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「走れメロス」のラストを考える

  


 太宰治の「走れメロス」のラストは次のようになっている。


「万歳、王様万歳。」
 ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 勇者は、ひどく赤面した。


 走れメロスは、主人公のメロスが親友の為に走る、よくできた友情物語であり、太宰治の作品としては非常な成功作となっている。

 一応、説明しておくと、暴君の王様がいて、これは人間不信の為、多くの人を殺している。メロスは王に反逆し、人を疑うのは恥ずかしい事だと反論する。暴君の王はメロスを処刑する事にするが、メロスは妹の結婚式があるので三日の猶予が欲しいと言う。三日経ったら帰ってくる、帰ってこなければ親友のセリヌンティウスを処刑にしていいと取引を持ちかける。王は人間を信じていないので、メロスがそのまま逃げると考える。メロスは三日の猶予の間に妹の結婚式に出て、そこからなんとか帰ってくる。メロスは一度、友への裏切りを考えるが、乗り越え、必死の思いで刑場に戻ってくる。帰ってきたメロスは、友を信じて待っていたセリヌンティウスと抱き合い、友情と信頼の真実を見た暴君は改心する。最後には「万歳、王様万歳」。

 さて、走れメロスを通読した人は、「万歳、王様万歳」の後の「ひとりの少女が緋のマントを~」以下は明らかな蛇足だという事を苦もなく納得するだろう。この話は構成的には「万歳、王様万歳」で終わっている。メロス、セリヌンティウス、王の三者の関係はここで綺麗に閉じている。懐疑は信仰によって乗り越えられ、話はうまくまとまっている。

 それでは、何故、太宰は「ひとりの少女が~」のラストを付け足したのだろうか。明らかな余計物をどうして太宰はつけたのだろうか。これは作家的問題としては非常に重要な事と僕は捉える。

 元々、太宰の作品というのは独特なオチがついている。このオチは、太宰と他の作家を分ける指標にもなるので、かなり重大だと思う。例えば、「乞食学生」という作品では、作家と貧乏学生とのやり取りが書かれるが、これは夢オチで終わる。「トカトントン」では、ラストには作家の側からの説教が出てきて、作品をぶち壊してしまう。しかし、このぶち壊し、作品そのものを壊していく、という意識がなければ、太宰らしくないとも言える。「人間失格」のラストでも、主人公は「神様みたいないい子でした」という言葉で相対化される。それまで主人公が積み上げた『負』の概念は最後にはひっくり返される。

 このひっくり返し、ぶち壊しというものが何故、存在するのか。僕は自分が拙い小説家ーーアマチュアのーーなので、太宰が何故、感覚的にそう書いたのか、書かざるを得なかったのかはうっすらわかると思う。だが、これを論理的に言葉に説明するのはかなり難しい。

 簡単に言うと、完璧な作品、綺麗に整序された、構成的に完全にまとまった作品があるとして、それは人は褒めるだろうし、作者も満足するだろうが、しかし、そこには何かが「欠けている」という感覚というものが発生してしまう。始めがあり、真ん中があり、終りがある。そのような綺麗な起承転結だけでは収まりきらない何かがある、そのはみ出した感覚というものが、太宰のような作家には常にあって、それがあのように独特なオチをつけなければ気が済まないのだと思う。

 「走れメロス」のラストは少女が羞恥心から、マントを差し出す事になっている。少女の羞恥心、はにかみというのは、現実生活では非常に些細な、小さな感情である。

 「万歳、王様万歳」という声は、人々の結論であり、幸福な最後であり、終焉である。この声が響いた時、生活はいわば「ホサナ」(神を祝福する声)に包まれる事になる。懐疑は終わり、友情が勝利した。我々は幸福である。が、そこには何か、小さな感情が欠けている。少女の含羞というのは生活の中では些細な事で、本来、実生活では「万歳、王様万歳」の声にかき消されてしまうものだ。が、この声を忘れては何か大切なものが欠けてしまう。友情と信頼の物語、それ自体は素晴らしい。メロスが内心に葛藤するものを抱えていた時、彼は、少女と同じように、自分の内面という、大きな世界から比べると些細なものを手にしていた。だが、それが「万歳」の答えで終末に辿り着く時、個人の内面というごく小さなものは、世界という大きなものに一致してしまう。人間の内面は、それが成就する事によって、それとは別のものになってしまう。その時、もう一度、些細な心理的葛藤というのは戻ってこなければならない。単に、友情と信頼の物語だけではない。人間の些細な感情は「万歳」の声にかき消されるものであってはならない。それだけでは、何かが欠けてしまう。

 僕が最も好きな太宰の作品に「鷗(かもめ)」という短編がある。これは戦争という大きな現実、制度的な変化の中で、作家が果たして自分の自意識を保持すべきかどうか、悩む話だ。


 「私は、やはり病人なのであろうか。私は、間違っているのであろうか。私は、小説というものを、思いちがいしているのかも知れない。よいしょ、と小さい声で言ってみて、路のまんなかの水たまりを飛び越す。水たまりには秋の青空が写って、白い雲がゆるやかに流れている。水たまり、きれいだなあと思う。ほっと重荷がおりて笑いたくなり、この小さい水たまりの在るうちは、私の芸術も拠よりどころが在る。この水たまりを忘れずに置こう。」


 もちろん、このように「水たまりを忘れずに置く」というのはあまりに些細な感情、つまらない自意識に過ぎない。何故、そんな事が言えてしまうか。太宰が痛感していたのは、戦争という大きな現実であり、同胞が自分の命をかけて戦っているという現実だ。同じ仲間が命を懸けて戦っているのに、自分は「文学」などというくだらないもの、「水たまりを忘れずに置く」という小さな感情を大事にしている。それは果たして正しい事なのか。ここに太宰の苦悩があった。

 戦争のような巨大な出来事が個人に訪れると、人間の小さな内面性、含羞などはもはや問題とならなくなってしまう。確かに、それは小さくくだらない事に違いない。だが、この小ささを失ってしまえば、全てを失ってしまうのではないか。芸術の真の闘いはここにあるのではないかと思う。芸術を功利的に、社会的にのみ測定する人々は、彼らが何を踏み潰したのかは見えないに違いない。

 太宰治という作家は常に、こうした小さな感情を大事にした人だった。「太宰治は暗い」と紋切り型に言う人は太宰の真の姿を見ていないと思う。太宰治は気質的に暗かったのではない。彼は暗い事に自覚的であったので、言い換えれば、それは思想としての暗さで、「右大臣実朝」の言葉にはっきりと現れている。

 「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」

 「走れメロス」のラストが何故ああなっているのか。このようにして、太宰には常に、「小さいものを大切にする感覚」というのがあった。世界は、理想によっても、破滅によっても終わらない。終わった所に始まりがあり、始まった所に終りがある。太宰の作では最も暗い「人間失格」は、主人公が「神様みたいないい子」と評価される事で終わっている。このようにして最も暗いものは、別の視点を通すと明るいのだ、という複雑な光学が太宰にはあった。そこで太宰は作品を重層化していたとも言える。

 「走れメロス」のラストにも太宰の特色は現れている。太宰は物語を、最初から最後まで整序されたものとして作るのを好まない。「万歳、王様万歳」で終わってはならないと感じている精神があって、それがああした蛇足を生む。世界は単純に成り立っていない。世界は、ある種の破滅とか、幸福とかに一元化できるものではないが、それを一元化しないと、物語に終端はない。したがって、物語に終端をつけながらも持続していくものを示す事ができるか、というのが問題となる。

 夏目漱石の「道草」「門」はどちらも同じような終わり方をしている。どちらも、問題は解決するのだがそれと同時に、決して問題は解決し切るものではない事が示されている。太宰と漱石ではだいぶ違うが、これは人生に対する態度の類似から来た相似と考えたい。

 作品には構成があり、物語が必要とされ、必要な形式を持って整えられる。作品の完璧性のみを考えるなら、蛇足はいらない。が、作品の外にも続いていく世界が太宰には常に感じられていた。「乞食学生」が夢オチに終わるのは、作者が生み出した貧乏学生の像に対して、作者自身がどこかで嘘くさいものを感じていたからこそあんな終わりになったと僕は見ている。あるいは、貧乏学生と作家との交流がうまく行き過ぎたもの、理想的すぎるものになったからこそ、オチはその逆のものが必要とされた。太宰は常に、物語を描きつつも、それを相対化する視点を付け加える事を忘れなかった。そうした太宰の特性が「走れメロス」の最後をあのようなものにしたのだと思う。作品は終わるが、終わらない何かがある。ではそれを作品に取り込めるかーーこの懐疑が、あのような蛇足を生んだ。僕はそう考える。

小林秀雄がベルグソン論を中断した理由




 小林秀雄には『感想』というベルグソン論があるが、小林はこれを中断し、出版する事も拒んだ。小林秀雄はどうしてベルグソン論を中断したのか。その理由について考える事にしたい。

