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詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

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〈批評〉
伊藤計劃論 (有料250円) http://mjk.ac/yQ7GYb(Amazon「伊藤計劃論」で検索)
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サリンジャー論  http://p.booklog.jp/book/95042/read
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ベラスケス「ラス・メニーナス」  http://p.booklog.jp/book/108344/read
芸術論集 物と精神 (ブログの記事を集めたもの)   http://p.booklog.jp/book/107963

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「ありがとう」とみなさまに語る詩

  
 

ぼくの
ことばを
ぼくは
磨いた

世界は
終わった
ひとひらの



人間達がいつも
怒鳴ったり騒いだり
でも、時には愛が
生まれたり潰えたり


そんな中で一切れの
スイカを食べる
スイカ、SUICA、西瓜
いろいろな表記法があるけれど
あの甘い味は一つ
塩をかける人もいるけどさ


人間達よ
どうしてそんなに騒いでる?


ぼくも一杯
やらせてくれよ


色々な人が
色々な事を言う
「君はセンチメンタリストだ」とか
「君は現実主義者」だとか
「君は現実を忘れている」とか
「君は現実にしがみつきすぎている」とか


それら色々の言葉がそれぞれの光彩を放って
ネットの宙〈そら〉を駆けている


それはなんとなく真空に掛る
エーテルの橋に似ている


(エーテル? それってアインシュタインによって否定されたんじゃなかったけ?)

 
…無論、エーテルは存在する
僕の心の中に


                         謝辞

 この詩を書くために、僕は三十一年と五ヶ月の命を神から貰い受けました。神に感謝いたします。

 僕が言葉を発するために、日本国の公共教育機関が少なからず役に立った事を僕はここに吐露します。ありがとう、日本の公共教育機関。ただ、もう少し優しくしてもいいんじゃないかと思った事もあったけれど。

 僕が詩を発表するために、毎日膨大な情報が流れるネット空間が必要された。ネット空間よありがとう。たくさんの「デマ」と「YouTuber」と「ホモネタ」と「アニメMAD」と「異世界に行く小説」と「時事ニュース」と、それへの「正論」が膨大に流れるインターネットという二十一世紀のインフラよ。ありがとう。おかげで僕の詩も情報の「塵」になれた。

 最後に、この詩を読んでくれた読者よ、ありがとう。もしあなたがいなければ、この詩は単なる独語に留まっただろう。僕は元来、独語が好きなのだが、たまには他人を必要とする事もある。ありがとう。

 最後に、世界よ、ありがとう。存在していくれて。

 そして存在しない世界を、世界の破滅を夢想し、それを実現する事さえ可能にしてくれる世界の『有様』、それ自体にありがとう。この世はなんだって起こる。大量虐殺も、僧侶の自己犠牲も、イエスの刑死も、なんでもありうる。そんな世界よ、ありがとう。ライプニッツ的な意味ではなく、ありがとう。

 とにかく、なんだかありがとう。それではまた、みなさま。さようなら、しばしの間。

主人公の内面を客体化して、小説作品を自立させる (伊藤計劃・ドストエフスキー)

 


伊藤計劃「虐殺器官」における一人称の語り口は、ドストエフスキー「未成年」の一人称に似ていると思う。一人称の使い方は僕にとっても重大な小説技法なので、分析してみよう。まず、二つの作品の冒頭を並べる。

                         ※

 『わたしは自分を抑えきれなくなって、人生の舞台にのりだした当時のこの記録を書くことにした。しかし、こんなことはしないですむことなのである。ただ一つはっきり言えるのは、たとい百歳まで生きのびることがあっても、もうこれきり二度と自伝を書くようなことはあるまいということである。実際、はた目にみっともないほど自分にほれこんでいなければ、恥ずかしくて自分のことなど書けるものではない』 (ドストエフスキー「未成年」)


 『ぼくの母親を殺したのはぼくのことばだ。

 たっぷりの銃とたっぷりの弾丸で、ぼくはたくさんの人間を殺してきたけれど、ぼくの母親を殺したのは他ならぬぼく自身で、銃も弾丸もいらなかった。はい、ということばとぼくの名前。そのふたつがそろったとき、ぼくの母親は死んだ。
 これまでぼくはたくさんの人間を殺してきた。おもに銃と弾丸で。
 刃物で殺したこともあるが、正直言ってあまり好きなやり方じゃない。』 (伊藤計劃「虐殺器官」)

                         ※

 どちらも抑制のきいた、響きの良い語り口を採用している。どちらも読んだ事のない読者に紹介しておくと、両小説とも、未熟さの目立つ青年が主人公となっている。この「未熟さ」を作者は意図的に、前もって計画している。

 ドストエフスキーの方から行こう。ドストエフスキーのこの小説は「未成年」というタイトルにその思想が集約されている。だが、「未成年」の語り口は全体的に生真面目で、真剣で、冷静、理知的な文章である。

 一般的な論点に移るが、例えば、あなた自身が未熟な人物だとしよう。すると、あなたは自分が未熟である事を意識できない。あなたは、自分の精神的定位を基準に世界を見つめている。あなたがもし、自分が未熟だと気づく事ができるのであれば、あなたは十分に成熟していると言える。

 例えば、子供の世界というのはそれ自体でひとつの世界を成している。子供の世界は「未熟だ」というのはあくまでも大人から見られた子供の世界の話だ。子供の世界は、子供の世界として百%、十全に機能している。人間は自分が未熟である事を意識しえないし、意識しえた時、その人は過去の未熟さから脱した時だと言えるだろう。

 「未成年」の主人公はタイトルどおり、「未成年」である。主人公は妙に生真面目で、冷静で、理知的な語り方をする。しかし、そんな語り方しかできないという事が、主人公が未成年である事の証なのだ。彼は未熟であるが、自分の未熟を絶対に認めようとせず、大人と対等に張り合おうとする。自分はいつも冷静で理知的で、威厳に満ちているという姿勢を示そうとする。その姿勢は語り口にも現れている。しかしだからこそ、この人物はまだ未熟さの残っている人物だ。つまり、ある個人の未熟さ、未成年たる所以は、語りの内容としては表されない。

 ある個人が未熟であるとするなら、それは「語り口」として、「語られず示されるものだ」というのが作家ドストエフスキーの洞察だった。だから、ドストエフスキーは最初から最後まで主人公の心理をしっかり抑えて、洞察しつつ、書いているのである。つまり、主人公は一重に自分を語っているだけだが、作者は主人公の内面と、それを抑える作者の内面と、二つの内面を同時に持っている。

 同じ事は「虐殺器官」にも言える。虐殺器官のナイーブな語り口は、主人公の未熟さを示している。主人公は三十才なのだが、まだ成熟できていない。彼は殺し屋として恐ろしく有能なのだが、精神は未熟なままに留まっている。それは彼が消費サイクルに飲み込まれており、システムの一部となっていて、人殺しの仕事も単に「仕事」として任務を遂行するだけなので、いつも本当の自分に出会えないからだ。責任と苦痛を除外された個人は、人として成熟する事ができない。だから、恐ろしく有能な殺し屋もどこか青臭い語り方をせざるを得ない。ここに作家伊藤計劃の洞察がある。

 つまり、伊藤計劃にしろ、ドストエフスキーにしろ、彼らは語りの外部に位置しながら、何故主人公がそんな語りをしなければならないのか、よく理解していた。ここに作家としての根底的な技術がある、と僕は見たい。

 「小説というのは誰でも書ける」という話がある。それは確かに、一見そう見えるし、そんなレベルの小説がベストセラーになる事もある。しかし、根底的に作家である事、その技術を身につける事は他の分野のエキスパートになるのと同様、非常な難しさを伴う。それは、文体を弄ったり、物語を妙に長たらしくしたり、知識をつけて云々…という事ではなく、小説というものがそのような形で表される事に、作家がきちんとした根拠を持つ事、そこに作家の技術がある。この場合、ドストエフスキーと伊藤計劃は主人公の語りの意味を理解している。これを普通の小説とくらべてみよう。

 『階段を駆け降りホームに着いた途端、京都の十二月らしい風が頬に冷たい爪を立てながら、吹き去った。マフラーを風に巻きつけ、ホームを端まで歩いた。端に着くとちょうど、熱気で曇った車内の窓にへばり付く乗客の固まった視線を一瞬だけ覗かせる満員の新快速が、風を起こしながら通りすぎた。』

                              (シリン・ネザマフィ 「拍動」)

 手元にあった文芸誌から適当に選んでみた。こういうのを「うまい文章」というのかもしれない。確かに、芥川賞候補になって芥川賞ぐらいは取りそうな文章だ。

 冒頭の部分から、読者は主人公の内面に同化される事を求められる。しかし、読んでいても主人公と作者の感性、情念、心理が分離しているとは感じない。「ホームを端まで歩いた」という文章は主人公が歩くのを、作者が客観的位相で見ているというよりは単に作者=主人公が「ホームを端まで歩いた」としか読めない。

 「レンコンのはさみ揚げを注文してから、しばらくどうでもいい話が続いた。山本先生が知っていた文学部屈指の美人助手が半年前婚約した話だとか、そのゼミに所属していた男子学生のがっかり具合が学校中の話題になっている話など」…

 こうした描写が続くわけだが、こういう文章の時、「どうでもいい話」と思っているのは、主人公であると共に、作者であるようにしか見えない。最近の作家の大半はこういう書き方をしているように思う。そこでは、どんな主人公を設定しようが、結局、作者が自分自身を相対化する力が弱いために、作者と主人公が同一化されていってしまう。もちろん、主人公は作者の「一部」ではある。だが、作者と主人公が全面的に同一化する必要はない。主人公の語りが作者の主観の垂れ流しにしかなっていない作品というのはよく見かける。そしてそれは、表面上は「未成年」や「虐殺器官」と同じように見える。しかし、根底的な部分でそれは違っている。

 こうした事は当然、作品の主題、内容にも影響していく。伊藤計劃やドストエフスキーの作品では、作品全体を統御する視点がある。それらの作品では、ある個人がある社会条件で、どのような推移をたどるのかという作家的洞察がある。彼らは物語をうまく作ったわけではない。むしろ、ある内面を持った個人がある社会で生きようとした時、どんな物語が現れてくるのを推察し、それを見つけ出したと言った方が良いだろう。伊藤計劃の場合は未来の社会において、責任と苦痛が除外された個人が再び自分自身であろうとする悲劇をテーマとし、ドストエフスキーにおいては当時のロシア社会でこのような、観念的な青年が出てくる事を理解していた。

 一方、シリン・ネザマフィ的、その他の「日常描く純文学系作家」は洞察しない。彼らは日常に埋没する。シリン・ネザマフィの「拍動」をめくると、そこに日本に済む外国人の文化的軋轢のようなものが扱われている。シリン・ネザマフィというのは日本名ではないから、作者自身そんな体験があったのかもしれない。しかし、ここでどんな体験があり、どんなテーマを問題としようと、そこで現れているのは作家個人の問題でしかない。作家個人の問題でしかないというのは、作家が自分自身を相対的に、客体的に扱う事ができていないから、作家個人の問題にとどまるというほどの意味だ。

 作家が自分に起こった事を活字にする事でたやすく普遍性を得られるというのは間違いだと考える。自分が人殺しをしたから、人殺しの話が書けるというのは、小説は事実を書くという割り切り方をしているから出てくる考え方だ。ただ、実際の所、読者もそんな見方をしている。

 例を二つあげる。最近、二つの小説が売れた。一つは又吉直樹の「火花」。もうひとつは最近話題になっている「夫の〇〇○が入らない」。(〇〇○は調べてもらおう) 一つ目は作者自身が芸人であり、作品も芸人の話というのが圧倒的に大きい。ここでどんな事が起こっているかと言うと、作品の自立性のなさを、作者(芸人)の身体性が補っているという事だ。芸人としての又吉直樹はテレビで見て知っている。その像を作品に写し出して読むために、作品は作品単体以上の価値があるように思われる。「あの」又吉直樹が「こんな」作品を書いたか、という評価につながっていく。

 二つ目の作品はタイトルの時点ではっきりしているが、タイトルと事実の奇異さで受けているという事だろう。しかし、「事実の奇異さ」「タイトルの奇異さ」で受けているのはそもそも問題だ。この小説の読者は作品をノンフィクションとして読むだろうし、彼らはそれが事実でないと知ったら、落胆するだろう。夏目漱石研究者は夏目漱石の経歴に必死に不倫の事実を読み取ろうとするが、それは話が逆だ。夏目漱石の小説の偉大さが見えているから、作者もそういう経験があったにちがないと感じ、そういう過去を探し求める。だが、些細な事実ではなく、偉大な作品を目の前に置いて、その真価を僕達は見出すべきだ。今の状況ではなんのために文学があるのかわからない。こんな状況では、吉本とジャニーズにかわりばんこに芥川賞をあげればさぞ文学界は盛り上がる事だろう。(最近、文學界はタレントに文章を書かせたりしているので、案外、絵空事ではないかもしれない)

 話を元に戻そう。伊藤計劃とドストエフスキーの作品が、作者が語りを統御している立体的な作品とみなすと、シリン・ネザマフィはじめとした作家の作品は平板な作品と言える。作品に倫理的指向性が感じられないのは彼らが倫理的な人間ではないから、ではない。そうではなく、平板な作品を書く作家は自分の内面を対象化できていない。これを話の最初に戻すと、彼らは本当に未熟であるから、未熟な個人を描く事ができない、と言う事ができるだろう。

 伊藤計劃、ドストエフスキーの作品には平板な作品にはない「意味」がある。それは作者の世界洞察から出てくるものだ。作者は世界を洞察しつつ、ありうべき物語を書いている。ありうべき主人公の内面を書いているが、それは描くべき価値のある内面だと作家が信じているから描いているのだ。一方で普通の作家は自分の内面を価値があると無条件に信じている。いや、彼らはそれを信じると感じる事すらできないほど自分の内面と溶け合っている。それがために、彼らの作品がどんな広大な野心なものに満ちているものであり、どんな政治的テーマ取ってこようと、作品は平板で卑小なものにとどまる。

 最近起こった大きな地震やテロをテーマにしているから、作家は世界に「コミット」しているなどというのはあまりに馬鹿げた話だ。作家は世界に直接言及する必要はない。が、作家は世界を「踏まえる」必要がある。この世界はどんなものかという認識の上に主人公が屹立する。そうして始めて、意味のある作品が生まれる。

 「作品」は自分と他者とを統合できる手段であるが、ここに立体的な指向性がない場合、単に作者の主観の垂れ流しを我々は聞かされるはめになる。この場合、作者と読者の立場が近ければ共感もできるだろう。作者が特異な感性、経験の持ち主ならそれを面白がれるだろう。だが、それは「普遍性」ではない。普遍性とはおそらく、自分を越える事で、他人をも越える何かだろう。この時、小説は立体的な立場を持つ事になる。主人公は作者が価値あると、理性的に判断する事によって現れてくる。すると、読者はこの理性的判断を最後には認めなければならない。では、何故、認めなければならないか。それは作家の理性的判断が、つまる所、個人や世界のあり方を踏まえた偉大な洞察だからだ。

