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物と精神

詩・小説・批評・哲学など テーマは「世界と自分のあり方」全体です

ブログ移転のお知らせ

新ブログ 「物と精神」


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代表作

〈小説〉
https://ncode.syosetu.com/n3558hk/ 短編集
〈批評〉
伊藤計劃論 (有料250円) http://mjk.ac/yQ7GYb(Amazon「伊藤計劃論」で検索)
ウィトゲンシュタイン論 https://ncode.syosetu.com/n8596ep/
ドストエフスキー論 https://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/1199055/
サリンジャー論  https://ncode.syosetu.com/n4440eu/
太宰治 人間失格論     https://ncode.syosetu.com/n5991eu/
     「逆説の喜劇」    https://ncode.syosetu.com/n4994cx/
神聖かまってちゃん
旧  https://yamadahifumi.exblog.jp/28189083/
新  https://yamadahifumi.exblog.jp/26288756/
村上春樹とドストエフスキー
https://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/1315976/
https://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/1324314/

あけましておめでとうございます

広告消しの為に新規投稿します。

自分の文学理論を整理する

 

 今まで自分なりに文学理論を作ってきたのだが、ここで整理する。自分のために言葉にして整理しておくという感じが強いのでわかりにくい話になるだろうが、参考になる人もいるだろうと思ってアップロードする。

 自分の文学理論として、最初にあるのは「自己意識」だった。自己意識の問題が常に自分にとっては決定的な問題としてあって、そこから神聖かまってちゃんにつながり、小林秀雄につながり、ドストエフスキーにつながった。自分で自分を意識すると、ごく普通に自分を生きられなくなるというのがスタート地点にある。また、孤独である事は意識を介して宇宙と繋がり、人々の中にいると意識を制限しなければならないため孤立を感じるという矛盾した感情があった。ここも重要となる。

 僕は自己意識というものは、「無時間的なもの」と考えている。「無時間的」とは比喩で厳密な意味ではない。意識は様々なものを自分の中に取り込む。様々なものを批評する。自己意識は世界を空間的に閲覧し、絶えずそれに話しかけ、それと応答し、自己だけで充足する。自己意識は「外部」を認めない。何故なら外部は、存在するやいなや自己意識が自分の内に取り込む素材となるからだ。様々なものに対して、自己意識は王のように振る舞い、全てを従属させるが、この自己意識は果たしてそんなに絶対的な存在なのかというのが次の問題となる。

 過程をすっ飛ばすと、個人的な文学的課題は、無時間的な自己意識を再び、時間の中に戻してやるという事にある。例えば、「永遠」という言葉は、いかにも自己意識にふさわしい言葉であり、「無時間的」と言って良い。不老不死を目指すというのも、自己意識の無時間性に対して肉体を従わせようとする人間の習性だと理解する。意識は、二十歳の自分と七十歳の自分との間に同一性を発見する。五十年の年月に、変化の奥にある同一性を発見しようとする。この同一性を延長すると、永遠、真理が現れる。

 しかし、こうした自己意識というものは本当に、外部を持たないかというそうではない。永遠に自己同一かというとそうではない。ただ、自己意識には外部が見えない。視野の限界が見えないように見えない。懐中電灯を闇の中で振り回し、懐中電灯に対して「明かりの照っていない所はあるか?」と質問したら、懐中電灯は自分の光の当たった部分だけを見て「闇はない」と判断する。懐中電灯は動く度に目の先を光で照らしているのだが、光の外側はいつまでも見えない。だから、自己意識もまた自分が見たものを世界だと信じる。外部はあるのに、彼の内部には存在しない。

 こういう厄介な自己意識は、自我ができた子供時代から死ぬ時まで続く。これからは逃れようがない。

 小説というものを書く際、自己意識というものはいずれにせよ重要な問題だ。最初に言葉ありき、という事で自己意識の探照灯を光の照らすままに描いていくのが自分にとって最初に出てきた問題だった。だが、次第にそれだけでは限界を感じるようになってくる。

 「罪と罰」という作品で、ラスコーリニコフはドストエフスキーとは異なった存在だ。この時、ドストエフスキーは、懐中電灯であるラスコーリニコフの外側の闇も十分に知っていて、闇も光も同時に描くという方法をよくわかっていた。ドストエフスキーの作品に論評する際、ミハイル・バフチンが指摘するように僕らは登場人物の一人に肩入れしたりするが、それは僕らが探照灯の一つに化している事を証明する。作家はもう一歩先を言っていた。彼は光を生み出しているものがその外部にあると知っていた。

 作品内において、ラスコーリニコフという人物は自分の自由を保持しているように見える。理性によって全てを統御しようと試みている。近代以降、人間の意志というものが社会的自由と共に極めて大きな問題となって現れ、ラスコーリニコフもまた自分の強烈な意志を試そうとする。だが、そのような意志を用意したもの、またその意志が行為となり、社会に反響して帰ってくる過程、それは意志ではない。人間は確かに意志を持つ。人生を振り返れば、自分の意志で道を決めた気がする。だけど、その意志を発生させたのは歴史であり、自然であるはずだ。人間の理性は自己と他を区別し、「私」というものを強烈に意識する。だが、その意識された私もまた自然の一部である…という真理は語る事はできない。その真理は「私」に取り込まれるとすぐに「私の言葉、私の真理」になって、私を包み込む真理ではなくなってしまうからだ。ここに面倒な問題が起こる。

 簡単に言えば、哲学で言う独我論は信仰を持たなければ越えられないと感じている。信仰は哲学ではない。お前は信仰を持つつもりか?と言われれば、僕は信仰を持とうと思っている。それはどんな宗教でもないが、単に一つの懐中電灯にすぎない僕が、その外側を(見れないにせよ)存在すると信じる信仰だ。この信仰は論理的には確証されえないか、確証されたとしてもすぐに自己の光として内に取り込まれてしまう。だからいつまでも「信仰」にとどまり続けると思う。

 整理しよう。最初に自己意識がある。それは僕にもあるし、あなたにもあるだろう。自己意識は様々なものを見、聞き、それに反応を示す。自分の個性、自我を主張しようとする。自意識はまた、自分を世界の中心と考える。地球の裏側で何万人死んでもそれほど気にならず、自分の歯が痛んだらそちらの方が気になるというのは、意識が自己を世界の中心と考えるからだ。

 こうした自己意識の作用を和らげるのは社会習俗だろう。社会的な慣習に従属していく事によって、自己の絶対的主張はなくなるし、自我は適度に抑えられる。だが、本来的に自己というものを徹底的に主張しようとするとどうなるだろうか。自己は自己を越えて外部に反響する。自意識は外側に形を取って現れ、ブーメランのように帰ってくる。

 「カラマーゾフの兄弟」のイワンはそんな存在だった。彼の内心の対話は、スメルジャコフを通じて、殺人という行為に現実化する。彼は現実となった自らの内心を見て、自分が本当に何を望んでいたのかを後から知ったのだった。イワンという強烈な自己意識もまた、己一人で生きていく事はできない。確かに、他者は無力かもしれない。作中、イワンほど強烈な自己意識を持つ人物は一人もいないかもしれない。だがそれでも、彼の中だけで物語は終わらない(始まらない)から、「カラマーゾフの兄弟」は書かれた。そんな風にも考えられる。

 僕にとって小説というのは自分から逃れ去る為の手段だ。それと共に、自分を捉える為の手段だ。どうしてお前は自分の事ばかりそんなに気にかかるのかと言う人がいれば、僕にとって他者とは、「僕の目から見えた他者」である。だから、どうしても自己意識を問題とせざるを得ない。

 自己意識とか私とかいうものにも限界を示せる、自分が懐中電灯だという事がわかってその外部が見れないにしても、なんとかしてその外部が(例えば「物自体」として)ある事を示せるのだと、僕は哲学から学んだ。オーソドックスな学習ではないだろうが、とにかくそう理解した。

 だから、小説を書くという事は僕にとって自己を客観化する過程である。最初に自己意識があるが、これを歴史的に生成された過程だと思考するのも、その一つの方法だ。伊藤計劃は「ハーモニー」で意識の消滅を語った。ジュリアン・ジェインズは三千年前に意識が発生したと説いた。どちらも、「永遠」「真理」≒「自己意識」という定式の外側を見ようとする行為だった、と解する。僕もまた自分の限界を見てみたい。何故そうしたいかと聞かれれば困るのだが、多分、より自由になりたいのだと思う。自己意識という、逃れられない自分の悪夢を、あるいは愛したり憎んだりしながら、その外側に出ていきたいのだと思う。そういう欲望が自分の中にある。だから、その欲望から自分の文学が生まれるだろうと思っている。自分の中では理論的にはそんな風になっている。

 「キッズ・リターン」のラストを考える

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 「マーちゃん、俺達もう終わっちゃったのかなあ?」
 「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」

                        (北野武「キッズ・リターン」より)

 「キッズ・リターン」という映画を最初に見た時、(ああ、この映画は一度見ればもう見なくて良い映画だなあ)と感じた。主人公は二人。落ちこぼれ高校生のマサルとシンジ。親友だったシンジとマサルは、学業をまともにやるつもりがなく、それぞれの夢を追い始める。シンジはボクシングの道を進み、マサルはヤクザの道を進む。だがどちらも道を進み続ける事できずに挫折し、後に再会する。人生に失敗した若者二人は、昔のように自転車を二人で乗りながら、学校の校庭を走り回る。その時に発したセリフが上記の引用となる。

 北野武の映像云々の事を置いておくと、ストーリーとかテーマなどは割合陳腐なものだ。他の監督でも取れるような映画だと言っても良いだろう。先に「ソナチネ」という傑作を見ていたから、なおさらその感が強かった。「これならば北野武でなくても撮れるな」 そういう印象で映画を見ていった。一度見れば十分な映画だと、そう感じていた。

 そのままの印象で映画が終わっていたら、僕はこの文章を書かなかっただろう。「一度見れば十分だ」と思っていた矢先に、有名なラストシーンが現れた。

 「俺達もう終わっちゃったのかなあ?」
 「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」

 このラストが現れた為に、ラストにたどり着く為だけに、それまでの映像を見返す事になった。僕の印象は破れた。ラストシーンが、それまでの映像に対する僕の印象を打ち破った。

