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もうやめて欲しいと言っているのに何度も同一人物がコメントをしてきたため、コメントを承認制にします。ご了承ください。普通にコメント貰えれば承認する予定です。

批評から創造に至る道

 

 批評とはどういうものだろうか。考えてみよう。

 最近の批評家でよくあるパターンは、批評家のみが知っている特権的な情報をこれみよがしに見せる、というものだ。つまり、「この作品のこの箇所は××という隠された意味がある、それを知っているのは私(批評家)だけ…」というものだ。こうした方式は果たして批評だろうか。

 例えば、作者がたまたま思いついて、「キャラクターXのTシャツには『26』と書いてある」とする。すると批評家は目ざとくこれを見つけて「26」には深遠な意味があって「1926年の〇〇事件を指しているのだ」なんて言う。こんな事は批評だろうか。

 実際に小説を書く立場の人間として言わせてもらえば、作者というのはそんな細かい事は深く考えていない。それにそんな事を深く考えていたとしても、どうだっていいと思う。ほんの一瞬しか現れないTシャツの数字の意味を読み取らなければ作品の意味がわからなくなるのであれば、作品の構成自体がおかしい。作品というのは読者に開かれているべきだと思うし、批評家が特権的な情報を握る場所ではないと思う。

 例えば、シェイクスピアの作品というのは、読者に全面的に開かれている。それはもう一片の隠す所もない。それぞれのキャラクターは自分の真実を最後の最後まで言わなければ気が済まない。僕はシェイクスピアの作品を更に解釈するフロイトのようなやり方が理解できない。シェイクスピアの作品はもう解釈のしようがないくらい明白なもの、つまり真実そのものとしてそこにある。これを更に(裏に回って)解釈する事に僕は反対する。シェイクスピアは世界を白日の下にさらしている。真実を作品という形式で現している。何故またその背後に秘密を探らなくてはならないのか。

 フロイトはまあいいにしても、批評というものが、批評家の特権的地位を表すものではない、という意見は一考の余地があると思う。次に僕の考える批評の定義について言ってみる。

 批評というものが発動する前提は、「作品全体の印象」であると思う。作品全体の印象、作品が読者に与える印象、感覚、これがまず基礎となる。
 
 (印象批評は大雑把であやふやだ、という反論があるのは知っているが反応していると長くなるので先に行く)

 例えば、僕達は映画を見て、本を読んで、ゲームをして、「面白かった」「面白くなった」と言う。そうすると相手は「たしかに、面白かった」とか「いや、面白くなかった」なんて言う。

 この時、僕達が「面白い」「面白くない」という言葉で、つたわっていると信じているものは何だろうか。よく話し合えば、この二人は作品の全く違う要素に面白さ/面白くなさを見ているのかもしれないし、作品を違う角度で見て面白いとか面白くないとか言っているのかもしれない。

 僕らは作品を読んだ後「面白い」「つまらない」ぐらいの簡単な言葉で済ませる。しかし、本当はどう面白かったのか、何が面白かったのか、何がつまらないと思ったのか。友達に話を聞いてみれば分かるが、これを論理的に、誰にも納得できるように話せる人はあまりいない。

 しかし、僕達が論理的に、自分の感じたものを言葉で表せないからといって、僕達が何も感じていないというわけではない。つまり、感覚は確かにあるが、言葉がついてこない。何が良かったのか、もやもやしているがうまくいえないのである。

 こうした時に批評家が必要になる。批評家がこうした人の前に現れ、僕らが作品から受けた無意識的な印象を論理的に、明晰に言葉にする。僕達はそれを読んで、ようやく自分の中に何があったのかを理解する。

 批評というものは、そのように印象から論理を構成する。しかし、この世のあり方の必然性に縛られるので、そこで構成された論理はまた独特のものなってしまう。最も優れた批評は、もはや、作品とは違う形で定立された別の作品に他ならない。小林秀雄はこうした批評を積極的にやった。それはもはや一個の作品と呼ぶべきものだ。

 批評というものは見方を変えていけば、創造そのものの事を意味している。ドストエフスキー「白痴」はセルバンテス「ドン・キホーテ」を批評したものだと言えるが、「白痴」を「ドン・キホーテ」に対する批評とは誰も言わない。だけどそんな見方もできると思う。太宰治には「女の決闘」という作品があって、これは同名の短編小説が先にあって、それに逐一太宰が注釈を入れる事で一つの小説にする、という独特な作品だ。太宰もまた小林秀雄と同じで、批評の延長が創造という事をよく知っていた。

 何故、批評が創造になるのか。Tシャツの姿に『26』があるのを目ざとく見つけるのはどうして創造に至らないのか。その違いは何なのか。

 定式だけ言うと、ある作品が作られる時、作者の方で、情念とか感性、思想、魂とかいった…つまりは不定形のものがあり、それを形式に写し出す事によって作品というものが生まれる。物語という構造は、作者の情念が、物語という形式を通じて語らなければ語りきれない場合にのみ、大きな意味を持つ。それ以外の場合は単に形式的な意味しか持たない。

 さて、こうして作品は僕らの目の前に形を表す。作者は自分の中にあるもやもやした塊を、私達の前に、論理的な、形式ある作品として表現した。我々はそれを見て、今度は自分の中に、もやもやしたものを感じる。おそらく、それは作者の情念、魂の写像形式なのだろう。これをもう一度、表す事ができるだろうか。「面白かった」…では表せられない。「面白かった!」と叫んでもダメだ。そこから、批評が生まれる。自分の中にあるものを、今度は形式を用いて表さなければならない。ここからまた、形式との格闘が生まれる。批評の努力はここにある。そしてこの努力は、作家やクリエイターが行った事を、逆側から昇っていくものだ。

 ここに批評の道があると考えたい。

 批評はそんな風にして現れる、と僕は思う。そして批評は、批評家がどれほど普遍的な批評を目指しても、それが優れた批評であるほど個性的にならざるを得ないという事情がある。というのも、優れた作品は様々な方向に価値を放射しているので、それを批評家はそれぞれの立場で受け取る。ただ唯一の批評、というのは存在しない。批評の多様性、批評の分化した価値が、一つに合成される中に作品の真の価値があると言って良い。しかしどんな良い批評でも、作品の価値のある側面を照らし出すにすぎない。そしてそれこそが、批評している当の作品の価値の高さを示している。

 傑作と呼ばれる作品は、様々な角度から照明を受ける事を許す。様々な党派性を越えて、様々な党派性を許す事に傑作の意味はある。優れた批評はまた、その中かから一つの党派を選び取るように見えるが、そこからまた多様性の中に入りこんでいく。僕達は小林秀雄の批評を、単一の、唯一の絶対無二の理解だとは考えない。それらは作品の読みに対して、多様な可能性を保持する。一つの単一の読みではなく、読み、つまり批評は価値の中心に行くにつれて、いわば『無限の言語』とも言うべきものに近づいていく。

 我々は『無限の言語』を自分の中に包含する事ができる。しかしそれを他者に語る事はできる。その時、我々は単一の、固まった形式で語らざるを得ない。

 だが、そこで語られたものが本当に豊かなものなら、そこからまた、他者の語りが生まれる事だろう。優れた批評はこのように、単一の解釈を許すものではない。そこでは答えがない事が答えであるようなーー無限に続いていく事を許す『テキスト群』だ。この豊かさに飲まれたものはここで死ぬかもしれないが、同時にこの奔流の中で生きもするのである。これに反して、批評家が唯一の絶対的な答えを握っている、そう証する答えは、自分一人の優位性を示すにすぎない。そのテキストは孤立しており、自分の知的優位を誇るだけにすぎない。彼の批評は歴史のさざなみで消えていくだろう。本当の批評は答えがない。そしてそれゆえに豊かなものだ。僕はそう考えたい。

 レフンの描く現代の狂気 (Nicolas Winding Refn movie review 〈jp language〉)



 今、レフンの映画を見ている。「ドライブ」→「ブロンソン」→「オンリー・ゴッド」→「プッシャー」→「ブリーダー」まで見た。

 レフンの映画を見ていると、彼がテーマとしているのは狂気だという事が分かる。どの作品にも一貫して、狂気を客観的に描くという立場が貫かれている。

 僕はレフンの描く「狂気」は非常に現代的だし、的確な描き方をしていると思う。というのも、現代の人間は、因果関係のない狂気、因果関係のない暴力、そういうものが潜在的にあって、それをレフンは正確に描いている。

 例えば、ドライブの主人公は根無し草である。「ドライブ」の主人公はどこからかやってきて、ふらりと当該の街に辿り着く。彼は昼間は修理工場で働いていて、夜には強盗の逃走ドライバーを務める。強盗犯の手伝いをするのは当然命をかける危険な行為だが、何故そんな事をするのか、レフンは描いていない。

 ライアン・ゴズリング演じる主人公は序盤で人妻を好きになる。人妻ヒロインを守るために命をかけて、敵対する相手を何人も殺していくのだが、その殺意、暴力性も極めて突発的で、何の因果関係もない。

 普通の物語の作り方では、作者が、「動機」を用意する。例えば、主人公が過去に虐待を受けていた、何らかの因縁が過去にあった、女を取られた、親友に裏切られた…など。しかし、「ドライブ」の主人公は全ての事を突発的に行う。彼は地に足をつけた生活をしていない。ふらりと街にやってきて、ふらりと女を好きになり、女のために命をかけ、残虐な行為も平気でする。全てが瞬間的、偶発的であり、ほんの偶発的な感情を主人公は絶対化して生きている。彼はその生き方を反省しない。彼は街にやってきて、修理工場では真面目に働く好青年なのだが、どこか感情が欠落している。この、好青年であると共にサイコであり、地に足をつけていない青年というのをレフンは的確に描いている。

 レフンの他作品「ブリーダー」では、DV男が妻に暴力を振るうのだが、これもまた因果関係が示されない。DV男は妻に子供ができた事に急に腹を立て、(自分の人生が台無しにされた)と憤る。だが、どうして人生が台無しになるのかは描かれない。

 こうした事は描かれないのではなく、意図して描いていないのだと僕は思う。こうした狂気は現代社会の根底に存在している。

 僕達は現代に生きていて、無意識の内に過大なストレスを抱え込んでいる。これは何故なのか。社会学の本を読んでもなかなかわからない。

 一つには、個人があまりに分化し、社会の中で小さな存在になってしまったという事が考えられる。個人の卑小さ、無力さはシステムの中では圧倒的になってしまった。システムを維持するために個人は、自分を捧げなければならないが、システムは個人を取り替え可能とする。「シフト」によって切り売りされた僕達の人生の時間はどこへ行くのか。

 また、社会やシステムが巨大になった事によって、僕達の道徳観念が強まったという事もあると思う。かつてコカインは合法だったが、今はそうではなくなった。最近はタバコが問題視されている。人間が増えて、それぞれに自分の役割を守る度合いが増えると共に、個人を道徳観念で抑えつけなければならない。タバコの受動喫煙がその内、法律で禁止されるかもしれないが、それはタバコが「悪い」というより、むしろ僕達の集団性が膨れ上がった事により、集団維持のためには個人が、自分を制限する度合いが大きくなったという事ではないかと思う。

 社会やシステムが巨大化し、それに伴い個人は分節化し、卑小なものになった。僕達は市民社会を成立させるためにルールを守って生きている。だがそのルールを守らなければならないという無意識の圧力こそが、ある時、急激な暴力性に転化する。そこにもはや個人的因果は必要ない。突発的に銃を取り出したり、ナイフを取り出したりするので十分だ。

 レフンはそんな現代の狂気を描いている。久しぶりに、作家性の強い、良い映画監督に出会って非常に満足だった。もしレフンの映画を見たい人がいれば「ドライブ」がお勧めだ。「オンリー・ゴッド」も名作だと思うけれど、人を選ぶ作品だと思う。

 青山七恵『肉じゃが問題』を考える  

    


 『青山七恵「ひとり日和」を(悪い方向に)読み解く』という文章で、主人公と彼氏が部屋から出てきて、料理をしているおばあさんと出くわすという場面を取り上げた。「ひとり日和」という作品内のこの箇所は、意外に重要な意味を持っていると思う。再考したい。
 まず、状況を確認しよう。