 小説家というのは単に、自分の経験や主観を垂れ流して、世の中に是非を問うものではない。他人と自分との間の立場、価値観の断絶を感じて、それを物語という形式によって越えていく事ができる存在である。だからこそ、主人公は作者とは違う内面を持って、自主独立しなければならない。言い換えれば、作者が、自分に希望を抱いている間は、自分の主観を世界に訴えかけ続ける事ができる。作者が世界に直接呼びかけてももう無駄だと悟る時、彼の中でもう一人の主人公が立ち上がる。おそらく、この主人公は、作者と世界の断絶を正に「生きる」のである。その例としてはカフカを出せば十分だろう。カフカは世界と私の断絶において、「私」の正当性を直接訴えなかった。また同時に、世界に完全に服従する事を潔く認めたわけでもなかった。そのどちらにも行けないという辛い思いを、カフカの主人公は正に「生きた」のだ。だから、彼の作品では主人公は生きているか、少なくとも生きようとしている。ここに作家としての像が見えてくる。

 多くの読者が面白がっている観点、作家が自分を飾り立てるために作品があると考えている場所、そうした場所からは傑作は生まれてこないだろう。傑作とはおそらくーー作者自身が一度死んだ所から生まれてくるに違いない。作者の屍の後に、主人公は自立してあるきだす。ここに世界と作家の断絶が埋まる事になる。だがこういう作品を生む前にまず作家はこの断絶を身をもって体験しなければならない。そのためには作家はまず人生を生きなければならない。そして人生の辛さを思い切り身に刻まなければならない。

源氏物語に見る文学の原型

 


 最近、気になって源氏物語について調べていた。源氏物語、ダンテの神曲、オデュッセイアなどはおそらく傑作なのだろうが、叙事的で自分には苦手な作品だ。ただ、折口信夫の批評を読んでなるほどと思った所もあるので、そうしたものを基準に、文学の原型について考えていこうと思う。前の村上春樹論では村上春樹を批判したが、批判した以上、村上春樹が文学というものにどこまで肉薄し、どこで落伍していったかについても示さなければいけない。源氏物語を例にとって考えてみよう。


 まず、源氏物語というのは単純に当時の恋愛、「色好み」、絢爛豪華な平安の恋愛について描いた作品ではない。もしそうであったなら、そうした作品が世界文学となる事はなかっただろう。文学というのは単に現実に埋没したものではない。そもそも、単なる、平安の恋愛ー絢爛豪華ー日本らしいーという漠然とした、通俗的な物の見方しか現れていないならば、そんなものは傑作として現代に蘇る事はありえない。アーサー・ウェイリーのような優れた詩的感覚を持った人間が鋭敏に反応する何かが、源氏物語はあったはずだ。そうでなければそれは傑作とは呼べないだろう。


 では、どんな所が源氏物語の傑作たる所以なのだろう。僕は源氏物語を通読していない(というかほとんど読んでいない)ので、折口信夫を例に考えていく。折口信夫は源氏物語のテーマを次のように書いている。

 『自分の犯した罪の爲に、何としても贖ひ了せることの出來ぬ犯しの爲に、世間第一の人間が、死ぬるまで苦しみ拔き、又、それだけの酬いを受けて行く宿命、――此が本格的な小説の「テーマ」として用ゐられると言ふことは當然ではないか。』

 折口信夫は源氏物語に仏教の倫理ーー『因果応報』の原則が貫かれている事を見る。源氏は若い頃の奔放な恋愛をするのだが、それは彼が年を取ってから、自分の愛人が若い男に取られるという、因果応報の形を取って現れてくる。その事に源氏は苦しむ。


 科学史家の伊東俊太郎が源氏物語について書いた文章でも、似たような記述が見える。浮舟という女性キャラクターは、様々な男に翻弄された後、その事に嫌気が差し、最終的には出家する。伊東俊太郎はここに、日本型の女性の自立を見ている。この場合は因果応報というわけではないが、仏教的倫理が常に、現実の社会風俗(つまり平安の貴族的駆け引き・恋愛)の背後に閃いているという事は同型である。


 浮舟が『女性の自立』だというのは賛否あるだろう。僕はそういう見方もできるが、紫式部はもう少し柄の大きい作家だったではないかという気がしてくる。浮舟が出家し『色好み』から解放されるという過程は、源氏が『色好み』の中で苦しむという過程と裏表を成していると言える。僕はここに、仏教的な倫理によって当時の社会風俗を批判的に描いている一人の優れた作家というのを見たい。ダンテの神曲と比べると、ダンテはキリスト教的倫理によって当時の社会風俗を批判的に描いている。「ダンテーー男性的ーーキリスト教的」、であり、「紫式部ーー女性的(作者が女性というより表現など含めて)ーー仏教的」という違いはあるが、これらは似たような構造ではないか。もっともこうした事を僕はまともに読まずに想像で語っているので、あくまでも文学を考えるツールとして源氏物語を利用しているという事は強調しておく。

 これまで書いた所を整理していくと、源氏物語には二つの要素が互いに絡まりあってできている、という事になる。つまり、当時の貴族的恋愛、社会風俗を描くという現実的要素と、それらに意味づけを行い、それが何であるかという結論部となる仏教的倫理と、である。これはわかりやすく言えば、現実の生は過程的であり、倫理は結論的である。紫式部は仏教的倫理を使って当時の現実を俯瞰的に描いてみせた。この場合、当時の現実、恋愛的要素を如実に描く術が欠けていても、また、それらを意味づける思想の深さが欠けていても、どちらか一方でも欠けていれば源氏物語は世界文学とはならなかったに違いない。源氏物語はその二つをうまく融合している。だから、構成としてはよくできているし、世界的なレベルにある文学と言える事になるのだろう。

 ここまで大雑把に源氏物語を見てきたのだが、これまでの分析はあまりに図式的すぎると感じる人もいるだろう。僕自身もそう感じているので、もう少し、創作の内部に入り込んだ分析を行ってみよう。ここでも折口信夫を使う。折口信夫は重要な事を書いている。

 『源氏物語を書くのに、作者は何を書こうとしたかと言うと、源氏が一生に行った事にあるのではない。源氏の生活の中から、作者が好みのままに選択して、こう言う生活をした人に書こうという風に、或偏向を持った目的に源氏が生きて行っているように書かれたと思うのは、どうかと思う』

 『源氏自身が其生活に、我々の考えるような目的を常に持ってしている訣ではない。唯人間として生きている。ところが源氏という人間の特殊な性格と運命が、源氏の生活を特殊なものにして行っている。併、たとえば実在の人物として考え、後から其生活を見ると、自ら一つのまとまりがついていて、此方向へ進もうとして居たことが考えずには居られぬ。そこに人生の筋道が通っているのである。唯作者が勝手にぷろっとを持って作った型ではなく、源氏の生活の中に備っている進路に沿って書いているのだと言える。』

 少々長いが、文学、創作というものを考える上で物凄く重要なポイントなので引用した。折口信夫はここで重大な事を言っている。まず、次のような語句が見られる。

 「源氏物語を書くのに、作者は何を書こうとしたかと言うと、源氏が一生に行った事にあるのではない」
 
 現代においては、小説、アニメ、ゲーム、あるいはその他の企業の商品作りや宣伝、そうした様々なものはみな、このように見られている事だろうと思う。つまり、あらかじめ、作り手の側が細部まで計算し、頭で考えて、「源氏の一生」を描こうとした、というような事だ。相も変わらず陰謀論がはびこるのは、実はこうした僕らの思考の根強い習性にもとづいている。つまり、作り手や発信者の側が、あらかじめ色々な事を計算し、その通りにできるという先入観がそうした思考を生む。確かに人間は理性の力、頭脳の力があるので、そうした事が可能に見える。現代の産業社会は、頭脳により先々まで計算できる事、我々が計画に従う、精密な計画を立てられるという能力の上に築かれた。だが、それが人間の全てではない。

 話を文学に戻す。ここで折口は非常に微妙な物の言い方をしている。ネットでの議論やらコメントやらを散々見て、つくづく人はそういう見方をするものだなと感じるがーー人は二択で考える事が好きだ。ここで言えば、作者紫式部は源氏物語を「計画通りに書いた」か、「全く無作為に書いた」か、の二択。しかし、折口はここを微妙な言い抜け方をしている。つまり、源氏の生涯はあらかじめ、作者の手によって確定的に決められたものではない。だが、かといって全て無作為に書かれたものではない。これは現実の人間と同じ事だ。人は一見、自由に生きているように見えるが、人生を俯瞰すると統一的な方向が見えてくる。真の作家は全てを計算して描かない。そうすると、細部が頭脳によって圧迫されてギスギスして、力のないものになってしまうから。かといって、全くの無作為であれば、「作品」という統一性を持つ事が不可能になる。したがって、作品としての構成、統一性を考えながらも、その時のキャラクターの自由(我々の生の自由と同じ)を作家は尊重しなければならない。そこに作家の生みの苦しみがある。

 事実、つまらない作品というのはたいてい、キャラクターが生き生きとしていない。キャラクターが図式的であるが、構成は統一されている。ジブリのアニメ作品は構成、ストーリーは予め整然としているが、キャラクターの性格や意志は固定的だ。宮﨑駿のジブリアニメはキャラクターは「生き生きしていない」というほどではないものの、作者によって頑強に決められた枠に当てはめられている。ここに子供も安心して見られる作品の枠組みができあがると共に、目のこえた視聴者には足りない部分があると思える要素が出て来る。

 『たとえば実在の人物として考え、後から其生活を見ると、自ら一つのまとまりがついていて、此方向へ進もうとして居たことが考えずには居られぬ。そこに人生の筋道が通っているのである。』

 この折口の言い回しは重要だ。作者は源氏の一生を最初から計算づくで書こうとしたのではない。むしろ、作者は源氏という人物がどういう人生を辿っていくか、その推移を見守ろうとした、という方が正しいように思われる。とはいえ、作家の中には、最初からある程度の方向性は見えていたに違いない。つまり、最初に、作家に見えているのは方向性であり、結論ではない。そしてこの方向性とは、人が人生という過程で学ばなければならないもの(仏教の因果応報)である。仏教的倫理は、人生を生きる上で、それに対して当てはめる「枠」ではない。むしろ、人生を生きる過程で現れる結論部である。人は結論から人生を始めるのではなく、生きて迷い、誤ちを犯し、そして何が正しいかを後から知るのである。この順序を逆に僕達は考えてしまう。だから、現代の人間は様々な事を、過去の人間よりも遥かにたくさん知りながら、源氏物語のような優れた作品を産む事ができない。

 折口に寄れば、源氏物語成立後、源氏物語を淫らなものを書いた良くない作品というレッテルを貼った時期もあったそうだ。こうした倫理的な観点から、つまり結論から逆算して過程を黙殺するというのは、現代でも普通に行われている。だが、文学というものの力はそうしたものではない。また、文学というものがそういうものではないというのは、人生もそういうものではない、という事でもある。

 源氏物語は過程から結論に至るまでの全体を取った作品である。物語はそこでは、現実の社会風俗からスタートし、それがどうなるか、どうならなければならないのか、人はどのように生き、どのような場所に至るのか、という道筋となっている。この場合、物語の入り口に立っているのは当時の貴族的恋愛、つまり当時の社会的現実であり、作品の最後に立っているのは仏教的な倫理である。そしてそのどちらも、現実に根付いた事実と倫理である。源氏物語に物語的要素があるといっても、それはあくまでも、現実の描写であり、現実を乗り越えようとする過程で現れる倫理に分解されると考えて良さそうだ。

 これを批判した村上春樹とくらべてみよう。村上春樹は、物語を過程的にとらえているという点では正しい物の見方をしている。村上春樹は結論を作品に当てはめているわけではない。ただ、村上春樹は物語を形式的にとらえている。紫式部においては、現実と理想との矛盾がそのまま物語になったが、村上春樹はあくまでも「文学」という枠組みの中で物語を作っている。村上春樹の作品の端々に出てくる「文学ってこういうものでしょう」「こういうのが文学だよね」という態度は、彼の作品を作る根底的な姿勢からにじみ出てきてしまう。しかし、これは当然村上だけの問題ではない。現代の僕達ーー世界的に見てもーーは、文学というものを「そんな風なもの」として見る事に慣れている。小説を書いて新人賞を取りたい、デビューしたいなんていうのはその代表例であり、先に人生があるのではなく、先に文学がある。文学の形式があって、それによって自分の人生に箔がつくと思っている。

 だが、源氏の人生は、正に人生の現実から出てくる。人間が現に生きている現実を見つめるところ、そしてそれを越えようとする所から物語性が出て来る。僕達はこれを転倒して、結論から過程を逆算して、「世界的な作品」と見て取ってしまう。しかし、紫式部が描こうとした所はそういうものではない。そして紫式部は正に、自分が何を書くべきかを、書いていく事によって知ったのだ。作家にとっての技術は、自分にとって未知なものを現出する事にある。

 …だが、こんな風に言えば、自分の「無意識」に寄りかかってる村上春樹も同意するに違いない。村上春樹に関しては、彼が未知だと思っている自分の「内部」が、現実と断ち切れている事に問題がある。村上が「物語の力」を語る事と文学を「形」としてしか見れていない事は同じ意味を持っている。生と文学、現実と理想はつながっているが、僕らは知らずにそれをどこか途中で断ち切ってしまう。ダンテにしろ紫式部にしろ、おそらく彼らは自身の苦悩や苦痛を経て、この道筋を現に生き、またそれを言葉に現したのだろう。だから、彼らの作品を辿る事は彼らの辿った道を辿る事だと思う。この道筋に物語というものの方向性はあるのであり、この順序を逆にする事で小利口な作家や評論家で現れてくる。人生は誤ちと苦悩に満ちており、それ故、人は成長する事ができる。だかこそ、生には意味がある。そういう人生こそが本当に文学の主題になるのではないか。源氏物語について思考する内、自分はそんな答えが出るように感じた。

幻想としての『村上春樹』

 


 本屋で村上春樹の「職業としての小説家」をパラパラ読んでいた。買わなかったが、今の村上春樹というのは「ナルシスト村上」と呼ばれても仕方ないなという印象を持った。もちろん、元々、村上春樹にはそういう資質があって、自分の中に閉じこもった作品を書いてきたわけだが、その資質が年を取ってはっきり出てきているように感じられた。

 とはいえ、村上春樹は世界的に売れている作家である。その事実は認めなければならない。すると、村上春樹のように自分に閉じこもっている作家がどうして世界的に売れるのか、について考えてみなければならないだろう。

 ネットを見ていて、自分の目を疑わずにはいられないのが、村上春樹の作品をあたかも文豪の作品の一つのように評価している批評が結構あるという事だ。これは自分には信じられない事で、自分はシェイクスピアの作品を読んでその凄さに感嘆し、村上とシェイクスピアというのはとても比べられないと感じる。しかし、シェイクスピアというのはゲーテですらが「叶わない」と言った人なので相手が悪すぎるかもしれない。だがもう少し下げて、サリンジャーとくらべても、サリンジャーにあった本質性は欠如している。

 村上春樹の作品というのは高校生~大学生くらいにはちょうどよい読み物だと思う。基本エンタメだが、哲学的な雰囲気を兼ね備えていて、何か一歩大人の世界に入り込んだような気がする。しかし、実際それは「気」だけで、本当に面倒な問題に突っ込むわけではない。ドストエフスキー、トルストイであれば、色々な社会問題、人間の問題、哲学について考えざるを得ない事になるが、村上春樹は雰囲気だけで十分だ。そして村上春樹が世界的に受けるという事は、大半の人には、基本エンタメ、雰囲気哲学、というので文学は十分だと感じられているからかもしれない。