 小林秀雄自身の言葉を最初に引くと、『失敗しました。無学をのりきれなかった』とあるが、小林秀雄を知っている人は、小林秀雄が『無学』とは夢にも思わないだろう。僕は小林秀雄は嘘を言っているわけではないし、正直に自分自身について語っていると思う。

 実際、小林のベルグソン論に目を通すと、そこに『失敗』のようなものはほとんど見えない。文章のクオリティは非常に高く、色々な側面から論じる事ができる質の高い文章だ。質の高いものだからこそ、小林が出版を禁じた後でも、他の批評家らによって連綿と論じられてきたのだろう。

 さて、ここまでは前置きなので、以下から自分の考えを書いていく事にする。

 小林秀雄が何故、ベルグソン論を途中でやめたのか。答えは単純で、僕は、小林秀雄はあくまでも文学者であって、哲学者でなかったためだと結論する。逆に、ベルグソンという人はいかに文学に理解があり、文学者的素養があっても、やはり哲学者だった。その齟齬がベルグソン論を破綻させたのだと僕は見る。

 小林秀雄のベルグソン論を読むと、どこを取っても金太郎飴のように同じ表情が浮かんでいる。小林秀雄が学者的にベルグソンを論じていない事は明らかだ。彼はベルグソンについて論じようとしているよりは、むしろ、ベルグソンについて語り、彼と一致しようとしているように見える。小林のベルグソン論は通常の論ではない。作者の見解を記すというより、作者とベルグソンが一致する部位を綴っていくように見える。

 小林秀雄という人は、源実朝や西行を論じていて、それはうまくいっている。だが、同じようにはベルグソンを論じる事はできなかった。小林秀雄の評論に通暁している人なら、小林秀雄の方法論はよく知っているはずだ。小林秀雄は西行にも実朝に、一つの『詩魂』を見る。小林秀雄は、ランボーを見ても、実朝を見ても、西行を見ても、最終的にはそれを自分の魂の側面と一致させて論じる。つまる所、小林秀雄文学の最終的な論拠は「小林秀雄」という生きた一人の人間である。「小林秀雄」というのっぴきならない存在が、他者の中に自己自身の姿を見つけ出す時、小林秀雄の批評は成立する。だから、中世の詩人でも近代の詩人でも、同じように小林秀雄には作用する。むしろ、それらの差異を純粋な『詩魂』に統一するのが小林秀雄の特異な批評と言った方がいいのだろう。

 さて、この場合、小林秀雄の取っている方法は極めてオーソドックスなものに思える。オーソドックスというのは、文学者としてオーソドックスという意味だ。小林秀雄は、小林秀雄というフィジカルな、自分という存在に最終的な根拠を求める。逆に、これから離れて何かを論じる事は小林秀雄にはできなかったし、それをすると、おそらく何かが欠けている印象を持った事だろう。

 一方で、哲学者は文学者とは違う。哲学自体、非常に広範なものなので、簡単に一括できないが、僕の方で一括すると、哲学者は『概念』を提出する。「物自体」「絶対精神」「持続」「意志」などなど…。哲学者は、自分の生み出した概念で世界を括ろうとする傾向性を持つ。それらの方法を、読者である僕達が妥当であると感じたり、感動したりと言った事で、哲学者の権威は作られていく。

 この時、哲学者は基本的には、自分という存在を根拠にしない。例え、『自分』という存在を概念として提出する哲学者がいたとしても、それは哲学者固有の、つまり一回限りの人生を送っている、生きた哲学者の像ではない。ここにはややこしいので丁寧に説明する。

 例えば、僕が哲学者であって、『私』こそが、世界を統一する概念だという哲学書を書いたとする。その時、そこで使われる『私』というのは「ヤマダヒフミ」の事ではない。では、その『私』とは何か。それは今、これを読んでいる『あなた』が自分のことを『私』と考える事が可能であるような『私』である。つまり、一般化された『私』こそが世界を統一する概念であり、「ヤマダヒフミ」が死んでしまえば消えてしまう『私』ではない。

 小林秀雄はベルグソンについて語る時よく、「直観から分析に至る道はあるが、分析から直観に至る道はない」と言う。これは確かな事だが、ベルグソンの語る「直観」はベルグソン自身の直観ではない。あくまでも哲学概念としての「直観」のはずだ。(ベルグソンについては詳しくないので小林秀雄の方からしか僕は見ていないが) 一方、小林秀雄がそう言う時はいつでも、「小林秀雄」という人物が感じられている。そうでなければ、小林秀雄の文章は成り立たないようになっている。

 小林秀雄は客観的に見えるような評論から、「Xへの手紙」というような告白文に連続して移っていく事ができた人物だ。「Xへの手紙」はもう少しずらせば、すぐに小説になる。このように、小林秀雄には常に、告白する自己自身がはっきりと感じられており、その為に、僕達は小林秀雄の批評を読むと、論じられている対象を見ているというよりは、小林秀雄の輪舞を目撃しているような気分を味わうのだ。

 一方で、ベルグソンはあくまでも哲学者だ。だから、彼の提出する概念は、もちろん彼の個性を帯びているが、彼そのものではない。彼の概念は、彼にとって外物として作用する。外物として現れた概念が世界全体を覆うのであって、ベルグソンという自我が世界を覆うわけではない。

 しかし、小林秀雄はベルグソンを論じる時でも、やはり文学者と同じように論じてしまう。そこに齟齬が発生する。小林秀雄は、ベルグソンの哲学を小林秀雄という個性に帰着させようとするが、その方法論はうまくいかない。簡単に言えば片方は哲学であり、片方は文学だからだ。

 小林秀雄のランボー論は、ランボーという無類の魂に、こちらもまた無類の魂という事で、静かに入り込んでいく。小林秀雄はランボーを宿命のように感じた。宿命のように感じた、とはどういう意味だろうか。それは他者が他者ではなく、もはや己自身として感じられるという意味だろう。小林秀雄はドストエフスキーについて論じるにも、作品全体というよりは、むしろラスコーリニコフやイワンという一個の人物に共感し、一致していく。ラスコーリニコフの孤独な姿は己自身、いや、現代人みんなの姿である。アルチュール・ランボーの姿もまたそうだ。この評論に僕らは共感する事ができる。そこでは、生きた一人の人間に焦点が合わさっているが、そこからは決して出ない。

 ここを小林秀雄の限界と見るのは簡単だ。だが、本当は話はそんなに簡単ではない。ただーーここで、この場所に小林秀雄が頑強にとどまり続けたからこそ、小林はベルグソン論を途中で放棄したのだ、と考えたい。哲学者が概念を提出し、それによって個的な存在は一般化され、その為に、哲学は芸術よりも科学に一歩近づく。が、それにより失われるものもあるかもしれない。小林秀雄が頑強に自分の元にとどまり続けたのは、小林秀雄が徹頭徹尾、文学者であったからだ。僕はそのように考える。だからこそ、小林秀雄はベルグソン論を失敗した。結論としては簡単だが、小林秀雄は文学者であり、ベルグソンは哲学者だった。ベルグソンを実朝や西行と同じように扱おうとしても無理があるという事を小林秀雄は身を持って実感したのだと思う。小林秀雄が『無学』であったり、理解が足りなかったのではなく、そういう方法論の相違が問題となったと思う。

神聖かまってちゃん 『自分らしく』

 





 神聖かまってちゃんの楽曲に『自分らしく』という曲がある。僕が一番好きな曲だ。

 「自分らしく」という言葉はもはや、陳腐で手垢のついたものとなってしまった。誰しも、もう何が自分なのかはっきりと見えてはいない。その中でも「自分らしく」という言葉は未だに、あるタイプの符牒として通用するように見える。

 「自分らしく」生きたい。人はそう願いながら、知らず知らず他人の価値観を紛れ込ませている。ユーチューバーが、ニベアクリームを大量に風呂に入れて、浸かる様子を動画にアップする事。こうした事を「したい事をして稼ぐ」「やりたい事をやっている」などとは僕は思わない。ユーチューバーはきっと、カメラのない所ではそんな事はしないだろう。僕らの目がカメラと、動画を見る画面と一致し、その事に気づかない。「自分らしく」生きようとして、他人らしく生きる事に終始する。金を得たいと思う事は、僕達の根っこに兆した欲求であるような気がするが、金で得られるものは市場に出回っているものに限られる。そこでは非常に多様な選択肢があるが、その選択肢は全て他人の用意したものだという事実は変わらない。僕らは他人の生産物で自分を活気づける事ができると信じている。その傾向から、「自分らしく」とは、最初に紛れ込ませた「他人」に対して見て見ぬふりをするという態度に収斂していく。

 神聖かまってちゃん「自分らしく」という曲は、具体的に何が「自分らしく」なのか、はっきりとは明示されていない。むしろ、そこで示されているのは『自分らしく生きたい』『素直に歌いたい』という事が、曲として示される事こそが、「自分らしく生きる事だ」という二重の構造だ。「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲でも同じ構造が見えるが、ここでは歌われる内容と、歌う方法論とが一致している。