 (主人公・知寿が彼氏と部屋でセックスした後、台所に出てくる。同居中のおばあさん吟子が台所で料理をしている)
      
                           ※
 わたしたちは脱ぎ散らした服を着た。二人とも変な寝ぐせがついている。手を洗って台所に行くと、吟子さんは芋や、にんじんや、肉を鍋でいためていた。
 「おやおや、肉じゃがですか?」
 「カレー。若い人はカレー好きでしょ」
 「あたしは別に。好き?」
 振り向くと、藤田君は首の後ろをぽりぽりと掻いていた。
 「俺は好き」
                           ※

 さて、この箇所で僕は主人公の知寿、つまり「わたし」の位置からは鍋の内容は見えないのではないかと主張した。記述では「吟子さんは芋や、にんじんや、肉を鍋でいためていた。」となっている。普通に、部屋から出てきて彼氏と二人で台所に入り、その場所から鍋の中身を把握するのは不可能だろう、そういう事を言った。

 これは些細な描写の問題に見えるが、結構、大事な事に思う。というのも、作者は明らかに「わたし」になりきれずに作品を書いているからだ。

 整理しよう。「わたし」は彼氏と一緒に部屋を出て手を洗い、台所に行く。この時、「わたし」の視点になって想像して欲しい。その時、普通に考えれば見えるのは、コンロに向かって吟子が鍋を使っている様子だ。普通の視点からすると、吟子の後ろ姿は見えるだろう。鍋も見えるかもしれない。しかし、鍋の中身を見るとなると、どうしても鍋を上からのぞきこまなければならない。しかしのぞきこむ描写がないままに「芋や、にんじんや、肉」が炒められている事を主人公は把握している。これはどういう事だろうか。

 もっと突っ込めば、仮に鍋をのぞきこんだ所で、それが「芋や、にんじんや、肉」であると瞬間的に把握するのは難しい。普通は、鍋をのぞきこんで、「何炒めてるの?」「芋とにんじんと肉」「今日は肉じゃがなんだ」「違うよ、カレーだよ」というやり取りぐらいあってもよさそうである。しかし、作者はそういうやり取りを一切書いていない。

 青山七恵の「ひとり日和」は、新鮮な感受性で若者の今を切り取った作品、という事になっている。が、この作品のこういう描写を見ていると、実際には作者が奇態な技巧を使っている事が見て取れる。

 元に戻って考えると、では何故、作者は「わたし」の位置からは見えないだろう「芋とにんじんと肉」が炒められていると書いたのだろうか。答えは簡単で、その後の

 「おやおや、肉じゃがですか?」
 「カレー。若い人はカレー好きでしょ」

 という会話を引っ張り出すためである。「芋とにんじんと肉」が炒められているのであれば、カレーか肉じゃがか、一見して判別がつかない。つまり、作者はこういう『日常の些細な差異』を会話として引っ張り出すために、「わたし」の位置からは見えないだろう物の描写を、作者の観点から強引に引っ張り出してきた。

 では、こういう作品とはそもそもどんな意味を持っているのだろうか。

 全体的におそろしいほどステレオタイプな物の見方で構成されたこの作品は、自然さ、新鮮さ、軽々しさを装っているものの、実際には、作者が自分に都合の良い世界を生み出すために、「肉じゃが問題」のような技巧を至る所で使っている。

 例えば、主人公には盗癖があるが、人の大切な物は盗まない。人が盗られてもほとんど気にならないような物だけ盗む。実際、その人にとって大事な物を盗むと、盗まれた相手と、闘争を含んだ本格的に人間関係に発展してしまう。だから、作者は微妙に問題のならないような「それほど大事ではない物を盗む」という癖を主人公に付け加えた。この癖の付け加えも、おそらくは作者が、自分に好都合な「日常のちょっとした差異」を生み出すためなのだろう。

 こうして考えると「ひとり日和」という作品は自然でもなければ、若い女性作家ならではの新鮮な感性があるわけでもなく、ただ、「平凡な日常」の振りをしつつ、それを一編の作品に編むために、色々技巧が使われた作品だという事が分かる。この箇所では作者は「わたし」になりきれておらず、『肉じゃがorカレー』という会話を引っ張り出すために、主人公が鍋の中身を一瞬で理解したという事にしている。

 ではこんな作品を作る作者の思想とはなんだろうか。ここまで考えると、ちょっとおぞましい気もするが、僕には、あらゆる深淵なもの、人生における重大な事を全て自分の見えない場所に放り込んでおいて、後は「日常のちょっとした差異」を技巧的に紡ぎ出す作家という姿が見えてくる。

 ではどうして「日常のちょっとした差異」は作られなければならないのだろうか。それは作者がそれが文学だと信じているためだろう。おばあさんの吟子は、風邪を引くとネギを巻いて寝る。今時そんなおばあさんがいるとは思えないが、このような描写が作者には必要だった。現実の醜さも美しさも見る事なく、微妙にリアリズムのふりをしつつ、現実を自分に消化しやすいポップかつ軽薄な物に変える…そんな技巧がこの作家にはある。

 そして、こうした作品を選考委員は絶賛し、芥川賞を上げた。こうした事情というのは一体どうなっているのだろうか。

 ……僕は、本物の文学がどこかで紡がれる事を望む。ジャック・ケルアックは「自分は現実の醜さと美しさを描いて有名になった」と語っていた。仮にケルアックの作品が文学だとすると、青山七恵の作品は文学とは、芸術とは真逆のものであると思う。僕はこのような作家がこんな風にして称揚される文学の世界に違和感を覚える。

中上健次「枯木灘」をふと読む


 


 中上健次の「枯木灘」をパラパラ見ていた。青山七恵を論評した後だからか、文章が圧倒的に良い。青山七恵と比べるのも滅茶かもしれないが。

 中上健次と大江健三郎については、ブログの方でもどうして言及しないのかという意見が二つくらい来ていて、僕の信頼する人もこの二人については悪くは言わない。なので良いのだろうとは分かっていたものの、これまでは避けていた。今回は中上健次「枯木灘」について短く取り上げる。

 まず、最も素晴らしいと思う所を引用する。
 
 ・主人公秋幸が土方の仕事をする

 「秋幸は土方をやりながら、自分が考えることも知ることもない、見ることもない口をきくことも音楽を聴くこともないものになるのがわかった。いま、つるはしにすぎなかった。土の肉の中に硬いつるはしはくい込み、ひき起こし、またくい込む。なにもかもが愛しかった。秋幸は秋幸ではなく、空、空にある日、日を受けた山々、点在する家々、光を受けた葉、土、石、それら秋幸の周りにある風景のひとつひとつの愛しさが自分なのだった。」

 「秋幸はそれらのひとつひとつだった。土方をやっている秋幸には日に染まった風景は音楽に似ていた。さっきまで意味ありげになみあみだぶつともなむみょうほうれんげきょうとも聴こえていた蝉の声さえ、いま山の呼吸する音だった。」

 中上健次は土方の経験をしていた事もあるし、また本人が紀州の、おそらくはどうしようもない(悪い意味ではない)民衆的な、極めて土着的な所で生活していた。中上健次は読書して知性を身に着けたわけだが、その知性のある所、つまり知識人的な位相から、土着的な民衆の生活を描いている。しかし、中上健次自身、自分も民衆の一人であり、自然と一体となって暮らしているのだという実感がある。ここには土着的、民衆的な人々の生への中上の「愛」があると言っても良いだろう。

 引用した箇所では、僕は、極めて日本人的な精神が現れていると思う。あるいは東洋的な精神と言ってもいい。自然と一体になり、そこに自分が含まれるという独特な高揚感。こうしたアジア的なものを描く事ができている。もちろん、こういう事は今の作家がやればわざとらしい、いかにも「こういうのが文学なんでしょ?」という物欲しそうな作品になってしまうのだが、中上健次はそれを自然にできている。ここに中上健次の良さがあると思う。

 この作品の主人公、秋幸は小説の主人公だが、それは自然の中の一事物のように作家には認識されている。人は「紀州サーガ」の中で、日々を生き、肉体労働をし、あるいは殺し殺され、男と女はまぐわい、とにかくそのようにして動物的なーーあるいは民衆的、人間的なーー生を営んでいく。人間を見つめる視点において、中上健次は一歩引いた場所から見ているがそこでは、性行為のような事も肉体労働と同じ位相で描かれている。露骨な描写なので引用を避けるが、秋幸の肉体労働と似ているようなものとして扱われている。性行にしろ、労働にしろ、殺人にしろ、中上はそれらをそれ自体で意味があるものとしては見ていない。中上健次はそれを自然の中に埋め込み、人間の生死それ自体も、自然の大いなる変転の一部でしかないように描いている。中上健次を評価するとすれば、この認識の場所を評価するしかないように思う。

 こうした視点は、影響を受けたフォークナーとか、ガルシア・マルケスあたりと共通する事なのだろう。僕は彼らとは縁遠いと感じているし、二十一世紀になった今になって彼らの方法はそのままは使えないと思っている。現在においては民衆的なものは消え、プロレタリアートはいつの間にかブルジョアになり、大衆はいつの間にか知識人となった。こうした社会において「路地」は消失せざるを得ない。

 こうした変化に中上健次が耐えられなかったのは確かなのだろう。しかし、たしかに中上健次が人間を見つめる視点は存在したし、自然と人間とを一つのものとして見つめる視点は僕の中のーーいわば、日本人的感性を蘇らせる。これは重要な事に思える。

 中上健次の手法は彼自身の体験と、また、中上が描いている世界がかろうじて日本にも残存したという社会状況から生き生きとした形式を持つに至った。この中上健次の方法が今になってどういう意味を持つか、それはまた別に再考しなければならないだろう。しかし、僕にとっては「枯木灘」一つでも中上の良さを感じる事ができて、良い経験だった。

                  
                          付 

 中上健次と青山七恵を強引に比べると、青山七恵は例えば「恋愛」において、それだけで意味があると素直に信じている。女の子が駅員の背中を見て「恋をしていた」と書いて、ただそれだけが全てだというのはあっぱれな話であるが、このあっぱれが成り立つのが現代の僕達の社会だ。中上健次は性行為の描写をしても、性行為や殺人それ自体を描く事に意味があるとは信じていない。それらをより俯瞰的に、自然の中に埋め込むように見ている。この透徹とした認識が中上健次の良さだと思う。「恋愛」や「おばあさん」といった事柄を概念としてしか見ておらず、実際のリアルな生活は全く描けないのが青山七恵である。「ひとり日和」のラストで「約束どおり、わたしはあの既婚者と競馬に行く。」という文章があるが、人間を、あるいは男を「既婚者」というレッテルでしか見ないのが青山七恵であり(その事に違和感も持たない)、また現代の僕らの陥穽でもある。中上健次はこんな場所では物事は見ていない。中上は「自然」の位相で人間を見つめている。

 青山七恵「ひとり日和」を(悪い方向に)読み解く


 
 「流れで考える日本文学の未来」という文章で作家の青山七恵を「虚偽の極地」と僕は書いたのだが、これはあまりにひどい言い草であるし、そこまで言うのなら、具体的に言ってみろ、という意見もあるかもしれない。…今の所、そういう意見は来ていないのだが、熱烈な青山七恵ファン(そんなファンを想像できないのだが)から怒られる可能性も考慮に入れて、今回は本格的に青山七恵の小説を考えていこうと思う。それで不本意ながら、図書館で「ひとり日和」を借りてきた。ゆっくりやっていこう。

 まず、この小説を簡単に説明すると、主人公は二十歳の知寿という女で、吟子という七十一歳のおばあさんと同居している。知寿も吟子も恋愛らしきものをしていて、その様子が淡々と描かれていく。

 …というわけで、いかにも芥川賞的な作品なのだが、僕としてはこの若い作家が何の未熟さも、主張も、若さも、思想も、何も持っていないという事にまず不満を持つ。現代のアーティスト全般に言える事だが、二十歳そこそこなのに妙に老成していて、満ち足りており、何の未熟さもなく、つまり若さがない。若くて綺麗でおしゃれでかっこよくて、そしてなにもない。アーティストであるのに、何の表現意欲もさっぱりないというこの手のタイプの人達が満ちている事に不満を持っている。