 村上春樹の作品は「自分へ閉じこもっている」と自分は書いた。しかし、これは村上作品を好きな人には伝わるだろうが、ある種心地よい閉じこもり方である。村上春樹は母性を独占する物語を書いていると批評していた方もいたが、それは正しいと思う。村上春樹作品は、自分の内部に独特な閉じこもり方をする。他者を締め出して、ただ自分の気持ちよい空間のみを作り出そうとする。そしてそれが消費社会で生きる僕達の心性にピッタリ一致する。難しい事、ややこしい事、死、実存の問題は微妙に僕達の外に追いやる。しかし、それらは物語を作る上で雰囲気として入り込んでくる必要がある。この微妙な構造の上に村上作品は成り立っているように思う。つまりそこでは様々な問題が解決されるように見えるが、結局は、問題の解決というよりは問題の回避に終始する。問題の解決(問題との全面的対決)を問題の回避として、解決したかのように見せるという技術が村上春樹には存在している。

 この微妙な構造の気持ちよさというのは確かに存在する。しかし、この詐術の上には安住できない。人はやがて人生の荒海に放り出されなければならない。村上作品の上にいつまで安堵する事は不可能だ。人はいつか村上作品が文豪でなかった事に気づいて、本当の文豪が一体何と戦ったかを見なければならないだろう。…あるいは人は今度は、自分達で「村上春樹」の役割を生み出すのかもしれない。つまり、今度は自分達で幻想を作り、嫌なものを極力遠くに退けようとするのかもしれない。

 村上春樹は自分の事を「小説を書く資格を天から貰った」みたいに話していたが、まあなんと大層な話なのだろう。ドストエフスキーやトルストイや漱石が「私は小説家としての資格を天から貰った」なんて言うだろうか。彼らは皆それどころではなかったし、現実や社会を芸術によって乗り越える事に必死だった。トルストイはその挙句として芸術を否定するに至るが、トルストイの悲劇(喜劇)の意味は村上春樹には理解しかねるだろう。トルストイは人生の深淵な問題として芸術を捉えていたのであり、芸術がそれに耐えられないと見るやいなやそれを放り出してしまった。トルストイの悲劇も、「死せる魂」を焼いてしまったゴーゴリの悲劇も皆、村上春樹には関係ない。文豪にとって文学は死活問題であり、宿命的な意味を持っているがそれは「自分には物語を生み出す才能がある」なんて自惚れるタイプのものではない。

 最も、村上春樹の傍観者的態度は世の中にフィットしている。文学なるものを自分とは違う所で少し離して考える。作者も読者も作品の「雰囲気」に浸る。そして本を離れるとすぐに「文学」は忘れ去られる。

 世の中は自分達が楽しむ為にあり、世界とはその為の道具に過ぎない。社会学者のマックス・ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のラストで不気味な言葉を残している。

 「『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまで登りつめた、と自惚れるだろう』」

 ドストエフスキーは作家の日記で「人間が地中から牛肉を何トンも引き出す事ができるようになっても人間は救われはしない」ーーそうした事を言っていたと記憶している。ドストエフスキーやウェーバーが予見していた当のものに僕達は成ってしまった。すると、その地点から振り返って、ウェーバーやドストエフスキーを眺める事になる。ウェーバーは大学の単位を取る為に存在し、ドストエフスキーは「総合小説」を書くための道具である。我々は既に「心情のない享楽人」だからこそ、その為の道具として「心情のない享楽人」という言葉そのものを捉えている。村上春樹が過去を振り返り、そこから文学的方法論を取り出して行っている事、彼が作家としての自分に誇りを持っている事ーーそれら全ては正に、文豪と呼ばれる人がそうであってはならないと念じていた姿ではないか。村上春樹が自分には小説を書く資格がある、と自惚れられる立場とは一体何か、とは考えない所に村上の自惚れの源泉はある。こうした事を本の売上で糊塗する事は自分には不可能に思われる。

 やがてメッキは剥がれ、真実が顔を出すだろう。そう思わずにはいられない。真実はおそらく、村上作品よりも心地よくはないに違いない。しかし、それ以上に力強い、「本物」であろう。景気の後退が長引き、中産階級が底から抜け落ち始めている今、必要なのは夢を見る事ではない。真実を見て立ち上がる事にある。その時、僕達は村上春樹という夢を捨て去る事だろう。

文学」というジャンルは存在するか




 少し前から「そもそも文学というジャンルは存在するだろうか?」と疑問に思っていた。例えば、インドの神話「バガヴァッド・ギーター」から村上春樹の最新作まで、くくろうと思えば「文学」というジャンルとしてくくれてしまう。これは非常に大雑把なくくりではあるが、括る事は可能である。先に、具体的な作品としてあるものを概念で括るとそこに動かしがたい統一性が必ずあるような気がするが、果たしてこれはそんなに安易に前提してよいものだろうか? 
 
 また、もうひとつは最近の作家が普通に「文学というものの良さを感じてもらいたい」なんて言うという事だ。平野啓一郎や中村文則や青山七恵がやっているのが「文学」であるなら、ドストエフスキーも夏目漱石も同じ「文学」であり、たしかに質の違いはあるかもしれないが、やっている事は同じである。それは、一般の文学に興味のない人からすればそう見えるだろうし、みんな「作家」の括りには入れられるだろう。しかし、それは本当にそうなのだろうか。

 ミハイル・バフチンはドストエフスキーの成した事をアインシュタインのした事に比べていたが、僕はバフチンの言う事は正しいと思う。小林秀雄もドストエフスキーを批評するにあたって、科学のパラダイム転換を例としていた。

 つまり、僕はこんな風に考えている。ドストエフスキーと似ているのは、ドストエフスキーに影響を受けた中村文則や平野啓一郎ではなくて、ぜんぜん違うジャンルで偉大な仕事をしたアインシュタインのような存在であると。知性というのは上の方に行くほど、固有の領域を抜け出して、妙な山頂へと辿り着く。その領域では、それぞれがジャンルを越えて、相互に影響し合う事が可能である。

 ただ、ドストエフスキーがアインシュタインに似ているかどうかというのはここでは主要な問題ではない。話を文学に戻そう。

 例えば、村上春樹がドストエフスキーのような「総合小説」を書きたいと思って書いた作品が実際には「総合小説」にはならず、それなりによくできたエンタメ小説になってしまう事。これはどこに問題があるだろうか。朝吹真理子が「無色透明の言葉を届けたい」みたいにインタビューで言っていたが、果たしてそんな言葉はこの世界に存在するのか。

 「この先、文学はどうなるのか?」という気の抜けた座談会なんてのもそうだが、そもそも文学というものを十分に定義でき、それらを弄び、それらの内部に入ればそれなりのーーつまりは、バルザックやドストエフスキーの仲間入りできるという考えそれ自体に問題があるのではないか、と自分は考えている。

 今の社会というものは消費社会であり、発展途上の社会というよりは、ある程度発展しきったような社会となっている。百年くらい前には、日本には近代文学というものがそもそも何かよくわかっていなかった。だから初期の文学者はみんな語学ができたし、漱石と鴎外は海外留学している。彼らはそもそも文学というジャンルがないから、それを作る事に邁進した。漱石の「自己本位」は自らの手で、自前の文学を作らなければならないという意図にもとづいている。

 芸術というのは不思議な所がある。普通、科学技術であれば、積み重ねがあるので、過去よりも今の技術が飛び抜けて劣っているという事は考えられない。だが、芸術という領域では、積み重ねた上で良いものが出てくるとは素直に言えない。非常に大きな視点で見るとそう言えるかもしれないが、今のロシアにドストエフスキー、トルストイ以上の作家がいるとは考えにくいし、今の日本に漱石以上の作家、作品があるとは考えにくい。もちろん、科学でも今はアインシュタインはいないかもしれないが、少なくとも、科学においてはアインシュタインの定理は消化済みであって、その積み重ねの上で新たな問題・答えが出て来る。

 芸術はそれぞれの個性に基づいているところと、社会・時代の必然的状態が絡み合っているので一概に「こうすべき」とは言えない。

 夏目漱石らが尽力して、また各種の海外の古典などが翻訳され、知識として蓄積され、日本の近代文学というものは成立した。漱石以降の作家ももちろんこの歴史に名を連ね、彼らが日本の文学というはこういうものだと言えるだけのものを、質・量ともに成してくれた。

 本屋で文芸誌を読んでいた時に、韓国の批評家のインタビューが載っていて、非常に面白く読んだ覚えがある。その批評家の話では、韓国にはきっちりと歴史が書けるような「韓国近代文学」と呼べるものははっきりないと言う。また自分が意外だったのが、その人は日本の文学を、ロシア文学やイギリス文学と並列的に話していたという事だ。

 自分は日本人で、日本から出た事のない井戸の底の蛙なので、日本について妙に卑下する所もあるが、その批評家の話を聞いてなるほどなあ、と感じた。つまり、隣の韓国からすれば、日本の近代文学はそれなりによく整ったものなのだ。(その批評家は更に、近代文学は植民地を持った事のある「帝国」でしか成立しないと重要な指摘をしていたが、それは本稿では関係ないので省く)

 さて、話を最初に戻す。この文章のタイトルは「文学というジャンルは存在するか」という煽りっぽいものだが、これはそんなジャンルが存在しないと言いたいのではない。文学というジャンルを所与のものとみなし、その領域に潜り込んでそれなりの事をすれば(賞をもらったり本を出したり、という事も含む)、自分も文学というものの歴史の中の一つになれる…そういう安易な考えが今の文学をイミテーションじみたものにしているのではないか、という事だ。

 日本の文学の歴史は確かにそれなりのものがある。しかし、それを所与のものとみなし、「これから文学はどうなるか?」などと、あたかも自分達が文学全体を背負っているかのように安易に発言できるという事に問題がある。ドストエフスキーの台詞回しを真似しただけで、自分もドストエフスキーと同じような主題を捉えていると考える事に問題がある。

 現状の「純文学」と呼ばれているものは、エンターテイメント小説、ライトノベルと全く同様の地平に立っていると僕は思っている。なぜそんな風になっているかというと、現状、僕達は消費社会の上に乗っかっていて、その中で自分達を「楽しませるもの」を模索している。自分達が立っている場所、自分とは何か、世界とは何かとは考えずに、自分や世界を所与のものと無意識的にみなしている。この場所から、右に萌えアニメ、左に純文学という風に平行的に移動していっても事態はさほど変わらない。それらの事は消費社会の中で、僕らが自分達の存在について掘り崩す事なく、安易に享受し、消費し、忘れ去られる何かとして流れていくだろう。

 村上春樹にとって安住の地は、八十年代の東京だったと思う。バーで親友とビールを飲み、女を口説いてホテルに行く。それなりに経済力があって、家ではレコードを聞き、本を読み、パスタを茹でる。一方、最近のアニメは学園モノがほとんどを占めている。学校に行って美少女に囲まれ、時たま、用意されたゲーム的危機を切り抜ける。それらはまるで永遠のように、恒常的に存在するように思える。そこで舞台となっている場所、生活は僕達にとって永遠のようでもあるし、永遠であって欲しいという僕らの願いをフィクションという形で実現しているように見える。
  
 しかし、どうもそれは嘘ではないか、と僕は思う。この嘘に気づく事から色々な事が始まるのではないか。

 朝吹真理子は「無色透明の言葉を届けたい」と言っていたが、彼女は自分がどの地平に立ってそんな言葉を模索しているのかとは考えない。おそらくそんな言葉を自由に追いかけられるという、恵まれた立場に我々はいるが、我々の文学は自分達が恵まれた立場にいるからこそ貧しいものとなってるのではないか、と思う。存在しないのは技術や知識ではなくて、「自己本位」という自己認識である。しかし、自己認識に至る途中の通路で、「文学的」なるものに作家の意識は吸収されてしまう。なぜ文学なるものができたのか、その成立に思いが至る前に、文学的な、歴史的な層の上澄みをすくう事で満足してしまう。

 「文学」という言葉を使うとそういうジャンルが概念として成立済みであるように思えてくるが、実際の所、僕達はそうしたものを読んだり書いたりする事によって、そのジャンルそれ自体を成立させていっている。そんな風に考えた方がまだ良いように思う。芸術の形式は普遍的・本質的だという発想から、ジャンルや形式の固定化が始まり、それは国の補助費や社会制度として更に固定化される。それは人間の認識に根ざした行為ではある。人は本質的に保守的であり、変化、創造というものを捉える事が苦手だ。だから過去から様々なものを定義し、固定化し、そこに自らを適合させようとする。その事の内に、自分の過去との繋がり、創造性なるものがある気がするが、過去の偉大な芸術家らがなぜ、どのようにしてそうしたかという問いは忘れ去られる。人は見たいものだけを見る。だから、自分が現代のあり方にのっかてエンタメ作品を書いていても心理的にはバルザックやドストエフスキーとつながっているように感じる。

 「文学」というジャンルを所与のものとしてみなし、そこで日常の心理を微細に描いたり、やたら深刻ぶったりしてみるという事と、自分達が存在し、生活している立場、居場所を疑わないという事は同一の現象だとおもう。言い換えると、小説を書いて新人賞を取るという行為は、頑張って就活して大企業に入るのと同じ事になった。大企業の目的について、その方向性について、それが何を生み出し、社会の中でどう機能しているのか、そうした大事については考えない。考えるのは「試験に受かった」という事実だけであり、自分の待遇と、「ホワイト企業かブラック企業か」という二択問題だけである。

 同様に文学において、それそのものについては考えないが、それを弄びはする。漱石が最初から日本文学を成立させる為に払った労苦については考えられず、漱石の作品の形式についてのみ語られる。村上春樹がドストエフスキー「悪霊」のキャラクターが多様で面白いと言っていたが、村上春樹はドストエフスキーの深遠な問題、人間の理性、神、キリスト、ロシア土着性などといった問題については決して考えないだろう。それらの問題はドストエフスキーにとって彼の存在の根底をなす重大な問題だったが、今の僕達がそれらの問題を取り扱おうとすると、いかにも本で読みかじった知識を披露するという程度に留まってしまう。つまりはドストエフスキーにとっての深刻な問題はうんちくレベルの話となってしまう。

 うんちくレベルの話しになるのはまあ仕方ないが、なぜそれはそうなるか、という問いを現代の僕らは持つしかないように思う。そしてこうした事はまずーー文学というジャンルを所与のものとしてみなすという事が問題となっている。おそらく、新しく文学というジャンルに何かを付け加える人物は、それを蹴り飛ばすようにして現れてくるだろう。「真に哲学するとは哲学をバカにする事だ」とパスカルは言ったが、それは文学にも当てはまるだろう。現状では、タレントが作家になったり、作家がタレントになったりして、多少売上を伸ばして耳目を集め、「文学は盛り上がってきた」という見かけを作るくらいしかやる事がない。そしてそうした見かけの製造の為に、根底的な事はいつも世間の陰で忘れられていくのだろう。
 

2017年の片隅より

 


