 …とお笑い芸人について薄く語ってみたが、最近の芸人は、ネタを振られた時だけネタをやって、番組にゲストとして呼ばれる事ぐらいしか考えていないように見える。お笑い芸人も詰まっている状態なので、なんとか奇抜なネタをやって一瞬だけでも大衆の興味を惹きつけようと努力している。こうした芸人から瞬間の連続は出てくるが、大きな芸人は出てこない気がする。

 もっとも、「お笑い」というのが、これまで(ジャニーズと共に)王者のような地位にあったのは、大衆の嗜好がそこにあったからだ。社会が変わり、大衆の方向性が変われば、色々変わってくる。「いいとも」終了、SMAP解散は安定した大衆文化が崩れた象徴と見ている。これからはもうお笑いの時代ではないのかもしれないが、それだからこそお笑いをやるのだという気概のある人がいれば、お笑いにもまだ未来は残されている事になるかもしれない。


 物語とは何か  〈伊藤計劃のエッセイから考える〉





 作家の伊藤計劃は「人という物語」という注目すべきエッセイを書いている(webで読める)。

 このエッセイを簡略すると、要するに、「私」というのは一つのフィクションであるという事だ。「私」はフィクションだというのは、仏教哲学の時点から言われているので、真理としては目新しいわけではないが、伊藤計劃は脳科学の見地から言っている。

 脳は外界から沢山の情報を受取る。同時に、内からも情報を沢山受取る。それらの情報が編集、処理されて、「私」というフィクションが成立する。これは外界に関しても同じであり、僕らが「現実」と認識しているのは、そもそも脳の編集後の世界であり、編集前の、ありのままの現実とは何か、それはわからない。(このあたりはカントとも一致する)

 「私」というものは当たり前のものとして通常は扱われている。「私の物を取らないでください」「私に触れないでください」 これは普通の言葉だ。同様に、僕らは「私」というものを素直に信じている。Amazonのアカウントから銀行口座、私有財産制まで、様々な事は「私」を独立した存在とみなす事から生まれている。

 伊藤計劃の主張では、「私」というフィクションであるから、だからこそ、それは一つの物語であるという事だ。「物語」もまた、編集された時間的系列であろう。そもそも、仏教哲学の言うように、変化していくものの中に同一性を発見する事はできない。しかし、それを強引に行う事、それが人間の特権だ。「永遠」という概念はそこから出てくる。「永遠」は時間の先にあるのではない。むしろ、人の脳髄の中にある。変化していく時間というものの中で、変化する自分を無理矢理「私」と規定していく、同一性発見という傾向の象徴として「永遠」は存在する。

 「私」はフィクションである。物語である。それは、脳が様々な情報を加工・編集した後の時間系列、一つの実体である。ここから、ある道筋が見える。

 それは、絵画でいう印象派から抽象画、ゴッホからピカソ、ピカソからポロックへ至る道だ。ここで何が起こっているか。絵画には不案内なのであくまでも哲学として言うが、そこでは、テーマというものが次第に解体していく様子が見て取れる。ここで言えば、脳が処理した情報を、その構成因子に帰していく事、そうした系列が見られるように思う。

 我々はただ物を見るのではない。ありのままの物を見るのではない。目と脳によって編集されたものを見ている。「ただ見る」というのはありえない。常に、我々は意識下で加工された世界を見ている。

 近代にはバランスの取れた、大芸術家が現れた。彼らは主体的な表現とテーマがうまく調和していた。ベートーヴェンにおいて、彼の哲学と主体的な表現は一致する。均衡点は存在した。ベートーヴェンには理想があった。彼の理想は同時代のゲーテ、ヘーゲル、シラー、そうした人々と共通する点があったはずだ。

 その後、現代音楽は解体する方向に辿った。文学、音楽、絵画。いずれも、近代の均衡を失い、微分化していく様子が見て取れる。それは、近代において作り上げられていた、加工・編集後の整然とした姿を保てなくなった時、そこにあったそれぞれの要素が要素としてバラバラに砕け散った。僕はそういう風に見る。

 物語とは時間系列におけるフィクションである。嘘である。この嘘が、異なった社会・現実に晒され、嘘である事を保てなくなった時、それらの構成因子だけが世に晒された。文学からは物語が剥奪され、絵画はテーマを失い、音楽ではジョン・ケージのような人物が現れるに至った。芸術は解体したが、それは芸術家が誠実だった故に現れたやむを得ない現象と言えただろう。かつてのような均衡あるフィクションは作れなくなっていた。フィクションーー「嘘」を作るにも色々なものが必要になってくる。歴史という編集され、加工された情報、その上澄みを使って「芸術」が作られる。が、地盤が揺らいでしまえば、芸術家は個々の小さな存在に還らざるを得ない。

 だが、その一方で、物語の氾濫という現象もある。それはどういう事だろうか。

 これは雑感レベルの話だが、芸術に深入りしない人、つまり「大衆」は絶えず物語を必要としている。物語性がある作品が受けるのは何故なのか。伊藤計劃流に言えば、我々そのものが物語だからという事になる。だが、普通の人は、そんな小難しい事は考えない。

 ベストセラー作家、また、そうした作品を欲する人は、物語を嘘とは考えない。それを、所与のものとして見ようとする傾向にある。伊藤の言葉で言うと、脳が外界を処理した結果ではなく、本当に、外界(並びに「私」)はそうである、と考える。これに対して深く疑わず、編集され加工された情報が、我々の要求に一致する事が求められる。ところで、その要求もおそらく、彼が思っているものとは違う所から生まれている別の物語である。

 物語は愛される。真人間になったヤンキーだとか、名門大学に受かった底辺ギャルだとか。あるいは、自分自身を物語のヒロイン、ヒーローと思い込む傾向は、社会によって強められてもいる。恋愛小説では、恋愛は一つのフィクションであり、また、現実ににおいても恋愛はフィクションである事が望まれている。それは、我々が望むものこそが我々の現実であって欲しいという欲望だ。

 しかし、もう一度思い起こそう。物語とは、単に所与のものではない。ここに、大作家と通俗作家の、大きな違いがある。僕はそう見る。

 大作家は、現実が物語ではない事を知っている。現実は無数の混乱した事実がある。くだらない事がある。過ちがある。愚かさがある。断罪されない犯罪者がいる。物語に収まらない混沌が世界にある事を知っている。

 が、それは一つの物語に「織られなければ」ならない。世界は物語ではないからこそ、それを物語に織り込み、我々が理解できる形式にしなければいけない。世界を一つの物語に織り込む事。それは、世界は混沌であり、物語ではない事を痛感したからこそ、それを成そうとする、そういう技であるべきだろう。いわゆる大作家と呼ばれる人はそういう人でなければならない。

 大作家は現実を経験している。現実はあるいは無慈悲かもしれない。現実には、理不尽な事は無数に起こる。しかし、現実が理不尽であるから、ただ理不尽さを主張するのは、それだけの事だ。彼は現実を模写しているだけだ。大作家は嘘をつく。その嘘は、現実を知り抜いた上に出てくる嘘であって、現実から逃げる為の嘘ではない。

