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伊藤計劃論 (有料250円) http://mjk.ac/yQ7GYb(Amazon「伊藤計劃論」で検索)
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ベラスケス「ラス・メニーナス」  http://p.booklog.jp/book/108344/read
芸術論集 物と精神 (ブログの記事を集めたもの)   http://p.booklog.jp/book/107963

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 『声優志望』について

 

 声優志望、声優になりたいけどどうすればいいのか、といった言葉を最近はよく見る。その際の反応のパターンは大体、二つに別れる。一つは「現実を見ろ! 食えるのはほんの一部だ!」というもの、もう一つは「頑張って! 夢を諦めないで!」というもの。だが、個人的にはどちらにも不満を持っている。

 個人的に不満を感じるのは何故かと言えば、声優というのは広い意味で役者であって、そこで実際に芝居、演技に対するノウハウとか、どのように芝居をすればいいかという具体的な意見がほとんど見当たらない点にある。いろいろな数字を上げて、「食える役者はこれぐらいしかいないんだぞ!」と言っても、では、「食える役者」とは何で食っていけているのか、どのようなノウハウを持っているのか、プロとして長年やれる人の芝居は、他の人の芝居とはどう違うのか、という具体的な問題にはまず踏み込まない。

 もっとも、声優のような業界では、使われる側なので、色々難しいだろうとは思う。いわゆる「枕営業」のような事があっても、そう驚かない。しかしそんな「営業」で首の皮を繋いでいっても、すぐにプツンと切れてしまうだろう。問題は、流動していく社会の中で、自分自身に自信を持てるスキルを持てるかという事にある。そしてそのスキルは(できれば)人間的なものであるべきだろう。単なる知識の寄せ集めとか、何か機械的な運動を人並み以上にやれるという事ではなく、その人の個性と表現が一致したスキルが望ましい。

 自分の記憶では、初期の声優は元々、役者の側から流れてきた人達だったはずだ。彼らは役者としては食えないから、声優に流れてきたのかもしれない。「声優になりたい!」という夢は結構な事かもしれないが、世の中が求めるものと、自分が社会に提供できる能力との調整点というものを広い意味で考えたほうが良いように思う。例えば、芝居が好きで、演じる事に自信があるというのであれば、声優だけが仕事ではないはずだ。そこから舞台役者に行ったり、テレビドラマに役者として出たり、色々な可能性が考えられる。自分で脚本を書いて演じるという可能性もある。問題は「プロの声優になる」事ではなく、広い意味で何かを演じる事で、人々に価値を提供するという事にある。では、そのような能力を自分は持っているかと自問するのが、役者ー声優を目指すという点ではもっともオーソドックスではないか。

 「プロの声優になる!」と考えるとかなり門戸は狭くなるし、色々煩雑な問題は起こってくるだろうが、どうしても芝居が好きである、何かを演じる事によって社会的価値を生み出したい、というのであれば、例えアニメ業界が斜陽になり、声優が「オワコン」になっても生きる道はあるように思う。「何かを演じる事によって人々に価値を提供する」という事柄はそれこそ、能や狂言の時代から今まで連続的にある。声優を目指すというのであれば、そういう観点に立って自分が何ができるのか、どんな芝居ができるのか、そう考えてみても良いと思う。

 もっとも、このような考え方は時代遅れなものなのだろうとは自分でもよく分かっている。現在は数量化されたモデルの中でゼロサムゲームをするのが基本になってきている。何かを生み出すよりは、何かを取り合う事が主流となっている。

 そういう中でも、「声優になりたい!」というのであれば、自分の核となる芝居そのものがどのような社会的価値があるのか、そもそも、演じるとはどういう事か、人はどんな演技に心を惹かれるのか、そうした事を普通の観点から考え直すのもそう悪くないのではないかと思う。

狩野尚信の絵から芸術について考える

 


 国立博物館の常設展をざっと見てきた。体調が悪かったので、ろくに見られなかったが、印象に残ったのが、狩野尚信の「瀟湘八景図屏風」と酒井道一の「夏草雨図屏風」の二つだった。
 (酒井道一の作品は酒井抱一の模写らしい。ややこしい事に、酒井道一は酒井抱一と血縁関係はない)

 話を狩野尚信に限ると、この人は狩野探幽の弟だそうだ。個人的な話だが、小学生の時、どこかの城に家族で行った時、狩野探幽の鷹の屏風絵を見ていたく気に入った。帰りがけにお土産用の小さな屏風を小遣い全部使って買った。確か三千円だったと思うが、この小さな屏風は今も部屋に飾ってある。小学生の頃の自分と今の自分、やっている事が何も変わっていないというのには自分でも奇異な感じを受ける。あの頃から何も変わっていない。

 話を戻すと、狩野尚信の屏風絵は墨汁で書かれた山水画で、したがって、黒白のコントラストだけで全てが表されている。おまけに、尚信の屏風絵は余白をたくさん取ってあり、描かれている部分は屏風の大きさに比べると、少ない。それも、いかにもサッと、筆で描いたというように描かれている。つまる所、余白を存分に使い、なおかつ余計なゴテゴテとした装飾はない、簡素で清潔で美しい、というスタイルの山水画だ。
 
 しかし、その絵を見て、つくづく、達人というのは凄いものだと感心した。絵の中に、小さく三角のようなものが描かれているのだが、よく見ると「おそらく、これは傘を差している人間なのだろう」と予測できる。本当に何気なく、墨でサッと描いているだけなのだが、ただ墨の濃淡、線の太い細いだけで、そこに一つの世界を具現化できる。日本人というのは、抽象的な思考や哲学は苦手な部類だろうが、ほんの僅かな線を太くした細くしたり、年がら年中土をいじくってその色がどうであるとか光沢がどうのとか、そういう事に関してはかなり発達した感覚を持っているのではないかと思う。
 これに関しては特色であって、良い悪いの話ではない。また、今のオタク文化、Pixivなんかでそれぞれに絵を描いて見せ合うというのも大きく言うとそういう日本人の特色の延長にあるのではないかと思っている。

 それでただの感想で終わっても面白くないので、ここから芸術論に持っていこうと思う。狩野尚信の簡素でありながらも、達人的な絵が何故素晴らしいのか。それはもちろん、狩野尚信の努力と修練、その達成によるものだが、最近読んだ中谷宇吉郎のエッセイを見ると、そこに、読者の方の認知機能も大きく関わっている事が分かる。中谷宇吉郎の「南画を描く話」から引用する。

 「或る日新聞の写真を見て、一つの発見をした。それは知った人の顔が沢山並んで小さく写っている写真であったが、それが皆ちゃんと誰れ彼れの顔に見える。一人の顔が小豆粒大に写っている写真である。よく気をつけて見ると、顔の形をなすものは大部分が黒くて、その一部に白い斑点があるだけのものである。中間の墨色のような所はほとんどないし、白い斑点の形もほとんどどの顔でも同じような恰好である。それでいて皆の顔にそれぞれの特徴が出ていて、表情までも分るのであるから、これは大したことだと感心した。」

 「要するに人間というものは誰でも、すべての物について、単にいくつかの要素を抽象した像だけを頭の中にもっているものらしい。それでそういう像を頭の中に再現してやれば、それで満足するのではないかと思ってみた。そうすると、観者を共同製作者とするための一つの技術は、観者の頭の中にある沢山の線の中の一本をぴんと鳴らしてやればそれで良いので、後は共鳴現象に似た作用で、観者が初めからもっている像が再現され、それが立派な絵に見えるものらしい。」

 重要だと思うので、長々と引用した。要するにここで言われている事は、例えば僕が、狩野尚信がサッと描いた小さな三角形を、「傘を持った人」と認識する、視聴者の側の作用も重要だという話だ。狩野尚信が達人なのは間違いないが、それは見ている側にある、いわば、「形態認識作用」を刺激するのに十分な描き方を知っており、実践できるという事と大きく関係がある。

 この「形態認識作用」が脳科学的にどこに位置されているのか全く知らないが、確かに存在すると言える。例えば、壁の染みが人の顔の形に見える、という時、僕らはその人が「幻を見ている」とは言わない。しかしながら、それは単に「壁の染み」でしかないから、厳密に考えれば幻みたいなものである。しかし、それは幻ではなく、言ってみれば現実から抽象された像だ。この抽象された像は物そのものではない。それとは違うものを取り出す作用を人間は進化する上で手に入れたのだろう、と推測できる。

 さて、この形態認識作用があるからこそ、新聞の顔写真は荒い画像でできているにも関わらず、その人が誰か分かるようになっている。この現実からの認識作用を逆に転用する事ができるようになると、その人は達人と呼ばれるようになる。そんな風に考える事もできるのではないか。つまり、狩野尚信は僕らが、現実をそれぞれの認識作用によって見ているという事を、絵の技法として知り抜いており、それを刺激するようなタッチで描けば、そこにゆうに、山や鳥や傘を差す人が、単なる○だった△だったり・だったりしても、きちんと具現化する事ができる。しかもそれは、単なる○や△なのに、「どうしてこんな見事に描けるのだろう」と感心してしまうようなレベルに到達してしまう。しかしそのような高いレベルも実は、視聴者の認識作用が深く関わっている。

 更にこの続きを考えると、認識作用自体にも高低のレベルがあるようにも見える。芸術の鑑賞眼のある人とない人では同じ絵に対する見方が全く違う。その場合、天才の絵も、見ている方のレベルに合わせて霞んで見えたり、美しく映ったりする。

 こうした時、形態の認識作用というのはどうなっているのか。例えば、新聞の粗い写真を見て、それが人の顔だというのは誰でも分かる。「これは花だ」「これは鳥だ」というのは誰でも持っている形態認識だろう。しかし、「その花は美しいか」「この鳥は美しいか」というと、より一歩踏み込んだ認識になる。この辺りから問題が現れてくる。だから、本源的に言えば、「ゴッホの絵は美しくもなんともない」と言っている人と「ゴッホの絵は美しい」と心から言う人では、そもそも違う絵を見ている、と考える方が至当に思える。彼らはそれぞれの認識力に見合った対象を見ているのであって、そもそも違う対象を見ている。そうくくった方がわかりやすいかもしれない。

 この問題を更に延長して考えよう。例えば、「芸術における想像力」という言葉がある。優れた芸術家は「現実とは違う想像力」を有している。しかし、そうではないのではないか。狩野尚信のように優れた芸術家が見ている現実は、我々よりも一段深い現実なのであって、現実離れしたものではない。現実離れだと言えば、そもそも、壁の染みが顔に見えるというのが現実ではないと言っても良さそうだが、普段、僕らもそのように「現実」を構成している。

 この時、構成されている現実をより深く認識し、それを形に表すのが芸術家の仕事ではないか。とすると、芸術家は、空想的な存在というより、むしろ、一般の人より「現実的」な人物と言っても良いのではないか。認識が深まるという意味において、芸術家はより、現実的だ。

 文学に話を振ると、小林秀雄は、同じ自然主義作家のゾラよりもフローベールの方が優れていると断じていた。ゾラにおいて感じない、現実のリアルな空気感はフローベールの小説により感じる事ができる。しかし、ゾラもフローベールも、言葉という抽象的なものを用いているではないか。そこから、「よりリアルである」という評価はどうして出てくるのか。それはつまりーー現実と呼ばれているものがそもそも抽象的なものだからだ。

 例えば、シェイクスピアのセリフというのは全く日常的ではないし、大げさで、わざとらしい。だが、シェイクスピアの作品を空想的とは我々は呼ばない。シェイクスピアの作品にあらわれているセリフは、狩野尚信が僅かなタッチで再現している事実と同じように、事実をある角度から非常に極端な形で抽象して、取り出したものと言える。人の心理を描くというが、そもそも心理とは何かという事柄それ自体が「描く」という方法論と溶け合っている。つまり、心理があってそれを描くのではない。そもそもいかに描くかというのが、その人の心理そのものなのだ。