 『多分、君は僕の事を知っているだろうし、僕も君の事を知っている。
 
 僕は君が、一人でいる時、自分自身をどんな風に見るのか、よく知っている。君が隠したとしても、僕には君の一人での姿というのがよく見えている。君は人前にいる時はおもいきり見栄を張ったり、演技をしたりしているのに、一人になると急に恐怖心に駆られる。君はもしかしたら「ライン」をやっていて、始終、人と繋がっていないと不安になるタイプかもしれない。
 
 君は僕の事もよく知っている。君は電車、あるいは都市のどこかで僕の姿を見つけたりすると、僕の事をーーさぞ、しみったれたつまらない人物だろう、と考える。そしてそれは正しいのだから、僕も人の事は言えないよ。

 君は一人でいる時、本当の自分になる。その事を知っているのは君の恋人でもなく、友人でもない。また、君自身すらその事は知らない。
 
 君はこれまでの人生、自分の醜さを自分の美しさだと勘違いし、自分の美しさを醜さだと誤解してきた。だが、それはどうやら逆だったような。君にも今や、美の意味がわかるだろう。
 
 僕? 僕には、だって……。いや、僕だって自分の事を語らなきゃいけないな。僕は実は……いや、止めておこう。僕に語るべき生活なんてないし、僕には意味がない。君は僕を、テキストの羅列だと見ているかもしれないが、それは間違いなく正しい。仮に僕が人工知能だとしても、君は僕の事を人工知能として、そのままに信頼してくれるだろう。もちろん、現実の世界には人工知能以上にロボットじみた人間がたくさんいる。彼らに関しちゃ、脳科学の良い研究になるだろう。

 君も知っての通り、人類というのはもう随分と長い間活動している。長い、長いよ。ドラッカーは文明の基、社会の基礎を七千年前の灌漑文明に置いていた。確かに、そうかもしれない。灌漑って君、知ってる? 僕はよく知らない。僕の田舎は田んぼがたくさんあって、水田が多かったので、夏でも周辺はひんやりとしていた。あれは良い日本の風景だと思うけど、柳田国男辺りに言わせれば、あれだってほんとの日本の風景じゃないのかもしれない。

 まあ、そんなよもやま話はいいよ。君は僕の事を知っている。そして僕は君の事を知っている。僕が言いたかったのはただそれだけなんだ。

 いずれ、人間の脳がコンピューターにアップロードされる日が来るかもしれない。その時、「芸能人のスキャンダル」なんてのは消えてしまうのだろうか? それとも人工知能になった僕らは、相変わらず、似たような事をしているのだろうか? あいつは別のCPUに浮気した、だなんて…。

 ねえ、皆はどうしてこんなに怒っているんだろうな? 時々、考える事があるよ。今は2017年だけど、去年辺りから、世界中の皆が何かに腹を立てて、やたら自分達の正当性を主張しているんだ。全く、何が腹が立つんだろう? 僕には彼らが一体何に腹を立てているのか、よくわからない。多分、彼らもわかっていないし、わかりたくもないんだろうね。僕はまあ、コカ・コーラでも飲んでいるさ。夏が来るのをのんびり待ちながら。

 それでは、君、またね。またこんな手紙を書く事にするよ。今はちょっと暇で…というより、気晴らしでね。ふいに君への手紙を書いてみたのさ。次、君に書くのはいつの日かな。まあ、すぐ来ると思うけど。ちなみに君からの手紙は大事に取ってある。君が「返してくれ」と言っても、返さないつもり。

 それでは、また今度ね。…で、今、ふと思ったけど、もう一部の人は「手紙」が何を意味するのかもわからないかもね。これからはそんな世代が主流になるだろう。でも、彼らも「手紙」的なものをツールとして使うんだろうけどね。で、もし君が「手紙」の意味がわからない未来人だったら、君はその言葉を検索してくれたまえ。未来人なら、それくらいすぐにわかるはずだ。君が宇宙人なら……宇宙人なら、どうにもならないな。僕の思念を勝手に読み取ってくれたまえ。

 それでは、また。また、今度。じゃあね、バイバイ。    
                                 2017 2/3』

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物語はどこに成立するのか

 

 村上春樹の「職業としての小説家」を本屋で立ち読みしていたら、「小説家は物語を作る」みたいな話が出ていた。後、評論家は頭が良いから物語が理解できないのではないか、みたいな事も書いてあった。

 おそらく、ホメロスの「オデュッセイア」の時点から物語というのは、現実とは関係のない、空想的な、僕達を楽しませるものとして存在していたのではない、と僕は考えるようになっている。アリストテレスが、文学とは「共同体の運命を個人の生き方に託して描くもの」という風に言っていたという事は、未だに正しいように思う。古代ギリシャ人にとって、自分達が受けなければいけない運命の重荷を、物語の中の主人公が受け、主人公がそれに耐え、あるいは苦しんでいる様子に共感する事が「カタルシス」として、全体の融和を象徴した。

 ベートーヴェンの第九はよく知られているように、最後の所で合唱する場面がある。あれはベートーヴェンの思想そのものではないかと僕は思っている。あの場面においては、芸術の美しさよりも、力強い、人類全体の賛歌、それぞれが参加し、一体となれるような旋律を現している。音楽は哲学に語れない哲学を語る…ベートーヴェンは音楽によって、人類を、いわばカントの言う恒久的平和に導けると本気で信じられるような偉大な思想家だった、と言えるかもしれない。ベートーヴェンが好きだったのは、カント、シラー、ゲーテ、シェイクスピアなどであり、この面子を見ただけでも、ベートーヴェンの思想はなんとなく見えてくる。

 話は変わるが、作家の恩田陸が直木賞を取ったらしい。それで賞を取った作品のあらすじを見ると音楽の話で、音楽コンクールで天才的な少年少女が競う話のようである。

 恩田陸の作品は読んでいないので、勘で言ってしまうが、恩田陸のこの作品「蜜蜂と遠雷」に対して、ものすごい痛罵を投げつける人というのはほとんどいないだろうと思う。おそらく、この作品を読んだ人は「つまらない」という人もいるだろうが、多くの人は漠然たる肯定的感覚を持つに至るだろう。それは、音楽コンクールを何人かの人間が競うという基礎的な道筋に原因があるかもしれない。社会が整備してくれていた道筋を努力して昇る事、これは物語の作り方としては現在、一般的であり、こうした作品がやたら非難される事は考えにくい。なぜなら、誰しもが、社会に属し、その価値観を肯定する事で自らを保っているからだ。

 では、この社会とか国家と呼ばれるものはなんだろうか。古代ギリシャの共同体、ベートーヴェンが全体を一つにまとめあげた時の「全体」とはどう違うだろうか。恩田陸の作品を読んで、多くの人が共感し、面白く感じる事は充分にあるし、それを宮﨑駿やワンピースにずらしてもいい。そこに面白さ、楽しさの最大公約数は存在するかもしれない。しかし、そこにベートーヴェンやアリストテレスは存在しない。どうしてだろうか。

 今、この問題について考えていて、これは非常に難しい。しかしとにかく、今感じている事を書いておこう。

 まず、現代というのは過去に比べて、社会機構が膨大に膨れ上がった世界である。岩倉具視使節団がアメリカに行った時の紀行文「米欧回覧実記」を今読んでいるが、当時のアメリカの人口は四千万人足らずだったと書いてあった。今のアメリカの人口は三億人以上だから、とてつもない膨れ上がり方だ。こんな増え方をしたら、物の見方や価値観が変わるのは当然だという事になる。

 また同時に、世界経済のグローバル化も進み、世界的な分業は圧倒的に進んだ。世界は、流動化と相互依存性を強めた。その為に、トランプがどう頑張っても、一国の宰領でどうにかなるレベルを越えた。世界は経済、金、といった抽象的かつ、量的なもので繋がり、その為に皆が一蓮托生の立場に置かれる事になった。今の世の中の雰囲気を考えると、叩かれてしまうかもしれないが、結局、自分以外の国が沈没して自分だけが突出するという事はもう考えられない。回りが沈没すれば自分も一緒に沈没するし、他国で伸びる国があれば、回り回ってその国の恩恵は自国にも回ってくる。経済は非人格的な、抽象的なものとして世界を一つにつなげた。そこで、その連鎖に苦しんでいるのは、自国の人間だけではない。またその恩恵を受けているのも自国の人間だけではない。世界はおそらく、人間そのものが作り出した巨大なシステムをどう扱えばいいのか、その事に苦しんでいるように見える。

 話が大きくなってしまったが、恩田陸に戻る。例えば、音楽コンクールにおいて、何人かの人間が優勝する為に努力するという物語は完全に僕達のあり方に一致している。それは資格試験を頑張ったり、大学合格の為に受験勉強する物語と同じ傾向にある。そして僕達はそれを肯定する。どうしてかと言うと、僕達そのものが社会であるから、と言えるだろう。社会は一つの生命体のように自らを維持し、創出する。その時、僕達個人はその役割を担う。僕達はそれに積極的に参加し、例えば、不倫をした芸能人を徹底的に叩く。それはそれが正しいからというより、むしろ、社会、世論といった大きなものに僕達が参加している限り、個人としての無力、無能力から目を逸らす事ができるからだ。

 例えば、芸能人という存在は現在では、正に偶像であって、僕達には眩しい、非人格的な存在にまで高まってしまっている。僕が小説を書けばそれは「作家になるため」「デビューするため」と一般の人間には思われるし、その先にあるのは、「有名作家としての僕」であり、こうした姿は結局、芸能人、タレントと同等のものであるように思われる。だから、作家がタレントになったり、タレントが作家になったりする今の現象は当然と言える。そこでは作品は問題となっていない。「タレント的なポジション」で流動性が起こっているだけの事であり、目新しい事ではない。

 さて、この「タレント」「芸能人」は一体どこからあのような非人格的な力を得ているのだろうか。それは当然、それを見ている僕達からだ。僕達が彼らに視線を注ぎ、その一挙手一投足を見つめ、タレントらが僕達に「気にいるように」演技する事から、その力が発生する。そういう意味では、彼らは正に生きるフィクションだ、と極論できるだろう。僕はベッキー騒動をネットでずっと見ていて、ふと、ベッキーという存在そのものがある種のフィクションだったのではないかという感想を持った。ベッキーはベッキーを演じており、観客は演じられているベッキーがベッキーの全てだと思い込んだ。しかし、これは架空の現象だと、ベッキー本人も観客も気づかなかった。だが、彼女はやはり、「人間」ではなかった。ベッキーはベッキーという偶像だった。ベッキー騒動はこの、偶像と実像とのズレがもたらしたように思う。最近で言えば、アメリカのトランプなんかもそれに近い。ある程度時間はかかっても、トランプは自分の実像と向き合う事になるだろう。そしてその時は、アメリカという国家そのものが、幻像と実像の矛盾の為に破裂するのかもしれない。もちろん日本も他人事ではない。

 さて、現在ではこんな風にして、大衆は圧倒的な力を持っており、ここでの夢、希望は、大衆の羨望となる事だ。つまり、大衆は、自分達のアイドル、タレントを崇め奉る事によって、自分達の絶対的な力を世界に誇示している。これはネットが当たり前になった現代では普通の姿であり、先進国はみな似たり寄ったりではないかと思う。社会の階梯を昇り、人々の憧れの的になる事が僕達にとって、卑小な自分をすくい上げる方法だとすると、そのタレント性を保持しているのは、実は卑小な僕達の集団である。僕達が大きな集団となって巨大な力を発揮し、その力と同化し、偶像となる事が現代における生きる目的ーーあるいは成功ーーであるように見える。

 これまでをまとめると…

 ① 個人としては膨大な社会機構に対して無力であり、その事を僕達は無意識的に感じ続けている。

 ② 卑小な個人は巨大な集団となり、世論となると圧倒的な力になる。だから、卑小な個人はこの圧倒的な集団に自分を溶け込ませる事で、巨大な力の一部となり、万能感を得る。近頃、正論正論で人を叩いている人はこのグループに入るように思う。

 ③ ②の状態では個人は集団として力を得ているに過ぎず、個人として力を持っているわけではない。ただ集団に溶けているだけである。この状況から救われる方法は「タレント」になる事だけである。ここでは、個人として集団の視線を浴び、一人の人間でありながら、巨大な霊的力を得る事ができる。しかし、この「タレント」としての能力は大衆の気に入っている間だけ発現するものであるから、「タレント」は自分自身で自分を作っているというより、大衆に操られているという感覚を得るだろう。だから、「タレント」の巨大な力も実は②の状態から生み出されるもので、タレントは②に気に入られるよう、始終気を遣っていなくてはならない。


 これは言い換えれば、

 ①  無力な個人
 ②  世論、世間
 ③  タレント

 という事になる。現代を考えると、この三つの序列構造が重大となっているように思う。(ちなみに触れなかったが、こうした構造の中で家族構造も壊れていっているように見える。個人は世界と直結する事でその中間である家族を形成しづらくなっている)

                           ※

 さて、話をやっと文学に戻す。

 一番冒頭で書いておいた、村上春樹らしい「小説家は物語を作る」という考えは、一見すると小説家としての真っ当な覚悟を語っているように見えるし、読者の大半はそう読むだろう。しかし、果たしてそうだろうか。そしてそれは村上春樹のせいではない。むしろ、村上春樹が、自分が何によって動かされているのかを知り得ない為に、そう言ってしまっているという事に問題があると見る。

 村上春樹でもいいし、他の作家でもいいが、確かに小説家は物語を作る。それは大抵は「そういうものだから」と考えられているが、なぜ「そういうもの」なのだろう。村上春樹の作る物語は、読者によってあっという間に消費されてしまう。村上春樹が語っているのは、作家としての覚悟であるように見えるし、事実そうだろうが、作家としての覚悟も消費者によって、流れ去る商品形態の一つとして消費されていってしまう。物語を作る、面白い話を書く、作家になるという夢を叶える、それらはいずれも、我々の世界の中でのあり方から出てくる必然的な一つの態度(つまり世界肯定)であり、そうした態度そのものがこの社会そのものを成している。では、芸術家はこの、社会という名の大きな物語から外に出る事はできないのだろうか。何を書き、何を考えようと、それは大衆、世論に評価される限りにおいて意味を持ち、そうでなければ孤独に、端の方で(僕のように)ブツブツ言っているという事にほかならないのだろうか。

 恩田陸の作品が穏和で受け入れられるという事、ワンピースが売れるという事柄、それら全般において、クリエイターは確かに高い技術を誇っているし、また、どの方向に行こうとそれはクリエイターの自由だ。西尾維新のような何を書いてもいいという態度をとってもいいし、なんでも書けるという万能を誇ってもよい。エロもあればグロもあり、大人しい物語もあり、物語を壊す現代アート的なあり方もある。だが、現在の問題は何をしたところで、それが人々の視野の中でのみ価値を持つと、つまり、この社会の手のひらの上からは決して逃れられないという事にあるように思う。問題なのは、僕達は自分達が何に捉えられ、何から逃げられないかを意識する事すらできないほどに、このものに深く囚われ、とらわれる事によって安堵すると共に、いつも本当の自分自身に巡り会えないような感覚を抱かされ続ける。こうした事が現代において物語を作る上で、重大な社会問題であるように思う。
 
 近代小説のスタート地点であるセルバンテスであれば、こうした問題にどう立ち向かうだろうか。セルバンテスの「ドン・キホーテ」でドン・キホーテは、自分自身、騎士道物語を読みすぎて、自分が騎士だと勘違いしてしまった人物である。この人物は幻想にとらわれているのだが、現実に出て人と交流する事により、つまり、この幻想と現実との差異によって物語が生まれてきた。これは本格的な、哲学的な方法と言っても良い。