 まあ、それは僕の一般的感想なので具体的に内容を見ていこう。例えば、次のような描写がある。
     
                           ※
 夕食は質素で、量が少ない。
 「お代わり、いる?」
 「あ、ありがとうございます」
 茶碗を差し出したら、てんこもりになって返ってきた。
 「食べられるっていいわねえ」
 「はあ」と言ってわたしは受け取り、食べる。もう少しおかずがほしい、と思っている。
 「わたしだって食べるわよ」
 そう言って、彼女は自分の茶碗もてんこもりにした。

                         ※

 これはわたし=知寿と、おばあさん=吟子とのやり取りのシーンだが、まず「雑」という印象を受ける。

 というのも、夕食は「量が少ない」のにお代わりを頼んだらいきなり「てんこもり」というのは差が激しすぎる。少ない夕食を作る人にお代わりを頼んだらいきなり「てんこもり」に盛ってくるというのは考えにくい。
 
 更には吟子が「わたしだって食べるわよ」と言っていきなり自分の茶碗をてんこもりにするというのも妙な話だ。それがわざと、吟子が滑稽さを演出するためにやっているというのならわかるが、その後「おばあさんは、画面をぜんぜん見ないで食事を続けた」とあるのでこれはコントの一部ではないらしい。いつも少ない夕食しか作らない人が急に、若い娘に張り合ってごはんをてんこもりにした挙句、それをもくもくと食べる事などありうるのだろうか。

 この時点でこの小説がリアリズムでなくファンタジー、しかも恐ろしく作者のステレオタイプな見方が染み込んだファンタジーだという事がわかるが、全体的に小説はこんな風に続く。他にも例をあげよう。

                           ※

 ・知寿と、彼氏の藤田君がセックスした後、料理をしている吟子と話す場面

 わたしたちは脱ぎ散らした服を着た。二人とも変な寝ぐせがついている。手を洗って台所に行くと、吟子さんは芋や、にんじんや、肉を鍋でいためていた。
 「おやおや、肉じゃがですか?」
 「カレー。若い人はカレー好きでしょ」
 「あたしは別に。好き?」
 振り向くと、藤田君は首の後ろをぽりぽりと掻いていた。
 「俺は好き」

                            ※

 最初に「雑」だと言ったが「若い人はカレー好きでしょ」というのは、あまりにも雑な認識だ。しかし、こういうおばあさんも現実にいるだろうし、それ自体は問題ではないかもしれない。しかし問題はこのおばあさん自体に全然リアリティがないという事にある。「おばあさん」の言うセリフとして、「若い人はカレー好きでしょ」というのはあまりにもいい加減だが、このいい加減さは作者も共有しているいい加減さだ。

 厳密に言うと、「吟子さんは芋や、にんじんや、肉を鍋でいためていた」という描写も、一見、「わたし」の視点から見ているようだが、これはどういう視点なのだろうか。普通、台所で吟子が鍋を使っているとしたら、吟子が鍋で何かを炒めているぐらいの事は見て取れるだろうが、中身が「芋・にんじん、肉」だというのは、鍋をのぞきこまなければ見えない。では、この時「わたし」はどういう視点で鍋を見ているのだろうか。

 もちろん、こうした事は些細な言いがかりとも言える。だがこうした違和感の積み重なりは作品全体に影響を及ぼす。

 更に、このほんの短いシーンにはまだ違和感がある。というのも、カップルがセックスした後に、同居しているおばあさんと顔を合わせたら、そこに多少の気恥ずかしさというのはないのだろうか。また吟子の方でも、さっき、カップルがセックスしたのだろうな、ぐらいの事を考えて、ちょっと気を遣うなどという事はないのだろうか。

 こうした気遣いや感受性のなさがこの作品の特徴だが、別にこの作品はサイコパスのキャラクターを描いた話でもないらしい。こういうものが文学として称揚されるとするなら、文学というのはそもそもなんだろうか。
 
 ただ、この程度ならまだ、言いがかりのレベルかもしれないのでもう少し見ていこう。
 
                          ※
 ・吟子が風邪を引いて、知寿と話す。

 「薬、飲んでる?」
 「飲んでない」
 「常備薬、ないんですか? いつも医者にもらってるやつとか」
 「ネギを首に巻いて寝てれば治る。あれこれしなくてもいいのよ。これで治るから」
   
                          ※

 この箇所を読んだ時、これはさすがにギャグなのかなと思ったが、どうやらそうでもないらしい。今時、おばあさんとはいえ、首にネギを巻いて風邪を治そうとする人がどれだけいるのだろうか。(しかもこれは二千年代の作品で、おばあさんは七十一歳だ) 例えば、僕の亡くなった祖母は田舎育ちで、迷信をやたら信じている人間だったが普通に医者に行って薬を飲んでいた。仮に、ネギを首に巻いて風邪を治そうとするおばあさんが実在するとしても、この作者は明らかに「おばあさん」というステレオタイプなイメージを固定するためにこういう描写をしている事は明白だと思われる。「若い人はカレーが好きでしょ」のようなセリフもそうだ。

 おそらくは、作者は実際の老婆と深く付き合った事もないだろうし、仮に付き合ったと事があるにせよ、まともに観察もしておらず、その人間の内部にあるものを全くみつめていない。それで作品を構成する際に、こうしたステレオタイプな物の見方をあらわす場面やセリフの連続となったのだろう。

 アマゾンレビューで他の人も書いていたが、彼氏の家に言ったら下着姿の女がいて、それが別れる原因になったというのもあまりにもありきたりの場面だ。ありきたりの場面だとしても、作者の視点が正確ならありきたりな描写にはならないが、この作品はこういうものの連続でできている。

 この主人公は失恋した後、気分を変えようと髪を切る。おそろしくステレオタイプな主人公だ。しかもそれは「足の、速い小学生みたいなベリーショート」。その次の文には「表情がぐんと勇ましい」とある。

 『足の速い小学生みたいな、ベリーショートだ。表情がぐんと勇ましい。吟子さんを驚かせようと……』

「表情がぐんと勇ましい」というのは、主人公が鏡を見てそう思ったのだろうか。それとも、鏡を見ずにそう思ったのだろうか。ここでは、主人公と、主人公を見つめる作者の視点が混同されている。混同しているから駄目というわけではないが、こうした表現全般がこの作品の薄さを物語っている。つまり、「失恋」→「髪切る・気分変える」→「表情勇ましい」という、物凄くありきたりの観点の中で小説を書いているので「表情が勇ましい」という表現が、主人公が自分を見て感じた事なのか、それとも主人公を作者が見て書いたのかが意識されなくても、平気になってしまっている。

 これぐらいでもう十分だと思うが、最後に一つだけあげる。
 
                          ※
 
 それまでの時間、暇さえあればわたしは彼に見とれた。サラリーマンやお姉さんたちを電車に詰め込むため、ホームを行ったり来たりする彼の後ろ姿を見て、恋している、と思った。

                          ※

 ここを読んだ時、僕はてっきり次の文章からその「恋している自分」を否定したり、違和感を持つ文章が続くのだろうと思っていた。というのは、駅員の後ろ姿を見て女の子が「恋している、と思った」で終わってはあまりにも馬鹿馬鹿しい描写でしかないし、西野カナじゃないんだからと思って次の文を読むと、そのまま文章が流れていっている。

 まあ冷静に考えると、僕が文学というものに色々重たい意味を持たしているのが間違っているというのだろうが、それにしてもこれはあまりにひどすぎると思う。「恋愛」というのは基本的に幻想だという点があるし……いや、そんなに大げさな事を言わなくても、これが選考委員から絶賛されて芥川賞を取った作品なのだろうか。こんなステレオタイプの連続、作者が明らかに頭で作っただけの、何の感受性も洞察力も思想も主張もない作品が選考委員から絶賛されて賞を取る作品なのだろうか。

 ステレオタイプと言えば、サブカルチャー系の作品はみなそうだが、それはわかってやっている事である。最初からステレオタイプな物の見方をする事が前提であり、それが共有事項となっているサブカルチャー作品からむしろ、芸術的に優れた作品が出てきているという事は興味深い。そしてそれとは逆に、本来、人間のリアルな姿を描くはずの文学が、リアリティの仮面を被りつつ、実は極めて、社会に迎合したステレオタイプな物の見方をし出したという事は、現象としては非常に興味深い。

 青山七恵という作家はある意味では、そういう現状を代表する作家なのだろうと思う。僕は以前、村上春樹が「自分の中にとじこもっている」と書いたが、それは青山七恵の比ではない。青山七恵と比べるのであれば、僕は(ねじまき鳥クロニクルまでの)村上春樹を絶賛せざるを得ない。

 もっと嫌な見方をすると、青山七恵という作家は現代の日本の閉じこもりっぷりを象徴しているのかもしれない。伊藤計劃は、「映画の十五分プレビューとドミノピザ」で構成された日常世界の外側を常に意識していた。青山七恵はそれとは真逆で、あらゆる外部から目を閉ざし、恐ろしく自分の内に閉じこもる。そしてこんな作品世界が「感受性鋭く、僕らの日常を切り取った」のであれば、僕らの日常はどれほど薄ら寒いものなのだろうか。青山七恵のこの小説が薄ら寒いのは、この作品全体に自分達の薄ら寒さへの洞察力が欠けているという所にある。おそらくパスカルの言うように、「自らを惨めと感じていない者は惨め」なのだろう。これほど惨めな作品もないが、それは僕らが惨めだから、逆に素敵な、素晴らしい作品だと映るのかもれない。この空漠とした世の中では、こうした作家はまだ十分出てくる余地がある。だが、この世界の真の有り様は常にこうした作家の外側で蠢き続けるだろう。
 

レフンの「オンリー・ゴッド」「ドライブ」を見ました

 レフンの「ドライブ」「オンリー・ゴッド」を見ました。「ドライブ」を見て非常に素晴らしいと感じて、恐る恐る「オンリー・ゴッド」も見ましたが、良かったです。

 「オンリー・ゴッド」は賛否両論だったので駄作見る覚悟でしたが、画面の構図が常に計算されていて、一時間半飽きる事なく見る事ができました。思わずスクショ取りながら見ましたが、併記する画像を見れば感じがわかるのではないでしょうか。

 「オンリー・ゴッド」では常に奥行きがある構図が求められています。僕自身も外で写真を取る時は奥行きのある、重層的な空間が好きで、そういう写真を取りたいなと望んでいましたが、「オンリー・ゴッド」はそういうこちらの欲望を満たすものでした。

 見ている最中、小津安二郎やマーク・ロスコの抽象画を思い出した。「アートっぽい」人というのは沢山いるのですが、レフンはきちんとした「アート」の感覚を持った人だと思います。良かったですね。でも見るのなら「ドライブ」の方がお勧めです。


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 小津安二郎との比較


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流れで考える日本文学の未来

 


 「お前は日本の現代文学を批判しているが、大江健三郎や中上健次、阿部和重らは優れた現代文学じゃないのか?」というようなコメントをブログの方で貰った。確かに、僕は日本文学の重鎮である大江や中上についてはほとんど言及していない。

 僕は大江健三郎や中上健次についてはあまり知らない。著書は一応、家にあるのだが、あまり読めていない。阿部和重についてはそれほど素晴らしい作家だとは感じていない。

 僕の理解では、時代はーーあるいは時代を象徴する文学の有様というのは、大江健三郎・中上健次から、村上春樹・村上龍に写ったと見ている。村上春樹・村上龍・高橋源一郎以降、空爆とした虚無の文学空間が現れている、という一般的な認識を持っている。

 これについて、時代順に雑に考えていく事にする。

 まず、戦争経験をした文学者達がいた。そこから始める。戦争という重たい、実存的な経験を、表に出したり裏に隠したりする事に、当時の優れた文学というものがあって、島尾敏雄・小島信夫・田村隆一といった人達がそこにあたる。僕は島尾敏雄と田村隆一くらいしかちゃんと読んでいないが、そこでは戦争という重たい経験が常に底の方に沈んでいる。そこではいつでも、人間の生や死という巨大な問題が、軽い話をするにしても底の方に沈んでいた。彼らはいつもその経験から物事を見ていたと言う事ができる。