                     ※

 先に、一般的な話をする。

 まず、社会における挫折という問題がある。実際の所、この問題を北野武はそれなりに陳腐にしか描けていない。というのも、「挫折」という問題においてはわかりやすい理解は、「成功」と「挫折」の二択だ。それは「一部の才能ある人(が努力すれば)成功するけれど、他の大半は挫折する」というものであり、これが普通にある見解と言って良いと思う。

 こういう普通の見解自体に僕は批判的なので、「キッズ・リターン」という映画がその見解からはみ出していない事に不満を覚えた。「一度見たら十分だ」と最初思ったのも、そういう理由がある。この見解の何に不満なのかはここで言うと長くなるので飛ばす。

 さて、シンジはボクシングに挫折し、マサルは極道に挫折する。二人は昔のように、高校生の時のように自転車に二人乗りして校庭を走り回る。彼らはもう終わった存在である。社会的にはチャンスがない。絶望しかない。だが、この絶望の中で「まだ始まっちゃいない」という、強がりにも聞こえるし、希望とも聞こえる言葉が発せられる。

 このラストは印象的だが、普通の「希望ある映画」ではこんな風な描き方は決してしない。普通の「希望ある映画」では、夢が叶ったり、いつまでも自分の幻想が続いたりする。「けいおん」のラストではあずにゃんが「先輩、卒業しないでください」と言う。これは僕ら(僕も入れてもらおう)アニオタの願いを代弁しているかのようだ。声優にいつまでも十七歳の少女であって欲しい、結婚しないで欲しいと願うかのようだ。だが、現実には幻想は続かない。

 本来的には、「キッズ・リターン」のラストはラストの絵にならないだろう。なにせ、シンジとマサルは二人共、失敗してどうしようもない状態にある。この二人が失敗を重ねながら成功していく様を描くのが、普通の映画だ。辛苦を重ねて、成功するのが僕らの幻想であるし、それはきっと叶いっこない現実だけど、叶って欲しい現実でもある。素敵な仲間はバラバラにならずいつまでも一緒でいてほしいし、映画内で失敗が一つ二つあっても、成功の為の足がかりだと信じられるからこそ、その「先」を見る事ができる。これが普通の人が映画を見る場合の精神的態度に思える。それは丁度、自分の子供にプロ野球選手になって欲しいと願う親に似ている。きっと無理だろうけど、でもなってくれたら、という夢。現実は厳しいかもしれないけれど、せめてフィクションでは夢を見させて欲しい、という欲望がある。

 「キッズ・リターン」はそういう終わり方はしていない。現実には敗北した。良い事は一つもない。希望はこれっぽっちもない。何もない。しかし、だからこそ、上記のセリフが輝く。この場合、輝くのは単に言葉のみである。物質的に、社会的に、客観的には完全に終わっている。いい所は一つもない。しかしだからこそ、単なる言葉が…つまり、ただの空っぽの精神が光る。精神は現実に敗北してやっと光る。キリスト教の根っこにある精神などはそれであると思う。現実に差別され、石を投げられる。徹底的に打ちのめされるからこそ、内心の精神は怪しく光りだす。自分達の現実が地獄であるからこそ、天国に行けると信じられる。ここには倒錯があるが、これは人間の強みとも弱みとも言える。

 劇というのは何だろうか。ソポクレスの「アンティゴネー」という作品は傑作だと思うが、女主人公は王の決めた掟に反しても、自分の意志に従って行動する。彼女は予定通り、王に幽閉され、最後は自死する。

 現代の劇はまるで逆となっている。人が意志を持って行動するのは、世の中に認められ、成功する為だ。だから、現実に沿ったそんな劇が多数輩出される。ほとんどがそんな劇だと言って良い。見かけがそうでない場合も、観客や同業者の顔色を窺っている作品は全てそういう作品だと言って良い。

 人間の意志とか精神は、現実に逆行しても、尚も存続し続ける、自分が死ぬ時まで走り続ける、という所に怖ろしい部分がある。精神は絶えず現実に敗北する。だから、最初から敗北した人は勝利したように見える。そんな大人を沢山見かける。最初から戦わずに屈した人はそれなりにうまくやる。彼らは戦わないから、勝利する。しかし、戦う事を決めた人間は必ず敗北する。

 戦う事を決めた人間も、社会的に成功して、勝利する場合もあると人は言うかもしれない。ここに最初に言わなかった「キッズ・リターン」全体への不満もあるのだが、結局の所、社会的に成功しようがどうなろうが、精神は必ず現実に敗北する。何故そう思うかはこれまた長くなるので、書かない。

 精神は現実に負け、地に塗れるが、それでも不屈であるという所に痛ましい美しさがある。ここにドラマが成立する。人間は現実に敗北するが、それでも敗北を笑い飛ばす事ができる。強がる事ができる。強がりはただの強がりだと人は見るかもしれない。しかし、強がる事もせず、現実に屈した人の笑顔をどう見ればいいか。彼らは負けた事がない。何故なら、最初に己に負けたからだ。

 「キッズ・リターン」の二人は絶望の状態にある。にも関わらず、二人は笑う。二人の笑いは虚しいかもしれない。だが、この笑いがなければ、人間はいつも環境とか現実に従属する存在となってしまう。二人の笑いを虚しいと笑い飛ばすのは大人の態度だ。だが、大人のその態度を子供が笑い飛ばしては何故いけないのか、という転調で映画は終わる。

 「キッズ・リターン」という映画は、最後の場面で昇華されたように思う。ラストがなければ、本当に「一回見れば十分」の映画だっただろう。ラストの場面が感動的なのは、僕らが希望とか幻想とかいう形で持っているものを廃棄しても尚も、まだその底に何かがあるからだった。多くの人は「キッズ・リターン」を見た、感動したといっても現実に帰ると、やはり希望とか幻想を手に持つだろう。だが、「本当に」それを捨てなければ芸術は始まらないというのは一体どんな言葉で語ればいいのかと自分はいつも思案している。多分、それはこんな風に中途半端な言葉でしか語る事ができないのだろう。僕は一度、あのヘンリー・ダーガーに対してさえ、人生を「うまくやった」(結果として有名になったから)と評している言説に出会った事がある。このように、平俗化の運動はいつでもどこにでもある。そうした運動は絶えず、現実の過酷さから目を逸らすか、現実の過酷さに屈するかのどちらかだ。敗北した精神は外観上、勝利した微笑みを見せ、勝利した精神は外見的には敗北の姿を見る。どちらが良い人生かと言う事はできない。ただここは、大きな分岐点ではあると思う。「キッズ・リターン」はこの分岐点で独特の曲がり方をしたのだった。

角田光代と夏目漱石を比較して、文学を考える

 本をぶん投げたくなる気持ちを抑えて角田光代の小説を読んでいた。角田光代とか、平野啓一郎とか、中村文則、綿矢りさなどは、僕と同じような環境で生まれ育ったはずであり、上に下に世代間ギャップがあるとしても大した差はないはずである。にも関わらず、彼らの作品を読むと、僕はいつも孤独を感じてきた。まるで違う他人が全く僕には関係のない事を目標に生きているような気がして、自分とはまるで違うのだという感じを常に味わった。

 こんな事を言うと、権威主義だと言われるかも知れないが(不思議に、権威主義と相手を批判する人間は大抵その人が権威主義である)、僕にはソフォクレスとかセルバンテスの方がまだ同感できる。もちろん、翻訳とか時代とか、環境の違いはあるが、それにも関わらず、そこにある種の親しみを覚える。それは自分の中で謎としてあったのだが、これから先も謎として有り続けるだろう。中原中也の詩に、世間は遠くの方であらくれていた、といった詩行があったが、そんな気持ちがする。みんながはしゃいでる飲み会で一人でポツンと酒を飲んでいる感じ。あるいは表面的にはみんなと楽しく飲んでいるが、心はどこか別にあるという感じ。

 自分の話をするなら、高校二年生の時に、くじで当たってしまい、卒業式に出た事があった。卒業式は三年生のものなので、二年生は出なくていいのだが、何かの関係で二人出なくてはならない。僕は慎重に、極めて慎重にくじを選び、当たりたくない一心でくじを引いたら、見事当たってしまい、みんなに大笑いされた。それで、クラスメイトの女子と一緒に卒業式に出席した。

 やる気のない学生だったので、卒業式の間、隠れて文庫本を読んでいた。村上春樹の「ハードボイルド・ワンダーランド」だったと記憶している。前の方では式が進行している。僕は隠れて本を読んでいる。しばらくすると、隣の女子に怒られた。女子は真面目なタイプの学生ではなかったけれど、さすがに僕の行動を見咎めたのだろう。僕はやむなく本を閉じた。

 自分の人生はそのようなものだと自分でもよくわかる。色々な事が、壇上で行われている。が、僕はいつも隠れて文庫本を読んでいる。馬鹿馬鹿しい限りである。馬鹿馬鹿しい人生である。しかし、人生そんなものだろう、という気もする。

 話を戻すならば、角田光代の小説というのは、つまらないと思う。しかし、角田光代のファンがいるというのは納得できる。おそろくは、二十代から四十代くらいの女性が主ではないか。現代に生きる中流の女性の姿がそこにはきちんと映し出されている、と言いたい所だが、多分、作者は映し出しているつもりはない。作者は、そういう女性を描いているのでもないし、自覚的にそういう生き方に価値があると見ているわけではない。作者はおそらく主人公と同様に、現にそのように生き、それを描き、それに共感する人々がいるのだが、そこでは生を自覚したり、意識的に捉え直す視点がない。だが、そんなものなくてもいいではないか、別にただ生きているだけで構わないだろう、とすらも作者は抗議しないだろう。何故なら、生きているだけでいいではないか、小難しい話はどうでもいいではないか、という考えも突き詰めれば思想になるが、こうした問題を断固として突き詰めないのが、角田光代とか朝井リョウらの根っこにある思想だからだ。

 こうした事は、小説というものが一般化した状態として置き直せるだろう。夏目漱石の「三四郎」を読み返して、角田光代との大きな違いを感じた。角田光代も漱石と比べられたくはないだろうが、試しに比べてみる。