 通俗作家は反対の道をたどる。あるいは、見かけ上だけは一致する。彼は文学を物語と決めてかかり、うまくそれを作る。それは物語を求める人々に受け入れられる。しかし、人々も作家も、物語を成り立たせている現実については考えない。この嘘は、現実の果てに現れた嘘ではない。むしろ、現実を遠ざけた末に現れる嘘だ。

 例えば、角田光代とか吉本ばななの作品に漂っている「あったかい」雰囲気は、現実の一部を彼らが切り取りうるような場所に立っているからこそ出てくる「あったかさ」「優しさ」であり、現実の苦痛を経験した上に、優しく「ならざるを得なかった」というのとはわけが違う。

 彼らの作品、また彼らのようなタイプの作品は、日本社会がそれなりに成熟しているからこそ可能なフィクションであるように思われる。彼らの「あったかさ」「他人思い」は、世界の混沌に接したもののそれではない。最初から秩序化された世界で生まれ育ってきた人間が持てるような「優しさ」だ。その優しさは、ある箇所では残酷な仕打ちを取るだろう。つまり、秩序化された世界の外部に対しては、それらをたやすく排除するのが可能だろう。

 このエッセイの元になった伊藤計劃という作家は、「優しさ」の外側について考えた人間だった。このような社会の中で「優しく」なるのは簡単だ。残酷になるのも、露悪的になるのも、狂人的な見かけを取るのも簡単だ。だが、世界の外部を意思するのは難しい。我々の認識そのものが、我々の世界とぴったり一致している為に。

 先に、大作家は、物語ではない現実からスタートし、そこから物語によって世界を認識可能な形にする存在だと言った。その時、当然、世界を認識する形には作者自身の思想が明確に覗く事になる。混沌とした世界の再編成が、作者の主観によって行われる。

 しかし、今言ったように(以前「フィクション化する現実」で言ったように)、この社会それ自体が既に編成済みの物語である。これが、現代において一番面倒な問題である。角田光代らがリアリズム=物語の傾向を簡単に取れるのは、現実そのものが、人工化され、物語化されているから、作者の認識がなくても、簡単に物語に移す事ができてしまうからだ。

 だから、現在における大作家ーーその傾向性、素質というものは、現実それ自体の混沌を探す事から始めなけれはならない。かつての偉大な文学はおそらく、混沌とした現実を認識によって把握できるものにする所から生まれてきていた。現在では、整頓された現実からスタートし、それらを破る物語について指向しなければならない。

 伊藤計劃という作家はその作品において、世界と、その外部の境界線について絶えず思考していた。角田光代のキャラクターらが、怒ったり泣いたり笑ったりしている世界の外側が彼の問題であった。多くの作家が世界を所与のものとしてみなし、我々が世界を所与のものとしてみなしている時に、それらをフィクションによって揺さぶる事を彼は考えていた。

 では、どうして、現在そんな物語が必要なのか? どうして、この世界のあり方に、角田光代的に安住してはならないのか?と問う時、一体、どんな答えが出るだろう。

 それについて、僕はなんとも答えられない。ただ、人は「今」を打ち破り「次」に行こうとする傾向があるから、としか言えない。

 元々、「私」というもの自体が一つのフィクションだと僕(伊藤計劃)は言った。すると、その「私」が更に、フィクションを、物語を織る。それは、大きく言えば進化というものの傾向性とも言えるだろう。目は、世界を編集するカメラである。耳は、世界を編集するマイクである。だとすれば、「私」は世界をまるごと編集し、別の宇宙に仕立てる為の機械である。

 この時、角田光代や朝井リョウらの作品は、そうした要求に応えるフィクションなのか。そうではない、と僕は思う。それらは「次」を志向するフィクションではない。少なくとも、偉大な文学とはまるで違ったものである。偉大なものは、暗いかもしれない。冷たいかもしれない。角田光代やよしもとばななのようにあったかくも優しくもなく、小難しいかもしれない。が、それは、世界の構成因子をまるごと作品に(編集して)表そうとするからこそ、そのような形式を取らざるを得ないものなのだ。世界の一部を切り取って、その外部について沈黙するものではないからだ。だから、偉大な作品は、僕らにとっては難解なものとして、冷たいものとして現れたりするが、それは僕らが普段、自分の暗い部分について考えたがらないのに似ている。僕らは自分の死について想起しない。しかし、死もまた人生の一部だとすると、それを編集する機械(芸術家)はそれから逃れてはいけない。

 そこで大芸術家は世界のあらゆるものを自己の作品に投入しようとする。そこに、気持ち良いもの、面白いものだけを求める人々との齟齬が生まれる。しかし、それだけを求める人も、それだけの存在ではない。だからこそ、偉大な作品は歴史を通じて生き残っていく。

 物語とは、そのように、現実を編集したフィクションである。この場合、全てがフィクション化した世界において、何を現実とするかと認識する事自体が今、問題となっているように見える。かつての、バルザック的リアリズムもまた、時代において改訂されるべきだと思う。

 そういう時代において、伊藤計劃という作家は、ディストピア的世界観を使って、世界の境界について描いて見せた。彼の作品は紛れもなく一つの物語だった。現実から逃げるのではなく、現実を直視しようとする物語だった。今、僕らはその物語を読む事ができる。そして物語を通じて、僕らは現実を再び見るべきなのだろう。あるがままの現実……あるいは、あるがままの現実は存在しないというあるがままの現実を見なければならないのだろう。おそらく、「新しい物語」はそこから生まれてくるだろう。


〈全体を見ると矛盾している所がありますが、自分の感覚が大事なのでそのままにしておきます〉

monogatary_comにて連載スタート

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ソニー・ミュージック様からお誘い受けて、monogatary_comの方に「聖域追放」という作品を連載する事になりました。ニートの話です。よろしくお願いします。

https://monogatary.com/story_view/124

「ドラマ」についての思惟 


 小林秀雄は「ハムレットとラスコーリニコフ」という文章で、「罪と罰」と「ハムレット」の両主人公は、内面と行為とが分離された存在だという事を指摘している。この指摘は僕にとっては極めて大きな示唆となった。

 一般に転がっている小説、物語、ドラマ、また大きく言えば、多くの人が生きている生き方そのものーーそれらに対して、僕はずっと疑問を感じてきた。簡単に言えば、それらが「つまらない」という感覚だ。現実で(ネットでもそうなのだろうけれど)そういう事を言えば「何を言っているんだ、みんな、真剣に生きている」と説教されるに決まっている。しかし、自分の感じている事はそういう事ではないーーと思うが、その声はどこにも届かない。自分の中の声として、自分の中に留まるだけだ。

 一般的なドラマ・小説というのは、結局、「誰かが何かをする」という話になっている。それは誰だって当たり前の事で、現実にみんな、そう生きている。しかし、果たしてそうだろうか。何故、誰かが何かをしなくてはいけないのか。例えば、夢を持って努力するという方法論から、挫折とか成功とかが生まれる。が、夢を持って努力する事自体馬鹿らしいとみなしたら、どうなのか。それは夢を諦めるという事ではない。夢を持つとか持たないとかいう事自体が、個人の主体的意志に過ぎないのだから、その意志を統御すれば、夢は消える。何故、夢を消してはならないのか。何故、夢を持たなければならないのか。