 例えば、浜崎あゆみや西野カナが、楽曲で歌っているような恋愛を実際にしているとは思わない。もちろん、実際とフィクションが一致しなければならないなんて事はないが、彼らは「絵空事」を歌っている。「絵空事」の恋愛が大衆の心を掴み、現実を如実に描いたものはむしろ不人気だ。何故そんな構造があるかは興味深いが、ここでは触れない。浜崎あゆみや西野カナの歌う恋愛は、彼らの事実としての存在から遊離して歌われている。言い換えれば、彼らは「お仕事」として歌を歌っている。彼らはプロフェッショナルなので、もちろんそれでも十分評価できるが、諸手を挙げて褒めるわけにはいかないと感じる。

 「自分らしく」生きたい、と神聖かまってちゃん・ボーカルの『の子』が歌う時、それはのっぴきならない一つの生を語っている。「自分らしく」生きたい、「素直に歌いたい」との子が現に歌う時、彼の背後に強力に感じられているのは、そもそも僕達がどうあがいても『自分らしく生きる事はできない』『素直に歌う事ができない』という事実だ。僕らを強引に、強力に押さえ込む世界の論理が、僕達を世界の底に沈めて離さない。が、この拘束が強ければ強いほど、これに対する反作用も強烈な力を持つ。一番自由な人間は、誰よりも強力な拘束を感じている。世界の重荷を背負っている人間だけが、それと闘う事によって自由となれる。

 『自分らしく生きたい』『素直に歌いたい』と歌う事は、むしろ、それとは逆の事を想起させる。「自分らしく」という楽曲の外側では、の子は全然、「自分らしく」ない。生活の論理の中で、人は全く自分らしくもなく、素直でもない。見せかけの素直さを装った所で無駄だ。だが、それに抵抗する歌が響く時、ようやく僕らは「自分らしく」なる。自分がこれっぽっちも自分らしく生きていないと痛切に感じ、それへの抵抗が表現となる時、ようやく「自分らしさ」がほんの一瞬だけ、具現化する。山頂の光に似たそれは、周辺を黒い雲で覆われている。

 「自分らしく」生きるという事は現在ではもう不可能なのかもしれない。現実意識、生活の論理は僕達を渦巻いている。宗教は世俗のものとなり、世界は平坦化した。この時、「自分らしく生きる」と言いつつ、皆に気に入られる価値観に静かに自分を滑り込ませていくというのは容易だ。僕らは失ったものの大きさに気づかない。気づく事ができない世界の中にいる。が、そうした世界だからこそ、響く歌もあるだろう。「自分らしく」という手垢に塗れた言葉は、の子の、あらっぽくも見える楽曲によって蘇生した。「自分らしく生きる」とは「自分らしく生きる事を追求する事」にほかならない。それが現になんであるかよりも、その意志の客体化の方が遥かに重要だ。神聖かまってちゃん「自分らしく」とはそんな曲に思える。個人的には、一番好きな楽曲だ。

批評の先について  

 
 
 
 もうそろそろ批評はやめようかと思っている。批評という形で言いたい事を言うのができなくなってきている。その代わり小説の方が軌道に乗ってきたと感じているのでそちらに移行していこうと思っている。

 「言いたい事を言う」「自分の中にあるものを表現する」という事は簡単なようで難しい事だと常々感じている。僕は批評の最後に「自分はこう考える」「こう思う」という言葉をよく使う。それはある人には独断と見えただろうが、違う意味も入っている。結局の所、現状、自分はこんな風に考えるしかできない、という意味も入っている。己の独断と、それを相対化する目と、両方入っているつもりだが、僕のブログを読んでいる人には独断としか見えないのかもしれない。

 批評は結局は、告白であり、自分の思考、思想の吐露である。それはなんだってそうだ、と言う事もできるが、しかし、単に思想表白では物足りなくなってくる所に別の表現が生まれる。

 ミハイル・バフチンの理論を辿っていくと、「小説」というのはそういうものではないかと思う。小説は作者の声が屈折している。声は、プリズムに当たった光のように分散し、屈折して、一つの世界を作り出す。作者の声は絶対的な声ではなく、作品それ自体が作者の声である。では、作者はどうしてそんな面倒な事をしなければならないのか。

 これに関しては非常に難しい問題と感じている。作者の世界に対する言明が素直に価値があると信じられ、それに大きな意味があれば、小説という面倒な問題は作る必要がなくなる。

 色々な見方があるが、僕はヘーゲルの言う『外化』が妥当だと思っている。ある種の言明、告白、説教といったものは、作者から読者への一本の線である。そこでは読者は作者の意見に従うか従わないか、少なくとも、それを吟味する事が求められる。しかし、『作品』は作者と読者の中間に浮かんでいる。『作品』は説教ではなく、あくまでもそれ自体を目的として存在している。

 小林秀雄は真の作家というのは、自己廃棄をした事があるーーそんな風な事を言っていたが、その理由もここで明確となる。作品は作者を殺しもする。作品は作者を押し上げる道具というより、むしろ、作者から独立して運動する何かである。だとすると、作者はどうしてそんなものを作らねばならないのか。『作品』という世界が生まれるには作者が一度死ぬ必要がある。自己の廃棄の経験が、作品という独立世界を要請する。自らに屍を感じた人間が、作品という生を再び生む。

 そのようにして、作品は、それを作った作者を越えていく。作品は単なる道具であり、作者である『私』がのし上がるための素材に過ぎない。こうした考えを持っているのであれば、その人はやがて、作品を作るのをやめるだろう。彼に必要なのは「作品」ではなく、「私」であるからだ。が、「私」が終わった後に「作品」はある。

 こういう考えはおそらく、芸術至上主義と取られる事だろうと思う。本当はそんなふうなものではないと思っているが、ここで説明するスペースはない。これからは、批評はあまりやらなくなるのかもしれない。「私」(ヤマダヒフミ)が何かを言い、それを「読者」(これを読んでいる人)がどう受け取るのか、その形式とやり取りそのものが作品内に形として入ってこなければならない。小説というジャンルは充分そういう度量があるし、そういうものを活用していきたい。そんな風に思っている。
 
 …ちなみに、この文章自体も当然、批評的な文章である。この文章もやはり、『ヤマダヒフミ』という別になくてもいいはずの作者名が入っている。こうした名前を越えていく事がこれからの課題となるだろう。

 思想家として見る伊藤計劃


 伊藤計劃という作家を一人の思想家として見ると、どんな風に見えるだろうか。僕は彼を「十五分の映画プレビューの世界」を規定した人間として考えたい。

 「十五分の映画プレビュー」とは、『虐殺器官』で象徴的に用いられる語彙だ。主人公の殺し屋シェパードは友人と一緒に映画の十五分プレビュー(そこだけ無料だ)を繰り返し見る。二人はドミノ・ピザを注文し、ピザを食べながら映像を見る。それは穏やかな消費社会のひとときであり、先進国である日本でもーーつまり、我々が普通に享受している毎日の事だ。

 僕は青山七恵という作家を批判する文章を書いたのだが(削除済み)、よしもとばなな以降の『伝統』を彼女は引き継いでいる。ぼんやりした日常の肯定、彼氏がいて、恋をして、美味しいものを食べれば幸せになる世界。しかし、その世界の外側はどうなっているのかとは考えない。考えない所に、僕達の幸福があると言っても良い。

 世界に対する全き肯定。水の中に溶けた水のように、日常を生きていく事。深淵は回避され、悲劇はよそに置いてある。あるいは仮に悲劇があるとしても、それはスクリーンの中でだけ起きれば済む話だ。青山七恵とは逆に、深刻な物語を作る作家もまた、深刻さそのものに対してはどこかよそよそしい。彼は題材として悲劇をよそから取り寄せているだけであり、彼が本当に身を入れて描きたいものではない。我々は正常な人間であり、幸福であろうと願い、市民社会において成功しようと望んでいる。その過程に悲劇や深淵が使えるならば使えるだけの話であり、消費社会においては人間の深刻さもまた、傍観者である僕達によって消費される。物語は、フィクションは、僕達を愉しませるためにあればそれでいい。そして僕達は密かに、自分を正常と思いなし、自分だけは幸福でありたいと望んでいる。

 もちろん、それは悪い事ではない。しかし、この論理を伝って、密かに世界の外側に害毒を流してはいないか。自分達の幸福のために、外部の人間が不幸になったって知った事ではないという顔をしていないか。青山七恵の世界には外部はない。知った事ではない、という顔もない。が、その世界では巧妙に外部は排除されている。僕達の食卓に出てくるもののために、どこかの誰かが犠牲になっていたとしても、そんなニュースは知りたくはない。僕達はただ生きたいのだ。「虐殺器官」において、虐殺を引き起こしてきたジョン・ポールは次のように語る。

 「人々は見たいものしか見ない。世界がどういう悲惨に覆われているか、気にもしない。見れば自分が無力感に襲われるだけだし、あるいは本当に無力な人間が、自分は無力だと居直って怠惰の言い訳をするだけだ。だが、それでもそこはわたしが育った世界だ。スターバックスに行き、アマゾンで買い物をし、見たいものだけを見て暮らす。わたしはそんな堕落した世界を愛しているし、そこに生きる人々を大切に思う」