 そこから時代が映って、中上健次・大江健三郎が文学の主流を担うようになった。そこでは戦争経験が核となっていないが、文学としての重たさは確かに存在した。(それがどのような重さか、僕は読み込んでいないのではっきり言えない) しかし、中上健次・大江健三郎は時代が変化するに連れて、自分の居場所を失ったのではないかと思う。中上健次においては彼が描いてきた「路地」の消失、大江健三郎については知的な、インテリ的な場所への逃避というように、彼らが主題としてきた事は、時代が変化するにつれて消え去ってしまった。

 次に現れたのが、村上春樹・村上龍・高橋源一郎らである。彼らの出現は同時期の、坂本龍一、忌野清志郎・糸井重里らと同じ現れ方をしたと見た方が見やすい。

 ここからは僕の射程に入ってくる。なので詳しく話していく。村上春樹・村上龍のした事を総括すると、アメリカ文学(文化)の日本への導入という事になるだろう。日本にアメリカ的な消費文化が流入すると同時に、それを日本に輸入したのが、現在から見た両村上の役割だったのではないかと思う。

 これに関しては村上春樹については非常にはっきりとしている。バーで友達とビールを飲んで、女を口説いてホテルに行き、家ではパスタを茹でて本を読む…こうした生活スタイルは過去の日本からは考えられなかったし、仮にあるにしても単に空想的なものに留まっていた。が、戦後に発展した日本社会では、こういう生活も「ありうるもの」として存在する事になった。村上春樹の描き出しているものは、それを可能とした社会に依拠している。ここに村上春樹の小説が単なる空想にならない原因があるし、社会が変化すると村上春樹が基盤としていたものが消え去るという原因も同時にある。

 村上龍にしても、形は違えど村上春樹と同じような雰囲気を共有していた。僕は村上龍の核を初期の作品よりも「テニスボーイの憂鬱」や「走れ! タカハシ」といったポップな作品に見たい。そこでは、軽薄化した、大衆社会の中に生きる個人が描かれているが、しかし同時に、「それだけでは足りない」という焦慮も感じられるる

 「テニスボーイの憂鬱」では主人公はステーキ屋の経営者で金があり、バブルの日本を代表する存在となっている。暇な時は愛人とホテルに行き、しょっちゅう仲間とテニスをする。それだけならただそれだけの事なのだが、そこでは彼ら金持ちは遊びを「強要」されている。遊ぶ事、生を楽しむ事は社会が個人に押し付ける「強要」で、本当はそんなに華やかで愉しいだけのものではないという事が、微かに作品の背後に現れている。この寂寥感というのは村上春樹・高橋源一郎にも共有されている。僕は、この寂寥感がなければ彼らの作品にはほとんど大した価値はないだろう、と思っている。もしこの寂寥感がなければただ現状肯定のだらだらした文学があるだけで、現実に対する否定と乗り越えの契機がない。

 高橋源一郎の場合は「さようなら、ギャングたち」に寂寥感が刻印されている。作品自体はポップな乗りで、記号的な操作といういわば、いかにもポストモダンな文学なのだが、その背後に寂寥感がある。社会の潮流の中で人々は遊び、楽しみ、生きていく事に満足していたが、同時にそこには物質的な事が全てになった事に対する違和感や寂しさがある。記号的な遊びの中で、微かに世界に対する違和感と寂しさがある。こうした違和感や寂しさがなければ、文学というのは単に、社会肯定のイデオロギーを持って大多数に受けいられる安易な媒体(あるいは意味もわからず芸術を気取るスノッブな遊び)でしかないだろう。

 村上春樹についてはもう書いたので省略するが、要するに、村上春樹・村上龍・高橋源一郎らにはこうした現実に対する違和感のようなものがかろうじて存在した。また、彼らは「ポストモダン文学」らしく、軽いものと重いものをあえて取り違えるという事をした。糸井重里もそうだが、彼らは自身、重たい教養とか知識とかを持っているものの、「あえて」軽いものを全面的に前に出すという事をした。ここでは「あえて」という言葉が重要になる。「重いもの」が重大な時代は過ぎ去り、軽いものが全てとなった、今はそういう時代だから自分達は軽いものを主題とする。が、重いものを知らないわけではない。知ってはいるが、「あえて」そうするのだ、という転倒的な価値観があった。この辺りは、タモリなども共有している。

 ここまで、僕の理解の範囲の及ぶ所だし、共感もできる。が、それから下の世代からは僕にはとうとうわからないものとなった。具体的には「よしもとばなな」以降と言っても良い。そこでは重いものを知っているものの「あえて」という、「あえて」の感覚すら消失した。そこでは本当に「軽いもの」が全てとなり、それが全てとなると、もはや対比する条件そのものが消失するので、文学全体が圧倒的に軽薄化した。が、この軽薄化はどういう意味を持っているのか、僕らは理解できない。なぜなら僕らは、軽薄化したものを対比する「重いもの」を全く知らないし、そんなものは知らなくていいといアナウンスが満ち満ちているからだ。

 こうして文学という場所は、単に、日常の細かな事を追いかけるものになった。就職活動をして、彼氏がいて彼女がいて、あらかじめ鎖のついた人間的葛藤に終始し、それなりの文章で全体を修飾すればそれが文学だという事になった。この傾向をライトノベル、異世界小説、YouTuberという現象にまで拡大していっても大して問題は変わらないように思う。僕達は自分達に嫌なもの、深刻なものがあるとそれを「異常」「不健全」の領域に放り込んで、後は自分達の愉しみに終始する事になった。僕達はもはや、自分達の幻想で満足するようなった。文学というものはこの幻想に違和感を呈し、真実を露出させる事が可能な媒体であるが、それよりもむしろ、幻想を強化する方向に走り出した。

 中村文則が文学的、実存的なものを前に出していても、それは結局、物語として我々が消費されるために、一時的に現れるだけの話であり、事情は以前と全く変わらない。穏やかな日常をちょっと疑ってみせるという文学的行為も、「そういうのが文学だよね」というファッションの中に吸収される事を最初から「アテ」にしているために、読むに足りるというほどでもない。文学者・芸術家という人達もみんな性格は良いであろうし、色々なルールを守るだろうし、彼らの作品も規範を乱すような顔をしても実は僕達の境界線の内部にきっちり収まっている。僕達の世界では、もはや芸能人の生死すら消費される情報媒体となってしまった。

 「軽いもの」が全てとなった社会ではどんな「重いもの」もその受け取り方自体が軽いものとなってしまう。「ハイデガー」「ニーチェ」のようないかにも重たいものでも「ニーチェを読んで年収アップ!」みたいなノウハウ本になりかねない。(そんな本があるかは知らないが) こうして世界は単一化されたが、その事について疑問を持つ事をイメージする事すら不可能なほど、僕らは同質の空間に溶けてしまった。

 その虚偽の極地とも言えるのが、青山七恵だったりする。青山七恵の、実質的には内容がゼロで、少女漫画的感性しか持っていない(少女漫画の中には一流の芸術もあるがここでは類型的に使う)作家が、色々な手管を施し、書いているものをリアリズム・文学の水準に微妙に合わせていく。実際の現実を描かず、微妙にズレた、作家にとって極めて好都合で矮小化された問題しか提出できない空間が作品の中でできていく。しかし、現実だって青山七恵の小説を模倣している。だから我々はルールを破る異常者が出ると、徹底的にその人間を排撃し、自分達の「外」に放り出す。青山七恵の小説は極めて矮小化された現実を模倣するよう描いているが、現実の方でも、そうした矮小なフィクションを模倣するように現れていく。単純な善悪感で構成された「シンゴジラ」がここまで受けるという事は、僕達そのものが随分単純化している事を意味していると思う。

 こうして文学というものは、現実に対する否定も違和も失い、単にファッションとして否定や違和を時折挿入してみせるというものに成り果てた。結局、文学というものも多くの人に消費されるものであり、「商品」の一部であるから、一時的といえども、人々が望む作品を紡ごうとするのは当然の事だ。

 しかし、純文学という奇妙なジャンルでは、大衆におもねっているものの、萌えアニメのような思い切りをつける事もなく妙な「芸術的」という冠を着せたがる。ここに文芸誌の苦しみがあるのだろうが、部数が減っても芸術的な高さを守ろうという気概もなく、少年ジャンプのように大衆向けに徹する思い切りもない。どちらも行けずまごまごとして、「純文学」の看板を掲げつつ、出てくる作品はエンタメ作品であり、何の洞察も必要としない作品だというのが今の「純文学」の実情なのだろう。

 こうした軽い状態、軽い空間、文学者達が皆、健全化した状態が今の文学空間であると思う。この状態を、またひっくり返す事はほとんど不可能に近いだろうし、今の文壇にはそれは不可能だろうと思う。高橋源一郎の最近の対談やエッセイを見ても、村上春樹の新作にしろ、彼らの感性はもはや色褪せている。それは彼らが年を取ったからというより、彼らの方法論がある時代に限定的だった事から来ている。彼らは「あえて」軽いものを前に出したが、もう軽いものしかない状況では、白色に白色を塗り重ねるようなもので、何故彼らがそんなポップな姿勢を見せようとしているのか、もはや今の僕達には理解できない。糸井重里や高橋源一郎がどう自己規定していようと、下の世代である僕らにとっては普通のインテリ、普通の知識人でしかない。つまり、彼らの話している事は僕らのビビッドな現実に響いてこない。

 こうした文学の下降の代わりに上昇してきたのが、アニメ・ゲーム・漫画・バンドミュージックなどのサブカルチャー文化だと僕は理解している。今はサブカルチャーについて論じている余地はないので、この文章はここで終わる。現在、僕らはこのような空白の現象の只中にいる。そしてこの空白の現象に対し、あるいは芸人の又吉直樹を入れ、あるいは過去には若い女の子二人ーー綿矢りさと金原ひとみを持ち上げる事により、なんとかテコ入れしようとしてきたが、実際、こうした事は一時しのぎにすぎない。こうした一時しのぎはいつまでも続くものではないと僕は思う。まずは現在自分達が陥っている状況を見極める事が先決だと思うが、作家らの言葉は「〇〇という作家の影響で~」「文学はもう一度蘇る」のようなよくわからない言葉であり、現実に対する認識も文学に関する深い掘り下げもあまり見られない。

 僕は狭義の意味での文学の先行きは暗いと思う。が、当然、メルヴィルのように、陽の当たらない作家がどこからか出てくるかもしれない。それはまた、インターネットあたりから出てくるかもしれない。そんな風に思う。(すでにThe Red Diptychという優れた批評が出現している)

 対話としての芸術



 自分のブログもやや読者数が増えて、議論のような事もする事が増えた。

 「それぞれが意見交換して切磋琢磨すればいい作品が生まれるに違いない」という意見というのは一般的にある。が、これは事、芸術には当てはまらない。それぞれの意見が交わされ、それぞれ皆が一致したものがいい作品だというのは、おそらく「最終的には」正しい。傑作というものは確かに、時間の層、多様な人々の層をくぐって現れきたものだからであり、この判定にはそれなりの重みがある。

 だが、人は通常、自分が何を本当に良いと感じているか、なかなか自分でも気づいていない。それで「二年前には大ハマリしていたけど、今は全くなんとも思わない」という作品もでてくる。それぞれの価値観が交差して、最も多数の票を得たのが最もいい作品とは限らない。ここに芸術の難しさがあるし、面白さもある。今は大多数の人に見捨てられているが、いずれ俺の作品は世に認められるだろう、という自負が生まれる機縁がここにある。もちろん、大抵はこの自負は単なる自負にとどまるが、これが真実である場合もある。

 これがスポーツであれば、こういう自負は(ほとんど)許されていない。スポーツの世界では、(ほぼ)結果が全てで、最も良い結果を出している選手こそが最も素晴らしい選手だと言っても、概ね間違いではない。最も得点を取り、アシストもして、チームを勝利に導いているバルセロナのメッシこそが世界最高の選手だと言っても、それほど反論は起こらない。しかし、日本で最も売れているアーティストはAKBだから、AKBこそが日本最高のアーティストだと言うと、きっと反論が起こるだろう。とはいえ、完全に無名のアーティストを世界最高と言うにはそれなりの根拠が必要になる。この微妙なすれ違いの中に、数字で計れないあるものがある。