 「三四郎」という小説が、(漱石的には)未熟だとしても優れているのは、それが「象徴」になっているからだ、と考える。それぞれのキャラクター、三四郎とか美禰子とか、広田先生、野々宮などは、ただそう生きているだけではなく、西欧文明が日本に流入し、近代的な自我が現れ、自己主張が激しくなったから現れてきた人々だと理解できる。特に、美禰子という女性像はこれまでの日本にはなかったわけで、とりわけ漱石にとっては重要な存在だった。今の僕達にとっては漱石も鴎外も古典だが、江戸時代の社会秩序からすると、人間が主体的な存在として現れるという事は、新しいものだった。今や、恋愛はあまりにも当たり前、陳腐なものとなったが、当時の知識人・北村透谷にとっては人生を賭けた大事業だった。

 漱石のキャラクター設定の背後には常に文明論・社会論・歴史論があったし、そういうものを想定せざるを得なかった。そういうものを考えないとそもそも小説が成り立たなかったし、近代的自我が発育した社会でなければ、近代小説は作れない。それで当時の日本は非常に苦しんだが、その苦しみに、当時の日本の偉大さ・立派さがあった。しかし、今、小説というものを構成するにあたって漱石の苦しみは必要ない。一般化され、既知のものとなった。

 角田光代が小説を書くにあたって何があればいいか。自分の人生と、最近の日本の作家、後は小説を構成する技術があれば十分だろう。難しい事は考えなくても、小説は作れるし、共感する人は現れる。つまり、日本はかつてのように苦しまずとも済むような、成熟した社会となった。文学というものに、社会集団の運命が投げ込まれる苦しい期間は終わった。文学はただ、雑然と分化したそれぞれの人生を描くものとなった。だから、無数の小説があるという事は、この社会に無数の人がいて、無数の生き方があるという事と大して変わらない。それぞれに違う生はあるだろう。だから、小説がある、というように小説は書かれる。そこに共感する人々は、自分に似た人を小説内に見つける。象徴はない。社会は、僕らを生かす巨大なドーム状のものとなっていて、このドームは壊れないという前提がある。温かく柔らかく堅固な場所にいるのが前提の元、小説が作られる事が可能となった。その始まりは「よしもとばなな」ではないかと思う。このドームの中で、人は仕事に悩んだり恋愛したり旅に出たり、色々してみるのだ。それを僕らは生と呼んでいる。

 角田光代の小説では、小説内の人物はそのまま、僕達自身である。朝井リョウ「何者」の就活生はそのまま、今の就活生を写しているとも言える。しかし、なんとみすぼらしい人達であろう、なんとこじんまりとした人物であろうと言うと、それはそのまま僕達自身への批判となってしまう。我々はなんとこじんまりと生きているのだろう。

 ただ、このこじんまりさに開き直って、これが人生だというのであれば、それは立派な小説になりうる。生活の細々とした、つまらない事に全てを掛ける人生は、決して細々としたものではない。そこには自覚がある。人生はつまらないものだと信じて、そう生きる事と、ただ考えずに生きるのでは意味が違ってくる。この意味の違いを現在では認識するのが難しい。何故なら、僕達には比較する対象がないからだ。角田光代的世界観と比較するものがどこにもないから、実生活に根付いた小説は自然とそういう方向に走り、幻想的な小説もそこから色々なものを夢見るに留まる。そしてその全ては、僕達の共同認識を受けて、始めて意味を持つ。つまり、なんだかんだ言っても、我々大衆が認めるものにこそ価値があるという巨大な価値観があって、その中に我々の生はある。みすぼらしくても、みすぼらしいとも思う事すらできない我々の人生がある。

 ここに露悪的な中村文則を持ってきても、変わらない。中村文則はきっと、友人の結婚式でも楽しく酒を飲めるタイプの人であろう。就職活動と新人作家になる事を天秤にかけられる人であろう。ラスコーリニコフはドストエフスキーの分身だったが、中村文則の持ち出す悪人は、常識人の想像する悪人にすぎない。確かに、悪人は社会から弾かれている。我々は奇形を眺めるように犯罪者を眺める。自分が犯罪者になりうるとは考えない。悪についても、犯罪についても、考えない。お客さんの立場で弄びはするが。

 全てが揃った社会において、矮小化された我々の生、常識の範囲内において、芸術は作られるものになった。角田光代のように過不足のない作家を社会は生む事となった。そこに共感する読者も多数生む事となった。それは、近所の定食屋の雰囲気が良い事に満足できる世界であり、よく考えれば大した事であるが、それと比較する世界がないために僕らはそこに閉じ込められている。

 この世界にどうして誰も穴を開けないかと僕は訝しく思っていたが、そこに「神聖かまってちゃん」という野蛮人が現れ、小さな穴を開けて去った。今、僕はその穴から外部の世界を見ている。

 これは私事だ。話を戻す。漱石にとっては、人間を認識するにあたって、近代的な文学観と、当時現れていた近代的な人間が一致していた。彼はロンドンに行って、外部の目を持って、人間を見る目を得た。今、我々は自分を見る目を持たない。我々はただ自分を生きている。自分への懐疑、社会への懐疑は、すぐに社会への懐疑を社会に擁護してもらいたい、賛成してもらおうという姿勢に転じる。自分を疑う事はただ自分を疑うという姿勢に転じ、それが文学的であると信じる人へのアピールに変わる。我々にとってあらゆるものは、全て自分の手を逃れ去っている。今が悪い時代なのではない。おそらく、良い時代すぎるのだろう。しかし、葛藤も抵抗もない世界では、優れた文学は生まれにくいに違いない。

 確かに、小説というものは個人の人生を描くものだ。そういう意味では紫式部と角田光代、「こころ」と「異世界はスマートフォンとともに」も大した違いはない。あるのはただキャラクター設定、ストーリー構成、文体云々という事で話がつけば簡単だ。この簡単さが可能になったのが今の社会であり、僕が与したくないのはこの社会のそうした価値観であるから、人がそういう説教をしてきた所でこちらとしては御免こうむる。

 現状の文学においては、社会が文学を許容している。人々が、文学なるものを、自分達のために利用するかしないか、決める権利がある。文学者と呼ばれる人間の中には「文学は〇〇の役に立つ」と平気な顔で言っている人もいるが、それこそが、文学が完全に社会に敗北したという証左だろう。文学者の言うべき事は、文学が世界の役に立つのではなく、世界はどうやって文学の役に立つのか、という問いである。シェイクスピアは世界のあらゆる物事を自分の文学空間に叩き込んだ。その時、シェイクスピアは我々の常識に大して傲慢であったのか。我々の日常に大して虚無的であったのか。「ドン・キホーテ」や「源氏物語」のような長々した作品を倦まずに作り上げている作者は、現実世界に対して偉そうな態度を取ったのか。我々はそれに腹を立てるのか。もし、腹を立てるのであれば、どんな根拠からか。少しは世の中に役に立つ文学を作れと号令するのか。もっと、役立てるような、金を生むような作品を作れと命令するのか。これまでそうやって命令されてでてきた作品は、どんなにみすぼらしかったろう。そして、今、我々が無意識的に「自己のために」役立てようとする芸術作品がどうしてこうも貧しいのだろう。

 漱石においては、新たに現れた人間、社会を理解し、統御する過程として文学が必須の形式だった。我々は既知の世界にいるから、そこで、自分に親しみを持てる者、安堵できるものを探そうとする。小説というのは一般化したので、直木賞と芥川賞の違いはほぼない。「純粋な言葉を追う」と言いつつただ現実から逃亡する、あるいは逃亡する事を許されている場所にいる事を自覚しないという事に、そう言う作家の社会的立場がある。筋斗雲に乗ってどこまでも飛んでいけると信じている、仏の手に乗った孫悟空に似ている。

 常識的に考えるならば、世界の中に芸術があって、それを楽しんだり、嫌ったり、評価したりしなかったりというのが普通である。では、何故これが普通なのか。我々が生きている事が常に先行されているからだ。我々の生があって、その退屈を埋めるために、エンタメや芸術がある。

 文学もまたそれをなぞるから、生そのものに対して懐疑したりはしない。文学者になりたい人はできあがった文学という様式を疑わない。僕はだから、本当の文学者というのは全然文学者ではない、と思う。彼は極めて野性的な何者かであって、彼の表現がたまたま文学という様式を取ったにすぎない。だからこそ、そうした作品はそれとはほとんど無縁に見える人にも影響を与えられる。文学という様式にはまりこむのが愉しい人にとっては、世界をどう捉えるかは問題ではない。先に世界に捉えられた自分がいて(これは意識されない)、彼が「文学」を作れば十分である。

 漱石にとっては、世界はまだ生まれたばかりだった。それが彼の文学を生んだわけだが、むしろ、彼の文学がそういう世界を生んだ、と言った方が適当だろう。夏目漱石という存在が生まれるには、社会自体が変革するという苦痛が必要だった。断絶とか、相対的な変化が認識する「目」を与える。現在の社会では断絶はない。だから、物事を認識するのに必要な差異が生まれず、ただ我々はドームの内部にいて、互いに慰め合っているにすぎない。

 慰め合ったり、暇を埋める為の様々なものが開発されている内に、このドームは次第に衰亡してきた、というのが現在の状況であるように思われる。しかし、例えば、今、「作家」になりたければ、抑圧されていた自分を表現するよりも既にある新人賞に合わせていく方が良い。また、人々の価値観に適合していく事が個人にとっての成功には近い。

 現在、それらを越える文学はあるのか、という風に考えてみると、あるにはあるだろうか、そういうものは、仲間内の雰囲気なるものとは別なものになるという風に思う。困った事には、「仲間内」の雰囲気は、極めて巨大なものになっている。僕もそうだが、書く前から、もう人々の顔が見える。これを言ったら叩かれるだろうとか、これを言ったら評価されるだろうとか。問題はそのような自分自身の中にある人々をも同時に越えられるかという事にある。そして、その場所は自分という孤独に決まっている。自分の中の孤独を感じていない人に、芸術は作れないだろう。角田光代はおそらく、孤独ではないだろう。少なくとも、彼女の作品の孤独は孤独を知らない人の孤独であるように見える。では、孤独であるとはどんな感じか。それは、「自分は孤独だ」と言って他者が「そうだそうだ、自分も孤独だ」などと決して言えないような孤独である。つまり、語り得ないものとしての孤独である。

 その孤独が、自由を生むわけだが、そこからまた言葉は、社会に帰ってくるだろう。自由であろうとする事は、世界を捨て去る事を意味する。しかし、完全に世界を捨てる事はできないから、また魂は世界に還らなければならない。