 ジョン・ポールが虐殺を引き起こす理由は以下の様なものだ。

  自分たちの貧しさが、自分たちの悲惨さが、ぼくらの自由によってもたらされていることに気がつきそうな国を見つけ出す。
  そして、そこに虐殺の文法を描く。
  国内で内戦がはじまれば、怒りを外に向けている余裕はなくなる。国内で虐殺がはじまれば、外の人々を殺している余裕は消し飛ぶ。外へ漏れそうだった怒りを、その内側に閉じこめる。

 ジョン・ポールが守ろうとしている世界は僕達の世界だ。スターバックス・ドミノピザ・アマゾンが支配する世界。僕らの領域では名前は入れ替わり、セブン-イレブンかもしれないし、ユニクロであり、深夜アニメの再放送かもしれない。この世界を巡って、争いが行われている。世界の外側を認識する事は辛い事で、これから目を背ける方が遥かに楽だ。また、この世界が今のように(長い不景気で)凋落しかかっている時、責任を誰か別の人間に押し付ける方が楽だ。アマゾンとスターバックスの世界が崩落してきた時、内部に間違った人間がいると信じて、その人達に責任を押し付ける。同時に、この世界を維持するために、外側の人間がいかに犠牲になっても気にかけない。

 消費社会が許した市民的な、微温的な世界。家族との団欒、恋人との仲睦まじさ、友人との祝杯。それぞれに互いの事を気遣う、温かい、正常な人間関係。自分達は幸福であるという実感。が、その背後には果たして何があるのか。もちろん、こう考えて、自ら私財を投げ打って、ボランティア活動に勤しんでも、問題は多分、解決しない。(トルストイは実際そうした) 問題は僕達の無知にある。この無知は意図されたものである時、悪意となる。僕達は自分が何であるか、とは問わない。ただ、僕達は幸福であろうとする。

 「虐殺器官」の主人公も、「ハーモニー」の主人公も、どちらも独特な一人称で語られる。これらの主人公は大きなシステムの分水嶺に位置していて、システムの欺瞞を感じつつも、そこから抜け出る事はできない。多分、ここから抜け出て、人は生きる事はできない。先進国が駄目なら後進国へ、とはならない。後進国が富み、先進国が貧しくなっても、問題の所在が入れ替わるだけで、問題そのものは解決しない。

 システムの境界すれすれに位置しつつ、そこでの葛藤を演じるというのは、「ライ麦畑につかまえて」を想起させる。「ライ麦」のホールデン・コールフィールドもまた、富裕なアメリカ社会の境界に位置している。彼はそこから出ようとするが、出られない事を知っている。彼は境界を行ったり来たりして、最後には元に返ってくる。

 伊藤計劃はこれらの問題を解決しはしなかった。多分、この問題を個人レベル、つまり小説というレベルで解決する事は不可能だろう。しかし、既存の社会、生活の中に位置しつつ、そこから抜け出ようともがく事によって現れる悲劇は、文学の根底と関わった構造であるように思われる。「源氏物語」は宮廷生活の華やかであるが、怠惰で堕落した世界を描いていた。「源氏物語」にとって、登場人物達に用意された出口は『出家』する事しかない。紫式部は当時の生活を肯定しつつ、それがもたらす問題を認識し、その外部に人間が歩いて行く様を描いたように思われる。

 「虐殺器官」の主人公は、自らが虐殺を引き起こす側に方向転換する。「ハーモニー」はもはや、言葉が途切れた後の世界が示される。それでも、伊藤計劃は、システムが整備された世界の先にもまだ、言葉は存在するのだ、という風に描いていた。(Amazonで250円で売っている伊藤計劃論にその解釈は書いておいた)

 伊藤計劃はこれらの問題を解決しはしなかったし、解決する事は実質的に不可能だった。それでも、問題を認識する事としない事では天と地ほどの差がある。村上春樹が全盛期だった時、彼は七十、八十年代の社会風俗に浸りながらも、そこに疑いを抱く主人公を造形してみせた。それはそれで意味があるものだった。村上春樹は時代が自分から離れていくに従って、物語形式の中に孤立するようになった。現代の世界のあり方は変容している。それはスターバックス的、ドミノ・ピザ的であり、それ自体極めて充足した体系である。ここでは、いわゆる「セカイ系」のように、個人と世界とが一対一対応で葛藤する事が妥当なものとして現れてくる。伊藤計劃は「虐殺器官」「ハーモニー」のいずれも、主人公をシステムの中枢に位置するエリートとして設定している。これは、主人公にシステムの内情を語らせ、なおかつ境界を行ったり来たりすることが可能であるための作者の配慮であったように思う。

 思想家として伊藤計劃を見る場合、彼は大きな問題を解決したわけではない。だが、少なくとも、「ドミノ・ピザの普遍性」「映画の十五分プレビューの世界」の外と内とを往復する物語を造形したと言える。この認識は口で言うほど簡単なことではない。なぜなら、似たような事をやろうとしてもすぐに僕達の心の中の、「消費者として物語を消費する」という態度に吸い込まれてしまうからだ。優れた頭脳を持つ哲学者も面白い物語を作る物語作者も、いずれも、大衆の歓心を買う事によって自分を高めようとする存在に転化してしまう。この時、彼は自分が創造しているような気がするが、実は大衆の認知が彼を作り出している。問題はそれらの構造そのものを相対化する事だ。伊藤計劃は、境界線で物語を作った。彼の思想としての意義は、まず、境界をはっきりさせた事に求められる。次に彼はこれを越えようとしたが、言葉は境界を越えた所で途切れた。(「ハーモニー」のラスト) 

 途切れた言葉は歌となり、無人の境をさまよった。彼の言葉は、この空虚な世界にも響いている。伊藤計劃は何よりも、世界の接線を判定しそれを作品内に取り込む事に成功した。「虐殺器官」「ハーモニー」の主人公はいずれも境界を越えようとするがうまくいかない。僕らはこの思想をどう受け取ればいいか。まずは、この世界の有り様をそのように認識する事が可能になったという事を知るべきだと思う。青山七恵、中村文則らの現代的な作家が、自家薬籠中のものとしていた世界内の物語それ自体を相対化する事に、真の物語は存在する。その認知を伊藤計劃という作家は与えてくれた。矮小な僕にとっては、伊藤計劃はそのような物事を教えてくれた存在だった。それが僕にとっての『思想家としての伊藤計劃』の意味になる。

本ブログを見ている少数の読者へ


 ブログのコメント欄を承認制にしました。何度言っても同じ人物が長文の批判コメントを送ってくるのでやむなく変えました。

 場合によってはこの先、コメント欄全面廃止も考えられますが、そんな事はあまりやりたくありません。

 ブログは一対一の通信ではなく他にも見ている人がいるので、配慮してほしかったのですが、駄目でした。

 とりあえず、ブログはいつもどおり続けていこうとは思っています。様子見をしながらやっていこうと思っています。またこのような事がある場合はその時に考えたいと思っています。こんな事は書かずに淡々と更新していきたかったのですが、ここで仕切り直しにしたほうが良さそうだと思ってこの文章書きました。




 本ブログを見ている少数の読者へ

 これからもよろしくお願いします。また相手の存在を配慮した言説をお願いします。僕は自分の考えた事、思った事を発信していますが、それを他人に押し付ける気はありません。それぞれがそれぞれに受け取って自由に、捨てるなり拾うなりして活用していってもらえばよいかと思います。よろしくお願いします。

コメントを承認制にします

もうやめて欲しいと言っているのに何度も同一人物がコメントをしてきたため、コメントを承認制にします。ご了承ください。普通にコメント貰えれば承認する予定です。

批評から創造に至る道

 

 批評とはどういうものだろうか。考えてみよう。

 最近の批評家でよくあるパターンは、批評家のみが知っている特権的な情報をこれみよがしに見せる、というものだ。つまり、「この作品のこの箇所は××という隠された意味がある、それを知っているのは私(批評家)だけ…」というものだ。こうした方式は果たして批評だろうか。

 例えば、作者がたまたま思いついて、「キャラクターXのTシャツには『26』と書いてある」とする。すると批評家は目ざとくこれを見つけて「26」には深遠な意味があって「1926年の〇〇事件を指しているのだ」なんて言う。こんな事は批評だろうか。

 実際に小説を書く立場の人間として言わせてもらえば、作者というのはそんな細かい事は深く考えていない。それにそんな事を深く考えていたとしても、どうだっていいと思う。ほんの一瞬しか現れないTシャツの数字の意味を読み取らなければ作品の意味がわからなくなるのであれば、作品の構成自体がおかしい。作品というのは読者に開かれているべきだと思うし、批評家が特権的な情報を握る場所ではないと思う。