 こうした考え方は突き詰めると、「全ての人間が餓死する事を自分に許せば、あらゆる闘争は消える」という哲学者の極限的な言葉に収斂されていく。もちろん、そんな事を言えば身も蓋もないだろう。だが、身も蓋もない事を言わないというのは果たして大人の態度か。大人とは、自分の欲望に社会的衣装を身に付けた人の事なのだろうか。

 このような哲学的問いというのは、おそらく、子供らしい問いにすぎない。が、もし、僕がこの子供らしい問いを突き詰めれば、どうなるのだろう。あらゆる社会現象が自己から隔離されて、他人事となり、自分は悟りすました僧形のようになる。それでは、そこで全ての答えは終わるのか。

 プラトンは、そうした道を辿った。現実からスタートして、イデアの世界に到達する。現実は、私の外側にあり、世界に属するものだ。一方の「私」は一人、洞窟の外に出る。そこで真なるものを見る。そうして帰ってこない。

 物語・劇を作る際の動機において、現実そのものを否定すると、もはや動機とならない。牢獄に入れられてもそれを諦め、自己の死を、嘆く事なく受け入れればそれはドラマにならない。そうなると、社会・経済におけるあらゆる事柄はどうでもよくなる。これをどうでもよくないという視点はありうるか。常識的にはいくらでもあり得るが、この場合、常識そのものを否定しているから、もはやこんな人物に掛ける声というのは存在しない。ドラマは存在しない。劇は存在しない。

 だが、そんな人間もやはり、現実に生きねばならないとはどういう事なのだろう?
 
 ここにおいて再び、現実ーードラマが戻ってくる事になるが、還ってきたドラマは最初のドラマとは違う。そういうドラマというのは存在しうるか…と考えると、やはり「罪と罰」が頭に浮かぶ。僕がしつこく、「罪と罰」という作品にこだわるのは、そうした、ドラマを否定する精神をもう一度ドラマの中に叩き込むという事が唯一やられている作品だからだ。

 主人公のラスコーリニコフは、自分の外的行為と、内面との相違を常に感じている。この先駆は、小林秀雄の言葉では、シェイクスピアによってやられている。ハムレットは復讐を誓う。彼は復讐を天命と感じている。にも関わらず、天命である復讐という行為と、ハムレットという人物が一致しない。そこに微妙なズレが生じ、それが独白の際に見え隠れしている。

 ラスコーリニコフはハムレット以上に差異が激しい。自分の外的行為、欲望、欲求、それ自体を無意味と感じながらも、それをしなければいけないと信じている。自分が自分である事と、自分が、行為という局面においては自分にとって他人であるという事が常に感じられている。

 普通のドラマは、行為面、社会面において行動している個人像と、その人間自身の自己像が一致している。あるいは、それほど大きなブレはない。したがって、人間は、苦悩したり、苦しんだりするかもしれないが、それは自分が望む事が達成されないとかいう類の悩みである。もし、この自分が、自分がそもそも何も望む事ができないという事に苦しむとしたら、不思議な苦しみを持つ事になるが、僕が見たいのはそのタイプの苦しみとなる。

 ラスコーリニコフは殺人を天命と感じる。ハムレットは復讐を天命と感じる。その時、もう一人の自分が自分にささやきかけているのだが、自分にとってもう一人の自分は他人と感じられている。では、どうしてもう一人の他人は現れなければならないのだろうか。

 実際、ここに答えはない。「罪と罰」では象徴的な言い方が成されている「例え、どこにも行く所がなくてもどこかに行かなければならない」 この時、正しい理屈なんてものがなんだろう。

 通俗的な経済学が生産性、功利性、利益についていくら喧伝した所で、毎日ごはんと塩だけでいいのだと自分自身に決定したとしたらどうなるのだろう。そうしたら、馬鹿げた事になるのか。でも、どうして馬鹿げた事をしてはいけないのだろう? 他人から見て馬鹿に見えても、それは他人の視点から見ての事だ。自分から見た時、それが全てだ。

 だが、この人間も生きねばならない。どうして生きるのか? 
 
 ここに理屈はなく、人はただ生きる。あるいは親鸞のように、ただ黙って山から降りるのだろう。プラトンは最後まで下に降りなかったが、なんとなく、上に飽きた時、人は下に降りてくるのだろう。

 ラスコーリニコフが、改心する所を作者は理屈では描いていない。そこは理屈では描けなかった。…別の言い方をすれば、私と外界との間に無限のように広がっていた溝は、ある時、ふと、それが溝ではなかった事に気づく。そういう事なのだろう。

 人は現実の中で、一人の人間として生きる。一部のSF作家が鋭く見抜いていた事は、社会が完全なものとして現れるのであれば、もはやドラマは起こらないという事だ。現在に見られるドラマの多くは、人工的にコントロールされたドラマであり、例えば音楽を主題にすると、コンクールで優勝するとかしないとかが大きなテーマとなる。モーツァルトが借金まみれで死んだように、本質的に自己の音楽像と社会常識とが矛盾する際の葛藤を描く人間は(おそらく)いない。自分が自分と衝突する事なく、自分が社会と衝突する事なく、社会と自己とが融和されたコントロールされた場所での、先の見えたドラマのみがある。

 全てが自己意識に収斂され、哲学で言う独我論に極まれれば、世界に意味はなくなる。世界の中における私も消える。葛藤は消える。そこには安楽がある。だが、安楽それ自体に安楽できなかった時に、つまりは倦怠がーー自分という名の「完全」に飽きてしまった時、そこから人は不完全に向かって歩き出さなくてはならないのではないか。

 その時に、親鸞は山から降り、ブッダもめんどくさながりも、地上に降りてくる。自分だけが真理を理解したのだし、それを一々、世の中の誰彼に言いたくないというブッダの気持ちは現代からも共感できるものに感じるが、ブッダはハムレットと同様に、運命の啓示を見た。彼は自己の完全性から外に出た。(ブッダは最初、真理を教えるのを失敗して、つたなく否定されたが、その時に、内心に屈辱を感じたと想像すると、そこにはドラマがあるという事になる。ブッダが屈辱を感じられるのは、自己の完全を否定したからだった)

 人は通常、社会の中を生きる。社会の中を生きる自己と、自己から見た自己を一致させた人間は健常な人間だと言われる。何故ならば、人はとにかくも、その社会の有様を一応肯定するからだ。反社会運動も、たった一人でやれば狂人と呼ばれる。人は狂人を好かない。

 だが、もしあらゆる人間が、行為面、社会の中の自己が全ての自己であると信じ、世界と自分との間にズレがないのならば、世界からは苦悩が消え(伊藤計劃「ハーモニー」の世界となり)、完全な世界がもたらされる。しかし、その時、世界と呼ばれる社会現象はそれを否定する場所を失い、それ自体の論理が破綻する所によって破綻する所となる。思うに、世界の異変を察知できるのは、本当の意味での(見かけだけではない)アウトサイダーに限られているのではないか。