 先に言っておいた世界に対する認識、文学を通じた社会認識ーーなどは、自由であろうとした魂に副産物的に生じた世界の映像であろう。世界と切り離された存在のみが世界を認識する。彼は見たものを報告するために、また世界に帰る。たとえ、聞く人が一人もいなくても彼は世界に帰る。いずれにしろ、自分が見たものは誰かに語らなければならないから。アルチュール・ランボーの詩のように、それは現象界に言葉として残るだろう。ただ、カントの「物自体」は永遠に物象化はできない。それを見た人は見た映像をただ魂の内にしまい込む。彼が見たものの意味、その価値について詮議できる者は、きっとこの地球には誰もいないだろう。あるいは、そういう人間がもしいたとしたら、彼はまた自分の内に語り得ない言葉が生まれるのを感じるだろう。詩人は詩人に相通じる。しかし、魂は、流通する言語でしか語れない。流通を見た人々は亜流の流派を様々に生み出す。が、いつの時代でも、詩人の魂は時代の上を飛翔している。

死までのほんのひととき


 夜寝る時、これでまた死に一歩近づくんだなと思う。

 僕は1LDKに一人暮らし。恋人もいなければ友達もいない。会社で必要な業務だけこなして、後はアパートに帰ってくる。ただ、それだけの人生。

 趣味はゲームとか読書とか。ありきたりなものを少し。それだけで、人生の退屈な時間というのは十分埋まっていく。僕は時間を埋めるのが得意だ。そうしている間にも少しずつ、「死」は近づいていくる。

 三十を越えた年から、年齢の事を考えなくなった。死の事ばかり考えるようになった。

 死は少しずつ近づいていくる。毎日、明かりを消す度に死は向こうからこっちに擦り寄ってくる。衣擦れの音が聞こえるようだ。

 死はどんな相貌をしているだろうか。無教養の天才バカ野朗、モーツァルトは毎日、死と共に生きていた。彼は毎日、死を思いながら寝ていた。彼の音楽の背後には、死がぽっかりと口を開けて待っている。人は誰でも、死という暗穴に落ちるまでの間、ただ踊り狂って暮らす。できる限り派手に踊れた奴がこの世の王者という事で、賞賛されたり、死を克服したかのような見かけを持たれたりするが、実際はそんな事はない。彼らは大抵、死から目を背けているだけだ。ただ、それだけだ。

 僕は自分の人生が何でもない事を考える。あるいは、この世の中自体が、馬鹿げたパーティーのように、ほんの賑やかなざわめきとして消えるべきものなのだ。パーティーの後に、後片付けをしない子供のように、人類は地球を汚したまま消え去っていくだろう。こいつらは。ほんとに。

 パチリと電気を消す。目を瞑る。何も変わっていない。

 この一千年、二千年。人類は進歩しなかった。…いや、進歩したと人は言うだろう。労働環境は改善され平均寿命は伸び、さまざまなテクノロジーが発展し、世界経済は常に大きく動いている。世界中であらゆる人はそれぞれに、それぞれの努力をしている。日本が悪いのはどっか別の国のせいなのかもしれない。あるいは世界がおかしいのは一部の秘密結社のせいかもしれない。でも、それら全部が間違っていようが正しかろうが、僕には全て淡い夢のようなものに思えてならない。

 少なくとも、僕の人生が何でもない事は確定している。僕は生きている自分を不思議に思う。物置の端っこに置かれて、何を照らすでもなく、ただ消滅するまでの間燃え続けているろうそく。それが僕だ。僕は少しずつ燃え尽きていっている。孤独に、一人で死に向かって少しずつ近づいている。

 でも、人に助けを求めようとは思わない。溺れている人間が別の溺れている人間の肩を掴んでもしかたないじゃないか。大体、他人というのは面倒だし。僕は一人でいる事に馴れている。

 だから、僕は一人で少しずつ死に近づいている自分を不満に思わない。社会でただのロボットとして生きている自分をなんとも思わない。そんなものだと思っている。

 そういう僕もまた世界の片隅で生きていて、その事はどんなデータベースにも保存されない。戸籍には残るだろう。だが、戸籍なんて何の意味もないデータだ。僕の内面や心理についてはわからないまま。僕の本質はただ一時の事として消える。ろうそくのように、ただ消えていく。

 ああ、世界が消えていく。僕は不思議に思う。どうして世の中の人達は自分の死について思わないのだろう。どうしてあんなはしゃいでいられるのか?

 今日も仕事を終え、アパートに帰ってくる。風呂に入り、飯を食べ、インターネットを見て、布団に潜り込む。

 電気を消すと、死がこっちに近づいてくる音が聞こえる。死は僕の友人となりつつある。

 少しずつ死にゆく個体。ハイデッガーやサルトルなんかに言われなくても、死は、僕の身近にいる。僕はそいつの顔を覗き込む。そこには僕自身の顔が映っている。僕自身が、僕の死神なのだ。

 さて、寝よう。目を瞑る。そのまま、眠ってしまう。夢も見ない。寝ている間は、死の事も死神の事も忘れている。それなのに、死の存在を僕は感じている。透明な皮膚の奥に死がいるのを、感じる事ができる。

 ぐっすり眠る。意識がない。死んだように眠る。

 そして、朝が来る。朝が来ると、面倒くさそうに目覚まし時計を止めて、僕は起きる。

 そして。

こっちに4日くらい連続で投稿します

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ブコウスキーと西村賢太の違い


 ブコウスキーの本を図書館で借りて読んでいた。と言っても、もう返してしまったので、手元にテキストがない。なので、うろ覚えの印象だけで、ブコウスキーと西村賢太を比べようと思う。どちらも、無頼派作家という事では、外面的には似ている。

 さて、ブコウスキーという作家はどんな作家か。酒と女を愛して、その生活を赤裸々に描き出した作家と言えばわかりやすい。一見、そう見えるし、そういう外見から、終日飲んだくれていれば作家になれると妄想する人間も現れてくるが、ブコウスキーはそれとは違い、本物の作家と呼ぶ事ができる。では、ブコウスキーはどうして本物だと言えるのか。

 一見すると、西村賢太もブコウスキーに似ていると言えない事もない。ある程度年を取ってからデビューした事、底辺でのくすぶっている暮らしを私小説的に題材にしている事が似ている。しかし、それはあくまでも外面的な事にすぎない。僕は、ブコウスキーには「文学」を感じるが、西村賢太には「文学」を感じない、という印象から話を進めていく。

 そもそも、私小説とは何かという話から入る事にする。歴史的に私小説を考える事もできるが、こっちで考えた定義で話を進める。

 私小説というのは単に、「私」について書く事ではない。以前に、小説というのは「個人の生きている姿を描く事が社会的な意味を持つ」と定義してみたが、この場合、「私」について描く事が、社会的な意味を持っていなければならない。ただ「私」の垂れ流し、「私」の生きている様について話すのではなく、それが、他人にも意味を持つように語らなければならない、という事だ。

 だから、そこでは、経験よりも、経験を加工し、編集する作家の技術が必要となってくる。本物の作家というのはみんな、隠れた技術を持っているが、読者には、「作家というのは好き勝手にやっていていいなあ」と思わせておく、という事も頻繁にある。こういう場合、この手の読者は作家と作家の実生活をたやすく混同するが、そこに見えない技術を盛り込み、そこで語られているものに意味を見出していくのが作家の技術となる。

 この点からブコウスキーの作品を見るとどうか。確かに、作品には女と酒の事ばかり書いてある。(言い忘れたがブコウスキーは「詩人と女たち」、西村賢太は「苦役列車」をテキストに選ぶ) そして、実際に、ブコウスキーはそんな生活をしただろう。しかし、「詩人と女たち」という作品は、確かに作家が精魂傾けて書いた作品だと言える。それは最後の終わり方だけ見てもそうだが、その他の部分もそうだ。

 女と酒は、有名作家になったオジさんの主人公に次々に流れ込んでくる。主人公は詩人としては、女に溺れ、酒に溺れ、だらしない生活を送る。しかし、「詩人と女たち」を注意深く読むと、そこにある種の倫理性と諦念が流れている事に気づくだろう。それは、ブコウスキーならびに主人公が、人生というものを深く諦めているからこそ、そうしたものに生きざるを得ない、という感性である。つまり、ウマル・ハイヤーム的に、この世がろくでないものだとわかった暁には、酒でも飲んでいるしかないという感覚である。しかし、この世がろくでないものだと罵る事は政治性を帯びる為に、ブコウスキーはその言語を注意深く、作品から取り除いている。

 うろ覚えだが、こんなセリフがあったはずだ。
 「三杯目(の酒)を飲んだらどうなるんですか?」
  主人公はそれに答えて言う。
 「大差ないね。三杯目を飲んだら、四杯目に行く」

 他にも、いくつか主人公の諦念を示す文章があった。「恋は一度だけした」というような言葉もあったはずだ。つまり、女を抱くという行為には、もはや恋も愛もないし、詩人はいつかの日に何故か、恋とか愛とかを諦めたらしい。相手の女も自分を愛していないと知っていて、それでもかまわないと詩人は決めてかかっている。この手の諦念というのは、そう簡単に取り扱えるものではない。

 こうした諦念として、似ているタイプとして思い浮かんだのは、カート・ヴォネガットだ。ヴォネガットの人間への諦めっぷりは、戦争経験から来ているとわかるが、ブコウスキーの場合はどこから来たのか、調べていないのでわからない。ただ、こうした人間の諦念は、突き抜けると、滑稽さや笑いへと変わる。ブコウスキーは、有名作家になったのに女に罵られている滑稽な自分の分身を平気で描いている。どうしてそんな姿を描くのか、という所に作家の哲学があるが、ブコウスキーの場合、そんな哲学は真面目には語らない。ただ、人間そんなもんだという詩人の嘆息が聞こえてくるような気がする。

 さて、そうした存在がブコウスキーだとすると、西村賢太はどうなのだろう。西村賢太は、朝吹真理子と芥川賞W受賞した。朝吹真理子はいい所のお嬢さんで、西村賢太は底辺を這った中年作家で、出自は全く逆だが、それにも関わらず、作品は大して変わらないという印象を僕は抱いている。それは、西村賢太の作品が、「文学とはこういうものだろう」と頭で考えられて作られた優等生的なものにしか見えないからだ。つまり、どっちも優等生的に見える。