 例えば、シェイクスピアの作品というのは、読者に全面的に開かれている。それはもう一片の隠す所もない。それぞれのキャラクターは自分の真実を最後の最後まで言わなければ気が済まない。僕はシェイクスピアの作品を更に解釈するフロイトのようなやり方が理解できない。シェイクスピアの作品はもう解釈のしようがないくらい明白なもの、つまり真実そのものとしてそこにある。これを更に(裏に回って)解釈する事に僕は反対する。シェイクスピアは世界を白日の下にさらしている。真実を作品という形式で現している。何故またその背後に秘密を探らなくてはならないのか。

 フロイトはまあいいにしても、批評というものが、批評家の特権的地位を表すものではない、という意見は一考の余地があると思う。次に僕の考える批評の定義について言ってみる。

 批評というものが発動する前提は、「作品全体の印象」であると思う。作品全体の印象、作品が読者に与える印象、感覚、これがまず基礎となる。
 
 (印象批評は大雑把であやふやだ、という反論があるのは知っているが反応していると長くなるので先に行く)

 例えば、僕達は映画を見て、本を読んで、ゲームをして、「面白かった」「面白くなった」と言う。そうすると相手は「たしかに、面白かった」とか「いや、面白くなかった」なんて言う。

 この時、僕達が「面白い」「面白くない」という言葉で、つたわっていると信じているものは何だろうか。よく話し合えば、この二人は作品の全く違う要素に面白さ/面白くなさを見ているのかもしれないし、作品を違う角度で見て面白いとか面白くないとか言っているのかもしれない。

 僕らは作品を読んだ後「面白い」「つまらない」ぐらいの簡単な言葉で済ませる。しかし、本当はどう面白かったのか、何が面白かったのか、何がつまらないと思ったのか。友達に話を聞いてみれば分かるが、これを論理的に、誰にも納得できるように話せる人はあまりいない。

 しかし、僕達が論理的に、自分の感じたものを言葉で表せないからといって、僕達が何も感じていないというわけではない。つまり、感覚は確かにあるが、言葉がついてこない。何が良かったのか、もやもやしているがうまくいえないのである。

 こうした時に批評家が必要になる。批評家がこうした人の前に現れ、僕らが作品から受けた無意識的な印象を論理的に、明晰に言葉にする。僕達はそれを読んで、ようやく自分の中に何があったのかを理解する。

 批評というものは、そのように印象から論理を構成する。しかし、この世のあり方の必然性に縛られるので、そこで構成された論理はまた独特のものなってしまう。最も優れた批評は、もはや、作品とは違う形で定立された別の作品に他ならない。小林秀雄はこうした批評を積極的にやった。それはもはや一個の作品と呼ぶべきものだ。

 批評というものは見方を変えていけば、創造そのものの事を意味している。ドストエフスキー「白痴」はセルバンテス「ドン・キホーテ」を批評したものだと言えるが、「白痴」を「ドン・キホーテ」に対する批評とは誰も言わない。だけどそんな見方もできると思う。太宰治には「女の決闘」という作品があって、これは同名の短編小説が先にあって、それに逐一太宰が注釈を入れる事で一つの小説にする、という独特な作品だ。太宰もまた小林秀雄と同じで、批評の延長が創造という事をよく知っていた。

 何故、批評が創造になるのか。Tシャツの姿に『26』があるのを目ざとく見つけるのはどうして創造に至らないのか。その違いは何なのか。

 定式だけ言うと、ある作品が作られる時、作者の方で、情念とか感性、思想、魂とかいった…つまりは不定形のものがあり、それを形式に写し出す事によって作品というものが生まれる。物語という構造は、作者の情念が、物語という形式を通じて語らなければ語りきれない場合にのみ、大きな意味を持つ。それ以外の場合は単に形式的な意味しか持たない。

 さて、こうして作品は僕らの目の前に形を表す。作者は自分の中にあるもやもやした塊を、私達の前に、論理的な、形式ある作品として表現した。我々はそれを見て、今度は自分の中に、もやもやしたものを感じる。おそらく、それは作者の情念、魂の写像形式なのだろう。これをもう一度、表す事ができるだろうか。「面白かった」…では表せられない。「面白かった!」と叫んでもダメだ。そこから、批評が生まれる。自分の中にあるものを、今度は形式を用いて表さなければならない。ここからまた、形式との格闘が生まれる。批評の努力はここにある。そしてこの努力は、作家やクリエイターが行った事を、逆側から昇っていくものだ。

 ここに批評の道があると考えたい。

 批評はそんな風にして現れる、と僕は思う。そして批評は、批評家がどれほど普遍的な批評を目指しても、それが優れた批評であるほど個性的にならざるを得ないという事情がある。というのも、優れた作品は様々な方向に価値を放射しているので、それを批評家はそれぞれの立場で受け取る。ただ唯一の批評、というのは存在しない。批評の多様性、批評の分化した価値が、一つに合成される中に作品の真の価値があると言って良い。しかしどんな良い批評でも、作品の価値のある側面を照らし出すにすぎない。そしてそれこそが、批評している当の作品の価値の高さを示している。

 傑作と呼ばれる作品は、様々な角度から照明を受ける事を許す。様々な党派性を越えて、様々な党派性を許す事に傑作の意味はある。優れた批評はまた、その中かから一つの党派を選び取るように見えるが、そこからまた多様性の中に入りこんでいく。僕達は小林秀雄の批評を、単一の、唯一の絶対無二の理解だとは考えない。それらは作品の読みに対して、多様な可能性を保持する。一つの単一の読みではなく、読み、つまり批評は価値の中心に行くにつれて、いわば『無限の言語』とも言うべきものに近づいていく。

 我々は『無限の言語』を自分の中に包含する事ができる。しかしそれを他者に語る事はできる。その時、我々は単一の、固まった形式で語らざるを得ない。

 だが、そこで語られたものが本当に豊かなものなら、そこからまた、他者の語りが生まれる事だろう。優れた批評はこのように、単一の解釈を許すものではない。そこでは答えがない事が答えであるようなーー無限に続いていく事を許す『テキスト群』だ。この豊かさに飲まれたものはここで死ぬかもしれないが、同時にこの奔流の中で生きもするのである。これに反して、批評家が唯一の絶対的な答えを握っている、そう証する答えは、自分一人の優位性を示すにすぎない。そのテキストは孤立しており、自分の知的優位を誇るだけにすぎない。彼の批評は歴史のさざなみで消えていくだろう。本当の批評は答えがない。そしてそれゆえに豊かなものだ。僕はそう考えたい。

 レフンの描く現代の狂気 (Nicolas Winding Refn movie review 〈jp language〉)



 今、レフンの映画を見ている。「ドライブ」→「ブロンソン」→「オンリー・ゴッド」→「プッシャー」→「ブリーダー」まで見た。

 レフンの映画を見ていると、彼がテーマとしているのは狂気だという事が分かる。どの作品にも一貫して、狂気を客観的に描くという立場が貫かれている。

 僕はレフンの描く「狂気」は非常に現代的だし、的確な描き方をしていると思う。というのも、現代の人間は、因果関係のない狂気、因果関係のない暴力、そういうものが潜在的にあって、それをレフンは正確に描いている。

 例えば、ドライブの主人公は根無し草である。「ドライブ」の主人公はどこからかやってきて、ふらりと当該の街に辿り着く。彼は昼間は修理工場で働いていて、夜には強盗の逃走ドライバーを務める。強盗犯の手伝いをするのは当然命をかける危険な行為だが、何故そんな事をするのか、レフンは描いていない。

 ライアン・ゴズリング演じる主人公は序盤で人妻を好きになる。人妻ヒロインを守るために命をかけて、敵対する相手を何人も殺していくのだが、その殺意、暴力性も極めて突発的で、何の因果関係もない。

 普通の物語の作り方では、作者が、「動機」を用意する。例えば、主人公が過去に虐待を受けていた、何らかの因縁が過去にあった、女を取られた、親友に裏切られた…など。しかし、「ドライブ」の主人公は全ての事を突発的に行う。彼は地に足をつけた生活をしていない。ふらりと街にやってきて、ふらりと女を好きになり、女のために命をかけ、残虐な行為も平気でする。全てが瞬間的、偶発的であり、ほんの偶発的な感情を主人公は絶対化して生きている。彼はその生き方を反省しない。彼は街にやってきて、修理工場では真面目に働く好青年なのだが、どこか感情が欠落している。この、好青年であると共にサイコであり、地に足をつけていない青年というのをレフンは的確に描いている。

 レフンの他作品「ブリーダー」では、DV男が妻に暴力を振るうのだが、これもまた因果関係が示されない。DV男は妻に子供ができた事に急に腹を立て、(自分の人生が台無しにされた)と憤る。だが、どうして人生が台無しになるのかは描かれない。

 こうした事は描かれないのではなく、意図して描いていないのだと僕は思う。こうした狂気は現代社会の根底に存在している。

 僕達は現代に生きていて、無意識の内に過大なストレスを抱え込んでいる。これは何故なのか。社会学の本を読んでもなかなかわからない。

 一つには、個人があまりに分化し、社会の中で小さな存在になってしまったという事が考えられる。個人の卑小さ、無力さはシステムの中では圧倒的になってしまった。システムを維持するために個人は、自分を捧げなければならないが、システムは個人を取り替え可能とする。「シフト」によって切り売りされた僕達の人生の時間はどこへ行くのか。