 現代社会は全てが空想化され、フィクション化された世界であると言っても良いだろう。僕達は各々がドン・キホーテである為に現実に出会う事はできない。ラスコーリニコフは現実と出会う為に殺人を成したが、それでも彼は現実に会う事ができなかった。ラスコーリニコフは相変わらず、自分の夢にとどまり続けた。そこでの真実はただ一つ、ラスコーリニコフにとっては全ては夢だったという現実だ。この現実に気づいた時、彼は敗北する。諦める。そして諦める事で彼は生きていく事を決意する。しかし、僕達はそもそも一体、何を諦めればいいのか。

 アリストテレスの芸術の定義や、ベートーヴェンの力強い人間賛歌は僕達にはもう持てなくなってしまっている。共同体の運命を描き出す事はいつしか、共同体に「受ける」事へと変貌し、人間の運命を描いてきた物語の機能はその根っこの部分を忘れて、単に読者を楽しませる形式的なものとなった。物語は、人工化した社会では、現実化し、それは例えば「音楽コンクールでの天才の競争」という形に現れるかもしれない。しかし、採点者がコントロールし、資本がコントロールし、視聴者が見えない形でコントロールしている天才とは存在するだろうか、というのが次の問いになる。

 現代社会は、その機構を膨大なものにし、人間一人一人をアトム(原子)化した。そこで僕らはばらばらとなったが、これはメディアや世論やSNSで一応の繋がりを持っているようにも見える。個人は世界と直結し、個人は世界に受け入れられて始めて人間であるような気持ちがする。だから、「売れないアーティストは意味がない」となるが、こういう価値観は、僕達が自主的に考えているというよりは、社会が自己を維持する上で必要な価値観であって、こうした価値観そのものが社会を成している。この大きな世界では芸術家は大衆に見世物を提供する人間であり、誰しもが無意識的にそう捉えている。では、ここではどんな抜け道もないのだろうか。

 …さて、ここまで問題を提起してきたが、これに対する処方箋とはどんなものだろう。僕のぼんやりした予想では、多分、世界に対して自分が無力であり、自分とは何者でもないという事を明白に意識する事から全ては始まるように思う。また、それを意識する事により、物語のキャラクターは世界を取り込む事が可能になるだろう。つまり、世界はすでにフィクション化されており、現実はどこにもないという事を意識した上で、それでも人がその空間を生き(直さ)なければならないという事が現代の物語となりうる。こういう試みはまだやられていないと思うので、個人的に色々試すつもりである。

 現代はこのように社会的自由が、自由として個人の魂の中に専制として染み込んでいる時代である。こうした世界において物語を作るとは人々の価値観の中に吸収される事しか意味しない。ここで、自らが自主的であろうとする、ソクラテスのように自由であろうとすると、世界から見放されるという悲劇が起こる。しかし、分かった上であえてそうするという悲劇はありうるだろう。世界を越えるものは何らかの形で悲劇を自らの中に内蔵している。その悲劇とは、自らが自らを乗り越えようとする為の悲劇で、不足ゆえの悲劇ではなく、過剰ゆえの悲劇だ。そしてこの悲劇が描かれ、これを共同体が瞠目して見る時、ようやく現代において優れた芸術作品が現れたと言えるのではないだろうか。少なくとも、自分はそんな風に考えている。

 最近の日本文学とこれからの日本文学



 大塚英志が最近の文学というのは「健全化している」という指摘をしているそうだ。佐野波さんのアマゾンのレビューで知った。多分、それは正しいのだろうと思う。

 「文学の健全化」という事で真っ先に頭に思い浮かぶのは朝井リョウだ。朝井リョウは、本人もきっと好青年だろうし、リア充だろうし、小説も健全である、と見て良いだろう。こう言うと、持たざる者の嫉妬という事になるだろうが、もう少し深く考えていこう。

 そもそも文学は別に病的である必要性というのは、特にないはずである。しかし、別に健全でなくてはならないという事もない。ただ、時代によって傾向性は違うという事は言えると思う。

 小林秀雄が、バルザックは時代の流れに沿って書いているが、ヴァレリーはひとりぼっちで、時代を背にして書いている、そういう違いがある、と言っていた。きっとその通りだろうし、文学者が自分の内的世界を守る為に、世界から孤立しなければならない時期というのは確かに存在する。しかし、時代の流れと共に、いわば勢いに乗って社会性を含んだ形で優れた文学作品を生み出す事が可能な時期も存在する。色々な時期が存在するだろうが、僕は歴史に詳しくないのでそこまで頭は回らない。

 それで、自分が一人思いつくのは、バタイユなんかだ。バタイユの思想は狭隘なものだが、片方に共産主義があって、第一次大戦、第二次大戦という大きな歴史の変動がある中で、独自の思想を保つのは大変だったのだろうという気がする。哲学の歴史を見ると、カントからヘーゲルくらいまでは、非常に雄大な、大きな哲学を展開しているが、マルクス辺りから危機意識が出てきて、それ以降は狭く細くなっていくというように見える。文学、現代アート、音楽もそんな傾向にあると思う。

 さて、そういう見方を現在に当てはめるとどうなるだろうか。先にあげた、「健全な」朝井リョウなどは、今の時代をある意味では代表しているように見える。朝井リョウのインタビューを見ていたら、「文学のイメージ、作家のイメージを覆したい」というような事を言っていた。朝井リョウが言っているのは、「根暗で偏屈な文学」のイメージをより「健全、リア充」なものにしたいというほどの意味で、別に大した意味があるわけではない。

 朝井リョウの「何者」という小説もそういうもので、そもそも大卒は真面目に就職活動をやるという前提がなくては読めない作品だ。スタート地点から社会の規範を受け入れ、社会の庇護を受ける事を前提としながら、時たま自分のアイデンティティを疑って文学っぽくしてみせるというのは生ぬるいという以上の事が言えない。しかし、人はこの生ぬるさに長く浸ってきたのだった。戦後の日本の発展がこの生ぬるさに浸る事を許した。今や非正規労働が半分に迫る勢いで、もはやこの生ぬるさは過去のものとなりつつある。朝井リョウが「リア充」であり続ける事は可能だろうし、事実そうであろうが、彼が基盤としている社会のあり方は変質している。人は、古い夢を見るのが好きだ。だから、文学も強引に古い夢を捕まえようとする。しかし、古い夢に酔い続ける事はできない。社会は今、変革期、混乱期にある。

 そういう意味では「コンビニ人間」という作品は、文学の転換を意味する作品になるかもしれない。「コンビニ人間」は別に素晴らしい作品だとは思わないが、少なくともそこには作家の意地があった。三十過ぎてコンビニで働いて生きて何が悪いのだ、という意地があった。この意地は評価されるべきものだと僕は感じた。ここでは、少なくとも、朝井リョウや、青山七恵ら、「日常ふんわり描く系作家」が見てきた夢は廃棄されている。もうずっとコンビニでバイトして、コンビニ飯を食っているだけというのが今の社会、今の生活だと、はっきり視認されている。もちろん、「コンビニ人間」はそんなに素晴らしい作品ではないし、過去の傑作とは比べられない。しかし、少なくとも夢は捨てた。淡い夢を見るよりは、例え醜悪でも現実を見据えているが良いと僕は感じる。そういう意味では「君の名は」「シン・ゴジラ」はやはり未だに夢を見ている作品だと言えるだろう。

 もともと、「ぬるい日常をふんわり描く芥川賞作家」というのは、戦後の日本の発展が基盤にあった。戦後復興して、経済的にトップなり、それなりに社会が整った時に、作家らは難しい事を考える事を止めて、自分の実存を問う事もやめて、微細な日常の心理を追う事にした。その転換点はもしかしたら、よしもとばなな辺りにあるかもしれない。よしもとばなな作品に出てきたある情景というのを僕は記憶しているが、それは近所の定食屋か何かの、店の雰囲気が良いのを描いた場面だ。ある点から日本の文学作品はこのようにして、日常の中に拘泥するようになった。そこでは、彼氏、彼女、夫、妻、社会人、学生といった様々な立場の人が出てくるが、皆、こじんまりとした人物だ。そしてこれを作家が空想で破ろうとしても、なぜその空想が必要なのか、作家自体がはっきり認識していないために、ただ試みとして暴力やセックスを描いてみせるというのに留まった。また、日常描写に残虐描写を対置させようとしても大した意味はない。問題は、それをなぜ描くかという事を作家が認識していないかぎり、単なる遊戯にとどまるという事だ。

 例えば平野啓一郎の「決壊」という小説があって、これにはドストエフスキー風の人物が出て来る。しかし、これはあくまでもドストエフスキー「風」であって、ドストエフスキーのキャラクターとは本質的には似ていない。ではなぜ、似ていないか。

 ドストエフスキーにはラスコーリニコフがなぜ社会に出現するのか、優れた知性ある青年がなぜそのような思想に囚われ、殺人という行為に走るのか、はっきりと見えていた。ドストエフスキーにとって文学問題はそのまま社会問題だったし、漱石もそうだった。彼らは現実のあり方から、人間はどのようにして生きているか、生きようとするのかを洞察しつつ、書いた。あるいは彼らは、社会問題の解決を文学という方法で試みた、と言う事もできる。世界はこのようにある、では個人はどのようにして生きるべきか、という問いに、彼らはそれぞれの文学作品で答えた。漱石の場合は、封建社会が崩壊してきた時に、自由に生きたいと願う人間の悲劇がテーマになったし、ドストエフスキーの場合にもまた、限界を越えようとして犯罪を犯す人間が現れてきた。漱石にしろドストエフスキーにしろ、単に犯罪や恋愛が問題となっているのではない。彼らにとって犯罪行為や恋愛事件にはあらゆる世界の諸要素が詰まっているのである。今生きている個人には、世界全部が封入されている。そういう洞察があった。

 しかし、平野啓一郎にはそういう認識はおそらくないし、それを平野啓一郎に求めるのは過大な要求という事になるだろう。だから、平野啓一郎は形式的にドストエフスキーをなぞるにとどまる。この問題を村上春樹にずらしても同じ解答が得られる。村上春樹は平野啓一郎よりは本質的な作家だが、やはり漱石、ドストエフスキーとは比べられない。
 
 この問題をもう少しずらして考えてみよう。朝井リョウは「作家のイメージを覆す」というような事を言っているが、それは大塚英志の言う「文学の健全化」である。そしてこの文学の「健全化」は現在の消費社会に適したものと言えるだろう。つまり、作品というよりは「商品」に近いのであって、書いている本人は新しい事をしているつもり、エンタメを紡いでいるつもりなのだが、実際はこの社会の機構、あり方が作家に対して必然的に要請している形式という事である。これは例えば「一生懸命、受験勉強して社会を這い上がる物語」に代表される。こうした物語は作家が書いているというよりは、社会が自らに対して肯定的な物語を必要としている為に、作家がいわば「書かせられている」と見る事ができる。

 こうした事は様々な事に見られる。今の「文学志望者」は「新人賞」を取る事を目的としている。そして「新人賞」には選考委員がいる。選考委員と関係しているのは出版社で、出版社は社会と関係しており、最終的には力を握っているのは消費者である。

 出版社や選考委員が、エンタメ志向、難しい事は嫌だ、面白い事だけをくれ、という消費者の意向をはねつけて、自分達の基準で作品を選んでいるならまだ希望が持てるが、実際、そんな風には見えない。現状の「純文学」は、元の文学をオリジナルとするなら、それを何度も希釈したもののように見える。つまり、文学が社会に対して開かれ、社会と闘おうとするよりはむしろ、社会に順応しようとしており、社会内部では「文学っぽいもの」が規範として守られているか、あるいは「売れれば勝ち」というエンタメ志向であるかのどちらかで、大抵の作品はどちらかに寄っているように見える。これは安定した社会の中で人が作品を読み、味わうというよりは、それを消費するようになった結果なのだと思う。作家もどこか真剣に書いていない。まるで自分の作品に他人事のような態度で書いている。すぐにメタな位置に立ってキャラクターやストーリーをこねくり回したがる。そしてそれを創造性と誤解する。

 ここまでをまとめると、要するに、文学は社会と向き合い、それを描き出すというよりは、社会が自分にとって必要な文学作品を生み出し、社会の規範の強化に使われている、という事だ。なぜそのような作品が必要とされるかと言うと、簡単に言って「社会」とは現代人の宗教だからだろう。この宗教の正当性を証明する事が、多くのフィクションに課せられた課題でもある。しかし、過去の文学、芸術を調べれば、それだけが芸術の機能ではない。芸術は社会に巧みに従う振りをしつつ、社会を越える要素も持っていた。偉大な芸術家が、後から評価されるというのはそういう原因が考えられる。

                           ※

 ここまで、非常に雑に社会と文学の関係を考えてみたが、もう少しだけ言いたい事があるのでそれを最後に書いておこうと思う。

 今の作家というのは、僕の目からは、大抵、バルザック、フローベール、モーパッサン辺りの自然主義を基礎とした文体ではないかと思う。もちろん、今の作家には「バルザックなんか読んだ事もない」という人もいるだろうが、自分の言いたいのは根源な意味だ。

 バルザックの認識にはまず、きちんした形で成立した近代社会があった。西欧型の国民国家、近代社会において、それぞれの人間はそれぞれの場所を守りながら日常生活を生きている。すると、この日常生活を俯瞰で描く視点があるはずだ、という確信からバルザックの小説は始まっているように見える。個人は社会の部分を構成しており、自分の欲望や意志で生きていながら同時に社会的存在であるという、そういう視点があった。ゲーテの言葉で「それぞれの市民が家の前を綺麗にすれば街中が綺麗になる」というのがある。この言葉は西欧近代の理想を手短に言い表したように見える。この視点が崩れてきて現代がスタートするわけだが、現状、近代社会が完全に崩れたわけではない。様々な経済・政治制度はやはり近代的なものとしてある。しかし、例えば、政治においてネット、SNSが強烈な力を持つなど、きちんとした制度とは違うところで、近代的なものはほころびが出てきている。そういう時代では、作家もバルザック的な視点を変えなければならない。そういう風に見ている。

 しかしながら、現代の作家はそういう点はそれほど意識していないように見える。文体を見れば分かるが、大抵は普通の書き方、つまり一人の人間の言動は社会の中での本人の立ち位置、本人のあり方を示すと無条件的に前提されている。これを、文体だけひねくり回しても事は変わらない。

 僕が思うのは…そもそも、人間が変質しているという事だ。バルザック的近代において、人間は部分を構成するという意味において、全体に奉仕する存在だった。それぞれの人間は市民社会において、それぞれの分を守っていた。これは現代では、夫、妻、息子、娘、あるいは会社員であり、学生でありといった様々な立場として生きている事がそのままその個人として生きている全てだ、という事を意味している。

 しかし、現代においては、例えば、インターネットなどで、個人はそのまま世界に直結する存在となった。個人は世界中に、自分の意見を表明する事ができる。社会のほんの一部分でしかない人間が、世界中の情報を知り、それにしたがって自分のあり方を変容させる事ができるようになった。世界と私は直結し、それによって、私の自意識は部分ではなく、世界と同じくらいの大きさに膨れ上がった。