 このように考えていくと、芸術家というのは、事実をいかに深く認識するか、という一点にかかるように思われる。芸術家は現実と離れて空想を生み出す、我々が愉しめる空想を生み出すのではなく、そもそも、我々が現実を空想的に構成しているという事実からスタートし、より詳細で、確かで、深い現実を空想という形で生み出す。そう言った方が至当に思われる。

 だからこそ、「芸術なんて所詮、絵空事だ」という時代を通じた批判を越えて、芸術は存在し続けてきた。「芸術なんて所詮、絵空事だ」というのであれば、「我々のしている事は全て絵空事だ」と言い切ったほうが良い。そこまで言い切った時、ようやく絵空事である芸術は力を発揮する事になる。逆に、現実と空想を分けて、現実的なものに固着する行為はしばしば、空想を追いかけ、現実を見失うという結果に終わる。何故そうなのかと言えば、そもそも我々が現実と呼んでいるもの自体が空想的ものだからだ。
 
 と、すると芸術はその空想を通じて現実を構成するものだ、と言えるだろう。もっとも、今の時代のように、フィクションが膨大に膨れ上がり、一般化した時代で、そうしたもの自体を現実として捉える芸術がどのような形になるのか、誰にも分かっていない。そうした事はおそらく、それぞれのジャンルの芸術家がこれから具体的に、少しずつ作り上げていく事になるのだろう。

 クリエイターが戦うべきもの



 古典物理学では、観察者がどうであれ、体系は観測には左右されない絶対的なものとしてある。だが、量子論においては、観察者が客観的な事実に対して影響を及ぼす。ここにおいて、主観と客観とが整然と分離できるという古典科学の前提が崩れた。

 今の世の中を見ると、古典科学よりも量子科学に近似しているように思う。つまり、観測者の方が客観的事実よりも強大な力を持っており、客観的事実(それが何であれ)は観測に左右される。

 将棋指しがイケメンであるかどうかという事は、将棋の実力とはまるで関係がない。俳優の個人生活がどうであろうと、役者としての能力が高ければそれでいい。そんな見方もあるだろう。しかし、そんな見方を貫く事は不可能になりつつある。オーディエンス、聴衆、観客らの方が、演者よりも強大な権力を持っている。実質的に、メディアという舞台に載る演者は、観客の傀儡であると言った方が良いだろう。

 例えば、ユーチューバーのような存在が、自分を映像化して、世界にばらまく事は、害のない事であるように見えるが、これは極めて慎重にやらなければ非常な危険を伴うと思う。ニコニコ生放送なんかもそうだが、「自分のプライベートを垂れ流して金を貰える」というのであれば、手段としては楽そうに見えるが、よく考えるとかなり危険な行為ではないか。

 というのも、観ている方は映像として現れている個人を、個人そのものとして見る。例えば、僕が立派な善人としてのイメージを散布して、観客から金、拍手を受け取っているとすると、イメージは逆に僕自身を規定する。僕が、、自販機の下の小銭を拾っている所を観客の一人が発見すると、それだけで「幻滅」され「叩かれる」原因となるかもしれない。自分を映像化して世界に発信する事は逆に、行為そのものが自分をきつく縛る。この相互関係を承知しながらやるのであれば、それほど問題は起こらないだろうが、何も考えずにやるのは危険であると思う。

 クリエイティブ関係に関しても、同様の事は言える。ここで、簡単な二分法を使おう。例えば、お笑い芸人には観客を「笑わせる」芸人と、観客から「笑われる」人間と、二つのタイプがあると考える。前者は能動的であり、後者は受動的である。言うまでもなく、前者の方が芸人としてはレベルが高いのだが、一見すると、後者だってムーブにのって売れっ子になったりするから、ぱっと見には後者の方が価値があるように見えたりする。しかし、彼はただ観客に笑われているだけなのだ。自分の芸を売っているというよりは、自分を売っているにすぎないのだ。

 自らが努力して作り上げたものを社会に売り渡す行為と、自らそのものを売り渡す行為の二つを観客は区別しない。会社も社会も区別しない。儲かればいい、面白ければいい。これが淡白な世の理論だ。しかしこの理論に安易に乗っかると、後々クリエイターは後悔するように思う。

 広い意味でのクリエイターというのは、世の中のこうした見方と争闘しなければならないように思う。今、僕達の経っている地平において、価値は、世の中が作り上げるものなのか、それとも自分が生み出すものなのか、区別はできない。藤井四段のムーブメントはその大方を、本人ではなく、メディアや観客によって作られている。もし僕が藤井四段その人ならば、僕は一体どういう風に精神の平衡を保てばいいか。メディアに対して「塩対応」して、わざと人嫌いする発言をして、意図的に嫌われ者になろうとするかもしれない。いずれにしろ、このような状況で、当人が将棋に専念できないとしても、誰もそれには注意を払わない。気にかけない。だが、こうした事で嘆いても仕方がない。世の中から全く無視されているという事、世の中から過大に見られている事、そのどちらにも舞い上がらずに自分のすべき事をするにはどうするか。観客が自分の価値を作り上げるのではなく、いかに自分が価値を作り、それを観客に提供するか。今のクリエイターは後者の道を取る為に、複雑な経路を取らなければならないように思う。こうした戦いはまだ、始まったばかりのように思われる。

象徴としての文学 




 今の文学に足りないのは何か、と考えてふと、「象徴」「比喩」という言葉が頭に浮かんだ。今回はその事を書こうと思う。

 ドラッカーの著作を読んでいると、ドラッカーが神話を巧みに引用する所に出会う。ドラッカーは多面的な人なので、色々な所から色々な情報を引っ張り出してくるが「神話」のレパートリーも持っている。ドラッカーは自分の見たもの、聞いたものに対して神話を当てはめて、巧みに説明する。この場合、ドラッカーは神話を比喩として用いていると考えられる。逆に言えば、神話の方でも、人間の中にある様々な側面を象徴していたり、比喩として機能していなければ、ドラッカーの方でうまく引用できないだろう。ここでは、個別的な生が、象徴としての物語と対応関係にある事がわかる。

 物語とか小説、ライトノベルなどと言うと、すぐに、現実を離れた想像力をどうやって獲得するかという問題になりがちだが、実際、優れた物語、優れた文学作品というのは必ず、現実と対応関係になっている。それはむしろ、現実を深くえぐり出す事によって、一般的には現実離れしていると思われる描写になる。シェイクスピアのセリフの不自然さをトルストイは非難していたが、それにも関わらず、シェイクスピアのセリフの真実性は明らかだ。同様に、ドストエフスキーが「俺は写実派だ」と言った事にも相応の意味がある。フローベールとドストエフスキーと、どちらが写実派なのか。この場合、そもそも僕達が見ていると思っているもの、現実と考えているものが果たして本当に現実なのだろうかという認識論的問いが問題となってくる。

 優れた作品は必ず、現実とのある関係を持っている。神話が人間というものの象徴として成立していると考えると、現在の文学は現実とはどのような関係を持っているだろうか。

 ここらで厄介になってくるのは、ある時期から、小説というジャンルは極めて安易で、簡単なものになったという事だ。つまり、作家が現に見たり聞いたり体験したりした事を、言葉という透明な媒体によって指し示してやりさえすれば「小説」になるという小説観が一般化し、それによって、「小説を書いて一発逆転狙おう!」なんて人が出てきた。しかし、読者の方でもそう読んでいる節があるから、そんな人が現に「一発逆転」したりする事も可能だったりする。ここに面倒な問題が出てくる。

 小説というのは「小さな説」と書く。小さな説とは、それぞれの個別的生を描くという事で、個別的な生ならば誰でも体験している。誰でもささやかな社会経験、友情経験、恋愛経験を持っている。持っていないという場合でも、自分の身の回りの事なら少しは知っている。文芸誌に載っている小説なんかをパラパラ見ていると、彼らが知っているのは自分の身の回りと、毎月発行される文芸誌だけではないかという気がする。彼らにとって小説とはそのような、極めて狭い圏内においてうまく機能するものなのかもしれない。

 自然主義文学というものが現れて、現実を描く方法論というものが、単純な言語の指示性と同化し、それによって小説というものは極めて簡単なものになった。また、一見するとこれに反するように現れる、「文体」の問題も単に「書き方」の相違でしかないものになった。又吉直樹の文体は、何をも象徴していない。それは「文学っぽいからそうしている」という文体で、現実に接続していない。そして現実に接続するとすれば、僕らはまた単純な言語の指示性に還っていってしまう。

 もっと根底的に考えてみよう。そもそも文学とは一体何なのか。

 神話は現実を象徴するものだと最初に想定してみた。うろ覚えだが、ヘーゲルが「文学は共同体の運命を象徴するもの」と言っていたと思う。これを神話に当てはめると、神話は古代の共同体の運命を象徴していた、と言う事ができるだろう。

 この定義を現代の文学に当てはめると、どんな風に見えてくるだろうか。小説とは「小さな説」だから、それぞれの個別的生を描き出す。しかし、その生が共同体(我々)にとって意味のあるものでなければならない。我々、観衆がカタルシスを感じるようなものでなくてはならない。ここで何が起こっているか、起こらなければならないかと言うと、それぞれの個別的な生、小さな一人の人間の生き方、考え方、行為、人間関係といったものが、社会全体にとって意味あるものとして開示されなければならないという事である。

 しかし、これは「小説」が共同体に「受ける」事とは違うもののはずだ。「永遠の〇」がエンタメとしてはよくできていても、あの作品を優れた文学作品とは言えないし、「永遠の〇」のファンでも「優れた文学!」と言うにはためらわれるだろう。だとすると、ここでは何が起こっているのか。再度言うが、優れた物語は我々の運命を象徴していなければならない。それは我々の感覚、時代の方向性に都合の良いものであるだけではなく、それらを含んだ、つまり我々の存在を含んで流動していく物語でなければならない、という事だ。

 角度を変えよう。吉本隆明は「優れた文学は、万人に『これは自分にしかわからない』と感じさせる」と言っていた。万人、つまり多くの人々に「これは自分にしかわからない」と感じさせるというのは、一見矛盾のようにも見える。多くの人々が同時に「自分にしかわからない」と感じるとすれば、多くの人々は皆、それぞれ他人とは違う「自分しかわからないもの」を持っているという点において、共通の存在なのだろうか。つまり、我々はそのような、「孤独の共同体」なのだろうか。

 混乱してきたので。整理する。まず、文学とは

 ① 現実の象徴、比喩である
 ② 現実は共同体である つまり、我々の事である
 ③ 文学は共同体の運命を象徴する 運命の変遷が物語である (時間軸の導入)
 ④ 文学は個別的な生を描くものであるから、それぞれの人間が共感できるものでなければならない。また、それは単に僕達に心地良いものであるだけでなく、僕達の存在そのものの運命を示していなければならない
 ⑤ 誰にも、他人と分かち合えない自分だけの感覚・思考があり、文学はそれを刺激する

 …とざっくりまとめてみたが、異論もあるだろうと思う。しかしそのまま考えてみよう。

 文学作品は小さな説であり、個別的な生を描くが、全体にとって意味のあるものでなければならない…。例えば、ここにおいて、「源氏物語」とは当時の宮廷生活の華美と退廃の行く末を描いたという意味で、十分優れた文学と言えると思う。吉本隆明は「源氏物語」は母系制の崩壊を示唆していると言っていたが、そういう意味でも十分「象徴」たり得ている。光源氏の生涯は単なる一個人の生涯ではなく、当時の共同体の運命を象徴するからこそ優れた文学だったと言える。