 また、社会やシステムが巨大になった事によって、僕達の道徳観念が強まったという事もあると思う。かつてコカインは合法だったが、今はそうではなくなった。最近はタバコが問題視されている。人間が増えて、それぞれに自分の役割を守る度合いが増えると共に、個人を道徳観念で抑えつけなければならない。タバコの受動喫煙がその内、法律で禁止されるかもしれないが、それはタバコが「悪い」というより、むしろ僕達の集団性が膨れ上がった事により、集団維持のためには個人が、自分を制限する度合いが大きくなったという事ではないかと思う。

 社会やシステムが巨大化し、それに伴い個人は分節化し、卑小なものになった。僕達は市民社会を成立させるためにルールを守って生きている。だがそのルールを守らなければならないという無意識の圧力こそが、ある時、急激な暴力性に転化する。そこにもはや個人的因果は必要ない。突発的に銃を取り出したり、ナイフを取り出したりするので十分だ。

 レフンはそんな現代の狂気を描いている。久しぶりに、作家性の強い、良い映画監督に出会って非常に満足だった。もしレフンの映画を見たい人がいれば「ドライブ」がお勧めだ。「オンリー・ゴッド」も名作だと思うけれど、人を選ぶ作品だと思う。

中上健次「枯木灘」をふと読む


 


 中上健次の「枯木灘」をパラパラ見ていた。青山七恵を論評した後だからか、文章が圧倒的に良い。青山七恵と比べるのも滅茶かもしれないが。

 中上健次と大江健三郎については、ブログの方でもどうして言及しないのかという意見が二つくらい来ていて、僕の信頼する人もこの二人については悪くは言わない。なので良いのだろうとは分かっていたものの、これまでは避けていた。今回は中上健次「枯木灘」について短く取り上げる。

 まず、最も素晴らしいと思う所を引用する。
 
 ・主人公秋幸が土方の仕事をする

 「秋幸は土方をやりながら、自分が考えることも知ることもない、見ることもない口をきくことも音楽を聴くこともないものになるのがわかった。いま、つるはしにすぎなかった。土の肉の中に硬いつるはしはくい込み、ひき起こし、またくい込む。なにもかもが愛しかった。秋幸は秋幸ではなく、空、空にある日、日を受けた山々、点在する家々、光を受けた葉、土、石、それら秋幸の周りにある風景のひとつひとつの愛しさが自分なのだった。」

 「秋幸はそれらのひとつひとつだった。土方をやっている秋幸には日に染まった風景は音楽に似ていた。さっきまで意味ありげになみあみだぶつともなむみょうほうれんげきょうとも聴こえていた蝉の声さえ、いま山の呼吸する音だった。」

 中上健次は土方の経験をしていた事もあるし、また本人が紀州の、おそらくはどうしようもない(悪い意味ではない)民衆的な、極めて土着的な所で生活していた。中上健次は読書して知性を身に着けたわけだが、その知性のある所、つまり知識人的な位相から、土着的な民衆の生活を描いている。しかし、中上健次自身、自分も民衆の一人であり、自然と一体となって暮らしているのだという実感がある。ここには土着的、民衆的な人々の生への中上の「愛」があると言っても良いだろう。

 引用した箇所では、僕は、極めて日本人的な精神が現れていると思う。あるいは東洋的な精神と言ってもいい。自然と一体になり、そこに自分が含まれるという独特な高揚感。こうしたアジア的なものを描く事ができている。もちろん、こういう事は今の作家がやればわざとらしい、いかにも「こういうのが文学なんでしょ?」という物欲しそうな作品になってしまうのだが、中上健次はそれを自然にできている。ここに中上健次の良さがあると思う。

 この作品の主人公、秋幸は小説の主人公だが、それは自然の中の一事物のように作家には認識されている。人は「紀州サーガ」の中で、日々を生き、肉体労働をし、あるいは殺し殺され、男と女はまぐわい、とにかくそのようにして動物的なーーあるいは民衆的、人間的なーー生を営んでいく。人間を見つめる視点において、中上健次は一歩引いた場所から見ているがそこでは、性行為のような事も肉体労働と同じ位相で描かれている。露骨な描写なので引用を避けるが、秋幸の肉体労働と似ているようなものとして扱われている。性行にしろ、労働にしろ、殺人にしろ、中上はそれらをそれ自体で意味があるものとしては見ていない。中上健次はそれを自然の中に埋め込み、人間の生死それ自体も、自然の大いなる変転の一部でしかないように描いている。中上健次を評価するとすれば、この認識の場所を評価するしかないように思う。

 こうした視点は、影響を受けたフォークナーとか、ガルシア・マルケスあたりと共通する事なのだろう。僕は彼らとは縁遠いと感じているし、二十一世紀になった今になって彼らの方法はそのままは使えないと思っている。現在においては民衆的なものは消え、プロレタリアートはいつの間にかブルジョアになり、大衆はいつの間にか知識人となった。こうした社会において「路地」は消失せざるを得ない。

 こうした変化に中上健次が耐えられなかったのは確かなのだろう。しかし、たしかに中上健次が人間を見つめる視点は存在したし、自然と人間とを一つのものとして見つめる視点は僕の中のーーいわば、日本人的感性を蘇らせる。これは重要な事に思える。

 中上健次の手法は彼自身の体験と、また、中上が描いている世界がかろうじて日本にも残存したという社会状況から生き生きとした形式を持つに至った。この中上健次の方法が今になってどういう意味を持つか、それはまた別に再考しなければならないだろう。しかし、僕にとっては「枯木灘」一つでも中上の良さを感じる事ができて、良い経験だった。

                  
                          付 

 中上健次と青山七恵を強引に比べると、青山七恵は例えば「恋愛」において、それだけで意味があると素直に信じている。女の子が駅員の背中を見て「恋をしていた」と書いて、ただそれだけが全てだというのはあっぱれな話であるが、このあっぱれが成り立つのが現代の僕達の社会だ。中上健次は性行為の描写をしても、性行為や殺人それ自体を描く事に意味があるとは信じていない。それらをより俯瞰的に、自然の中に埋め込むように見ている。この透徹とした認識が中上健次の良さだと思う。「恋愛」や「おばあさん」といった事柄を概念としてしか見ておらず、実際のリアルな生活は全く描けないのが青山七恵である。「ひとり日和」のラストで「約束どおり、わたしはあの既婚者と競馬に行く。」という文章があるが、人間を、あるいは男を「既婚者」というレッテルでしか見ないのが青山七恵であり(その事に違和感も持たない)、また現代の僕らの陥穽でもある。中上健次はこんな場所では物事は見ていない。中上は「自然」の位相で人間を見つめている。

レフンの「オンリー・ゴッド」「ドライブ」を見ました

 レフンの「ドライブ」「オンリー・ゴッド」を見ました。「ドライブ」を見て非常に素晴らしいと感じて、恐る恐る「オンリー・ゴッド」も見ましたが、良かったです。

 「オンリー・ゴッド」は賛否両論だったので駄作見る覚悟でしたが、画面の構図が常に計算されていて、一時間半飽きる事なく見る事ができました。思わずスクショ取りながら見ましたが、併記する画像を見れば感じがわかるのではないでしょうか。

 「オンリー・ゴッド」では常に奥行きがある構図が求められています。僕自身も外で写真を取る時は奥行きのある、重層的な空間が好きで、そういう写真を取りたいなと望んでいましたが、「オンリー・ゴッド」はそういうこちらの欲望を満たすものでした。

 見ている最中、小津安二郎やマーク・ロスコの抽象画を思い出した。「アートっぽい」人というのは沢山いるのですが、レフンはきちんとした「アート」の感覚を持った人だと思います。良かったですね。でも見るのなら「ドライブ」の方がお勧めです。


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 小津安二郎との比較


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流れで考える日本文学の未来

 


 「お前は日本の現代文学を批判しているが、大江健三郎や中上健次、阿部和重らは優れた現代文学じゃないのか?」というようなコメントをブログの方で貰った。確かに、僕は日本文学の重鎮である大江や中上についてはほとんど言及していない。

 僕は大江健三郎や中上健次についてはあまり知らない。著書は一応、家にあるのだが、あまり読めていない。阿部和重についてはそれほど素晴らしい作家だとは感じていない。

 僕の理解では、時代はーーあるいは時代を象徴する文学の有様というのは、大江健三郎・中上健次から、村上春樹・村上龍に写ったと見ている。村上春樹・村上龍・高橋源一郎以降、空爆とした虚無の文学空間が現れている、という一般的な認識を持っている。