 芸術批評家というものが何故存在できるのか、単に批評したり鑑賞したりするだけで、どうしていっぱしの顔をしていられるか。それはなぜかというと、この微妙な構造があるためだと思う。つまり、僕達は「何が良いか」という価値観そのものがあやふやな世界ーー文学・芸術ーーにいるのであって、このあやふやな場所では指標が必要となる。ここで自分の価値観を磨いたものが、自分以外の人に価値観を伝達する事が一つの仕事となる。芸術批評家はこの場所に立脚する事で、始めて自分の場所を持つ事ができる。…もちろん、今の批評家が村上春樹を無理矢理褒めて、ようやく出版社から仕事を貰えるという状況であるというような外的な事は、別の話ではあるが。

 最初の話に戻ると、議論や批評がそれぞれに成されるのは良い事だというのは、たしかに本当の事だろう。が、考えの浅い人間千人の話は参考程度にしかならないと思う。逆に、考えの深い人間は自分の中で無限の(深い)討論を重ねている。優れた文学作品においては、作者自身の自己との無限の問答が、ほんのちょっとした会話の中にも折り重ねて入れられている。ある優れた作家が、一つの思想を背負って、一つの作品を作る。すると読者である僕達には、その作品は作者の単一の思想を表すものに見える。これは正しい見方だ。が、偉大な作家であれば、単一の思想を作るために彼の中に無限の他者を飼って、他者との葛藤・問答・対決をしつこく続けてきたはずだ。本当に豊かな作品の内部には作者の内部での、無限の他者との会話が投入されている。僕達は優れた作品を見たり聞いたりする時、見えない他者の存在を感じる。多分、作品の「豊かさ」とはこのような、作品の中に投入された無限の自己対話なのだろう。

 そして、鑑賞者としての僕達はそれをまた、一つの作品として見る。ここに新たな対話が始まる。つまり、作者にとって作品とは対話の終点であるが、鑑賞者にとって作品とは対話の始まりである。良い芸術作品を見るにはまず、良い鑑賞者でなければならない。鑑賞者はまず、目の前の作品と真摯に向かい合う。彼は作品と自分を突き合わせて、語り合いを始める。こうして時間の中で無限の対話は行われていく。おそらく、芸術の歴史とはこのような作者→作品→鑑賞者→作者→作品……という対話の連続なのだろう。こうした連続する対話が芸術の歴史を作っている。

 つまり、作品は鑑賞者に開かれており、鑑賞者は創作家になる機縁を持ち、創作家はやがて作品を生み出す。その中で絶えず、外部の他者を「対話」という形で自分の中に折り込む葛藤が続いていく。芸術というものはそうした長い対話であるように思える。過去に照明を当てられるのは現在の特権だ。おそらく未来というのは過去との無限の対話によって形作られていくのだろう。

「ありがとう」とみなさまに語る詩

  
 

ぼくの
ことばを
ぼくは
磨いた

世界は
終わった
ひとひらの



人間達がいつも
怒鳴ったり騒いだり
でも、時には愛が
生まれたり潰えたり


そんな中で一切れの
スイカを食べる
スイカ、SUICA、西瓜
いろいろな表記法があるけれど
あの甘い味は一つ
塩をかける人もいるけどさ


人間達よ
どうしてそんなに騒いでる?


ぼくも一杯
やらせてくれよ


色々な人が
色々な事を言う
「君はセンチメンタリストだ」とか
「君は現実主義者」だとか
「君は現実を忘れている」とか
「君は現実にしがみつきすぎている」とか


それら色々の言葉がそれぞれの光彩を放って
ネットの宙〈そら〉を駆けている


それはなんとなく真空に掛る
エーテルの橋に似ている


(エーテル? それってアインシュタインによって否定されたんじゃなかったけ?)

 
…無論、エーテルは存在する
僕の心の中に


                         謝辞

 この詩を書くために、僕は三十一年と五ヶ月の命を神から貰い受けました。神に感謝いたします。

 僕が言葉を発するために、日本国の公共教育機関が少なからず役に立った事を僕はここに吐露します。ありがとう、日本の公共教育機関。ただ、もう少し優しくしてもいいんじゃないかと思った事もあったけれど。

 僕が詩を発表するために、毎日膨大な情報が流れるネット空間が必要された。ネット空間よありがとう。たくさんの「デマ」と「YouTuber」と「ホモネタ」と「アニメMAD」と「異世界に行く小説」と「時事ニュース」と、それへの「正論」が膨大に流れるインターネットという二十一世紀のインフラよ。ありがとう。おかげで僕の詩も情報の「塵」になれた。

 最後に、この詩を読んでくれた読者よ、ありがとう。もしあなたがいなければ、この詩は単なる独語に留まっただろう。僕は元来、独語が好きなのだが、たまには他人を必要とする事もある。ありがとう。

 最後に、世界よ、ありがとう。存在していくれて。

 そして存在しない世界を、世界の破滅を夢想し、それを実現する事さえ可能にしてくれる世界の『有様』、それ自体にありがとう。この世はなんだって起こる。大量虐殺も、僧侶の自己犠牲も、イエスの刑死も、なんでもありうる。そんな世界よ、ありがとう。ライプニッツ的な意味ではなく、ありがとう。

 とにかく、なんだかありがとう。それではまた、みなさま。さようなら、しばしの間。

主人公の内面を客体化して、小説作品を自立させる (伊藤計劃・ドストエフスキー)

 


伊藤計劃「虐殺器官」における一人称の語り口は、ドストエフスキー「未成年」の一人称に似ていると思う。一人称の使い方は僕にとっても重大な小説技法なので、分析してみよう。まず、二つの作品の冒頭を並べる。

                         ※

 『わたしは自分を抑えきれなくなって、人生の舞台にのりだした当時のこの記録を書くことにした。しかし、こんなことはしないですむことなのである。ただ一つはっきり言えるのは、たとい百歳まで生きのびることがあっても、もうこれきり二度と自伝を書くようなことはあるまいということである。実際、はた目にみっともないほど自分にほれこんでいなければ、恥ずかしくて自分のことなど書けるものではない』 (ドストエフスキー「未成年」)


 『ぼくの母親を殺したのはぼくのことばだ。

 たっぷりの銃とたっぷりの弾丸で、ぼくはたくさんの人間を殺してきたけれど、ぼくの母親を殺したのは他ならぬぼく自身で、銃も弾丸もいらなかった。はい、ということばとぼくの名前。そのふたつがそろったとき、ぼくの母親は死んだ。
 これまでぼくはたくさんの人間を殺してきた。おもに銃と弾丸で。
 刃物で殺したこともあるが、正直言ってあまり好きなやり方じゃない。』 (伊藤計劃「虐殺器官」)

                         ※

 どちらも抑制のきいた、響きの良い語り口を採用している。どちらも読んだ事のない読者に紹介しておくと、両小説とも、未熟さの目立つ青年が主人公となっている。この「未熟さ」を作者は意図的に、前もって計画している。

 ドストエフスキーの方から行こう。ドストエフスキーのこの小説は「未成年」というタイトルにその思想が集約されている。だが、「未成年」の語り口は全体的に生真面目で、真剣で、冷静、理知的な文章である。

 一般的な論点に移るが、例えば、あなた自身が未熟な人物だとしよう。すると、あなたは自分が未熟である事を意識できない。あなたは、自分の精神的定位を基準に世界を見つめている。あなたがもし、自分が未熟だと気づく事ができるのであれば、あなたは十分に成熟していると言える。

 例えば、子供の世界というのはそれ自体でひとつの世界を成している。子供の世界は「未熟だ」というのはあくまでも大人から見られた子供の世界の話だ。子供の世界は、子供の世界として百%、十全に機能している。人間は自分が未熟である事を意識しえないし、意識しえた時、その人は過去の未熟さから脱した時だと言えるだろう。

 「未成年」の主人公はタイトルどおり、「未成年」である。主人公は妙に生真面目で、冷静で、理知的な語り方をする。しかし、そんな語り方しかできないという事が、主人公が未成年である事の証なのだ。彼は未熟であるが、自分の未熟を絶対に認めようとせず、大人と対等に張り合おうとする。自分はいつも冷静で理知的で、威厳に満ちているという姿勢を示そうとする。その姿勢は語り口にも現れている。しかしだからこそ、この人物はまだ未熟さの残っている人物だ。つまり、ある個人の未熟さ、未成年たる所以は、語りの内容としては表されない。

 ある個人が未熟であるとするなら、それは「語り口」として、「語られず示されるものだ」というのが作家ドストエフスキーの洞察だった。だから、ドストエフスキーは最初から最後まで主人公の心理をしっかり抑えて、洞察しつつ、書いているのである。つまり、主人公は一重に自分を語っているだけだが、作者は主人公の内面と、それを抑える作者の内面と、二つの内面を同時に持っている。

 同じ事は「虐殺器官」にも言える。虐殺器官のナイーブな語り口は、主人公の未熟さを示している。主人公は三十才なのだが、まだ成熟できていない。彼は殺し屋として恐ろしく有能なのだが、精神は未熟なままに留まっている。それは彼が消費サイクルに飲み込まれており、システムの一部となっていて、人殺しの仕事も単に「仕事」として任務を遂行するだけなので、いつも本当の自分に出会えないからだ。責任と苦痛を除外された個人は、人として成熟する事ができない。だから、恐ろしく有能な殺し屋もどこか青臭い語り方をせざるを得ない。ここに作家伊藤計劃の洞察がある。

 つまり、伊藤計劃にしろ、ドストエフスキーにしろ、彼らは語りの外部に位置しながら、何故主人公がそんな語りをしなければならないのか、よく理解していた。ここに作家としての根底的な技術がある、と僕は見たい。

 「小説というのは誰でも書ける」という話がある。それは確かに、一見そう見えるし、そんなレベルの小説がベストセラーになる事もある。しかし、根底的に作家である事、その技術を身につける事は他の分野のエキスパートになるのと同様、非常な難しさを伴う。それは、文体を弄ったり、物語を妙に長たらしくしたり、知識をつけて云々…という事ではなく、小説というものがそのような形で表される事に、作家がきちんとした根拠を持つ事、そこに作家の技術がある。この場合、ドストエフスキーと伊藤計劃は主人公の語りの意味を理解している。これを普通の小説とくらべてみよう。

 『階段を駆け降りホームに着いた途端、京都の十二月らしい風が頬に冷たい爪を立てながら、吹き去った。マフラーを風に巻きつけ、ホームを端まで歩いた。端に着くとちょうど、熱気で曇った車内の窓にへばり付く乗客の固まった視線を一瞬だけ覗かせる満員の新快速が、風を起こしながら通りすぎた。』

                              (シリン・ネザマフィ 「拍動」)

 手元にあった文芸誌から適当に選んでみた。こういうのを「うまい文章」というのかもしれない。確かに、芥川賞候補になって芥川賞ぐらいは取りそうな文章だ。

 冒頭の部分から、読者は主人公の内面に同化される事を求められる。しかし、読んでいても主人公と作者の感性、情念、心理が分離しているとは感じない。「ホームを端まで歩いた」という文章は主人公が歩くのを、作者が客観的位相で見ているというよりは単に作者=主人公が「ホームを端まで歩いた」としか読めない。

 「レンコンのはさみ揚げを注文してから、しばらくどうでもいい話が続いた。山本先生が知っていた文学部屈指の美人助手が半年前婚約した話だとか、そのゼミに所属していた男子学生のがっかり具合が学校中の話題になっている話など」…

 こうした描写が続くわけだが、こういう文章の時、「どうでもいい話」と思っているのは、主人公であると共に、作者であるようにしか見えない。最近の作家の大半はこういう書き方をしているように思う。そこでは、どんな主人公を設定しようが、結局、作者が自分自身を相対化する力が弱いために、作者と主人公が同一化されていってしまう。もちろん、主人公は作者の「一部」ではある。だが、作者と主人公が全面的に同一化する必要はない。主人公の語りが作者の主観の垂れ流しにしかなっていない作品というのはよく見かける。そしてそれは、表面上は「未成年」や「虐殺器官」と同じように見える。しかし、根底的な部分でそれは違っている。