 また、夏目漱石の「それから」はよく言われるように、明治の知識人の運命を描いている。自分自身の運命を決定して生きる事が可能になったが、それは同時に旧社会の秩序からの追放を意味した、という点で悲劇として成立している。現在において、不倫小説を書いても、それは単なる不倫としてしか扱われない。その不倫が意味のあるものだと作者が考えるなら、作者はそれだけの(漱石並みの)視点を用意しなければならない。これは当然、極めて難しい事だ。

 二作品だけ挙げたが、これを現代の作品に持ってくるとどうだろう。例えば、村上春樹の「海辺のカフカ」は作品の幻想性が幻想性としてしか機能しておらず、それ故、想像力は根を失って、空中をさまよっている。つまり、「海辺のカフカ」は何の象徴でもない。最近の村上春樹はますますその傾向が出てきたが、それでも「作家は~」「文学は~」と川上未映子なんかと語っていられる限り、いい身分だとは言えるだろう。

 ちなみに、川上未映子の「乳と卵」はパラパラ読んだが、あれこそ正に「芥川賞専用芥川賞小説」(シャア専用みたいなもの)の名にふさわしい。芥川賞選考委員がいかにも好みそうな題材、文体、構成で書かれた作品で、ああいう作品に「女性特有の感性」があるなんていうのは間違いだと思う。芥川賞選考委員のオジサマ・オバサマがいかにも好みそうな構成で書かれており、非常によくできた「芥川賞小説」であり、それ以外のなにものでもないという意味において、逆に大したものだと思う。

 ちなみに、「乳と卵」のラストは女同士が卵をぶつけて喧嘩するシーンがクライマックスなのだが、これは「卵」ーー「卵子」ーー「初潮」ーー「豊胸」ーーと言った、女性特有のテーマを「象徴」する場面となっている。もちろん、ここでの「象徴」は自分の言う「象徴」とは何の関わりもない。

 さて、ここまで長々と書いてきたが、そもそも文学とは何かという問いに対して、簡単に概要を書いておこうと思う。

 つまりーーー

 ・自然主義文学の導入によって、個別のリアルな生を描く事が純文学となった。これを逆側に舵を切って幻想性に救いを求めても、幻想は現実から根を失ったものとして遊離し、一方の、「純文学」はただ現実の細部を描くだけで、現実そのものが何かと問う力を持っていない。文学は現実に固着するか、現実から遊離するか、そのいずれかで、現実そのものを対象化し、乗り越えようとする力を失った。

 ・これらの状況を外側から補強するのが、「売れる」「売れない」の問題であって、作品の価値を昨品外で支えようとする努力である。作品そのものは凡庸だとしても、それには様々なイメージ、宣伝、徒党などがまとわりついて、それによって出版社は生存しようとしている。現今の政治家がそうであるように、大衆に自分の思考・哲学を訴えかけ、問うのではなく、むしろ大衆の漠然たる興味・嗜好に自分を合わせようとするのが最近の傾向に思える。民主主義と言えば聞こえはいいが、大衆の追従者である所の政治家と並ぶように、文学なるものも同様の傾向性を持っている。

 ・優れた文学作品は共同体の運命を象徴するのであって、共同体に受け入れられる為に頭を下げる存在ではない。優れた作品は人々が認めざるをえないものであって、認めてもらう為に、皆の前で卑屈になるものではない。しかし、今ではもっとも卑屈なものこそがもっとも高い価値があるかのようにみなされたりする。(最近、よく言われるタレントの「塩対応」「神対応」なんていう言葉も、そうした傾向性の一つかもしれない)

 ・文学作品は個人の人生を描く。その際、全体に対する部分としての人生を描くだけではない。単なる「誰々の話」では済まない、全体的なものが個人の命運に託されていなければならない。その場合、全体的なものを個的なものに照応させる作家的手腕が必要となってくる。一人の人生の意味が社会全体に意味のあるものでなければならないが、それは社会そのものを作品の中に、象徴として取り込むものではなければならない。

 ・象徴される運命は、物語という時間軸を取って現れる。物語というのは、我々観衆が愉しむためにある形式ではなく、むしろ、我々自身の未来であり、過去である。傍観者に未来も過去もないとすれば、我々に物語はない。しかし、我々もいずれ、どこかに出ていかなくてはならないだろう。

       
 ーーー以上のようにまとめてみた。今のところ、文学というのは自分にとって上記のようなものとしてある。もちろん、自分の言った事にも間違いはあるだろうし、反論もあるだろう。ただ、とりあえず自分はそのように総合的に考えている。この文章はここで終わる事にしよう。
 

                         あとがき

 この文章を書き終えた後に気づいた事が少しある。最後に付け足す事にする。

 概ね、文学というものはここ二百年くらいの間、バルザックやフローベールを基本とするリアリズム文学というものを解体したり、改変したりしてやってきたのではないかと思う。それがマジック・リアリズムのようなものであっても、リアリズムの解体・変化的な流れとして出てきているので、過去に比べて「進歩」したとは考えない。

 例えば、言葉は「記号」であるというのは最近の考え方であって、言葉はかつては「呪文」であり、「歌」であり、「言霊」だった。そうした事は、過去の人が真実を見ていなかったというよりは、過去に籠められていた言葉への生命力が喪失して「記号」が生まれたという見方もできる。

 文学においてはリアリズムが普通になっているし、自分の身の回りの生活を描く事からスタートして、想像力を飛翔させれば、幻想小説になったり異世界小説になったりする気がする。しかし、その根底にある認識は大して変わっていないように感じる。

 文学はかつては神話だったという事を考えると、リアリズムを基礎として、世界を言語によって指示できる、描く事ができるという考え方もそろそろ変えなくてはならないのではないかと思う。ある方法論、構造というものが歴史を通じて唯一普遍のもの、絶対に正しいものであるという考えは、19世紀に浸透して、世界に広がったように見受けられる。そこには当然、物理科学の成功があって、それをその他の領域に広げるという事情があった。

 しかし、科学における正当性は、我々の感覚機能における同一性に依拠しているのではないかと思う。言い換えると、科学が取り扱う物事は「単純」だ。僕という人間を質量・体積で計る時、内面性については一切考えない。そうしたものを抜きにする事によって整然たる秩序や将来予測が成り立つのではないかと思う。これに対して、人間の内面とか、歴史とかいった複雑なものに単純に理論を当てはめていく事は、危険であり、有害な事でもある。それらは科学における取扱物とは違う。精神の科学化を計ったフロイトは失敗した、と自分は考えている。それらは科学的に取扱うには未だに、あまりに複雑なものに思われる。(人工知能によってこの手の事は解決するという発想もあるようだが、あまり信用していない)

 文学というものを考えていくと、今も普通の生活を描く事に主眼が置かれている。そうではない場合は又吉直樹のように『こういうのが文学だよね』という暗黙の了解に頼っていく事になる。しかし、『こういうのが文学だよね』という本質ー定理そのものを改変しなくてはいけない、というのが現代に起こっている状況ではないか。

 マルクスやヘーゲル、あるいはニーチェの哲学は最終的には彼らの辿り着いた真理に到達する事を要請されている。彼らは自分自身か、自分が考えた真理が山の頂上にある事を確信している。この確信は近代の確信であり、近代の奢りだったかもしれない。今、イブン=ハルドゥーンという社会学者の本を読んでいるが、イブン=ハルドゥーンは歴史を栄枯盛衰と見ている。歴史を、最終的な解答を出すための道具とみなしているのではなく、人は、成功すればその事に奢り、廃滅していく「しかたない」生き物なのだ。昔の人間は、人間というものの中に、絶対的な真理に向上していく姿ではなく、むしろ、失敗したり、挫折したり、時には良い事もする人間をある諦念で見つめていた。そんな風にも見える。

 ドラッカーなども、絶えず、真理を更新する事を考えている。ある正しさに向かって、一つずつ階段を昇っていく方法論を絶対化してしまうと、周りの環境が変わっても、一度頂点に到達するとそこから変化していく術が残っていない。何が文学なのか、と考えると、今の社会状況を考慮に入れずにいられない。文学という本質があってそこに閉じこもる事に意味があるのではなく、むしろ、時代を通じて本質は常に更新され、発見され続けなければならない。「本質とは変えてはならないもののことであります」とソニー創業者の盛田昭夫が語っていたが、本質とは変えてはならないだけではなく、維持・更新する必要もあるのだろう。

 …長くなったが、この文章を書き終えて、そういう事も考えた。自分のしている事は極めて孤立していて、よほどのバカなのではないかとつくづく思っているが、その代わり、自分の考えている事は出来る限り、自分以外の人にもわかるように論理的に文章にしていきたいと思っている。それでは長いあとがきを終える。

 『面白い』を客観的に定める方法  (中谷宇吉郎を手がかりに)  


 
 『面白い』という事について少し書いたが、それでは言い足りない部分があるので続きを書く事にする。これに関しては、科学者・中谷宇吉郎が批評家・小林秀雄について書いた文章『小林秀雄と美』を下敷きにする。中谷宇吉郎の言っている事は僕が漠然と感じていた事を理系らしく極めて明快に言ってくれているので、この文章を紹介するだけでも十分だと思っている。この文章は「小林秀雄全集 別巻2 批評への道」に所収されている。

 さて、まず中谷宇吉郎は「美の客観的基準を定める事は可能か」という問いから始める。今の場合、「美」を「面白さ」と読み替えてもらえればいい。中谷はこんな風に始める。

 「今日のような民主主義の世の中になると、藝術の世界でも、大衆性ということを、重視しなければならない。その点では、小林秀雄のようなことを言うのは甚だよろしくない。しかし藝術と民主主義の調和は、なかなかむずかしい」

 この後、フランス革命の際に一番喜んだのはセーヌの道端で絵を売っていた画家だったという話が出てくる。「自由」「平等」を基調とするフランス革命の後は、「俺の絵だってルーベンスと同じ値段で売れるんだ!」というわけである。もちろん、現実はそうは行かなかった。

 さて、ここから中谷は二つの基準を、芸術と科学を比較しながら提出する。科学者らしく、極めて明快な方法を二つ、中谷は教えてくれる。

 まず、無条件に大衆の評価を信じる事は間違いであるが、かといって大衆を完全に無視する事はできない、という事である。ベストセラー作品が一番価値ある作品とは言えないが、そうかといって、誰も認めない作品を優れた作品と言う事はできない。それが優れた作品であると考える為には、最初は少数者であろうと、その作品を高く評価する人間が必要になっている。

 還元すれば、これは「質」と「量」の組み合わせの問題である。中谷は科学の観測の話題を出す。

 科学は一般に正確と思われているが、実はそうではない。「観測」というものには必ず誤差がつきまとう。誤差というのは必ず出てくるので、科学においては最初に、「これくらいならまあいい」という範囲を決めておく。その範囲ならば誤差が出ても、「正確である」「妥当である」という事にする。つまり、科学の観測というのも、完全な値を用いているのではなく、トータルで考えて妥当と思われている線で進んでいくという事だ。

 例をあげると、地球というのは円形で表されるが、実際には表面は山脈で凸凹している。しかしこの凸凹は地球というトータルの大きさから比べれば極めて小さな凸凹なので、この凸凹は気にせず、円を描いて「地球だ」という事にしておけばいい。大体、そのような、場面に合わせたアバウトさで僕らは問題を処理する。