 通常のドラマにおいて、人間は自分を疑わない。劇は、どちらかと言えば無知から起こる。自分の欲望を否定できない弱さが、意志の強さだと誤解される所において、様々な事件が発生する。世の中にはそんな人間がいる。だが、常識を疑わない事と、自分の本能を疑わない事、どちらも疑わないという点においては一致している。そして疑いはドラマを消去してゆく。次第に諦念に落ち着いていく。

 だが、諦念に対して諦念を持つと、もうそのままそこにいる事はできない。ドラマが起こる。山から降り、人と交流し、世界の中の人となってゆく。自分と世界とのズレは、世界との否定とはならない。そうではなく、世界を否定した自分もまた世界の一部だという事が感じられている。

 ラスコーリニコフが最後に見た光景はそんなものだった。彼は、檻の向こうの茫洋とした、昔からの風景に、静かに自分が溶けていくのを感じた。自分もまた、世界の一つにすぎない事を知った。独我論は溶けた。独我論という論理ではないものによって溶けたが、それは独我論の言葉では描けない。おそらく、そこには哲学から宗教への転換がある。

 ……というような事を、「ドラマ」をテーマに考えた。しかし、「ドラマ」を考えるのは一人の人間の頭脳(意識)に過ぎないわけだから、この意識もまた世界の中の一事物にすぎない、という風にまた、ドラマを作る意識は、より大きな、歴史というドラマに吸収されていく。それをまた、未来の誰彼が、自分の意識下に収めようとする。そうした輪廻、連関というものがあるのだろう。そんな風に物語は連綿と続く。物語は、物語を否定する意志を媒介として存続していく。

「さまぁ~ず」についての感想




 Amazonのプライム会員になっている事もあって、「内村さまぁ~ず」という番組を見ている。吉本風の騒がしい笑いではないという所もあって、作業しながらゆるく見る分にはちょうどいい。

 「内村さまぁ~ず」という番組を見ていて、思ったのは芸人というものの立ち位置だ。「内村さまぁ~ず」は、内村光良と、「さまぁ~ず」の二人がゆるい笑いを届けるというバラエティ番組で、特にあれこれ書くような感じでもないが、結構話数見たので、芸人のポジションについて素人目線で考えてみる。

 「内村さまぁ~ず」では、三人の芸人はゆるい感じでやっているし、実際にゆるくやっている部分もあるだろうが、本当はそれだけではない。最近の芸というのは、一見、居酒屋で話している普通のトークであるように見せて、実は視聴者を意識した話芸になる事が求められている。自然さを装いつつ、技術を底の方に置いておくという所に主眼がある。

 だから、「さまぁ~ず」と言えば「ゆるい」というのも、そういう風に見せているという要素が多い。しかし、視聴者には「『さまぁ~ず』はゆるくやっててあの感じの笑いが好き」という風に思わせれば成功となる。本当は芸人は裏で努力しているとか、そういう所を見せたら、芸人である必要がない。「笑い」というフィクションの強度を保てない芸人、もっと高級な事、かっこいい事をしたい人は、自然、笑いから離れていく。

 笑いの一般論に戻ると、「内村さまぁ~ず」で、内村と同期の売れていない芸人が集まる回があった。見ていると、売れていない、売れなかった芸人というのは本当に面白くない。いや、面白くないだけなら別にいいのだが、そもそもカメラに自分が写っていて、カメラの向こうには大勢の人間が見ているという当たり前の意識すら持てていなかった。これはタレントとしては致命的な欠陥だと思う。

 その回で、売れなかったコンビの片割れがトークをしていたのだが、その話が「僕らのDVDが売れましてねー」という、本当の居酒屋、おじさん自慢トークであり、ただ自慢に始まり、自慢に終わっていた。それから、下ネタなども、テレビに写っている意識もなく露骨な表現を使っていて、全くカメラを配慮できていなかった。三村などはスケベなキャラを演じており、それは事実かもしれないし、そうではないかもしれない。三村もやりすぎる事はあるが、それでも、カメラに映る事を意識した下ネタであるから、生々しい感じは除外されている。これは、タレントとして、当たり前の事を意識しているかしていないかという差だと思う。

 一度、「さまぁ~ず×さまぁ~ず」の収録を見に行った事がある。知人がチケット二枚取れたというので一緒に行った。渋谷かどこかのスタジオだったと思う。

 収録に実際に立ち会って、印象に残った事があった。それは、収録現場での「さまぁ~ず」の振る舞いである。


 もちろん、「さまぁ~ず」はテレビで、僕らが見ているように二人でトークしていただけである。観覧席から二人までの距離はかなり近い。しかし、実際、観覧席から二人を見ていると、二人とこちらの間の距離を物凄く遠く感じた。

 何故、距離を遠く感じたのか。答えは簡単で、「さまぁ~ず」の二人は、実際には観覧者とスタッフの、数十人単位の前でトークしているだけなのだが、二人の頭の中にはカメラの向こうにいる無数の人の姿が見えていて、それに合わせて話したり、怒ったり、暴れたりしている。つまり、そこに実際にいるのはせいぜい数十人だが、「さまぁ~ず」はカメラの向こうの広大な人達を想定して演技をしていた。それは不思議な体験だった。だから、実際、かなり間近で「さまぁ~ず」の二人を見たのに、あんまり実在のタレントを見たという感じはしなかった。距離が近くなって、カメラが消えても、カメラを意識して振る舞う行為は、やはり、タレントとしての行為である。

 「さまぁ~ず」の二人の芸人としての力量がどんなものか。比較を明石家さんまに取るか、つぶやきシローに取るかで相対的に変化するだろうが、少なくとも二人がカメラの前でどう振る舞うかという事を心得ているプロフェッショナルだという事は確かだろう。そしてそれは、カメラの前に出る人間としての最低限の技術・訓練なのだろう。前述の、売れなかった芸人はカメラを意識せず、「芸人の先輩」としての内村光良とかさまぁ~ずばかりを意識していて、カメラと、カメラの奥の無数の人達を想定できていなかった。そうした芸人に比べれば、さまぁ~ずとか内村光良なんかはやはりプロなのだろうと思う。彼らがプロである事を前提とした上で、その芸について更に言うこともできそうだが、ここでは言わない。大体、そういう事を「内村さまぁ~ず」を見て思ったという、そういう話だ。

 伊藤計劃「ハーモニー」の中心的思想について



 伊藤計劃「ハーモニー」のラストは、人間が進化の帰結として、意識を消失するという風になっている。引用すると、次のようになっている。

 「社会的存在として完全に純化し適応した人間が最小単位となったとき、社会学と経済学は完全な純粋理論と現実の一致をみた」

 個人の意識は消失し、人間は純粋な社会システムと完全に一致する事となった。こうした事は小説上の絵空事と思う人もいるかもしれないが、これは極めて現実的な問題であると思う。嫌な事を言うなら、そもそも社会システムと自己を一致させ、その事に何も疑わない人は、この問題の所在そのものを認めないだろう。何故なら、彼は既に「ハーモニー」を達成しているからだ。