 こうした事は当然、作品の主題、内容にも影響していく。伊藤計劃やドストエフスキーの作品では、作品全体を統御する視点がある。それらの作品では、ある個人がある社会条件で、どのような推移をたどるのかという作家的洞察がある。彼らは物語をうまく作ったわけではない。むしろ、ある内面を持った個人がある社会で生きようとした時、どんな物語が現れてくるのを推察し、それを見つけ出したと言った方が良いだろう。伊藤計劃の場合は未来の社会において、責任と苦痛が除外された個人が再び自分自身であろうとする悲劇をテーマとし、ドストエフスキーにおいては当時のロシア社会でこのような、観念的な青年が出てくる事を理解していた。

 一方、シリン・ネザマフィ的、その他の「日常描く純文学系作家」は洞察しない。彼らは日常に埋没する。シリン・ネザマフィの「拍動」をめくると、そこに日本に済む外国人の文化的軋轢のようなものが扱われている。シリン・ネザマフィというのは日本名ではないから、作者自身そんな体験があったのかもしれない。しかし、ここでどんな体験があり、どんなテーマを問題としようと、そこで現れているのは作家個人の問題でしかない。作家個人の問題でしかないというのは、作家が自分自身を相対的に、客体的に扱う事ができていないから、作家個人の問題にとどまるというほどの意味だ。

 作家が自分に起こった事を活字にする事でたやすく普遍性を得られるというのは間違いだと考える。自分が人殺しをしたから、人殺しの話が書けるというのは、小説は事実を書くという割り切り方をしているから出てくる考え方だ。ただ、実際の所、読者もそんな見方をしている。

 例を二つあげる。最近、二つの小説が売れた。一つは又吉直樹の「火花」。もうひとつは最近話題になっている「夫の〇〇○が入らない」。(〇〇○は調べてもらおう) 一つ目は作者自身が芸人であり、作品も芸人の話というのが圧倒的に大きい。ここでどんな事が起こっているかと言うと、作品の自立性のなさを、作者(芸人)の身体性が補っているという事だ。芸人としての又吉直樹はテレビで見て知っている。その像を作品に写し出して読むために、作品は作品単体以上の価値があるように思われる。「あの」又吉直樹が「こんな」作品を書いたか、という評価につながっていく。

 二つ目の作品はタイトルの時点ではっきりしているが、タイトルと事実の奇異さで受けているという事だろう。しかし、「事実の奇異さ」「タイトルの奇異さ」で受けているのはそもそも問題だ。この小説の読者は作品をノンフィクションとして読むだろうし、彼らはそれが事実でないと知ったら、落胆するだろう。夏目漱石研究者は夏目漱石の経歴に必死に不倫の事実を読み取ろうとするが、それは話が逆だ。夏目漱石の小説の偉大さが見えているから、作者もそういう経験があったにちがないと感じ、そういう過去を探し求める。だが、些細な事実ではなく、偉大な作品を目の前に置いて、その真価を僕達は見出すべきだ。今の状況ではなんのために文学があるのかわからない。こんな状況では、吉本とジャニーズにかわりばんこに芥川賞をあげればさぞ文学界は盛り上がる事だろう。(最近、文學界はタレントに文章を書かせたりしているので、案外、絵空事ではないかもしれない)

 話を元に戻そう。伊藤計劃とドストエフスキーの作品が、作者が語りを統御している立体的な作品とみなすと、シリン・ネザマフィはじめとした作家の作品は平板な作品と言える。作品に倫理的指向性が感じられないのは彼らが倫理的な人間ではないから、ではない。そうではなく、平板な作品を書く作家は自分の内面を対象化できていない。これを話の最初に戻すと、彼らは本当に未熟であるから、未熟な個人を描く事ができない、と言う事ができるだろう。

 伊藤計劃、ドストエフスキーの作品には平板な作品にはない「意味」がある。それは作者の世界洞察から出てくるものだ。作者は世界を洞察しつつ、ありうべき物語を書いている。ありうべき主人公の内面を書いているが、それは描くべき価値のある内面だと作家が信じているから描いているのだ。一方で普通の作家は自分の内面を価値があると無条件に信じている。いや、彼らはそれを信じると感じる事すらできないほど自分の内面と溶け合っている。それがために、彼らの作品がどんな広大な野心なものに満ちているものであり、どんな政治的テーマ取ってこようと、作品は平板で卑小なものにとどまる。

 最近起こった大きな地震やテロをテーマにしているから、作家は世界に「コミット」しているなどというのはあまりに馬鹿げた話だ。作家は世界に直接言及する必要はない。が、作家は世界を「踏まえる」必要がある。この世界はどんなものかという認識の上に主人公が屹立する。そうして始めて、意味のある作品が生まれる。

 「作品」は自分と他者とを統合できる手段であるが、ここに立体的な指向性がない場合、単に作者の主観の垂れ流しを我々は聞かされるはめになる。この場合、作者と読者の立場が近ければ共感もできるだろう。作者が特異な感性、経験の持ち主ならそれを面白がれるだろう。だが、それは「普遍性」ではない。普遍性とはおそらく、自分を越える事で、他人をも越える何かだろう。この時、小説は立体的な立場を持つ事になる。主人公は作者が価値あると、理性的に判断する事によって現れてくる。すると、読者はこの理性的判断を最後には認めなければならない。では、何故、認めなければならないか。それは作家の理性的判断が、つまる所、個人や世界のあり方を踏まえた偉大な洞察だからだ。

 小説家というのは単に、自分の経験や主観を垂れ流して、世の中に是非を問うものではない。他人と自分との間の立場、価値観の断絶を感じて、それを物語という形式によって越えていく事ができる存在である。だからこそ、主人公は作者とは違う内面を持って、自主独立しなければならない。言い換えれば、作者が、自分に希望を抱いている間は、自分の主観を世界に訴えかけ続ける事ができる。作者が世界に直接呼びかけてももう無駄だと悟る時、彼の中でもう一人の主人公が立ち上がる。おそらく、この主人公は、作者と世界の断絶を正に「生きる」のである。その例としてはカフカを出せば十分だろう。カフカは世界と私の断絶において、「私」の正当性を直接訴えなかった。また同時に、世界に完全に服従する事を潔く認めたわけでもなかった。そのどちらにも行けないという辛い思いを、カフカの主人公は正に「生きた」のだ。だから、彼の作品では主人公は生きているか、少なくとも生きようとしている。ここに作家としての像が見えてくる。

 多くの読者が面白がっている観点、作家が自分を飾り立てるために作品があると考えている場所、そうした場所からは傑作は生まれてこないだろう。傑作とはおそらくーー作者自身が一度死んだ所から生まれてくるに違いない。作者の屍の後に、主人公は自立してあるきだす。ここに世界と作家の断絶が埋まる事になる。だがこういう作品を生む前にまず作家はこの断絶を身をもって体験しなければならない。そのためには作家はまず人生を生きなければならない。そして人生の辛さを思い切り身に刻まなければならない。

源氏物語に見る文学の原型

 


 最近、気になって源氏物語について調べていた。源氏物語、ダンテの神曲、オデュッセイアなどはおそらく傑作なのだろうが、叙事的で自分には苦手な作品だ。ただ、折口信夫の批評を読んでなるほどと思った所もあるので、そうしたものを基準に、文学の原型について考えていこうと思う。前の村上春樹論では村上春樹を批判したが、批判した以上、村上春樹が文学というものにどこまで肉薄し、どこで落伍していったかについても示さなければいけない。源氏物語を例にとって考えてみよう。


 まず、源氏物語というのは単純に当時の恋愛、「色好み」、絢爛豪華な平安の恋愛について描いた作品ではない。もしそうであったなら、そうした作品が世界文学となる事はなかっただろう。文学というのは単に現実に埋没したものではない。そもそも、単なる、平安の恋愛ー絢爛豪華ー日本らしいーという漠然とした、通俗的な物の見方しか現れていないならば、そんなものは傑作として現代に蘇る事はありえない。アーサー・ウェイリーのような優れた詩的感覚を持った人間が鋭敏に反応する何かが、源氏物語はあったはずだ。そうでなければそれは傑作とは呼べないだろう。


 では、どんな所が源氏物語の傑作たる所以なのだろう。僕は源氏物語を通読していない(というかほとんど読んでいない)ので、折口信夫を例に考えていく。折口信夫は源氏物語のテーマを次のように書いている。

 『自分の犯した罪の爲に、何としても贖ひ了せることの出來ぬ犯しの爲に、世間第一の人間が、死ぬるまで苦しみ拔き、又、それだけの酬いを受けて行く宿命、――此が本格的な小説の「テーマ」として用ゐられると言ふことは當然ではないか。』

 折口信夫は源氏物語に仏教の倫理ーー『因果応報』の原則が貫かれている事を見る。源氏は若い頃の奔放な恋愛をするのだが、それは彼が年を取ってから、自分の愛人が若い男に取られるという、因果応報の形を取って現れてくる。その事に源氏は苦しむ。


 科学史家の伊東俊太郎が源氏物語について書いた文章でも、似たような記述が見える。浮舟という女性キャラクターは、様々な男に翻弄された後、その事に嫌気が差し、最終的には出家する。伊東俊太郎はここに、日本型の女性の自立を見ている。この場合は因果応報というわけではないが、仏教的倫理が常に、現実の社会風俗(つまり平安の貴族的駆け引き・恋愛)の背後に閃いているという事は同型である。


 浮舟が『女性の自立』だというのは賛否あるだろう。僕はそういう見方もできるが、紫式部はもう少し柄の大きい作家だったではないかという気がしてくる。浮舟が出家し『色好み』から解放されるという過程は、源氏が『色好み』の中で苦しむという過程と裏表を成していると言える。僕はここに、仏教的な倫理によって当時の社会風俗を批判的に描いている一人の優れた作家というのを見たい。ダンテの神曲と比べると、ダンテはキリスト教的倫理によって当時の社会風俗を批判的に描いている。「ダンテーー男性的ーーキリスト教的」、であり、「紫式部ーー女性的(作者が女性というより表現など含めて)ーー仏教的」という違いはあるが、これらは似たような構造ではないか。もっともこうした事を僕はまともに読まずに想像で語っているので、あくまでも文学を考えるツールとして源氏物語を利用しているという事は強調しておく。

 これまで書いた所を整理していくと、源氏物語には二つの要素が互いに絡まりあってできている、という事になる。つまり、当時の貴族的恋愛、社会風俗を描くという現実的要素と、それらに意味づけを行い、それが何であるかという結論部となる仏教的倫理と、である。これはわかりやすく言えば、現実の生は過程的であり、倫理は結論的である。紫式部は仏教的倫理を使って当時の現実を俯瞰的に描いてみせた。この場合、当時の現実、恋愛的要素を如実に描く術が欠けていても、また、それらを意味づける思想の深さが欠けていても、どちらか一方でも欠けていれば源氏物語は世界文学とはならなかったに違いない。源氏物語はその二つをうまく融合している。だから、構成としてはよくできているし、世界的なレベルにある文学と言える事になるのだろう。

 ここまで大雑把に源氏物語を見てきたのだが、これまでの分析はあまりに図式的すぎると感じる人もいるだろう。僕自身もそう感じているので、もう少し、創作の内部に入り込んだ分析を行ってみよう。ここでも折口信夫を使う。折口信夫は重要な事を書いている。

 『源氏物語を書くのに、作者は何を書こうとしたかと言うと、源氏が一生に行った事にあるのではない。源氏の生活の中から、作者が好みのままに選択して、こう言う生活をした人に書こうという風に、或偏向を持った目的に源氏が生きて行っているように書かれたと思うのは、どうかと思う』