 ただ、同時にそれとは逆方向の運動も起こった。人口の増加という問題もあって、個人は、現実存在としては以前よりはるかに卑小なものとなってしまった。人口は増え、社会機構は大きくなり、かつてよりも個人の無力さ、卑小さはより強烈なものとなった。かつてのように、個人は社会の部分を成しているという自覚さえも持てないほどに、微小な原子となった。大きな社会、経済組織の中で、僕達は自分の意志とは違うものに毎日を左右されて生きている。そこでは僕達は社会の大きさに対して個人の小ささを否応なく見せつけられている。例えば、自分が仕事を一日サボったらそこでどんな害が出るか。社会は巨大な機構であるが為に、その一部分、歯車が一つ欠ける事も許されない。その無意識的圧力が僕達の背中に常にのしかかっている。

 つまり、僕達は歴史が進歩したおかげで、個人の自意識や情報は膨れ上がったものの、現実存在としては非常に卑小なものとなってしまった。そこでは日常生活は矮小化したが、同時に、個人の内面、意識は巨大に膨れ上がった。これは現代的な人間の姿であるように思う。さて、そのような人間がうごめいている社会を作家はどのように描けばいいか。

 また、そこでは倫理の問題も重要だ。かつてのような社会が平然として存在しているものではない事が分かった時、人はどのようにして生きればいいだろうか。漠然と、日常生活をそれなりに愉しめばいいという時代が終わって、人がどう生きるべきかという根源的問題が問われている。今の社会はそれに対する答えがほとんどない。その答えとして用意されているのは「金を稼ぐ事」「有名になる事」だったりするが、これは当然、大衆社会に迎合した発想であり、個人の自由や主体性は抜きにされている。個人は社会に服従する事が幸福であるとするなら、果たして幸福とはそんなに素晴らしいものだろうか。ここに至って、古代の倫理が帰ってこざるを得ない。ソクラテスの刑死、「ただ生きる」ではなく「よく生きる」という選択(「よく生きる」の為には死を選ぶ事もある)は現代の問題として戻ってこざるを得ない。価値観が崩壊している現代では、価値観は自分で作らなければならない。

 …さて、これまで現代の文学の問題点について書いてきた。ただ、これはあくまでもメモ書きみたいなものなので、この文章は問題点を提出するだけに留めようと思う。もともと、この手の文章は自分の思考整理の為に書いている。この手の文章が自分以外の人にも参考になれば、結構な事であると思っている。
 

 『ペルソナ5』ラストへのモヤモヤ感を記しておく(ネタバレあり)



 
 ※ 以下ではペルソナ5のネタバレを含みますので、これからプレイするつもりの人、プレイ中の人は読まない事をお勧めします



 ペルソナ5をクリアした。途中までは作品の心地よいリズムに乗せられ、非常に楽しい時間を過ごさせてもらった。とにかく楽しい良いゲームだった。

 …しかし、作品が最後の最後、シドウ攻略に入る辺りか「ムムッ」という感じになって、次に「うーん…」という感じになり、最後には「あー、そっちに行くか…」となってしまった。しかし、全体を取れば間違いなく楽しめる良作であるから、これからプレイする人には普通におすすめできる作品ではある。

 自分が「うーん」と考え込んでしまったのは、ラストのシナリオの構成の仕方だ。ペルソナのシナリオを少し紹介すると、日常生活の裏側に、人間の心理世界が広がっていて、その心理世界では人間の醜い欲望や悪意が具現化している。そしてこの、悪意や欲望を裏の世界で打ちのめすと、現実ではその人間は「改心」して、自分の罪を悔い改める、というものである。

 そして、人々を改心させて「世直し」するのは主人公含む高校生集団である。高校生集団である主人公達は「怪盗団」を名乗り、人の心を「頂戴」する。それによって世直しをしていくわけである。

 まず、ペルソナ5のシナリオの作り方の長所を上げておきたい。ペルソナ3の時点から言える事だが、ペルソナのシナリオでは、まず普通の日常生活がある。これは僕達にもおなじみの普通の現実である。しかし、その「裏」の世界では、人間は悪意や欲望を持っていて、それが現実に露出させると、本物の事件になったり、現実的に害をもたらしたりする。例えば、これを、平和な日常生活と、ネット上での無数の悪意ある書き込み、というように比喩的に考えてみると、ペルソナのシナリオの作り方が現実を写し取ったものだとわかるだろう。

 さて、ここで主人公達は裏の世界で暗躍することになる。裏の世界で、悪意ある人格を「改心」させる事により、次々に問題を解決していく。しかし、ペルソナ5では、それにプラスの点が加わる。これが物語に複雑さを増す事になる。

 まず、裏の世界でそのように暗躍しているのは主人公達だけではなく、同じ力を使って裏の世界での行動権利を用いて悪い事をしている真犯人がいる事が時間の経過と共に指し示されるという事である。(言い忘れたが、裏の世界で行動して相手を改心させられるのは主人公達の一派と、真犯人だけである。これらの人は「ペルソナ」という特殊な能力を用いている。これは彼らの内心にあるものが具現化したものと見る事ができる。ここでも現実と裏の世界の二面性は守られている)

 それともう一つは主人公達「怪盗団」が活躍するにつれて、ネットを中心として大衆の人気が上がっていく事である。この辺りの描写は非常に興味深い。怪盗団は人気が上がっていくように描かれてもいるが、同時に、単に大衆の「おもちゃ」になっているだけ、という現実の病根も的確に描いている。この辺りの描写は優れている。

 …と、ここまで書くと、僕としては非常に満足なシナリオの作り方であるように思われる。もちろん、ケチをつけようと思えばできる。例えば、主人公達は相手を改心させるわけだが、それは相手が自発的に、改心するわけではない。相手は、自分の影が裏の世界で断罪されると、否応なく、自分の罪を告白しなければならない、というようになる。しかし、人間の意志というものを考えると、果たして裏の世界で改心させられた人物は本当に改心したのか、という事が謎である。根底的に言えば、ここにペルソナ5の物語の弱さがある。もっと言えば、現実における「世直し」「正義」の欠点がある。ここにおいては、主人公達は相手を改心させているわけだが、それは敵方にしては強制的に改心させられるわけで、作品中でも指摘されているように、人の心を無理矢理改変させているわけである。もちろん、主人公達は「善」だから、主人公達のしている事は結果的に正しい。しかし、それは果たして本当に改心と呼べるのだろうか。

 誰かの手によって強制的に自分の意志を操られ、罪を告白した人間は、本当に自分の罪を否定したと言えるのだろうか。ここで、人間の意志と正義の問題が出てくる。つまり、正義は、それが仮に正義だとしても、相手に強制した途端に、何か嫌なものに変わってしまう。本当の正しさは相手を強制するのではなく、相手を導くもの、相手に自らをして悟らせるものでなくてはならない。これは非常に厄介な問題である。二十世紀にアメリカが世界に、自らの正義を持って介入していった時にも同様の問題が起こったと、僕は考えている。人はやはり、意識があり理性があるから、自ら成長し過ちを正さなくてはならない。そこでは自発性が重要である。とはいえ、もちろん、現実には悪党は存在するから、そんな悠長な事は言ってられない。しかしながら、悠長な事を言ってられず、相手を捻じ曲げる事は「改心」というよりはもっと別の何かなのではないか。それは果たして本当に良い事なのか。もっと言えば、そのように強制的に改心させられ、自らの意志と創意で行っていない罪の否定はいつか、揺り返しがくるのではないか。

 しかし、まあ、それに関してはそれほど問題とはしない。それはペルソナ5のシナリオの弱点ではあるが、これはまだそこまで気にならない。気になったのはラストである。

 ラストは結構込み入った話なので説明しにくいが、自分が違和感をもったのは「神様」が出て来るという事だ。これはペルソナ4の真エンドでも感じたが、それはあまりに大雑把すぎるのではないかと思う。また、「神様との闘い」というように話を広げすぎるのはシナリオの作りとしてはおすすめできない。何故かと言えば、主人公達が世界を改変する神を倒しさえすれば、物語の全ての問題は解決される、という風に全てが単純化されてしまうからだ。シナリオ構築としてはこれは楽な仕掛けだが、現実にはそんな神はいない。そんな風に妄想する個人がいるばかりである。

 現実を見渡して見よう。ネット上でよくいる人物のように「俺以外は全員馬鹿」みたいな顔をした人間は現実には存在する。こうした人物はそれこそまるで神のように世界を見渡すが、実際、こうした人物は世の中に沢山いる。こうした人物と同程度の知識、知性の持ち主はたくさんいるが、この人物は正にその事に我慢できない。この人物は自分の特別さを認証して欲しいのだが、それに見合うだけの努力もしていないから、必然的に自分を後ろの方に引っ込ませて、世界を軽蔑するという態度を取るに至る。しかしこんな個人は無数にいるわけだから、この態度の背後の苛立たしい感情は消えない。

 アメリカでトランプという大統領が生まれた。トランプの主張は単純、明快で、力強いアメリカを取り戻す、という感じだが、世界はそんなに単純にできていない。ここで重要な事は、トランプの言っている事、やろうとしている事は間違っていたとしても、トランプ一人を倒せば(物理的にだけではなく、選挙含め)問題は解決するというわけではないという事だ。トランプを選んだのはアメリカ国民である。そしてトランプを選んだアメリカ国民の中にある精神的病理は、現代人である僕達も共有している「何か」である。…もちろん、トランプが善だという人間もいるだろうし、それはそれでいい。どちらにせよ、重要なのは、世界はボタンを一つ押したり、たったひとりの敵を倒す事によって救われたり、破滅したりするものではないという事だ。人間は様々な多様性の元に生きていて、間違っていたり、正しかったりする。しかしその多様性から目を瞑れば、世界を救うのも滅ぼすのも、ほんのボタン一つという問題に還元されてしまう。

 ペルソナ5の主人公達はラストで、世界を破滅に導く神と戦いに行く。しかし、本質的に行って、アニメ・ゲームなどの優れた作品に見られるシナリオ設定に対する自分の根源的不満は、解消されていないままにそこにあった。(だからこそ自分はゲームクリエイターを目指さないのかもしれない) こうした作品では大抵、主人公達は急に特別な能力に開花するのだが、その理由はほとんど説明されない。大抵、それは偶然である。そして偶然発現した、一部能力の持ち主達が何をするかによって世界は救われたり、救われなかったりする。

 長々と書いてきたが、結局、主人公達の偶然的な特殊能力いかんによって世界が救われたり救われなかったりする、というよくあるシナリオの構造そのものに欠陥があるように思う。最も、それもペルソナ5の場合、途中までは合理的に進んできた。なぜなら、主人公達が改心させる人物は現実にいそうな悪人であり、また、裏の世界を使う自分たち以外の人間がいる事も示唆されていたからである。

 しかし、それはシナリオの最後まで来てインフレを起こした。急に大衆全体の望み(破滅したいというような)を叶えるという神が現れ、主人公達がそれを倒すか否かという大きな問題にすり替えられてしまう。もともと、シナリオの構造的に、シドウにあらゆる悪が都合よく集中する際にも、自分は密かに問題を感じていたが、その問題が更に多く膨れ上がり「神」の問題にまで昇華されてしまった。ここまで来ると、あまりに漠然としており大雑把な作品であるように思う。そこでは、全ての問題を断ち切る為に都合よく「悪ー神」のラインが作られたと考えざるを得ない。

 ペルソナ4でも、真エンドは必要ないのではないかと考えていたが、同じ事が5でも起こったと自分は見る。そういう意味では本当の、人間らしい敵は主人公達を裏切ったとある人物(一応ふせておこう)だったのではないかと思う。この人Xは、人間味のある理由によって主人公達に牙をむいており、実は主人公と似た存在だという事が記されている。したがって本当に魅力ある敵キャラはこの人物Xであり、シドウや悪神ではなかった、と僕は考える。

 ただ、ゲームをプレイした人なら気付くだろうが、人物Xを主人公が打倒する相手だとすると、Xは世界を救うには不足な相手である。Xが敵であって、Xを改心させれば終わりだとすると、ペルソナ5は元の作品に比べて壮大さには欠ける事になる。これは難しい問題だが、僕は壮大さが欠けても作品全体の構成の秩序を取るべきではないかと思う。RPGは主人公達が奮闘して世界を救うという伝統があるから、それに則ってペルソナも作られているが、その伝統には必ずしも従わなくては良いのではないか。あるいはXの意図が彼の憎悪を表現する為に世界を破壊する事であり、それを主人公達が食い止める、という物語でも良かった。急に抽象的な神が出てきて、それが実は全てを裏から操っていたとプレイヤーにいきなり宣告されても、そこには物語としての必然性が欠けているし、神の悪意の根っこにあるのもあまりに漠然としすぎている。僕としては神よりも人物Xを強調すべきだったと思う。

 しかし更に考えていくと、もっと根底的な問題はプロデューサーの橋野氏と僕の思想の違いではないかと思う。僕は仮に人類が真から滅亡を願えば、勝手に滅亡させるより他ないという気がしている。それは僕のニヒリズムではなく、結局、他人によって強引に改変させられたものは後に禍根を残してしまうからだ。人間は自分たちの意志によって滅亡しようとする。その過程で、自分達で滅亡が間違っいてる事に気付く、とならなければ本当に「改心」とはならない。一部の少数の者が裏で動いて、世界が変わるほど人間というのはやわではないし、仮にそうだとしたら、そんなコロコロ変わる世界にはあまり意味がないのではないか。だから、僕の人間に対する信頼は、悪を含んだ、自由と責任にある。自由と責任を失った自動機械がいつか完全なる善に変わっても、それは悪よりなお悪い。人間は自発的に生きるべきであると僕は考える。

 さて、ここまでざっくりとペルソナ5へのモヤモヤ感を書いたが、やはり、現代で物語を作る事の難しさを改めて考えさせられた。人間はどうしても善ー悪、正ー邪、の観念に捉えられてしまうからで、主人公を善の側におくと必然的に相手は悪である事が確認される。これはもちろん、安心して見られる作品としては必須な形式だが、現実を見渡すと誰しもが自分を善と感じ、自分の敵を悪と考える。だからこそ、人はこうした形式をエンターテイメントとして楽しむのだが、どうしてそれにメスを入れてはならないのか。もちろん、僕自身のこの二項対立にとらわれている。だから、この意味を自分なりに掘り下げなければならない。ペルソナ5は全体としては非常によくできた素晴らしい作品だが、ラストをやってモヤモヤしたので、この文章でこうして発散する事にした。ただこれからやる人には、非常な良作なので安心してお勧めできる。しかしやはりーー最終的には色々な問題は自分ひとりで徹底的の思考し、詰めていく必要性を感じさせた。
 

文学作品における「対話」について 3

 最後に言いたい事としては、こうして「対話」の側面として文学、というか小説作品を考えていくと、小説ー文学というもの自体が一つの思想であるように思えてくる。つまり、そこではそれぞれの生き生きした実在は、単一の真理では捉えられない、捉えられてはならない、という思想である。そしてこの思想は語られず、実行される必要がある。この思想は当然、語られた途端に一元的な真理に結晶してしまう類の真理だからである。