 谷内修三という人が、ブログで指摘しているが、西村賢太の小説は言葉でできている。作品の書き出しに「曩時」なんて誰も知らないような言葉を何故使うのだろうか。そうした疑問は文体全体に及んでいて、そこに生きた人間の姿がなく、言葉だけがある、と言うと、今の文学の世界では褒め言葉とも捉えられかねないが、褒めているわけではない。

 西村賢太がああした文体で描くのに何か必然性があるのか。作家としての、倫理、思想、哲学と関係があるのか。ブコウスキーの文体はブコウスキーの魂のパターンと一致しているし、一致させるのが作家の技術だろうが、西村賢太が「曩時」という言葉を使う時に、西村賢太の魂のフォルムが感じられない。言葉だけが宙に浮いて、文体が無理に屈折して、「文学」ではなく「文学的なもの」を作っているように見える。

 これは又吉直樹も共通だし、平野啓一郎の処女作もそうだが、意図的にそういう文体にしている事と、何故、そういう文体にしなければならないのかという事が、作者の精神によって抑えられていない為に、なんとなく「文学っぽい」作品を作る事にその努力の全てがある。平野啓一郎は、最初の難解な文体を離れて、途中から、通俗的な方向にシフトしたが、自分の文体に必然性がないからそれを捨てるのも簡単だし、人の望むような物語性の方に移行するのは当然の事に思える。

 中上健次ならば、底辺の人間を、土着的な自然に包み込んで描く事ができただろう。中上健次にはそういう「目」があった。中上健次は大きな作家ではないだろうが、少なくとも、人間を見る作家の目が、そのまま文体として表出している作家だった、とは言えると思う。

 しかし、西村賢太の小説が、朝吹真理子の小説と大差ないというのはどういう事なのだろうか。そこに、作家の個性的な努力、世界を見る目を磨こうという努力よりも、文学的なものを作ろうという努力しか感じられないというのはどういう事なのだろう。

 現代社会では、それぞれの人間が、底辺であろうと金持ちであろうと、何であろうと、似たようなステージに吸い込まれてしまうという問題がある。それは、テレビに、貧乏を売りにするタレントと、金持ちを売りにするタレントが同じように出てくる現象に似ている。どっちも個性らしきものを振り回すが、テレビに映って出てくると、同じに見える。

 西村賢太が底辺を生きたという事、朝吹真理子の育ちがいい事、それはただそれだけの事だ。問題はそれにどんな意味を与えるのか、それが何であるのかと自覚的に認識する事にある。

 ブコウスキーは、自分の生活を、酒と女に捧げる事に「決めた」が、その場合、その背後にあるものは見せないように決めた気がする。また、自分の情けない姿を晒す事に「決めた」ようにも見える。そして作家がそう決めた事は、ある種の倫理だが、その倫理は作品の背後にあり、表面には出てこない。だから、「詩人と女たち」を読んでも、ただの酔いどれスケベ親爺しか出てこない。

 西村賢太にブコウスキーのような倫理性は感じられない。だから、ただそれだけなのだと思ってしまう。そして、それは文学でも私小説でもない、という風に思う。自分というのは、どのような存在でもありうるが、実際の自分はそのような存在となってしまった、そのようにしか生きられなかった、という事に、その人の魂のパターンが生まれる機縁がある。

 人間は運命に翻弄される生き物であるが、運命に翻弄される事に自覚的に決めた人と、ただ運命に翻弄され、成功したり失敗したりした人とは、違う存在だ。そういう微妙な違いが、境遇の似ている二人の詩人を分割しているように思われる。

グラウンドに流れる永遠について

 大学のグラウンドは広くて、僕一人の手に負えない。でも、贅沢に、僕はそこを使っていた。
 ボールを蹴る。壁に当たる。跳ね返ってくる。また、蹴る。
 サッカー選手の中村憲剛は、バルセロナのセルヒオ・ブスケツを尊敬しているらしい。ブスケツのポジショニングは完璧だ。彼はクレバーな選手で、常に、相手の動きを読み、試合全体を俯瞰して、ボールをコントロールしていく。
 でも、こんな話、サッカーに興味のない人にはどうでもいいだろう。じゃあ、僕はどんな話をすればいいのか。
 この文章ーー今、書いているこの文章、読むのは多分、三人くらいなんだけど、じゃあ、その三人の興味ある事を書けばいいのか。イチローはあんまり本を読まないって話を聞いたし、モーツァルトも読書家ではなかったらしい。じゃあ、イチローやモーツァルトになるためには、どんな本も必要ないっていうのか。多分、そうだろう。実際にそうだったろうし。
 どんな事を話しても聞いても感じても、それは僕一個人の身体に収まる事柄である。それが、哀しいし、嬉しくもある。なんと言えばいいのかわかんないけど。
 ボールを蹴る。強く、蹴る。すると、うまい具合に飛んでいき、壁の真ん中に当たった。壁の真ん中には円が描いてあって、僕はそれを狙っていたのだ。
 ボールは的を射抜いて、足元に帰ってきた。よし、よく帰ってきた。僕のサッカーボールよ。これで、中村憲剛にもセルヒオ・ブスケツにも負けないプレイができるぜ。ボールよ。お前さえ、言う事を聞いてくれれば、億万長者になれるのにな。メッシにもクリスティアーノ・ロナウドにも負けずに、ゴールを叩き込む事ができるのにな。そしたら、車を五台持ってセキュリティが完璧の高級マンションに住んで、ロシア出身のモデルと付き合う事ができるのにな。しかも、モデルの女は向こうから寄ってきてくれるんだ。そうだ、最高じゃないか、フットボール。
 もう一度、ボールを蹴る。強く、蹴った。ボールの下を強く擦りすぎて、ボールは上に飛んでいった。壁を越えて、後ろのネットに当たった。ボールを取りに行かなくちゃならない。やれやれ。僕はこんな風にして、何者にもなれないんだ。

                       ※

 休憩。自動販売機でポカリスエットを買って飲む。おいしいな。運動の後の水分はすごく、おいしいな。
 マジ、おいしいな。ベンチに座ってポカリを飲む。
 僕はもう大学四年だった。就職活動をはじめなきゃいけなかったけれど、やる気がなかった。一度、会社説明会に行ったんだけど、担当の社員が、プレゼンテーションはじめて、馬鹿馬鹿しくなって、やる気がなくなってしまった。社員によると、我が社は毎年、右肩上がりを続けているのだという。更には、世界との競争に勝つために、日頃から努力を怠っていないのだという。
 そんな事より、週の休みがどれくらいになるのか、残業はどの程度なのかという具体的な話を聞きたかったのだが、どうでもいいクソビジョンを社員が語り始めたので、うんざりしてしまった。他の、就活大学生は、うなずきながら聞いていた。どこにうなずく所があるのか僕にはわからなかった。世界と競争したいなら勝手にしてろ! 僕には新作のエロ動画と、酔って吐くゲロだけがリアルなんだ! あとは知った事か!
 …なんて事を考えていると、世の中の「流れ」とやらに取り残されて、あっという間に時代遅れのジジイになるらしい。僕としては時代遅れのジジイになる気満々だった。六十過ぎて女の尻を追いかけ続けるのが、理想の姿だった。時代から遠くはなれて、痴呆になるのが僕の望みだった。でもまあ、まだ時間はありそうだ。大学生だしな。まだ。
 日影からグラウンドを見るのは気持ちが良い。空には、雲があり、雲は風に流されている。

 子、川のほとりに在りて曰わく、「逝くものは斯くの如きかな、昼夜をやめず」

 孔子という、人生失敗した爺さんはそんな事を言った。あの爺さんは偉かったと思う。説教臭いのが玉に瑕だけど。
 爺さんは、川を見て言ったのだ。「川は昼夜関係なく、流れていっているぞ」と。対して、人間共というのは、時代だの流れだの新作だの何だのごちゃごちゃ言って、人工的に流れを作っている。僕はその流れに乗る気がなかった。
 そして、人々の流れから離れると、自然が変化していっている事に気づく。
 いっつも、車に乗って移動しているクソセレブ共は自然の変化には気づかないだろう! 雪の冷たさを感じる事ができる人間は、雪の中で死んでいく人間だけなんだ! そいつだけが、キタキツネレベルではじめて「雪」を感じられる。今の人間は生まれてから死ぬまで、なんにも感じず、考えずに死んでいく。あらゆる悲惨が取り除かれているから、何も体験する事ができない。…そんな事を思った。
 馬鹿だな。僕は笑う。馬鹿だな。
 雲がゆっくりと流れていった。僕はそれをじっと見ていた。
 その時、僕は雲だった。ああ、誰がどう言おうが、その時の僕は雲だったんだ! 悪いか! 僕が雲で!! 僕は流れだ。流れそのものだったんだ!!

                   ※

 休んでいたら、ゼミの桜井がやってきた。桜井はゼミのイケメン学生だ。もう内定先も決まっているらしい。なかなか、気さくでいい奴だ。
 桜井は僕を見つけて、近づいてきた。何の用事で来たかはわからない。話しかけてきた。
 「よう、何してんの?」
 「いや、別に」
 立ち上がって、足元のボールをポンと蹴り出した。桜井の方に。
 「サッカーしてたんだ。お前もやる?」
 「いや、俺はいいよ。お前がサッカーやるなんて知らなかった。意外だな」
 「僕だってサッカーやるんだぜ。中村憲剛やセルヒオ・ブスケツに負けないくらい、頭を使ってサッカーやるんだ。ポジショニングも完璧さ。こいつで、ロシアの美女を捕まえるんだ」
 桜井は(何を言っているのかわからない)という表情をした。頭の上に「?」が浮かんでいた。
 「…またな。俺、用事があるから」
 「ああ、また今度」
 桜井は去っていった。あいつは、用事があるんだろう。僕と違って。何か、とても大事な、意味のある用事が、あいつにはあるんだろう。でも、僕にはなんにもないんだ。
 僕は再び、ベンチに座った。そして、そのまま、その場所から動かなかった。僕は永遠に、大学のベンチに張り付けられていた。


 それから、長い時が流れた。とてつもなく長い時が流れた。僕はベンチに座り、この世の全てを眺めていた。ただ、眺めていた。

 その後、何が起こったか……それは知らない。当方の管轄外なので、知りません。とにかく僕はそんな風にベンチに座ってたって事だ。それ以上にはどんな意味もないんだ。くそったれ。