 伊藤計劃が「ハーモニー」に籠めた思想は、様々なものとつながって見える。例えば、哲学者のシオランだ。シオランは、進化論者と対話した時、学者に対して「人間の苦悩は理論の中にどう位置づけられるのか?」と質問した。すると、相手は「苦悩は理論の中では単なる偶発的なものにすぎない」と言った。シオランは怒り、それ以上の対談を拒否した。

 以上の話はツイッターのbotで見たので、事実かどうかはっきりわからないが、非常に興味ある話だ。これは因果系列の問題として考えられる。

 例えば、先日、サッカー日本代表はオーストラリア代表に勝利した。するとすぐに「何故日本代表はオーストラリアに勝利できたのか?」といった類の記事が現れる。「勝った」という結果から原因を探るゲームが始まる。

 このゲームは行き過ぎると、人間の苦悩や意識を消失させる因果的理論が目の前に現れる事になる。オーストラリアに日本が何故勝てたのか? という問いはやがて、その原因を遅かれ早かれ発見する。すると、「原因→結果」という方向性の中で、選手や監督の迷い、不安、苦悩、努力などは消えてしまう。ある地点aが次の地点bを引き起こすのであり、その方向が必然的なものならば、その必然性の中で、その時々に現れた迷いや苦悩や自由は消失する。(苦悩は深く自由とつながっている)

 因果系列を「a→b→c→d→…」と考えていくと、それは必然的なものであり、動かす事のできないものとなる。こうなると、理論としては完璧だが、自由は全くなくなるという事になる。

 社会学の創始者はデュルケームだろうが、デュルケームは「自殺論」を書いている。デュルケームは「自殺」は社会的単位として分析できる事を発見した。しかし、自殺が「純粋に」社会的な所産であるならば、社会的対策を適切に施せば、自殺は完全に防げる事になる。その際、社会の関係の上で自殺に「追い立てられた」人間が、どのような内的意識、苦悩を抱えていたかという問題は取り残される。

 僕はデュルケームが間違っているなどと主張するつもりはない。デュルケームは適切に問題を扱っていると考える。しかし、デュルケーム的なものをある一方に拡張すると、人間の中から、意識や苦悩の問題を取り除く事になり、「ハーモニー」が達成される。それとは逆に、個に焦点を当てすぎると、どんな集団自殺が起ころうと、「個人の踏ん張りが足りなかったからだ」という事になる。こういう見方もまだ根強い。鬱病の人間に、「根性が足りない」と言い続けるようなものだ。しかし、実際の所、鬱病が純粋に社会的所産であるならば、彼の病は社会から生み出される必然的事象となり、したがって、彼は自分の病と戦わなくて良い事になってしまう。そうなると、彼は救われるのだろうか。

 今までを簡単に総括すると、確かに、人間は理論的な所産だと言える部分がある事がわかる。しかし、同時に、人間は意識や苦悩を通じて自由であろうとする存在だとも言える。

 伊藤計劃は「ハーモニー」でこの問題をどのように取り扱ったか。答えから言うと、彼はこの問題を完全な形では解決できなかった。しかし、そもそも完全な形での解決が必要なのかどうかという問いの方が、この場合、答え以上に重大と感じる。

 そもそも、伊藤計劃が小説という媒体にこだわったのは何故なのか。彼の小説では、大問題は常に小問題と結びついている。三人の少女の小さな物語が、大きな、世界という物語に対して抵抗しようとしている。ほんの些細な感情というものを、大きな問題と対比させつつ、物語を進行させている。

 伊藤計劃がもし、小さな物語に、固執していなければ、彼は社会学者になればよかったはずだ。その素質もあっただろう。だが、小説というジャンルにこだわるのは彼にとって、彼自身の小さな肉体が絶えず、世界の中で一つの存在であるという以上に重要だとという確信があったからだ。そんな風に考える事もできるだろう。

 大きな問題からすれば、個人のエモーションの部分はくだらないものにも見えるだろう。ある政治家がテレビで「俺達は日本の為に頑張っているのに、今の若者ときたら…」と愚痴っているのを見た事がある。高坂正堯を勉強していて痛感したが、政治とか社会とか経済とかの大きい問題とばかり組み合っていると、小さな、個人レベルの物語は馬鹿馬鹿しいものに見えてきてしまう。自国の領土を増やすとか、外交で得をするとか、そういう大きなゲームにずっと携わっていると、個人レベルの事は馬鹿馬鹿しい事に見えてくるだろう。

 これは、作家が、デビューしていくらか立つと、政治的な講演とか言説を成して、真面目に小説を書くのが阿呆らしくなってくるのと同様の現象に見える。「日本のために」という大きい物語にはまりこんでいると、誰と誰が好きだとか嫌いだとか、そんな小さな話は馬鹿げたものに見えるだろう。僕は小説家というのは、「小さな説」になんとしてでも、頑強にしがみつく存在だと思っている。しかし、大雑把な物語にばかり関わっていると「いろんな事は工学的に処理できる」だとか「社会理論が世界を救う」という話になってくる。僕は、人間の希望は決して社会理論によっては救われない場所にあると感じている。

 「ハーモニー」に戻ろう。「ハーモニー」では三人の少女という小さな物語は、世界全体の「ハーモニクス」という、大きな物語と直結したものとして語られている。このあたりは最近のセカイ系のアニメ・ゲームなどと共通するもので、その影響にあると言ってもよいが、それ以上に、伊藤計劃にはそれを描く事が必要だという根拠があった。

 その根拠はつまり、大きな物語だけでは小説にならないからである。あるいは、小さな物語を欠いた、最後のエピローグだけでは、物語にならないからである。もっと言えば、そもそも現実とはそういうものではないという事になる。もし我々が苦悩を消し、意識を消し、自由を消す事によって、大きな存在と一致し、そこで幸福になったとしたら、それは何のための幸福かという問題が出てくる。言い換えれば、自由と幸福の二元対立が問題となる。

 自己を捨てる事によって幸福になれるとして、それは果たして幸福なのかどうか。例え不幸になっても自由である方が良いのではないかというのは、古来から続いてきた、人間にとって本質的な問題に思える。

 繰り返すが、「ハーモニー」という作品ではそれは解決されていない。むしろ、非解決に終わっているとさえ言えるだろう。女主人公はこう言う。

 「たぶん、そうなのだろう。
  異議は、ない。      」

 女主人公はこんな風に述懐する。彼女は世界が「ハーモニー」になる事には異議はない。少なくとも、意識の表面上ではそう言う。しかし、どう考えても、異議がないはずはない。その証拠に

 「この弾丸は、わたしが撃ったもの。
  他の誰の意志でもない、わたしが撃ったもの。
  わたしが。
  わたしが。

  わたし。」

 という風に、主人公は「わたし」に固執している。これは、理論的な面においては同意せざるを得ないが、彼女のエモーションとしては同意できないという事だと思う。それが、文体レベルで現れている。文体レベルにおける表現と、作者の思想、作者の現実認識が見事に一致している稀有な例を、ここに見たい。