 さて、中谷は観測の問題ついて更に細かく考えていく。観測には誤差があると言ったが、その場合、測定値は観測者によってそれぞれ違う。つまり、それぞれに誤差を持っている。ではそれをどう調節するかと言うと、各測定値の平均点を取る。つまり、民主主義的な方針を取る。こうして誤差の範囲を狭めにかかる。

 これを僕らは通常、次のように言い換えている。「あの作品が面白いと言っているが、それはお前の主観だろう」 こういう事を訳知り顔で言う人間がいるが、そう言う人間はもちろん、「客観的基準」が何かは知らない。中谷の考えを用いれば、そもそも科学においてすら完全な正確性は存在しない。それで、ある程度、妥当なラインを考えていく。したがって、「それがお前の主観」であるというのはそもそも否定にはならない。誰しもの主観を統合して客観を作るからだ。

 しかし、この民主主義的やり方とは違う方法論がもうひとつある。こちらも、民主主義的なやり方と同じくらい重要だ。こちらの方は君主制と言えばいいかもしれない。小林秀雄は、君主制の君主に該当する。

 というのは、科学において「重みをつけた平均」という平均の取り方がある。これは信用度のある測定値ならば、その分だけ、そこに重みを持たせるという事だ。中谷はこれを「特定の人に二票なり、三票なりを与えて、投票させるようなもの」と説明している。この「特定の人」というのは、何らかの理由で、普通の人より信頼のおける人となっている。

 さて、ここで、民主主義的だけではない方法論が出てきた。つまり、評価の基準に重みをつけるというものだ。これを極端にすると、小林秀雄のように美に打ち込んでいる人の評価に関しては普通の百倍の価値を認めてやる。普通の人百人分の評価価値が、小林秀雄のように心底、芸術に打ち込んでいる人には与えられる。一方、普通の平均人は小林秀雄の百分の一の評価能力しか持たない。

 こうなると、当然、不平が出てくる。「どうして小林秀雄にそんな権利が与えられるのか!」と。これは平等論に傾き、最後にはセーヌ川の絵描きに行き着く。

 中谷はここでもうまい比喩を用いている。例えば、雪舟の絵と、風呂場のペンキ絵(凡庸な富士山の絵)、どちらがいいかと問うと、一般的にはペンキ絵の方に軍配が上がるだろうと言っている。民主主義で言えば、ペンキ絵が勝つわけである。だが、ここに重みというものを考えてみよう。つまり……

 「雪舟にもペンキ画にも、どっちにも実はあまり興味はないが、どっちかといわれれば、まあペンキ画の方という一票と、もし家屋敷があったら、それを売ってもこの絵を買いたいという人の一票とには、違った重みをつける方がむしろ自然である。」

 これはわかりやすい比喩だ。この時、「家屋敷を売っても買いたい絵」というのはおそらく、富士山の凡庸な絵ではなく、雪舟の絵の方であろう。そしてそんな事を言い出しかねないのは、小林秀雄のように、芸術に打ち込んだ人間に決まってくる。

 ここまで来て、「美」あるいは作品の「面白さ」を決める基準がはっきりしてくる。簡単にしていくと

 ① そもそも、芸術においても科学においても完全に客観的な評価というのは無理だ。だから、その次の妥当なラインを探す事が求められる。

 ② 妥当を探す一つの方法は、多くの測定を用いて、その平均を取るものだ。これを作品評価に当てはめると、時代と人の波、様々な異なる文化をくぐってもなお評価されたきた作品というものには、ある程度の妥当性が認められるだろう。

 ③ また、もう一方の方法は、小林秀雄のように作品評価に自分の全身全霊を傾けて打ち込む人の評価を信頼するという事だ。
 中谷はこれを「けっきょく小林秀雄のような男の言うことを聞いているのが、一番の早道ということになってしまう」と、極めて的確に現している。小林秀雄は信頼できる測定装置であるが、完全な装置ではないという微妙なニュアンスを一文でうまく言い表している。


 さて、ここまで考えてくると、中谷宇吉郎は極めて穏当かつ常識的な事を言っているのが分かるように思う。熱狂するわけでも、軽蔑するわけでもなく、科学的な考え方で芸術の価値基準というものを、僕らの普通の感覚と合致するようにわかりやすく説明してくれている。

 ここまで説明すれば、僕が付け加える事はもう何もない。自分の言わんとしていた事を明快に説明してくれてありがたというばかりである。ただし、こういう考え方が「普通」とは思われない時代もあって、現在もそんな時代かもしれない。というのも、文芸評論家が、批評家の先輩であり、批判するにせよ丁重に扱うべき小林秀雄を「ドーダの人」という雑駁な論理で否定(批判でもない)してみせたり、ベストセラー作家が「『罪と罰』を読まない」という本を出したりする。信頼できる測定装置、「重みをつけた平均」の方はバカにされて、どんな事を言おうが売れればいいという時代だ。量で質を足蹴にできると信じている時代だ。

 こうした時代にあっても、中谷宇吉郎の言っている事は妥当であると思う。しかし、中谷も注意しているが、難しいのはここからだったりする。つまり、誰が信頼できる測定装置なのか、それを探るにも、また別の測定装置が必要なのである。芸術が科学よりも面倒なのはここいら辺りにあるのだろう。科学であれば、僕らが皆、持っている感覚器官に訴えかけるわけだが、芸術を感受する器官は僕らが「重さ」「軽さ」、「運動」等を計る器官より、精妙でわかりにくいものとなっている。中谷はそれを意識していてこう書いている。
 
 「こういうことをいっても、実は言葉の遊戯に過ぎないので、そういうウェイトをつけるとなったら、抽象的なものしかない。美を求める精神力の全精神力対する割合というようなものしか考えられない。」

 つまる所、芸術、作品の客観的評価というのは難しく、それぞれが価値評価を磨いていくか、それとも、小林秀雄のような達人の言う事を一応、信頼していくというのが妥当な線となってくる。「美」「面白さ」の客観的評価というのは中谷宇吉郎の言っている事に尽きていると思う。つまり、全体の多様な評価の平均を重んじるか、小林秀雄のような達人の言う事を疑いつつも、尊重して聞いていくか。どっちにせよ、この二つの価値基準、質と量を駆使してこれからもやっていく他ないように思う。ベストセラー作家が一時、平均点を高めても、「時」という要素が加算されると彼らの点数はどんどん減っていく。作品は評価というものと闘わなければならないのであって、作品は評価に屈従するものではない。また、評価者の方でも、自分の評価基準を磨いていくのが、妥当な努力という事になるだろう。

『面白い』という事について

 
 

 『小説家になろう』に「書籍化作家に聞いてみた。面白いものを書くための15の質問+1」というエッセイがあって、色々な「プロ作家」がどうやって面白いものを書くかという問いについて答えている。これを題材に、「面白い」という事について自分の意見を言ってみる事にする。

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 こうした事柄ーーつまり、「どうやったらプロのように面白いものを書けるのか?」という問いに対して、まず疑問なのは「プロ」と「アマチュア」を整然と区別するという事にある。正直、十把一からげに見えるライトノベルの世界で「プロ」と「アマチュア」の区別はさほどつかないのではないか。「涼宮ハルヒの消失」くらいの作品であれば他作品との差も見えてくるだろうが、「プロ」の作品と「アマチュア」の作品の区別を決定的なものを前提として、「ではどうすればいいものを書けるか、プロに聞いてみよう」という趣旨自体が僕には曖昧なものに見える。

 こうした「プロ」は「アマチュア」とは違う、みたいな意見は確かにわかりやすいし、「おおっ、さすがプロ」みたいな声も聞かれるが、僕は眉唾ものだと感じている。「プロ」と「アマチュア」の差はそもそも何に由来するのか。本当に作品内容の差なのか、それとも単に金銭を出版社から振り込まれているか否かという差なのかという、差異そのものがあやふやに見える。

 もちろん、こういう意見はこれまで無数にあったしこれからもあるだろう。では何故こうした意見はあるのか。それは僕達が単に「プロ」になりたいからなのだろう。つまり、「プロの書く水準のものを書きたい」という欲望と「プロの作家になって印税生活を送りたい」という願望が知らずに一緒になっている。仮に「プロの水準」があるとして、その「水準」に到達すればそのまま「プロ」になれるかは未知であると思う。それが既知だというには、作品を吟味する編集者や読者が極めて正確な批評水準を持っていなければならないが、この水準はぶれている。「プロのレベル」の書き手になる事と、「実際にプロの作家になる」というのは別であると思う。実際、(名前はあげないが)、〈よくこんなのでプロを名乗っているなあ〉という人も結構いる。しかしそうした人達も現に「プロ」という理由で正当化されてしまうだろう。

                          ※

 しかし、問題は他にもある。仮に「プロ」と「アマチュア」の差がそのように整然たる、はっきりした区別であり、「プロになったら勝ち組!」という単純な発想が正しいとしても、今、インタビューに答えているプロ作家は十年後には何人くらい残っているだろうか。仮に一年だけ「プロ」になって最初の一冊だけ出して後はお蔵入り、出版社から見捨てられて読者もつかないライトノベル作家がいるとしたら、その人は「プロ」として「アマチュア」に何か教えるものを持っているのだろうか。持っているのかもしれないが、それだとしたらその人は何故、プロとして成功しなかったのだろう。

 これらの問題は全て、同一の根源を持っている。つまり、僕達「アマチュア」は「プロ」になりたがっているのだから、その為のノウハウを「プロ」に聞いてみよう、という事だ。しかしその「プロ」もいつ「プロ」でなくなるかわからない。三年後には消えているかもしれない。というか、そもそも「プロ」の書くものが「面白い」かどうかもわからない。いや、そもそも「面白い」というものはどういう事なのだろうか。

 上記のエッセイの但し書きにはこうある。

 「面白いものを書いている人と、評価されていない人との違いは何なのか。」

 この短い文章だけで、面白さ=評価という定式ができている事がわかる。これらを簡略化すると

 「プロ=金もらっている=評価されている=面白い」

 だが、そもそもこの式自体が成り立つのかどうか。「小説家になろう」で評価されている作品がAmazonレビューでボロカスに言われている事はよくある。この時点で既に、Amazonレビュアーとなろうレビュアーの間で、評価軸が別れている事が明白だ。もっと具体的に言えば、「なろう作家」はいわゆる、それを好む人達に向かって書いている事によって評価を得ている。つまり、それ専用のグループに向けての「面白さ」であって、普遍的な「面白さ」とは言えないと思う。

 では普遍的な「面白さ」とは何か。日本人に受けているものが海外に受けるとは限らないし、その逆もある。ある文化圏、ある時代圏で有効だったものが別の時代、地域に来ると拒まれるという事はよくある。だとしたら、どのレベルからが「面白い」と言えるのか。
 
 僕の書いたものを僕の友人一人が絶賛したとしても、それは「面白い作品」とは通常言わない。では、この絶賛者の数をどれぐらい増やしたら「面白い作品」に到達するのか。…もちろん、こんな事をどこかで決定する事はできない。人によって数はマチマチだろうし、絶賛している人間だって、後で駄作だったと気がつくかもしれない。

 しかし、歴史に古典というものがあって、それが時間・文化を越え続けてきている以上、「面白さ」というものがあると想定するのは許されるだろう。ただこの場合でも「面白さ」というのは何かというのはそれだけでも大問題になってしまう。それに、「面白い」からすぐに評価されるかもよくわからない。

 さて、ここまでネチネチと難癖をつけてきたのだが、そもそもの問題は「プロ」と「アマチュア」を過剰に区別化し、「金もらっているプロ」VS「金もらっていないアマチュア」を「プロレベルの作品」VS「アマチュアレベルの作品」という風に一緒くたにしている事にある。純文学にも編集者とのコネでデビューした人物がいるが、そうした人物が本当に高い水準にあるのかは作品を吟味しなければわからない。金をもらっているプロだからといって、作品も高い水準にあるかどうかはわからない。