文学と文学でないもの




ブコウスキーの小説を図書館で借りてきて読んでいる。あんまり興味のなかった作家だけど、読んでみると面白い。

ブコウスキーの小説は、僕はある種のコメディとして読んでいる。くっだらねえ人生送ってやがんなあ、と読者に言わせれば、ブコウスキーの勝ちである。しかし、大抵はくだらない人生しか送れないし、くだらないのが人生だ。

井原西鶴を読んでも感じたが、ブコウスキーにしても、そこに人間の生活が書いてある。人間の実態というものが書いてある。しかし、同時に、その実態を少し離れた所から見ている。自分の観点からすればこの「少し離れた所から見る」のが「作家の認識」だという事になる。

普通の小説というものを読んでいて嫌になるのは、結局、そこに「誰々が何をした」という以上の事が書いていないという所にある。こう言うと「全ての小説がそうじゃないか」と言われるだろう。事実として表面に現れている点ではそうだが、もう少し深く考えていくと違うように思う。

文学とは人生そのものではなく、人生に対する認識だ、と以前に書いた事がある。これを現代の作家に当てはめると、大抵が、生活に固着している為に、認識とならない。というか、そもそも人生に対する認識というのが何かわからないままに、人生の内部に作者も埋め込まれている。そこで、作者から見られた他者、人生、現実が描かれていくのだが、それはただ、意外な事件を目撃したような位相でしか書かれていない。だから読んでいると、どんな突飛な事実、どんでん返しがあってもつまらなくしか感じない。

誰しもが人生というものを知っているような気がする。だから、小説も誰でも書けるような気がする。そこから、事実の集積としての小説が沢山出てくる。しかし、そこにあるのは、「誰々が何をした」という以上のものではない。もちろん、誰しもがそうやって生きているが、誰しもがそうやって生きていると感じる事と、誰しもがそうやって生きているという事実は違うはずだ。

例えば、「人生はくだらないものだ」と作者が「思う」事と、人生を実際に生きて、そういう認識に達した、というのは違う事だ。「人生はくだらないものだ」というものが思考の水準で行われているのなら、「そう思おうが思うまいが勝手である」という以上の事は言えない。だが、「人生はくだらないものだ」という認識から、人生を描く事のできる作家の認識というのは、決してくだらなくはない。彼は現実を知って、現実を越えようとした。現実の内部において思考しているのではなく、現実を越えようとして「認識」している。少なくとも、そうしようとしている。

こういうのは感覚なのでわかりにくいだろうが、個人的には、そういう認識がなければ文学とは呼べないと思っている。「文学的」とか「文体」の問題など、色々な事が言われるが、作家というのは、現実にしがみつきながらもそれを越えようとする存在である。

が、文学とか小説とかいうものも一般化した以上、また、現実の我々が、認識よりも具体的な知識とか共感性を求めるわけだから、そうした領域に現実そのものと一致した小説も沢山出てくる。そうした作品は自分の中では「文学」とは呼ばない。そうした作品は、むしろ、文学が描くべき「対象」であるように思う。角田光代は朝井リョウは、作品よりも作者の方が豊富なものを持っているだろう。何故なら、彼らが意識できない部分、彼らが描く事ができない部分に真実があって、それも含めて描くのが本当の作家だからである。そういう点で、真の作家は平凡な人間を描いても非凡な作品となり、平凡な作家は非凡な人間を描いても平凡になる。そこでは作家の認識が違っている。認識とは太陽のようなもので、それが当たると、例え塵でも、キラキラと光って見える。そんな風に思う。

 お笑い芸人について



 「内村さまぁ~ず」という番組をずっと見ている。この番組は毎回、違うお笑い芸人がゲストとして登場する。で、番組をぼーと見ている内、なんとなく芸人がどんな風なコードを作っているのか、ぼんやりとイメージできる部分があった。

 「内村さまぁ~ず」という番組は、タイトルの通り、内村とさまぁ~ずの三人の力が大きい。三人共、ものすごく普通の、友達同士が喋っているような様子でやっているが、実際にはきちんと画面映えするとか、画面として持つようなものにする事ができている。

 そういう事は面白くない芸人が出てきた時に、如実に現れる。と言っても、面白くない芸人はそれはそれで構わないという所がある。狩野英孝、つぶやきシロー、出川、アンジャッシュ児島あたりは単体では辛いが、内村やさまぁ~ずが突っ込むと構図になる。その辺り、ふかわりょうなどもボケ役に徹すれば、十分芸人としてやっていけたはずだが、どこからか軌道をそれてしまったのかもしれない。

 天然キャラとかポンコツキャラというのは、本当にその人の資質としてあるように画面を見たら感じるが、結局、それが芸にならなければならない。芸になるとはフィクション化する事だ。例えば、本当に天然の人がいて、ところどころ、そういう要素を出す。するとそこに突っ込みが入るのだが、これに本気で切れていたら芸にもなんにもならない。そこで切れている演技をしつつ、切れられるような自分を容認しなければならない。ポンコツであると言われて怒る振りをしながら、そういう役割を演じなければならない。

 そう考えると、芸人は妙にかっこつけたり、高級に見せようとしたり、思い上がったりしたらピンチだという事になるだろう。これは天然とかポンコツでなくても、そうだと思う。笑いというのは低俗な所がある。お笑い芸人というのは人から馬鹿にされる所があるが、それと同時に物凄く人気が出る部分がある。つまりは浮ついた泡のような部分がある。これはお笑いを非難しているわけではない。ただ、お笑い芸人であれば、そういう、泡としての自分に誇りを持たなければならない。本来、誇りを持てないような事に対して誇りを持つというのが、芸人の哀しい部分であると共に、秘められた高貴な姿であるように思う。

 そういう意味では、その域に達しているのはやはりタモリ、さんま、くらいかなと思う。(たけしは映画監督になったので除外する)

 タモリで言うと、タモリは本来持っている力からすれば、もっと高級な事ができる。又吉直樹なんかより遥かに高い創造物も作れるだろう。その能力も資質もある。だが、タモリという人は、いいともに三十年以上出て、なんというか、「そういう人」に決めてしまった人に見える。「いいとも」を三十年やってもそれは泡のようなもので、なんでもないことだ、と一番知っていたのはタモリ本人だったように見える。でも、そういう泡でいいじゃないかと諦念込めて、そういう自分にしてしまった人がタモリに見える。タモリは「いいとも」の最終回でも、泣かなかったし、ふざけ通しだった。最後には少し真面目にスピーチした。それは感動的なもので、本来的には、タモリは一流の知識人になれたはずだ。でも、そういう部分を全部殺して「町のおじさん」を演じ続けるという事にタモリの美学があったように思える。

 だが、この笑いの美学は、僕のように生真面目に「美学」と言われた瞬間に消えてしまう哀しい泡のようなもので、また、そうなければならない。笑いは、真剣なものに僕らが出会った時に、それから目をそむける、優雅な動作に似ているーーと思う。真剣な、深刻な話が持ち上がった時に、ふと誰かが、空気を変える為にふざけた事を言う。回りの人間はそれに笑うか、怒りながら「ふざけた事を言うな」と思うのだが、実はふざけている人間が一番真剣である。その人間は全体の空気を察して、それを転換して、全体を良い方向へ持ってこうとしている。真剣にふざける事の美学は、その真剣さを相手に悟らせないようにするという技術にかかっている。

 そういう意味では微弱であるが、さまぁ~ずの大竹なんかにもそういう部分を感じる。大竹も、誰かが真面目な話をすると茶化そうとする姿勢がある。もちろん、大竹だって自分の中に色々真面目な部分はあるだろうが、それを隠す所に大竹の芸人としての秘密があるはずだ。

 あまり話を広げるつもりはないが、明石家さんまにももちろんそういう部分はある。さんまという人は、普段でもああなのだろうが、タモリとは違った意味で自分を決めてしまった人だ。お笑いを表面的にしか見ない人は(それは正しい見方だが)、明石家さんまやタモリを「そういう人」だと思うだろうが、彼らは人生のどこかで、「タモリ」「明石家さんま」という人物を自分で作って、それが自分なんだと決めてしまったように見える。そういう事は、行く所まで行ってしまっているので、人がどうこう言えるものではない。ただ、尊重するのみだ。

 …とお笑い芸人について薄く語ってみたが、最近の芸人は、ネタを振られた時だけネタをやって、番組にゲストとして呼ばれる事ぐらいしか考えていないように見える。お笑い芸人も詰まっている状態なので、なんとか奇抜なネタをやって一瞬だけでも大衆の興味を惹きつけようと努力している。こうした芸人から瞬間の連続は出てくるが、大きな芸人は出てこない気がする。

 もっとも、「お笑い」というのが、これまで(ジャニーズと共に)王者のような地位にあったのは、大衆の嗜好がそこにあったからだ。社会が変わり、大衆の方向性が変われば、色々変わってくる。「いいとも」終了、SMAP解散は安定した大衆文化が崩れた象徴と見ている。これからはもうお笑いの時代ではないのかもしれないが、それだからこそお笑いをやるのだという気概のある人がいれば、お笑いにもまだ未来は残されている事になるかもしれない。


 物語とは何か  〈伊藤計劃のエッセイから考える〉





 作家の伊藤計劃は「人という物語」という注目すべきエッセイを書いている(webで読める)。

 このエッセイを簡略すると、要するに、「私」というのは一つのフィクションであるという事だ。「私」はフィクションだというのは、仏教哲学の時点から言われているので、真理としては目新しいわけではないが、伊藤計劃は脳科学の見地から言っている。

 脳は外界から沢山の情報を受取る。同時に、内からも情報を沢山受取る。それらの情報が編集、処理されて、「私」というフィクションが成立する。これは外界に関しても同じであり、僕らが「現実」と認識しているのは、そもそも脳の編集後の世界であり、編集前の、ありのままの現実とは何か、それはわからない。(このあたりはカントとも一致する)

 「私」というものは当たり前のものとして通常は扱われている。「私の物を取らないでください」「私に触れないでください」 これは普通の言葉だ。同様に、僕らは「私」というものを素直に信じている。Amazonのアカウントから銀行口座、私有財産制まで、様々な事は「私」を独立した存在とみなす事から生まれている。