 また、同様な繰り返しはエピローグにもある。

 「いま人類は、とても幸福だ。

  とても。


  とても。」

 これは主人公の述懐ではないが、どうしてこんなに「とても」を繰り返すのだろうか。ここでは、理論的な側面、論理的には完全に終わった書物の中で、感情レベルで(文体レベルで)、まだ終わっていないという事を示している。そう考える。「とても」を繰り返す意味は、論理的には存在しないし、余計だ。しかし、本来的にはそこで終わってはならないという祈りがそこには籠められている。

 こうして考えていくと「ハーモニー」という作品のそもそもの思想は何だろうか。一人称におけるナイーブな視点というのは「虐殺器官」から変わっていない。そこから、ラストに向かって順番に歩いていくわけだが、最後には自分を消失するという結果が現れてくる。自分の消失は即ち、一人称の消失であり、語る主体の消失である。消失させるのは、社会システムである。

 一人称が消えていくという小説的な方法は逆に言えば、それを消失させるシステムそのものが肥大化すると、これは消えてしまうのだという事を示しているように思える。時間的に言えば、過去から未来まで順番に論理で折り畳んでいくと、そこに意識の自由、苦悩という「現在」はなくなる。

 ベルグソンは時間の空間化を批判したが、ベルグソンの時間は意識の時間だった。渡辺慧が言っていた事だが、時間というものを

    未来ーーーーーーーーーーーーーーーー過去

 と置くと、「現在」はこの線のどこにも取れる事になり、「今ここ」という我々の実感は消失してしまう。歴史の本を最初から最後まで時系列に沿って眺めても、何故今生きている「私」が十三世紀の人間ではなく、三十四世紀の人間ではなく、「今ここの人間なのだろうか?」という問いに答える事はできない。

 今生きている私が私にとってのっぴきならない事態であるとは、論理では語れない事態であるが、この私がいなければ、論理そのものを語る事はできない。世界と、私との継ぎ目に、「私」は存在する。一人称で語るという事は、「私」と世界を繋ぐ役目を負っている。だが、世界が肥大化して、「私」が消えた時、その時、一体、何が残るだろうか。

 先日、電通の社員が過労を苦にして自殺したが、一人の社員の魂を踏みつけにしたとしても守らなければならない契約とか義務とかいうものはあるのだろうか。こうした体育会系のシステムにおいて個人は、それではない事を要請される。彼らには、伊藤計劃の提出した問題は見えないだろう。何故なら、その問題は彼らにおいて既に解決済みだからだ。つまり、「ハーモニー」は達成されている。あるのはシステムに適合できない、不適合者だけだ。

 伊藤計劃は独特の一人称によって、システムを内部から、疑問に曝した思想家だったと言えるだろう。システムは人間の頭には、大きな物語、必然な因果系列として移る。過去から未来まで、順番に論理を繋いでいけば「今」の自由は消失される。しかし、伊藤計劃の一人称では、その「今」から世界について語るという方法論が徹底されている。それ故、一人称は作品の最後ではその不可能性に衝突し、消えてしまうが、その衝突の余韻を読者である我々は、作者の思想として読む事ができる。つまり、一人称が消え去った場所に、本当に豊かなものがあると考えられる。何故なら、その箇所は一人称では書けないが、伊藤計劃は書けない事を意識して書いているからだ。

 伊藤計劃の「ハーモニー」においては、そうした思想が現れていると見ている。世界をシステムに一元化した時、全ては救われるが、救われた世界は果たして良き世界なのだろうか? …が、この問いは、作品そのものからはみだしてしまう。はみだしてもなお、語ろうとして語り得ない事を明らかに感じて書いている所に伊藤計劃の非凡さが認められる。そういう風に「ハーモニー」という作品を考えている。伊藤計劃が示した問題は現在でもビビッドな事柄だと思う。これについては、考えついで、書き継いでいく必要があるだろう。

 

流行り廃りについて (「ニコニコ動画」・「小説家になろう」)




自分もオタクの一派なので、ニコニコ動画をわりと前から見ている。しかし、最近のニコニコはひどいなあと感じている。

最近のニコニコで特にひどいと思うのが、人気生主の座談会で、横山緑などの生主が集まって、北朝鮮の問題なんかについて話している。

この座談会みたいなものを見ると、成れの果てというか、何かの終わりを感じる。最初、内輪で盛り上がっていたものが公式化されて、一般化されると、魔法が解けるような、そんな感じがある。

テレビに出てくるタレントは最近は批判されているが、そうはいっても、彼らには話芸があったり、見た目が非常な美人だとか何らかの武器を持って出てくる。もちろん、すぐに消える、手持ちの武器がほとんどないタレントもいるが、タレントは競争社会なので、大衆の視線にある程度耐えられる人が残る傾向がある。

翻って生主の座談会を見ると、特に話芸があるわけでもなく、時事問題に精通しているわけでもなく、なにが魅力なのか正直よくわからない人がだらだら喋っていて、内輪のノリに入っている人しか見られない構成になっている。僕が押している神聖かまってちゃんなんかも、音楽をやっていなければ、彼らのうちの一人にすぎなかったと思う。

内輪のノリ、ニコニコ動画のノリの中に入っている人はある程度、こうした流れについていくだろうが、いきなり外部から入ってきた人からは一体何が面白いのか、何が良いのか、よくわからないと思う。こうなっていくと、多分、一つのブームの終焉という事が考えられる。

ニコニコから話を移すと、「小説家になろう」では異世界小説が流行ってる。書く人も多いし、読む人も多い。何より、書籍化されるのもそうした作品が多いので、運営も力を入れているのだろう。

異世界小説が流行るというのはもちろん悪い事ではない。収益が見込めるから流行るわけだし、利益が必要な団体がその方向に行くのはやむをえない。

だけど、ここでもニコニコ動画で起こったのと同じ事が起こるのではないかと思う。異世界小説が流行り、その流れが一旦できると、「小説家になろう」=「異世界小説」という定式がなんとなくできあがる。「異世界小説」を読みたい人、そういう傾向のライトノベルを読みたい人は「なろう」に入っていくが、それに興味がない人はそこから離れていく。

書く方も、アニメ化が見込める、プロになれる、書籍化できるかもしれないという事で、その方向に特化していく。こうしてある方向への流れができると、それはどんどん加速していく。読む方も書く方も、傾向性が出てくる。

しかし、その傾向はいつまでも続くものではないから、ある時、異世界小説ブームにも終わりが来る。似たような作品が飽和し、読者の方でも飽きてくる。そうなってくると、異世界小説ブームは終わる。ブームだけが終われば別にいいが、「小説家になろう」=「異世界小説」という定式がなんとなく、ネットを見ている人の頭にあると、「小説家になろう」というサイト自体が力を失っていく。そういう可能性は十分あると思う。

今、ニコニコ動画で起こっているのはそういう事な気がする。ブームは活気付けるが、それが去れば、その場所を廃墟にしてしまう。栄枯盛衰という点で考えるとやむをえないのだろう。