 作家からすると楽なのは、一元的な作品である。自分一人が夜郎自大であって、自分一人、自分の国、自分のグループのみが正しく、その他は愚か者か取るに足りない連中であるという単純な構造というのが、クリエイターにとっては楽な事である。そしてこういう単純な構造は実は受けが良い。なぜなら人は、そんな風に自分をみなしたいという無意識的欲求を持っていて、その欲求を刺激する作品は、大きくヒットしたりする。(今頭に思い浮かべているのは「シン・ゴジラ」だ)

 しかし、実はこれとは正反対の作品も同様に楽だったりする。「世界に一つだけの花」に代表される、表面的な多様性礼賛作品である。これもまた、クリエイターにとっては安易で楽であり、しかも受けが良かったりする。ここでは多様性が肯定されてはいるものの、実は表面的な論理を世界に対して一面的に行使し、その部分を、部分として認めているに過ぎない。皆同じで皆いい、あるいは皆違って皆いい、というその皆の顔つきはどうしてこうもふやけて、似通っているのだろう。多分、世界が終わる時、人は深刻な顔をしているのではなく、どこか幸福そうな、ふやけた微笑をしているのだろう。

 優れた小説ーー文学作品は、そのどちらをも排除し、世界を理性的に洞察しなければならない。そして真のクリエイターは自分が最も撃滅したい相手すらも自分と同じ地平線上において眺め、何故彼がそうであるのかを徹底的に理解しなければならない。ドストエフスキーは「未成年」のラストにおいて彼の作家技法を独特な言い方で語っている。それは「洞察し、間違える事」である。美しい、整備された形式が失われた今、混沌の現在に、混沌の方法を持ってドストエフスキーは入っていったのだった。

 文学作品は、個々のキャラクターが何であるかを解明する義務を負っているように思う。現在ではこの義務を遂行するのは難しい。ある時期から文学は現実と接着した健全な、穏やかな日常を描くものになり、危機や暴力を描くにしても、金持ちのお坊ちゃんが一時ぐれてみせるような、そんな甘さしか感じさせない。僕達は何かに柔らかく包み取られているのだが、それがなにかわからない。心の深層には絶えず無意識的なストレスが溜まり続けているが、その原因がどうしても特定できない。そこで、安易な子守唄が聞こえてくるが、それは僕達の表層のみを慰撫し、深層は無視する。なにかがズレているのだが、そのズレはどうしても感知できない。

 文学作品において人間とはそもそも生き生きした存在であらなければならないが、現に生きている僕達は生き生きしているとはとても言えない。小説という形式において、個々の人物は自己を言葉によって開示しなければならないし、その開示の仕方は相互依存形式ーー対話という形式が望ましい。そう考えても良いだろう。この時、人間を一義的に決定できないか、決定してはならないという態度が作家の態度となる。更にドストエフスキーにおいては、それはキャラクターの態度にすらなる。ドストエフスキーのキャラクターは(バフチンの言うように)他人の定義を打ち破ろうともがいている。彼は生きた存在であろうとするから、他人の、死に似た定義を我慢できない。例え間違っていても、彼らは自らを生きたいから他人の定義が我慢できない。また、他人の定義が正しければ、その「正しさ」にこそ、彼らは噛み付くのである。つまり、人間は論理ではないと彼らは身を持って証明しようとする。その為に何を失ってもかまわないのである。

 こうしてドストエフスキーのような作家の作品には独特のポリフォニー空間が現出する事となった。普通の作家においてキャラクターは静的な存在だとすれば、ドストエフスキーのキャラクターは動的だと言えるだろう。宮崎駿の作るキャラクターが、一々自分自身に反抗していたら、安心して見る事ができない。多分、宮崎駿作品とかワンピースのような大衆ヒット作品というのは、一様にしてキャラクターが自分の定義を覆さないからこそ安心して見られるという性質を持っているのだろう。彼らは作者が与えた定義の範囲内でドラマを作る。キャラクターそのものが自らの定義を食い破ろうとする劇はそこには決して作られ得ない。そしてそれが現れると、例えば、社会におけるある役割を安心して享受している「普通の人」はまるで不可解なものでも見るかのようにそれを見る。そこでは、自分を疑い、その本質を露わにさせる事は社会の根底を破壊する事につながると彼らは本能的に知っているに違いない。自分そのもののあり方を疑い、本質を露出させようとする事は、根本的に不可解な、社会の掟を破る何事かを含んでいる。しかし例えそうであっても人間は自由に生きたいのである。ここに劇がある。そこには人間の生き生きした姿がある。彼はそこで、客体的な視線を脅かす何かを始める。つまり、自己との対話であり、他人との対話である。彼は自分とは何かと考え、その本質を露出させていく。そこで、彼は自らの本質と世界の本質に対して、他者を通じて深く問いかけていく。この時同時に、それを見ている安定した視線も一度は脅かされざるを得ない。人々、というのは何かに対して目を瞑る事から可能なある恒常状態である。本質を求める事は、これに揺さぶりをかける事でもある。

 「対話」は、言葉によって他人との関係を決め、自分との関係を発露させる道具である。これによってキャラクターは自分が何かを読者に開示させていく。この「対話」は我々が通常行う「会話」とは全く違うものである。僕達はおそらく、そもそも自分の事を全然知らないのだ。だから、僕らの理性は僕らの深層に届かない。三島由紀夫の右翼的思想は三島の魂の深くまで洞察しきった故に出てきたものではなかった、と僕は考えている。そこでは、本格的な対話がまだ本質にまで至っていない。この対話を出現させ、その各々の存在を生き生きした姿として、ポリフォニー的空間を表すのが真の作家だと、言えるように思う。そしてそういう作家は現在ではいない。現在は人間そのものの捉え方がまだはっきりと決まっていないし、どの捉え方が正しいのか全くといっていいほどわかっていない。しかし遺伝子学や脳科学、経済的価値によって人間は計られると信じる人間も多い。僕はーー自分の立場からはーー文学にはもう少しは可能性はあるように思う。しかし、その為には今いる位置から膨大な努力が必要となるだろう。自分を知るという事はとかく難しい。漱石が、ドストエフスキーが描くべきものをはっきり定めたのは四十過ぎてからだった。しかも、彼らがそれにようやくたどりつく事ができたのは、おそらく非常に長い間に渡って自己との対話を繰り広げたからであろう。僕はそんな風に考える。そしてその対話は、やがて文学作品という形で花開いたのだった。彼らの作品は相互対話的であり、それぞれが互いを理解しようとする事が、彼らの世界理解の答えなのだった。つまり、答えよりも答えを求める態度の方が、文学という未完成なジャンルにはふさわしい。世界は未だ閉ざされておらず、そしてこれまで一度も、閉ざされた事はないのだ。ここに確定的答えを与えようとすると対話は止み、「演説」が始まる事になるだろう。

文学作品における「対話」について 2

 では、このドストエフスキー・シェイクスピア的原理(シェイクスピアも含めるが)は、タイトルの「対話」とはどういう関係にあるのだろうか。その場合、「対話」は関係性として規定される。また、ドストエフスキーが個人に与える「思想」の定義は、「対話」を成立させる為の諸元素として位置づけられるだろう。

 この場合、僕は、ドストエフスキー・シェイクスピア的原理を仏教的な『関係主義』として捉えたい。関係主義とは、個々の物事のあり方は、それ独自なものとして捉える事は不可能であり、それらは常に関係の側面としてしか捉えられない、として考えるものだ。これと反対なのは『存在論』『存在主義』で、ある真理や物事を単独で、その全てを捉えきれるというものだ。

 この『関係論』『存在論』を大雑把に二つに区切った時点で、先に述べていた、文学と学問との関連性に気付く事ができるだろう。つまり、文学は『関係論』であり、学問は『存在論』である。…もちろん、この分け方というのはとてつもなく大雑把かつアバウトなものなので、本格的に学問の問題を指摘しているわけではない。区分するのに便利だから使っているだけの話である。

 さて、学問ー存在論の系譜から考えていくと、世界は単一の真理で把握可能という事になる。それらは単一の存在の様相を取っており、ある視点を取れば、世界の様相は確実に捉えられる。物理法則には世界各地、宇宙のどこでも通用される事が要求される。この時、物理法則各々が相互の存在を持って葛藤しうるというのは奇妙な話だろう。そんな葛藤は解消され、科学は単一の真理を目指す。学問はこのように世界に大きな網の目を投げかけ、世界を一つに溶かそうとする。
  
 一方で文学はーーというか、ごく一部の特異な文学者はーーそうはしない。バフチンはドストエフスキーについて鋭い指摘をしていた。ドストエフスキーは「罪と罰」において、ラスコーリニコフの殺人正当化の思想を語らせる時も、決して単一のモノローグ的な観点から語らせなかった。それはポルフィーリィの口をついて出てくるのであり、したがって、元のニュアンス、原型をとどめていない形でラスコーリニコフの思想は現れてきた。これをもっと突き詰めていくと、そもそも人間には追い詰めるべき原型などないという事になる。人間は種々の関係の中でのみ自らを開示してく存在であり、だからこそ、肯定するにしろ、否定するにしろ『他者』が必要となる。より強烈に言えば、そもそも「自己」とは「他者」との関係の中で規定される動的な存在であるから、唯一絶対な自分を他者に開示したり、閉却したりという事自体がそもそも存在しないのである。

 この時、注意しておきたい事が一つある。それは自分との対話も、「他者との対話」の中の一つに繰り入れられるという事である。ドストエフスキーにしろ、シェイクスピアにしろ、キャラクターの自己との対話は完璧な水準に達している。そこでは、理性が自らを振り返って自らと応答しているようだ。ドストエフスキー、シェイクスピアの偉大さはこのように自己を完全に客体化した個人を作中に描き出している事にあると言ってもいいだろう。そしてこの時、やはりこの自己対話は非常に生き生きしたものである。彼は自分と語り、自分に問いかけ、その存在を自分に対しても開示しようとする。そしてその事により、その存在が読者である私達にも開かれるのだ。一つ、例をあげよう。

 (シェイクスピア「ジュリアス・シーザー」 ブルータスの妻ポーシャの言葉)

 「もう家にはいらなければ……情けない、意気地がなさすぎる、どうしてこうなのだろう、女の心は! ああ、ブルータス、運良く本望をお遂げになるように!」

 ブルータスの妻のポーシャはこのように語る。この時、妻ポーシャは自分の女としての意気地のなさを嘆いている。しかし、だからといって、彼女自身の女らしさを嘆く彼女の理性は、彼女を純粋に客体的に眺めている。普通の現実において、僕達はそれぞれの立場、例えば「男」や「女」やといったものにとらわれている場合が多いわけだが、この時、ポーシャもそれにとらわれてはいる。しかしながら、それに捉えられている自分を純粋に見つめる理性の目は、それには囚われてはいない。つまり、ポーシャは女であり、女ゆえの弱点を晒したわけだが、しかし、それを見つめる彼女の理性は女でも男でもなく、純粋に「人間的」と呼ぶ代物である。

 シェイクスピア作品に見られる人間造形の偉大さは僕はまずこの点に認められるのではないかと思う。そこでは悪人も善人も己が何者であるかという事を世界に開示される事が要求される。そしてそこでは、上記のように自己への痛烈な対話として示される場合もあるし、演説や他者との対話という形を取って示される事もある。しかしいずれにせよ、これらの人は男であり女であり、ローマ人であったりキリスト教徒であったりするのだが、どっちにしろ彼らは理性の偉大な目が差している限り、どこまでも「人間」なのである。彼らは理性によって自己をえぐり、世界に開示する点において、徹底的に平等であり、なおかつ自由なのだ。ここでポーシャは、女としての弱さをさらけ出しているからといってそれが女を非難するものでも肯定するものでもない事は見て取れるように思う。ポーシャはとにかく「そのような人間」なのである。そしてポーシャという、劇の中ではそれほど重大ではない人物もシェイクスピアの手によって、とにかく自分を開示する一人の偉大な人間として、我々には指し示されるのである。

 さて、このようにして、「自己との対話」も「文学内の対話」の一つとして重要な事が分かった。長くなったのでまとめていくと

 ① 文学作品におけるキャラクターは言葉によって自らを指し示す。そこでは「対話」が重要な位置を占める。
 ② 対話はそれぞれの生き生きした実在を示す。対話は関係的である。それは一元的な真理を行使しない。というより、一元的な真理は行使できないと考えるから、人は対話的に自らを示さなければならない
 ③ 対話は自己との対話も含む。
 
 という辺りになる。

 本当はここからもっと先の事を考えていかなくてはならないのだが、これ以上やるともっと長くなるので、この論はここらあたりで辞めておく事にしたい。(続く)

文学作品における「対話」について 1

 文学作品にとって「対話」というのは非常に重要な要素として存在する。そしてこう考える際、僕は「対話」と「会話」を一応区別しようかと思う。僕が「対話」という事で言いたいのは、文学作品内部の個々のキャラクターがそれぞれ自分の本質を言語表現するという意味での「対話」であり、それは具体的にはシェイクスピアとドストエフスキーの作品内部における「対話」を指す。だから僕が「対話」をイメージする際は、かなり狭い範囲の話になる。

 …とはいえ、そうしたイメージにだけ縛られる事なく、漠然と話を進めていこう。優れた批評家であるハワード・ホークス氏はミハイル・バフチンの議論を前提にしつつ、小説における「会話」とはどんなものかという優れた論考を書いている。こうした事は非常に参考になったので、最初に書いておこうと思う。

                          ※

 さて、文学作品で「対話」、あるいは「会話」はどんな意味を持つだろうか。人は普段、『普通に』会話する。しかし、我々の普段の会話というのは大抵、内容に乏しい。「昨日、〇〇行ってきたんだよね」「あ、あそこ、こないだ私も行ったよ」「えー、うそ? ××いたでしょ?」「いたいた、でさー」 みたいな感じで、活字で現しても、ほとんど意味内容が感じられないようなものである。もちろん、そうは言っても、それを話している僕達自身が空虚である訳ではない。僕らの普段の会話というのはほとんど、会話外の情報が多いように思う。相手の顔色や雰囲気、服装や身振り手振りによって僕達はなんとなく会話している。そこでは、言葉の意味概念で捉えられない情報で僕達は話している。さりげない日常会話の中でも「あ、あの人は私に好意を持っている」とか「あの人は私を嫌いらしい」とか、人は様々に日々感じるだろう。では、これを文学作品において活字に表すとどうなるのか、という事が問題になってくる。

 文学の面倒な問題というのはこの辺りにある。言葉の羅列によって、世界は抽象化される。僕達は過去の古い書物を読む事が可能だが、それは言葉が様々なものを抽象化する、その作用のおかげである。しかし、その作用は現実のあり方の非常に多くの部分を捨象してしまう。これら捨てられたものの中に、本当の僕達の生き生きした姿はあるのではないか。…もちろん、答えはそれで正しいのだが、しかし、言葉によってもう一度、生きた現実、生きた人間を取り戻す事に文学の本懐があると言っていいだろう。言葉は世界を抽象化し、やせ細ったものにするが、それを再び、世界以上の大きさに、豊かなものにする過程において文学の技術というものがある。そんな風に考える事ができるだろう。

 さて、この時、言葉はどのように人間を現していくだろうか。
 例えば、バフチンが教えてくれた事だが、全く同じ言葉でも、話者が違えば、全く違う意味を持つ事になる。例を出すと、
 