 だが、繰り返し繰り返し、純文学であろうとライトノベルであろうと哲学であろうと、この問題が提出されるのは、「プロ」にとっては自分達を高位につけ、「アマチュアとは違う」という差別化を計った方が優越感も持てるし色々都合が良いという事があるのだろう。また「アマチュア」からすれば、「いかにしてプロになって印税生活ができるか」という夢への道筋が見えるためだろうと思う。つまり、自分とは違う「プロ」に話を聞いてノウハウを聞いてそれを実行すれば「プロ」になれるという明確な道筋を持つ事ができるためだ。果たして、そうしたノウハウが本当に目標達成のための道筋として正しいかどうかはわかっていない。また、仮に達成したとしてもすぐにまたアマチュアに戻るかもしれない。読者はすぐに自分の作品など忘れていくかもしれない。そういう事は考えられていない。

 ここまで書いた事を総計すれば、そもそも「面白い」という事自体がそれほど簡単ではないという問題がある。また、プロとアマチュアは本当にそんなに画然たる差があるかという疑問がある。

 今の世の中を見渡すと、「評価」というのは簡単に思われている節がある。AKBのランキングに始まり、ポイント、視聴者数、コメント数、売上、いいね!の数…という風に、結局の所、数的評価が主勢となっている。僕は評価というのはそもそも難しい事だと思っている。

 「文芸評論家」という職業が(今は機能していないが)そもそも何故あるかと言うと、「文芸」は評価する事自体がそれほど簡単ではないから、あるいは「良い」と感じても何が良いのか、簡単には言えないからだ、と思う。他人を褒めるのは難しい。それは、本質的に自分が良いと思うという感性を磨く事でもある。視聴者は自分の感性を磨こうとは考えない。自分の好みのままに従って他人に評価を下す。そこで、これらの人に気に入られるようなものが高評価という事になるが、評価軸自体を成長させる事、それを促す事も「プロ」の仕事ではないかと思う。

 「プロ」と「アマチュア」の違いは、金をもらっているかどうかの差が、いつの間にか作品内容の差に還元されている事に問題がある。あるいはこれらの問題は全てフラットであって、プロとアマチュアは整然と違うと考えても良い。どっちにしろ今の世の中では「売れてる」「売れてない」が問題になってくる。この時、「売れる」ものがいいという評価はどこから出てくるか。多くの人の評価を受ける事が無条件に良いと判断する作家視点は、多くの人が好むものを作るためのノウハウに収斂されていく。それ自体は決してつまらないものではない。だが、それはあくまでエンタメ的な「面白さ」であって、普遍的な「面白さ」ではないと思う。

 過去には人気作家だったが今では全く読まれていなかったり、生前売れてなかったメルヴィルの「白鯨」が今は簡単に書店で手に入る。こうした事態一つでも「面白い」という事自体に様々な基準・水準が入り乱れているのが分かる。だからこそ、それぞれがそれぞれの水準を吟味したり、問題にしたり、話し合ったりする事が意味のあるものになる。これを多勢の評価に一元化する事は何を意味するのか。政治家が大衆におもねるタイプになり、作家・芸術家が大衆におもねるタイプになり、タレントが大衆におもねるタイプになり、何の芯もなく、自分というもののかけらもないものになっていく。こういう傾向性が正しいとすれば、それは何を基準に正しいというのか。それを判断するもうひとつの基準はもう存在しない。僕達はただそんな社会にいて、そういう存在だから、そう思っているに過ぎない。
 
 このような時代にあってプロになろうと目指すのはどういう事だろう。もちろん、それ自体、間違っている事でも正しい事でもない。しかし、最終的にはプロかどうかというよりは、世の中を信頼するかどうかという一点にかかってくるように思われる。評価者は瞬間的には間違った判断を下すかもしれないが、最終的には彼らは、良いものを良いと言うであろう。その時、瞬間風速的に面白いものは消え去るかもしれないが、真に面白いものは残るだろう。僕達にとって本当に「面白い」という言葉が価値を持つのは、そんな時のように思われる。数学者ガロアが死の前に、自分の理論がやがて認証される事に何の疑いも持たなかったように、僕らも価値を生み出す事ができれば、信念を持つ事も許されるだろう。

「走れメロス」のラストを考える

  


 太宰治の「走れメロス」のラストは次のようになっている。


「万歳、王様万歳。」
 ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 勇者は、ひどく赤面した。


 走れメロスは、主人公のメロスが親友の為に走る、よくできた友情物語であり、太宰治の作品としては非常な成功作となっている。

 一応、説明しておくと、暴君の王様がいて、これは人間不信の為、多くの人を殺している。メロスは王に反逆し、人を疑うのは恥ずかしい事だと反論する。暴君の王はメロスを処刑する事にするが、メロスは妹の結婚式があるので三日の猶予が欲しいと言う。三日経ったら帰ってくる、帰ってこなければ親友のセリヌンティウスを処刑にしていいと取引を持ちかける。王は人間を信じていないので、メロスがそのまま逃げると考える。メロスは三日の猶予の間に妹の結婚式に出て、そこからなんとか帰ってくる。メロスは一度、友への裏切りを考えるが、乗り越え、必死の思いで刑場に戻ってくる。帰ってきたメロスは、友を信じて待っていたセリヌンティウスと抱き合い、友情と信頼の真実を見た暴君は改心する。最後には「万歳、王様万歳」。

 さて、走れメロスを通読した人は、「万歳、王様万歳」の後の「ひとりの少女が緋のマントを~」以下は明らかな蛇足だという事を苦もなく納得するだろう。この話は構成的には「万歳、王様万歳」で終わっている。メロス、セリヌンティウス、王の三者の関係はここで綺麗に閉じている。懐疑は信仰によって乗り越えられ、話はうまくまとまっている。

 それでは、何故、太宰は「ひとりの少女が~」のラストを付け足したのだろうか。明らかな余計物をどうして太宰はつけたのだろうか。これは作家的問題としては非常に重要な事と僕は捉える。

 元々、太宰の作品というのは独特なオチがついている。このオチは、太宰と他の作家を分ける指標にもなるので、かなり重大だと思う。例えば、「乞食学生」という作品では、作家と貧乏学生とのやり取りが書かれるが、これは夢オチで終わる。「トカトントン」では、ラストには作家の側からの説教が出てきて、作品をぶち壊してしまう。しかし、このぶち壊し、作品そのものを壊していく、という意識がなければ、太宰らしくないとも言える。「人間失格」のラストでも、主人公は「神様みたいないい子でした」という言葉で相対化される。それまで主人公が積み上げた『負』の概念は最後にはひっくり返される。

 このひっくり返し、ぶち壊しというものが何故、存在するのか。僕は自分が拙い小説家ーーアマチュアのーーなので、太宰が何故、感覚的にそう書いたのか、書かざるを得なかったのかはうっすらわかると思う。だが、これを論理的に言葉に説明するのはかなり難しい。

 簡単に言うと、完璧な作品、綺麗に整序された、構成的に完全にまとまった作品があるとして、それは人は褒めるだろうし、作者も満足するだろうが、しかし、そこには何かが「欠けている」という感覚というものが発生してしまう。始めがあり、真ん中があり、終りがある。そのような綺麗な起承転結だけでは収まりきらない何かがある、そのはみ出した感覚というものが、太宰のような作家には常にあって、それがあのように独特なオチをつけなければ気が済まないのだと思う。

 「走れメロス」のラストは少女が羞恥心から、マントを差し出す事になっている。少女の羞恥心、はにかみというのは、現実生活では非常に些細な、小さな感情である。

 「万歳、王様万歳」という声は、人々の結論であり、幸福な最後であり、終焉である。この声が響いた時、生活はいわば「ホサナ」(神を祝福する声)に包まれる事になる。懐疑は終わり、友情が勝利した。我々は幸福である。が、そこには何か、小さな感情が欠けている。少女の含羞というのは生活の中では些細な事で、本来、実生活では「万歳、王様万歳」の声にかき消されてしまうものだ。が、この声を忘れては何か大切なものが欠けてしまう。友情と信頼の物語、それ自体は素晴らしい。メロスが内心に葛藤するものを抱えていた時、彼は、少女と同じように、自分の内面という、大きな世界から比べると些細なものを手にしていた。だが、それが「万歳」の答えで終末に辿り着く時、個人の内面というごく小さなものは、世界という大きなものに一致してしまう。人間の内面は、それが成就する事によって、それとは別のものになってしまう。その時、もう一度、些細な心理的葛藤というのは戻ってこなければならない。単に、友情と信頼の物語だけではない。人間の些細な感情は「万歳」の声にかき消されるものであってはならない。それだけでは、何かが欠けてしまう。

 僕が最も好きな太宰の作品に「鷗(かもめ)」という短編がある。これは戦争という大きな現実、制度的な変化の中で、作家が果たして自分の自意識を保持すべきかどうか、悩む話だ。


 「私は、やはり病人なのであろうか。私は、間違っているのであろうか。私は、小説というものを、思いちがいしているのかも知れない。よいしょ、と小さい声で言ってみて、路のまんなかの水たまりを飛び越す。水たまりには秋の青空が写って、白い雲がゆるやかに流れている。水たまり、きれいだなあと思う。ほっと重荷がおりて笑いたくなり、この小さい水たまりの在るうちは、私の芸術も拠よりどころが在る。この水たまりを忘れずに置こう。」


 もちろん、このように「水たまりを忘れずに置く」というのはあまりに些細な感情、つまらない自意識に過ぎない。何故、そんな事が言えてしまうか。太宰が痛感していたのは、戦争という大きな現実であり、同胞が自分の命をかけて戦っているという現実だ。同じ仲間が命を懸けて戦っているのに、自分は「文学」などというくだらないもの、「水たまりを忘れずに置く」という小さな感情を大事にしている。それは果たして正しい事なのか。ここに太宰の苦悩があった。

 戦争のような巨大な出来事が個人に訪れると、人間の小さな内面性、含羞などはもはや問題とならなくなってしまう。確かに、それは小さくくだらない事に違いない。だが、この小ささを失ってしまえば、全てを失ってしまうのではないか。芸術の真の闘いはここにあるのではないかと思う。芸術を功利的に、社会的にのみ測定する人々は、彼らが何を踏み潰したのかは見えないに違いない。

 太宰治という作家は常に、こうした小さな感情を大事にした人だった。「太宰治は暗い」と紋切り型に言う人は太宰の真の姿を見ていないと思う。太宰治は気質的に暗かったのではない。彼は暗い事に自覚的であったので、言い換えれば、それは思想としての暗さで、「右大臣実朝」の言葉にはっきりと現れている。

 「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」

 「走れメロス」のラストが何故ああなっているのか。このようにして、太宰には常に、「小さいものを大切にする感覚」というのがあった。世界は、理想によっても、破滅によっても終わらない。終わった所に始まりがあり、始まった所に終りがある。太宰の作では最も暗い「人間失格」は、主人公が「神様みたいないい子」と評価される事で終わっている。このようにして最も暗いものは、別の視点を通すと明るいのだ、という複雑な光学が太宰にはあった。そこで太宰は作品を重層化していたとも言える。

 「走れメロス」のラストにも太宰の特色は現れている。太宰は物語を、最初から最後まで整序されたものとして作るのを好まない。「万歳、王様万歳」で終わってはならないと感じている精神があって、それがああした蛇足を生む。世界は単純に成り立っていない。世界は、ある種の破滅とか、幸福とかに一元化できるものではないが、それを一元化しないと、物語に終端はない。したがって、物語に終端をつけながらも持続していくものを示す事ができるか、というのが問題となる。