 伊藤計劃の主張では、「私」というフィクションであるから、だからこそ、それは一つの物語であるという事だ。「物語」もまた、編集された時間的系列であろう。そもそも、仏教哲学の言うように、変化していくものの中に同一性を発見する事はできない。しかし、それを強引に行う事、それが人間の特権だ。「永遠」という概念はそこから出てくる。「永遠」は時間の先にあるのではない。むしろ、人の脳髄の中にある。変化していく時間というものの中で、変化する自分を無理矢理「私」と規定していく、同一性発見という傾向の象徴として「永遠」は存在する。

 「私」はフィクションである。物語である。それは、脳が様々な情報を加工・編集した後の時間系列、一つの実体である。ここから、ある道筋が見える。

 それは、絵画でいう印象派から抽象画、ゴッホからピカソ、ピカソからポロックへ至る道だ。ここで何が起こっているか。絵画には不案内なのであくまでも哲学として言うが、そこでは、テーマというものが次第に解体していく様子が見て取れる。ここで言えば、脳が処理した情報を、その構成因子に帰していく事、そうした系列が見られるように思う。

 我々はただ物を見るのではない。ありのままの物を見るのではない。目と脳によって編集されたものを見ている。「ただ見る」というのはありえない。常に、我々は意識下で加工された世界を見ている。

 近代にはバランスの取れた、大芸術家が現れた。彼らは主体的な表現とテーマがうまく調和していた。ベートーヴェンにおいて、彼の哲学と主体的な表現は一致する。均衡点は存在した。ベートーヴェンには理想があった。彼の理想は同時代のゲーテ、ヘーゲル、シラー、そうした人々と共通する点があったはずだ。

 その後、現代音楽は解体する方向に辿った。文学、音楽、絵画。いずれも、近代の均衡を失い、微分化していく様子が見て取れる。それは、近代において作り上げられていた、加工・編集後の整然とした姿を保てなくなった時、そこにあったそれぞれの要素が要素としてバラバラに砕け散った。僕はそういう風に見る。

 物語とは時間系列におけるフィクションである。嘘である。この嘘が、異なった社会・現実に晒され、嘘である事を保てなくなった時、それらの構成因子だけが世に晒された。文学からは物語が剥奪され、絵画はテーマを失い、音楽ではジョン・ケージのような人物が現れるに至った。芸術は解体したが、それは芸術家が誠実だった故に現れたやむを得ない現象と言えただろう。かつてのような均衡あるフィクションは作れなくなっていた。フィクションーー「嘘」を作るにも色々なものが必要になってくる。歴史という編集され、加工された情報、その上澄みを使って「芸術」が作られる。が、地盤が揺らいでしまえば、芸術家は個々の小さな存在に還らざるを得ない。

 だが、その一方で、物語の氾濫という現象もある。それはどういう事だろうか。

 これは雑感レベルの話だが、芸術に深入りしない人、つまり「大衆」は絶えず物語を必要としている。物語性がある作品が受けるのは何故なのか。伊藤計劃流に言えば、我々そのものが物語だからという事になる。だが、普通の人は、そんな小難しい事は考えない。

 ベストセラー作家、また、そうした作品を欲する人は、物語を嘘とは考えない。それを、所与のものとして見ようとする傾向にある。伊藤の言葉で言うと、脳が外界を処理した結果ではなく、本当に、外界(並びに「私」)はそうである、と考える。これに対して深く疑わず、編集され加工された情報が、我々の要求に一致する事が求められる。ところで、その要求もおそらく、彼が思っているものとは違う所から生まれている別の物語である。

 物語は愛される。真人間になったヤンキーだとか、名門大学に受かった底辺ギャルだとか。あるいは、自分自身を物語のヒロイン、ヒーローと思い込む傾向は、社会によって強められてもいる。恋愛小説では、恋愛は一つのフィクションであり、また、現実ににおいても恋愛はフィクションである事が望まれている。それは、我々が望むものこそが我々の現実であって欲しいという欲望だ。

 しかし、もう一度思い起こそう。物語とは、単に所与のものではない。ここに、大作家と通俗作家の、大きな違いがある。僕はそう見る。

 大作家は、現実が物語ではない事を知っている。現実は無数の混乱した事実がある。くだらない事がある。過ちがある。愚かさがある。断罪されない犯罪者がいる。物語に収まらない混沌が世界にある事を知っている。

 が、それは一つの物語に「織られなければ」ならない。世界は物語ではないからこそ、それを物語に織り込み、我々が理解できる形式にしなければいけない。世界を一つの物語に織り込む事。それは、世界は混沌であり、物語ではない事を痛感したからこそ、それを成そうとする、そういう技であるべきだろう。いわゆる大作家と呼ばれる人はそういう人でなければならない。

 大作家は現実を経験している。現実はあるいは無慈悲かもしれない。現実には、理不尽な事は無数に起こる。しかし、現実が理不尽であるから、ただ理不尽さを主張するのは、それだけの事だ。彼は現実を模写しているだけだ。大作家は嘘をつく。その嘘は、現実を知り抜いた上に出てくる嘘であって、現実から逃げる為の嘘ではない。

 通俗作家は反対の道をたどる。あるいは、見かけ上だけは一致する。彼は文学を物語と決めてかかり、うまくそれを作る。それは物語を求める人々に受け入れられる。しかし、人々も作家も、物語を成り立たせている現実については考えない。この嘘は、現実の果てに現れた嘘ではない。むしろ、現実を遠ざけた末に現れる嘘だ。

 例えば、角田光代とか吉本ばななの作品に漂っている「あったかい」雰囲気は、現実の一部を彼らが切り取りうるような場所に立っているからこそ出てくる「あったかさ」「優しさ」であり、現実の苦痛を経験した上に、優しく「ならざるを得なかった」というのとはわけが違う。

 彼らの作品、また彼らのようなタイプの作品は、日本社会がそれなりに成熟しているからこそ可能なフィクションであるように思われる。彼らの「あったかさ」「他人思い」は、世界の混沌に接したもののそれではない。最初から秩序化された世界で生まれ育ってきた人間が持てるような「優しさ」だ。その優しさは、ある箇所では残酷な仕打ちを取るだろう。つまり、秩序化された世界の外部に対しては、それらをたやすく排除するのが可能だろう。

 このエッセイの元になった伊藤計劃という作家は、「優しさ」の外側について考えた人間だった。このような社会の中で「優しく」なるのは簡単だ。残酷になるのも、露悪的になるのも、狂人的な見かけを取るのも簡単だ。だが、世界の外部を意思するのは難しい。我々の認識そのものが、我々の世界とぴったり一致している為に。

 先に、大作家は、物語ではない現実からスタートし、そこから物語によって世界を認識可能な形にする存在だと言った。その時、当然、世界を認識する形には作者自身の思想が明確に覗く事になる。混沌とした世界の再編成が、作者の主観によって行われる。

 しかし、今言ったように(以前「フィクション化する現実」で言ったように)、この社会それ自体が既に編成済みの物語である。これが、現代において一番面倒な問題である。角田光代らがリアリズム=物語の傾向を簡単に取れるのは、現実そのものが、人工化され、物語化されているから、作者の認識がなくても、簡単に物語に移す事ができてしまうからだ。

 だから、現在における大作家ーーその傾向性、素質というものは、現実それ自体の混沌を探す事から始めなけれはならない。かつての偉大な文学はおそらく、混沌とした現実を認識によって把握できるものにする所から生まれてきていた。現在では、整頓された現実からスタートし、それらを破る物語について指向しなければならない。

 伊藤計劃という作家はその作品において、世界と、その外部の境界線について絶えず思考していた。角田光代のキャラクターらが、怒ったり泣いたり笑ったりしている世界の外側が彼の問題であった。多くの作家が世界を所与のものとしてみなし、我々が世界を所与のものとしてみなしている時に、それらをフィクションによって揺さぶる事を彼は考えていた。

 では、どうして、現在そんな物語が必要なのか? どうして、この世界のあり方に、角田光代的に安住してはならないのか?と問う時、一体、どんな答えが出るだろう。

 それについて、僕はなんとも答えられない。ただ、人は「今」を打ち破り「次」に行こうとする傾向があるから、としか言えない。

 元々、「私」というもの自体が一つのフィクションだと僕(伊藤計劃)は言った。すると、その「私」が更に、フィクションを、物語を織る。それは、大きく言えば進化というものの傾向性とも言えるだろう。目は、世界を編集するカメラである。耳は、世界を編集するマイクである。だとすれば、「私」は世界をまるごと編集し、別の宇宙に仕立てる為の機械である。

 この時、角田光代や朝井リョウらの作品は、そうした要求に応えるフィクションなのか。そうではない、と僕は思う。それらは「次」を志向するフィクションではない。少なくとも、偉大な文学とはまるで違ったものである。偉大なものは、暗いかもしれない。冷たいかもしれない。角田光代やよしもとばななのようにあったかくも優しくもなく、小難しいかもしれない。が、それは、世界の構成因子をまるごと作品に(編集して)表そうとするからこそ、そのような形式を取らざるを得ないものなのだ。世界の一部を切り取って、その外部について沈黙するものではないからだ。だから、偉大な作品は、僕らにとっては難解なものとして、冷たいものとして現れたりするが、それは僕らが普段、自分の暗い部分について考えたがらないのに似ている。僕らは自分の死について想起しない。しかし、死もまた人生の一部だとすると、それを編集する機械(芸術家)はそれから逃れてはいけない。

 そこで大芸術家は世界のあらゆるものを自己の作品に投入しようとする。そこに、気持ち良いもの、面白いものだけを求める人々との齟齬が生まれる。しかし、それだけを求める人も、それだけの存在ではない。だからこそ、偉大な作品は歴史を通じて生き残っていく。

 物語とは、そのように、現実を編集したフィクションである。この場合、全てがフィクション化した世界において、何を現実とするかと認識する事自体が今、問題となっているように見える。かつての、バルザック的リアリズムもまた、時代において改訂されるべきだと思う。

 そういう時代において、伊藤計劃という作家は、ディストピア的世界観を使って、世界の境界について描いて見せた。彼の作品は紛れもなく一つの物語だった。現実から逃げるのではなく、現実を直視しようとする物語だった。今、僕らはその物語を読む事ができる。そして物語を通じて、僕らは現実を再び見るべきなのだろう。あるがままの現実……あるいは、あるがままの現実は存在しないというあるがままの現実を見なければならないのだろう。おそらく、「新しい物語」はそこから生まれてくるだろう。