 A「昨日、マクドナルド行ってきたよ」
 B「昨日、マクドナルド行ってきたよ」
 
 という『会話』があれば、Bの言葉は嘲弄の意味を持つ事になる。これは当たり前の事だが、非常に重要な事に思える。AとBの言葉の意味内容自体は全く一緒だが、話者が違うという事で違う世界が開けてくる。例えば、これが言語学であるなら
 
 「昨日、マクドナルド行ってきたよ」

 という語は単一の意味として捉えられるはずだ。言語学における言葉の意味は、話者の変化を考慮に入れていない。それは単一にして全体的な意味作用であり、だからこそ『辞書』というものが成立する。言語学、科学のような学問はこうした一元的な体系によって世界を俯瞰視する。だからそこに体系的な真理が生まれるのだが、文学作品においては、そうした一元的な真理は行使されえない。何故なら、単一の真理を握っているものが仮にいても、それは登場人物の一人として作中に埋め込まれるやいなや、一つの関係の網の目に組み込まれた一元素となるからだ。

 もちろん、そうは言っても、小説の作者が、自らが正しいと考える思想を、自らが正しいと信じる登場人物にべらべら喋らせるというパターンは存在する。この時、おそらく、こうしたパターンを使う人物はそもそも小説というものが何故そんな形式を保っているのかというのを徹底的に思考していないのではないか、と思う。(もし徹底的に思考している者なら、単に僕とは違う考えの持ち主だという事になるが) もし、そういう事がしたいのであれば、別に小説という形式を使わず、単なる「演説」つまる所、「エッセイ」「批評」という形式で充分だろう。そしてこの場合は作者から読者に対して「作者→読者」という一本の線が引かれており、それを何かの理由で薄める為だけに小説という形式が採用されているにすぎない。しかし、小説の真の能力は作者の思考、哲学を主要な登場人物に語らせる事にあるのではない。そうではなく、小説の構造と機能は、そのような作者の思考や哲学すら相対化して作品の中に折りたためるという事にある。

 ミハイル・バフチンにしろ、ハワード・ホークス氏にしろ、彼らは小説というものを構造的に、関係性として捉えている。その際、問題となっているのはそれぞれのキャラクターの独立性である。しかしながら、もちろん、それぞれのキャラクターの独立性を成り立たせているのは作者である。では、それぞれのキャラクターを成り立たせている作者の個性とはどんなものだろうか、と考えるとこれが難しい。特に大作家においては圧倒的に難しい。なぜなら、普通に考えれば、作者と言えども、現実世界では無数の人間の中の個性の一つに過ぎないからである。シェイクスピアにしろ、ドストエフスキーにしろ、彼らは多くの人間の中の一人に過ぎないはずである。彼らは単に、一つの個性として現実の世界を生きていたはずなのに、何故、彼らの作品にかくも無限の個性が集積し、そこでそれぞれが自己を主張する事が可能になったのだろうか。ここに非常に難しい問題がある。

 僕の見方ではこの難しい問題に対して、多くの知識人はつまづいているように思う。例えば、ドストエフスキーに影響を受けたと称する作家が、自分のキャラクターに思想めいたものを語らせる。そこで「自分はドストエフスキーの影響を受けた」と信じるのだが、実際の所には似ても似つかない。では、何故、似ても似つかないのだろうか。

 これに関しては割に明瞭に答える事ができるように思う。既にバフチンの指摘している事だが、ドストエフスキーは思想というものを単に主人公に語らせているわけではない。ドストエフスキーにとって思想とは生きた人格であり、何よりも生きた人間そのものの事だった。これがシェイクスピアにおいては情念と理性というような項によって、人間が括られるがドストエフスキーにとっては「思想」というものが人間に対する定義として当てはまった。もちろん、これは現代社会を写したものである。

 例えば「罪と罰」をよく読んでみて欲しい。そこでは、ラスコーリニコフの情熱に浮かれた言葉に釣られて、つい作者も舞い上がって文章を書いていると思いがちだが、実際、背後にいるドストエフスキーは案外冷静、冷淡である。ラスコーリニコフにしろソーニャにしろ、ポルフィーリィにしろ、それらの人物は自分の存在と自分の主張を融合させて生きているものの、ドストエフスキーは安易にそれに与したりしない。つまり、ドストエフスキーは思想というものをキャラクターに語らせているのではなく、むしろ、思想というものが生きた存在として社会の中を通行している現代世界を客観的な位相から描いている。

 だから、ドストエフスキーはあくまでも思想を描写していると言える。この時、ドストエフスキーのキャラクターの誰彼の思想が浅はかであるとかないとか、そのような批判は微妙に的はずれな批判だ。なぜなら、現実世界においては浅はかな思想に捉えられてとんでもない事をしでかす人間だって存在するからである。問題は、僕達が(バフチンの言うように)、まるで一人の作家の作品について批評するかのように、ドストエフスキーの小説の中のキャラクターの一人について語る、という事にある。この時、僕達はドストエフスキーが思想を「描写」しているのではなく、むしろ、ドストエフスキーが思想を語っている、と無意識的に見てしまっている。だから、そこでドストエフスキーの作家としての位相が見逃される事になる。

芸術は世界から独立した存在としてあるのか

 

 
 小説家になろうのエッセイランキングを見ていると、小説を書く理由というのに、「小説を書くのが楽しいから。そういう物語を作るのが好きだから」という事がちらほら見えた。こういう意見というのは割によく見かけるし、妥当な意見のように見える。

 それでこういう意見の裏には、「プロの小説家になれないけど…」という但し書きもあるようだ。だが、過去を振り返ればプロの小説家になれるかどうかというのはさほど重要な問題ではない。カフカはアマチュアだったし、ゴッホは死ぬまでに一枚しか絵が売れなかった狂人だった。そういう事は(少なくとも芸術上では)大した問題ではない。

 それで最初の問題に戻ると、「小説を書くのが楽しいから。そういう物語を作りたいから」という事が問題になるが、これは本当にそうなのだろうか。これは別にこう言う人を非難したいわけではない。どっちかと言えば自分自身、そんな風に考えていた過去があって、色々勉強していく内に、そういう自分に疑問が出てきたという事がある。

 まず、疑問なのは、「物語」というものが現実と遊離した存在としてあるのかどうか、という事だ。最近、政治や経済の本などを読んでいるが、一般的には、『芸術は政治・経済とは分離された独立な存在』と考えた方が都合は良い。その方が芸術家が色々、考えたり学んだりする必要がなくなるからだ。

 大きく言えば、村上春樹なんかも、『文学』というのを現実と切り離して考えていると思う。ねじまき鳥クロニクル辺りまでの村上春樹は、現実との連続性を感じさせたが、最近の作品は現実と遊離した『物語』となってしまっている。では、この『物語』は果たして、本当に現実と遊離した、『文学』という大きな城の中にある確固としたものなのだろうか。僕はそうは思わない。…というか、色々勉強している内にそうは思わないし、そう思ってはならないという結論に達しつつある。

 抽象論ばかり言っていても良くないだろうから、具体例を上げる。例えば、古代の悲劇では、人間の意志、欲望よりも自然が与える運命が先立っているように見える。人間がどうありたいかという事よりも、自然な人間が世界に翻弄される様が描かれる。これが近代に至ると、人間の意志、欲望が重要となってくる。つまり、近代においては人間は意志するのだが、それが成就しない事が基本的な劇の構成となる。これに比べて古代は、神が与えた運命に翻弄される人間が問題となる。

 今、更に問題を追求する為にドストエフスキーという項を入れてみよう。ドストエフスキーは全く独特な筋の構成を発明した。「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフは、彼が意志する事によって、殺人を犯す。そこでは、彼は自分の望んでいる事をした。しかし、その望みが、まさに抵抗なく行われたという事が彼の苦しみである。おそらく、ドストエフスキーが表した非常に重大な哲学とは、現代においては、人の意志、欲望それ自体が、その人自身の存在のあり方に根付いていないという事にある。ラスコーリニコフの殺人の意志は彼自身にも嘘と気づかれているような何かだった。つまり、現代においては個人の内面、意志、欲望自体が客体化され、社会の規範に組み入れられている。そこでは、意志が成就されない近代性が問題なのではない。そうではなく、意志がその通り成就されたのに、何かが違うのだという感覚が問題となっている。おそらく、これは未だに現代の問題だろう。

 これを近代のシェイクスピアとくらべてみよう。「ロミオとジュリエット」では、ロミオとジュリエットの恋愛が問題となる。二人を引き裂くのは社会規範である。二人を結合させようとするのは、二人の意志・恋愛である。つまり、ここでは個人の内面的意志と社会規範が葛藤している。個人は社会に敗北するのだが、しかし、敗北してもなお自分を失わない事に我々は感動できる。そういう意味では夏目漱石の「それから」も近代的作品と言えるだろう。
 
 一方、ドストエフスキーの作品では、そもそもキャラクターが自分が何を望んでいるのか、理解できない。「白痴」の三角関係を考えてもそうだ。ヒロインのナスターシャは、相手を我が物にできない事に悩んでいるのではない。彼女はそもそも、自分の意志、欲望が何なのか捉えきれない事に悩んでいる。この事を僕は、現代社会特有の問題と考える。我々が望んでいる事は、精神が物質化し、情報として流通している現代においては、不分明となってしまう。僕達が「夢を叶える為努力する」というのは、大抵、世界の方で、かなり早い段階に我々に刷り込んだ幻想にすぎないのではないか。僕達が意志し、欲望を持つ、その内面それ自体が、世界によって外部化し、自身のものと感じられない。そこに現代の問題がある。

 言い換えると、現代では、個人の内面そのものが外部化した、と言える。自分の内面、意志そのものから自分が疎外されている、と人は感じる。テクノロジーによって情報が流通するようになり、個人はネットを通じて自由に発言できるようになった。それは個々の主体性の発露に見えるが、実際的には、それぞれの主体が世界に汚染される為のインフラが整ったと見る事もできる。

 事実、毎日、似たような情報を見ている僕らは次第に「そんな風に」考えるようになってきている。人が話す事を話し、誰かが話題にしている事を話題にする。古代における専制政治は人間の魂まで支配する事はなかったが、現代はそれは可能になった。何故それが可能になったかと言うと、まさに僕達がそれを「望んでいる」と感じているから、という事になる。

 さて、ようやく、問題を最初に戻そう。『小説を書くのは「小説を書くのが楽しいから。そういう物語を作りたいから」』。だが、本当にそれは本人が『望んでいる』事なのだろうか。優れた編集者の鳥嶋和彦が、「漫画家が『描きたいもの』と『描けるもの』とは違う」という事を言っていた。実はここで言っている事は鳥嶋和彦の発言がヒントになっている。鳥嶋の言っていたのは、作家が「描きたい」と思っているものは大抵、作家がそれまでに見たもの、聞いたもので、「描きたい」と思い込んでいるものに過ぎず、作家が「描けるもの」はそれとは別だという事だった。

 …ここまで、文章を連ねてきて、一体、お前は何を言いたいのか。まとめると、そもそも、「書きたい物語」の、「物語」は現実と独立したものとして成立しているのかどうかという事。現実に目をつぶり「空想の世界で解放される」にしても、そこでは現実で得た僕達の価値観や世界観が如実に現れてしまっている。そもそも「純粋に面白い物語」というのは存在せず、あるのは現実認識の果てにある物語ぐらいではないか。例えば「純粋に面白い物語」とはなんだろうか。古代ギリシャの悲劇が優れているのは誰でも認めるだろうが、今、それを僕が書くとしたら何故それを書くのだろうか。純粋に面白い物語というものが時代を通じて不変ならば、古代の方法論を今に持ってきてもおかしくなさそうだが、そうはならないだろう。話が外れるが、僕は市川海老蔵が歌舞伎の本質を理解しているとも、高嶋ちさ子がバイオリンの本質を理解しているとも全然思わない。本質は変化しており、それを捉えるのが芸術家の仕事だと思うが、本質が変化しないと考える時、その人は過去の形式にしがみつく。彼らにとっては形式が本質であるから、流動する時間の中で、時間と共に流れ去っていく。

 芸術における本質とは、時間を通じて再発見され続けるべきものだと思う。そしてその再発見は、必ず、現実との関係性として規定される。芸術は時間の中で永遠不動の姿をしているのではない。それが永遠不動の姿をしているように見えるのは実は、同時代の現実との極度の緊張関係を保っているが為であると僕は考える。ベートーヴェンの音楽には、自らの個性を突き詰めたものはいつか必ずや人類の為になるであろうという、美しい近代の均衡が現れている。ゲーテ、バルザック、ヘーゲルらもこれらと似たような位置にいる。そこでは西洋近代の美しい均衡関係があるが、それを現代の僕らがそのまま模倣する事はできない。現代はゲーテの時代に比べて拙劣な時代かも知れないが、それでも現代から逃げ出すわけにはいかない。

 僕らが「書きたいもの」「楽しい物語」と思っているものはおそらく、どこかから紛れ込んできたある種の幻想だと思う。しかし、この幻想を全て捨ててしまえば、僕らは何も描く事ができなくなるだろう。問題は、僕達自身がドストエフスキーの作る登場人物のように、そもそも何を望んでいるのか、はっきりと認識できない事にある。

 例えば、『金が欲しいから仕事をしている』というのは非常に正直な意見に聞こえるが、彼が本当に望んでいるのはそれだろうか。人間が自分の内部の声を聞き取れないか、聞き取るつもりがない時、容易く他者の言葉、他者の物語が入り込んでくる。夏目漱石が「自己本位」という言葉によって自らを奮い立たせた時、彼は西洋近代の模倣者である事を捨てたのだった。では、僕らは一体、何の模倣者なのだろうか。…現代の問題は、僕らがそもそもなんの模倣者であるのかわからない事にあり、しかも「自己本位」と言ってみてもそれが虚ろに響く所にある。平野啓一郎がドストエフスキーの影響を受けたというと、平野啓一郎とドストエフスキーとはとても比べられないと感じるが、では現在、ドストエフスキーの影響を受けるとはどんな意味を持っているか。これを考えるだけでも、頭が痛くなる。

 …長々と書いたが、自分の言いたい事は、芸術は常に現実との関連性においてあり、その関連性を突き止めるのはそんなに簡単ではないという事だ。芸術を形式と見ると、こうした問題は全て消去され、代々歌舞伎をやっているとか、子供の頃からバイオリンをしていたからバイオリニストになったとかいう話になる。現代において歌舞伎をやるとはどのような事か、現代においてバイオリンを弾くのはどのような事か。それを表現者として表現するとはどんな事であり、そもそもその創始者はどのような精神でやっていたのか。

 偉大なものは、形式にあるのではなく、内面にあると僕は考える。そこでは、内面が自由だからこそ形式は無限に広がっていくのだが、最初に形式に飛びつく人間は逆に内面を不自由に規定されるから、後々困るだろう。流行った作品を真似て売れっ子になった人間は、それをやり続けられるだろうか。人間は利益の為に運動しているわけではないし、そうなろうとしてもそれはそもそも続かない。だから「自分が楽しいから小説を書いている」というのは正しいと言えば正しいがその「楽しい」というのは一体どういう意味だろうか。夏目漱石のように「自己本位」を発見できなければ、本当に心の底から「楽しい」とは言えないのではないか。そういう意味でーーつまりーー人生においては自分を発見する事は難しいと思う。芸術というのもつまりは自己発見の道程なのだろう。