 夏目漱石の「道草」「門」はどちらも同じような終わり方をしている。どちらも、問題は解決するのだがそれと同時に、決して問題は解決し切るものではない事が示されている。太宰と漱石ではだいぶ違うが、これは人生に対する態度の類似から来た相似と考えたい。

 作品には構成があり、物語が必要とされ、必要な形式を持って整えられる。作品の完璧性のみを考えるなら、蛇足はいらない。が、作品の外にも続いていく世界が太宰には常に感じられていた。「乞食学生」が夢オチに終わるのは、作者が生み出した貧乏学生の像に対して、作者自身がどこかで嘘くさいものを感じていたからこそあんな終わりになったと僕は見ている。あるいは、貧乏学生と作家との交流がうまく行き過ぎたもの、理想的すぎるものになったからこそ、オチはその逆のものが必要とされた。太宰は常に、物語を描きつつも、それを相対化する視点を付け加える事を忘れなかった。そうした太宰の特性が「走れメロス」の最後をあのようなものにしたのだと思う。作品は終わるが、終わらない何かがある。ではそれを作品に取り込めるかーーこの懐疑が、あのような蛇足を生んだ。僕はそう考える。

小林秀雄がベルグソン論を中断した理由




 小林秀雄には『感想』というベルグソン論があるが、小林はこれを中断し、出版する事も拒んだ。小林秀雄はどうしてベルグソン論を中断したのか。その理由について考える事にしたい。

 小林秀雄自身の言葉を最初に引くと、『失敗しました。無学をのりきれなかった』とあるが、小林秀雄を知っている人は、小林秀雄が『無学』とは夢にも思わないだろう。僕は小林秀雄は嘘を言っているわけではないし、正直に自分自身について語っていると思う。

 実際、小林のベルグソン論に目を通すと、そこに『失敗』のようなものはほとんど見えない。文章のクオリティは非常に高く、色々な側面から論じる事ができる質の高い文章だ。質の高いものだからこそ、小林が出版を禁じた後でも、他の批評家らによって連綿と論じられてきたのだろう。

 さて、ここまでは前置きなので、以下から自分の考えを書いていく事にする。

 小林秀雄が何故、ベルグソン論を途中でやめたのか。答えは単純で、僕は、小林秀雄はあくまでも文学者であって、哲学者でなかったためだと結論する。逆に、ベルグソンという人はいかに文学に理解があり、文学者的素養があっても、やはり哲学者だった。その齟齬がベルグソン論を破綻させたのだと僕は見る。

 小林秀雄のベルグソン論を読むと、どこを取っても金太郎飴のように同じ表情が浮かんでいる。小林秀雄が学者的にベルグソンを論じていない事は明らかだ。彼はベルグソンについて論じようとしているよりは、むしろ、ベルグソンについて語り、彼と一致しようとしているように見える。小林のベルグソン論は通常の論ではない。作者の見解を記すというより、作者とベルグソンが一致する部位を綴っていくように見える。

 小林秀雄という人は、源実朝や西行を論じていて、それはうまくいっている。だが、同じようにはベルグソンを論じる事はできなかった。小林秀雄の評論に通暁している人なら、小林秀雄の方法論はよく知っているはずだ。小林秀雄は西行にも実朝に、一つの『詩魂』を見る。小林秀雄は、ランボーを見ても、実朝を見ても、西行を見ても、最終的にはそれを自分の魂の側面と一致させて論じる。つまる所、小林秀雄文学の最終的な論拠は「小林秀雄」という生きた一人の人間である。「小林秀雄」というのっぴきならない存在が、他者の中に自己自身の姿を見つけ出す時、小林秀雄の批評は成立する。だから、中世の詩人でも近代の詩人でも、同じように小林秀雄には作用する。むしろ、それらの差異を純粋な『詩魂』に統一するのが小林秀雄の特異な批評と言った方がいいのだろう。

 さて、この場合、小林秀雄の取っている方法は極めてオーソドックスなものに思える。オーソドックスというのは、文学者としてオーソドックスという意味だ。小林秀雄は、小林秀雄というフィジカルな、自分という存在に最終的な根拠を求める。逆に、これから離れて何かを論じる事は小林秀雄にはできなかったし、それをすると、おそらく何かが欠けている印象を持った事だろう。

 一方で、哲学者は文学者とは違う。哲学自体、非常に広範なものなので、簡単に一括できないが、僕の方で一括すると、哲学者は『概念』を提出する。「物自体」「絶対精神」「持続」「意志」などなど…。哲学者は、自分の生み出した概念で世界を括ろうとする傾向性を持つ。それらの方法を、読者である僕達が妥当であると感じたり、感動したりと言った事で、哲学者の権威は作られていく。

 この時、哲学者は基本的には、自分という存在を根拠にしない。例え、『自分』という存在を概念として提出する哲学者がいたとしても、それは哲学者固有の、つまり一回限りの人生を送っている、生きた哲学者の像ではない。ここにはややこしいので丁寧に説明する。

 例えば、僕が哲学者であって、『私』こそが、世界を統一する概念だという哲学書を書いたとする。その時、そこで使われる『私』というのは「ヤマダヒフミ」の事ではない。では、その『私』とは何か。それは今、これを読んでいる『あなた』が自分のことを『私』と考える事が可能であるような『私』である。つまり、一般化された『私』こそが世界を統一する概念であり、「ヤマダヒフミ」が死んでしまえば消えてしまう『私』ではない。

 小林秀雄はベルグソンについて語る時よく、「直観から分析に至る道はあるが、分析から直観に至る道はない」と言う。これは確かな事だが、ベルグソンの語る「直観」はベルグソン自身の直観ではない。あくまでも哲学概念としての「直観」のはずだ。(ベルグソンについては詳しくないので小林秀雄の方からしか僕は見ていないが) 一方、小林秀雄がそう言う時はいつでも、「小林秀雄」という人物が感じられている。そうでなければ、小林秀雄の文章は成り立たないようになっている。

 小林秀雄は客観的に見えるような評論から、「Xへの手紙」というような告白文に連続して移っていく事ができた人物だ。「Xへの手紙」はもう少しずらせば、すぐに小説になる。このように、小林秀雄には常に、告白する自己自身がはっきりと感じられており、その為に、僕達は小林秀雄の批評を読むと、論じられている対象を見ているというよりは、小林秀雄の輪舞を目撃しているような気分を味わうのだ。

 一方で、ベルグソンはあくまでも哲学者だ。だから、彼の提出する概念は、もちろん彼の個性を帯びているが、彼そのものではない。彼の概念は、彼にとって外物として作用する。外物として現れた概念が世界全体を覆うのであって、ベルグソンという自我が世界を覆うわけではない。

 しかし、小林秀雄はベルグソンを論じる時でも、やはり文学者と同じように論じてしまう。そこに齟齬が発生する。小林秀雄は、ベルグソンの哲学を小林秀雄という個性に帰着させようとするが、その方法論はうまくいかない。簡単に言えば片方は哲学であり、片方は文学だからだ。

 小林秀雄のランボー論は、ランボーという無類の魂に、こちらもまた無類の魂という事で、静かに入り込んでいく。小林秀雄はランボーを宿命のように感じた。宿命のように感じた、とはどういう意味だろうか。それは他者が他者ではなく、もはや己自身として感じられるという意味だろう。小林秀雄はドストエフスキーについて論じるにも、作品全体というよりは、むしろラスコーリニコフやイワンという一個の人物に共感し、一致していく。ラスコーリニコフの孤独な姿は己自身、いや、現代人みんなの姿である。アルチュール・ランボーの姿もまたそうだ。この評論に僕らは共感する事ができる。そこでは、生きた一人の人間に焦点が合わさっているが、そこからは決して出ない。

 ここを小林秀雄の限界と見るのは簡単だ。だが、本当は話はそんなに簡単ではない。ただーーここで、この場所に小林秀雄が頑強にとどまり続けたからこそ、小林はベルグソン論を途中で放棄したのだ、と考えたい。哲学者が概念を提出し、それによって個的な存在は一般化され、その為に、哲学は芸術よりも科学に一歩近づく。が、それにより失われるものもあるかもしれない。小林秀雄が頑強に自分の元にとどまり続けたのは、小林秀雄が徹頭徹尾、文学者であったからだ。僕はそのように考える。だからこそ、小林秀雄はベルグソン論を失敗した。結論としては簡単だが、小林秀雄は文学者であり、ベルグソンは哲学者だった。ベルグソンを実朝や西行と同じように扱おうとしても無理があるという事を小林秀雄は身を持って実感したのだと思う。小林秀雄が『無学』であったり、理解が足りなかったのではなく、そういう方法論の相違が問題となったと思う。

神聖かまってちゃん 『自分らしく』

 





 神聖かまってちゃんの楽曲に『自分らしく』という曲がある。僕が一番好きな曲だ。

 「自分らしく」という言葉はもはや、陳腐で手垢のついたものとなってしまった。誰しも、もう何が自分なのかはっきりと見えてはいない。その中でも「自分らしく」という言葉は未だに、あるタイプの符牒として通用するように見える。

 「自分らしく」生きたい。人はそう願いながら、知らず知らず他人の価値観を紛れ込ませている。ユーチューバーが、ニベアクリームを大量に風呂に入れて、浸かる様子を動画にアップする事。こうした事を「したい事をして稼ぐ」「やりたい事をやっている」などとは僕は思わない。ユーチューバーはきっと、カメラのない所ではそんな事はしないだろう。僕らの目がカメラと、動画を見る画面と一致し、その事に気づかない。「自分らしく」生きようとして、他人らしく生きる事に終始する。金を得たいと思う事は、僕達の根っこに兆した欲求であるような気がするが、金で得られるものは市場に出回っているものに限られる。そこでは非常に多様な選択肢があるが、その選択肢は全て他人の用意したものだという事実は変わらない。僕らは他人の生産物で自分を活気づける事ができると信じている。その傾向から、「自分らしく」とは、最初に紛れ込ませた「他人」に対して見て見ぬふりをするという態度に収斂していく。

 神聖かまってちゃん「自分らしく」という曲は、具体的に何が「自分らしく」なのか、はっきりとは明示されていない。むしろ、そこで示されているのは『自分らしく生きたい』『素直に歌いたい』という事が、曲として示される事こそが、「自分らしく生きる事だ」という二重の構造だ。「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲でも同じ構造が見えるが、ここでは歌われる内容と、歌う方法論とが一致している。

 例えば、浜崎あゆみや西野カナが、楽曲で歌っているような恋愛を実際にしているとは思わない。もちろん、実際とフィクションが一致しなければならないなんて事はないが、彼らは「絵空事」を歌っている。「絵空事」の恋愛が大衆の心を掴み、現実を如実に描いたものはむしろ不人気だ。何故そんな構造があるかは興味深いが、ここでは触れない。浜崎あゆみや西野カナの歌う恋愛は、彼らの事実としての存在から遊離して歌われている。言い換えれば、彼らは「お仕事」として歌を歌っている。彼らはプロフェッショナルなので、もちろんそれでも十分評価できるが、諸手を挙げて褒めるわけにはいかないと感じる。