ユーチューバーなども同じ事が起こっているのだろう。この場合、サイトの上昇・下降とそこで扱っているコンテンツ・流れとが一致するかどうかというのが重要な気がする。

何が言いたいかというと、流行りだからといってその流れに全面的に乗っかる事ばかりしていると、流れが去った時、手元に何も残らない状況になるという事だ。もちろん、流行りに乗った方が「おいしい」のだから乗らない手はない。しかし、賢い運営者であれば、流行りに乗りつつも、次の一手を考えておくべきだと思う。異世界小説の流れに乗りつつも、常に次の展開、このブームが去った時、このサイトはどうあるべきなのかと考えておく必要があると思う。また、ブームに乗りすぎると、そのブームと一緒に流れ去ってしまうから、バランスを見ながら抑制する事も必要かと思う。持続的に、長くやっていくコツというのは、あんまり勝ちすぎず、また、あんまり負けすぎないという事にあるように思う。(このあたりは阿佐田哲也の「麻雀放浪記」から学んだ)

…とまあ、感想を書いてみたが、これはブームとは無縁の人間の独り言である。自分の言っている事が誰かの参考になれば幸いだ。

三世の書

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バルザックからドストエフスキーへ


 


 小林秀雄の言葉を信じると、バルザックが発見したのは、「どのような個人も、社会における一存在だ」という事になる。例え、富豪であろうと貧乏人であろうと、社会において生息し、自分の生き方をしている一人の個人である(にすぎない)というのがバルザックの洞察だった。

 一方、バルザックの終わったところから始めたドストエフスキーはどんな発見をしたか。僕の定義では次のようになる。

 「どれほど巨大な自意識を持った個人であろうと、社会の中の一存在として生きざるを得ない」

 ここで重要な所は「生きざるを得ない」という、やむをえない、というポイントにある。人間は自己意識を持っており、ほっとくと膨らんでいく。究極的に膨らんだ自意識としては、パスカルという一個人を思い浮かべたい。

 「宇宙は物理的に私を包んでいるが、考える事によって私は宇宙を包む」

 この時、パスカルは(「罪と罰」の主人公)ラスコーリニコフによく似ている。考える事が「仕事」だったラスコーリニコフは、殺人という行為を犯し、他者の媒介を経て、社会へと解消されていく。

 例え、どのように反社会的行為であっても、それは行為であるという理由によって社会的行為の一つである。例え、愚かな殺人という市民社会に反する行為であっても、反するという意味において、社会的行為だ。屋根裏部屋で夢想にふけっているラスコーリニコフにはどのような劇も起こりようがなかった。彼は怪物のように、思考と夢想を膨らませていただけだ。

 夢想が凡庸な行為となる時、ドラマがおこる。他者との関係、社会との関係がある。仮に殺人というものが、犯罪であっても、やはりそれは行為であり、社会の中に起こるある事柄である。犯罪者が反社会を唱え、死刑になるまで世界に抵抗し続けたとしても、彼は抵抗という形式を通して、社会的な存在だ。

 社会は彼の首を刎ねる。その時、社会は刎ねられた首が自分の一部である事を感じざるを得ない。一方で、屋根裏部屋で寝転んでいるラスコーリニコフは、どんな存在でもない。彼は社会的存在ではない。反社会的存在でもない。彼はなにものでもない。だから、ラスコーリニコフが犯罪者という「なにものか」になるためには殺人という愚かしい行為が必要だった。ドストエフスキーはその事を見抜いていた。

 ドストエフスキーは、ラスコーリニコフという人物が作品内で解き放たれた時、どのような運命をたどるのか、よく見えていた。見えすぎるほどに見えていた。この場合、「見える」という意味はかなり難しい。というのも、ラスコーリニコフという人間の内面ですら十分複雑であるのに、その複雑な内容がどのような運命をたどるのかという事への洞察は、ラスコーリニコフを客観化する必要があるからだ。

 社会は個人を生む。どうあがいても、ラスコーリニコフの思想は社会が産んだ産物だ。ラスコーリニコフは当時のロシアが生んだ怪しい思想にかぶれている。ラスコーリニコフという個人は社会が生み、したがって、社会の方から彼を捉えれば、彼は容易に見える。このような観点がなければ、歴史学、社会学は成立不可能に見える。

 しかし、同時に個人もまた社会を見る。社会を洞察し、社会を意識する。ラスコーリニコフは屋根裏部屋でどんな事を考えていたのか。彼もまた、自身の思考の中に社会を、地球を、宇宙全体を丸め込んでいたに違いない。

 だが、そのように巨大な自意識を持つ人間もまた、人間社会において一人の人間として生きなければならない。それは意識にとっては諦めである。意識は社会全体を飲み込む事が可能だ。だが、それを飲み込んだ個人もまた、社会の中の一員として生きざるを得ない。
 
 社会の中の一員として生きるという事は凡庸な人にとってもっとも容易い事であるが、パスカル的人物にとってはもっとも受け入れがたいものだ。極言すれば、それは、凡人にとって極めて簡単に突破できる壁であり、天才にとってどうあがいても突破できない壁となる。凡人にとって簡単な事が天才には不可能なものとなる。

 ラスコーリニコフは、世界全体を十分に意識している。しかし、この人物は殺人を犯す。彼は殺人をどうして成そうと思ったのか。作品の構成からすれば、彼は自分の限界を知りたかったのだ。彼の意識は怪物的に彼を飲み込んでしまった。彼は自分を神のように思いなした。その時、彼の意識はそれに耐えられなかった。どうやら、自分は神ではない。その事を知る為に、彼は人を殺した、そうも言える。

 ニーチェの晩年の「この人を見よ」は狂気の発作が現れているが、この時、ニーチェは殺人を犯す前のラスコーリニコフに似ている。神を排除した以上、自分が神となるしかなかった悲劇がそこに現れている。だが、ニーチェは狂気に陥った己を見る事はできなかった。彼は自分を神と定義した為に、神に擬した自分自身を見る事ができなかった。悲劇はニーチェの外側に起こった。ドストエフスキーにおいて、作品構成として現れた悲劇は、ニーチェにおいては現実のものとして起こった。

 ラスコーリニコフは自分の限界を知る為に殺人を犯した。カントの鳩という哲学話がある。鳩が空中を飛翔している。真空のように抵抗がないところであれば、もっとうまく飛べると鳩は考える。鳩は大気圏を突き破って、真空の中に出るが、そこは抵抗がない為に飛ぶ事ができない。
 
 ラスコーリニコフはこの鳩に似ている。意識において万能であった己は社会においては一存在であるにすぎない。その事を、彼は知っていた。つまり、鳩は、真空に出れば死ぬ事を知っていた。それでも鳩は、真空に出なければならなかった。何故だろう。
 