 『源氏自身が其生活に、我々の考えるような目的を常に持ってしている訣ではない。唯人間として生きている。ところが源氏という人間の特殊な性格と運命が、源氏の生活を特殊なものにして行っている。併、たとえば実在の人物として考え、後から其生活を見ると、自ら一つのまとまりがついていて、此方向へ進もうとして居たことが考えずには居られぬ。そこに人生の筋道が通っているのである。唯作者が勝手にぷろっとを持って作った型ではなく、源氏の生活の中に備っている進路に沿って書いているのだと言える。』

 少々長いが、文学、創作というものを考える上で物凄く重要なポイントなので引用した。折口信夫はここで重大な事を言っている。まず、次のような語句が見られる。

 「源氏物語を書くのに、作者は何を書こうとしたかと言うと、源氏が一生に行った事にあるのではない」
 
 現代においては、小説、アニメ、ゲーム、あるいはその他の企業の商品作りや宣伝、そうした様々なものはみな、このように見られている事だろうと思う。つまり、あらかじめ、作り手の側が細部まで計算し、頭で考えて、「源氏の一生」を描こうとした、というような事だ。相も変わらず陰謀論がはびこるのは、実はこうした僕らの思考の根強い習性にもとづいている。つまり、作り手や発信者の側が、あらかじめ色々な事を計算し、その通りにできるという先入観がそうした思考を生む。確かに人間は理性の力、頭脳の力があるので、そうした事が可能に見える。現代の産業社会は、頭脳により先々まで計算できる事、我々が計画に従う、精密な計画を立てられるという能力の上に築かれた。だが、それが人間の全てではない。

 話を文学に戻す。ここで折口は非常に微妙な物の言い方をしている。ネットでの議論やらコメントやらを散々見て、つくづく人はそういう見方をするものだなと感じるがーー人は二択で考える事が好きだ。ここで言えば、作者紫式部は源氏物語を「計画通りに書いた」か、「全く無作為に書いた」か、の二択。しかし、折口はここを微妙な言い抜け方をしている。つまり、源氏の生涯はあらかじめ、作者の手によって確定的に決められたものではない。だが、かといって全て無作為に書かれたものではない。これは現実の人間と同じ事だ。人は一見、自由に生きているように見えるが、人生を俯瞰すると統一的な方向が見えてくる。真の作家は全てを計算して描かない。そうすると、細部が頭脳によって圧迫されてギスギスして、力のないものになってしまうから。かといって、全くの無作為であれば、「作品」という統一性を持つ事が不可能になる。したがって、作品としての構成、統一性を考えながらも、その時のキャラクターの自由(我々の生の自由と同じ)を作家は尊重しなければならない。そこに作家の生みの苦しみがある。

 事実、つまらない作品というのはたいてい、キャラクターが生き生きとしていない。キャラクターが図式的であるが、構成は統一されている。ジブリのアニメ作品は構成、ストーリーは予め整然としているが、キャラクターの性格や意志は固定的だ。宮﨑駿のジブリアニメはキャラクターは「生き生きしていない」というほどではないものの、作者によって頑強に決められた枠に当てはめられている。ここに子供も安心して見られる作品の枠組みができあがると共に、目のこえた視聴者には足りない部分があると思える要素が出て来る。

 『たとえば実在の人物として考え、後から其生活を見ると、自ら一つのまとまりがついていて、此方向へ進もうとして居たことが考えずには居られぬ。そこに人生の筋道が通っているのである。』

 この折口の言い回しは重要だ。作者は源氏の一生を最初から計算づくで書こうとしたのではない。むしろ、作者は源氏という人物がどういう人生を辿っていくか、その推移を見守ろうとした、という方が正しいように思われる。とはいえ、作家の中には、最初からある程度の方向性は見えていたに違いない。つまり、最初に、作家に見えているのは方向性であり、結論ではない。そしてこの方向性とは、人が人生という過程で学ばなければならないもの(仏教の因果応報)である。仏教的倫理は、人生を生きる上で、それに対して当てはめる「枠」ではない。むしろ、人生を生きる過程で現れる結論部である。人は結論から人生を始めるのではなく、生きて迷い、誤ちを犯し、そして何が正しいかを後から知るのである。この順序を逆に僕達は考えてしまう。だから、現代の人間は様々な事を、過去の人間よりも遥かにたくさん知りながら、源氏物語のような優れた作品を産む事ができない。

 折口に寄れば、源氏物語成立後、源氏物語を淫らなものを書いた良くない作品というレッテルを貼った時期もあったそうだ。こうした倫理的な観点から、つまり結論から逆算して過程を黙殺するというのは、現代でも普通に行われている。だが、文学というものの力はそうしたものではない。また、文学というものがそういうものではないというのは、人生もそういうものではない、という事でもある。

 源氏物語は過程から結論に至るまでの全体を取った作品である。物語はそこでは、現実の社会風俗からスタートし、それがどうなるか、どうならなければならないのか、人はどのように生き、どのような場所に至るのか、という道筋となっている。この場合、物語の入り口に立っているのは当時の貴族的恋愛、つまり当時の社会的現実であり、作品の最後に立っているのは仏教的な倫理である。そしてそのどちらも、現実に根付いた事実と倫理である。源氏物語に物語的要素があるといっても、それはあくまでも、現実の描写であり、現実を乗り越えようとする過程で現れる倫理に分解されると考えて良さそうだ。

 これを批判した村上春樹とくらべてみよう。村上春樹は、物語を過程的にとらえているという点では正しい物の見方をしている。村上春樹は結論を作品に当てはめているわけではない。ただ、村上春樹は物語を形式的にとらえている。紫式部においては、現実と理想との矛盾がそのまま物語になったが、村上春樹はあくまでも「文学」という枠組みの中で物語を作っている。村上春樹の作品の端々に出てくる「文学ってこういうものでしょう」「こういうのが文学だよね」という態度は、彼の作品を作る根底的な姿勢からにじみ出てきてしまう。しかし、これは当然村上だけの問題ではない。現代の僕達ーー世界的に見てもーーは、文学というものを「そんな風なもの」として見る事に慣れている。小説を書いて新人賞を取りたい、デビューしたいなんていうのはその代表例であり、先に人生があるのではなく、先に文学がある。文学の形式があって、それによって自分の人生に箔がつくと思っている。

 だが、源氏の人生は、正に人生の現実から出てくる。人間が現に生きている現実を見つめるところ、そしてそれを越えようとする所から物語性が出て来る。僕達はこれを転倒して、結論から過程を逆算して、「世界的な作品」と見て取ってしまう。しかし、紫式部が描こうとした所はそういうものではない。そして紫式部は正に、自分が何を書くべきかを、書いていく事によって知ったのだ。作家にとっての技術は、自分にとって未知なものを現出する事にある。

 …だが、こんな風に言えば、自分の「無意識」に寄りかかってる村上春樹も同意するに違いない。村上春樹に関しては、彼が未知だと思っている自分の「内部」が、現実と断ち切れている事に問題がある。村上が「物語の力」を語る事と文学を「形」としてしか見れていない事は同じ意味を持っている。生と文学、現実と理想はつながっているが、僕らは知らずにそれをどこか途中で断ち切ってしまう。ダンテにしろ紫式部にしろ、おそらく彼らは自身の苦悩や苦痛を経て、この道筋を現に生き、またそれを言葉に現したのだろう。だから、彼らの作品を辿る事は彼らの辿った道を辿る事だと思う。この道筋に物語というものの方向性はあるのであり、この順序を逆にする事で小利口な作家や評論家で現れてくる。人生は誤ちと苦悩に満ちており、それ故、人は成長する事ができる。だかこそ、生には意味がある。そういう人生こそが本当に文学の主題になるのではないか。源氏物語について思考する内、自分はそんな答えが出るように感じた。

幻想としての『村上春樹』

 


 本屋で村上春樹の「職業としての小説家」をパラパラ読んでいた。買わなかったが、今の村上春樹というのは「ナルシスト村上」と呼ばれても仕方ないなという印象を持った。もちろん、元々、村上春樹にはそういう資質があって、自分の中に閉じこもった作品を書いてきたわけだが、その資質が年を取ってはっきり出てきているように感じられた。

 とはいえ、村上春樹は世界的に売れている作家である。その事実は認めなければならない。すると、村上春樹のように自分に閉じこもっている作家がどうして世界的に売れるのか、について考えてみなければならないだろう。

 ネットを見ていて、自分の目を疑わずにはいられないのが、村上春樹の作品をあたかも文豪の作品の一つのように評価している批評が結構あるという事だ。これは自分には信じられない事で、自分はシェイクスピアの作品を読んでその凄さに感嘆し、村上とシェイクスピアというのはとても比べられないと感じる。しかし、シェイクスピアというのはゲーテですらが「叶わない」と言った人なので相手が悪すぎるかもしれない。だがもう少し下げて、サリンジャーとくらべても、サリンジャーにあった本質性は欠如している。

 村上春樹の作品というのは高校生~大学生くらいにはちょうどよい読み物だと思う。基本エンタメだが、哲学的な雰囲気を兼ね備えていて、何か一歩大人の世界に入り込んだような気がする。しかし、実際それは「気」だけで、本当に面倒な問題に突っ込むわけではない。ドストエフスキー、トルストイであれば、色々な社会問題、人間の問題、哲学について考えざるを得ない事になるが、村上春樹は雰囲気だけで十分だ。そして村上春樹が世界的に受けるという事は、大半の人には、基本エンタメ、雰囲気哲学、というので文学は十分だと感じられているからかもしれない。

 村上春樹の作品は「自分へ閉じこもっている」と自分は書いた。しかし、これは村上作品を好きな人には伝わるだろうが、ある種心地よい閉じこもり方である。村上春樹は母性を独占する物語を書いていると批評していた方もいたが、それは正しいと思う。村上春樹作品は、自分の内部に独特な閉じこもり方をする。他者を締め出して、ただ自分の気持ちよい空間のみを作り出そうとする。そしてそれが消費社会で生きる僕達の心性にピッタリ一致する。難しい事、ややこしい事、死、実存の問題は微妙に僕達の外に追いやる。しかし、それらは物語を作る上で雰囲気として入り込んでくる必要がある。この微妙な構造の上に村上作品は成り立っているように思う。つまりそこでは様々な問題が解決されるように見えるが、結局は、問題の解決というよりは問題の回避に終始する。問題の解決(問題との全面的対決)を問題の回避として、解決したかのように見せるという技術が村上春樹には存在している。

 この微妙な構造の気持ちよさというのは確かに存在する。しかし、この詐術の上には安住できない。人はやがて人生の荒海に放り出されなければならない。村上作品の上にいつまで安堵する事は不可能だ。人はいつか村上作品が文豪でなかった事に気づいて、本当の文豪が一体何と戦ったかを見なければならないだろう。…あるいは人は今度は、自分達で「村上春樹」の役割を生み出すのかもしれない。つまり、今度は自分達で幻想を作り、嫌なものを極力遠くに退けようとするのかもしれない。

 村上春樹は自分の事を「小説を書く資格を天から貰った」みたいに話していたが、まあなんと大層な話なのだろう。ドストエフスキーやトルストイや漱石が「私は小説家としての資格を天から貰った」なんて言うだろうか。彼らは皆それどころではなかったし、現実や社会を芸術によって乗り越える事に必死だった。トルストイはその挙句として芸術を否定するに至るが、トルストイの悲劇(喜劇)の意味は村上春樹には理解しかねるだろう。トルストイは人生の深淵な問題として芸術を捉えていたのであり、芸術がそれに耐えられないと見るやいなやそれを放り出してしまった。トルストイの悲劇も、「死せる魂」を焼いてしまったゴーゴリの悲劇も皆、村上春樹には関係ない。文豪にとって文学は死活問題であり、宿命的な意味を持っているがそれは「自分には物語を生み出す才能がある」なんて自惚れるタイプのものではない。

 最も、村上春樹の傍観者的態度は世の中にフィットしている。文学なるものを自分とは違う所で少し離して考える。作者も読者も作品の「雰囲気」に浸る。そして本を離れるとすぐに「文学」は忘れ去られる。

 世の中は自分達が楽しむ為にあり、世界とはその為の道具に過ぎない。社会学者のマックス・ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のラストで不気味な言葉を残している。