〈全体を見ると矛盾している所がありますが、自分の感覚が大事なのでそのままにしておきます〉

monogatary_comにて連載スタート

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ソニー・ミュージック様からお誘い受けて、monogatary_comの方に「聖域追放」という作品を連載する事になりました。ニートの話です。よろしくお願いします。

https://monogatary.com/story_view/124

「ドラマ」についての思惟 


 小林秀雄は「ハムレットとラスコーリニコフ」という文章で、「罪と罰」と「ハムレット」の両主人公は、内面と行為とが分離された存在だという事を指摘している。この指摘は僕にとっては極めて大きな示唆となった。

 一般に転がっている小説、物語、ドラマ、また大きく言えば、多くの人が生きている生き方そのものーーそれらに対して、僕はずっと疑問を感じてきた。簡単に言えば、それらが「つまらない」という感覚だ。現実で(ネットでもそうなのだろうけれど)そういう事を言えば「何を言っているんだ、みんな、真剣に生きている」と説教されるに決まっている。しかし、自分の感じている事はそういう事ではないーーと思うが、その声はどこにも届かない。自分の中の声として、自分の中に留まるだけだ。

 一般的なドラマ・小説というのは、結局、「誰かが何かをする」という話になっている。それは誰だって当たり前の事で、現実にみんな、そう生きている。しかし、果たしてそうだろうか。何故、誰かが何かをしなくてはいけないのか。例えば、夢を持って努力するという方法論から、挫折とか成功とかが生まれる。が、夢を持って努力する事自体馬鹿らしいとみなしたら、どうなのか。それは夢を諦めるという事ではない。夢を持つとか持たないとかいう事自体が、個人の主体的意志に過ぎないのだから、その意志を統御すれば、夢は消える。何故、夢を消してはならないのか。何故、夢を持たなければならないのか。

 こうした考え方は突き詰めると、「全ての人間が餓死する事を自分に許せば、あらゆる闘争は消える」という哲学者の極限的な言葉に収斂されていく。もちろん、そんな事を言えば身も蓋もないだろう。だが、身も蓋もない事を言わないというのは果たして大人の態度か。大人とは、自分の欲望に社会的衣装を身に付けた人の事なのだろうか。

 このような哲学的問いというのは、おそらく、子供らしい問いにすぎない。が、もし、僕がこの子供らしい問いを突き詰めれば、どうなるのだろう。あらゆる社会現象が自己から隔離されて、他人事となり、自分は悟りすました僧形のようになる。それでは、そこで全ての答えは終わるのか。

 プラトンは、そうした道を辿った。現実からスタートして、イデアの世界に到達する。現実は、私の外側にあり、世界に属するものだ。一方の「私」は一人、洞窟の外に出る。そこで真なるものを見る。そうして帰ってこない。

 物語・劇を作る際の動機において、現実そのものを否定すると、もはや動機とならない。牢獄に入れられてもそれを諦め、自己の死を、嘆く事なく受け入れればそれはドラマにならない。そうなると、社会・経済におけるあらゆる事柄はどうでもよくなる。これをどうでもよくないという視点はありうるか。常識的にはいくらでもあり得るが、この場合、常識そのものを否定しているから、もはやこんな人物に掛ける声というのは存在しない。ドラマは存在しない。劇は存在しない。

 だが、そんな人間もやはり、現実に生きねばならないとはどういう事なのだろう?
 
 ここにおいて再び、現実ーードラマが戻ってくる事になるが、還ってきたドラマは最初のドラマとは違う。そういうドラマというのは存在しうるか…と考えると、やはり「罪と罰」が頭に浮かぶ。僕がしつこく、「罪と罰」という作品にこだわるのは、そうした、ドラマを否定する精神をもう一度ドラマの中に叩き込むという事が唯一やられている作品だからだ。

 主人公のラスコーリニコフは、自分の外的行為と、内面との相違を常に感じている。この先駆は、小林秀雄の言葉では、シェイクスピアによってやられている。ハムレットは復讐を誓う。彼は復讐を天命と感じている。にも関わらず、天命である復讐という行為と、ハムレットという人物が一致しない。そこに微妙なズレが生じ、それが独白の際に見え隠れしている。

 ラスコーリニコフはハムレット以上に差異が激しい。自分の外的行為、欲望、欲求、それ自体を無意味と感じながらも、それをしなければいけないと信じている。自分が自分である事と、自分が、行為という局面においては自分にとって他人であるという事が常に感じられている。

 普通のドラマは、行為面、社会面において行動している個人像と、その人間自身の自己像が一致している。あるいは、それほど大きなブレはない。したがって、人間は、苦悩したり、苦しんだりするかもしれないが、それは自分が望む事が達成されないとかいう類の悩みである。もし、この自分が、自分がそもそも何も望む事ができないという事に苦しむとしたら、不思議な苦しみを持つ事になるが、僕が見たいのはそのタイプの苦しみとなる。

 ラスコーリニコフは殺人を天命と感じる。ハムレットは復讐を天命と感じる。その時、もう一人の自分が自分にささやきかけているのだが、自分にとってもう一人の自分は他人と感じられている。では、どうしてもう一人の他人は現れなければならないのだろうか。

 実際、ここに答えはない。「罪と罰」では象徴的な言い方が成されている「例え、どこにも行く所がなくてもどこかに行かなければならない」 この時、正しい理屈なんてものがなんだろう。

 通俗的な経済学が生産性、功利性、利益についていくら喧伝した所で、毎日ごはんと塩だけでいいのだと自分自身に決定したとしたらどうなるのだろう。そうしたら、馬鹿げた事になるのか。でも、どうして馬鹿げた事をしてはいけないのだろう? 他人から見て馬鹿に見えても、それは他人の視点から見ての事だ。自分から見た時、それが全てだ。

 だが、この人間も生きねばならない。どうして生きるのか? 
 
 ここに理屈はなく、人はただ生きる。あるいは親鸞のように、ただ黙って山から降りるのだろう。プラトンは最後まで下に降りなかったが、なんとなく、上に飽きた時、人は下に降りてくるのだろう。

 ラスコーリニコフが、改心する所を作者は理屈では描いていない。そこは理屈では描けなかった。…別の言い方をすれば、私と外界との間に無限のように広がっていた溝は、ある時、ふと、それが溝ではなかった事に気づく。そういう事なのだろう。

 人は現実の中で、一人の人間として生きる。一部のSF作家が鋭く見抜いていた事は、社会が完全なものとして現れるのであれば、もはやドラマは起こらないという事だ。現在に見られるドラマの多くは、人工的にコントロールされたドラマであり、例えば音楽を主題にすると、コンクールで優勝するとかしないとかが大きなテーマとなる。モーツァルトが借金まみれで死んだように、本質的に自己の音楽像と社会常識とが矛盾する際の葛藤を描く人間は(おそらく)いない。自分が自分と衝突する事なく、自分が社会と衝突する事なく、社会と自己とが融和されたコントロールされた場所での、先の見えたドラマのみがある。

 全てが自己意識に収斂され、哲学で言う独我論に極まれれば、世界に意味はなくなる。世界の中における私も消える。葛藤は消える。そこには安楽がある。だが、安楽それ自体に安楽できなかった時に、つまりは倦怠がーー自分という名の「完全」に飽きてしまった時、そこから人は不完全に向かって歩き出さなくてはならないのではないか。

 その時に、親鸞は山から降り、ブッダもめんどくさながりも、地上に降りてくる。自分だけが真理を理解したのだし、それを一々、世の中の誰彼に言いたくないというブッダの気持ちは現代からも共感できるものに感じるが、ブッダはハムレットと同様に、運命の啓示を見た。彼は自己の完全性から外に出た。(ブッダは最初、真理を教えるのを失敗して、つたなく否定されたが、その時に、内心に屈辱を感じたと想像すると、そこにはドラマがあるという事になる。ブッダが屈辱を感じられるのは、自己の完全を否定したからだった)

 人は通常、社会の中を生きる。社会の中を生きる自己と、自己から見た自己を一致させた人間は健常な人間だと言われる。何故ならば、人はとにかくも、その社会の有様を一応肯定するからだ。反社会運動も、たった一人でやれば狂人と呼ばれる。人は狂人を好かない。

 だが、もしあらゆる人間が、行為面、社会の中の自己が全ての自己であると信じ、世界と自分との間にズレがないのならば、世界からは苦悩が消え(伊藤計劃「ハーモニー」の世界となり)、完全な世界がもたらされる。しかし、その時、世界と呼ばれる社会現象はそれを否定する場所を失い、それ自体の論理が破綻する所によって破綻する所となる。思うに、世界の異変を察知できるのは、本当の意味での(見かけだけではない)アウトサイダーに限られているのではないか。

 通常のドラマにおいて、人間は自分を疑わない。劇は、どちらかと言えば無知から起こる。自分の欲望を否定できない弱さが、意志の強さだと誤解される所において、様々な事件が発生する。世の中にはそんな人間がいる。だが、常識を疑わない事と、自分の本能を疑わない事、どちらも疑わないという点においては一致している。そして疑いはドラマを消去してゆく。次第に諦念に落ち着いていく。

 だが、諦念に対して諦念を持つと、もうそのままそこにいる事はできない。ドラマが起こる。山から降り、人と交流し、世界の中の人となってゆく。自分と世界とのズレは、世界との否定とはならない。そうではなく、世界を否定した自分もまた世界の一部だという事が感じられている。

 ラスコーリニコフが最後に見た光景はそんなものだった。彼は、檻の向こうの茫洋とした、昔からの風景に、静かに自分が溶けていくのを感じた。自分もまた、世界の一つにすぎない事を知った。独我論は溶けた。独我論という論理ではないものによって溶けたが、それは独我論の言葉では描けない。おそらく、そこには哲学から宗教への転換がある。

 ……というような事を、「ドラマ」をテーマに考えた。しかし、「ドラマ」を考えるのは一人の人間の頭脳(意識)に過ぎないわけだから、この意識もまた世界の中の一事物にすぎない、という風にまた、ドラマを作る意識は、より大きな、歴史というドラマに吸収されていく。それをまた、未来の誰彼が、自分の意識下に収めようとする。そうした輪廻、連関というものがあるのだろう。そんな風に物語は連綿と続く。物語は、物語を否定する意志を媒介として存続していく。