 何故だろう、というこの問いには多分、誰も答える事ができない。実際、ドストエフスキーもこの問いに答えていない。原理的には、ラスコーリニコフの論理的知性は二つの、非論理的な要素によって支えられている。一つは、彼が殺人を犯す理由。もちろん、この理由には色々な意味付け、理由付けが成されているが、その根本は、謎であるし、謎であるのが答えだと僕は思っている。もう一つは、ラスコーリニコフが最後に改心する理由。最後に考えを改める場面を作者は、自然と偶然にまかせている。あらゆる必然と論理が破れる時にはじめて、自然が、偶然が彼を救う(破滅させる)という事は作者はよく知っていた。この「知っていた」というのは論理的に知っていたわけではない。ただ、作者はそう知っていたのだ。そうとしか言えないような形で知っていた。

 人間は有限な存在であるが、最初から自己の有限性を意識した人間はつまらない人間に違いない。最初から、うまく社会に適合しそこそこうまくやっていく人間はさして魅力がない。だが、ニーチェのような人物は魅力的かもしれないが、彼はほうっておくと、自分の思考のロケットに乗って宇宙の果てまで出ていってしまう。それは正しいのか? …そのような姿を外から捉えるのはやはり、凡人である我々の居場所からだ。ニーチェの悲劇がくっきりと見えるのは、みんながニーチェではないからだ。その差異に劇は起こる。

 ニーチェは自分自身を悲劇の主人公としたが、ドストエフスキーは自身をラスコーリニコフとはしなかった。彼自身がラスコーリニコフであった時期はあるだろうが、時間と粘り強さによって彼はラスコーリニコフを描く存在となった。論理と内的意識はその限界を示された。しかし、論理の限界を知る事ができるのは、それが無限だという誇大妄想を持ったものに限られる。理性の絶対的確信を持ち、走っていく事だけがその限界を知らせてくれる。巨大な望みを持った人間だけが、それによって突っ走る人間だけが、限界線を知る事ができる。

 最初から諦めている人間には諦めは訪れない。彼には欲求不満だけが訪れる。なんとなく、先があるような気がするが、自分はやる気がないからやらないという、不完全燃焼がある。こうした人物は利口ぶるが、彼は愚かになれないから、利口であるにすぎない。
  
 一方、望みを持ち、自意識を無限に膨らませていく人間は、それだけではただ、現実との差異に絶望するほかない。本当は、そうではない。現実が彼の意識についてこれないのではない。彼の意識と現実との間に常に差がある事が彼の運命であり、彼の望みですらある。彼はある点から自分自身を諦める。その諦めとは、願いが無限への願いだからこそ有限だという真理だ。この点に気付くと、彼は生きていく事ができる。この事を知らないと、彼はいつまでも夢の中で階段を無限上昇していく事になる。
 
 論理の両端には論理ではないものが控えている。論理を「こんなもの」と考える人間はその限界に触れる事ができない。社会において生きる事を安易に受取り、そこにたやすく迎合する人間は社会の限界にも自分の限界にも触れる事はない。自分の限界を知ろうとして、社会の外に出ようとして挫折した人間ーーそんな人間がいれば、彼には、社会において生きるという言葉の意味がわかるだろう。ロビンソン・クルーソーは一人で孤島に行っても、やはり近代人でありイギリス人だった。彼には社会において生きるという意味はわからなかったかもしれない。それは、彼が孤島においても一つの社会であったからだ。

 社会の内に生きるという意味を知る事ができるのは、そこから一度出た人間に限られる。だが、そんな事は不可能だ。孤島に百年いたって不可能だ。だが、その不可能を知る事が結果としては、彼を生かす事になる。自分の限界を知る事が他者との関係の内にしか生きられないという事を教える。そういう物語をドストエフスキーは「罪と罰」という作品で作ったのだと思う。最近のリアリズム小説では、スタート地点からうまく社会に適合している為に、その生に何の意味があるのかわからない。ただ生きているだけだ。一方で、ライトノベルは現実から離反して夢想するが、夢想は欲望の代替にとどまり、「理想」にまで到達しない。どっちでもない道を行く事ができるか。そう考えた時に、ドストエフスキーは未だに…興味ある素材であるように思える。

 神聖かまってちゃん 新アルバム「幼さを入院させて」 レビュー



  
  村の僕らはアコーディオンをただジャンジャカならして可愛くおどるのさ
  流れ星が美しさに
  願い事を叶えましょ      
                           「僕はぬいぐるみ」 (「幼さを入院させて」より)


 神聖かまってちゃんというバンドは最初、いじめられた経験、抗うつ薬、底辺の叫び、鬱病、といった極めて現代的な、底辺の個人をそのまま曲に載せるという事で出てきた。他のアーティストが現実を見ないようにして、綺麗でおしゃれな歌を歌っている時に、あえて自分の傷口に手を突っ込んで、血と肉塊を世の中に晒してみせた。そんな存在だった。

 だが、そんな神聖かまってちゃんにはもう一つの側面があって、それはバンド名の中の「神聖」という言葉にあらわれていた。神聖かまってちゃんファンはきっと、神聖かまってちゃんに現実の辛さ、苦しさへの抵抗を聞き取る一方で、神聖なものへのあこがれ、現実とは逆の、全てが救われるような美しく、ホーリーなものへの上昇も感じ取っていた。つまり、神聖かまってちゃんは辛い現実を満身に負い、抵抗したり、時に押しつぶされたり、といった経験から逃げ出さず、なおかつその実感はそのまま、現実とは違う神聖なものへの憧れへとつながっていた。

 そういう意味では、天国に入る事ができるのは現実の悲惨さから逃げ出さなかった者に限られる、と言う事ができるかもしれない。

 本アルバムでは、過去の、現実からの傷を洗い流し、いよいよ神聖さへと上昇していく神聖かまってちゃんの姿が見られる。このアルバムはの子にとって「聖地」であって、現実から上昇した人間が長い苦行の後にようやく辿り着いた領域に見える。

 最初にあげた歌詞はそんな空間の体現だ。

 「村の僕らはアコーディオンをただジャンジャカならして可愛くおどるのさ」

 これはただ、そういう風景を描いたものではなく、の子と仲間が、聖地にて「可愛く」踊る姿と言って良いだろう。現実の悲惨から始めた詩人はここでようやく、休息地に辿り着いたようだ。

 だから、ここがゴール地点だと言っても良いが、まだまだ天邪鬼たるの子には、走っていってもらいたい。(生きていってもらいたい) どこから見ても短距離ランナーだったの子には、長距離ランナーになって欲しい。その為の道筋は彼自ら用意している。

  1人じゃにゃいよと
  旅立ちの声が聞こえる
  声が聞こえる
  世界に捨てられたような
  鳴き声が聞こえる
  声が聞こえる
  駅の向こうから
  旅立ちの声が

                            「ねこねこレスキュー隊」


 「駅の向こう」から聞こえる声はまだの子を呼んでいる。そのはずだ。「聖地」はまだ、の子にとって通過点のはずだ。駅の向こうからは声がする。丘の向こうには何かがある。旅はまだ続く。まだまだ神聖かまってちゃんは歩いていかなければならない。聖地を越えて、山の向こうへと旅しなければならない。そうする事がきっとーー選ばれた者の宿命なんだと思う。