 「『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまで登りつめた、と自惚れるだろう』」

 ドストエフスキーは作家の日記で「人間が地中から牛肉を何トンも引き出す事ができるようになっても人間は救われはしない」ーーそうした事を言っていたと記憶している。ドストエフスキーやウェーバーが予見していた当のものに僕達は成ってしまった。すると、その地点から振り返って、ウェーバーやドストエフスキーを眺める事になる。ウェーバーは大学の単位を取る為に存在し、ドストエフスキーは「総合小説」を書くための道具である。我々は既に「心情のない享楽人」だからこそ、その為の道具として「心情のない享楽人」という言葉そのものを捉えている。村上春樹が過去を振り返り、そこから文学的方法論を取り出して行っている事、彼が作家としての自分に誇りを持っている事ーーそれら全ては正に、文豪と呼ばれる人がそうであってはならないと念じていた姿ではないか。村上春樹が自分には小説を書く資格がある、と自惚れられる立場とは一体何か、とは考えない所に村上の自惚れの源泉はある。こうした事を本の売上で糊塗する事は自分には不可能に思われる。

 やがてメッキは剥がれ、真実が顔を出すだろう。そう思わずにはいられない。真実はおそらく、村上作品よりも心地よくはないに違いない。しかし、それ以上に力強い、「本物」であろう。景気の後退が長引き、中産階級が底から抜け落ち始めている今、必要なのは夢を見る事ではない。真実を見て立ち上がる事にある。その時、僕達は村上春樹という夢を捨て去る事だろう。

文学」というジャンルは存在するか




 少し前から「そもそも文学というジャンルは存在するだろうか?」と疑問に思っていた。例えば、インドの神話「バガヴァッド・ギーター」から村上春樹の最新作まで、くくろうと思えば「文学」というジャンルとしてくくれてしまう。これは非常に大雑把なくくりではあるが、括る事は可能である。先に、具体的な作品としてあるものを概念で括るとそこに動かしがたい統一性が必ずあるような気がするが、果たしてこれはそんなに安易に前提してよいものだろうか? 
 
 また、もうひとつは最近の作家が普通に「文学というものの良さを感じてもらいたい」なんて言うという事だ。平野啓一郎や中村文則や青山七恵がやっているのが「文学」であるなら、ドストエフスキーも夏目漱石も同じ「文学」であり、たしかに質の違いはあるかもしれないが、やっている事は同じである。それは、一般の文学に興味のない人からすればそう見えるだろうし、みんな「作家」の括りには入れられるだろう。しかし、それは本当にそうなのだろうか。

 ミハイル・バフチンはドストエフスキーの成した事をアインシュタインのした事に比べていたが、僕はバフチンの言う事は正しいと思う。小林秀雄もドストエフスキーを批評するにあたって、科学のパラダイム転換を例としていた。

 つまり、僕はこんな風に考えている。ドストエフスキーと似ているのは、ドストエフスキーに影響を受けた中村文則や平野啓一郎ではなくて、ぜんぜん違うジャンルで偉大な仕事をしたアインシュタインのような存在であると。知性というのは上の方に行くほど、固有の領域を抜け出して、妙な山頂へと辿り着く。その領域では、それぞれがジャンルを越えて、相互に影響し合う事が可能である。

 ただ、ドストエフスキーがアインシュタインに似ているかどうかというのはここでは主要な問題ではない。話を文学に戻そう。

 例えば、村上春樹がドストエフスキーのような「総合小説」を書きたいと思って書いた作品が実際には「総合小説」にはならず、それなりによくできたエンタメ小説になってしまう事。これはどこに問題があるだろうか。朝吹真理子が「無色透明の言葉を届けたい」みたいにインタビューで言っていたが、果たしてそんな言葉はこの世界に存在するのか。

 「この先、文学はどうなるのか?」という気の抜けた座談会なんてのもそうだが、そもそも文学というものを十分に定義でき、それらを弄び、それらの内部に入ればそれなりのーーつまりは、バルザックやドストエフスキーの仲間入りできるという考えそれ自体に問題があるのではないか、と自分は考えている。

 今の社会というものは消費社会であり、発展途上の社会というよりは、ある程度発展しきったような社会となっている。百年くらい前には、日本には近代文学というものがそもそも何かよくわかっていなかった。だから初期の文学者はみんな語学ができたし、漱石と鴎外は海外留学している。彼らはそもそも文学というジャンルがないから、それを作る事に邁進した。漱石の「自己本位」は自らの手で、自前の文学を作らなければならないという意図にもとづいている。

 芸術というのは不思議な所がある。普通、科学技術であれば、積み重ねがあるので、過去よりも今の技術が飛び抜けて劣っているという事は考えられない。だが、芸術という領域では、積み重ねた上で良いものが出てくるとは素直に言えない。非常に大きな視点で見るとそう言えるかもしれないが、今のロシアにドストエフスキー、トルストイ以上の作家がいるとは考えにくいし、今の日本に漱石以上の作家、作品があるとは考えにくい。もちろん、科学でも今はアインシュタインはいないかもしれないが、少なくとも、科学においてはアインシュタインの定理は消化済みであって、その積み重ねの上で新たな問題・答えが出て来る。

 芸術はそれぞれの個性に基づいているところと、社会・時代の必然的状態が絡み合っているので一概に「こうすべき」とは言えない。

 夏目漱石らが尽力して、また各種の海外の古典などが翻訳され、知識として蓄積され、日本の近代文学というものは成立した。漱石以降の作家ももちろんこの歴史に名を連ね、彼らが日本の文学というはこういうものだと言えるだけのものを、質・量ともに成してくれた。

 本屋で文芸誌を読んでいた時に、韓国の批評家のインタビューが載っていて、非常に面白く読んだ覚えがある。その批評家の話では、韓国にはきっちりと歴史が書けるような「韓国近代文学」と呼べるものははっきりないと言う。また自分が意外だったのが、その人は日本の文学を、ロシア文学やイギリス文学と並列的に話していたという事だ。

 自分は日本人で、日本から出た事のない井戸の底の蛙なので、日本について妙に卑下する所もあるが、その批評家の話を聞いてなるほどなあ、と感じた。つまり、隣の韓国からすれば、日本の近代文学はそれなりによく整ったものなのだ。(その批評家は更に、近代文学は植民地を持った事のある「帝国」でしか成立しないと重要な指摘をしていたが、それは本稿では関係ないので省く)

 さて、話を最初に戻す。この文章のタイトルは「文学というジャンルは存在するか」という煽りっぽいものだが、これはそんなジャンルが存在しないと言いたいのではない。文学というジャンルを所与のものとみなし、その領域に潜り込んでそれなりの事をすれば(賞をもらったり本を出したり、という事も含む)、自分も文学というものの歴史の中の一つになれる…そういう安易な考えが今の文学をイミテーションじみたものにしているのではないか、という事だ。

 日本の文学の歴史は確かにそれなりのものがある。しかし、それを所与のものとみなし、「これから文学はどうなるか?」などと、あたかも自分達が文学全体を背負っているかのように安易に発言できるという事に問題がある。ドストエフスキーの台詞回しを真似しただけで、自分もドストエフスキーと同じような主題を捉えていると考える事に問題がある。

 現状の「純文学」と呼ばれているものは、エンターテイメント小説、ライトノベルと全く同様の地平に立っていると僕は思っている。なぜそんな風になっているかというと、現状、僕達は消費社会の上に乗っかっていて、その中で自分達を「楽しませるもの」を模索している。自分達が立っている場所、自分とは何か、世界とは何かとは考えずに、自分や世界を所与のものと無意識的にみなしている。この場所から、右に萌えアニメ、左に純文学という風に平行的に移動していっても事態はさほど変わらない。それらの事は消費社会の中で、僕らが自分達の存在について掘り崩す事なく、安易に享受し、消費し、忘れ去られる何かとして流れていくだろう。

 村上春樹にとって安住の地は、八十年代の東京だったと思う。バーで親友とビールを飲み、女を口説いてホテルに行く。それなりに経済力があって、家ではレコードを聞き、本を読み、パスタを茹でる。一方、最近のアニメは学園モノがほとんどを占めている。学校に行って美少女に囲まれ、時たま、用意されたゲーム的危機を切り抜ける。それらはまるで永遠のように、恒常的に存在するように思える。そこで舞台となっている場所、生活は僕達にとって永遠のようでもあるし、永遠であって欲しいという僕らの願いをフィクションという形で実現しているように見える。
  
 しかし、どうもそれは嘘ではないか、と僕は思う。この嘘に気づく事から色々な事が始まるのではないか。

 朝吹真理子は「無色透明の言葉を届けたい」と言っていたが、彼女は自分がどの地平に立ってそんな言葉を模索しているのかとは考えない。おそらくそんな言葉を自由に追いかけられるという、恵まれた立場に我々はいるが、我々の文学は自分達が恵まれた立場にいるからこそ貧しいものとなってるのではないか、と思う。存在しないのは技術や知識ではなくて、「自己本位」という自己認識である。しかし、自己認識に至る途中の通路で、「文学的」なるものに作家の意識は吸収されてしまう。なぜ文学なるものができたのか、その成立に思いが至る前に、文学的な、歴史的な層の上澄みをすくう事で満足してしまう。

 「文学」という言葉を使うとそういうジャンルが概念として成立済みであるように思えてくるが、実際の所、僕達はそうしたものを読んだり書いたりする事によって、そのジャンルそれ自体を成立させていっている。そんな風に考えた方がまだ良いように思う。芸術の形式は普遍的・本質的だという発想から、ジャンルや形式の固定化が始まり、それは国の補助費や社会制度として更に固定化される。それは人間の認識に根ざした行為ではある。人は本質的に保守的であり、変化、創造というものを捉える事が苦手だ。だから過去から様々なものを定義し、固定化し、そこに自らを適合させようとする。その事の内に、自分の過去との繋がり、創造性なるものがある気がするが、過去の偉大な芸術家らがなぜ、どのようにしてそうしたかという問いは忘れ去られる。人は見たいものだけを見る。だから、自分が現代のあり方にのっかてエンタメ作品を書いていても心理的にはバルザックやドストエフスキーとつながっているように感じる。

 「文学」というジャンルを所与のものとしてみなし、そこで日常の心理を微細に描いたり、やたら深刻ぶったりしてみるという事と、自分達が存在し、生活している立場、居場所を疑わないという事は同一の現象だとおもう。言い換えると、小説を書いて新人賞を取るという行為は、頑張って就活して大企業に入るのと同じ事になった。大企業の目的について、その方向性について、それが何を生み出し、社会の中でどう機能しているのか、そうした大事については考えない。考えるのは「試験に受かった」という事実だけであり、自分の待遇と、「ホワイト企業かブラック企業か」という二択問題だけである。

 同様に文学において、それそのものについては考えないが、それを弄びはする。漱石が最初から日本文学を成立させる為に払った労苦については考えられず、漱石の作品の形式についてのみ語られる。村上春樹がドストエフスキー「悪霊」のキャラクターが多様で面白いと言っていたが、村上春樹はドストエフスキーの深遠な問題、人間の理性、神、キリスト、ロシア土着性などといった問題については決して考えないだろう。それらの問題はドストエフスキーにとって彼の存在の根底をなす重大な問題だったが、今の僕達がそれらの問題を取り扱おうとすると、いかにも本で読みかじった知識を披露するという程度に留まってしまう。つまりはドストエフスキーにとっての深刻な問題はうんちくレベルの話となってしまう。

 うんちくレベルの話しになるのはまあ仕方ないが、なぜそれはそうなるか、という問いを現代の僕らは持つしかないように思う。そしてこうした事はまずーー文学というジャンルを所与のものとしてみなすという事が問題となっている。おそらく、新しく文学というジャンルに何かを付け加える人物は、それを蹴り飛ばすようにして現れてくるだろう。「真に哲学するとは哲学をバカにする事だ」とパスカルは言ったが、それは文学にも当てはまるだろう。現状では、タレントが作家になったり、作家がタレントになったりして、多少売上を伸ばして耳目を集め、「文学は盛り上がってきた」という見かけを作るくらいしかやる事がない。そしてそうした見かけの製造の為に、根底的な事はいつも世間の陰で忘れられていくのだろう。