 これについて、時代順に雑に考えていく事にする。

 まず、戦争経験をした文学者達がいた。そこから始める。戦争という重たい、実存的な経験を、表に出したり裏に隠したりする事に、当時の優れた文学というものがあって、島尾敏雄・小島信夫・田村隆一といった人達がそこにあたる。僕は島尾敏雄と田村隆一くらいしかちゃんと読んでいないが、そこでは戦争という重たい経験が常に底の方に沈んでいる。そこではいつでも、人間の生や死という巨大な問題が、軽い話をするにしても底の方に沈んでいた。彼らはいつもその経験から物事を見ていたと言う事ができる。

 そこから時代が映って、中上健次・大江健三郎が文学の主流を担うようになった。そこでは戦争経験が核となっていないが、文学としての重たさは確かに存在した。(それがどのような重さか、僕は読み込んでいないのではっきり言えない) しかし、中上健次・大江健三郎は時代が変化するに連れて、自分の居場所を失ったのではないかと思う。中上健次においては彼が描いてきた「路地」の消失、大江健三郎については知的な、インテリ的な場所への逃避というように、彼らが主題としてきた事は、時代が変化するにつれて消え去ってしまった。

 次に現れたのが、村上春樹・村上龍・高橋源一郎らである。彼らの出現は同時期の、坂本龍一、忌野清志郎・糸井重里らと同じ現れ方をしたと見た方が見やすい。

 ここからは僕の射程に入ってくる。なので詳しく話していく。村上春樹・村上龍のした事を総括すると、アメリカ文学(文化)の日本への導入という事になるだろう。日本にアメリカ的な消費文化が流入すると同時に、それを日本に輸入したのが、現在から見た両村上の役割だったのではないかと思う。

 これに関しては村上春樹については非常にはっきりとしている。バーで友達とビールを飲んで、女を口説いてホテルに行き、家ではパスタを茹でて本を読む…こうした生活スタイルは過去の日本からは考えられなかったし、仮にあるにしても単に空想的なものに留まっていた。が、戦後に発展した日本社会では、こういう生活も「ありうるもの」として存在する事になった。村上春樹の描き出しているものは、それを可能とした社会に依拠している。ここに村上春樹の小説が単なる空想にならない原因があるし、社会が変化すると村上春樹が基盤としていたものが消え去るという原因も同時にある。

 村上龍にしても、形は違えど村上春樹と同じような雰囲気を共有していた。僕は村上龍の核を初期の作品よりも「テニスボーイの憂鬱」や「走れ! タカハシ」といったポップな作品に見たい。そこでは、軽薄化した、大衆社会の中に生きる個人が描かれているが、しかし同時に、「それだけでは足りない」という焦慮も感じられるる

 「テニスボーイの憂鬱」では主人公はステーキ屋の経営者で金があり、バブルの日本を代表する存在となっている。暇な時は愛人とホテルに行き、しょっちゅう仲間とテニスをする。それだけならただそれだけの事なのだが、そこでは彼ら金持ちは遊びを「強要」されている。遊ぶ事、生を楽しむ事は社会が個人に押し付ける「強要」で、本当はそんなに華やかで愉しいだけのものではないという事が、微かに作品の背後に現れている。この寂寥感というのは村上春樹・高橋源一郎にも共有されている。僕は、この寂寥感がなければ彼らの作品にはほとんど大した価値はないだろう、と思っている。もしこの寂寥感がなければただ現状肯定のだらだらした文学があるだけで、現実に対する否定と乗り越えの契機がない。

 高橋源一郎の場合は「さようなら、ギャングたち」に寂寥感が刻印されている。作品自体はポップな乗りで、記号的な操作といういわば、いかにもポストモダンな文学なのだが、その背後に寂寥感がある。社会の潮流の中で人々は遊び、楽しみ、生きていく事に満足していたが、同時にそこには物質的な事が全てになった事に対する違和感や寂しさがある。記号的な遊びの中で、微かに世界に対する違和感と寂しさがある。こうした違和感や寂しさがなければ、文学というのは単に、社会肯定のイデオロギーを持って大多数に受けいられる安易な媒体(あるいは意味もわからず芸術を気取るスノッブな遊び)でしかないだろう。

 村上春樹についてはもう書いたので省略するが、要するに、村上春樹・村上龍・高橋源一郎らにはこうした現実に対する違和感のようなものがかろうじて存在した。また、彼らは「ポストモダン文学」らしく、軽いものと重いものをあえて取り違えるという事をした。糸井重里もそうだが、彼らは自身、重たい教養とか知識とかを持っているものの、「あえて」軽いものを全面的に前に出すという事をした。ここでは「あえて」という言葉が重要になる。「重いもの」が重大な時代は過ぎ去り、軽いものが全てとなった、今はそういう時代だから自分達は軽いものを主題とする。が、重いものを知らないわけではない。知ってはいるが、「あえて」そうするのだ、という転倒的な価値観があった。この辺りは、タモリなども共有している。

 ここまで、僕の理解の範囲の及ぶ所だし、共感もできる。が、それから下の世代からは僕にはとうとうわからないものとなった。具体的には「よしもとばなな」以降と言っても良い。そこでは重いものを知っているものの「あえて」という、「あえて」の感覚すら消失した。そこでは本当に「軽いもの」が全てとなり、それが全てとなると、もはや対比する条件そのものが消失するので、文学全体が圧倒的に軽薄化した。が、この軽薄化はどういう意味を持っているのか、僕らは理解できない。なぜなら僕らは、軽薄化したものを対比する「重いもの」を全く知らないし、そんなものは知らなくていいといアナウンスが満ち満ちているからだ。

 こうして文学という場所は、単に、日常の細かな事を追いかけるものになった。就職活動をして、彼氏がいて彼女がいて、あらかじめ鎖のついた人間的葛藤に終始し、それなりの文章で全体を修飾すればそれが文学だという事になった。この傾向をライトノベル、異世界小説、YouTuberという現象にまで拡大していっても大して問題は変わらないように思う。僕達は自分達に嫌なもの、深刻なものがあるとそれを「異常」「不健全」の領域に放り込んで、後は自分達の愉しみに終始する事になった。僕達はもはや、自分達の幻想で満足するようなった。文学というものはこの幻想に違和感を呈し、真実を露出させる事が可能な媒体であるが、それよりもむしろ、幻想を強化する方向に走り出した。

 中村文則が文学的、実存的なものを前に出していても、それは結局、物語として我々が消費されるために、一時的に現れるだけの話であり、事情は以前と全く変わらない。穏やかな日常をちょっと疑ってみせるという文学的行為も、「そういうのが文学だよね」というファッションの中に吸収される事を最初から「アテ」にしているために、読むに足りるというほどでもない。文学者・芸術家という人達もみんな性格は良いであろうし、色々なルールを守るだろうし、彼らの作品も規範を乱すような顔をしても実は僕達の境界線の内部にきっちり収まっている。僕達の世界では、もはや芸能人の生死すら消費される情報媒体となってしまった。

 「軽いもの」が全てとなった社会ではどんな「重いもの」もその受け取り方自体が軽いものとなってしまう。「ハイデガー」「ニーチェ」のようないかにも重たいものでも「ニーチェを読んで年収アップ!」みたいなノウハウ本になりかねない。(そんな本があるかは知らないが) こうして世界は単一化されたが、その事について疑問を持つ事をイメージする事すら不可能なほど、僕らは同質の空間に溶けてしまった。

 その虚偽の極地とも言えるのが、青山七恵だったりする。青山七恵の、実質的には内容がゼロで、少女漫画的感性しか持っていない(少女漫画の中には一流の芸術もあるがここでは類型的に使う)作家が、色々な手管を施し、書いているものをリアリズム・文学の水準に微妙に合わせていく。実際の現実を描かず、微妙にズレた、作家にとって極めて好都合で矮小化された問題しか提出できない空間が作品の中でできていく。しかし、現実だって青山七恵の小説を模倣している。だから我々はルールを破る異常者が出ると、徹底的にその人間を排撃し、自分達の「外」に放り出す。青山七恵の小説は極めて矮小化された現実を模倣するよう描いているが、現実の方でも、そうした矮小なフィクションを模倣するように現れていく。単純な善悪感で構成された「シンゴジラ」がここまで受けるという事は、僕達そのものが随分単純化している事を意味していると思う。

 こうして文学というものは、現実に対する否定も違和も失い、単にファッションとして否定や違和を時折挿入してみせるというものに成り果てた。結局、文学というものも多くの人に消費されるものであり、「商品」の一部であるから、一時的といえども、人々が望む作品を紡ごうとするのは当然の事だ。

 しかし、純文学という奇妙なジャンルでは、大衆におもねっているものの、萌えアニメのような思い切りをつける事もなく妙な「芸術的」という冠を着せたがる。ここに文芸誌の苦しみがあるのだろうが、部数が減っても芸術的な高さを守ろうという気概もなく、少年ジャンプのように大衆向けに徹する思い切りもない。どちらも行けずまごまごとして、「純文学」の看板を掲げつつ、出てくる作品はエンタメ作品であり、何の洞察も必要としない作品だというのが今の「純文学」の実情なのだろう。