 「自分らしく」生きたい、と神聖かまってちゃん・ボーカルの『の子』が歌う時、それはのっぴきならない一つの生を語っている。「自分らしく」生きたい、「素直に歌いたい」との子が現に歌う時、彼の背後に強力に感じられているのは、そもそも僕達がどうあがいても『自分らしく生きる事はできない』『素直に歌う事ができない』という事実だ。僕らを強引に、強力に押さえ込む世界の論理が、僕達を世界の底に沈めて離さない。が、この拘束が強ければ強いほど、これに対する反作用も強烈な力を持つ。一番自由な人間は、誰よりも強力な拘束を感じている。世界の重荷を背負っている人間だけが、それと闘う事によって自由となれる。

 『自分らしく生きたい』『素直に歌いたい』と歌う事は、むしろ、それとは逆の事を想起させる。「自分らしく」という楽曲の外側では、の子は全然、「自分らしく」ない。生活の論理の中で、人は全く自分らしくもなく、素直でもない。見せかけの素直さを装った所で無駄だ。だが、それに抵抗する歌が響く時、ようやく僕らは「自分らしく」なる。自分がこれっぽっちも自分らしく生きていないと痛切に感じ、それへの抵抗が表現となる時、ようやく「自分らしさ」がほんの一瞬だけ、具現化する。山頂の光に似たそれは、周辺を黒い雲で覆われている。

 「自分らしく」生きるという事は現在ではもう不可能なのかもしれない。現実意識、生活の論理は僕達を渦巻いている。宗教は世俗のものとなり、世界は平坦化した。この時、「自分らしく生きる」と言いつつ、皆に気に入られる価値観に静かに自分を滑り込ませていくというのは容易だ。僕らは失ったものの大きさに気づかない。気づく事ができない世界の中にいる。が、そうした世界だからこそ、響く歌もあるだろう。「自分らしく」という手垢に塗れた言葉は、の子の、あらっぽくも見える楽曲によって蘇生した。「自分らしく生きる」とは「自分らしく生きる事を追求する事」にほかならない。それが現になんであるかよりも、その意志の客体化の方が遥かに重要だ。神聖かまってちゃん「自分らしく」とはそんな曲に思える。個人的には、一番好きな楽曲だ。

批評の先について  

 
 
 
 もうそろそろ批評はやめようかと思っている。批評という形で言いたい事を言うのができなくなってきている。その代わり小説の方が軌道に乗ってきたと感じているのでそちらに移行していこうと思っている。

 「言いたい事を言う」「自分の中にあるものを表現する」という事は簡単なようで難しい事だと常々感じている。僕は批評の最後に「自分はこう考える」「こう思う」という言葉をよく使う。それはある人には独断と見えただろうが、違う意味も入っている。結局の所、現状、自分はこんな風に考えるしかできない、という意味も入っている。己の独断と、それを相対化する目と、両方入っているつもりだが、僕のブログを読んでいる人には独断としか見えないのかもしれない。

 批評は結局は、告白であり、自分の思考、思想の吐露である。それはなんだってそうだ、と言う事もできるが、しかし、単に思想表白では物足りなくなってくる所に別の表現が生まれる。

 ミハイル・バフチンの理論を辿っていくと、「小説」というのはそういうものではないかと思う。小説は作者の声が屈折している。声は、プリズムに当たった光のように分散し、屈折して、一つの世界を作り出す。作者の声は絶対的な声ではなく、作品それ自体が作者の声である。では、作者はどうしてそんな面倒な事をしなければならないのか。

 これに関しては非常に難しい問題と感じている。作者の世界に対する言明が素直に価値があると信じられ、それに大きな意味があれば、小説という面倒な問題は作る必要がなくなる。

 色々な見方があるが、僕はヘーゲルの言う『外化』が妥当だと思っている。ある種の言明、告白、説教といったものは、作者から読者への一本の線である。そこでは読者は作者の意見に従うか従わないか、少なくとも、それを吟味する事が求められる。しかし、『作品』は作者と読者の中間に浮かんでいる。『作品』は説教ではなく、あくまでもそれ自体を目的として存在している。

 小林秀雄は真の作家というのは、自己廃棄をした事があるーーそんな風な事を言っていたが、その理由もここで明確となる。作品は作者を殺しもする。作品は作者を押し上げる道具というより、むしろ、作者から独立して運動する何かである。だとすると、作者はどうしてそんなものを作らねばならないのか。『作品』という世界が生まれるには作者が一度死ぬ必要がある。自己の廃棄の経験が、作品という独立世界を要請する。自らに屍を感じた人間が、作品という生を再び生む。

 そのようにして、作品は、それを作った作者を越えていく。作品は単なる道具であり、作者である『私』がのし上がるための素材に過ぎない。こうした考えを持っているのであれば、その人はやがて、作品を作るのをやめるだろう。彼に必要なのは「作品」ではなく、「私」であるからだ。が、「私」が終わった後に「作品」はある。

 こういう考えはおそらく、芸術至上主義と取られる事だろうと思う。本当はそんなふうなものではないと思っているが、ここで説明するスペースはない。これからは、批評はあまりやらなくなるのかもしれない。「私」(ヤマダヒフミ)が何かを言い、それを「読者」(これを読んでいる人)がどう受け取るのか、その形式とやり取りそのものが作品内に形として入ってこなければならない。小説というジャンルは充分そういう度量があるし、そういうものを活用していきたい。そんな風に思っている。
 
 …ちなみに、この文章自体も当然、批評的な文章である。この文章もやはり、『ヤマダヒフミ』という別になくてもいいはずの作者名が入っている。こうした名前を越えていく事がこれからの課題となるだろう。

 思想家として見る伊藤計劃


 伊藤計劃という作家を一人の思想家として見ると、どんな風に見えるだろうか。僕は彼を「十五分の映画プレビューの世界」を規定した人間として考えたい。

 「十五分の映画プレビュー」とは、『虐殺器官』で象徴的に用いられる語彙だ。主人公の殺し屋シェパードは友人と一緒に映画の十五分プレビュー(そこだけ無料だ)を繰り返し見る。二人はドミノ・ピザを注文し、ピザを食べながら映像を見る。それは穏やかな消費社会のひとときであり、先進国である日本でもーーつまり、我々が普通に享受している毎日の事だ。

 僕は青山七恵という作家を批判する文章を書いたのだが(削除済み)、よしもとばなな以降の『伝統』を彼女は引き継いでいる。ぼんやりした日常の肯定、彼氏がいて、恋をして、美味しいものを食べれば幸せになる世界。しかし、その世界の外側はどうなっているのかとは考えない。考えない所に、僕達の幸福があると言っても良い。

 世界に対する全き肯定。水の中に溶けた水のように、日常を生きていく事。深淵は回避され、悲劇はよそに置いてある。あるいは仮に悲劇があるとしても、それはスクリーンの中でだけ起きれば済む話だ。青山七恵とは逆に、深刻な物語を作る作家もまた、深刻さそのものに対してはどこかよそよそしい。彼は題材として悲劇をよそから取り寄せているだけであり、彼が本当に身を入れて描きたいものではない。我々は正常な人間であり、幸福であろうと願い、市民社会において成功しようと望んでいる。その過程に悲劇や深淵が使えるならば使えるだけの話であり、消費社会においては人間の深刻さもまた、傍観者である僕達によって消費される。物語は、フィクションは、僕達を愉しませるためにあればそれでいい。そして僕達は密かに、自分を正常と思いなし、自分だけは幸福でありたいと望んでいる。

 もちろん、それは悪い事ではない。しかし、この論理を伝って、密かに世界の外側に害毒を流してはいないか。自分達の幸福のために、外部の人間が不幸になったって知った事ではないという顔をしていないか。青山七恵の世界には外部はない。知った事ではない、という顔もない。が、その世界では巧妙に外部は排除されている。僕達の食卓に出てくるもののために、どこかの誰かが犠牲になっていたとしても、そんなニュースは知りたくはない。僕達はただ生きたいのだ。「虐殺器官」において、虐殺を引き起こしてきたジョン・ポールは次のように語る。

 「人々は見たいものしか見ない。世界がどういう悲惨に覆われているか、気にもしない。見れば自分が無力感に襲われるだけだし、あるいは本当に無力な人間が、自分は無力だと居直って怠惰の言い訳をするだけだ。だが、それでもそこはわたしが育った世界だ。スターバックスに行き、アマゾンで買い物をし、見たいものだけを見て暮らす。わたしはそんな堕落した世界を愛しているし、そこに生きる人々を大切に思う」

 ジョン・ポールが虐殺を引き起こす理由は以下の様なものだ。

  自分たちの貧しさが、自分たちの悲惨さが、ぼくらの自由によってもたらされていることに気がつきそうな国を見つけ出す。
  そして、そこに虐殺の文法を描く。
  国内で内戦がはじまれば、怒りを外に向けている余裕はなくなる。国内で虐殺がはじまれば、外の人々を殺している余裕は消し飛ぶ。外へ漏れそうだった怒りを、その内側に閉じこめる。

 ジョン・ポールが守ろうとしている世界は僕達の世界だ。スターバックス・ドミノピザ・アマゾンが支配する世界。僕らの領域では名前は入れ替わり、セブン-イレブンかもしれないし、ユニクロであり、深夜アニメの再放送かもしれない。この世界を巡って、争いが行われている。世界の外側を認識する事は辛い事で、これから目を背ける方が遥かに楽だ。また、この世界が今のように(長い不景気で)凋落しかかっている時、責任を誰か別の人間に押し付ける方が楽だ。アマゾンとスターバックスの世界が崩落してきた時、内部に間違った人間がいると信じて、その人達に責任を押し付ける。同時に、この世界を維持するために、外側の人間がいかに犠牲になっても気にかけない。

 消費社会が許した市民的な、微温的な世界。家族との団欒、恋人との仲睦まじさ、友人との祝杯。それぞれに互いの事を気遣う、温かい、正常な人間関係。自分達は幸福であるという実感。が、その背後には果たして何があるのか。もちろん、こう考えて、自ら私財を投げ打って、ボランティア活動に勤しんでも、問題は多分、解決しない。(トルストイは実際そうした) 問題は僕達の無知にある。この無知は意図されたものである時、悪意となる。僕達は自分が何であるか、とは問わない。ただ、僕達は幸福であろうとする。

 「虐殺器官」の主人公も、「ハーモニー」の主人公も、どちらも独特な一人称で語られる。これらの主人公は大きなシステムの分水嶺に位置していて、システムの欺瞞を感じつつも、そこから抜け出る事はできない。多分、ここから抜け出て、人は生きる事はできない。先進国が駄目なら後進国へ、とはならない。後進国が富み、先進国が貧しくなっても、問題の所在が入れ替わるだけで、問題そのものは解決しない。

 システムの境界すれすれに位置しつつ、そこでの葛藤を演じるというのは、「ライ麦畑につかまえて」を想起させる。「ライ麦」のホールデン・コールフィールドもまた、富裕なアメリカ社会の境界に位置している。彼はそこから出ようとするが、出られない事を知っている。彼は境界を行ったり来たりして、最後には元に返ってくる。

 伊藤計劃はこれらの問題を解決しはしなかった。多分、この問題を個人レベル、つまり小説というレベルで解決する事は不可能だろう。しかし、既存の社会、生活の中に位置しつつ、そこから抜け出ようともがく事によって現れる悲劇は、文学の根底と関わった構造であるように思われる。「源氏物語」は宮廷生活の華やかであるが、怠惰で堕落した世界を描いていた。「源氏物語」にとって、登場人物達に用意された出口は『出家』する事しかない。紫式部は当時の生活を肯定しつつ、それがもたらす問題を認識し、その外部に人間が歩いて行く様を描いたように思われる。

 「虐殺器官」の主人公は、自らが虐殺を引き起こす側に方向転換する。「ハーモニー」はもはや、言葉が途切れた後の世界が示される。それでも、伊藤計劃は、システムが整備された世界の先にもまだ、言葉は存在するのだ、という風に描いていた。(Amazonで250円で売っている伊藤計劃論にその解釈は書いておいた)

 伊藤計劃はこれらの問題を解決しはしなかったし、解決する事は実質的に不可能だった。それでも、問題を認識する事としない事では天と地ほどの差がある。村上春樹が全盛期だった時、彼は七十、八十年代の社会風俗に浸りながらも、そこに疑いを抱く主人公を造形してみせた。それはそれで意味があるものだった。村上春樹は時代が自分から離れていくに従って、物語形式の中に孤立するようになった。現代の世界のあり方は変容している。それはスターバックス的、ドミノ・ピザ的であり、それ自体極めて充足した体系である。ここでは、いわゆる「セカイ系」のように、個人と世界とが一対一対応で葛藤する事が妥当なものとして現れてくる。伊藤計劃は「虐殺器官」「ハーモニー」のいずれも、主人公をシステムの中枢に位置するエリートとして設定している。これは、主人公にシステムの内情を語らせ、なおかつ境界を行ったり来たりすることが可能であるための作者の配慮であったように思う。

 思想家として伊藤計劃を見る場合、彼は大きな問題を解決したわけではない。だが、少なくとも、「ドミノ・ピザの普遍性」「映画の十五分プレビューの世界」の外と内とを往復する物語を造形したと言える。この認識は口で言うほど簡単なことではない。なぜなら、似たような事をやろうとしてもすぐに僕達の心の中の、「消費者として物語を消費する」という態度に吸い込まれてしまうからだ。優れた頭脳を持つ哲学者も面白い物語を作る物語作者も、いずれも、大衆の歓心を買う事によって自分を高めようとする存在に転化してしまう。この時、彼は自分が創造しているような気がするが、実は大衆の認知が彼を作り出している。問題はそれらの構造そのものを相対化する事だ。伊藤計劃は、境界線で物語を作った。彼の思想としての意義は、まず、境界をはっきりさせた事に求められる。次に彼はこれを越えようとしたが、言葉は境界を越えた所で途切れた。(「ハーモニー」のラスト) 

 途切れた言葉は歌となり、無人の境をさまよった。彼の言葉は、この空虚な世界にも響いている。伊藤計劃は何よりも、世界の接線を判定しそれを作品内に取り込む事に成功した。「虐殺器官」「ハーモニー」の主人公はいずれも境界を越えようとするがうまくいかない。僕らはこの思想をどう受け取ればいいか。まずは、この世界の有り様をそのように認識する事が可能になったという事を知るべきだと思う。青山七恵、中村文則らの現代的な作家が、自家薬籠中のものとしていた世界内の物語それ自体を相対化する事に、真の物語は存在する。その認知を伊藤計劃という作家は与えてくれた。矮小な僕にとっては、伊藤計劃はそのような物事を教えてくれた存在だった。それが僕にとっての『思想家としての伊藤計劃』の意味になる。

本ブログを見ている少数の読者へ


 ブログのコメント欄を承認制にしました。何度言っても同じ人物が長文の批判コメントを送ってくるのでやむなく変えました。

 場合によってはこの先、コメント欄全面廃止も考えられますが、そんな事はあまりやりたくありません。

 ブログは一対一の通信ではなく他にも見ている人がいるので、配慮してほしかったのですが、駄目でした。

 とりあえず、ブログはいつもどおり続けていこうとは思っています。様子見をしながらやっていこうと思っています。またこのような事がある場合はその時に考えたいと思っています。こんな事は書かずに淡々と更新していきたかったのですが、ここで仕切り直しにしたほうが良さそうだと思ってこの文章書きました。




 本ブログを見ている少数の読者へ

 これからもよろしくお願いします。また相手の存在を配慮した言説をお願いします。僕は自分の考えた事、思った事を発信していますが、それを他人に押し付ける気はありません。それぞれがそれぞれに受け取って自由に、捨てるなり拾うなりして活用していってもらえばよいかと思います。よろしくお願いします。

コメントを承認制にします

もうやめて欲しいと言っているのに何度も同一人物がコメントをしてきたため、コメントを承認制にします。ご了承ください。普通にコメント貰えれば承認する予定です。

批評から創造に至る道

 

 批評とはどういうものだろうか。考えてみよう。

 最近の批評家でよくあるパターンは、批評家のみが知っている特権的な情報をこれみよがしに見せる、というものだ。つまり、「この作品のこの箇所は××という隠された意味がある、それを知っているのは私(批評家)だけ…」というものだ。こうした方式は果たして批評だろうか。

 例えば、作者がたまたま思いついて、「キャラクターXのTシャツには『26』と書いてある」とする。すると批評家は目ざとくこれを見つけて「26」には深遠な意味があって「1926年の〇〇事件を指しているのだ」なんて言う。こんな事は批評だろうか。

 実際に小説を書く立場の人間として言わせてもらえば、作者というのはそんな細かい事は深く考えていない。それにそんな事を深く考えていたとしても、どうだっていいと思う。ほんの一瞬しか現れないTシャツの数字の意味を読み取らなければ作品の意味がわからなくなるのであれば、作品の構成自体がおかしい。作品というのは読者に開かれているべきだと思うし、批評家が特権的な情報を握る場所ではないと思う。

 例えば、シェイクスピアの作品というのは、読者に全面的に開かれている。それはもう一片の隠す所もない。それぞれのキャラクターは自分の真実を最後の最後まで言わなければ気が済まない。僕はシェイクスピアの作品を更に解釈するフロイトのようなやり方が理解できない。シェイクスピアの作品はもう解釈のしようがないくらい明白なもの、つまり真実そのものとしてそこにある。これを更に(裏に回って)解釈する事に僕は反対する。シェイクスピアは世界を白日の下にさらしている。真実を作品という形式で現している。何故またその背後に秘密を探らなくてはならないのか。

 フロイトはまあいいにしても、批評というものが、批評家の特権的地位を表すものではない、という意見は一考の余地があると思う。次に僕の考える批評の定義について言ってみる。

 批評というものが発動する前提は、「作品全体の印象」であると思う。作品全体の印象、作品が読者に与える印象、感覚、これがまず基礎となる。
 
 (印象批評は大雑把であやふやだ、という反論があるのは知っているが反応していると長くなるので先に行く)

 例えば、僕達は映画を見て、本を読んで、ゲームをして、「面白かった」「面白くなった」と言う。そうすると相手は「たしかに、面白かった」とか「いや、面白くなかった」なんて言う。

 この時、僕達が「面白い」「面白くない」という言葉で、つたわっていると信じているものは何だろうか。よく話し合えば、この二人は作品の全く違う要素に面白さ/面白くなさを見ているのかもしれないし、作品を違う角度で見て面白いとか面白くないとか言っているのかもしれない。

 僕らは作品を読んだ後「面白い」「つまらない」ぐらいの簡単な言葉で済ませる。しかし、本当はどう面白かったのか、何が面白かったのか、何がつまらないと思ったのか。友達に話を聞いてみれば分かるが、これを論理的に、誰にも納得できるように話せる人はあまりいない。

 しかし、僕達が論理的に、自分の感じたものを言葉で表せないからといって、僕達が何も感じていないというわけではない。つまり、感覚は確かにあるが、言葉がついてこない。何が良かったのか、もやもやしているがうまくいえないのである。

 こうした時に批評家が必要になる。批評家がこうした人の前に現れ、僕らが作品から受けた無意識的な印象を論理的に、明晰に言葉にする。僕達はそれを読んで、ようやく自分の中に何があったのかを理解する。

 批評というものは、そのように印象から論理を構成する。しかし、この世のあり方の必然性に縛られるので、そこで構成された論理はまた独特のものなってしまう。最も優れた批評は、もはや、作品とは違う形で定立された別の作品に他ならない。小林秀雄はこうした批評を積極的にやった。それはもはや一個の作品と呼ぶべきものだ。

 批評というものは見方を変えていけば、創造そのものの事を意味している。ドストエフスキー「白痴」はセルバンテス「ドン・キホーテ」を批評したものだと言えるが、「白痴」を「ドン・キホーテ」に対する批評とは誰も言わない。だけどそんな見方もできると思う。太宰治には「女の決闘」という作品があって、これは同名の短編小説が先にあって、それに逐一太宰が注釈を入れる事で一つの小説にする、という独特な作品だ。太宰もまた小林秀雄と同じで、批評の延長が創造という事をよく知っていた。

 何故、批評が創造になるのか。Tシャツの姿に『26』があるのを目ざとく見つけるのはどうして創造に至らないのか。その違いは何なのか。

 定式だけ言うと、ある作品が作られる時、作者の方で、情念とか感性、思想、魂とかいった…つまりは不定形のものがあり、それを形式に写し出す事によって作品というものが生まれる。物語という構造は、作者の情念が、物語という形式を通じて語らなければ語りきれない場合にのみ、大きな意味を持つ。それ以外の場合は単に形式的な意味しか持たない。

 さて、こうして作品は僕らの目の前に形を表す。作者は自分の中にあるもやもやした塊を、私達の前に、論理的な、形式ある作品として表現した。我々はそれを見て、今度は自分の中に、もやもやしたものを感じる。おそらく、それは作者の情念、魂の写像形式なのだろう。これをもう一度、表す事ができるだろうか。「面白かった」…では表せられない。「面白かった!」と叫んでもダメだ。そこから、批評が生まれる。自分の中にあるものを、今度は形式を用いて表さなければならない。ここからまた、形式との格闘が生まれる。批評の努力はここにある。そしてこの努力は、作家やクリエイターが行った事を、逆側から昇っていくものだ。

 ここに批評の道があると考えたい。

 批評はそんな風にして現れる、と僕は思う。そして批評は、批評家がどれほど普遍的な批評を目指しても、それが優れた批評であるほど個性的にならざるを得ないという事情がある。というのも、優れた作品は様々な方向に価値を放射しているので、それを批評家はそれぞれの立場で受け取る。ただ唯一の批評、というのは存在しない。批評の多様性、批評の分化した価値が、一つに合成される中に作品の真の価値があると言って良い。しかしどんな良い批評でも、作品の価値のある側面を照らし出すにすぎない。そしてそれこそが、批評している当の作品の価値の高さを示している。

 傑作と呼ばれる作品は、様々な角度から照明を受ける事を許す。様々な党派性を越えて、様々な党派性を許す事に傑作の意味はある。優れた批評はまた、その中かから一つの党派を選び取るように見えるが、そこからまた多様性の中に入りこんでいく。僕達は小林秀雄の批評を、単一の、唯一の絶対無二の理解だとは考えない。それらは作品の読みに対して、多様な可能性を保持する。一つの単一の読みではなく、読み、つまり批評は価値の中心に行くにつれて、いわば『無限の言語』とも言うべきものに近づいていく。

 我々は『無限の言語』を自分の中に包含する事ができる。しかしそれを他者に語る事はできる。その時、我々は単一の、固まった形式で語らざるを得ない。

 だが、そこで語られたものが本当に豊かなものなら、そこからまた、他者の語りが生まれる事だろう。優れた批評はこのように、単一の解釈を許すものではない。そこでは答えがない事が答えであるようなーー無限に続いていく事を許す『テキスト群』だ。この豊かさに飲まれたものはここで死ぬかもしれないが、同時にこの奔流の中で生きもするのである。これに反して、批評家が唯一の絶対的な答えを握っている、そう証する答えは、自分一人の優位性を示すにすぎない。そのテキストは孤立しており、自分の知的優位を誇るだけにすぎない。彼の批評は歴史のさざなみで消えていくだろう。本当の批評は答えがない。そしてそれゆえに豊かなものだ。僕はそう考えたい。