 こうした軽い状態、軽い空間、文学者達が皆、健全化した状態が今の文学空間であると思う。この状態を、またひっくり返す事はほとんど不可能に近いだろうし、今の文壇にはそれは不可能だろうと思う。高橋源一郎の最近の対談やエッセイを見ても、村上春樹の新作にしろ、彼らの感性はもはや色褪せている。それは彼らが年を取ったからというより、彼らの方法論がある時代に限定的だった事から来ている。彼らは「あえて」軽いものを前に出したが、もう軽いものしかない状況では、白色に白色を塗り重ねるようなもので、何故彼らがそんなポップな姿勢を見せようとしているのか、もはや今の僕達には理解できない。糸井重里や高橋源一郎がどう自己規定していようと、下の世代である僕らにとっては普通のインテリ、普通の知識人でしかない。つまり、彼らの話している事は僕らのビビッドな現実に響いてこない。

 こうした文学の下降の代わりに上昇してきたのが、アニメ・ゲーム・漫画・バンドミュージックなどのサブカルチャー文化だと僕は理解している。今はサブカルチャーについて論じている余地はないので、この文章はここで終わる。現在、僕らはこのような空白の現象の只中にいる。そしてこの空白の現象に対し、あるいは芸人の又吉直樹を入れ、あるいは過去には若い女の子二人ーー綿矢りさと金原ひとみを持ち上げる事により、なんとかテコ入れしようとしてきたが、実際、こうした事は一時しのぎにすぎない。こうした一時しのぎはいつまでも続くものではないと僕は思う。まずは現在自分達が陥っている状況を見極める事が先決だと思うが、作家らの言葉は「〇〇という作家の影響で~」「文学はもう一度蘇る」のようなよくわからない言葉であり、現実に対する認識も文学に関する深い掘り下げもあまり見られない。

 僕は狭義の意味での文学の先行きは暗いと思う。が、当然、メルヴィルのように、陽の当たらない作家がどこからか出てくるかもしれない。それはまた、インターネットあたりから出てくるかもしれない。そんな風に思う。(すでにThe Red Diptychという優れた批評が出現している)

 対話としての芸術



 自分のブログもやや読者数が増えて、議論のような事もする事が増えた。

 「それぞれが意見交換して切磋琢磨すればいい作品が生まれるに違いない」という意見というのは一般的にある。が、これは事、芸術には当てはまらない。それぞれの意見が交わされ、それぞれ皆が一致したものがいい作品だというのは、おそらく「最終的には」正しい。傑作というものは確かに、時間の層、多様な人々の層をくぐって現れきたものだからであり、この判定にはそれなりの重みがある。

 だが、人は通常、自分が何を本当に良いと感じているか、なかなか自分でも気づいていない。それで「二年前には大ハマリしていたけど、今は全くなんとも思わない」という作品もでてくる。それぞれの価値観が交差して、最も多数の票を得たのが最もいい作品とは限らない。ここに芸術の難しさがあるし、面白さもある。今は大多数の人に見捨てられているが、いずれ俺の作品は世に認められるだろう、という自負が生まれる機縁がここにある。もちろん、大抵はこの自負は単なる自負にとどまるが、これが真実である場合もある。

 これがスポーツであれば、こういう自負は(ほとんど)許されていない。スポーツの世界では、(ほぼ)結果が全てで、最も良い結果を出している選手こそが最も素晴らしい選手だと言っても、概ね間違いではない。最も得点を取り、アシストもして、チームを勝利に導いているバルセロナのメッシこそが世界最高の選手だと言っても、それほど反論は起こらない。しかし、日本で最も売れているアーティストはAKBだから、AKBこそが日本最高のアーティストだと言うと、きっと反論が起こるだろう。とはいえ、完全に無名のアーティストを世界最高と言うにはそれなりの根拠が必要になる。この微妙なすれ違いの中に、数字で計れないあるものがある。

 芸術批評家というものが何故存在できるのか、単に批評したり鑑賞したりするだけで、どうしていっぱしの顔をしていられるか。それはなぜかというと、この微妙な構造があるためだと思う。つまり、僕達は「何が良いか」という価値観そのものがあやふやな世界ーー文学・芸術ーーにいるのであって、このあやふやな場所では指標が必要となる。ここで自分の価値観を磨いたものが、自分以外の人に価値観を伝達する事が一つの仕事となる。芸術批評家はこの場所に立脚する事で、始めて自分の場所を持つ事ができる。…もちろん、今の批評家が村上春樹を無理矢理褒めて、ようやく出版社から仕事を貰えるという状況であるというような外的な事は、別の話ではあるが。

 最初の話に戻ると、議論や批評がそれぞれに成されるのは良い事だというのは、たしかに本当の事だろう。が、考えの浅い人間千人の話は参考程度にしかならないと思う。逆に、考えの深い人間は自分の中で無限の(深い)討論を重ねている。優れた文学作品においては、作者自身の自己との無限の問答が、ほんのちょっとした会話の中にも折り重ねて入れられている。ある優れた作家が、一つの思想を背負って、一つの作品を作る。すると読者である僕達には、その作品は作者の単一の思想を表すものに見える。これは正しい見方だ。が、偉大な作家であれば、単一の思想を作るために彼の中に無限の他者を飼って、他者との葛藤・問答・対決をしつこく続けてきたはずだ。本当に豊かな作品の内部には作者の内部での、無限の他者との会話が投入されている。僕達は優れた作品を見たり聞いたりする時、見えない他者の存在を感じる。多分、作品の「豊かさ」とはこのような、作品の中に投入された無限の自己対話なのだろう。

 そして、鑑賞者としての僕達はそれをまた、一つの作品として見る。ここに新たな対話が始まる。つまり、作者にとって作品とは対話の終点であるが、鑑賞者にとって作品とは対話の始まりである。良い芸術作品を見るにはまず、良い鑑賞者でなければならない。鑑賞者はまず、目の前の作品と真摯に向かい合う。彼は作品と自分を突き合わせて、語り合いを始める。こうして時間の中で無限の対話は行われていく。おそらく、芸術の歴史とはこのような作者→作品→鑑賞者→作者→作品……という対話の連続なのだろう。こうした連続する対話が芸術の歴史を作っている。

 つまり、作品は鑑賞者に開かれており、鑑賞者は創作家になる機縁を持ち、創作家はやがて作品を生み出す。その中で絶えず、外部の他者を「対話」という形で自分の中に折り込む葛藤が続いていく。芸術というものはそうした長い対話であるように思える。過去に照明を当てられるのは現在の特権だ。おそらく未来というのは過去との無限の対話によって形作られていくのだろう。

「ありがとう」とみなさまに語る詩

  
 

ぼくの
ことばを
ぼくは
磨いた

世界は
終わった
ひとひらの



人間達がいつも
怒鳴ったり騒いだり
でも、時には愛が
生まれたり潰えたり


そんな中で一切れの
スイカを食べる
スイカ、SUICA、西瓜
いろいろな表記法があるけれど
あの甘い味は一つ
塩をかける人もいるけどさ


人間達よ
どうしてそんなに騒いでる?


ぼくも一杯
やらせてくれよ


色々な人が
色々な事を言う
「君はセンチメンタリストだ」とか
「君は現実主義者」だとか
「君は現実を忘れている」とか
「君は現実にしがみつきすぎている」とか


それら色々の言葉がそれぞれの光彩を放って
ネットの宙〈そら〉を駆けている


それはなんとなく真空に掛る
エーテルの橋に似ている


(エーテル? それってアインシュタインによって否定されたんじゃなかったけ?)

 
…無論、エーテルは存在する
僕の心の中に


                         謝辞

 この詩を書くために、僕は三十一年と五ヶ月の命を神から貰い受けました。神に感謝いたします。

 僕が言葉を発するために、日本国の公共教育機関が少なからず役に立った事を僕はここに吐露します。ありがとう、日本の公共教育機関。ただ、もう少し優しくしてもいいんじゃないかと思った事もあったけれど。

 僕が詩を発表するために、毎日膨大な情報が流れるネット空間が必要された。ネット空間よありがとう。たくさんの「デマ」と「YouTuber」と「ホモネタ」と「アニメMAD」と「異世界に行く小説」と「時事ニュース」と、それへの「正論」が膨大に流れるインターネットという二十一世紀のインフラよ。ありがとう。おかげで僕の詩も情報の「塵」になれた。

 最後に、この詩を読んでくれた読者よ、ありがとう。もしあなたがいなければ、この詩は単なる独語に留まっただろう。僕は元来、独語が好きなのだが、たまには他人を必要とする事もある。ありがとう。

 最後に、世界よ、ありがとう。存在していくれて。

 そして存在しない世界を、世界の破滅を夢想し、それを実現する事さえ可能にしてくれる世界の『有様』、それ自体にありがとう。この世はなんだって起こる。大量虐殺も、僧侶の自己犠牲も、イエスの刑死も、なんでもありうる。そんな世界よ、ありがとう。ライプニッツ的な意味ではなく、ありがとう。

 とにかく、なんだかありがとう。それではまた、みなさま。さようなら、しばしの間。